大阪ランダム案内。上町台地、福島区

福島区は、バラエティに富んだ区だ。
左、郊外を感じる光景。右、古くからの長屋街。
福島区の面積は、他区と比較すれば狭いほうである。だが、歴史や施設、景観などは多彩で、織田信長時代からの由緒を持つ寺があるかと思うと、ビルの並ぶビジネス街もある。
中央卸売市場があれば、ショッピングセンターもあり、下町風の商店街もある。区内随所に長屋式の古い民家が残っており、同時に大型マンションや高層団地もめだつ。さらに、大開、海老江、鷺洲のあたりには工場地帯もある。紙器、機械、印刷、製薬等々。大企業の工場や研究所から、町工場クラスのそれまでを見ることができるのだ。
また今回歩いた大開の一画には、大きなホームセンターもある。実はこのホームセンター、ぼくは以前から何度か利用しているのだが、広い駐車場の横手は何かの工事中で土ぼこりが舞っており、そのむこうに大型団地が見えることもあって、「郊外」を感じさせられていた。ビル街や住宅街と比べて視界が広く、夕方に行くと西の空が赤く染まっていたりするので、なおさらそう感じていたのだ。そして今度行ってみると、工事現場にコンクリートの橋脚が出現していた。阪神高速淀川左岸線を建設していたのだ。
というわけで、多彩と変化の福島区は今回で終了。次回からは、となりの此花区を歩きます。
昼間は閑散。大阪市中央卸売市場
左、この車の名前は?  右、彼方にそびえるビルは?
ずっと以前、大阪市中央卸売市場の鮮魚ブロックを、取材させてもらったことがある。午前三時に行ったのだが、そのときには現場はすでに戦場状態。続々と入ってくるトラックから、大量の魚介類が下ろされ、積み上げられ、活気にあふれていた。そのとき聞いた話では、鮮魚は全国から運ばれてくるわけで、北海道や九州のトラックは、舞鶴とか和歌山までフェリーで来て、そこから陸路大阪をめざすとのことだった。
冷凍魚となると世界中からで、ときどき、日本語名がまだついてない魚が入ってくるという話が、おもしろかった。
そしてそれら大量の商品は、卸(おろし)から仲卸(なかおろし)を経て小売店に売られていく。なにしろ早朝の仕事であって、当方、もっか朝のラジオ番組のため午前四時過ぎにタクシーで家を出ているのだが、ときどき仕入れに向かうらしい鮮魚店の軽四輪と併走することがある。今回、ぶらついたのは昼前で、そのときには中央市場とその周辺は、しんと静まりかえっているのである。
なお、写真に撮った中央市場名物(?)のバッテリーカーは、ターレットと称する。本来の意味は「戦車や軍艦の砲塔」だから、運転席前の円筒形状によって、そう呼ばれることになったのだろう。また、右の写真、彼方にそびえるビルは、この市場の業務管理棟。業務管理のために、これだけのビルが必要だというところから、取引規模の大きさを御想像あれ。
おや。こんなところに、遊歩道が……
左、北へ向かっての道。右、ふりむけば、まだ未活用。
福島区野田。中央市場近くの某地点に、車が走る道路に対してほぼ直角に、ごく狭い道幅で北方向にのびる遊歩道があった。いきなり始まるコースという感じなので、怪訝に思ってふりむくと、車道の向こう側には同じ幅の細長い空き地があり、彼方には中央市場の建物が見えている。
「ははあ、そうか。これはあそこへ貨物を運んだ、昔の引き込み線の跡地なんだな」  興味を覚え、カーブしつつのびる遊歩道を歩いてみると、住宅街を縫ったのち、環状線野田駅のそばに出た。つまり往年の中央市場への商品は、梅田の貨物駅から福島、野田を経由し、家並みのすきまをぬけて搬入されていたのだ。まさに「すきま」であって、広軌の列車なら通れないような箇所もあった。
この市場(大阪市中央卸売市場)が開場したのは昭和六年だから、そこを蒸気機関車が、煙と蒸気を吐きながら通っていたのだ。いまなら環境問題になるところだが、当時はそれも、「活気」の証拠として受けとめられていたのかもしれない。地元の高齢者から、こんな話を聞いたこともあるからだ。
