大阪ランダム案内。住吉区〜住之江区〜西成区

左。タヌキではありません。カボチャの碑です。
右。何か、懐かしいような商店街でございます。
西成区の最南端、玉出西にある生根(いくね)神社。その境内には、「こつまなんきん」の碑が建っている。「こつまなんきん」と聞くと反射的に、往年の妖艶女優、嵯峨美智子を思い出すのであるが、これは今東光の同タイトル作品を昭和35年に松竹が、彼女の主演で映画化したからである。
すなわち、「こつまなんきん」とは漢字で書けば勝間南瓜。昔この地にあった勝間村で栽培されていた、色の濃い小ぶりなカボチャのことなのだが、転じて、小柄で引き締まった味の良い女性のことを、そう讃称するようになったのだという。
昭和35年は当方中学一年生だから、そんな由来は知らず、無論のこと映画も見なかったのだけれど、ポスターやスチール写真だけからでも、嵯峨美智子の漂わす妖しさを感じとったのだろう。以来「こつまなんきん」と聞けば、本物の勝間南瓜には失礼ながら、何か禁断の雰囲気を連想するようになってしまったのである。
いま調べてみると、相手役は藤山寛美だ。「わちゃあ。撮影所の内外双方で、こってりしてましたんやろなあ」と思ってしまうわけである。玉出は、苦闘時代の西川きよし氏夫妻が狭いアパートに住んでいた場所でもあるらしい。右の懐かしいような商店街にも、買い物に来てはったのかな?
左。昼なお暗い、天神の森。右。天下茶屋跡。
茶店って、水戸黄門やないねんからなあ……
旧・紀州街道は西成区の南東にあたる住吉区へと伸び、そこには住吉大社があるから、その参詣道として、古くから住吉街道とも呼ばれてきた。抱腹絶倒の上方落語、「住吉駕籠」の八本足は、そこを北上したわけである。
その紀州街道沿いの、岸里東にあるのが、「天神の森」で知られた天満宮と、「天下茶屋」跡。前者は、境内に安産に効験ありという子安石があるので、子安天満宮とも呼ばれてきたという。だから豊臣秀吉も淀君の安産を祈願したそうだ。楠の古木がそびえ、備前の林源次郎なる者が、父と兄の仇討ちを成し遂げた場所だと記した石碑もある。
一方、天下茶屋という地名は、秀吉つまり天下人(てんかびと)が、住吉大社に参ったり堺へ出かけたりする途中、ここにあった芽木家の屋敷で一服した故事からできたとされている。案内板によれば5千平米に及ぶ広大な屋敷であって、江戸時代には紀州の殿様も泊まった御殿があり、能舞台もあり、庭には広い池もあったとのこと。
残念ながら、屋敷は戦災で焼けてしまったので、芽木家から土地と焼け残った蔵の寄贈を受け、この史蹟にしたという。西成区のホームページには、秀吉が「ここの茶店で休息」とあり、これだと爺さん婆さんが店番しているような、そんな茶店に思えてしまうのだけれど、まさかねえ。
紀州街道、天下茶屋、大坂の陣……。古い町です。
右。聖天下も、静かな町並みでした。
前回の梅南からさらに東に歩き、南海電車の本線を越すと、町名は天下茶屋や聖天下になる。旧紀州街道が南北に通っている、古くからの町である。だから住宅街の一画に、小さな祠があったり、石仏が祀られていたりする。写真左はそのひとつで、聖天下1丁目にある「浪切不動尊」。
掲示されている由来記によると、昭和14年に少し離れた場所で発掘され、同じ聖天下にある西宝寺の境内に安置されていたという。そして太平洋戦争中、空襲を受けて周囲の家屋はすべて焼けたのだが、この不動尊は無事であったため、人々の信仰が益々強まったのだという。
また、天下茶屋1丁目には「苔山龍王」というのもあり、似たような祀られ方をしている。こちらは、大坂冬の陣、夏の陣で天下茶屋一帯も戦場となって多くの死者が出たので、三代将軍家光の時代に建てられた鎮霊碑が元らしい。
天下茶屋という地名の由来については次回で触れるが、聖天下は阿倍野区の項で書いた「聖天さん」、その小高い丘の西側下に当たっているから。右の写真がその上がり口で、道路は西成区、鳥居と森は阿倍野区なのである。
「ストキャバ嬢」とはまた、何ちゅう略し方じゃ!
左、鈴成座。右、梅南座。「らしい」雰囲気ですなあ。
木津川からもう一度東にもどり、鶴見橋のアーケード商店街を歩く。そして2丁目で少し南に下がると、大衆演劇の鈴成座がある。垂れ幕にいわく、「笑い、涙、人情芝居、見せます、聞かせます、舞踊歌謡ショー!」
公式ホームページによれば、桟敷席と座席とで160人座れる小屋であり、「花道常設」とうたっている。またそのとなりには、関西ニューアートと看板の出ている別の入り口があるのだが、これが以前の鶴見橋ミュージックなのだそうだ。
こちらの公式ホームページによると、現在はショーパブ形式になっているのか、「ラウンジ嬢募集」「ストキャバ嬢募集」というお知らせが出てくる。前者はわかるが、後者は何の略だろう。ストリップ・キャバレーかな。
笑ってしまったのが「応援」についての注意書きで、タンバリン、クラッカー、ジェット風船、紙吹雪など、すべてOKだが、「ただし紙吹雪は終演後に掃除していただきます」とのこと。興奮して紙吹雪を撒いたあと、それを黙々と掃除するとは、「おもしろうて、やがて哀しき」の典型ではなかろうか。
そこからさらに南に下って、梅南1丁目にはもう一軒、梅南座という大衆演劇の小屋がある。鈴成座、梅南座とも、入場料は大人1300円とか1500円とか、お手軽なものである。
当然、延々たる迷路状の梅田地下街も、水没か?
