大阪ランダム案内。梅田〜キタ〜中之島

百万円。使うなら左、寄付なら右
北新地と大阪市中央公会堂

北新地は、東京で言えば銀座になるのか、六本木になるのか。高級クラブやラウンジが密集し、バブル時代には狂乱の巷となったエリア。
長期不況で、大阪の景気が北海道や沖縄と並んで「どん底」に落ちてからは、若年層向けのビヤレストランなんかが増えてきた。そうなると高級クラブのホステスでも、大阪のねえちゃんは生活防衛するよ。
ブランドスーツとケバい化粧で、西区や福島区あたりから、自転車で出勤してくるもんね。もちろん、領収書は裏技で手に入れ、確定申告のときには、毎晩ハイヤーで往復したことにするんでしょうな。
中央公会堂(中之島公会堂)は、大正7年に落成した建物。株の仲買で成功した人が、当時の金で百万円寄付して建てさせたものだが、そのあと当人は事業に失敗して、落成の一カ月ほど前にピストル自殺した。
すると大阪の人間、さっそくそれをネタにして、「これがほんまの、公会堂先に建たずや。あはははは」。
これ、「てなもんや三度笠」の作者、笑芸作家の香川登枝緒さんから教えてもらった実話です。

梅田から曾根崎へ
お初天神通り〜梅田新道
  
左は、これまたアーケード商店街、飲食街、遊興街。
お初天神通りと称するのは、この商店街のつきあたりに、露天神社、通称「お初天神」があるからである。
大手企業の重役さんとそこのOL、ぼくと堀さん。
このメンバーで飲んだ帰り道、OLが近々結婚するというので、四人で参拝して幸せを祈ったのだが、
待った待った、ここは、遊女お初と商家の手代徳兵衛が、心中した場所やないか! 
(それを文楽の劇にしたのが、近松の「曾根崎心中」。アーケードの看板は、お初の人形のカシラです)
その露天神社まで行くと、アーケード街は梅田新道に出る。そこでふりむいたのが右の写真で、つきあたりが阪急百貨店。ふりむかずに歩けば、中之島→淀屋橋→御堂筋と、こうなるわけです。次はそちらへと。
いわゆる「キタ」の繁華街
左、梅田地下街。右、阪急東通り商店街
梅田一帯から北新地あたりを、「キタ」と通称する。
心斎橋から、宗右衛門町、難波あたりが「ミナミ」。
大阪へ転勤してきたサラリーマンが、「まだ西も東もわかりませんけど」と挨拶したら、それに対する言葉が、
「いや。そんなんわからんでも、キタとミナミさえ知っといたら、それでよろしい。わはははは」
などと、これは、繁華街の紹介によく使われる冗談。
梅田地下街は、堀晃氏が「梅田地下オデッセイ」の舞台にした。四通八達と言えば聞こえはいいが、
ノイローゼの蜘蛛が作った巣みたいな、何の法則性もない、方向感覚がおかしくなる迷路空間。
右の阪急東通りは、アーケード商店街、飲食街、遊興街だが、これもまた、別のアーケード街と複雑に連鎖するので、わけがわからんようになる迷路地帯。
私も学生時代は、よく迷ったもんです。
ただしサラリーマン時代に、地下街もアーケード街も、
尾行されたら巻けるくらい精通しましたけどね。
貨物ヤードの西側、通称「大淀村」あたり。
左、梅田スカイビル。右、朝日放送。
左のビルの竣工直後、屋上からパラシュートをつけて飛び降りた、アメリカ人がいた。冒険心なのか、受け狙いなのか。「いちびり」は、どこにもおるんですな。
右は朝日放送。ここも広告マン時代、局アナに頼むCM録音や、スタジオCMの収録で、よく通った。
後者はテレビの料理番組で、広いスタジオ内においしそうな匂いがたちこめ、収録後は、皆でそれをわけて食べる。あれはなかなか、いい雰囲気でしたな。
背後の高層ビルは、すでに廃業したホテル・プラザ。
22階に小松さんの事務所があったので、1階のラウンジでは、こちらでSF作家や学者が飲んでる、
むこうでは、朝日放送の製作関係者と出演者たちが談笑してるなんて光景が、よく見られた。
エレベーターで下りてたら、途中階でいきなり、横山やすしが乗り込んできて、そのイライラピリピリした雰囲気に、びびったこともあったっけ。大淀村まで来たので、次はまた、梅田の繁華街にもどります。
梅田の裏手
貨物ターミナルと、長〜い地下道
左は、再開発された西梅田のビル群を望む、大阪駅裏手のJR貨物ターミナル。こういう光景も好きで、この一枚の写真から短編一本が書けそうに思う。
冬、屋根に雪を乗せたコンテナ列車が入ってきたりしたら、たまりませんな。
右は、そのターミナルを横断している地下道の入り口。いまは整備されて明るくきれいになっているが、
以前は、暗くてうすぎたなく、夜などに通るとカツアゲされそうな雰囲気だった。延々とつづく地下道で、初めてこの入り口側から通り抜けたときには、いったいどこへ出るのかと、途中で不安になってきた。
前方が明るくなって、その彼方に新阪急ホテルが見えたときには、思わず、「へえっ。ここに出るのか!」と声をあげていたのだ。
西梅田〜桜橋
左、市街地改造ビル。右、産経ビルと?
 
