大阪ランダム案内。中之島〜港区

港区のつきあたりには、海を望む新旧の建物がある。
左、海遊館。右、使われてない倉庫。
大阪湾に面した港区海岸通一には、以前、大阪市や民間会社の倉庫が立ち並んでいた。もっと前には国鉄の貨物線も通っていた。現在そこは、海遊館、ミュージアム、ホテルなどが並ぶ観光スポットになっており、作家としては、時の流れを思うわけである。
そして海遊館に入ると、さらに長い時の流れへと思考が移る。なぜならここは、まず最上階まで上がり、そこから順に下へと水槽を見ていく立体構造の水族館。中心となる巨大で深い太平洋水槽では、海の神秘を思い、過大な水圧に適応して生きている、他種類の海中生物のことを考える。するとどうしても、生命の発生へと考えが至るからである。
そして感動しつつ外に出て、湾に沿って南へ歩き、港大橋を望む海岸通二まで行くと、そこには、すでに使われていないらしい、いかにも港湾倉庫らしい煉瓦造りの建物が残っている。人の気配がなく、内部は暗くてがらんとしているそこでは、こう思う。「ここ、ハードボイルド作家なら、バイオレンスシーンの舞台にしようと思うだろうな」
しかし当方、SF作家であるから、無理難題に近いことを考える。廃墟のような煉瓦倉庫を舞台に、海の深さや水圧、生命や時間を語る小説が書けないかと、そう思うのだ。
大阪港。築港あたりと、天保山の岸壁。
左、こういう店もあるのにな。右、たたずみましたねえ。
十年以上も前の話だが、航海士出身という某作家が、随筆で大阪港の思い出をテーマにし、ひさしぶりに訪ねて、昔よく通った船員バーに入ったところ、うさんくさそうな眼で見られたと書いていた。もはや自分から、「海の匂い」は消えたらしいと。ところが、これまた元船員の知人にその話をすると、こんなこたえが返ってきた。
「それ、いつの話だよ。大阪港近辺のそんなバー、とっくの昔に無くなってるぜ」
ましてや現在、築港のあたりを歩いてみても、その種の雰囲気はほとんどない。南港や北港もふくめてだろうが、統計上、大阪港はいまも日本有数の輸出入港である。そして写真の店(勝手に撮ってすみません!)は、外国人むけの看板と品揃えに思えるから、国外の船員も上陸はしているのだろう。なのに神戸と違って、いつ行っても、それらしき人の姿を見かけないのは、なぜだ? 
もう一枚の写真は、天保山の岸壁から撮ったもの。二十代前半の広告マン時代、同じ場所に立って海を眺め、自分の将来を考えていたことがある。となりに女性でもいればロマンチックなのだが、それどころではなかった。際限のない仕事と安月給に、「この先、おれはどうなるのか」と、底深い不安にかられていたのだ。
嬉しい感覚、ムカつく記憶
左、地下鉄中央線。右、旧見本市会場跡。
大阪市営地下鉄の中央線には、近鉄の車輌も走っている。その近鉄は、阪神電車の西大阪線が難波まで延伸されたら、奈良と三宮を相互に直通運転することになるともいう。ぼく、こういう「乗り入れ」感覚が昔から好きで、三十年ほど前に書いたデビュー作品『決戦・日本シリーズ!』にも、それを使っている。阪神タイガースと阪急ブレーブスが日本一を争い、勝った方の電車が負けた方の路線を、凱旋走行するという架空小説だったのだ。
今年からの交流試合で、タイガース対オリックス(旧ブレーブス)の対決は実現したが、仮に日本一を争うことになっても、もはやパレード走行はありえない。残念!
