大阪ランダム案内

東京にくらべると小さくて狭いけど、うろうろしてみれば、
大阪もなかなか広くて奥の深い街です。あちこち、足のむくまま御案内。
ただし、体験や記憶をもとに選びますので、名所旧跡が入ってなくても、御容赦を。

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★梅田〜中之島  ★ミナミ〜新世界〜天王寺 ★中之島〜港区
★上町台地、福島区 ★此花区〜西淀川区 ★淀川〜東淀川区〜都島区
★旭区〜城東区〜鶴見区 
★東成区〜生野区〜天王寺区
★平野区〜東住吉区〜阿倍野区 ★住吉区〜住之江区〜西成区 
★大正区〜浪速区〜西区

ランダム案内は、市内全域をまわって、完了いたしました。

今回が最終回です。よくまわったものだなあ……
これと「千日デパート」火災が、会社員時代の二大事件↓
北区に国分寺という町名があるのは知っていた。しかしそこに日本史で習った、聖武天皇が国ごとに創らせたという、あの国分寺が残っているとは知らなかった。天六交差点のすぐ近くだが、用がなくて、この一画には来たことすらなかったのだ。
そしてここは、元は7世紀中頃に建てられた別の寺だった。それを8世紀中頃に、摂津の国の国分寺としたのだそうだ(新設ではなくアリモノを国分寺にした例は他にもあるとのこと)。
以来延々とつづいてきたわけだが、前に紹介した太融寺と同じく、豊臣家滅亡時と第二次大戦とで二回焼失している。「由緒正しい寺にしては変に新しいな」 門前に立ってまずそう思ったのも道理で、主な建物は昭和40年の再興なのだという。
向かいに小公園があり、その片隅に建てられているのが、「天六ガス爆発事故」の慰霊碑。70年万博が開幕して間もない昭和45年4月8日の夕方、地下鉄谷町線の工事現場で都市ガスが洩れ、引火して大爆発を起こした。死者79名、負傷者420名。当方が社会人になったばかりの春だったが、後日週刊誌で、「その直前、不審な外国人が〜」という記事を読んだ。
「万博妨害のため」みたいな内容だったと記憶するが、ううん、平凡パンチだったか、週刊プレイボーイだったかなあ……
左。CGで描いた絵みたいだけど、実写の遠景ですよ。
右。運営主体は、(財)大阪市教育振興公社とのこと。
扇町公園は敷地が約7ヘクタールあるそうだ。長らく、国際大会も開かれる大阪プールの所在地として知られてきたが、それは港区八幡屋のスポーツ公園内に移った(←港区の項で紹介済み)。ただし小規模なプールは現在もある。
そして、知らなかったのだが、ここには明治15年から大正9年まで、刑務所があったそうだ。当時の名称は大阪監獄署であるが、なるほど、それで7ヘクタールもの敷地があったのか。それが堺市に移転したのが、現在もある大阪刑務所とのこと。
CG画像のように見えている扇町キッズパークには、関西テレビの本社と、「学んで遊べる子どものための博物館」キッズプラザ大阪が入っている。関西テレビは「関テレ」「ハッチャン」などと呼ばれており、1997年の移転までは西天満に本社があった。
キー局のフジテレビと同じく8チャンネルだから「ハッチャン」で、吉本新喜劇の故岡八郎氏も「はっちゃん」と呼ばれていたが、「ハッチャン」と「はっちゃん」ではアクセントもイントネーションも違うというのが、大阪弁の繊細なところである。
キッズプラザも1997年に開館。パソコン、工作、実験などの各種コーナーがあり、写真右は、カメラワークからコンソール操作まで体験できる、テレビの模擬スタジオである。
左。こういうアーケード街が、延々とつづいている。
右。きれいになったら、逆に「ごちゃごちゃ」が懐かしい?
天神橋筋商店街は、南は天満宮近くの天神橋一丁目から北は八丁目までつづく、日本最長と言われる商店街。
その距離2・6qで、店舗数が約600店。戦前は「キタの天神橋筋、ミナミの心斎橋筋」と称されたそうで、阪急千里線の終点「天神橋筋六丁目」の駅前、つまり大阪式略称でいう「天六」(てんろく)交差点周辺は、映画館なども並ぶ繁華街だった。
戦後もつづいた天六の賑わいは、筒井康隆さんの『不良少年の映画史』に紹介されている。一方、四丁目の環状線「天満」駅周辺も繁華街であって、当方の大学生〜サラリーマン時代には、天満座や東洋ショー劇場というストリップ劇場もあった。
(後者は現在もあるとのこと)。その天満駅北東側は路地の多いごちゃごちゃとした一画で、長らく木造の店が密集して天満卸市場や衣料店街、飲食店街を形成していたのだが、ビル化されたり、右の写真のような集合店舗になったりしつつある。
なお、天満は江戸時代初期から青物市場で知られてきた。青物(あおもん・野菜)、赤物(あかもん・果物)の問屋が集まり、上方落語『千両みかん』の舞台にもなっているわけだが、それは現在の町名では天神橋一丁目の、大川沿いにあったのだ。
現在の正式名称は、独立行政法人造幣局です。
右。木造みたいだが、実は煉瓦造り、漆喰塗りとのこと。
天満宮から国道1号線を東に歩くと、大川沿いにあるのが造幣局。対岸が花の名所桜宮で、造幣局も「桜の通り抜け」で知られている。貨幣鋳造は明治三年(1871)から始められ、勲章や褒章の製造、貴金属地金の精製なども行っているそうだ。
門柱に英語による名称が彫り込まれているのだが、造幣局は何というか御存じだろうか。「JAPAN MINT」と、ごくあっさりしたものなのである。「な〜るほど。それで帝都東京ではなく、民都大阪に設置されたのか」なんてね。
ところで当方、小学校6年のとき学校からの社会見学で、この造幣局も見せてもらった。いまは自動化されているのだろうが、そのときには、ベニヤ板状の薄いピカピカ銅板から多数打ち抜かれたキラキラ光る小円片の山を、おじさんたちが道路工事用みたいなシャベルですくって、手押し車に移していた。
まだ文字も模様も刻印されてない硬貨以前の物とはいえ、十円玉をシャベルですくっている光景に仰天していたのだ。なにしろ昭和34年、キャラメル一箱が十円の時代でしたからね。
右は造幣局(当初の名称は造幣寮)の応接所として明治四年に建てられ、明治天皇の宿泊所ともなった泉布観。泉布は貨幣、観は館を意味するとのことである。
太宰府や、京の北野とともに、知名度の高い天満宮。
右。土地は天満宮が無償貸与しているとのこと。偉い!