「そらもう、貨物列車は一晩中通ってる感じがしましたな。船も入るし、とにかく賑やかやった。近所のうどん屋とか雑貨屋も、夜通し商売してましたからな」
角を曲がれば、タイムカプセルがひらく。
左、極楽寺。同じ並びのすぐそばには、右の戎神社も。
福島区玉川、特にその新なにわ筋の西側区域を歩くと、寺や神社がよく目につく。町並みは静かで、古い民家やお屋敷もある。ぼくは最初、このあたりの歴史を知らなかったので、「何でまた、こんなところに?」と不思議に思っていたのだ。
ところが何度か歩くうちに、地下鉄玉川駅の近くで「野田城址」という石碑を見つけ、由緒ありげな寺(写真に示した極楽寺)にも、同様の碑があることを発見した。そこで調べてみると、何と時代は享禄4年、1531年にまでさかのぼる。
野田城はそのころに築かれ、のちには三好一党がたてこもって織田信長の軍と戦ったという。信長が石山本願寺を攻めたときの話であって、以後、野田城は織田軍側のひとつの拠点になったという。また、それより四十年あまり前の天文2年には、本願寺第十世の証如上人がこの地を訪れて敵襲を受け、信者が上人を守って逃すべく戦って、二十一人の犠牲者を出した。極楽寺には、その菩提をとむらうため、上人の真筆が贈られたというのである。
戦国時代以降、野田城は姿を消したらしいが、こういう記録にふれると、大阪の歴史の厚さに驚嘆する。いわばあちこちの町に、タイムカプセルが埋められているようなものなのだ。
商店街があり、吉本新喜劇風の高架下もある。
左、新橋筋商店街。右、環状線野田駅あたり。
長年阪神電車を利用しているので、高架の野田駅から見渡すと、交差する道路のむこうに、新橋筋という商店街の入り口が見えることは知っていた。しかし、学生時代もサラリーマン時代も、そこに入ったことはなかった。
というのが、この商店街は阪神側もJR環状線側も、入り口あたりがかなり狭い。だから店の並びも短く終わる、市場のようなところだろうと思っていた。足を踏み入れたのは、作家になってのち「蚊取り線香の研究」ということを始め、各地の商店街をまわって、薬局の店頭調査をしたときなのである。
そしていざ入ってみると、途中から道幅が広くなって意外に長く、食料品や衣料品をはじめ、いろんな店が揃っている。近年は百円ショップや、焼きたてパンの店もできている。だから現在はときどき、西区にある仕事場から地下鉄千日前線で玉川まで来て、ここを利用している。JR側から阪神側へと商店街を歩き、野田阪神のジャスコにも寄れば、まあ、大抵のものは揃うのだ。またJR野田駅高架下あたり、夕方から夜にかけての、庶民的な飲食店街の雰囲気も好きだ。
一杯飲み屋はもちろん、韓国料理、沖縄料理の店もあって、吉本新喜劇の舞台に出てきそうな雰囲気なのだ。
ここは、ハンシンノダではなく、ノダハンシンなノダ。
左、駅前ロータリー。右、阪神電鉄の本社ビル。
同じ夢を何度も見るということがある。その一例が電車の夢で、旧式で焦げ茶色の小型電車に乗っている。そしてそれが駅に着くと、その横手に別の駅があり、そこからさらに小型の電車に乗り替えて、どこかへ向かうのだ。
ところが、学生時代以来見つづけているその夢の、もとになっている場所がわからない。阪急と阪神が接続していた往年の今津駅。上甲子園から浜甲子園まで路面電車が走っていた、昔日の阪神甲子園駅。野田から天神橋筋六丁目まで、これまた路面電車が運行されていた時代の阪神野田駅。これら候補のなかでは、昔、親戚が阪神に勤めて配属されていた野田駅が、一番可能性が高いと感じる。写真は現在の野田駅の高架ホームから撮ったものだが、当時、そこはまだ地上駅だったと覚えているからだ。けれども夢のもとは、幼児期にどこかで接した、もっと古い光景かもしれないのだ。
それはともかく、この野田駅前はずっと以前から、阪神野田ではなく野田阪神と呼ばれてきた。現在でもバス停は野田阪神前だし、地下鉄千日前線の終点駅名も野田阪神なのだ。多分、都島区の東野田と区別するため、プラス、呼びやすさや語呂のよさでそうなったのだろう。大阪市内の、好きな呼称のひとつである。
