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エリザのセイロン史









1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史3
 アバヤの時代 
 マハーワンサの時代②
                                                 


 アバヤ王は甥のパンドゥカバヤに王位を狙われていた。パンドゥカバヤは姉/妹の息子で常に反乱の刃を研いでいた。ある富裕なブラーマンがパンドゥカバヤに資金を提供したことから、彼はマハウェリ川の近くに堀をめぐらし自軍の守りを固め戦闘の準備を整えた。
 アバヤ王は戦いを避けて懐柔する方策を選び、パンドゥカバヤとの間に領土割譲の密約を結んだのだが、これを知った王の兄弟たちの怒りを買い、王位を剥奪された。代わりに擁立されたのは兄弟の一人ティッサであった。
 パンドゥカバヤは策略を進めていた。こともあろうにヤカーの援軍を恃んでいる。そして叔父の軍と7年をかけて戦い、破った。ティッサは王位を失い都がウパティッサからアヌラーダプラに移された。
 この後アヌラーダプラはシンハラ王朝最大の都、美しい王都へと姿を変えていくようになる。
 パンドゥカバヤは灌漑地をいくつも作った。村が増え、庭園が造られた。灌漑地の造営は米の増産へとつながりシンハラ王朝は大いに栄えたのである。
 パンドゥカバヤは20歳で王妃を得た。37歳のとき叔父の王位を奪い、その後70年間、王位にあったと言われている。彼は実に107歳まで生きたことになる。また、彼の後をついで王となったムタシヲMitasivoは60年間王位にあった。「マハーワンサ」はそう語るのだが、シンハラの一書にはムタシヲをパンドゥカバヤの孫としているものもある。
 案じるに、ここには年代の誤りがあるのではないか。ウィジャヤのスリランカ上陸から仏教伝来までの期間はマハーワンサが言うより短いのではないか。ウィジャヤ上陸はBC477年より以前には起こりえない。
 ムタシヲに関する記述は少ない。マハーワンサにはマハメガ王立庭園を彼が造営したとあるだけである。その名マハーメガ(大いなる雨)の由来は、この庭園の造営の際、時ならぬ大雨が降ったことにあるとマハーワンサは書き残している。

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