大阪ランダム案内。ミナミ〜新世界〜天王寺。
この界隈は、わからんことが多かった。
天王寺〜阿倍野
左の写真、手前はJR天王寺駅で、そのむこうが近鉄百貨店および近鉄阿倍野駅。昔の国鉄時代、天王寺は「民衆駅」だと聞き、「民衆がよく利用する駅なのか。駅ってどこでもそうだろうが」と思ってたら、駅舎を民間の資金で建てたら、民衆駅と称するとのこと。それって鉄道省時代からの、いかにも官尊民卑的な呼称じゃないのかね。
また、豊中や西宮で育ったので、大阪市内の行動範囲は北側が多く、あまり南へは来ない。だからぼくは大学時代まで、天王寺と阿倍野は離れた場所だと思っていた。
両駅が向かい合わせにあると知ったのは、サラリーマンになってからなのだ。同じくその時代まで、次回に紹介する有名なお寺「四天王寺」も、天王寺だと思っていた。駅名、地名がそうだし、落語に出てくるときも天王寺と呼ばれているからだ。ああ、ややこしい。
右の遠景は天王寺公園の森。そのなかには、動物園や美術館がある。通り抜けのできる道路では、長らく屋台のカラオケ(大阪的商売!)が並び、賑わっていたのだが、昼間からやかましくて美術館の客がクレームをつけ(そら、無理ない!)、道交法違反でもあるというので、先年、強制撤去された。私が見にいったときには、大衆演劇の扮装をしたおっさん、おばはんが、カラオケに合わせて踊ってましたからな。いやまあ、実にどうも。
左の写真は、何を見せたいのか?
西成区山王〜旧称・飛田(とびた)
ジャンジャン横丁をぬけて国道43号線を渡ると、黒岩重吾氏の小説でおなじみの、西成区山王に入る。ここにある動物園前1番街は、途中で分岐やカーブもする長い長いアーケード商店街で、初めて歩いたときには、
「延々とつづく商店街の魅力は、観光寺院にある『胎内巡り』のそれに通底するのではないか」と思ったりした。なにしろその当時は、となりの阿倍野区、JR天王寺駅近くのアポロビル裏手まで、アーケードがつづいていたのだ。
(いまはそのあたりのアーケード街はなくなり、大阪市立大学医学部や、付属病院の高層ビルがそびえている)
一方、そこまで行かずに途中で曲がると、飛田の旧遊郭地帯がある。左の写真、小さくて見にくいが、画面奥の左右に立つ異様に高い門柱と塀の跡が、その時代の名残り。以前は近くに、高い塀そのものも、まだ残っていた。日常生活地帯と非日常的遊興地帯とを分ける境界であり、なかで働く女性の、逃亡防止用でもあったのだろう。
そのあたりの事情を知りたい人は、舞台は横須賀だが、山口瞳氏の長篇、「血族」(新潮社)を読めばよろしい。
右はその時代の建物だが、現在は予約制の宴会料亭であるから念のため。内部の部屋などは、東京の出版社の男性雑誌などでもよく紹介されている。付近には他にも当時の建物が多く残って営業しているが、予約制かどうかについては、まあ、知る人ぞ知るということで……
新世界。通天閣とジャンジャン横丁
♪新世界のづぼらやで〜、づぼら連中集まってえ〜
左、ええ光景や。芸術写真や。大阪出身者には、上記、フグ料理店のCMソングが聞こえてきまっしゃろ。
新世界は、恵美須町界隈、堺筋と天王寺公園にはさまれた一帯で、明治45年、第五回内国勧業博覧会の跡地を歓楽地にしたもの。以来、大衆的な盛り場として賑わってきたが、最近は沈滞気味。その一角にあるジャンジャン横丁も、昔はこんなもんじゃなかった。
「は〜い。赤が三番、白一番」などと、おばちゃんがマイクを使い、独特の抑揚で声をあげていた、Zゲーム。
演芸場「新世界新花月」から流れ出ていた、三味線と太鼓の音。どちらも、もうとうになくなっているのだが、その音声と人混みのなか、昼間から酔っぱらったおっさんがのし歩き、碁会所(これは現在もある)の表では、立ち見がずらり。そこを、開高健氏の『日本三文オペラ』、その冒頭部分にあるジャンジャン横丁の描写にしびれた二十歳前のぼくが、「煮ても焼いても食えんような人間にならねばならん」などと、愚にもつかんことを考えつつ、うろついていたのだ。親がかりで大学へ行かせてもらってながら、それをサボってだ。すまん!