厚年病院・野球・事故。まるで三題噺やがな。
左、大阪厚生年金病院。右、となりの公園の野球場。
サラリーマン時代、会社の車で御堂筋を走っていて、追突されたことがある。先輩社員が運転し、ぼくは助手席。赤信号にかかって、どちらの車もスピードを落としたときだったが、それでもドンという衝撃があった。示談ですますことになり、車の修理代は相手持ち。そしてわれわれ二人は、これまた費用むこう持ちで、むち打ち症の検査をすることになった。
そのとき指定されたのが大阪厚生年金病院で、あとにもさきにも、厚年病院内に入ったのはこのときだけである。幸い特に異常はないということだったが、神経過敏なぼく、それからしばらくは頭にもやのかかったような、嫌な気分がつづいたものである。なお、この病院のとなりは下福島公園で、グラウンドやプール、子供むけの遊具などが揃っている。
その広い敷地を一周できる遊歩道もあり、ジョギングやウオーキングをする人たちとともに、パジャマ姿で散歩したり、車椅子を押してもらっている患者さんの姿も見られる。休日には素人チームが野球をしており、そのユニフォーム姿を見ると、ぼくは三十何年も前の事故を思い出して苦笑する。追突してきたのは、某スポーツ用品会社の車だったのだ。
いまは、「ときどき開かず」の踏み切り
左、通過する関空特急。右、そこを渡って、梅田を望見。
阪神電車が、福島駅あたりで地上を走っていた時代、そのすぐ横にあった踏み切りは、「開かずの踏み切り」として有名だった。しかも少し北側には、環状線と並行して地上を走る、JR貨物線の踏み切りもある。その結果、朝夕のラッシュ時や支払日には、なにわ筋に車がつらなり、北行き車線など国道2号線で分断されて、さらにつづくこともあったのだ。
また、ある時代のある曜日、午後の特定時間帯には、渋滞がもっとひどくなったという伝説もある。当時、近くの朝日放送ビルで、道路に面した自動車ディーラーのショールームを会場にして、桂小米(後の枝雀)さんと吾妻ひな子さんが出演する、公開ラジオ番組が放送されていた。カーラジオでそれを聞きながら通りかかった車が、次々に速度を落として脇見したからだというのである。
阪神電車が地下路線になり、公開放送もなくなっている現在、踏み切りはJR貨物線のみだから、渋滞は格段に減っている。とはいえ、そこを関空行きの快速が通ったりするので、待たされることがないわけではない。往年、阪神福島駅のすぐ横に吉本キネマという小さな映画館があり、そのポスターをながめて電車の通過を待ったりしたものだが、こちらはボーッと立っているしかないのである。
タウンウォッチングの効用
左、福島天満宮。右、由来や火事を紹介する案内板。
明治四十二年の七月末日、北区で大火があった。
明け方、空心町から出火し、空気が乾燥していた上に強風も吹いていたため、見る見る燃え広がった。まる一日燃えつづけ、一万一千三百六十五戸が焼失。北区の区役所、堂島米穀取引所、大阪地方裁判所、北警察署、市立高等商業学校なども焼けたという。で、これを機に大阪市の消防制度が整備されていくことになるのだが、そういった史実を、ぼくは書籍で読んで知っていた。しかし、それは単に知識として覚えていただけのことであって、そこに実感がともなったのは、写真の福島天満宮で案内板を見たときだった。
上記の大火でこの神社も、社殿から何からすべて燃えてしまい、大正十年にようやく再築されたというのである。
「空心町というたら、造幣局の近所やないか。ひええっ。あんなところから燃えだした火事が、中之島や堂島を越えて、ここまで広がってきてたのか。なるほど、ものすごい大火やったんやなあ!」
地図上のではなく現実の距離感でつかめた瞬間、町並みをつつんで燃え広がる巨大な炎まで、頭にうかんできた。タウンウオッチングの効用は、こんな具合に、知識を実感で裏打ちできるところにもあるわけなのだ。
今回からは、福島区です。
左、玉江橋からの光景。右、福沢諭吉生誕地。
