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エリザのセイロン史


スリランカの歴史5
3 ドゥッタ・ガーミニの即位~スリ・サンガボの逝去 161BC-218AD
マハーワンサの時代③






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史5
3 ドゥッタ・ガーミニの即位~スリ・サンガボの逝去 161BC-218AD
マハーワンサの時代③
 

ルフナからの反逆・ガェムヌの戦い



 スリランカの南部はルフナと呼ばれる。ルフナはシンハラ王家の流れを汲むカワンティッサが支配していた。カワンティッサ王には二人の子があった。長子をガェムヌGemunu(またはガーミニGemini)と言った。
 ガェムヌ王子はランカー島に侵略したタミル人に幼いころから激しい憎悪を抱いていた。ベッドの上で手足を縮めて横たわるガェヌム王子をカワンティッサ王が見て、こう聞いたことがある。
 「息子よ、なぜ手足を伸ばして寝ないのか?」
 ガェムヌは応えた。
 「父王よ、私はダミロスに捕らえられております」
 ダミロスとはタミルをさげすんで呼ぶ時のことば、蔑称である。ガェムヌ王子は続けた。
 「私は一方を川に、また一方を海に取り囲まれています。閉ざされたこの場にあって、何故に手足を伸ばして寝ていられましょうか?」
 ガェムヌ王子の時代、シンハラ人は大陸から侵攻するタミル人勢力によって手足を縛られたかのように身動きができなかった。


  だが、こうしたシンハラ民族の自虐的な歴史認識に対してスリランカで活躍するコロンボ在住のモスリム人ジャーナリスト、アミーン・イザディーンはウェブ新聞でこう疑問を投げかける記事を寄せている。

 6月30日、土曜日。この日はスリランカの仏教徒にとって特別な日だった。それはこの日が、アショーカ王によってスリランカに送られたマヒンダ僧がデーワナムピアティッサ王を仏教に改宗させ、スリランカ中に仏教を広める端緒となったことを祝う日だからだ。しかし、スリランカ北部と東部ではこの日の祝福がほとんど行われなかった。内戦のためではない。北部と東部には仏教徒がほとんどいないのだ。特に北部に限っては。
 スリランカ北部はタミル・ヒンドゥ教の地だ。北部の人々は仏教を”シンハラ”軍(スリランカ政府軍を彼らはそう呼ぶ)の宗教だと見ている。敬うべき宗教ではない。恐れるべき宗教とだとしている。
 マヒンダ僧が広めた仏教は非暴力と社会的平等を範としている。だから、仏教は革新を求める人々に受け入れられ、瞬く間にこの島に広まった。数世紀にわたりインド・タミルナドゥとスリランカのタミル人によって広く受け入れられた仏教は彼らの主たる宗教となったが、それは仏教の軸にある非暴力と平等によるものだ。
 こうした歴史の事実があるにもかかわらず、そのことは子供たちに教えられ伝えられることもなく、逆に子供らに対してはタミル人に対する憎しみの種ばかりが蒔かれている。
 例えば子供らはこう教えられる。
 ガェムヌ王子は身を屈め毛布に包まり身動き一つせずベッドに横たわっている。心配した母が具合を尋ねると、「なぜ手足を延ばせましょうか。一方は海、また一方はパラ・タミルに囲まれているのですよ」
 パラというのは品格をもって訳せば「外国」ということだが、有体に言えば侮蔑の言葉だ。それは南インドの最下位のカースト・パリアの人々ハリジャンをさしている。皮肉なことだが、彼らは後に仏教に改宗しているのだ。
 この事実をメソジスト教会系の学校で教鞭をとる教師にぶつけてみた。彼は、「申し訳ないが」と前置いてこう言った。
 「そのことには触れない。教育としてはね」
 ガムヌ王子はドゥットゥ・ガムヌ/荒くれ者のガムヌと呼ばれる。彼は民族主義者ではない。チョーラ国の王であるエラーラも同様だ。ガムヌの率いるシンハラ軍とエラーラの率いるタミル軍のの間に戦があり、ガムヌ王子はエラーラ王を破った。
 正しいコンテクストで歴史を見よう。
 スリランカは平和な国であったはずだ。遅くはない。
 子供たちにタミル人の仏教徒がいたことを教えよう。極右のシンハラ民族主義者はスリランカ北部に仏教遺跡があることを捉えて、そこに古代からシンハラ人がいたからこそ仏教を信仰したと主張する。彼らにはスリランカ北部に暮らしたタミル人が仏教徒だったという知識が欠けている。
 
