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エリザのセイロン史


スリランカの歴史4
ティッサ王~エラーラ王の時代 
マハーワンサの時代③






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史4
 ティッサ王~エラーラ王の時代 
 マハーワンサの時代③
                                                 


 ムタシウォは307BC、息子のティッサに王位を継いだ。
 ティッサは後にデーワナムピヤー・ティッサ(神の祝福を受けたティッサ王)と呼ばれる。彼こそはシンハラ王朝傑出の偉大な王だった。人々から真の祝福を受けたとマハーワンサは大きく書き立てているが、それにはマハーワンサなりの理由がある。仏教がこの島にやってきたのである。シンハラ王国はそのとき国家の精神的な基盤を大きく変容させたのである。

 仏教を国教として取り入れたのは彼の時代であった。仏教が国の歴史を作り、仏教のもたらす徳がもっとも大切なものとして第一に取り上げられた。
 ティッサが王として即位したとき、この国にはあらゆる吉報が奇跡として起こったとマハーワンサは記している。地中に埋もれていた宝石が地面に現れ、海中に没していた財宝が岸に打ち上げられた。アヌラーダプラの近くに竹が生い茂り、色鮮やかな花が咲き、珍しい動物や鳥が生まれた、と。

 19世紀の終わり、ヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトが読んでいた「セイロンの歴史」は無論 、こうした奇跡に対して大いに不満を表明している。
 英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'「 スリランカの歴史」はマハーワンサに記された奇跡を並べ立てたあとで、そのような超自然現象は信じるに値しないと 切って捨てている。艶やかに書き立てれば王の即位を賞賛する者たちから喝采を受け、筆者が僧侶であれば仏教が大い に賞賛を受けると但し書きを付している。その上、更に念入りに、それらの奇跡はイエスの起こした奇跡とは別物であ ると書き加えることを忘れなかった。
 その時、アジアは西欧の科学をまだ吸収していなかった。イエスの奇跡が生き続ける欧州もまた宗教的神話に閉ざされていた。正確に言えばオカルトや霊媒師や現代陰陽師が跋扈する現代も科学は人々に浸透していない。デーワナムピヤー・ティッサの奇跡は現代にこそ蘇るのかも知れない。

仏教国ランカー

 ティッサ王はダルマ・アソーカ王との交友を深めた。ランカー島特産の宝石ルビー・サファイヤ、そして高価な果物を贈り物として高貴な家柄のシンハラを選び、親善使節としてインドのアソーカ王の元へ送った。
 使節船は現在のジャフナ近くを出航した。7日の航海の後、ダンバディワDambadiva(インド)に着いた。使節が訪ねたのは現在のガンジスのパトナPatnaと思われる。そこは古代、王都パータリプトラPataliputraが栄えていた。
 ランカー島の宝物を貢献されたダルマ・アソーカ王はシンハラ使節を歓待し、帰路には王冠・国剣・ガンジスの水などのさまざまな宝物を返礼に持たせた。そして、仏陀の敬虔な従者であるアソーカ王はそれらの贈り物と共に「仏陀の教えとその生き方を共に学ばむ」と記した書簡をティッサ王の使者に託した。ダルマ・アソーカ王の弟マヒンダが仏教布教の徒としてランカー島に渡り、ティッサ王の領土に仏陀の教えを広め得たのはアソーカ王の力が強く働いていたからである。
 仏教僧マヒンダはティッサ王によって盛大に迎え入れられた。マヒンダは説教をして領民に教えを広めた。古いヒンドゥ信仰を捨て新しい仏教を心の糧とするよう布教に全精力を傾けた。
 
 マヒンダの布教に触れた後で「スリランカの歴史」は次の文をつなげている-祖先から受け継いだ宗教を捨てるなどはとんでもない無作法だと憤る人がいるだろう。もちろん、先祖伝来の宗教が紛うことのないものならそれを信じるべきである。だが、もしそうでないなら、その宗教は捨てるべきである。
 ここでは宗教とは実に実利の、プラグマティックな事柄な存在として認識されているのである。