渡船は無休、平日は10〜15分に一回、往復する。
西成区と大正区を隔てて流れる木津川。写真左は、その北津守から上流を眺めて撮ったもので、左岸が大正区。
前方のアーチ状構造物は、高潮や津波を防ぐための、可動式の水門である。いざというときには、湾曲している鋼鉄の防潮堤がそのまま上流側に90度倒され、奔流となって押し寄せてくる海水を食い止めるのだ。だからこの構造物、真下へ行って見上げると、かなり巨大かつ頑丈である。
ただし南海沖地震が起きれば、津波はこの程度の水門など軽く乗り越えると予測されている。しかも木津川・尻無川・安治川は、上流では土佐堀川と堂島川であり、そのふたつにはさまれた細長い土地が中之島。それぞれ両岸の堤防の高さは知れているから、大阪の中枢部が濁流に襲われ、堂島地下街などは水没するというシミュレーションがある。
当方、ドウチカはよく利用しているので、そのとき津波が来れば御陀仏間違いなし。しかも、ドウチカは梅地下につながっており、それらの要所に地下鉄四つ橋線、御堂筋線、谷町線、JR東西線、阪神電車の地下路線と駅もあるのだ。
なお両区をつなぐ橋は、北津守の43号線、南津守の大正通りと、直線距離で3q弱離れて二つしかない。だからその間の3箇所に、大阪市が運営する渡し船が通っている。右は落合上渡船。以下、下流に向けて落合下渡船、千本松渡船とあって、人と自転車を無料で運んでくれるのである。
情報・機械・無線などの、クラブ活動も盛んとのこと。
右、鶴見橋ミュージックって小屋、見あたらなかったな。
新今宮駅前から、国道43号線を西に少し歩くと、大阪府立今宮工業高校がある。桂南光、故桂吉朝、両氏の出身校で、前者は機械科、後者は印刷科と聞いた記憶がある。
しかし今回、校名が今宮工科高等学校になっていることに気づき、それが正式名称だったのかと思ったのだが、そうではなかった。府立の工業高校は学科やカリキュラムを再編し、平成17年から工科高校と称することになったのだという。
そしてこの今宮、全日制と定時制があり、どちらも男女共学で2学期制。全日制は現在、機械系・電気系・建築系・グラフィックデザイン系の4学科を持っており、学科選択は入学後、2学期になってからすればいいのだそうである。
創立は大正3年だが、そのときの校名は大阪府立職工学校今宮分校。2年後に独立して今宮職工学校。それから今宮工業学校→今宮工業高校→今宮工科高校と、時代の変遷とともに教育内容、校名、イメージを変えてきたわけである。いまも職工学校だったら、誰も来ませんかな。
右の写真は、そこから南に下がった鶴見橋商店街。かなり長いアーケード街で、西へ行くと津守商店街、そこを抜けると南海電車の高野線(汐見橋線)に行き当たる。その先は西成区の西端で、木津川沿いの公園と津守浄水場である。
左、左右とものビルが、ずらっと「宿屋」です。
右、小学校の塀に沿ってる飲み屋街。まだ夕方前。
往年の釜ケ崎は、ドヤ街としても知られた町だった。
ドヤは宿(やど)を逆にした呼称で、昔でいえば木賃宿。
いまは鉄筋コンクリートの建物が並んでおり、ビジネスホテル○○、アパート××、△△マンションなど、名称はさまざま。しかし簡易宿泊施設であることに変わりはなく、一泊おおむね千二百円から千五百円。裏通りには、三畳八百円、それより狭いらしい六百円という部屋もある。その安さが口コミで広がったのか、外国人旅行者の姿もよく見かける。
ところで、上方落語には貧乏長屋の代表として、よく日本橋のそれが出てくるのだが、昔のことだから、その雰囲気がもうひとつリアルにはつかめなかった。しかしあるとき、
「明治36年、現在の天王寺公園から新世界一帯を会場にした第五回内国勧業博覧会を開くとき、周辺の区画整理をし、日本橋界隈の長屋や木賃宿街を、さらに南に移動させた。それが後年の釜ケ崎である……」という史実を知り、
失礼ながらすとんと腑に落ちて、落語の長屋の雰囲気もわかった気になれたことがある。
右はその一画にある、これまた「簡易」の飲み屋街だが、道交法違反か何かで、もっか大阪市が撤去を図っているそうだ。似たことをやってるんですなあ。昔も今も。
九州、沖縄の出身者が多いと聞いたことがある。
右、現場作業用の装束や地下足袋、小物類を売る店。
萩之茶屋一丁目。JR環状線と南海電車の本線が直角に立体交差し、どちらにも「新今宮」という駅がある。その駅前から南を向いて撮ったのが左の写真。この間口の広さとともに、相当な奥行きの深さを持つ巨大な複合ビルである。
入っている施設は、あいりん労働公共職業安定所・あいりん労働福祉センター・西成労働福祉センター・大阪社会医療センター付属病院、そして市営萩之茶屋住宅。
「あいりん」という、いかにも行政臭い地区呼称は1966年に作られたものだが、それまでこの周辺は「釜ケ崎」と呼ばれていた。地名としての釜ケ崎は、意外にも戦前の1922年に廃止されたそうだが、その呼称はずっと使われてきた。
