大阪ランダム案内。此花区〜西淀川区。

アラヤをシンケとは、アラ恥ずかしヤ。
左、ノコギリ屋根の工場棟。右、巨大な研磨設備。
聞いた名前と読んだ名前を、長らく別物として覚えていた。
そんな経験がいくつかあって、「アラヤ」という社名は「ツバメ号」自転車とともに、子供のころから聞き知っていた。一方学生時代、国鉄(現JR)で西淀川区を通過するとき、グリコのとなりに見える工場の看板は新家(シンケ)工業と読み、アラヤとは別の会社だと思っていた。アラヤすなわち新家であると知ったのは、恥ずかしながら社会人になってからなのだ。
もうひとつ例示すれば、梅林で有名な和歌山の南部。これをぼくはナンブと読み、耳で聞くミナベは、同じ和歌山の田辺のように、「辺」の字を使う地名だと思っていた。アホじゃがな。で、それはともかくこの新家工業、同社の公開資料によれば、明治36(1903)年に自転車用木製リムの製造を始め、大正4(1915)年には金属製リムの製造に成功している。
現在では自転車関係ばかりではなく、各種鋼管や産業機械部門も有している由。これらについてはまったく知らなかったので、一驚したのである。写真は関西工場の一画。ビル棟の写真も撮ってきたのだが、ノコギリ屋根の連なりに懐かしい感じを受けたので、これを選択した次第。
おまけ、アーモンド、切手。これが我がグリコ体験だ。
左、本社ビル。右、数多い工場棟のひとつ。
西淀川区の東端には、JRの東海道本線が走っている。塚本駅からそれに沿って北へ歩くと歌島で、ここにはグリコの本社と工場がある。広い敷地と多くの建物。
大学時代、この会社が販促関係のバイトを募集していたので申し込みに行ったところ、人気企業のこととて、すでに満杯だった。面談場所は確か木造の建物内の、テーブルと椅子がずらりと並んだ商談スペースだったと覚えているが、今回、外から眺めたところでは、そんな棟は見あたらなかった。それも当然、四十年ほど前の話なのだ。
そしてもっと古い話をするなら、ぼくにとってグリコといえば、おまけつきグリコとアーモンドグリコ。おまけは幼稚園の頃から集めていたし、アーモンドの香ばしい味を知ったのも、小学校低学年時代に発売された、このキャラメルによってだった。
しかもこれには、箱の中に一枚ずつ世界の切手が入っていた時期もあった。そのため子供たちの間に切手ブームが巻き起こり、ぼくもきっちりコレクターになっていたのである。
以来ほぼ半世紀。集めたおまけはとうに散逸してしまったが、切手はいまも保存している。これは確かに箱に入っていた切手だと、覚えているものもちゃんとあるのだ。
さぞや昔は、のどかな里だったのでしょうね。
左、国道2号線に面して。右、神社の境内にて。
阪神電車姫島駅のガードを東へくぐれば、町名は姫里と変わる。さらに東へ歩いて国道2号線を渡ると野里。なおも東へ進めば柏里と、「里」のつく地名がつづく。
以前あちこちの商店街を歩いたことがあり、そのとき写真の野里本町商店街をぬけたあたりで、道の曲がり具合などから、「ここらは古い町らしいな」と感じていた。
今回歩き直してみて、当時の印象の正しかったことがわかった。商店街の東に野里住吉神社があって、その境内には「野里の渡し」跡を示す碑が立っている。明治時代の淀川水系大改修工事で新淀川が開かれるまで、この神社の南側には中津川という川が流れており、明治9年に「かしわの橋」が掛けられるまで、そこを渡し船が往復していたのだ。
また、野里がひらかれたのは南北朝時代。柏里に至っては、神功皇后ゆかりの地名だという。そこまで古くなると情景の想像もしにくいが、「里」と「渡し」のイメージからなら、上方落語の古典めかした新作ができそうに思う。
「喜六・清八の二人連れ、一遍、尼崎の御城下を見物しようやないかと、やって参りましたのが中津川は野里の渡し。お〜い、船頭〜っ」などと、江戸時代後期の、のんびりした光景がうかんでくるのである。
「ええかげん」な判断を、あらためました。
左、遍満寺。右、その歴史を記した案内板。
ぼくは小説で何か特定の問題を扱うときには、公正を期すため各種資料を読んだのち、自分なりの判定を下すようにしている。だが日常生活では世間の皆さん同様(失礼!)、実に「ええかげん」な判断をすることが多い。
姫島に関しても、阪神電車の夕方のラッシュ時、混雑していた梅田発の普通電車が、姫島でどっと乗客が降りて座れるようになるという、ただそれだけの経験から、こう判断していた。「戦後から高度成長期に発展した新興住宅地で、近くに大型団地でもあるんだろう」
そんな歴史の浅い街でなかったことは、前回紹介した姫島神社でよくわかった。そして、同じく旧大和田街道に面しているこの遍満寺も、案内板によれば創立が天文六年(1537)。
戦国時代に入ってすぐという頃で、そういえば近くには大和田城址の碑もあるのだが、これは天正八年(1580)に織田信長が築かせたものだという。陸路にせよ、川から海へという水路にせよ、このあたりは京から西国へ向かうときの要衝だったのだ。恐れ入った次第であって、姫島についての認識が大きくあらたまった。歴史小説、時代小説を書く作家なら、その舞台にできるほどの街だったのである。
そうか。稗島は姫島だったのか!