 ティッサの国の女たちはこぞってマヒンダの説教を聴きに集まった。アヌラ王女は尼僧になりたいとマヒンダに懇願し、多くの女性たちもアヌラ王女に準じた。
 だが、マヒンダは自らが皆の出家の願いをかなえることはできないと王女らに伝えた。その代わりにサンガミッタ尼僧をパータリプトラからランカー島に呼び寄せ、皆の希望を叶えようと約束した。
 この一件はダンバディワに向かう使節によってすぐさまサンガミッタに伝えられた。サンガミッタは父のアソーカ王にランカー島へ不況の旅に出ることを願ったが、、即座に返ってきた言葉はランカー行きを思いとどまらせたいという父の思いであった。
 「誉れ高き尼僧、わが娘よ」とアソーカ王は言った。「お前と引き離されてしまった後、我胸の内に宿る深い悲しみを、一体何が癒せるだろうか」
 サンガミッタの信仰は年老いた父への愛に勝っていた。
 ランカー島へ行き布教をすれば地上に善がもたらされる。もし、これを拒否すれば私の信仰の心に陰りが生まれると父に説いた。
 父王はサンガミッタのランカー島での布教を許さざるを得なかった。
 サンガミッタは菩提樹の一枝を持ってパータリプトラを発ち南の島ランカーへ向かった。

 サンガミッタの布教への熱情は激しいものがあった。労苦を惜しむことなく仏陀の教えを説いた。アヌラ王女と多くの女性信者はサンガミッタの足元に額ずき尼僧となることを願った。
 サンガミッタによってパータリプトラから持ち込まれた菩提樹はマハメガ庭園に植えられた。そこはティッサ王からマヒンダ僧に与えられた王都の美しい庭園である。

 マヒンダ僧は仏塔と寺を建立し屈院と瞑想の庵(クッティヤ)を設けた。石窟の寺院と瞑想の庵はランカー島の全土に広がった。仏教が繁栄する中、ダルマアソーカ王は仏陀の遺物をランカー島へ贈った。
 マヒンダ僧とサンガミッタ尼僧はスリランカでの仏教伝道に生涯を費やした。インドの王族として人々から受けることのできる誉れも、豪奢な宮廷の享楽も、祖国も、友人も親さえも二人は捨て去った。真の宗教を持ちえた者は、それがために大きな犠牲を払ったのである。

 デーワナムピヤー・ティッサ王はアヌラーダプラにトゥーパラマヤ・ダーガバを建てた。スリランカでもっとも優雅な仏塔である。ここにアソーカ王から贈られた仏陀の鎖骨が収められているという。
 隣接するミヒンターレ(マヒンダの丘と言う意味だ)には32の石窟が掘られ、ティッサ王は修行僧らにその石窟を与えた。
 ティッサ・ウェワもまたデーワナムピヤー・ティッサ王の築いた壮大な灌漑地だ。稲作を国家経営の中心に置くシンハラ王朝は彼のとき飛躍的に国力を高め、仏教もまた広く人々に広まったのである。


繁栄の陰り


 ティッサ王の妃アヌラは王の兄弟マハーナーガが王位の継承を狙っていると思い悩んでいた。王の死後、王権を手中にするためにわが子を殺すのではないかと恐れていた。彼女が毒入りの果物をマハーナーガに送って彼を殺そうとしたのはわが子を守りたい一心だった。
 アヌラの子はアヌラ王女が送った毒入りの果物が供される席にマハーナーガと共に座っていた。マハーナーガは毒入りとは知らずに果物をアヌラの子に与え、幼い王子はそれを食べて命を落としてしまった。
 人は往々善意の他人を悪に仕立てる。そして、その人を陥れるために掘った穴に自ら落ちてしまうものだ。
 マハーナーガは王家の逆恨みを恐れて島の南、ルフナに逃れその地の王となった。彼はビンテンネのマヒヤンガナに多くの寺院や仏塔を建てたことで知られている。

