My mountaineering record
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山のあれこれ
2003年作成
むかしばなし
退職後の余暇を過ごす手段の一つとして、山歩きをはじめました。
私と山との出会いは、小学校4年生のとき、林間学校で丹沢の大山に登ったり、中学1年生のとき、クラブ活動で美ヶ原に登ったのが最初です。その後学生時代は、年に数回気のあった友人と無雪期の山に登っていました。

学校を卒業して社会人になってから一時期山にのめりこみ、足繁く山に通いましたが、二十台の終わりの秋、弟と北アルプスの槍、穂縦走をしたのを最後に山からは遠ざかっていました。山にのめりこむきっかけになった、常念乗越から眺めた新雪の穂高連峰、遭難寸前までいった厳冬の吾妻連峰等、月並みですが懐かしい思い出が沢山あります。
また、山歩きを再開することになりましたが、これからは家内と犬を同伴することが多くなります。犬がいるため交通手段は車、車で行くため行程はピストンという山行が大半になります。自分の体力や山の経験のブランクの長さ、それと同行メンバーを考えますと、しばらくは日帰り且つ初心者向けのコースが主と考えています。

2003年10月追補
常識の変遷
山歩きを再開するに当り、山に関する最近の知識を多少は得ておこうと、インターネットで調べてみたり、山に関する本を読んだりしましたが、以前常識、鉄則と言われていた事項のいくつかが180度変わっていることを知りました。

1つは飲み水のことです。
スポーツをやる場合、『のどが渇き、体がほしがってから水を飲むのでは遅い』、というのが最近の常識となっています。しかし、30年ほど前、私が山登りに夢中になっていたころは、水を飲むと汗をかいて疲労が増すので、水は極力飲むなと言われていました。私も当時はこの教えに従い、登りでは極力水を我慢し、ピークを越えて下りになってから、あるいは1日の行動が終了してから、水を飲むようにしていました。行動中は、あまり水を飲みませんので、季節を問わず、どんな山行でも1リットル入りのアルミ製のGI水筒1つで済ましていました。山に入っている間は、どうしても摂取する水が不足するようで、山から帰ると数日間はのどが渇いてよく水を飲んだのを覚えています。
今は最近の常識に従い、山行には水筒を2つ準備して行き、1つはザックの外に出して小休止ごとに極力水を飲むようにしています。

2つ目は衣類、特に下着です。
以前は化繊の下着も少なかったためか、下着は吸湿性の良い木綿が勧められていました。私も夏は木綿の網シャツ、冬はこれにラクダのシャツを重ね着していた記憶があります。当時は、前述したように化繊の下着が少なかったこと、また木綿が汗で飽和した後の考察があまり行われていなかったため、木綿が下着の主流を占めていたと思われます。
確か昨年だと思いますが、テレビのクイズ番組で山行時の下着の素材の問題が出た際、家族の前で自信満々木綿と答え、面目を失いました。

蛇足ですが、時代や環境が変われば常識も変わる典型を、こんなところで経験するとは、思ってもみないことでした。


2004年10月追補
一年経過
山登りを再び始めて、1年と少々経過しました。最初のうちはオッカナビックリ、手探りという感じでしたが、山行回数を重ねるうちに、心にある程度ゆとりを持って歩けるようになりました。当初多かった、家内と飼い犬同伴の日帰りの山行スタイルも、最近は少し変ってきています。今年になってから、家内があまり同行しなくなりました。ひざを痛めたというのが一番の理由です(亭主との山行に飽きたのが本音かもしれません?)。これに加えて、比較的低山の日帰り登山だけでは、少々物足りなくなってきたということもあります。
そんなわけで、今年になってから当初より少し遠くの小屋泊まりの山行の割合が増えてきました。今は、若い頃、計画倒れや山行途中で頓挫した山なども、そのうち登ってみようかなと、思い始めています。

