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エリザのセイロン史









1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史2 ヤカーとナーガ、ウィジャヤの征服 
 マハーワンサの時代①

                                                 

ヤカー
Tovil表紙から
ヤカーと呼ばれる”悪魔”は人にとりついて悪さを働く。ヤカーを祓うためにはトウィルという悪魔祓いの儀式を行わなければならない。


 シンハラの始祖ウィジャヤがランカー島を統治する以前、この島にはかつてヤカーとナーガが住んでいたのだと言う。
 ヤカーはサンスクリットのヤークシャーのことであり、ヤークシャーとは夜叉のことである。こうして漢字に変えてみれば日本人には一角、ニ角の鬼面がすぐに想像される。サンスクリットのヤークシャが夜叉であるように、シンハラ語のヤカーという音は厄(やく)に近い。忌み嫌われる厄だが、その祖形をヤカーに求めてもその意味するところはそれほど遠くない。病気をもたらすサンニ・ヤカーは悪魔祓いの儀礼で病人から退散願うのがスリランカの流儀だが、これを日本では厄除け大師に御参りして厄を祓う。厄とヤカーの認識のパターンは一致し、その払いの立役者も仏に一任という作法も一致する。
 ただし、このヤカーを歴史上の先住民、シンハラ人がこの島に定住する以前に人々であるとすれば、ヤカーという名も、その悪辣な振る舞いを人間に及ぼすという言い伝えも信じるわけには行くまい。

 ナーガは蛇のことである。蛇を祀る人々を土着の人々をインド系渡来人のウィジャヤの軍が悪態を込めてナーガと呼んだのか、それとも先住の民が蛇を神と祀っていたのかは分からない。「マハーワンサ」(大王統史)の記述から分かるのはインド系渡来人がランカーの島に強力な都市国家を築く以前に、この島には既にナーガと呼ばれる部族がいくつかの都市国家を経営していたと言うことだ。

 古代のスリランカ国は複数の部族の連合体で成立していた。ラーマーヤナが鬼の都と呼ぶランカプーラはヤカーの都市国家、ナーガは「宝石のちりばめられた玉座」を持っていたという。
 ランカーを征服したのはインド系渡来人ばかりではなかった。マハーワンサは仏陀の三度の渡来を知らせている。一度目はビンテンネにマハーナーガ庭園に空から降り立った。その地はヤカーの露天会議場であり、後にマヒヤンガナと呼ばれスリランカでもっと重要な聖地となった。2度目の来訪ではコロンボの近くのケラニアに降りてなーが王を仏教に改宗させたという。3度目は、秀峰サマナラ・カンダに降りてその足跡を岩に残したと伝えられている。岩そのものは自然の侵食でわずかなくぼみが出来ただけのものだが、しっかりと石灰様のもので固められている。


 ヤカーとナーガはどのような民族なのか、明らかにはされていない。おそらくは今のシンハラとタミルのようにしてランカーに暮らしていたのだろう。両者を分ける決定的な差異がある。インドの言語は二種に大別される。サンスクリット語などのインド北方系の言語とタミル語などの南方系の言語である。シンハラ語は北方系に分類される。シンハラ民族がインドの北部から渡来したとされる由縁がここにある。タミルはインド南方からこの島にやってきた。ランカー島はかつてインド南部と浅瀬で繋がっていたのでタミルとの縁は深いのである。
 ヤカーとナーガは鬼と蛇であると言う。しかし、ヤカーもナーガも普通の人間であることはインドからの渡来者自身が証明している。スリランカに定着した渡来者が作った史書に、先住民は衣服をまとい、渡来民は先住者と通婚し、そして両者は同じアヌラーダプラの都に住んだとある。シンハラ征服王朝が国の運営で最も力を入れた稲作で、その圃場を潤すに必要な灌漑地を「人と鬼」「人と蛇」とが互いに力をあわせて造営したとある。

 ナーガという言葉、蛇というシンボルのことで連想することがある。ヤマトタケルと「なぎ」の戦争である。
 朝鮮半島から渡来したヤマトタケルの軍は蛇を祀る日本列島の先住民を「なぎ」と呼び、その「なぎ」一族の大刀を奪った。ヤマトタケル軍が所有する大刀をへし折ったという「なぎ」の直刀はエクスカリバーの威力を持ち、その剣が「出雲の剣」、「なぎの剣」として天王に献上されている。三種の神器・クサナギの剣である。強大な軍事力を誇った出雲の先住民はヤマタノオロチ、出雲を中心とする(文字通りに数をとれば)八つの首長をいただく連邦国家。新羅から渡来して天皇の軍隊となった異国の軍人が酒宴と言う策略をもって先住民を欺いて倒す戦術は、不思議なことにウィジャヤに率いられたインド系渡来人たちがスリランカ先住民に仕掛けた既存の国家転覆の謀略と同じであった。