いわゆる「日雇い」労働者の町であって、平日の早朝は仕事の申し込みや、あぶれた場合の保障手続きをする人たちでごった返しており、車道には手配師(?)のワゴン車が並んで停まって、直接募集をしている。夕方にはだだっぴろい一階フロアに手提げバッグが列状に置かれるのだが、これは簡易宿泊所の無料利用券をもらうための、場所取りらしい。
このビルの周囲には、日用品、衣類、古道具、雑誌やCDなどを売る露店が多数出るのであるが、日曜の朝方はひやかしのおっちゃんもまじって、ほっとする雰囲気である。
しかしここにも、高齢化の波は押し寄せているらしい。
そしてもちろん、不況の波もだろう。
左。ナガタ興業社、団之助芸能社などの献金者名も。
右。1993年、全面廃止。結局、乗らないままでした。
今回からは西成区。まずは山王である。「上方演芸発祥之地 てんのじ村記念碑」。大きな石碑にそう彫り込んであるのは、この山王が明治以来、「芸人」たちの住む町だったからである。「てんのじ」は天王寺を縮めた言い方、「村」はもちろん通称としてのそれであり、難波利三さんの直木賞受賞作『てんのじ村』は、この町と人をモデルにしている。
また、懐かしき「ぼやき」漫才の人生幸朗・生恵幸子、その幸子師の『帰ってきた、ぼやき漫才』という本には、二人がここに住んでいた時代の話も載っている。昭和三十年代の初め、米一合でも砂糖十円分でも売ってくれたので、百円あれば二日食いのばせた。長屋のとなりの住人は海原お浜・小浜さんだった云々。質屋通いもよくしたということで、文中に「中井の質屋」というのが出てくるが、写真の石碑の背後に写っている看板が、現在も営業しているその店なのだ。
他の資料によると、ミヤコ蝶々さんも住んでいたことがあり、戦後の最盛期には三百人を越す演芸人が住んでいたそうだが、現在は数人だけらしい。右の写真は、天王寺駅前からその山王を斜めに南下して天下茶屋まで通っていた、南海電車天王寺支線跡。「石いらんか。一個十円。よう当たる石やでえ!」  往年の「釜ケ崎」暴動時、すかさず石売りが現れたという伝説があるが、調達先はこの支線だったのか?
左、6号館まである見本市会場、そのメインゲート前。
右、南港ポートタウンの高層住宅群。
大阪国際見本市会場。通称「インテックス大阪」は、昭和60年(1985)に開業した。それまでは港区の地下鉄中央線「朝潮橋」駅前にあり、そこは現在、大阪プールや中央体育館など大規模な施設のある公園になっている。
昭和40年代後半、ぼくは見本市やイベントの仕事で何度もその会場に通った。開幕前夜、クライアントの大型ブースで徹夜の建て込みをやっていると、そういう修羅場に慣れてない者から順にキレだす。早い話がクライアントの担当者がヒステリーを起こすわけで、やれ「社長がテープカットに来るのに、間に合うのか!」とか、「それをやるより、これを先にしたらどうなんや!」とか、うるさいことであった。
「間に合うのかと心配するんなら、おまえの会社が企画内容をもっと早く決定せえ!」、「これを先にさせたかったら、前日の夕方になってから説明パネルの内容を変更するな。いま、それを工芸社で作ってる最中やないか、ボケ!」 
てなことは口には出せず、じっと我慢の子であったのだ。
だからいま、インテックス大阪へ「食博」などを見に行っても、床のカーペットに皺が走ったりしてるだけで、突貫工事の様子がわかって、いたたまれない気分になる。あ〜、嫌だ嫌だ。ヒス男は嫌だ。これ、港区の項でも書いたけどね。
左、南港ターミナルの名門大洋フェリー、
右、コスモターミナル、関西汽船のサンフラワー。
南港にはフェリー乗り場が四箇所ある。ニュートラムの「フェリーターミナル」駅前に、大阪南港フェリーターミナル、沖縄定航埠頭、大阪南港かもめフェリーターミナル。そして前回紹介したATCの裏手が大阪南港コスモフェリーターミナル。
遠距離フェリーは六社が運行していて、四国オレンジフェリー(新居浜、東予)、名門大洋フェリー(新門司)、関西汽船(坂出、松山、別府)、宮崎カーフェリー(宮崎)、ダイヤモンドフェリー(志布志)、マルエーフェリー(沖縄方面)。
マルエーは奄美大島〜徳之島〜沖永良部島〜与論島を経て那覇に着く。南港を出てから39時間の旅だそうである。
広告マン時代、スキューバをやってる同僚が、夏にはよくこの方面へ行っていた。当時は弁天埠頭か天保山桟橋か、そちらから出ていたと思うが、出港アナウンスの真似をよく披露していた。「帰りたい一心でお乗りになったお客様、何分本船は、無料でお乗せするわけにはまいりません」云々。
つまり、大阪に出てきた沖縄青年のなかには、仕事がうまくいかなくて、ひそかに無銭乗船で帰ろうとする者もいたという話だったのだ。いまはそんなことはないと思いたいが、世界不況だから、あるかもしれんなあ……
ところで、右の遠景のコンテナ施設、四脚だから、クレーン(鶴)というより、近くで見たらジラフ(麒麟)でしたね。