左、姫島神社。右、旧街道の案内標石。
西淀川区の大和田から南東方向に歩くと姫島で、ここには旧「大和田街道」が通っている。中之島の昔の難波橋から尼崎に至る街道だったそうで、なるほど阪神電車姫島駅の近くには、いかにもそれらしくカーブした細い道や、古い家屋が残っている。写真はその街道に面した姫島神社だが、
ここに住吉大神とともにまつられている阿迦留姫命(アカルヒメノミコト)は、伝説によれば朝鮮半島の新羅から逃げてきた女性だという。あるいは阿迦留姫信仰を持つ部族が、九州経由でこの地に渡来したのだろうともいう。
境内には破断された巨大なクスノキの幹が残っており、往年落雷でもあったのかと思ったら、そうではなかった。昭和二十年六月の空襲で焼かれたのだそうだ。
また姫島という地名は、なまって「ひえじま」と発音され、古くは稗島とも表記されていた由。以上のことすべてを、ぼくはまったく知らず、特に稗島など、戦前の大阪のことを書いた本にこの地名が出てきて、「はて。これはどこのことだろう」と疑問に思っていたのだが、今回ようやく氷解した。尼崎の手前の佃。そこの住民が江戸に移り、住んだのが佃島、作ったのが佃煮であるということは、なぜか知っていたのだけれど。
これは何だ。煙突か、エレベーター実験塔か?
左、高層マンションよりぐんと高い。右、中央制御室。
西淀川区大和田にそびえたつ、高くて大きな円柱形の構造物。これは周辺四方のかなり遠くからでも視認できる。だから、「あれは何だろう。煙突にしては、もくもくと煙を吐く姿を見たことがないし」と、首をかしげている人も多いだろう。実は平成7年に竣工した大阪市環境事業局の西淀工場、すなわちゴミ焼却工場で、ぼくは以前見学させてもらったことがある。
管理棟内は静かで清潔。中央制御室のずらりと並んだモニター画面や、正面の稼働系統図らしい表示盤からは、これも見学したことのある交通管制センターや、地下鉄の司令所を思い出した。コンピューターによる集中管理が一般化した現在、中枢部の光景はどこもよく似ているのだ。
違っているのは処理の現場で、ピットと呼ばれる巨大な槽に投入された大量のゴミを、遠隔操作のクレーンで焼却装置へと移していく。モニター画面で見た炉内は、灼熱の溶鉱炉にも見えたのだ。焼却能力は、一日600トン。
そして排ガスは濾過式集塵装置、触媒脱臭装置、排ガス洗浄装置で処理されたあと排出される。ぼく自身、阪神電車の車内からほとんど毎日この煙突を見ているのだが、まだ濃い煙を見たことがないのは、その効果なのだろう。
有と無、どちらも「時代」を思い出させる。
左、再建された神馬。右、こじんまりとした本殿。
住吉という名の神社は各地に多数あって、阪神電車西大阪線、福駅の近くにもある。住宅街のなかに埋もれたようなこじんまりとした神社で、ぼくは最初、そのまま通り過ぎかけた。だが、立派な神馬の像に気づいて境内に入り、台座にはめこまれたプレートを読んで、思わずうなっていた。
ここには元来、大正十一年に氏子から奉献された神馬があったのだが、太平洋戦争開始から丸一年の昭和十七年十二月、金属資源回収のために供出された。以来五十数年という歳月が過ぎてのち、平成六年十一月、社殿改修事業にともなって再建されたというのである。
戦争中の金属資源回収については、全国各地の銅像や釣り鐘はもちろん、家庭の鍋釜や火箸に至るまでが、その対象になったと聞いている。それらは集められ溶かされたあと、武器砲弾をはじめとする軍需品に化けたのだ。
