スリランカ料理トモカ掲載記事一覧  トモカの評判index

hanako  1992-6-25 No201

異食店 人と経営
トモカ スリランカ料理
古典的な味を追求
         3時間営業 客は10人まで





 スリランカ料理といっても一般に人には馴染みの薄い料理である。地域的にインドに近いので、カレーを出す店と想像する人も多いが、実際はまったく別のもの。日本の素朴な家庭料理に近いものが大半だ。カツオブシをベースにして煮込んだり、おひたしのようなものもある。

夫婦だけで運営

スリランカ料理でも古典的なものばかりを探り出して、研究しているのがJR四谷駅前の飲食店街・しんみち通りにある「トモカ」である。周辺にかっぽうや居酒屋が密集する中で、異色の存在だ。しかも、目立たないビルの三階で、エレベーターもない不利な立地。十年前の開店当初はもちろん苦戦を強いられたようだが、いまや店の知名度も上がり、確実に常連客をつかんでいる。
 にもかかわらず、不可解なのは開店当時四十席近くあった客席が、わずか三分の一になってしまったことだ。しかも、常に3,4人はいたスリランカ人のアルバイトの姿もなく、店主の丹野冨雄さん夫妻だけで運営しているのである。
 「一日十人までに客を限定しているんですよ。それでも多いと思っているくらいです」。営業時間は午後六時から九時までのわずか三時間だけ。当然、客席は一回転だけである。平均客単価は5千円程度。本当にそれで経営が成り立つのか心配になるところだが、家賃は相場よりも安く、人件費もかからないのでなんとかなってしまうのだと言う。
 丹野さんのもっぱらの関心は店の運営ではなく、スリランカ料理の研究だ。料理の話になると目の輝きまで違う。最近ようやく日本のカレーのルーツが分かってきたらしく、日本に入ってきた当初のカレーの原型に近い料理もでき上がった。その研究のために、営業時間まで削っているというのである。午前中は図書館に通い、文献を探る。目下の目標はカレーのルーツを一冊の本にまとめること。
 もちろん、肝心の料理作りに手を抜いているわけではない。わずか十人分の料理といっても午後三時ごろから準備にかかる。「トモカ」のメニューは四千二百円のコース料理一本だけ。しかし、料理七,八品にアーッパ(米の粉とココナツミルクを練り合わせ、発酵させてから焼いたもの)、パパダム(豆の粉にスパイスを混ぜて油で揚げたもの)、ご飯、紅茶がつく多彩な内容だ。

調理はジックリ

 「スリランカの古典的な料理を追及していくと、近代的なちゅう房設備は必要なくなってくるんです。反対に手間ばかりかかってしまうんですけどね」(笑い)。電気がまで炊いてしまえば簡単に済む炊飯も「湯取り法」で炊きあげる。たっぷりのお湯で米を炊き、浮き上がってくる粘りを取り除くと、インディカ米に近い触感のボソボソしたご飯になるのだ。製氷機も使わない。水道の水には不純物も多いので飲み水もいったんボイルし、レモングラス(香草)を入れて、冷やしたものを使っている。また、野菜の煮物には土器を使用。鉄器では味が微妙に変わってしまうためだ。
「人を使う難しさを経験し、同じ苦労するなら自分たちだけで頑張ってみようと思ったんです」
 回転当初は人を雇い、昼間も営業していた。しかも、昼間は一般受けする日本的なカレーを六百八十円で提供。確かに客は入ったが、本格的な料理を出す夜の客にはつながらなかった。また、毎年夫妻でスリランカに足を運び、新しい料理を見つけるごとに、中途半端な料理作りでは満足できなくなっていった。そこで、経営がなんとか軌道に乗ってきた五年後、夜だけの営業に切り替えた。