左、WTC。主要株主・大阪市。累積債務、多大なり。
右、ATC。主要株主・大阪市。累積債務、多大なり。
ニュートラムの「トレードセンター前」で下りると、未来都市のごとく、北にWTC、南にATCのビルがそびえている。
WTCはワールド・トレード・センター。高さ256メーター。大阪市の主導で1995年に完成し、貿易振興の一大拠点にする予定だったが、翌年度の決算から早くも債務超過になっていた。ビルの空きを埋めるため大阪市の港湾局以下複数局が入居しているが、その支払い家賃が通常の2倍ほどなので、市民グループから訴訟を起こされもした。
2004年に民間から社長を迎え、翌年初めて黒字となる。最近では、橋下知事が大阪府庁をここへ移転する案を提示したが、府議会で否決されて頓挫した。
ATCはアジア太平洋トレードセンター。これもWTCと似た経緯を持ち、民間から社長を迎えて2005年に初めて黒字計上というところまで似ている。どちらも累積債務が莫大で、
WTCはもっか会社更生法の申請により、財産保全命令が出ている。ATCはそこまで行ってないが、「大阪ベイエリア研究会」のホームページを見ると、「借金時計」と称して、両社の累積債務額が示されている。これを書いている09年4月10日、午後4時過ぎ現在、WTCは316億5470万円強、
ATCは426億5961万円強。しかも端数部分は刻々増加しており、大方1分間で1万円近くずつ増えていっている。
平松市長、どうするつもりなんでしょうね。
同類は、神戸のポートライナーと東京のゆりかもめ。
文中の大学のクラブは、広告研究会です。
旧来の住之江区は平林の西端が大阪湾だったが、埋め立てによってその先に、広大な土地「南港」ができている。
地下鉄四つ橋線・住之江公園前とそこを結んでいるのが、大阪市交通局のニュートラム。ゴムタイヤの小型車輌が、四輌編成で無人運行されている。1981年の開業当初は、乗客の不安防止のため、乗務員が座っていたそうだ。無人化後も、ごくまれに暴走とか脱輪事故(これは、ゆりかもめ)があり、そのあとしばらくは係員が添乗していたという。
高架上を走っていくので、左右につづく港湾産業地帯がよく見える。平林は昔から木材関係の会社や工場が多かった土地で、巨大な貯木池が一号から五号まである。写真右は二号だが、残念ながら原木がびっしりと浮かぶ光景は見られなかった。白いビルは永大産業。昔、テレビの「ヤング、オーオー!」を、日清食品以前に提供していた頃は日の出の勢いだったのだが、その後、一度倒産したのち復活した。
大学時代の夏、所属していたクラブが毎年「浜辺の喫茶店」を開くとき、その敦賀工場から合板を提供してもらっていた。広告マン時代には、担当はしなかったが、クライアントでもあった。だから礼を言うべき会社なのであるが、全盛期だっただけに、親の威光をかさにきた傲慢な若僧がいたことも知っているので、心中なかなか複雑なのである。
加賀屋新田会所のごく一部。池から茶室を望む。
右、大和川。水面の点々は、ユリカモメの群れです。
加賀屋という地名は、江戸時代中期にこのあたりの干潟を「新田」として開発した、加賀屋甚兵衛に由来する。
鴻池新田の鴻池家同様こちらも豪商(両替商)であって、加賀屋新田会所はその別宅であり、同時に役所や会合場所としても使われたという。緑豊かな庭園を持つ千五百坪の敷地内には、書院あり土蔵あり、茶室あり池もあり、その静けさは、とても幹線道路のすぐ横にあるとは思えない。
現在、加賀屋の町名は北加賀屋、西・中・東の各加賀屋、この会所のある南加賀屋に別れており、早い話が住之江区のまんなかを北端から南端まで縦断する広いエリアである。
北加賀屋の近くに「井路川」の記念碑が立てられているのだが、そこに刻まれた絵図には、畑のなかを鶴見区でも紹介した井路、すなわち水利や運搬用の人工水路が縦横十文字に走り、その交差部分にはミニ「四つ橋」がかけられていた。つまりまあ、そういう田畑が北から南まで、見渡す限り広がっていたということだろう。そこからの「上がり」、加賀屋の取り分、どれほどのものだったのかとも思いましたな。
加賀屋新田会所跡(施設名称は加賀屋緑地)、月曜休園だが、それ以外の日は入園無料だから、庭園好きの方はどうぞ。南に少し歩くと大和川で、対岸は堺市である。
三井造船の角に立つ、藤永田造船所跡地の記念碑。
右は、栗本鐵工所の広大な加賀屋工場。
昭和42年(1967)に三井造船に吸収合併された藤永田造船所。元禄時代からの建造史を持つ超「老舗」会社で、明治時代には木造の外輪船から鋼鉄の貨物船、大正時代以降は海軍の駆逐艦や水雷艇も建造してきた。
そもそも、ぼくはこの社名を小学校高学年時代に覚えたのだが、それは駆逐艦の模型を買ったら、説明書に建造所名も書いてあったからだ。(ちなみに、御存じの方は御存じ、玉水の湯川安太郎先生が、戦前、駆逐艦の試運転に招待されたのは、十中八九、この藤永田でしょうね)