ところで、当方の「うろつき」体験によれば西区の九条に、皇紀二千六百年記念、八紘一宇という文字の刻まれた国旗掲揚柱の台石が残っている。残ることによって「時代」を伝えるものがある一方、撤去されたことによって、それを思い出させるものもある。人を立ち止まらせ考えさせるという点で、その効用は同等なのだ。
自転車で散歩する人、ウインドサーフィンをする人。
左、緑の遊歩道。右、すぐ近くの淀川堤防。

大阪市内に仕事場をつくり、長らく阪神電車で「通勤」してきた。だから尼崎や大阪市北部という沿線の街は、車窓を流れていく光景としてのみ、見知っている状態がつづいた。
そこであるとき、自転車で4時間ほどかけて大阪まで走ってみた。電車内から見えている景観や建物を、随所で確認していったのである。そのひとつが今回紹介する遊歩道で、阪神電車とは姫島駅の西で交差し、山側、海側ともに、さらに長く伸びている緑地帯。 「廃線の跡地かな。あのあたりに鉄道は通ってなかったはずだけど」と、長らく疑問に思っていたのだが、実はこれは大野川という川の跡地なのだった。
大阪市の公開資料によれば、神崎川と新淀川を結ぶ川筋だったが、地盤沈下、風水害、汚濁による悪臭などで機能が低下したため、公害対策と環境改善を目的に埋め立てたという。正式名称は大野川緑陰道路。大野川は延長約6qだったが、この道路は約3.8q。埋め立ては昭和45年度から、整備は翌46年度から始められ、昭和54年度に完成した。
地盤沈下と公害への対策。まさに、その時代の西淀川区を象徴する工事だったわけである。写真は阪神西大阪線の近くで撮影。リラックスできる静かな雰囲気でした。
宮崎アニメ風の写真、撮っておくべきだったなあ。
左、合同製鐵。右、その横手にはこんな船溜まりが。
広告マン時代、クライアントに製鋼会社があり、同僚が物置の広告を作ったりしていた。その社が遊休地利用でボーリング場をオープンするときには、ぼくも販促企画のチームに参加した。だから西淀川区の湾岸近くに、その会社および別の製鉄会社の工場が並んでいるのは知っていた。
ただし当時現場へ行ったことはなかったのだが、年月が過ぎてから、一度行って写真を撮ろうと思うようになった。なぜなら、阪神電車で淀川の鉄橋を通過するとき、その方向に異様な構造物が見えるようになっていたから。すなわち、どちらの会社の設備なのかはわからず、老朽化のためか生産調整のためか、廃棄の理由も知らないのだけれど、複雑な塔やパイプからなる巨大な構造物が、真っ赤に錆びた姿で放置されていた。何か宮崎駿氏のアニメにでも出てきそうな、不気味さが魅惑的でもあるという、そんな雰囲気を示していたのだ。
だが、行こう行こうと思っているうちに解体が始まり、あっという間にその姿が消えてしまったので、結局写真は撮れないままとなった。惜しいことをしたと、いまも思っているのである。
無論、これは関係者には不愉快であるかもしれない、部外者の勝手な思いに過ぎないのだが。
この淀川は、本当は新淀川なのである。
左、河口付近から上流を。右、下流すなわち大阪湾を。
今回からは、淀川北岸の区を歩いていく。写真は西淀川区の西の端、淀川の河口近くから、川越しに大阪の中央部を望んだもの。川幅といい水量といい、さすがは大阪を代表する川だと感心したのだが、同時に疑問もうかんできた。