ところで、中央線の朝潮橋で下りると、駅前には緑豊かで広大な八幡屋公園があり、大阪プールや大阪市中央体育館の建物もそびえている。
広告代理店に勤めていた昭和四十年代の後半、ここは巨大な建物が並ぶ見本市会場だった。開催日が近づくと、建て込みや展示品の搬入で、さながら戦場状態。開催の前夜、必死の徹夜作業ともなると、クライアントの担当者がヒステリーを起こしてどなりだす。御無理ごもっともで謝りつつ、若き日のぼく、内心でどなり返していたのだ。
「そっちの意思決定が遅いから、こうなるんじゃ。ボケ!」
どちらにも、親しみを覚えていた
左、市岡商業高校。右、弁天埠頭の関西汽船。
某日、生放送終了後、局の周辺をぶらついてみたら、すぐ裏手に市岡商業があり、思わず「ああ。ここかあ!」と声をあげていた。中学時代からの演芸ファンである当方、故桂春蝶、レッツゴー正児、桂三枝の各氏がここの卒業者だと知っており、校名に親しみを覚えていたからである。
各氏の立志伝は、『少年の日を越えて』(古川嘉一郎著。大阪書籍)に詳しい。ちなみに、ぼくの若い時代には、京都産大出身の演芸人やタレントが続出し、いまは大阪芸大OBが幅をきかせているらしく思われる。こういう分野にも、時代の変遷が感じられるようで、興味深いのだ。
少し歩いた弁天埠頭には関西汽船の営業所があり、上記のレッツゴー正児氏は、卒業後この会社に勤務していたとのこと。ただし配属先は天保山だったそうで、その時代の人命救助談や武勇伝は、御本人の自伝『三角あたまのにぎりめし』(ワセダ企画)で読むことができる。
文中、「関西汽船は全国規模の大きな会社だと思っていた」という意味の記述があるが、じつはぼくもそう思っていた。なにしろ、高校の修学旅行で九州へ行った帰路、別府から神戸まで、この会社の客船に乗せてもらってきたのだから。「それ、会社規模と関係おますか?」 
そらまあそうやけどもさ。
港区。環状線・弁天町の西側と東側。
左、オーク200。右、交通科学博物館。
もっか、ラジオ大阪で月曜から金曜まで、早朝番組『むさし・ふみ子の、朝はミラクル!』をやらせてもらっている。同局とは、北区桜橋の豆粒ビル時代からのおつきあい。このオーク200内に移ってのち、オフィス環境やスタジオの印象は随分変わったが、局内の空気はあいかわらず気さくで、「おさまり返って」ないのが嬉しい。小松左京さんに、「OBCは、ぼくにって母校みたいな放送局」という言葉があるが、当方にとってもそうなのだ。なお、左手の高層棟は三井アーバンホテル。早朝出演のため、ときどき大物タレントが泊まっているらしい。
JR環状線の東側にあるのは、交通科学博物館。日本最古の蒸気機関車「義経号」の実物から、最新のリニアモーター車の原寸大モデルまで、各種車輌が展示されている。右の写真は、汽車製造合資会社がつくった230型。もちろん、展示ばかりではなく、パノラマ模型やシミュレーターもあるから、乗り物好きの子供を連れて行けば、眼を輝かせて走りまわるだろう。なお、この博物館には鉄道関係ばかりではなく、海運や空輸関係の展示もあり、古今の飛行機の模型、旧型機の実物、さらには世界初のロケット戦闘機、メッサーシュミットMe163の実物エンジンも展示されている。その意外な小ささに、ぼくは十分間ほど、横から眺め、斜めから見つめを繰り返したのだ。
中之島を歩く・その10
これが中之島の最西端です。
左の写真、手前で湾曲しているコンクリート部分が、中之島の最西端。ここで、堂島川と土佐堀川がふたたび合流し、安治川となって大阪湾に至るのである。
そのむこうに見えているビルは、安治川左岸の住友倉庫。このあたり、すでに港湾地帯で、この並びには大きな倉庫や運輸会社が目立つのだ。
右の写真は、安治川右岸にある大阪中央卸売市場。ここには若い時代、新聞のルポで取材に行ったことがあり、払暁3時、4時という時間帯の「戦場」ぶりに、感動させられた。だから、この中央市場については、また別の回に紹介しよう。というわけで、「中之島を歩く」は、これで終了。
次は5月8日の日曜、または9日の月曜から、港区シリーズを始めます。何でそう、細かく日付を予告するのか?
実はありがたいことに、そのシリーズから、産経新聞大阪本社版、土曜日の夕刊に、まず掲載してもらえることになった。その初回が、7日なのだ。では、そのとき!