左は、手前から大阪駅前第一、第二、第三ビル。
この裏手は戦後の闇市地帯で、つい何年か前まで、
その名残の小さな店がひしめく場所だった。だが、
いまはヒルトンだの何だのが林立してて、跡形もない。
駆け出し広告マン時代、写真撮影の助手として、
建設中の第一ビルの鉄骨上層階へ上がったのだが、
ヘルメットに安全ロープ姿だったけど、怖かった〜っ!
右の写真の左手は、桜橋の産経新聞ビル。三階が産経ホールで、桂米朝独演会や一門会をはじめとする、ホール落語会のメッカ。
しかし、このビルも建て替える由。
そして、そのとなりでぼこっと、まさしく「凹っと」へこんでるのが、ラジオ大阪の旧社屋。
この建物と、学生時代以来の歴代名物番組については、書き出すときりがない。
いまは港区弁天町の高層ビル内に入ってるけど、ラジオ大阪といえば、この建物と、ゲリラ的な無茶苦茶番組を懐かしむ人が、関西には非常に多いのである。
JR大阪駅、表と裏
左、南側。右、北側
正面の巨大なビルには、大丸とホテルが入っている。一階と地下は駅のコンコースや名店街。
高層階にはイベントスペースがあり、一度、ラジオの公録に呼ばれて行ったら、ステージ裏手に暗くて広い、コンクリートむきだしの、がらんとした場所があった。
「テナントが入らないんですか」と聞いたら、そうではなくて、火災や事故があったときの、観客の避難場所とのこと。そう聞くと怖くなる、広さと暗さでありました。
右の遠景は、駅の北側にある貨物ヤード跡地。
往年の、都心に貨車の並ぶ光景は好きだったんだが、ここも再開発計画あり。そのうち、高層ビルが林立するんでしょうな。
貨物駅そのものは、写真の左手で現在も機能中。それはまた、お見せいたします。
まずは、梅田近辺から
左、阪急百貨店。右、阪神百貨店
小学校5年になる春休み、父親の転勤で、新潟から大阪へやってきた。特急だったか急行だったか覚えてないが、夕方前に出た北陸線の列車の、大阪到着は翌朝6時ごろ。昭和33年、1958年ですからね。
そして、駅を出て初めて見たこの両デパートは、身長130センチ弱の子供の眼前に、のしかかるようにそびえており、大都会へ来たのだと実感させられた。
なにしろ新潟では、デパートは5階建てだったのだ。
その阪急の建物も、近い将来、建て替えられる由。
仕方ないかな。戦前からの建物なんだから……