この淀川、ぼくが小学生だった昭和三十年代の前半には、確か新淀川と呼んでいたのだ。そこで確かめると、その当時の地図はもちろん、昭和五十五年(1980)に発行されたものにも、新淀川と表記されていた。そして淀川という名称は、都島区と北区の間を蛇行していく大川につけられている。
実際、上方落語でおなじみの三十石船も、そのコースで上下していたのだ。ちなみに新淀川は、明治二十九年(1896)に帝国議会で承認された、淀川水系大改修計画の一部として作られた。毛馬あたりから、長さ15キロ、川幅おおむね750メーターという規模で人工川を開いたわけで、明治四十二年(1909)の六月に完工しているのだ。
「ということは、以来少なくとも七十年あまりという長い年月、あの川は新淀川だったのだ。それがなぜ、いつから、新の字が消えたのだろう」 淀川と表記されている現在の地図を見つめて、首をひねることしきりなのである。
湾岸地帯チェックのために通った橋だ。
左、天保山大橋。右、河口から大阪湾を望む。
安治川の河口で、此花区と港区を結んでいる、阪神高速5号湾岸線の天保山大橋。十年前、ぼくはここを通過しながら、写真を撮り、メモを取ったことがある。『大阪路線バスの旅』という本の原稿で、湾岸地帯を走りぬけて景観変化をルポするため、三宮から関空まで、リムジンバスに乗ったのだ。
いまその書籍をひっぱりだして見ると、尼崎市部分はこう書いている。「左に鉄鋼会社の工場がある。関西電力の発電所がある。石油タンク。ガスタンク。煙突。煙。鉄塔。錆の色」 
また大阪市内に入ると、「西淀川区から此花区。このあたりは尼崎と同様の工場が並び、安治川河口付近には造船会社らしきクレーンも見える。遠くに眼をやれば、市内中心部の高層ビル群も眺められる」 そして、この大橋の上から眺めた大阪市の中心部は、いつもとは異なる新鮮な景観になっていた。
そのあと南港のコンテナバース、堺市の巨大な石油精製工場地帯など一驚する光景も多く、大いに満足していたのである。さて。というところで、此花区の紹介は今回で終了。
東西に長く、交通の便が少々悪かったけれど、興味深い史蹟や建物が多くておもしろかった。次回からは、淀川北岸の区を歩くつもりである。
その複雑さは、想像の域を超えてます。
左、ゲート前。右、ポパイもいる会場内。
広告マン時代、イベントの仕事も担当しており、単発のフェアくらいなら全体統括ができた。国際見本市クラスのものも、開催前、いつごろから主催者が会議を始めるかくらいは知っていた。しかしその全体統括となると、複雑過ぎて見当がつかない。まして、万国博のように長期開催される巨大イベント、さらには恒常開催されるテーマパークとなると、こちらの想像の域を超えるのだ。実際、2001年にオープンしたユニバーサル・スタジオ・ジャパンも、80年代後半にアメリカで検討が開始され、90年代の十年をかけて準備が進められてきたという。
そこで思い出せば、その間、某大企業の東京本社に勤務する友人が、定期的に大阪へ出張してきていた。USJ計画の会議に出るためだが、日米双方の発言にいちいち通訳が入るので、なかなか議事が進行しないとぼやいていたものだった。
そして彼が人事異動で担当をはずれ、こちらもそんな話は忘れていて、あるときふっと気がつくと、アルバイトの大量募集が始まっており、梅田あたりには大道芸人募集の貼り紙も出た。元企画マンとしては、そこに至るまでの複雑多岐な道筋を、チャート化して教えてもらいたくなってくるのである。
人の記憶は、いかに当てにならないものか!