また大人になってからは、創業者たる永田一族で経営にも参画していた、森田という人物のいたことも知った。というのが、この森田家には四人の娘がおり、その次女は船場の大家・根津商店の跡取り息子と結婚したのだけれど、そいつがけしからんやつで云々。そしてこの次女の名前は松子であり、後年、作家と再婚して谷崎松子となった。つまり「細雪」のモデルとなった四姉妹は、この藤永田の一族なのだ。
すでに三井造船はここで船の建造はしていないが、一帯はいまでも工場ならびに倉庫地帯。南側には住吉川をはさむかたちで、栗本鐵工所の広大な工場がある。
「重厚長大」産業の花形だったんですがねえ……
右、木津川の対岸は大正区の工場地帯。
昭和30年代前半の大阪市地図を見ると、木津川の河口付近東側に佐野安造船所、名村造船所、藤永田造船所が並んでいる。佐野安の所在地は西成区になるが、名村と藤永田は住之江区(当時は住吉区)。だからこの近くには、現在も「造船所通り」と標識の出ている道路がある。
しかし時代の変遷、産業構造の変化により、佐野安は他業種二社を吸収合併して「サノヤス・ヒシノ明昌」と社名が変わり、船舶部門以外の受注にも力を入れているらしい。だから工場には、「レジャー事業本部・大阪工場」「パーキングシステム工場」などのプレートが掲示されている。
また写真左の名村重機船渠であるが、この土地はもう20年も前に、持ち主の不動産会社に返還されている。表に上記の社名プレートは出ているものの、その下には「平成19年度経済産業省、近代化産業遺産」という掲示がある。
親会社たる名村造船所という会社は健在であるが、造船事業はずっと以前から、佐賀県の伊万里工場に集約されているという。そしてこの跡地はいま、不動産会社と再開発コンサルタント会社の共同プロジェクトによって、旧施設を生かした、音楽や演劇のための賃貸スペースになっている。
藤永田造船所に至っては、とうに社名を消滅させている。「そういえば、造船不況と言われた時代があったなあ……」と、そぞろ、物思いにふけったのだ。
住之江公園と競艇場にはさまれた、大阪護国神社。
右は、錨をあしらった、海軍関係戦没者慰霊碑。
靖国神社が(旧領土も含む)日本全国の戦没者を祀っているのに対し、護国神社は「郷土」の英霊を祀る。だから基本的には県単位で建立されているが、なかったり、一県内に二社あったり、いくつか例外があるという。
大阪府には明治以来、施設としてのそれはなく、毎年、練兵場で慰霊の祭祀のみを行ってきていた。だから創建は昭和15年と新しく、しかも戦時の資材不足で仮社殿だったらしい。現在の建物が完成したのは戦後のことで、昭和38年。
護国神社という神社は、子供の頃にいた新潟にあったので知っていた。しかし大阪では聞いたことがなく、あるのなら大阪城内だろうと思っていた。こんな場所にあると知って意外に思ったのであるが、上記の経緯を知って納得がいった。
とはいえ、昭和15年という時代の風潮を考えれば、もっと市の中心部に土地を確保できなかったのかとも思う。それとも、あまり人目につくと避戦厭戦ムードを高めてしまう恐れがあったのか? 祀られている戦没者は8万5千柱とのこと。
境内の一画には陸海軍ともの慰霊碑、鎮魂碑が数多く建てられている。野砲兵第4連隊、歩兵第37連隊、騎兵第4連隊、海軍第一期飛行専修生徒、予科練……。
礼儀として、脱帽、一礼して参りました。
広大な公園に、どこからか爆音が……
右、私には無関係の世界ですが、こんな屋台も。
地下鉄四つ橋線の終点が「住之江公園」駅だから、名前は知っていたが、正確な場所やどんな公園なのかは知らないままだった。南港ポートタウンへの行き帰りにニュートラムを利用しても、駅構内の移動で乗り継いでいたからだ。
行ってみると、新なにわ筋と住之江通りに面した随分広い公園で、子供の遊び場を初め、野球場やテニスコート、プールなども揃っている。総面積15.3ヘクタールで、昭和5年の開園だそうだ。木々も多く、公園内のトイレに入ったら「ここで銀杏を洗わないでください」という貼り紙がしてあった。
散策している最中、すぐ近くをしきりに爆音が通過していき、「新なにわ筋を行き来する産業車両かな。それにしては音が高すぎるが?」と不審に思っていたところ、その新なにわ筋のすぐ西側が住之江の競艇場なのだった。
爆音の移動は集団ではなく単独だったから、レース前の練習かエンジンチェックか、ボートの走行音だったのだ。レースとなると、さぞやかましいのでしょうな。 『やすし・きよしと過ごした日々』(木村政雄、文春文庫)には、きよしがこの競艇場で、一点買いで10万円賭けようとしたらやすしが反対し、そこで1万円にしておいたところ、それが96万円になったという話が載っている。10万なら960万になっていたわけで、帰りのタクシー内では、実に気まずい雰囲気だったという。
昭和49年、住吉区の二分割で住之江区が誕生した。
右、内部は螺旋階段で上がれるが、恐かったあ!