中之島を歩く・その9
端に近づくと、橋も多くなる。
左は、西暦2000年のサミット、すなわち先進国首脳会議を誘致するため建てられた、大阪国際会議場。
巨大な立方体の形をしているので、通称を「グラン・キューブ」という。同じ時期、この裏手に住友病院が新病棟ビルを建設しかけており、国際会議場に病院が隣接するなど陰気でいかん、建設を見合わせろなどという、横暴な意見もあったという。幸い(?)、サミットは沖縄に持って行かれたので、現在、両者仲良く併存しております。
さて。中之島も、そろそろ西の端っこに近づいてきた。
ふたつの川がふたたびひとつになり、おまけに木津川という別の川も分岐するので、このあたりには橋が多くかかっている。上船津橋、湊橋、船津橋、端建蔵橋、昭和橋。
右の写真は、その昭和橋のたもとから、中之島方向を見たもので、何も見えんようにしている高架は、阪神高速3号神戸線である。なお、リベットが目立つ橋は、白銀のよく似たスタイルであるが、国際会議場手前に映っている堂島大橋とは別だから、念のため。
中之島を歩く・その8
左、ダイビル。右、ロイヤルホテル。
  
ダイビルは、上のビルの通称であり、同時に東阪で多数の貸しビルを保有する、商船三井系の会社の社名にもなっている。1925(大正15)年に竣工したオフィスビルで、正式名称を「大阪ビルヂング」と称した。
「ヂ」という文字遣いがあらわすように、内部は天井が高く、一直線にのびる通路の両側に、ずらりと貸し室が並ぶという、クラシカルな構造をもっている。
広告マン時代、ここにはクライアントの本社が入っていたので、その宣伝課へ足繁く通ったのだが、後年その会社は、某巨大商社の支配下に入ったという。
創業者一族の一人だった当時の宣伝課長は、失意のうちに若死にしたとも聞いた。ビルの雰囲気ともあいまって、企業小説の世界を思うのである。
右は、リーガ・ロイヤルホテル。先年来、市内の別の場所に帝国ホテルやニューオータニもできているが、皇族来阪時には、いまだにここが御宿泊の場となる。
実は昨日(05・4・22)も、皇太子さんがお泊まりで、このあたりから四つ橋筋にかけては、制服、私服の男女警察官多数が張り付け警備をしていた。当方、たまたま通りかかり、「こんな場合、ホテル内の一般客はどうしてるのだろう?」と思って、見に入りたかったのだが、ジーンズにスニーカーでぼさぼさ頭だったからやめておいた。警備陣の眼には、うさんくさく映るに違いないからだ。
中之島を歩く・その7
フェスティバルホールと朝日新聞
中之島の四つ橋筋。それを「その6」で紹介した、住友ビル側から望見すると、左の写真になる。手前がフェスティバルホール、まんなかのビルにはホールのロビーがあり、上はオフィス階で、奥はグランドホテルとつながっている。
そしてその向こうが朝日新聞大阪本社。市役所と日銀のある御堂筋が、中之島における「官」の中枢とすれば、こちらは「民」の中枢。まさしく「民」であって、人気歌手やグループのコンサートがあるときには、ホール周辺にダフ屋が大量に出没するのだ。
一方、天下の朝日新聞、しかも発祥地たる大阪の本社ビルも、「民」である証拠に、不況の影響を受けざるをえない。一階のテナント街がどんどん空きだし、遂には書店まで撤退してしまった。一等地である中之島の、しかも新聞社の本社ビル内で、書店の経営が成り立たない。
この事実は当方に、大阪の景気がそこまで落ちたのかという驚きとともに、「朝日の社員、本を読まんのか?」という疑念も抱かせた。小型書店だったのだから、朝日の記者や社員が公私の購入に利用するだけで、ある程度の黒字は確保できそうに思ったのだ。それともやはり、少し歩いて堂島のジュンクへ行かなければ、多方面、多分野の書籍は入手できなかったのか。
右はその堂島方向、つまり南から北を見た視点の四つ橋筋で、右がフェスティバルのビル、左が朝日新聞である。
中之島を歩く・その6
御堂筋を西へ越すと、住友村に三井村だ。
 
左のビル群、手前からみっつは、すべて住友のビル。特にみっつめのベージュの建物は、旧住友銀行本店だけあって、金融の「牙城」という感じがしましたな。
このあたり、つまり淀屋橋付近の土佐堀側左岸は、昔は大川町という名前で、江戸時代には宿屋がならんでいたそうな。「高津の富」という上方落語では、その宿屋の主人が、アルバイトで富くじを売っている。
一方、右の写真、対岸の中之島には三井物産のビルがあり、川をはさんで、住友商事と三井物産が対峙している。広告マン時代の前半期、三井物産食品部には社長や常務のおともでよく通ったものだが、応対してくれる相手は係長で、それも立ち話が多かった。それだけで、こちらの会社の規模がわかるでしょう。しかもその会社、社員の給与振り込み先は住友銀行だった。右向いてぺこぺこ、左向いてへらへら。どっちかにせえ!