千日前を東に、そしてそこから南に歩くと
日本橋(にっぽんばし)の電器店街〜恵美須町
秋葉原とよく似た光景だが、こちらの電器店街はいささか失速気味。倒産した会社、業種変えをした企業があり、アニメやフィギュアの店が増えてきてもいる。
ヨドバシカメラ、ビッグカメラ、コジマ、ヤマダ電機 ……
関東勢が進出してきて別の場所に大規模店舗をひらき、
価格と品揃えで押しまくっているからだ。
それはともかく、ぼくはここへ行ったときには、必ず明電工業を覗く。電器店ではなくバラエティショップだが、OA機器がなぜか異常に安いことがあるし、どこから仕入れてくるのか、あやしげな商品を置いていたりするからだ。たとえば、普通の自転車に取り付けて電動自転車にする、モーターとバッテリーのセット。スタイルといい大きさといい、昭和30年代の商品という雰囲気だった。もちろん、そんなの買ってませんよ。
そして、この電器店街を南へ歩くと、阪堺電軌の恵美須町駅がある。大阪市内を走る唯一の路面電車で、住吉大社を越え大和川を渡って、堺市の浜寺公園まで行く。沿線には両側に家並みの迫っているエリアもあり、東京で言えば都電荒川線の、町屋あたりの雰囲気。
当方、マニアではないが鉄道は好きで、荒川線も阪堺電軌も、何度も乗っているのであります。
高島屋前を左に歩くと
千日前〜吉本の本拠地〜道具屋筋
千日前は、これまた昔からの飲食店街、遊興街。
左の写真は、その一角にある吉本の演芸場で、
なんばグランド花月。昔は少し離れた場所で、
「なんば花月」として長らく興業していた。
その当時の某日、ぼくと堀さんがその前に立っていると、
吉本新喜劇の役者がむこうからやってきたのだが、
こちらを見ておびえた顔になり、何者なのか探る目つきでちらちら見ながら、劇場内に入っていった。
なぜだと思ってたら、後日、その理由が判明。
彼は野球賭博の借金がかさみ、つちかってきた人気と
芸歴を棒に振って、退団していったのである。しかし、
私と堀さんが、マチ金の取り立て屋に見えたかね。
そうではなくて、誰を見ても取り立て屋ではないかと
ビビってしまうほど、追いつめられてたんでしょうな。
右は、東京で言えば浅草の合羽橋。
道具屋筋という商店街で、飲食店関係の道具や
看板を売っている。食品サンプルなど、
外国人観光客がおもしろがって買っていくらしい。
写真中の、日替わり定食のノボリも、売り物ですよ。
地方の中学の修学旅行グループが、教師引率のもと、
商店街の人の説明を受けていたこともあるから、
やはりこういう専門商店街は、めずらしいのでしょうね。
御堂筋を突き当たると、難波(なんば)です。
高島屋と、府立体育館
米朝師匠の大作、「地獄八景亡者戯」の一節。
「まんなかが地獄のメインストリートで、冥土筋ですわ」
「そしたら、突き当たりが南海電車」
「そらあんた、御堂筋やがな」
左は、その突き当たりの、高島屋と南海難波駅。
屋上に小塔型の、「お立ち台」式展望台があるが、
そこから眺めると御堂筋が一直線。ならば正面遠く、
キタの突き当たりに阪急百貨店が見えるかというと、
そうではない。こちらから見たら、御堂筋がわずかに
東にふれているので、大江橋の三菱ビルが、
御堂筋をふさぐようなかたちで見えるのだ。この展望台、
いまは立入禁止らしいが、先年ぼくは確かめた。
右は大阪府立体育館で、この写真は以前、
大相撲三月場所を見にいったときのもの。人から切符を
もらい、贅沢にも、砂かぶりで見せてもらった。
曙が現役だったときで、土俵入りをしていると、その背後の客席から、「あけぼのーっ。こっち向いてえーっ!」
場内大爆笑となり、曙本人も、型を決めながらにやり。
それでまた観客が大笑い。大阪でございますな。