大阪天満宮(てんまぐう)は、通称「天満の天神さん」。
主祭神である菅原道真が、太宰府に流される往路、ここにあった神社に参ったのを縁としている。天満宮の建立は村上天皇の命によるもので、何にしても平安時代の話である。
だから日本三大祭りのひとつである天神祭も、天満宮の公式サイトによれば天歴5年(951)に始まり、「一千余年の伝統を誇る日本屈指の祭典です」ということになる。
道真は学問の神様でもあるから、受験シーズンには合格祈願の学生や親たちの姿がめだつ。境内には「すべらん、天神きつね」というウドンを売る店があり、近くの天神橋筋商店街の煎餅店は、「合格せんべい」を季節限定で発売するのだ。
右の写真は、2006年9月に開席した落語の定席「天満天神繁盛亭」。戦争末期の空襲で焼けて以来、上方落語を主とする寄席は復活せず(できず)、角座にせよ花月にせよ、落語は漫才を主としたプログラムのなかに、漫談や奇術などとともにはさまるだけだった。上方落語協会が主催する落語会も、会場が一定せず、採算面でも厳しい状況がつづいたらしい。
その協会が繁盛亭をつくり、しかもコンスタントに客を呼んでいるという事実は、大きな賞賛に価することなのである。
『ドバラダ門』の読者は御存じ。工学士、山下啓次郎。
天満近くでは、椎茸、昆布などの問屋も眼につきます。
写真左は、「中之島〜港区」で遠景を紹介した裁判所合同庁舎で、大阪高裁、地裁、簡裁、検察審査会が入っている。
すぐそばには先年新築された大阪弁護士会の高層ビルがあり、そこには市民法律センター、高齢者障害者総合支援センター、遺言相続センター、住宅紛争審査会など、いざというとき頼れそうな窓口が置かれている。なお、以前は検察庁も近くにあったのだが、現在は福島区の法務省合同庁舎内に所在。
以上はどれも機能本位の現代ビルであるが、大正5年に竣工して昭和49年まで使われていた先代の大阪高裁(旧称・大阪控訴院)は、赤煉瓦造りの三階建てで屋根は銅版葺き、中央にはドーム屋根の高塔付きという、芸術的な建物だった。
設計監督者の筆頭は工学士にして司法技師の山下啓次郎。ジャズピアニスト山下洋輔氏の祖父である。右の写真は東に少し歩き、天満に近くなって乾物関係の会社が眼につく菅原町の、創業明治16年というゴマ問屋「和田萬」。ラジオの生ワイド番組をやっていたとき、社長にゲストで出ていただき、ゴマ談義を拝聴した。子供の頃からふんだんにゴマを食べて育ったのかどうか、肌の色つやが良くて、活力満々という方でしたね。
宇治電ビルは、近々、解体される予定だという。
大江橋の近くだからではなく、大江氏が建てたから……
太融寺から南に歩くと、国道1号線に行き当たる。渡ればオフィス街や法律事務所街で、以前は老松町とか梅ヶ枝町とか美しい町名が連なっていたのだが、いまは広域町名で西天満。写真左の真ん中は、1号線に面している宇治電ビルである。
宇治電は宇治川電気の略称。宇治の平等院のそばを流れる宇治川は急流だから、水力発電に適していた。昭和12年に竣工したこのビルは、その宇治川電気の本社ビルだったのだ。
1号線の上に阪神高速の昇降路が斜めに伸びているので、ビル正面からの全景写真が撮れないのだが、壁面のレリーフは、雲・稲妻・水、そして電球を持った女神という構成である。ただし戦時下の電力統制と戦後の電力会社再編により、宇治川電気は他社とともに現在の関西電力となった。そしてSFファンなら御存じ、眉村卓さんのサラリーマン時代の勤務先、大阪窯業耐火煉瓦(現、ヨータイ)の本社はこのビル内にあった。
右は少し南西の場所にある、大正10年竣工の大江ビル。正しい横書きは「グンヂルビ江大」。裁判所(当時は大阪控訴院)の近くなので、法律事務所向けに建てられたという。階段の木のてすり、小部屋のドアやガラス窓など、レトロな雰囲気にあふれたビルで、映画の撮影に使われたりもするらしい。
昔はこのあたりが、北野と呼ばれていたそうだ。
太融寺で遊んだと言うと、にやにやされる場合がある。
梅田や曽根崎の繁華街は「梅田〜中之島」で紹介済みなのでパスしつつ、前回の茶屋町から南東に歩くと太融寺である。
大きな寺の名前であり、一帯が太融寺町という町名にもなっている。寺は弘仁12年(821)、嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が創建した。太融寺の公式サイトによれば、皇子・源融(みなもとのとおる)が八町四面の土地に七堂伽藍を建立し、現在の堂山、神山、扇町、野崎、兎我野などの町名は、本来その境内地の名称なのだという。梅田界隈に詳しい方は、上記の町名だけで境内地の広大さがわかるだろう。
ただしこの太融寺、二回全焼している。一回目が大坂夏の陣の兵火、二回目は太平洋戦争末期の空襲によってである。
一方、町名としての太融寺町は飲食店街、風俗店街、ホテル街として有名。写真右は、左の本堂を撮った位置でまわれ右をして撮影したもので、寺の外にはラブホテル二棟がそびえているのである。近年は風俗店の無料案内所も目立ち、吉本の人気タレントだった某氏(故人)が、晩年はその仕事をしていたという話を聞いたこともある(ミナミの店でだという説もある)。
当方は若い時代、よく太融寺の落語会を聞きに行き、近くの安い飲み屋での「打ち上げ」にも参加して、騒いだものだった。
左。毎日放送のキャラ、ライヨンちゃんと、ぷいぷいさん。
右。周囲は若者向けショップの密集ゾーンになっている。
以前、当方の仕事場は北区鶴野町にあった。梅田の北東側、昔からの長屋や民家が広範囲に残る茶屋町を抜けて新御堂筋を渡る。駅から徒歩十分余りなのに、その一画は「陸の孤島」風になっていて、セールスマンもあまり来なかったのだ。
ところがバブル時代になるや、茶屋町の長屋街は強引な地上げが進んでトタン塀で囲われだし、新御堂筋沿いにはロフトのビルができる、毎日放送が新社屋を建てて移転してくる。鶴野町も騒がしくなったので、当方、別の区へと逃げたのだ。