情報発信基地に

「料理を理解してくれる人に利用してもらいたいという気持ちで取り組んできました。この店をスリランカの情報発信基地にするためには、毎日が戦いですよ」。丹野さんがスリランカ料理と出合ったのはそう遠い昔のことではない。大学卒業後の八年間、区役所の広報課に勤務していたが、料理の面白さにひかれて転職。二年間レストランに勤め、特にカレーについて研究していた。たまたま、友人情報でスリランカ料理がおいしいというのを聞きつけ、いきなり現地に飛び込んで三ヶ月の修行をするという大胆さ。帰国後すぐに同店を開店した。
「経営している以上、赤字になってはいけませんが、十年かかってようやく経営というものが見えてくるようになりました。趣味の店といわれるかもしれませんが、原点にもどって料理を作る店が一件くらいあってもいいんじゃないですかね」
 (フード・コーディネーター 川崎妙子)
 
日経流通新聞 1992年11月17日掲載


【解題】  フード・コーディネーターの川崎妙子さんはトモカ開店当時から当店に注目してくれた方。食品業界専門月刊誌「フード・ライフ」でも何度かトモカを扱っていて、スリランカ料理のこと、あれこれお話ししていたから、滅法詳しくトモカのことを記している。だから、トモカがフード業界、そして、その先、何をするのか、その方向をよくご存知だった。
 この記事はトモカ開店5年目のもの。5年の間のトモカの激しい変化をフードライターとして見守っていた。
 なにしろ、フード業界ズブの素人の店主(私)がやること、なすことと言ったらとんでもないことばかり。料理店を経営するというよりは、スリランカ料理にのめりこむばかりで、こんな好き勝手をやっても店が続いているなんて、ああ、信じられない。
 この記事の取材のとき、店は開店と共に満席で、日本人のお客さんは少なかった。狭い店内をスチールカメラを持って動き回る川崎さんだったけど、そこはなれたもの、お客さんを邪魔することはない。
 この記事の中で触れている、カレーのルーツを探る本を出すという店主の約束は、この3年の後、『椰子・唐辛子・鰹節』(単行本として出版のとき『南の島のカレーライス』と改名)というタイトルのノンフィクションで果たされることになる。

 毎朝、若葉町のワンルーム・マンションを出て、四谷からニュー・オオタニ脇のお堀傍の小道を歩いて、永田町の国会図書館まで歩いた。交差点を逆に行けば日本=スリランカ教会の入居する平河町の砂防会館がある。
 国会図書館通いは続いた。日本でスリランカ料理を作りながら料理への疑問を毎年一度のスリランカでの仕入れのときに解決してゆくという恐ろしくあてずっぽうなカレー探求を繰り返した。そうした「日課」の後に『南の島のカレーライス』が生まれた。
 食材の仕入れでJR(当時は国鉄)山手線を利用していた。車内で週刊ポスト・ノンフィクション大賞を知らせる中吊りを目にした。書き溜めていた原稿を応募したら、最終選考の5編に残った。週刊誌もまともに読む時間がないほど、カレー作りとカレーの資料集めに奔走していた輩が週刊誌の懸賞に応募するのだから、ああ、いいかげんなものだ。
 加えて言えば、「サライ」で漱石のカレーを私が再現した記事を、インドネシアで偶然目にしたスリランカ勤務のJAICA隊員が読んで(って、ずいぶん右往左往するけど)、その隊員がアジア本を専門にする明石の版元に私のことを話したことから『南の島のカレーライス』は世に出ることになった。私のスリランカ・カレーのフリークも、たった一人の陶酔だったのに、案外に「変なのがいる」という噂がアジアを駆け巡っていたようだ。

 一日十人のお客さんでいい、なんて、思えば経営として綱渡りのようなことやってたけど、日本はバブルもエスニックもブームだったから、ジュリアナのセンス乱舞に世間が目を回していた時代だったから、私の無謀もぐるぐる回る奇跡を起こしたかも。

 湯取り法で飯を炊く。土器で料理を炊く。トモカの店主は12年間、四谷のビルの3階の厨房でそんな実験ばかりしていた。その間、日本で何が起きていたのか、カレー以外のことは分からない。

 スリランカでは田舎の家の土間を訪ねるばかり。現代から遠く離れてしまった。
 熱帯の原始。そこにこの身を置いた。熱帯の原始世界は私にとってかなり心地よかった。

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