今回からは住之江区で、まずは昔の燈台、高灯籠から。
復元されたこれは現在、住吉公園の西側、国道26号線沿いに建っている。しかし元はここより200メートルほど西、いまの阪神高速堺線あたりに建っていたそうで、つまりそこが昔の海岸線だったのだという。
鎌倉時代に建てられたという説もあり、灯油の明かりが船の目印になっていた。いまは高さ21メートルだが、往年のものは五丈数尺(約16メートル)だったとのこと。では、その昔の海岸線はいつ頃から、なぜ変化しだしたのであるかだが、当方初めて知って大いに納得した。
まず大和川は元禄時代まで、いまの大阪市内に入る前に北に曲がり、淀川と合流する川だったのだという。しかし低地を流れるからよく氾濫するので、つけかえの願いが出されていた。1703年(赤穂浪士討ち入りの翌年)、ようやく幕府の許可が出て、現在の川筋になった。すると上流から運ばれてきた土砂が次第に堆積し、海岸線が西へ西へと延びることになった。だから現在の粉浜や浜口あたりが昔の海際、加賀屋や御崎などは海だったというのである。
「なるほどなあ。自然の摂理ですなあ」なのだ。なお現在の高灯籠、公開は第一、第三日曜のみなので念のため。
利用し、通うつもりだった、この駅、この大学。
副駅名がついてて、「大阪市立大学前」だそうです。
順次高架化が進んでいるJR阪和線も、この杉本町駅近辺ではまだ地上を走っており、昔ながらの跨線橋もある。その跨線橋を、今は昔、某年の三月初旬、18歳になったばかりのぼくは、確か三日間利用していたのだった。
大阪市立大学を受験に来ていたからで、しかし今でもリアルに覚えているが、まったく歯が立たなかった。すでに私学に通っていたから気もゆるんでいたのだろう。二日目を終えたときには、最終日は放棄しようかとも思っていたのだ。
一方、私立を七つか八つか全部落ちていた友人は、背水の陣で受けたここに合格し、私学の入学金を一文も払わず第一志望校に入るという、親孝行をすることになった。
右の写真はその本館であるが、当時はコンクリートむきだしのズズ黒い建物で、冬の重い灰色の空の下、カフカ的な悪夢を想像させる光景になっていた。それがまた「学問の府」らしくて、よかったのであるがなあ。
なお、JR阪和線の前身は、昭和元年に設立され、15年に南海に合併された阪和電気鉄道という私鉄。大阪市立大学の前身は日本で初めての市立大学、昭和3年に開学した旧制大阪商科大学である。どちらも由来を書くと長くなるので、興味をお持ちの方は、ネット検索でどうぞ。
大阪にも国学院があったとは、知りませんでした。
左は山之内町、右は遠里小野だが、隣り合わせです。
住吉区に、「白頭学院・建国高校」という学校があるとは、聞いて知っていた。だから左の写真の建物を見かけたとき、塀の様子や屋上の屋根風のデザインから、ここがその高校かと思った。しかしこちらは「大阪国学院・浪速高校」なのだった。当方の高校時代、野球で有名な浪速商高のナミショウに対して、ナミコウと呼ばれていた私立校。
当時、大阪の公立高校は一校専願だったので、落ちると私立へ進むしかない。ナミコウへ行った知人もいたのであるが、どこにあるのかは知らないままだった。
「へえっ。あいつ三年間、豊中から大阪市の南の端のここまで通ってたのか!」と、驚いたのである。
また、その経営母体が大阪国学院だということも初めて知った。創立は1923(大正12年)で、中学校もある。当然神道系で、校訓のなかにも「浄・明・正・直」という神社神道の理念が入っている。藤本義一、塩田丸男、赤井秀和、笑福亭鶴瓶などの各氏もOBだそうだ。
一方、建国高校はそのすぐ横手にあるが、校舎はごく普通の鉄筋校舎だった。白頭山からの連想で北朝鮮系の学校かと思っていたのだが、1946(昭和21年)、在日韓国人子弟を対象に設立された学校だという。幼稚園から高校まであり、日本人の生徒もいるとのことである。
『ためいき坂、くちぶえ坂』は傑作ですよ!