そして現在、茶屋町はビルや商業施設が建ちならぶ若者の街となっている。右の写真のフラワーショップのごとく、まだ随所に残る長屋や民家を改装した店舗も目立っている。往年、静かな長屋街だった頃、路地を抜けつつ何気なく表札を見ると、ある奇術師の芸名と本名が記されており、「ああ。こういうところに住んではるのか。なるほどなあ」と、納得したことがある。
淡い記憶によれば、ワンダー昇一(浅田福松)氏だったのであるが、その後の消息は知らない。ちなみに毎日放送は以前は吹田市の千里丘にあり、広告マン時代の当方もよく通ったものだが、その建物もすでに解体されたという。嗚呼。
正式名称は梅田駅。通称、梅田北ヤードです。
右。中津の高架道路から。遠方右手は大淀南エリア。
左はJR梅田貨物駅の敷地前に掲示されている、広域避難場所の案内図。中央の三角地帯が貨物駅で、黒い部分は現在も機能中。黄色い部分が、すでに工事が始まっている区画。
その全体が前回紹介した再開発エリアになるわけで、旅客駅である大阪駅(直下横長の白い部分)と比較すれば、いかに広大な面積を持つかがわかるだろう。右はその、現在も機能中の貨物ヤードで、着発線は意外に少なく8本だそうだが、仕分け、荷役、留置などの側線合計は71本になるのだという。
大阪駅で貨物も扱いだした明治7年以降、旅客と貨物の双方を同じ駅でさばいてきたが、どちらも増加する一方だから、昭和3年(1928)に貨物駅を独立させた。最盛期には、現在の西梅田再開発地区(画面彼方の左手ビル街)あたりにも、7線の貨物ホームや中央郵便局への引き込み線があったという。
また、この北ヤード全体が再開発されたときには、大阪市営地下鉄の四つ橋線が西梅田から阪急十三(じゅうそ)まで延伸され、この三角地帯の地下に北梅田という新駅ができるらしい。現在はここの貨物線を経由している関空行きの特急「はるか」も、地下路線化して新駅をつくるそうだ。いわゆる「梅田最後の一等地」が、大変容を遂げていくのである。
左。カメラ視界の左右も背後も、工事中の区画である。
右。友人が勤める会社の本社ビルもあるはずだが。
写真左は、大規模工事が進む大阪駅を北側から撮ったもので、建設中の「大阪ステーションシティ」、その「ノースゲートビルディング」である。高層オフィスビルとともに、三越伊勢丹やシネコンが入る予定の商業ビルもあるという複合施設。
彼方に見えるのはアクティ大阪ビルの裏側(北面)だが、そこには大丸が入っており、前回書いた「無理矢理のビル新築」は、実はその増床のためでもある。しかも阪急が新ビルで大増床したから、梅田のデパート戦争はさらに熾烈になるのである。
また、撮影地点の背後にはJRの梅田貨物駅、通称「梅田北ヤード」が広がっており、総面積24ヘクタールというここも、すでに再開発計画が進みつつある。貨物駅は吹田操車場跡と百済貨物駅に分散移転させ、跡地にオフィスや商業ビル、産業や学術の研究施設、ホテルなどが建つ予定。サッカー・ワールドカップ招致のためのスタジアムをという構想もあるという。
写真右は、再開発された西梅田のビル街を、JR高架線の北側から撮ったものだが、ホテルやオフィスビルだということは知っていても、面倒臭くて、その名称をいちいち覚えてはいない。
まして北ヤードに高層ビルが林立したときには……なのだ。
双方、以前の姿は「梅田〜中之島」で紹介済みです。
おまけに、北梅田一帯の大規模工事も進行中なのだ。
左はJR大阪駅と一体化したアクティ大阪ビルの南側正面だが、2006年に始まった大阪駅大改造工事の一環で、高層ビル前のごく狭い土地に、さらにもうひとつビルを建てている。無理矢理の感があって、前よりさらに「せせこましい」、圧迫されそうな駅前になること必定なのである。明治7年の開業以来、
いまの大阪駅舎は四代目になるのだが、当方が子供時代から見なれていたコンクリート造りの三階建て、ただし中央部は塔状に突出という、三代目の駅舎が懐かしい。広々とは言わぬけれど、駅前には広場的なスペースがあったわけだしな。
右は阪急百貨店(地上12階まで)と、その上部の高層オフィスビル。世界初のターミナルデパートだという阪急百貨店は、昭和4年(1929)の開店後、増床工事を繰り返してきたが、これも2006年から徹底的な建て替え計画がスタートした。だから大阪駅同様、ぼくが利用してきた阪急百貨店は跡形もなくなった。工事は周辺の阪急系列ビルや施設にも及び、大阪駅の工事も並行しているので、道路は封鎖される、コンコースは通れない、地下街は一部閉鎖される。そのため当方ここ1年ほどは、よほどの用事以外、この一画は通行しなくなっているのだ。
新地は他にもあるので、「北の新地」と通称されてきた。
梅新は、「うめしん」と読む。何でも略す、大阪読みです。
前回紹介した毎日新聞の旧大阪本社。そのすぐ裏手から、東は梅田新道、北は国道2号線に出るまでの東西に長い一画が、北新地と呼ばれる高級飲食店街である(夜の光景は、「梅田〜中之島」で紹介済み)。徳川綱吉の時代にできた堂島新地が始まりで、そこへ米相場の店などが移ってきたため、曽根崎川(現存しない小さな川)の北側に移転したのだという。
写真左は、新地本通りに設置されている案内板のひとつで、近松門左衛門「心中天網島」は、紙屋治兵衛と遊女小春の芝居絵。江戸時代のここ(曽根崎新地)が舞台となっている。
明治以降も賑わいは増し、昭和初期には芸妓700人、彼女たちを抱える置屋(おきや)が11軒もあったそうだ。だから案内板には、人力車が通る木造のお茶屋街や、同じく木造の曽根崎演舞場などの写真も掲示されている。
写真右は大阪市の道路元標で、梅田新道と国道1号〜2号線が交差する、通称「梅新」の角に設置されている。国道1号線、25号線、176号線がここで終わり、2号線、26号線、163号線、165号線が、ここから始まるのだという。ちなみに日本国の道路元標は東京の日本橋にあるそうだが、現在の道路法では、別に道路元標は設置しなくてもいいそうだ。
社内には、いかにも新聞社らしい活気と喧噪があった。
倶楽部の会員諸氏、英国紳士風の人たちなのかな?