写真は堂島川の北側、検察庁や人事院近畿事務局が入っている合同庁舎を、玉江橋から撮ったもの。昔、ここには大阪大学医学部の付属病院があった。小学校六年の秋、ぼくはそこの外科へ、母親に連れられて診察を受けにいった。
その数ヵ月前から両足の踵が痛みだし、物にぶつかるとズーンとひびいて、夜も眠れないほどうずくようになった。近くの医院や診療所をまわってもらちがあかず、ついに権威の殿堂、阪大病院へと出かけたのだ。
古ぼけてカビ臭く、薄暗くて重苦しい建物内。患部のレントゲン写真を見ながら、英語だったのかドイツ語だったのか、専門用語で実習生たちに説明する教授の姿に、十二歳のぼく、どんな難病奇病なのかと恐れおののいたものである。
ただし診察結果は単純明快で、カルシウム不足による踵骨の発育不全。とはいえ、その影響で短足となり、それが若い時代の劣等感の原因になっていったという、複雑な後遺症も残したのであるが。なお、写真のビル手前側の区画は現在基礎工事中で、近い将来、朝日放送が移転してくるという。
さらに先には地下鉄なにわ筋線が通り、すぐ対岸に中之島新駅もできるとのことである。
右の中津藩蔵屋敷跡、つまり福沢諭吉生誕地の碑は、朝日放送建設用地の一画に建っている。
聖徳太子の建立と伝えられる、四天王寺。
この写真で、落語のネタふたつが浮かんだ人は偉い!
(新世界〜天王寺編で公開したものを、こちらに移しました)
中門や五重塔、金堂に講堂などを有する巨大な寺院。
上方落語ではおなじみの舞台で、鳥居は「天王寺参り」、五重塔は「鷺とり」に出てくる。前者は、六代目笑福亭松鶴師匠、後者は桂枝雀師匠の得意ネタとして有名だった。「鷺とり」の原典は民話の「鴨とり権兵衛」だが、落語のなかでは、空中を飛行させられた主人公、この塔の先端、「九輪」につかまって腰をぬかすのである。
それを地上で、四人の坊さんが大きな布団を広げ持って待ち受け、飛び降りさせて救おうとする。ところが、高いところからヒューッ、ズバーッだから、その衝撃で坊さんたちは、頭をガチガチガチガチーッ。「一人助かって、四人死んだ」という、実にブラックなサゲにな っている。
もちろん観客は爆笑するのだが、枝雀師匠にうかがった話では、英語落語のアメリカ公演時、このサゲには観客が拒否反応を示すだろうと、アドバイスがあった由。
そこで、ズバーッと飛び降りた主人公が、トランポリン式に跳ね返されて、またもとの九輪につかまったというサゲにし、大受けしたという。それにしてもアメリカ人、ひとこま漫画で、もっと残酷な死刑囚ギャグなどを楽しんでるのに。その拒否反応に、ぼくはいまだに合点がいかないのだ。
記憶の「あいまいさ」を思う街
左、近鉄ターミナルと百貨店。右、上六交差点。
上本町六丁目、通称「上六」は、近鉄ターミナル駅の所在地である。ただし、ぼくは子供時代は豊中にいたので、まったく縁がなかった。初めてそこから近鉄電車に乗ったのは、小学校の修学旅行で伊勢へ行ったときだったのだ。
しかしそれがどんな車輌だったのかは、覚えていない。伊勢に着いて外宮へ行くときだったか、くすんだあずき色の小型車輌に乗り替えた記憶があるのだが、これもはっきりとしない。さらには、記録によれば同じ年の九月下旬に伊勢湾台風が襲来し、近鉄は沿線各地で大被害をこうむっている。
修学旅行は秋に行ったように思っていたのだけれど、台風が来る前に行ったのか。それとも、それは記憶違いで、本当は春にすませていたのか。なにしろ、すべては昭和34年(1964)、四十一年も昔の話だから、これもまた明確ではないのだ。もっとも、赤福餅、生姜板、夫婦岩の飾り物などと、買ってきたみやげ品はちゃんと覚えているが。
なお、この上六交差点、ぼくは夏場に通りかかると、なぜかシンガポールの街を連想する。街路樹の緑が豊かだからか、あるいは近鉄百貨店のむかいにある「うえほんまちハイタウン」に似たビルを、過去の旅行時に見た記憶でもあるためか。このあたりも、やはり判然としないのだ。
さすが川柳作家、目の付け所が違いますな。