 ここまでの記述で既に気付かれたと思うが、シンハラ王家の名にナーガ、ティッサなどの、いかにも土着の名が用いられている。これらはインドからの渡来民としての名ではない。ランカー島の先住民の名である。ここにシンハラ王家の血筋、文化の起源がランカー島の風土に根ざしていることがシンハラの史書に透視される。

 マハーナーガ王を継いだのは長子のヤターラ・ティッサである。彼はケラニア寺院を立て、そこに王都を置いた。都はその当初、海から16マイル内陸にあったが、後に陸地が海没し海からの距離は4マイルになったと言う。
 ヤターラ・ティッサ王の治世は40年続いた。266年BC、ヤターラ・ティッサは弟のウッティヤに王位を譲った。その8年後、マヒンダ僧が亡くなり火葬に伏された。ウッティヤ王自身が火葬の木をくべたと言われている。その翌年、サンガミッタが没した。

 ウッティヤ王が亡くなるとその後を弟のマハーシワが継いだ。10年王位についた後、スーラティッサが王位を継いだ。

 スーラティッサ王の時代、シンハラ王朝には特筆すべき事件が起こっっている。彼はおろかにも二人のタミル人に王位を奪われてしまったのである。
 シンハラ王朝を奪ったのは騎馬隊の指揮官とも、馬商人とも言われる二人のタミル人、セナとグッティカである。クーデターを起こし、やすやすとシンハラ王国の王位に着き22年間、シンハラ王国を平和裏に治めている。タミル人がシンハラ王国を武力で転覆させたのは記録に残る歴史上、このときが初めてだが、以降、ランカー島シンハラ王朝はインド亜大陸タミル王朝との攻防に明け暮れすることとなった。

 セナとグッティカはアセラというシンハラの王族に襲われて殺される。つかの間のタミル人によるシンハラ王朝経営だったが、王権は再びシンハラ人に奪い返された。アセラ王はマハーシワの9人目の子供だとされているが、もしそうだとするとアセラは102歳まで生きたことになり、やや信じがたい。

 セナとグッティカがやすやすとシンハラ王朝を手に入れたと言う噂はインドのチョーラ王国の王子エラーラをときめかせた。タミル人の王国チョーラはパンディヤPandyaの北にあり、カンチプラムKanchipuram(現在のコンジェウェラムConjeveram)、マドラスの西にあたる。


タミル王エラーラの侵略


 エラーラもまたシンハラ王国の強奪を決意した。今度はセナとグッティカのようなテロリストではなく、タミル王国によるシンハラ王朝支配が計画されたのだ。
 エラーラの軍は海路スリランカに渡り、マハウェリ川の河口から軍を上陸させた。そして、一気にアヌラーダプラに攻め入った。都の城壁を前にして、行く手をふさいだアセラ王の軍を破り、ルフナを除くランカー島の全域を支配してしまった。
 エラーラは32のとりでを築いて防御を固め、マンナルの近くにマントータの港を開き交易を盛んにした。

 セナとグッティカの事件以降、これがインドのタミル王国によるランカー島シンハラ王国侵略の、歴史上の最初の出来事となる。

 エラーラはブラーフマニズムの信者であった。歴史家の中にはエラーラが仏教寺院や仏塔を破壊しつくしランカー島の仏教を根絶やしにしたという者がある。しかし、エラーラがシンハラ王権を強奪してからは、同胞タミルにも、敵のシンハラにも政治的な公平を期してシンハラ王国が建設されたことはよく知られている。エラーラの逸話として伝わっているのだが、彼のベッドの頭の上にはベルが吊るされていた。ベルには長いロープが繋がれて部屋の外へ伸びていた。誰でも国の政策に異論を持つものはその綱を引いてベルを鳴らし彼に提言ができたと言う。

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