道頓堀と戎橋筋商店街
この商店街は、10年ほど避けていた・・・
心斎橋筋〜戎橋筋と直角にまじわる道頓堀は、江戸時代からの興業街で、現在も歌舞伎、松竹新喜劇、寄席、映画などの施設が並んでいる。旧「角座」であった上方落語の会には、よく行ったものだ。
カニの看板でもわかるとおり、飲食店街でもある。
そして右の写真は、戎橋筋商店街。広告マン時代、この商店街の連合テレビCMを10何本、真夏のロケ1ヶ月で、かつ標準制作費の十分の一(!)で作った。
だから、外注したのはカメラマンとタレント何人かだけで、台本から演出から撮影監督から録音ディレクションまで、全部一人でやらされた。商店主のなかには、無理な注文をする男や、人を虫けら扱いして、やたらに偉そうにするおっさんもいた。そんなこんなで、この商店街を通るとムカツキが復活するので、ぼくはそれから十年ほどは通行を避けていたのだ。
ただし、なかには好印象を抱かされた人もおり、その代表例が、写真にある「551の蓬莱」の経営者。
確か羅さんといい、温厚な態度で応対してくれたのは息子さんらしい青年だったから、いまはその人が社長か会長になっているのだろう。中華料理のチェーン店で、豚まんとアイスキャンデーが名物。551は「ここが一番」という意味でつけたらしい。商売繁盛を、お祈りいたします。
ミナミの繁華街
心斎橋筋と戎橋
御堂筋を本町あたりで東に一本入ると、
並行するかたちでのびるアーケード街がある。
丼池(どぶいけ)の繊維問屋街から始まり、南へ歩くと左の写真の心斎橋筋商店街、そのあと戎橋商店街となって難波に至るのである。
どちらも、飲食、遊興、ショッピング商店街なので、休日には押し合いへし合いの賑わいとなる。そして、その中間にあるのが、いまや全国に知られているグリコの看板。人が渡ってる橋は戎橋。夜になると若いのがたむろしてナンパにはげむので、通称「ひっかけ橋」。
タイガース優勝のとき、アホが次々に道頓堀川に飛び込むのが、この橋です。
心斎橋筋にはヤマハの大型店があり、広告マン時代、クライアントだったので、打ち合わせによく通った。一人で行ったときには、帰りに丸善の大阪店に寄れたのだが、営業さんと一緒だとそうもできない。
何の興味もない社内派閥の話なんぞを聞かされ、いらいらしながら帰社したものだった。大体、どこの代理店でも、営業と企画製作の人間は「合わん」のです。
大阪の看板道路、御堂筋
銀杏並木の左右にも車道があるのです。
淀屋橋から難波までを一直線に結ぶ、大通り。
銀行、商社、メーカーなどが並ぶオフィス街で、梅田新道も入れれば、梅田から難波までは4q余り。
下を走る地下鉄御堂筋線の駅で言えば、梅田・淀屋橋・本町・心斎橋・難波と、こういうことになる。
昭和12(1937)年の開通で、当時は「そんな広い道路、いらんやないか」、「飛行場を作るつもりか」などと、立ち退き問題もあって悪評紛々だったという。
しかし、高度成長期以降は、これでも狭くなってしまった。南向き一方通行だから、信号のタイミングで、左のような光景もうまれるが、昔から「ごとび」と呼ばれてきた集金日、五と十のつく日は大渋滞となるのだ。
ところで、あるとき梅田を歩行中、前を歩く東京アクセントの若い女性二人が、「ゴドウキンをまっすぐ行ったら、心斎橋に出るのね」「ふ〜ん。そうなんだ」
思うに彼女、仮にミドウスジという名称は知ってたとしても、それは耳から覚えたもので、文字を見たときには、それとは別の道路名だと思ったのだろう。
けど、ゴドウキンとはまた、素直に読んでくれましたな。なお、右の写真、背後に映っているビルは、元のイトマン本社。伊藤寿永光、許永中、などの暗躍でトラブったときには、街宣車がぎょうさん集まりましたでえ!