左は堂島の四つ橋筋に面して遺されている、旧毎日新聞大阪本社の正面玄関部分。御影石造りの建物は大正11年(1922)に竣工し、当時の社名は大阪毎日新聞。
略称の「大毎」は、戦後も広告代理店の大毎広告、映画館の大毎地下劇場などに使われていた。この旧本社のとなりに毎日会館のビル二棟があり、北館には当方が勤めていた広告代理店、南館には毎日ホールや上記映画館が入っていた。
その当時、少し北の桜橋に産経新聞ビル、少し南の中之島に朝日新聞ビルがあり、だから四つ橋筋の梅田から中之島にかけては、地方新聞社、放送局、広告代理店などの支社支局がひしめく「マスコミ街」だったのだ。(現在、毎日新聞は西梅田、産経新聞は浪速区に移っている)
右は同じ堂島にある社団法人「中央電気倶楽部」のレトロな建物。倶楽部の創立は大正3年、この建物ができたのは昭和5年だそうだ。法人と個人の会員制による、社交・研究・啓蒙のための組織であり、関西電気協会、関西鉄道協会、電気四学会関西支部なども入っている。公式ホームページを見ると戦前風のバーや談話室などもあり、「いい雰囲気だなあ」と思うのだが、会員資格のない当方、利用はできないのである。残念。
左。目立たぬ場所に立ってるので、知りませんでした。
右。そらもう、旧館の方がはるかに芸術的ですよ。
左は「堂島米市場跡」の記念碑で、堂島川を背に立てられている。このあたりで米の取引が始まったのは元禄初期と言われており、享保15年(1730)には幕府公認となった。組織化された先物取引としては、世界の先駆なのだという。
以来さまざまな曲折を経て、昭和14年(1939)八月末に取引所が解散するまで、国内の米の価格(相場)は大阪で決められていた。解散したのは、戦時体制が強められ、米穀配給統制法が公布されたからである。かくして、上方落語『住吉駕籠』や『米揚げいかき』や『冬の遊び』に出てくる、堂島の豪気な旦那衆も消滅してしまったわけである。
右は日本銀行大阪支店。辰野金吾が設計して明治36年に完成した旧館は、すでに「中之島を歩く」で紹介済みなので、今度は昭和50年から55年にかけて建てられた新館を。
形状といい色といい、まるで要塞か監獄のようで、ぼくは好きではない。ただし、今回初めて気づいて「へへえ!」と思ったことがある。写真が小さくて識別できないだろうが、撮影時、中層棟の屋上に何か赤いものが見えた。パソコン画面で拡大してみると、鳥居と祠なのだった。天下の日本銀行も、やはり神さんに手を合わせてはるんですな。
左。すこーんと抜けて、中央区の住友村が直視できる。
右。入っていたクライアントは、吉原製油である。
今回から入る北区は、もっか大阪駅前や中之島で、ビルの建設ラッシュ、建て替えラッシュになっている。初回のこれは中之島で、左はフェスティバルホールが消滅してしまい、右は大(だい)ビル本館が取り壊し中という現場風景。
どちらも、健在時の姿は「中之島を歩く」(中之島〜港区)のなかで紹介してあるが、よくぞ撮影しておいたことよと思う。
両ビルには思い出が多々あるからで、客席数2700席というフェスティバルホールは、学生時代以来、さまざまなコンサートを聴いてきたところ。作家になってからは、大阪フィルハーモニー・オーケストラの「大フィル祭り」で、なぜかステージを走りぬけるという役を仰せつかったこともある。
大正末に建てられた大ビル本館(当時の社名だった「大阪ビルヂング」の略称。現在の社名はダイビル)は、広告マン時代、クライアントがそこに入っていたので、よく通ったのだ。
ネオ・ロマネスク様式とのことで、ずっしりとした、いかにもビルヂングという雰囲気の建物と内部装飾だった。双方、高層ビルに生まれかわるのだが、前者には同規模のコンサートホール、後者には旧ビルの煉瓦や石材をそのまま使ったエントランスホールができるという。とはいうものの、なあ……
現存する工廠の建物は、これと守衛詰め所のみらしい。
右。正面遠くのビル群が、大阪ビジネスパークです。
左は戦前、大阪砲兵工廠の化学分析場だった建物。砲兵工廠という名称は明治12年についたが、できたのは明治初年。また昭和15年からは、大阪陸軍造兵廠と名前が変わった。
現在の大阪城公園の一画、市民の森や大阪城ホール一帯を敷地としており、昭和15年の大拡張後は、いまの中央区城見の大阪ビジネスパーク、城東区森之宮の下水処理場、地下鉄車庫、公団住宅あたりまでが、そのエリアになったという。
戦車、大砲、砲弾などを製造しており、その規模は東洋一。終戦時には直接の工員が6万人を越え、下請け工場群のそれは20万人とも言われている。そして昭和20年8月14日、
終戦前日の集中爆撃で壊滅し、長らく、区画によっては20年余りも放置される都心の荒野となった。ぼくも高校生だった昭和30年代の終わり頃、環状線の車窓から、巨大な工場跡の鉄骨構造体が赤黒く錆びて立ち残っている、異様な光景を見たことがある。また終戦後から朝鮮戦争にかけてという時代には、残存設備・機械・原材料等の窃盗集団が横行した。
通称「アパッチ族」であって、それを描いたのが、開高健『日本三文オペラ』、梁石日『夜を賭けて』、そしてそのSF版が、小松左京『日本アパッチ族』なのである。
左。城のそばには、大阪府の中枢施設が集まっている。
右。土曜、半ドンの語源は、これだという説もありますね。
大阪城は、すでに「上町台地」のなかで天守閣などを紹介したので、別アングルのものを。一見、皇居のお堀端に見えるが、西外堀の追手門側から大手前方向を撮った光景。
建物は右が大阪府庁で、これも上記で紹介済み。左の手前が前回とりあげた大阪府警本部で、その向こうが前々回に紹介したNHK(右)と大阪歴史博物館(左)である。
右の写真は、大阪城天守閣の入り口に展示されている青銅砲で、正午を知らせる午砲、いわゆる「ドン」に使われたもの。陸軍が担当して、東京では明治4年に宮城(きゅうじょう)内で発射が開始され、大阪ではその前年に港に近い天保山でスタート。翌年、こちらに場所を移したそうだ。