 2世紀に書かれたタミルの叙事詩に「マニメカライ」Manimekalaiがある。タミルナドゥの詩人サタナールによるものだが、ここにタミルナドゥとスリランカ北部のタミル人の間に仏教の浸透していることが触れられている。
Why is Sri Lanka’s past hidden from its own people? / AMEEN IZZADEEN  khaleej times Online 3 July 2007

 仏教が浸透していると書いたアサディーンは続けて「マニメカライ」の叙事詩を紹介する。ここでは詳細を略すが、タミルナドゥとスリランカ北部のタミル人の間に仏教の「慈悲」と「不殺生」が深く浸透していることを「マニメカライ」が教えてくれる。
 そうした仏教の慈しみがあったにもかかわらず、現代の偏見のジャングルの中で「アヒンサー」の言葉は失われてしまったと彼は言う。

 …仏陀の教えがわれわれに語るのは貪欲を遠ざけろということだ。しかし、政治家は権力に熱中し、タミルへの権力譲渡を拒絶する。欲が導くのは悲しみでしかない。欲から離れよう。

ガェムヌ王の戦い


 ガェヌム王子の鬱屈した思いは彼の成長と共に高まっていった。ルフナ王国軍を蜂起させエラーラに戦いを挑みたいと父王に願った。しかし、思いは聞き入れられなかった。
 三度目の嘆願が父王に拒絶されたとき、ガェムヌ王子はひどく興奮し、「あなたは男ではない、これを身に着けるがいい」と書き添えて女性の装身具を父王に贈りつけた。
 カワンティッサ王は怒った。ガェムヌ王子を罰すると言った。ガェヌム王子は森の中へ逃げ込まざるを得なくなったが、この一件で彼の名にはドゥトゥ/ドゥッタDutu/Duttaという「不服従」を意味する言葉が被せられるようになった。これがドゥトゥ・ガェムヌの名の始まりである。

 しばらくしてカワンティッサ王は亡くなった。父王の呪縛を解かれたドゥトゥ・ガェヌムに晴れて自らの計略を実行する時がめぐってきた。
 ドゥトゥ・ガェヌムは王位を継ぎ、ルフナの大軍を率いてランカー島を北上しマハウェリ河を越えた。騎馬隊と歩兵を率いて彼は戦闘象にまたがった。その彼をさらに戦闘象の一群が囲んでいた。

 エラーラ王の居城であるウィジッタプラを包囲して数ヶ月が過ぎた。城壁で囲まれた都市は堅い守りを敷いていた。しかし、ガェムヌ王のまたがる戦闘象が重い鉄の門を破った時、双方の均衡が破れた。
 ドゥトゥ・ガェヌムの率いるルフヌの軍がウィジッタプラの城門になだれ込みエラーラ王の守備隊を剣の餌食とした。ルフヌの兵士は更に街の中へ進軍し、32の要塞を次々と打ち破り占拠した。
 エラーラ王もまた、自ら象にまたがり戦陣の先頭を切った。老練な策略家のディガジャントゥDigajantu司令官と共に全軍を引きつれてドゥトゥ・ガェムヌ王の軍に向かった。
 一進一退が続いた。ディガジャントゥ司令官が奪われた砦を奪い返し更にシンハラ軍を追い返したが、名だたるディガジャントウもとうとうルフナの軍に殺された。そこに勝敗の先が見えた。
 タミル軍は意気を消沈させ退却を始めた。エラーラ王1人がひるむことなく進軍し、ドゥトゥ・ガェムヌ王と戦場で向かい合った。互いに戦闘象にまたがり一騎打ちとなった。これがインド世界の古代に繰り返された戦い方だった。
 エラーラ王はドゥトゥ・ガェムヌ王めがけて槍を投げた。するりとかわされた。ドゥトゥ・ガェヌム王が象を急き立て突進する。エラーラ王の戦闘象に体当たりを浴びせかけた。エラーラ王が象から転がり落ちて、ドゥトゥ・ガェヌム王の戦闘象は振り上げた前足でその体を踏み潰した。