左、安治川口の貨物ターミナル。右、その全容。、
記憶というものは、時間の経過とともに必ず変形する。
今回も、安治川の河口あたりを歩いて、関連記憶が何重にも変形し、ほとんど「でたらめ」状態になっていることを確認させられた。まず、左の写真はJR安治川口駅のホームから撮った光景だが、ぼくの記憶では、以前ここには日立造船の工場があったはずなのだ。だが昭和55年発行の地図を見ると、所在地はもうひとつ河口寄りの桜島だった。
次に、広告マン時代、汽車製造という会社へ撮影に行ったことがあり、それは桜島にあったと覚えていた。ところが、さらに古い昭和33年発行の地図でさがすと、それこそが安治川口駅前にあった工場で、しかしこの写真の方向ではなく、駅の反対側だった。おまけに、プラモデル少年だったぼく、戦前に駆逐艦などを建造していた藤永田造船所という会社名を知っており、それは後年、日立造船と合併したと記憶していた。けれども実際は、昭和42年に三井造船と合併していたのだった。
しかも念のいったことに、藤永田造船所があったのは、安治川ではなく、大正区の木津川の河口だった。
「人の記憶はこんなにいいかげんなものなんだから、裁判の証言など、うかつにはできんな」と思ったことである。
巨大な工場や施設にも惹かれるのだ。
左、生コン工場。右、近くのガードとセメント資材置き場。
写真左は、六軒家川沿いにある生コン会社の工場設備。
冬空の下にそびえたつ、この幾何学的かつ無機質な光景はどうだろう。当方、こういったシーンにも魅力を覚えるのであって、前回の水門同様、その理由はわかっている。
新潟市内で過ごした小学校低学年時代、探検のつもりで信濃川方向へと歩いていったところ、巨大な塔やパイブがそびえたつ工場に出くわした。子供の視線で仰ぎ見たそれは、無彩色の空を背景に、圧倒的な迫力でのしかかってきた。
しかもあたり一帯、なぜか道路は真っ黄色に染まっており、不気味さも感じさせられたのだ。だから、「あれはいったい、何の工場だったのか」という疑問は長くつづいたのだが、先年、昭和三十年代の新潟市街地図を入手して、ようやく氷解した。
硫酸製造工場だったのである。ともあれ、巨大設備に対する憧憬の念は強く、そこにはもうひとつ理由があることも自覚している。学校を出て広告マンになり、そのあと作家になった。それぞれ夢を実現させたわけだが、その人生には、「物作り」の経験がきれいさっぱりと欠落している。
心の片隅で、「本当は、そっちが世の中の土台なんだぞ」という、負い目引け目を感じているからなのである。
河口の怖さ、水門の怖さとは何か?
左と右、冬空・鉄橋・川べりの工場。そして巨大な水門だ。
西九条を安治川沿いに西へ歩くと、工場や倉庫エリアとなる。
安治川に六軒家川が合流して、幅広の流れになる地点も近い。だから小型の貨物船やクレーンを積んだ船が停泊しており、高潮を防ぐ水門もあって、光景は河口地帯の雰囲気を漂わせだす。そしてぼくは、そういう場所を歩くと心の奥底で「怖さ」がうごめくのであるが、その原因はわかっている。
小学校の低学年時代を、父親の転勤によって新潟市内で過ごした。学校のすぐ裏手は砂丘の松林であり、近くには信濃川治水のために掘られた分水路の河口もあった。分水路とはいえかなりの川幅と水量で、河口付近に造られていた水門は、重く暗い冬空の下、不気味なシルエットを見せていた。
そのとき感じた、泣きだしたくなるような怖さが心の底に残り、いまでも、河口地帯へ行くとうごきめきだすのである。そこで今回は、その怖さを求めて撮影をしに行ったのだが、安治川のアーチ状の水門、六軒家川の扉状の水門、どちらの巨大構造物も補修工事中だった。「工事が完了したら、シルエットを撮影するべく、今度は夜に来ようか」 などと思ったものの、う〜む、大の男が泣きだしたら、みっともないしなあ。
橋ない川は渡れんてなことを申しますが……
左、川底に掘られたトンネル。右、その出口。
JR環状線の西九条駅を南へ少し歩くと、安治川に行きあたる。しかし、広めの道路は東西方向のそれとT字交差しており、正面はコンクリートの堤防で橋がない。
だから、初めてここへ来た人は、対岸へはどこから渡るのかと、とまどうかもしれない。だがあたりを見まわせば、通行人たちが、小型ビルの前に集まっていることに気づくだろう。
それがすなわち安治川トンネルの昇降口であって、ほどなくエレベーターが上がってきてドアがひらくと、西区の九条側から来たおじさん、おばさん、自転車通学の高校生などが出てくる。交替で乗り込んで地下に着けば、今度は乗ったのとは反対側のドアがひらき、そのまま川底に掘られたトンネルで対岸へ渡れるのである。
もちろん西区側のエレベーターも、乗るときは手前のドアがひらき、地上に出るときには向こう側のドアがひらく。これらの操作は市の係員がしてくれるわけで、利用者たちは口々に「ありがとう」と礼を言って出ていく。その習慣だけからでも、無料で利用できるこのトンネルが、地域の生活に長年密着してきたものだとわかるのだ。ちなみに、完成したのは昭和十九年(1944)の九月。無論ぼくも、ありがとうと言ってきました。
右の淀川鉄橋を、近い将来、近鉄特急が渡るのだ!