もちろん空砲であるが、毎日一発ずつ撃つだけでもかなりの費用がいったらしく、経費節減のため、大阪は大正11年に廃止された。東京も同じ年、陸軍から東京市に移管したものの、その七年後にはサイレンに切り替えられたという。
なお、天守閣の内部は博物館になっており、秀吉ゆかりの展示物や資料が見られる。大阪の観光コースに入っているため、中国からの団体とともに、韓国からのそれもよく来ているようだ。う〜ん。秀吉は不倶戴天の敵であるはずなのだが……
役人の数がよほど多かったのかな〜などと愚考しつつ。
2008年竣工の新庁舎。下層階の灰色壁が要塞風です。
左は法円坂建物群と称される遺跡の推定復元物で、大阪歴史博物館前に建てられている。そして博物館の地下フロアには、その柱の穴位置など、発掘された遺跡が展示されている。
古墳時代の5世紀後半、難波(なにわ)の津は瀬戸内海経由で大陸や半島と結ばれ、河内や大和への中継点になる要所だった。そして案内板によれば、この上町台地には16棟以上の高床の建物が、きちんと東西方向を揃えて建てられており、各建物の床面積は90平米もあったという。
物資の倉庫、貯蔵庫であるわけだが、「巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます」とのこと。まともに勉強したことがないので愚問になるのだろうが、この時代、その大王は一般の民衆多数をどうやって実効支配していたのだろう。早い話が、「古墳を造るから働け」「嫌で〜す」と皆が散り散りに逃げたら、追いかけて捕まえる人間が同数必要となりそうに思うのだが。
右はそれより少し北の大手前にある大阪府警察本部。大阪府警の警察官は2万1千余人とのこと。こちらは逃げる人間と同数でなくても、パトカー約3百台、特殊車両約980台、ヘリコプター6機を駆使して、どんどん追えるのである。
キヨソネの肖像画では、益二郎はやけに長い頭ですな。
史跡公園、まだ大半がだだっぴろい空き地です。
この中央区の案内、北端の淀屋橋から始めて南端の千日前に至り、東に進んで日本橋あたりから再度、高津、松屋町へと北上している。だから当然、ここらあたりに谷町筋や上町筋も入れるべきなのだが、その要所はすでに「上町台地」のなかで紹介したので、パスして先に進むことにする。
左の巨大な石碑は大村益次郎殉難碑で、法円坂の、国立病院機構大阪医療センター(旧称国立大阪病院)角に立っている。長州出身で前名が村田蔵六。適塾に学んで塾頭も勤めた医師であり、宇和島藩で洋学を教えた学者であり、長州征伐に来た幕府軍や上野の彰義隊を打ち破った軍略家であり、明治新政府の軍制確立にも関与した。しかし明治二年に京都で暗殺されたのに、なぜここに碑が建っているのか。
当時、ここには医学校の病院があり、益次郎は京で仮治療後、淀川を船で運ばれてきて入院したのち死亡したからだ。ただしその病院は数年後に廃止となり、この場所は歩兵第八連隊の駐屯地になった。右の写真は、その東向かいにある難波宮跡公園から大手前方向を撮ったもので、左がNHK大阪放送局、右が大阪歴史博物館。前期および後期に別れる難波宮は、
孝徳・天武・聖武、三人の天皇が住んだ宮殿で、広大な史跡公園ばかりか、NHK側もその区域に入っていたそうだ。
プラモデル問屋は小売りしてくれなかった(私の経験談)。
右。提灯の位置で、社の先の急坂ぶりがわかります。
松屋町は問屋街で、通称「まっちゃまち」。季節の人形を筆頭に、鯉のぼり、花火、おもちゃ、プラモデル、菓子、玩菓、子供用乗り物、紙製品、袋物、造花装飾、祭礼用品など、店々は多岐に渡っている。思い出した。大学のクラブの先輩女性にこの町の人がおり、家は確か袋物の問屋だと聞いたのだ。
季節人形はもちろん小売りもするが、駄菓子やパーティーグッズなど細かい商品を嫌がらず売ってくれる店もあるので、ときどき町内の子供会役員といった様子の主婦たちが、あれこれまとめ買いに来ている。また、戦前から戦後にかけて、駄菓子屋で売ったり貸本屋に出ていたりした粗末な紙質の漫画本なども、この界隈に版元が多かったという。
その松屋町から少し北東にあがると、安堂寺町の小さな坂道の上に、由緒ありげな社があった。説明板によると、榎木(えのき)大明神と称される神様で、社の背後の榎(正確にはエンジュ)は、楠正成が植えたと伝えられているそうだ。ほんまかいなと言いたくなるが、樹齢六百数十年であることは確かとのこと。町中にこういう社が残っていると、何となくほっとしますね。
そう広くはない境内、抽選の日には満杯になったはず。
高倉、産湯、土佐…。市内には著名な稲荷も多いのだ。
高津(こうづ)神社は、「一番の御富(おんとみ)は、子の千三百六十五ば〜ん!」で知られた上方落語、「高津の富」の舞台。仁徳天皇を主祭神とし、貞観八年(866)に創建と伝えられるが、その場所は仁徳帝ゆかりの地である難波宮あたりだった。それを秀吉が大坂築城のあと、現在地に移したのだという。
以来、小高い丘で見晴らしも良いため、町の人々に親しまれてきたそうだ。だから、「崇徳院」という落語に出てくる若旦那とお嬢さんは、この境内の茶店で出会う設定になっている。
そうかと思うと、斜面の坂のひとつに、下りて折れてを繰り返す石段があり、それがちょうど「三下り半」なので縁切り坂と呼ばれて、悪縁を絶つ願かけに使われてきたという。
境内には五代目・桂文枝師匠の記念碑が立てられており、碑文は桂春団治師の筆。同じ境内にあるのが高倉稲荷で、これもまた上方落語「高倉狐」の舞台になっている。昭和の終わり頃に廃業したそうだが、すぐ近くには秀吉時代からという「いもりの黒焼き屋」があったそうで、その店は「親子茶屋」という噺に出てくる。絵馬堂には坂田籐十郎襲名記念の奉納額も掲げられているし、上方芸能に縁の深い嬉しい神社なのである。
石碑によれば、道頓は従五位を追贈されている。
当時はこの光景も、経済成長のシンボルだったのか?