左、生国魂神社の正面。右、参道の蚤の市。
 
『川柳にみる大阪』(藤沢桓夫・橘高薫風共著、保育社カラーブックス)に、高杉鬼遊の作で、こんな句が載っている。「生玉へお参りでないふたり連れ」。読んでにやりと笑った人は、経験者か、付近の景観を知っている人。ぼくは、生国魂神社には何度も足を運んでいるので、後者である。ただし参拝のためではなく、毎年九月に開催される、「彦八まつり」をのぞきにいっている。米沢彦八は大阪落語の始祖で、境内にはその碑が建てられており、彦八まつりは上方落語協会が主催する、落語家とファンの交流イベントなのだ。
屋台がならんで、食べ物、飲み物、古道具、噺家グッズなどが売られ、奉納落語会もあるし、観客参加のゲームもある。今年は九月の三日(土)と四日(日)に開催されるそうで、楽しみにしているのだ。また、この生国魂さんの参道では、毎月八日に「蚤の市」がひらかれており、これもときどきのぞきに行く。古道具、懐かしいレコード、レトロなおもちゃ。
買い出せばきりがなさそうなので、ぐっとこらえて、小物で我慢しておくのである。なお、この神社はもとは難波宮の近くにあったが、大坂城を造るとき移されたとのこと。開運の神さまがまつられているそうだから、今度はちゃんと参拝することにしよう。

橋の下を、たくさんの水が流れた……
左、東平の一画。右、生玉寺町にて。
中央区の南東端に近い位置に、以前は東平野町と呼ばれていた一画がある。昭和十七年の地図によれば、一丁目から五丁目まですべてが天王寺区に属していた。
だが翌年四月の、大阪市二十二区制実施記念地図では、一丁目と二丁目は南区に編入されている。以来幾星霜。東平野町という町名はどの区からも消え、旧南区に入ったエリアが、中央区東平として名を残しているのみなのだ。
なぜそんなことを、ぼくが詳しく知っているのか。実は東平野町一丁目は、学生時代から愛読してきた作家、開高健氏の誕生地。その評伝を書く機会があったとき、図書館で古い地図を調べ、現地も歩いたからである。氏のエッセイ『頁の背後』では、「昭和十年頃は細民がひっそりと暮らす寺町だった」。長篇『破れた眉』によるなら、「何しろ寺ばかりの一帯だから(中略)、たまにミナミへ食事につれてもらって帰ってくると、温湯から冷水に浸かりこむようであった」という。
現在、東平一帯は民家とともに中層ビルやマンションがめだち、中寺から生玉寺町あたりも、寺々のなかに、駐車場、マンション、ラブホテルが混在している。当方、古い寺の立派な門に感心しつつ、開高さん得意の表現を思いうかべていたのだ。「橋の下を、たくさんの水が流れた……」
坂道を歩きながら考えた。「果物屋のおっちゃんが…」
左、空堀商店街。右、横手の静かな町
昭和33年(1958)の春、父親の転勤で、前任地新潟から豊中へ来た。家は市役所の近くで、少し歩くと岡町商店街がある。だが、生まれて初めて「アーケード」というものを見た小学校五年のぼく、それが商店街だとはわからず、何か怪しい施設かと思って、手前で引き返していた。
これが原体験となって、以来今日まで、京阪神一円はもちろん、旅先でも、アーケード商店街があれば入らずにはおれない。『急がば渦巻き』という長篇小説のなかでは、商店街博士とでも称すべき人物を登場させ、ウンチクを披露させたほどの商店街ファンなのだ。だから空堀商店街も、「坂道に沿っている」というロケーションが好きで、何度も歩いている。松屋町筋から谷町筋へと上がりながら、ドタバタ作家の職業病で、「果物屋のおっちゃんが、リンゴやミカンの段ボール箱を運んでて、底が抜けたら困るやろな」などと、アホなことを考えるのだ。
また、アーケード街をぬけてさらに歩く途中、何気なく横手を見ると、細い路地の先が小さな階段になっており、少し下がった位置に長屋風の建物があったりする光景も、地形と町の雰囲気をよく示していて好ましい。
「紳士服寸法直し、かけつぎ」。民家にこんな看板も出ている、静かな町なのだ。
上町とは、どんな町なのか?