まあ、いまなら「三井住友」銀行なんだから、両方から、アタマなでなでしてもらえるかもしれませんがね。
中之島を歩く・その5
涙ぼろぼろ、大江橋。
          
左は日本銀行大阪支店。意外に小さいなと思うかもしれないが、実はこれは古い建物を一部だけ残したもので、その背後に見える暗灰色のビルが本館。巨大で、ゴツゴツしてて、窓が少なく、広い面積を占め、まるで「要塞」風に、権威を誇示しているのだ。
この写真、向かいの大阪市役所の角から撮ったものだが、その場所で右を眺めると、堂島川を渡る大江橋の角に、三菱の巨大なビルがある。広告マン時代の後半期(豆粒と中規模、ふたつの代理店に勤めたんです)、堂島にあったオフィスから中之島近辺のクライアントへは、徒歩で行ったのだが、冬にはこの三菱ビルから大江橋あたりが、常に寒風吹きすさんでいた。プレゼン用の大型ボードは飛ばされそうになるわ、涙腺が刺激されて涙がぼろぼろ出てくるわ。いまでも真冬にここを通ると、それを思い出すのだ。無論、三菱に責任はないけれど。
中之島を歩く・その4
「賢」の集積場所と、「愚」の集合場所。
東洋陶磁美術館の西側は中央公会堂だが、これは前に紹介したので省略。そのまた西が大阪府立中之島図書館で、御覧のとおり、非常に立派な建物である。明治37(1904)年の開館だから、すでに百年を越している。
当時の住友財閥が、資金や洋書などを何度も寄付したという。住友は本来、「浮利を追わず」、社会に貢献する面も持っていたのだ。それが後年、バブル時代の地上げで悪名をはせ、「メインバンクにしたくない銀行は?」という対企業調査で、ダントツのトップになったとは、まあ、情けないことではありませんか。
(突然思い出したが、合併後のいまの同行に、その場しのぎの嘘を重ねて、事務連絡ミスの責任回避をしようとした行員がおる。こら、S・K。先生に言うどーっ!)
だが、現在それより数十倍情けないのは、右の大阪市役所。カラ残業代を支給し、制服と称してスーツを与え、職員個人が受け取るナントカ年金の支払いを、税金でやっておる。顔見知りの新聞記者によれば、「上層部の職員は、自分たちを〈中之島〉と称し、〈霞が関〉よりレベルが上だと思っている。労働組合との馴れ合いもひどく、取材してると胸くそが悪くなる伏魔殿だ」とのこと。
ぼやき漫才の故・人生幸朗師匠なら、必ずや叫ばれたであろう。「責任者出てこ〜い!」「ほんまに出てきはったら、どないするの」「あやまったら、しまいや」
中之島を歩く・その3
栄枯盛衰もあり、勧善懲悪もあり……
中之島を、難波橋から少し西へ歩くと、その右岸、堂島川沿いに、左の写真、大阪市立東洋陶磁美術館がある。
それがなぜ、「栄枯盛衰」なのか。実はこの美術館、住友グループが、所有していた旧「安宅」コレクションを寄付したもので、1977年、破綻による経済パニックを回避するため、伊藤忠商事が吸収合併した安宅産業の、「相談役・社賓」なる者が、公私混同して集めまくったものなのだ。
当時の安宅産業の無茶苦茶ぶり。あるいは吸収合併に関して、伊藤忠と住友銀行が演じた壮烈な綱引きについては、『ある総合商社の挫折』(NHK取材班篇・現代教養文庫)に詳しい。このとき、伊藤忠側は瀬島龍三氏が指揮を取り、後年イトマン事件で晩節を汚した住友の磯田一郎氏は、優秀なバンカーとして双方の顔を立てたのである。