※この戦闘シーンだが、シンハラ王朝の史書「マハーワンサ」によればエラーラ王はガェムヌ王が投げた槍に当って最期を遂げたとある。

  ドゥトゥ・ガェムヌ王はシンハラ王朝の旧都アヌラーダプラに凱旋した。ここにシンハラ王朝が再建された。BC164年のことであった。


ドゥトゥ・ガェムヌ王の慈悲



 戦が終わって、世界は変わった。ドゥトゥ・ガェムヌ王はエラーラ王に対して深い慈悲の心を表した。エラーラ王をその最後となった地に葬り、王家の者であってもその墓前を通り抜けるときには楽隊の音を止め、牛車や象の背から降りて礼を尽くすよう命じた。
 ドゥトゥ・ガェムヌ王は死後の世界における彼の命運を案ずるようになって行った。彼自身が引き起こした戦いで数知れぬ人々が犠牲となった。そのことを思い悩み彼は心を病んだ。
 「荒くれ」を意味するドゥトゥをその名に頂いたガェムヌ王だったが、彼は寺院と仏塔の造営に全力をささげて余生を過ごした。莫大な富がそこに費やされた。だが、どれほど功徳を積んでも罪は消えない。彼の苦悩は深まるばかりだった。

 ドゥトゥ・ガェヌム王の業績の中でもっとも偉大なものはアヌラーダプラのロワ・マハー・パヤ(青銅宮殿)建立である。周囲・高さ共に270フィート。9階建て。200の部屋があった。屋根全体が青銅で葺かれており、そこから青銅宮殿の名が付けられた。
 宮殿は縦横40本づつ、合わせて1600本の花崗岩の柱の上に建てられた。ロワ・マハー・パヤ宮殿の中心には高さ12フィートの柱があり、その周囲の柱には装飾彫がある。柱の厚い部分には楔で割れ目が入れられている。
 宮殿の内部は広大だ。大きなホールが中央にあり、金色に輝く象やライオンの像が置かれ、一隅に象牙の首座がしつらえてあった。
 最高層の9階には最高位の僧侶が座を占めた。シンハラ建築の階段はとても急で9階まで歩いて登るのは老僧には大層きつい作業だったろう。だが、上位のクラスのものが回のものより高い座につくという習慣を破るのは、階段を登るきつさ以上にきつく、また不愉快だったのだろう。

 アヌラーダプラのルワンワリセーヤ・ダーガバ(仏塔)Ruwanwella-sayaは270フィートの高さがあったという。その雄姿も今となっては草生しレンガを積み重ねた高さも189フィートしかない。
 この仏塔の底部は周囲2000フィートでその周りは花崗岩で飾られた大石で舗装されていた。さらに外側は幅70フィートの溝で囲まれていた。石造りの祭壇は彫刻が4層に彫られ、写実的な象が並んでいる。