2009年10月追補
骨折と飼い犬の死
二人と一匹で始めた私の山あるきは7年目に入りました。この間、まず家内が離脱し、その後しばらく私に同行していた飼犬も、2005年12月の鍋割山を最後に山へは行かなくなりました。同行者はいなくなりましたが、まだ、私の山あるきは続いており、当初は夢にも考えていなかった山々にも行くようになりました。これまで運よく、事故らしいことには無縁でしたが、とうとう先日の小川山の山行で、足を骨折しました。幸い骨折とはいっても自力で下山できたので、新聞沙汰にはなりませんでしたが、一歩間違えば世間を騒がす事態に陥るところでした。これに加えて、私が骨折した4日後に、私の山あるきに同行していた飼犬がいなくなりました。
足の骨折は以後気をつけようで済みますが、飼犬がいなくなったことは少々心に応えます。山のよきパートナーを失いました。しばらく山歩きはできませんので、今後の山歩きについて考えてみるつもりです。

2010年10月追補
ペットロス
小川山で足を骨折してから、1年になります。骨折を治療している間、山歩きを続けるかどうか、少々考えてみましたが、結局これに代わる興味の対象が見つけられず、山歩きを続けています。山歩きを続けてはいますが、一時期ほど山歩きに対するモチベーションが高まりません。 山に同行していた飼い犬がいなくなったことがその理由の一つだと思っています。
3年の間、日帰りの山歩きには殆ど連れて行きました。山の中では、私の独り言の格好の話し相手で、犬に話しかけていると一人歩きの物足りなさを忘れました。山に連れて行くようになった時は、老犬でしたが子犬のように好奇心が旺盛で、私の前後を走り回って喜んでいた姿が忘れられません。見ているだけで顔がほころんできます。富士山に登って足を切ったときも泣きごとを言いませんでした。不平、不満を言わずどこまでも着いてきます。残念ながら山では人に務まる役だとは思えません。


余談
このホームページを作成していたパソコン(WindowsXP搭載の古いパソコン)が2021年に壊れました。これを機会に今使用しているパソコンを使ってホームページを作成しようとしたのですが、これは諦めました。Windows10などで使えるソフトはHTMLのチェックが厳しくなっており、これまでに作成したホームページを変更する場合、ソース(HTML)の変更箇所が結構多くなり、その手間暇が馬鹿になりません。
結局WindowsXPにダウングレードしている中古のパソコンを購入し、これに使い慣れていたソフトをインストールしてホームページを作成しています。消えてしまったホームページのファイルの復旧、すっかり忘れてしまったHTMLのルール,プロバイダーのサーバーとの通信手順などを思い出したり、調べたりとずいぶん時間を取られました。
この年になってこんなことをするようになるとは全く想像していませんでした。頭の老化防止訓練には良い教材だったと思うようにしています。 
2022年9月追補
老いの現実と夢
コロナ禍と病気で3年ほど山から遠ざかっていました。この3年間という時間は、加齢による体力の衰えが恐ろしいほど進むことを明神ヶ岳の山歩きで思い知らされました。
明神ヶ岳を歩いたときは、ただ歩くだけが精一杯で山歩きを楽しむ余裕はありませんでした。少なくとも山に登っていた3年ぐらい前の体力(特に脚腰)を取戻さないと、山歩きを楽しめません。しかし、3年前の体力を取戻すということは、自分のような高齢者にとって、かなり高いハードルになります。思案に暮れていても仕方が無いし、体力を効果的に取戻す知恵も浮かばないので、これまでと同じスタイルで、山あるきを続けることにしています。現役を引退した際の山歩きと同じように、あまり体力を要しない山から登るつもりです。少しずつかもしれませんが、体力が戻るだろうと淡い期待を抱きながら・・・・・。