一方、このあたりの堂島川北岸一帯は、「秋霜烈日」地帯で、法務合同庁舎、検察庁、大阪高裁、地裁などが並ぶ。右の高裁が入っているビルは、重大な裁判のときなど、全国ニュースで流れることがあるから、御存じの方も多いだろう。大阪府警の天満署が横にあり、あるとき、検察庁からの帰りか裁判所の帰りか、手錠に腰縄、ゴムサンダル履きの男が、護送役の刑事と「談笑」しながら署へもどる姿に接して、当方仰天したことがある。
なお、この中之島シリーズ、都合によりペースを早め、5月には港区方面に移りますので、お知らせまで。
中之島を歩く・その2
天満の西のはずれあたりと、ライオン橋
 
天神橋を渡った堂島川の北岸一帯は、天満(てんま)の西のはずれにあたる。天満は昔日、古い大阪弁でいうところのアオモンとアカモン、つまり野菜や果物の問屋が並んでいた地帯。鰹節や椎茸など、乾物問屋も多かったという。
その知名度は大したもので、桂米朝師匠の『米朝ばなし・上方落語地図』(毎日新聞社)によれば、奥様(生まれ育ちが天満の乾物問屋)が娘時代だった戦中、中国からの手紙が、「日本、天満、市の側」ナンノナニガシ様という表書きで、ちゃんと届いたという。市の側というのは、左の写真を撮った菅原町あたりの、当時の通称なのだ。
だから現在も、食品関係の会社や支社支店が多く、御覧のように古い建物も残っている。入り口の看板には、「乾物問屋・株式会社北村商店」と書いてあったのである。ただしこの北村商店、本社ビルも有しているので念のため。
そして、そこからもう少し西に歩くと、御堂筋と同じく南北に走る幹線道路のひとつ、堺筋にかかる難波橋(なにわばし)がある。北側と南側の渡り口に二頭ずつライオンを配しているので、「ライオン橋」と呼ばれてきたという。
以前、この近くを歩いていたとき、九州から旅行に来たという年輩の婦人に、「ライオンのいる橋は、どこですか」と聞かれたことがある。娘時分に渡って印象に残っているとかで、「まだありますか」との問い。
教えてあげたら非常に喜んでいたのは、ひょっとして、恋の思い出でもあるのかもしれませんね。
二つに分かれる大川(旧淀川)、間にある島が中之島。
その東端から、東と西を望む。
 

これまでは、大阪の中心部を北から南へ、地図で言えば、「縦」に紹介してきたわけだが、今度は東西方向、「横」に歩いていくことにしよう。
無論、縦も横も一本ではなく、複数の道路や川が交差して、市中に碁盤の目を作っているのである。
で、その重要な横線のひとつがこの川で、旧淀川が
堂島川と土佐堀川に分かれ、4qほど下流でまたひとつになって、今度は安治川と名を変え、大阪湾へ流れていく。そして、その間の細長い中州、すなわち中之島には、
府立図書館、中央公会堂、大阪市役所、日銀大阪支店、
三井物産、フェスティバルホール、朝日新聞、関西電力、
ロイヤルホテル、国際会議場など、重要な建物や施設が
つらなっている。それらを東から西へ、つまり川上から川下へ、順次紹介していこうと思うわけである。
左の写真、むかって左が堂島川で、右が土佐堀川。
遠くに小さく見える高層ビル群は、大阪ビジネスパークと称する、京橋のオフィス街。手前右手は、天満橋のホテルやオフィスビルだが、ここにあった松坂屋は閉店してしまった。右の写真は、東端にかかる天神橋の上で、まわれ右をして眺めた中之島公園。カップルたちの夜の名所だが、いまはホームレスの小屋が目立っている。
さて。それでは西の端をめざし、ふたつの川の左右などもきょろきょろ見ながら、歩き出すといたしましょう。