右の写真、ビルの上からでも撮るべきだったな。
粉浜商店街は、阪堺電車阪堺線の西側に、それと並行するかたちで伸びている。区としては住之江区に属しているのだが、笑福亭松枝さんの『ためいき坂 くちぶえ坂』に出てくるので、便宜上、こちらに入れさせていただく。
長いアーケード商店街であって、弟子たちはアーちゃん(六代目松鶴師匠夫人の愛称)のお供でここへ買い出しに来て、どこの店の娘は美人だとか、いや向こうの店の嫁さんの方がとか、無駄口を叩きながら買い物をしていたという。
あまつさえ、某店の女主人は男好きで、近所の店の亭主と浮気しているどころか、一門の誰それとも……などという露骨な話も出てくる。しかしそれが何を売ってるどんな店なのか書いてないので、当方、歩きながらきょろきょろしたけれども、見当のつけようがなかったのである。
右の写真は小さいのでわかりにくいが、阪堺電車の阪堺線と上町線が、住吉大社前で交差している部分。どちらも複線であり、かつ上町線の終点は上記商店街の横の住吉公園であるが、我孫子道まで行く電車もあって、上町線から阪堺線への乗り入れ線も敷設されている。
つまり、複線×3線で6線、レールの本数で言えば12本が交差してることになるのか。それとも、さらに別に引き込み線などもあったのか。車と電車が往来する、その間隙を縫って撮影したので、よくわからなかったのであった。
左。国宝の本殿四棟のうちのひとつ。
右は、かっぽれの桜川一門が奉納した連名額です。
住吉大社は、神功皇后の時代に建立されたと伝えられており、大阪市内および府下の住民たちの初詣先として知られている。阪堺電車の住吉停留所前にあり、ある長篇小説から引用させてもらえば、こんな具合の神社なのだ。
『(チンチン電車を)下りた左手に、全国各地に数多い住吉神社の総本社、住吉大社があり、広大な境内には国宝の本殿四棟以下、重要文化財の門や石舞台を擁している。大鳥居をくぐって進むと左右に絵馬堂が見え、祭神は海の神であるから、漁業や船舶関係の奉納額が多い。
住吉踊りの発祥地でもあるため、その流れを汲む江戸芸、〈かっぽれ〉の一門が奉じた連名額も目立つ。末社本社が並ぶ正面奥の手前に池に架かる反橋があり、木組み板張りで赤い欄干のそれは、「住吉さんの太鼓橋」として知られている。そして境内あちこちには、古くから奉納されてきた巨大な石灯籠が立ち並んでいる。大坂材木大問屋、北国積木綿屋中、阿州藍玉大阪積……』
上方落語の舞台にもなっており、『住吉駕籠』はその代表例。となりの堺と昔の大坂の街の中間にあるので、ここの鳥居の前で駕籠屋が客待ちをしていた。そこから始まる抱腹絶倒の噺である。ところでクイズをひとつ。
上記長篇小説は、誰の、何という作品でしょう?
そうか。ここが「ためいき坂、くちぶえ坂」だったのか!
右。玄関右下、笑福亭松鶴邸跡と掘られた石。
ゆるやかな坂道を下っていくと、「えっ。ここがそうやったんか!」と驚く家屋に出くわした。六代目・笑福亭松鶴師匠の旧宅跡で、いまは「無學」という看板の掲げられた不定期開場の寄席(?)になっている。「師匠は長らく長屋住まいで、晩年、一戸建てを買って移りはった」 そう覚えていたので、最初はここがその移転先かと思ったのだ。
しかし思い出せばそれは住之江区だったはずで、ここはまだ住吉区帝塚山西。「あっ。そしたら、ここは長屋のあった場所か。ということは、この坂が、笑福亭松枝さんの本のタイトルになってる、『ためいき坂、くちぶえ坂』か!」
それがわかって、興奮がいや増したのである。
ただしその本に詳しく書いてある間取りによれば、そこは落語に出てくるような長屋ではなく、狭いながらも連棟式の二階建て住宅。また当方、『六代目松鶴・極めつけおもしろ人生』という自伝に掲載されている室内写真を、その「長屋」のものだと思っていたのだが、帰って確かめてみると、移転後数年たってからの発行だから、住之江区の家屋内らしい。手持ち資料のなかでなら、『毎日グラフ』昭和49年7月7日号、「上方お笑い総まくり」という特集に載っている写真だけが、間違いなく昔ここにあった長屋なのである。
いろいろわかって、満足いたしました。
思いがけず、こういう光景が撮れました。
右。ここで「地獄八景」の奉納落語会なんかどうかな?