道頓堀は、木津川の大阪湾に近い場所と、その木津川の上流部分である土佐堀川から南へ掘られた東横堀川の南端とを、東西方向に結んだ堀で全長約3q。安井道頓という人物が提言して掘らせたので、その名前がつけられた。
ただし御当人はその途中、大坂夏の陣で豊臣方に付いて戦死したので、元和元年11月に完成させたのは従兄弟の安井道卜とのこと。SF映画のモノリスかと思うような石碑は、その二人の顕彰碑で日本橋にあり、大正時代に立てられた。
右は現在の東横堀川であるが、そもそもは秀吉の命で造られた大坂城西側の堀で、これが大阪市内で最古の堀だったそうだ。市内には西横堀川という堀川もあったのだが、高度成長期に埋められてしまった。こちらの東横堀川は残ったものの、上を同じ高度成長期に造られた阪神高速が通っているので薄暗く、水も淀んでいて、陰気で重い光景が2q半つづいている。
上方落語の「饅頭こわい」には、この東横堀川が出てきて、夢のなかで身投げ志願の怪しい女を川に投げ込もうとする男が、「音に名高い東横堀川、末期の水は食らい次第じゃ」と叫ぶ場面がある。いま、この景観、この川面でそれを言われたら、女も自殺を思いとどまるのではなかろうか。
左。この不動さんが有名だが、本尊は阿弥陀さんの由。
右。昔、タンカ売の店もあって、名人芸が聞けた街。
千日前は道頓堀の南側から難波に至る一画。江戸初期からそこにある法善寺が、千日念仏を挙行したので千日寺と呼ばれだし、その前だから千日前になったとのこと。ただし明治以前は繁華街ではなく、墓地、火葬場、刑場のある場所だった。
法善寺は「水かけ不動さん」と「法善寺横丁」で有名。長年、水をかけられてきた不動さん、全身苔蒸して緑色になっている。法善寺横丁は狭い路地がつらなる飲食店街で、戦前には寄席もあった。織田作之助の小説「夫婦善哉」はこの横丁も舞台になり、往年の映画では森繁久弥と淡島千景が名演した。
千日前は、江戸時代に見せ物小屋などはあったそうだが、墓地が移転した明治以降、次第に繁華街となり、大正初期に「楽天地」という、映画、芝居、ローラースケート場、水族館などを擁する、いまでいう総合レジャービルができて人気を高めた。
戦後も映画館や劇場が建ちならび、「アルサロ」発祥の地としても名を馳せたのだが、昭和47年、「千日デパート」火災が起きた場所でもある。118名という死者数は、江戸時代の刑場で処刑された者の人数と同じなのだと、当時、真偽不明のうわさが広まった。現在そこは、ビックカメラのビルになっている。
角座は、月末夜の落語会によく行ったっけなあ。
五座とは、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座をいう。
左は道頓堀のメインストリート。蟹の看板の左手側に道頓堀川をまたいで戎橋がかかっており、そのたもとの名物グリコの看板は、「ミナミ〜新世界〜天王寺」のなかで紹介済みである。
ここは江戸初期から、歌舞伎や人形浄瑠璃の興行街で、「五座の櫓」は、五つの小屋の櫓が並ぶ華やかな光景を表す言葉。
当方の中学〜高校時代、土曜の午後に「道頓堀アワー」というテレビ番組があり、角座から漫才や落語、中座から松竹新喜劇を中継していた。ダイラケ、かしまし娘、六代目松鶴、渋谷天外、藤山寛美。そこに別の局が梅田や難波の花月劇場から吉本の漫才や新喜劇を放送していたから、当時の大阪の「いちびり」連中、毎週、勉強につぐ勉強をさせてもらえていたのだ。
しかしその角座も中座もすでになく、他の三座もとうに消滅している。右は大阪松竹座で大正12年の竣工。戦前は映画や大阪松竹歌劇団の公演で客を集め、戦後は長らく洋画のロードショー館となっていた。平成9年に、竣工時の外観をそのまま残して大型ビル化し、以来、歌舞伎、松竹新喜劇、日本歌劇団の公演の場となっている。すぐ近くの千日前が吉本の本拠地なら、道頓堀は大阪松竹の牙城なのである。
左。シャネルがあるビルの鏡ガラスに、ルイビトンが映っていた。
右。アメリカ村。三角の土地だから、通称三角公園。
大丸百貨店がある区画は町名も心斎橋筋だが、御堂筋を北へ少し戻れば南船場、西に渡れば西心斎橋というそれになる。
それぞれ割りに新しい町名で、以前は鰻谷(うなぎだに)とか塩町とか炭屋町とか、細かく別れていた。そして現在、南船場から心斎橋筋にかけては、御堂筋両側のビルの一階に外国ブランド品のブティックが連なっている。ルイビトン、カルチェ、オメガ、スワロフスキー、モンブラン、ダンヒル、シャネル……
御堂筋はオフィス街だと思っている当方、どうも違和感が去らないのだが、いまやこの近辺に店を出すのが、業界のステータスになっているらしい。一方、西心斎橋の通称「アメリカ村」は、若者向けのファッション、音楽、飲食店などが密集するエリア。
1969年に日限(ひぎり)萬里子という空間プロデューサーが、倉庫街だったここに喫茶店を出した。それが評判になり、倉庫改装のブティックなどが増えたのだという。だが近年は客層が低年齢化し、大麻や薬物を密売する外国人も現れたりして問題になった。だから現在、新宿の歌舞伎町より多い台数の、防犯カメラが設置されているそうだ。三角公園横には、昔、カントリー風のいい喫茶店があったのだがなあ。
そごう心斎橋店がなくなり、大丸の北館になっている。
「まめだ」は、作・三田純市で、米朝師匠が口演。