左、手前左が阪神、正面がJRの西九条駅。
阪神電車の西大阪線を、ぼくは比較的新しい路線だと思っていたのだが、旧称・伝法線としてなら、大正末期に一部区間の営業を開始している。西九条まで延びて西大阪線と改称したのが、昭和三十九年(1964)なのだ。
ところで、ぼくのデビュー作、『決戦・日本シリーズ』は、阪神タイガースと、いまはなき阪急ブレーブスが日本一を争い、勝った方の親会社の電車がファンを満載して、負けた方の路線を凱旋パレードするドタバタ小説だった。
当時、西宮市今津で両社の線路がつながっており、戦争中は物資輸送に使われたという。そこから着想したもので、他社の路線を走る電車という、非日常的な感覚が好きだったのだ。
だから、阪神と山陽の特急が相互直通運転しだしたときには、すぐさま姫路まで行ってみたし、西大阪線の延伸工事についても、完成を待ちわびている。
西九条からJR環状線の高架をまたいで安治川を渡り、九条あたりからは地下路線になって、岩崎橋、汐見橋から近鉄の難波駅に至る。これができれば阪神と近鉄が、三宮と奈良間を相互に直通運転するというのだ。鹿と遊んで、難波へ来て、大阪の市街を海側から眺めつつ神戸へ向かうという、この新感覚。開通したら、私は必ず乗ります!
四貫島で、桂吉朝さんを思い出した。
左、ヤタガラスの故事。右、確かどこかで見たような。
伝法の南の端、正蓮寺川にかかる森巣橋を渡れば、地名は四貫島と変わる。森巣橋筋というアーケード商店街があり、そこからさらに南へと、北港通りをはさんで、いくつかのアーケード商店街が断続している。
北港通りに出たとき、突然、先般若くして亡くなった桂吉朝さんのことを思ったのは、平成二年(1990)、彼が落語作家の小佐田定雄氏とともに「第七回・咲くやこの花賞」を受賞したとき、こんな冗談を言った記憶があるからだ。
「咲くやこの花賞。ははあ、四貫島あたりの交通量調査か何かが、認められましたんやな」
ぼくが若い時代に此花区四貫島という地名を覚えたのは、ラジオの交通情報で、渋滞地点としてよく出てきていたから。
現在も、ダンプやコンテナトラックがひんぱんに行きかっているのである。それにしても、取材中の交差点でいきなり吉朝さんを思い出すとはなあ。
なおアーケード商店街には、写真のごとく途中で左右に別れる部分もあり、これとそっくりの場所を、ぼくは過去にどこかで見たと感じた。日本全国の各地方から一都市ずつ選んで探訪し、それぞれの街を舞台に連作長篇を書いた。そのとき四国か九州で見たと思うのだが、それとも東北だったかな。
また、左の写真は伝法の南端にある鴉宮の案内板。
豊臣秀吉が航海する折り、ここの神社に安全を祈願したら、三つ足のカラス(ヤタガラス)が現れ船を守った故事により、
秀吉の意向によって鴉宮と命名された由。
カバヤと言ったら、あのカバヤだ!
チョコレートの匂いがただよう、カバヤ食品大阪工場
此花区の伝法は、ぼくにとって「驚き」が連続する街だ。
旧鴻池の史蹟や澪標住吉神社につづいて、今度はカバヤ食品の大阪工場が出現したのだ。 「えっ。カバヤって、あのカバヤか?」 あのカバヤもこのカバヤも、カバヤと言えば他にはない。当方が小学校低学年だった時代、カバそのままの色と形をした宣伝カーがまわってきていた、あのカバヤだ。
キャラメルを買って、カードをためるのだったか、とにかく申し込んだら本がもらえた、あのカバヤだ。蜜蜂マーヤとかダルタニアンとか、ぼくが子供向けにダイジェストされた名作を初めて読んだのは、このカバヤ文庫だったのだ。 「う〜ん。そのカバヤの工場が、こんなところにあったのか!」  
しかもこの大阪工場はその時代の開設らしく、門柱といい正門横の受付所といい、懐かしいスタイルと雰囲気を示している。どっと感慨におそわれた団塊世代のおじさん、しばらく立ちつくして、我が「三丁目の夕日」時代を思い出していたのである。ちなみに、カバヤ食品のホームページによれば、創業は昭和二十一年。本社所在地の岡山および大阪と茨城に工場をもち、各種の菓子を製造販売しているという。
御発展をお祈りいたします!