「マハーワンサ」のウィジャヤ

 スリランカの歴史はウィジャヤのランカー島上陸に始まる。これは歴史的な事実であろう。ウィジャヤはおそらくワングWangu(ベンガル地方と思われる)王を父系に持ち、カリンガKalinga(マドラスの北東)王族を母系とする者の子孫であろう。ウィジャヤの祖母はシンハと呼ばれる低カーストの男と結ばれ、そのために彼の父はシンハバーフと寓話的に呼ばれた。ウィジャヤがライオンの子孫と呼ばれる理由である。
 シンハバーフはベンガルの西にあるマガダ領内にラーラ国Lalaを建て都をシンハプーラとした。ウィジャヤは彼の長子で、荒くれ者に育ち悪仲間を従え乱暴狼藉に明け暮れていた。あまりの悪辣な仕業に国の人々の憤懣が暴発するのを恐れたシンハバーフ王はウィジャヤをその700人の悪仲間と共に船に載せ海のかなたへ追放した。
 ウィジャヤの狼藉はインド中に知れ渡っていた。彼らを受け入れる国はなかった。インドの海岸には上陸できず、ウィジャヤは南へと向かいタンバパンニの島に流れ着いた。現在のプッタラムの近くである。タンバパンニとはスリランカの旧名の一つでタンバ(銅)とパンニ(手のひら)の合成語、ウィジャヤがこの島の浜辺にたどり着いたとき砂浜に両手をついた。手のひらに付いた砂を見ると銅色をしていた、というのが語源説にあるが、果たして。
 シンハラの歴史家はこのウィジャヤのランカー島上陸を歴史上の最大事と肝に命じて上陸の年を紀元前543年、つまり、仏陀入滅の年とした。しかし、後に触れるがウィジャヤの上陸はそれより後のできごとであることがわかっている。

 古代スリランカは部族が群雄割拠していた。ウィジャヤは古代スリランカを治める一部族の王の娘クウェーニと結ばれたと言われている。
 ランカー島に定住した渡来人ウィジャヤは島のすべてを手に入れたいと望みはじめた。妻はその野望をかなえるてあげると約束した。
 島の部族の王が集う盛大な結婚式が催されたときだった。式の参加者は幾夜を飲み交わすのが慣わしだった。王たちが饗宴に疲れたとき、クェーニはひそかにウィジャヤをその席に招きいれた。そして、クェーニの合図で酒宴になだれ込んだウィジャヤの軍はいともやすやすと参会の王たちの首をはねた。ヤマトタケル軍が「なぎ」一族の首をはねた事件、そのまんまである。ランカー島はやすやすとウィジャヤに手に収まってしまった。

 クェーニは、だが、ウィジャヤとの蜜月を楽しんでは居られなかった。ランカー島の王となったウィジャヤはその位にふさわしいクシャトリヤ・カーストのインド生まれの王妃を望んだ。パンディヤ(マドゥラの都、インドの南東部)の王に使者を送り王の娘との婚姻を申し出た。申し出ではあっさりと受け入れられた。
 パンディヤの王女はたくさんの女官を従えて島に渡ってきた。そして、クェーニは男女二人の子を儲けながら捨てられた。
 行く場をなくし子等をつれてヤカーの都ランカプーラへと向かったクェーニだったが、都へ入るとすぐに人々に見つけられ裏切り者として彼女は惨殺されてしまう。言い伝えられるところでは、森の民ウェッダと呼ばれる種々の部族は、そのとき森の深くに逃げ込んだクェーニの息子と娘の子孫である。

ウィジャヤの失脚・パンドゥワースの即位

 ヤカー族を征服したウィジャヤは上陸の地に都を築き、その地をタマナと呼んだ。都が子々孫々栄えるように望んだがそれは叶わなかった。彼は息子に恵まれず、彼の従者たちはそれぞれが勝手に島の各所に都を築いてしまったのである。
 ウィジャヤは死を悟った直前にシンハプーラの父王に手紙を送っている。彼の弟をタマナ王国の後継者として迎えたいと望んだのである。だが、シンハバーフはすでに亡くなっていた。シンハプーラの王位を継いでいたのは次男のスミットSmittoだった。スミットはその末子パンドゥワーサをランカー島へ送った。
 だが、このときも同様のすれ違いが起こる。パンドゥワーサがタマナに着く前にウィジャヤは亡くなっていた。側近のウパティッサが暫定の王位についており、都は彼の領地ウパティッサヌワラに移されていた。 
 パンドゥワーサがランカーに着いたことを知ると異を唱えることもなくウパティッサは王位を譲った。
 パンドゥワーサは王妃をインドから迎えた。王妃には6人の兄弟が同行してランカー島にやって来た。6人の王族はそれぞれ分かれて地方に住み、その地の豪族となった。何人かは独立して国を建てた。こうして建てられた国はランカー島南部のルフナ、中央部のアヌラーダプラ、そして、ドゥッタ・ガーミニ王の戦いで名高いウィジッタプラなどが良く知られている。
 シンハラの王は代々灌漑地を造営してきた。マハーワンサに始めて記される灌漑地はパンドゥワーサがアヌラーダプラに作ったアバヤ湖(ウェワ)である。
 パンパンドゥワーサ王の治世30年間、国は安泰であった。彼は10人の息子と一人の娘を残した。そして、国を継いだのは長子のアバヤAbhayoだった。

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