心斎橋筋には、八代将軍吉宗の時代、すでに各種小売り店が集まっていたそうだ。そのなかの一店、享保11年(1726)に京都から出店した呉服の松屋が、現在の大丸百貨店。
新町(花街)から道頓堀(芝居町)への、通り道でもあったから人の往来が多く、幕末頃には夜店なども戎橋あたりにまで連なったという。戦前は「東京の銀座、大阪の心斎橋」と対比されたほど賑わい、昭和8年から戦争中まで、人気俳優・長谷川一夫が出した「蝶屋」というフルーツパーラーもあったとのこと。
しかし現在、並ぶ店々はチケットショップ、ディスカウントストア、キャラクターショップなど、新しい店が目立ち、呉服や昆布や履き物といった老舗は小さく(?)なっている。
その心斎橋筋を道頓堀の手前まで南下して右に曲がると、御堂筋に面してあるのが三津寺。真言宗の準別格本山だそうで、聖武天皇時代、行基が創建したと伝えられている。現存の本堂は江戸の文化年間に建てられ、写真の庫裡は昭和8年に大林組が建てたそうだ。上方落語の準古典ともなっている新作、
『まめだ』の舞台となっているが、「みってらすじ」と言えばバーやクラブがひしめく地帯の通称ともなっているのである。
左。「素人おことわり」と表示している店が多い。
右。書籍 音楽 大阪開成館 三木佐助、と彫ってある。
中央大通りと一体化している船場(せんば)センタービルは、10号館まであって、上を阪神高速道路、地下深くを地下鉄中央線が走っている。全長930メートルという、日本一長いビルだそうだ。船場は昔からの大阪の、商売の中心エリアをさす呼称。
この本町界隈には繊維関係の商社や卸店が非常に多く、センタービル内にも数多くの会社や店舗が入っている。近くには丼池(どぶいけ)と通称される区域があり、そこにも繊維服飾の会社や店が並ぶ。当方の若い時代には、仕入れた品を大きな風呂敷包みにして背負って歩く、和服姿の商人を間々見かけた。往年には北陸や山陰からの仕入れ客も多かったという。
大通りもビルもEXPO70の年に開業。当時の密集した町並みで、土地買収や立ち退き交渉が、よくまあ成立したことだ。
右は少し南の北久宝寺町にある三木楽器本社ビルの表示板。店舗や音楽センターを多く持つ同社は、江戸後期、文政時代に書店を始め、明治以降は楽器や楽譜も扱いだした。
大正時代にはスタインウエイ社の日本総代理店になったり、「コール・ユーブンゲン」の翻訳出版権を得たりしている。
当時の社名は、大阪開成館三木佐助商店。ビルは四階建てで大正13年の完工だそうである。
左。北御堂。津村は、秀吉時代の地名とのこと。
右。伊藤忠大阪本社。この左隣りに南御堂がある。
本町にあるのが西本願寺の津村別院で、通称「北御堂」。少し南の久太郎町にあるのが、東本願寺の難波別院で、通称「南御堂」。そこでその前の道に御堂筋と名がついた。しかし別院と呼ばれているが、実はこちらが京都の両本願寺の元なのだ。
その来歴を詳説するには、信長と石山本願寺の戦いから話を始める必要がある。そんなスペースはないので割愛するが、
とにかく秀吉の時代以来このあたりが大坂の町の中心で、信心深い商人たちは、「御堂さん」の鐘の音が聞こえる場所で店を出すことを目標にして働いたという。近江出身の人も多く、江戸時代や明治以降もその傾向はつづいた。
幕末に布の行商から始めた伊藤忠兵衛もその一人。総合商社「伊藤忠」の創業者であり、同じく「丸紅」の祖でもある。二代目伊藤忠兵衛さんのお辞儀は実に丁寧で美しかったと、ある船場(せんば)商人の回顧談を読んだことがある。以前、北御堂の早朝勤行会を取材させてもらったとき、参加者のお爺さんの、「そうでごあすな」という古い船場言葉を聞いて感激したこともある。中央区になる以前は、東区○○町という地名で信用してもらうべく、区内に本社を置く中小企業が多かったそうだ。
それだけの歴史と品位を持っていた区域なのである。
大阪では、「筋」は南北、「通り」は東西の道路です。
左。戦争中は外壁をコールタールで迷彩塗装したとのこと。
中央区内には、「縦」つまり南北に伸びる幹線道路をはさんで、「横」すなわち東西に長い町が多い。だから、以前「ミナミ・新世界・天王寺」の項目内で「縦」に紹介した御堂筋も、ここでは随時、「横」の断面として扱っていくことになる。
平野町(ひらのまち)の御堂筋沿いにあるガスビルは、昭和8年に竣工し、現在も大阪ガスの本社が入っている。伊勢田史郎氏の「船場物語」には、「近代式一大建築物で、車馬絡繹たる御堂筋の大道路を前にし、白亜粉壁巍然として蒼穹に聳ゆる」云々と、「瓦斯ビル」竣工当時の紹介文が引用されている。
商品陳列場、料理教室用の設備、8階の食堂などは現在もあり、特に食堂は戦前の雰囲気を残しているという。
そのすぐ斜め裏手の淡路町(あわじまち)にあるのが、秀吉の時代に遷座してきたという御霊(ごりょう)神社。明治大正時代には、境内に文楽の劇場や錦影絵の小屋があり、周囲に商店も多く、夜店も出て、市内五大商店街のひとつだったそうだ。
いまもその名残りで、ビル街なのに、東西方向の道路には商店がいくつか並んでいる。なお、小松左京さんが西区京町堀の生まれなので、この御霊神社へ宮参りに来たとのことである。
これも難読地名。道修町は、「どしょうまち」と読みます。
神農さんは、香具師(テキ屋)が崇める神でもある。
道修町は薬の街。徳川吉宗の時代に「薬種中買仲間」が幕府に公認され、和漢の薬種を全国流通させる中心地となった。