今度は、遣唐使が出てきたぞ!
左、澪標住吉神社。右、澪標の由来説明。
此花区の伝法四丁目で、突然、旧「鴻池」本店と本宅に行き当たって驚いた。前回そう書いたのだが、同じ場所でふりむくと、道一本へだてた三丁目に神社があり、その名称を知って、またまた驚いた。澪標住吉神社。航路標識であり、大阪市のマークにもなっている、あの「みおつくし」が冠されているのだ。境内の案内板によると、延暦23年(西暦804)、遣唐使の航路安全を祈願してほこらを造り、一行の帰路を迎えるため澪標を立てたのが始まりだという。そして後年、土地の守護神、海上交通安全の神として、社殿や境内が整えられたというのである。だから拝殿の賽銭箱につけられた金紋も、澪標と三ツ巴を組み合わせたものになっていた。
「ひええっ。福島区の野田で織田信長時代の城址にびっくりしてたら、今度は遣唐使か!」
仰天した当方、帰ってすぐさま年表を確認したところ、なるほど延暦23年には遣唐使として、藤原葛野麻呂が出発している。桓武天皇の時代であり、坂上田村麻呂が征夷大将軍に再任された年でもある。
「なるほどそうか。都は京都にあっても、唐へ渡るほどの大きな船は、大阪から出発せざるをえなかったわけだな」
あたりまえのことを再認識して、納得していたのだ。
いやまあ、大変なもので!
左、旧「鴻池」の本店。右、同じくその本宅。
伝法四丁目で、突然、明治風の西洋館に行き当たったときには驚いた。何かの史跡であるらしく、表には案内板が立てられている。そこで近寄って説明を読んだところ、さらに驚いた。木造二階造りのこの建物は、何と旧「鴻池」の本店であり、となりの町屋式住宅は本宅だったというのだ。
「何でまた、此花区のこんな場所に。
鴻池といえば東区(現中央区)の今橋だろうが」
上方落語ファンのぼく、首をひねりつつ写真を撮っていたのである。そして帰って調べたところ、明治四十三年(1910)の建築で、本店内部には写真集ができるほどインテリアや家具が揃っていること、往年、裏手には伝法川が流れており、本宅の縁側から釣りもできたことなどがわかった。
(以上は大阪市のホームページ、此花区の項目より)
また鴻池組および鴻池運輸の沿革資料によると、御堂筋にある現在のビルが落成したのは昭和四十三年(1968)、それまでは伝法のここが、本社本店所在地だったという。
鴻池善右衛門→運送、酒造、両替→今橋の大店→上方落語「鴻池の犬」、ここから御堂筋の本社ビルへと飛んでいたぼくの知識系列に、新たな項目がはさみ込まれることになったのだ。いやあ。おもしろいですねえ、街の観察は!
周辺も、建物内も、全然臭いはいたしません。
左、下水道科学館。右、その向かいにある下水処理場。
此花区高見にある、大阪市都市環境局の下水道科学館を見てきた。別に「取材です」と言って申し込んだわけではない。入場無料だから、ぶらりと行って勝手に見てきたのだ。水と生命、水のふしぎ、大阪市の下水道など、各フロアにはテーマ別の展示があり、映像による紹介もされている。関連図書を集めたライブラリーもあり、ここには江戸時代の大阪の町の下水施設が、農人町の家並み模型で示されている。上方落語ファンのぼく、「なるほど、なるほど」とばかりに、見入っていたのである。また、地下一階では巨大な下水道を掘り進める技術が紹介されており、シールド工法で使うコンクリート・セグメントの実物が展示されていて懐かしかった。
昔、東京都の下水道を取材するため地下三十メーターの工事現場にもぐり、地下の暑さとトンネルの巨大さに驚嘆したことがあるからだ。なお、この下水道科学館へは日曜の昼前に行ったのだが、すぐそばに高層団地があるためか、子供連れの見学者が多かった。大阪市の広報番組関係なのか、テレビの撮影チームも来ていた。勉強になっておもしろかったので、ぼくも広報しておくことにしよう。
「下水道を扱ってるけど、全然臭くはありませからどうぞ」