行く行くは、雪の八ヶ岳花の大雪山などをまた歩きたい、まだ頂上に立てない鳥海山の頂上に立ちたい、キタダケソウをこの目で見たいなど々・・・・・と考えています。山歩きができる時間はそう長くはありません。タイムアウトで、見果てぬ夢に終わるかもしれません。
小屋番
これまでの山歩きで会った小屋番の中には忘れられない人が居ます。
赤石岳避難小屋の小屋番のAさん(名前不明)と初対面の時は、顔一面の髭もじゃで胡散臭く、何を言われるかと身構えました。しかし、一言二言話すと気さくに話を返してくれて、直ぐにご近所の仲の良い人と話すような感覚になりました。Aさんとは夕食後、消灯時間近くまで長話をしましたが、こんなに長い話を小屋番とするのは初めての経験でした。Aさんの話の中には、最近の登山者や山小屋経営に対する辛らつな話しが含まれていましたが、毒気が感じられず素直に耳に入ったことを覚えています。赤石岳避難小屋をあとにする時、赤石岳の頂上まで見送りに来てくれたり、それから5年後昼食で寄った時は天気を心配してくれました。見かけによらず暖かさを感じさせる人でした。


自分より少し年上と思える夫婦でしらびそ小屋の小屋番をしていた無口ですが山のことは隅から隅まで知っていると思えたご主人と話好きの奥さんも忘れられない小屋番です。ご主人には鳥の名前や登山道で見かけた樹木の名前を、奥さんには花の咲いている場所を教えてもらいました。山でそれまで見たことが無かったクリンソウの写真を撮れたのは、奥さんに咲いている場所を教えてもらったおかげです。しらびそ小屋に飛んで来て餌をつついているウソの名前を無口なご主人に教えてもらった時のことは、つい昨日のことのように覚えています。
ご主人はいつの頃からか、小屋で会うことが少なくなりましたが、奥さんは必ずと言って良いほど小屋にいて、冬、雪の中を中山峠から下ってくる際、通年営業のこの小屋に寄って温かい薪ストーブにあたり、奥さん相手にとり止めのない話をするのが楽しみの一つでした。3年前にこの小屋に寄った時は、二人共小屋には上がってきておらず、息子と思える人が小屋番をしていました。


黒岳石室の小屋番のBさん(名前不明)も忘れられない小屋番の一人です。天気待ちで黒岳石室に一人で滞留して暇をもてあましていた時、メロンの差し入れをしてくれたり、管理棟に招待してくれて、山や北海道の生活を楽しく聞かせてもらいました。黒岳石室にはこの後2019年まで、毎年のように泊まりましたが、其の後Bさんに会うことはありません。黒岳石室の小屋番は当番制で、Bさんが小屋番の時と私が黒岳石室に泊るタイミングが合いません。

ところで、これと反対の意味で忘れられない小屋番も居ました。ここで読み難い話を書くつもりはありません。これについて山行記に記載していますので良ければそちらを参照してください。
・中央アルプスの山行記
・甲斐駒の山行記

なぜ赤石岳避難小屋のAさんやしらびそ小屋のご夫婦などが、忘れられない人として心に強く残っているのか、よくわかりません。いずれの人達も小屋番にありがちの上から目線が感じられなかったのは確かですが、それ以外に何があるのか、考えても出てきません。心の琴線に触れたとしか言いようがありません。他人を嫌う理由は簡単に見つけられますが、その反対となると難しいのはなぜだろうといつも思います。

赤石岳避難小屋の小屋番のAさんにはその後の話があります。
2022年に開催されたトランス・ジャパン・アルプス・レースがNHKで放映されていましたが、ここで18年間赤石岳避難小屋を守ってきた管理人(小屋番)として紹介されていたのが前述のAさんでした。私が会ったときほど髭もじゃではありませんでしたが、話し方は当時そのものでした。今年で山を降りるとのことなので、テレビの画面のAさんにご苦労様でした言いたくなりました。


再び骨折
5月の連休の前に、我家の玄関先で足を滑らして転んだときに鎖骨を折りましたし。自分にとっては2回目の骨折です。前回は山歩きの最中でしたが、今回は幸い山ではなかったので、騒ぎには至らなくて済みました。これで再開した山歩きはしばらくお休みです。典型的な高齢者なので、歩かずにしばらくボケッとしていると脚が目に見えて衰えて行きます。昨年の明神ヶ岳の二の舞にならないように散歩にせっせと取り組んでいます。しかし、もう20年ほど歩きつくした我家の周りを歩いてみても楽しいことはありません。苦い薬を仕方なく飲んでいるような散歩を続けています。

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