 ドゥッタ・ガェムヌ王は寺院や仏塔の建造に当って人々に労働の強制はしなかった。戦争で人々は既に充分な犠牲を強いられている。建造に加わりそこで働けば人々には賃金が支払われた。 
 仏教への執心は強かったが、彼が最後に建造を始めた仏塔を完成させることは出来なかった。彼の兄弟は木枠で建造中の仏塔を囲い完成を装い、それを白い布で覆った。あたかもフヌ(石灰)を塗って完成した仏塔のように見せかけたのだ。
 仏塔の近くに菩提樹がある。菩提樹の下に段通を敷き、臨終を迎えたドゥトゥ・ガェムヌ王を横たえた。
 戦場で軍の司令官を勤めた部下はそのとき僧侶となって仏の道に精進していた。ガェムヌはその僧侶を近くに呼んでこう言った。
 「私はかつて10人の武将を従えて戦を闘った。だが、今はただ一人で闘っている。死との戦いが私の最後の戦いだ。だが、今度の敵は倒すことなど叶うまい」
 背後ではドゥトゥ・ガムヌ王が 僧侶に与えた布施の目録が読まれていた。菩提樹の下に横たわる老王は続けてこう言った。
 「昨日まで私の日々を富で飾ったすべてのものは今、私を救いはしない。ただ二つの布施ばかりはこの私が苦難の中で培ってきたもの。慰めとなり功徳となるのはそれだけだ」 
 この言葉を最後にガェムヌは仏塔を見やりながら息を引き取った。時に西暦前140年。彼自身が告白したように彼は仏道の僕となっていた。
 
 ドゥトゥ・ガェムヌ王の後を継いだのはサイダイ・ティッSaidaitissaである。
 彼はルフナを統治しているとき、マータラにムルギリガラ寺院を建てている。王位を継承してからはガェムヌの悲願であったルワンワェリ・ダーガバを完成させている。また、いくつもの灌漑地をつくり稲作を振興させシンハラ王の職務を果たした。
 だが、シンハラ王朝の平穏は長くは続かなかった。この後にシンハラの歴史上、きわめて重大な事件が起こるのだ。


タミルの度重なる侵略




 西暦前104年、ワラガム・バーフが王位に就いた。彼の時代、タミルによって2度目の大侵略が起こされる。7人の首領に率いられたタミル軍がそれぞれランカー島に上陸した。
 タミル軍は結集し、ワラガム・バーフ王のいるアヌラーダプラに進軍した。
 王都近郊での戦いでワラガム・バーフ王の軍は破れた。王は近くの森に逃げ込んだのだが王妃は侵略者の手中に落ちてしまった。
 タミルの7人の軍令長官たちはアヌラーダプラを14年間治めた。しかし、互いに抗争と殺戮を繰り返し、ただ一人だけが国を治める結果となり、その一人も王都の奪回を狙っていたワラガム・バーフによって王位を追われた。
 ワラガム・バーフ王の時代、スリランカ仏教は特筆すべき成果を生んだ。仏教の仕組みを示したトリィ・ピタカ(三蔵)が初めて成文化されたのである。マータレ近くの屈院アル・ウィハーラの僧侶たちが三蔵の成文化に関わった。その地はかつてタミルに追われたワラガム・バーフ王が亡命したシンハラの土地であった。
 ワラガム・バーフ王もいくつかの寺院を建立している。よく知られているのはダンブッラ岩窟寺院である。アヌラーダプラにはアバヤギリ・ダーガバを造った。高さ400フィート、周囲1マイル3/4。また、スワナラマ・ダーガバはタミルに連れ去られた王妃の奪還を祝って造ったのだと言う。西暦前77年、ワラガム・バーフ王は逝去した。
 
 
シンハラ王朝初めての女王アヌラ

 西暦前48年、女性として始めて王となったアヌラがスリランカを統治した。アヌラは夫のクダー・ティッサ王を毒殺してその地位を手にしたのである。そして、カーストの低いバラット・セーワーナBalat sewanaを夫に迎えた。
 だが、すぐにバラットには飽きてしまった。カーストの高いタミル人の男に乗り換え、バラトを毒殺すると新しい夫としてタミル人を王位に就けた。以降3年間、アヌラは同じような行為を繰り返しブラーマン1人と他の2人の男が王位に就いたが、皆、殺されている。
 クダー・ティッサとアヌラの間に生まれたマカラン・ティッサは母のアヌラの迫害を逃れて亡命していたが、やがて大軍を率いてアヌラーダプラに帰ってきた。アヌラの軍は戦いに敗れたが、アヌラ自身は服従を潔しとせず王宮に立てこもり、なおも戦闘の姿勢を崩さなかった。だが、王宮は焼き討ちにされアヌラもろともその栄華の全てが消え去った。
 