だから現在もここにはタケダの本社をはじめ、製薬会社や漢方薬店が数多く見られる。その一画にあるのが、少彦名命(スクナヒコナノミコト=日本の医薬の神)と、神農(中国の医薬の神)を祀った少彦名神社。十代将軍家治の時代、上記の中買仲間がその寄合所に祀ったのが始まりという。
虎がいるのは、別に今年が寅年だからではない。江戸末期に大阪でコレラが流行したとき、虎の骨粉を混ぜた薬を配り、お守りに張子の虎を授与して以来の伝統なのだそうだ。
そして右は、まさにその薬種問屋の店構えがそのまま残った旧・小西儀助商店。接着剤「ボンド」で有名な現在のコニシ株式会社であるが、明治初期からの老舗で、薬種から食品、ウイスキーなども扱っていた。サントリー創業者の鳥井信治郎が丁稚奉公した店でもあり、『やってみなはれ みとくんなはれ』(山口瞳、開高健)には、その時代の界隈の様子も書かれている。
この店舗兼住宅は明治36年に竣工し、現在も系列会社が使っていて、国の重要文化財にもなっている。敷地三百十五坪。広い主屋と複数の蔵を持つ、堂々たる「船場の大店」である。
左。背後の建物は昭和10年竣工。市場館と呼ばれた。
右。橋自体は、高速道路の下で景観が悪いので……
株の街といえば東京が兜町で大阪は北浜だが、上場企業数も出来高も段違いで前者が大。往年の漫画トリオは「横山ノック・フック・パンチ」だったが、結成時の候補案には「北浜たかし・やすし・かわらじ」というのもあったという。この名前でリーダーが議員になっていたら、街の知名度も上がっていただろうが。
ただし歴史は古く、大阪証券取引所の前身、大阪株式取引所ができたのは明治11年。設立に関与したのが五代友厚で、元薩摩藩士にして明治2年まで新政府の役人。大阪に赴任して造幣寮も誘致。実業家となり、大阪の産業振興に尽力した。
だから写真の取引所前とともに、本町橋の大阪商工会議所横にも銅像が立てられている。ぼくは藩閥や政商という負のイメージで記憶していたのだが、正の功績も大きいのだ。
右はそのすぐ近く、東横堀川にかかる高麗(こうらい)橋のたもとに立てられた里程元標跡の碑。秀吉の大坂城築城時から江戸時代を通して、ここは京大坂と西国とを結ぶ交通の要所になっていたそうだ。よって明治時代には、ここを起点に西日本の主要道路の距離測定が行われたという。現在の大阪市「道路元標」は国道1号〜2号線と梅田新道との交差点にある。
左。物干し台自体は復元製かもしれませんが。
右。子供たちの様子を、見学させてほしいなあ……
淀屋橋南東すぐの今橋三丁目には、戦中末期の空襲から奇跡的に焼け残った木造史蹟が、二つ残っている。ひとつは蘭学者で医師だった緒方洪庵の「適塾」で、塾生たちの猛勉強ぶりは、福沢諭吉の『福翁自伝』に詳しい。横の小公園に洪庵の座像があり、左はそれを入れて適塾の裏手を撮ったもの。
表側の写真ではなくこの光景を選んだのは、暑い夏の夜、物干し台で塾生がすっぱだかで涼み、下から呼ばれてそのまま降りたら洪庵先生の奥様と鉢合わせという、大慌ての笑話が福翁自伝に載っているからである。
歴代塾生、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎と多彩だが、手塚良仙という人もいて、手塚治虫さんの曾祖父だそうだ。
もうひとつの史蹟は、適塾のすぐ南側にある立派な御殿風の建物で、何とこれが幼稚園舎である。明治13年に町の有志が創立した園で、その後大阪市立となり、当時の保育思想を基礎にしたこの木造園舎は明治34年(1901)に竣工した。
しかも驚嘆の念を抱くのは、戦時中の強制解体の危機を乗り越え、日本最古の木造幼稚園舎として国の重要文化財にもなっているここが、いまもまさに大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園として機能していることなのだ。関係各位に敬意を表します。
平成元年、東区と南区が合併して中央区となった。
右、川沿いの蔵屋敷に米を運び込んでる絵かな。
今回からは中央区。地理的にも歴史的にも、大阪市の中心をなすエリアである。まず紹介するのは淀屋橋界隈、住友関係のビルが十数棟並ぶ、通称「住友村」。
写真の三井住友銀行大阪本店は、大正末から昭和初期にかけて完成したビルで、住友財閥の持ち株会社「住友本社」が入っていた。終戦後はGHQの軍司令部としても使われた。
住友の歴史を調べ出すと際限がなくなるが、上方落語では金持ちの代表として、「鴻池さん」とともに「住友さん」でお馴染み。財をなした根幹は「銅」の採掘や精錬で、特に別子銅山は元禄初期から昭和48年まで掘られつづけたという。
だから戦前の住友財閥、金属、鉱業、化学関係の会社が主になっていたのだ。スミキン、スミカという略称は、関西ではよく知られている。バブル時代には、家訓に反して「浮利」を追った銀行と不動産も、別の意味で住友の名を高めたものだが。
右は淀屋橋の近くにある、「淀屋」記念碑の絵図部分。江戸時代初期からの豪商で、主として米の流通で財をなしたが、五代当主のとき幕府から闕所と財産没収処分を受けた。贅沢が過ぎるという名目だが、実は「大名貸し」の債権が莫大になったので、それをチャラにするためという説がある。
上方落語「雁風呂」は、その淀屋辰五郎の事件もからむ、しんみりとした、いい噺である。