下が南海高野線、上が阪堺電車の上町線。万代池から大体の見当をつけて住吉大社方向へと歩いていったところ、この立体交差点に出た。「これはこれは。上を電車が通れば、さながらポール・デルボーの絵ではないか!」
そう思って通過を待ち撮影したのだが、どうも昼間ではデルボーにならない。あれはやっぱり、夜に限るようなのだ。鉄ちゃんなら、さらに待って上下とも通過というシーンを狙うのだろうが、当方、ちょび鉄ちゃんであるから、これでよしとした。持って歩いているハンディマップで確かめると、
行政側がちょうどいい境界ポイントだと思ったのか、ここは四つの町名の接点になっている。帝塚山西、帝塚山中、帝塚山東、そして住吉なのである。
右のお堂は、天文7年(1538)にできたと伝えられているそうだ。六道の辻の閻魔地蔵と呼ばれており、それはこの堂を接点にして六方向への小道が交差しているから。
ただしこれまた地図で確認すると、現在は一本増えて七方向になっている。とにかく入り組んだ小道の多い地区で、途中で見当識が狂い、逆方向に歩きだしていたのである。
つまりまあ、それだけ古い町だということですね。
左、前身校は、民間からの土地寄付で設立。
右、曼陀羅池がなまって、万代池になったそうです。
府立大阪女子大学は、ラジオ大阪、中西ふみ子アナウンサーの出身校である。しかし2005年から、大阪府立大学および府立看護大学と統合されて、新しい大阪府立大学になった。つまり女子大は無くなってしまった。
またそれ以前の1976年に、帝塚山から堺市に移転しており、以後こちらのキャンパスは看護短大が使っていた。
さらに現在は建物の大半が放置されていて、一部のみ大阪府の公文書館になっている。
中西アナ在学時は人文学部だけという小ささで、国文・英文・社会福祉・生活科学の各学科とも一学年40名と聞き、「高校より小さい大学か!」と驚いた。所在地も校舎も知らなかったのだが、国立も公立も似たようなものだろうと、昔、中之島にあった阪大医学部の校舎から類推し、「どうせ、ずず黒い校舎で、冬になったら各教室の窓から、ストーブのブリキ煙突が出てましたんやろ」と言ったところ、
当たっていたので大笑いになったことがある。
前身は1924年に開校した府立女子専門学校。
横手に万代池があり、これは航空写真で見ると扇をいっぱいに広げた形をしている。「昔、この池に魔物が出たので、鎮めるために聖徳太子が曼陀羅経を上げさせた」という話が伝わっているとのこと。阿倍野区の桃ヶ池に似た話であるが、この周辺は魔物の棲息地だったのか?
左、帝塚山は、ゆるやかな坂道の多い街です。
右、旧・熊野街道と、延々と塀がつづいている邸宅。
大阪市中央区から、天王寺区、阿倍野区と南に長く伸びる上町台地は、住吉区帝塚山あたりを南端にしている。だからこの住宅街には坂道が多い。昔はこの台地を同じく南北に、これも中央区の天満橋、旧淀川の船着き場から始まる街道が通っていた。紀州の熊野詣でに使われた熊野街道で、随所に昔の道特有のゆるやかなカーブがある。
そしてこの高級住宅地は、昔は畑が多かった土地を、明治末期から住宅地として開発したものだという。当時の地名は大阪府住吉郡住吉村。大正初期に東成郡となり、大阪市に編入されたのは大正14年だそうだ。『空から見た大阪1953』(岩波写真文庫・復刻ワイド版)にいわく。
「南の郊外、阿倍野から住吉区にかけての高台は、大体において高級住宅街である。帝塚山は、その中でも最高級に属する。ひらけはじめのころ、大阪の豪商たちは競ってここに私宅を建てた。かれらが芦屋に進出しはじめたのは、ここが一ぱいになったからだという」 
空撮した住宅写真が掲載されているのであるが、昭和28年において、まるで殿様の御殿のような豪壮な邸宅が並んでいる。現在も和風邸宅は残っており、その写真も撮ってきたのだが、道路上からでは全容が伝わらないのだ。芦屋と同等というところから、往年の雰囲気を御想像あれ。
左、「お嬢さん」学校として知られた、帝塚山学院。
右、その近くにある帝塚山古墳。
今回からは住吉区で、まずは帝塚山である。
昔から高級住宅地のイメージが強く、その影響でか、ここにある帝塚山学院も「お嬢さん」学校として知られてきた。大正6年に小学校、翌年に幼稚園、そして大正15年に高等女学校が開校開園し、現在は幼稚園、小学校、中学高校と揃っている。大学は昭和25年に短大、41年に四年制大学もできたのだが、その後大学の学部増設にともなって、短大は廃止されたのだそうだ。
学生時代、知り合いの家の「お嬢さん」がその短大に通っていて、それで当方、イメージに納得していたのだがな。
現在は中学と高校のみ女子校で他は共学。
大学のキャンパスは大阪市外にあり、奈良へ向かう近鉄の車窓から見えるので、ぼくは長らくそこだと思っていた。しかし、それはこの帝塚山学院大学ではなく、帝塚山大学なのだった。こちらは「帝塚山学院」、奈良の方は「帝塚山学園」。ところが後者は昭和16年に、前者が創立25周年記念事業として設立したというのだからややこしい。現在、経営はまったく別とのことである。なお帝塚山という地名は、江戸時代から一般化しており、丘の上に大帝塚、小帝塚と古墳がふたつあったのだそうだ。現存しているのは小帝塚で、5世紀初めの前方後円墳だという。