左、懐かしいような低い町並み。右、ほう、こんな家も!
サラリーマン時代、大手前や法円坂、あるいは近鉄のターミナルがある上本町あたりは、仕事上の行動範囲にふくまれていたが、その中間の「上町」には無縁だった。
だから上方落語に出てくる上町にも、実感としてのイメージが描けなかった。「船弁慶」という噺では、主人公の嫁さんの伯父にあたる人が、上町で商売をしていることになっている。また「日和違い」というネタは、舞台そのものが上町であって、家で仕事をしている職人や、町内に住む八卦見が登場する。「ううむ。つまり、どんな町なんだ?」 
松屋町→おもちゃの問屋街。立売堀→機械関係。こういう明確な規定ができず、困惑していたのだ。だが、牧村史陽編『大阪ことば事典』に引用されている、『浪華百事談』(著者不明、明治時代の書)を読んで、困惑は解消された。「上町とは総称にして、区画方今、東・南の二区にわたり、南北に長く通じて繁盛なる市街は(中略)工商共ト居し、人家連なれり。されど船場よりは劣れる地なり」。
当方、「工商共ト居し」という部分に大いに納得し、「なるほど。そういう町だったのか!」と、落語にも感情移入しやすくなった。そして今回歩いた上町筋の、低い建物が目立つ光景には、懐かしいような気になっていたのである。
捕虜も解放した、大阪の兵隊。
左、大阪府庁。右、八連隊跡。
大阪城の西外濠沿い。大手前には大阪府庁や府警本部があるが、どちらの建物内にも、まだ入ったことがない。ぼくが兵庫県民だからでもあるが、この種の官公庁とは、どうも縁が薄いのである。もっとも、兵庫県庁にも県警本部にも入ったことはないから、これは市民とそのレベルの官公庁との、縁の薄さと判断すべきことなのかもしれない。
ちなみに、斜め向かいにあったNHK大阪放送局には、仕事で何度か入ったことがあるが、現在は近くに移転して高層ビルになっている。JOBKだから「ジャパン・大阪・馬場町・角」と称されていた、あの「もじり」が使えなくなったことには、つまらんなあと思うのだ。
一方、少し歩いた法円坂。難波宮跡公園の片隅には、歩兵第八連隊跡という大きな自然石の碑が置かれている。営門も何も残ってないが、以前、『泡噺とことん笑都』という大阪を舞台にした長篇を書くとき、このあたりを歩いて、「またも負けたか八連隊」のことをどう書くか考えた。そして結局、「敵と遭遇しても、無意味だと思えば攻撃さえしなかった」「大勢に影響がないときには、捕虜もどんどん解放した」などという事実を、好意的に紹介しようと決めた。そういう意味では、当方、「大阪」人なのだ。
上町台地を歩いてみる
左、大阪城天守閣。右、旧第四師団司令部。
前回まで大阪湾近辺を歩いたので、今回からは対照的に、上町台地一帯を散歩しよう。
まず何はともあれ大阪城だが、ぼくは子供のころ、あの天守閣は太閤さん以来のものだと思っていた。しかし、それは大坂夏の陣で焼け、三代将軍家光の時代に再建されたものの、次の家綱時代に落雷で焼失したという。
以来、大阪城に天守閣はなく、いまわれわれが仰いでいるそれは、昭和六年、市民の寄金によって再建された鉄筋コンクリート製なのだ。失礼ながら「な〜んや!」であって、ぼくの興味は、そのすぐ横にある旧大阪市立博物館の方に向く。なぜならこの建物、三島由紀夫が演説した東京・市ヶ谷の、陸上自衛隊東部方面総監部とそっくりだからだ。それもそのはず、こちらは戦前は陸軍第四師団(エンタツ・アチャコの漫才式に言うなら「シシダン」)の司令部。あちらは陸軍士官学校で、戦争中は大本営陸軍部として使われていたものだからだ。
「なるほど、なるほど。陸軍スタイルとでも言うべき、建築様式があったわけだな」。博物館時代、そう思いつつ内部に入れば、各階は広い廊下の左右に小部屋が並ぶ形式だった。各室の展示を見ながら、ぼくは、廊下を行き来する将校の姿も想像し、幻影を楽しんでいたのである。