 アヌラーダプラの王となったマカラン・ティッサは都市国家の防衛に心血を注いだ。高さ7キュービット(ひじから中指の先までの長さ、46~56センチ)の石の防壁を建て、アヌラーダプラの都市を囲んだ。四方の各面、それぞれが60マイルに及ぶ長大な守りの壁である。シンハラ国家の基盤となる稲作地、灌漑地、そのほかの耕作地、そして市民の家を含む都市国家機能の全てがその防壁の中に置かれたのである。

 西暦56年、ヤターラカ・ティッサ王が低カーストの男スボSubhoによって王位を奪われた。マハーワンサは王位略奪を細かに語っている。
 スボはその風貌がヤカーラ・ティッサ王にそっくりだった。スボという普通の男が自分と似ていると知った王は気紛れにたびたびスボと自分の衣服を取り替えて王宮から街に出た。
 あるとき、スボは考えた。服を取り替えた王に成りすましていれば自分が王になれるのだ、と。そして、門番にスボの格好をした王を捉えさせ処刑させればいい、と。スボの計略はまんまと成功した。
 果たしてマハーワンサの言うとおりにことが進むか否か。ともあれ、ヤターラカ・ティッサ王に摩り替わったスボは王位に就いてしまった。
 
 6年後、スボはワサボWasabhoに王位を奪われる。新王はアヌラーダプラを囲む防壁を18キュービット(9メートル)の高さに格上げし、3寺院を建立、11の灌漑地を造った。ワサボ王は44年間を治め、防壁に守られた都市国家を息子のワンカナシコWankanasiko王子に譲った。

 ワンカナシコ王の時代、タミルの3度目の侵略が始まった。インド南部のタミル王国チョーラが海を渡り攻めてきたのである。
 チョーラの軍はスリランカ北西部に上陸し、島中を略奪して回った。このとき1万2千人のシンハラ人が捕虜としてチョーラ王国へ連れさられている。

 こうしてインドのタミル王朝との戦闘が日常になった。
 ワンカナシコ王の息子ガジャバーフGajibahu王子はチョーラ王国の侵略に対する復讐を果たしている。インドへ進軍しチョーラ王国を攻め、捕虜となったシンハラ人を取り戻し、それと同数の1万2千のチョーラ人を捕虜としてランカー島に連れ帰った。アルットクル・コラレーAluth korale、ハリスパットゥワHarispattuwa、タンパネTumpaneにタミル人の彼らを住み着かせた。

 西暦246年、シリ・サンガボがシンハラ王朝の王位を継いだ。シリ・サンガボは熱心な仏教帰依者でアタ・シル(八戒)を尊い教えとして守っていた。アタ・シルを破らぬよう常に執心し、破戒をひどく恐れていた。
 それがために、アヌラーダプラの収容所に罪人が連れてこられても、王の戒律が罪人を罰することを禁じていたため裁判で有罪が下された者を夜中に開放し、代わりに街角で自然死した人を連れて来ては串刺し刑、絞首刑にして、あたかも罪人に対する死刑が行使されたかのように見せかけていた。
 当然だが、こうした行為は社会に混乱を引き起こした。街には以前に増して多くの強盗と殺人事件が横行したのである。
 シリ・サンガボ王はゴタバヤGothabaya首相の糾弾を受け王位を退かざるを得なくなった。水漉し一つを持たされ寺へと退いた。ゴタバヤ首相はシリ・サンガボの首に賞金をかけ、サンガボ王はアッタナガッラAttanagallaの岩山で遇えなく農民に襲われ殺されてしまった。その地には後の王が仏塔を建て、その仏塔は今も残っている。

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