大阪ランダム案内・東成区・生野区・天王寺区

「安居のぉ、天神さぁん!」、枝雀師匠の声が耳に…
黒焼きは、動物植物を蒸し焼きにして作る薬です。
天王寺区逢坂1丁目の安居神社は、「安居の天神さん」と通称されてきたように、少彦名神(すくなひこなのかみ)とともに菅原道真を祭神としている。安居という名も、道真公が太宰府へ流される道すがら、四天王寺に参詣後、ここでしばし「やすらい」だからとの説もあるという。
大坂夏の陣における真田幸村戦死の地でもあるのだが、落語ファンならまずは「天神山」を思い出すだろう。高津の黒焼き屋に売るべく、ここで狐を獲った男がいた。居合わせた別の男がかわいそうに思ってカネで譲ってもらい、放してやる。助けられた雌狐、妙齢の美女に化けて彼の家に恩返しにやってくる。これが「上方落語」(講談社)、五代目笑福亭松鶴師口演の速記録によれば、
「芝居でいたしますと『芦屋道満大内鑑、葛の葉の子別れ』、落語でやりますと『貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶の子ほったらかし』……」という「もじり」に発展していくのだが、春の噺であるため、桂枝雀師匠はこれを、「お芝居でやりますと」云々とだけ言っておいて、「ある、春の日のおはなしでございます」と、情感と余韻を残して収めておられた。
上町台地に上がる坂道の途中にあるため、石段もかくのごとし。ある、春の日の撮影でございます。
本社ビルは、四天王寺に隣接しています。
社用車ボディの文字は、Customer Satisfaction
金剛組は知る人ぞ知る、日本最古の宮大工組織。元号もまだない敏達天皇の時代(西暦578年)、四天王寺建立のため百済から招かれた三人のうちの一人が創業したと言われている。以来、寺社の建築や修復に貢献し、法隆寺や大坂城にもその伝統の技術が生かされているとのこと。
匠の技を連綿と受け継いで存続しているため、公開資料中には「世界最古の企業」という表現もある。何しろ創業以来1430年なのだ。そういえばかなり以前、某アルバイト情報誌の中吊り広告に、「初めて働いたのは18歳のときで、宮大工のバイトだった」という意味の文章があった。
読んだ瞬間、「馬鹿なことを。そんな超専門職種がバイトなんか雇うものか!」と腹立たしく感じた。頼みに頼んで弟子入りさせてもらい、厳しい修業に耐えて育つのが宮大工だと思っていたからだが、バイトも雇うのだろうか。
金剛組ホームページの採用情報覧には、中途採用者は経験と年齢不問、ただし技術系は工業高等学校以上の学歴が必要となっているのだが。なお右の社用車、ダッシュボードに仏具風の小さな金色の飾りが立てられていた。
それが何であるか御存じの御方は、どうぞ御教示を。
四天王寺、春の彼岸の門前風景でございます。
「戒名書き」のおっちゃんと、外国人托鉢僧。
四天王寺そのものついては、以前「上町台地」の項で取り上げたので、今回はその門前風景を紹介しよう。
左は春のお彼岸に撮影したもので、上方落語の小咄にも出てくる「戒名書き」のおっちゃん。参拝者が経木にゆかりの故人の戒名を書いてもらって供養するのだが、「米朝落語全集・第三巻」によれば、字の書けない人が多かった昔は、今でいうアルバイトで戒名を書きに行くというと、
「へえ。字が書けるんやな」と感心されたものだという。
ただしそこは小咄だから、「ゴリガリマカラ童子」だの「マイマイチンシャン童女」だの、どんな漢字を書くのか見当のつかない依頼があったりする。落語会の打ち上げの酒席で、「あれ何でしたっけ。マイマイ、ゴリガリ……」と詰まったところ、米朝師匠が「ゴリガリマカラ童子」と教えてくださり、ぼくはその口調と語感だけで噴き出したことがある。
右は門前に立つ外国人の托鉢僧。梅田の阪急前でも別の外国人僧がときどき出ているが、そいつは経を唱えながらキョロキョロしたり、片足を上げてもう一方の脚のふくらはぎをかいたり、落ち着きがなくて全然ありがたみがない。
こちらの僧は立派なもので、しばらく見ていたが微動だにしなかった。悟れば如来様になるかもしれない。
外国人だけに来日如来と申しまして……
さすが四天王寺界隈、古代の大阪が生きております。
左、五條宮。右、河堀(こぼれ)稲荷神社。
五條宮は四天王寺の北東側すぐ横にあり、祭神は六世紀後半に在位した敏達天皇。五條は、難波の都の区画で五條にあたるための命名とのこと。また全国で唯一、橘氏の祖先を祀る神社だそうである。源平藤橘の橘で、これは敏達天皇の子孫が橘氏の女性と結婚したことに由来する。
資料によればこの敏達天皇、仏を尊ぶ蘇我馬子よりは、神を崇めて廃仏を主張した物部守屋に近い考えだったらしく、当時流行した疱瘡にかかって苦しんだときには、仏をないがしろにしたからだと噂されたという。
そこから南に歩くと大道で、ここには河堀稲荷神社がある。これまた故事来歴のある社で、六世紀末に四天王寺がつくられたとき社殿が建てられたが、それ以前の古墳時代から稲生(いなり)の神は祀られていたという。
河堀の地名は八世紀後半、和気清麻呂の献策で河川改修工事が行われたことに由来するが、それを「こぼれ」と読むのは、もとはこのあたりが古保礼と呼ばれる地だったからとのこと。現在、大道の西が北河堀町、南が南河堀町となっており、これらは「かわほりちょう」と読むのであるが、さらに区の境界を南に越した阿倍野区を南東に歩けば、近鉄南大阪線に河堀口(こぼれぐち)という駅もある。
かなり広い範囲が「河堀」だったのだ。
公共施設ふたつ。警察病院と消防救急無線塔。
思い出せば歌さん、退屈しとりましたなあ……
先代の桂歌之助さんが警察病院に入院中、見舞いに行ったことがある。場所は夕陽丘高校のとなりだと知っていたが、初めての訪問ゆえ、警察官が常駐していて、受付のチェックも厳しいのではないかなどと、いささか緊張して出かけた。しかし何のことはない、本来は大阪府警の職域病院であるが、普通の病院と変わらなかった。
職域病院というのは、NTT、郵便、JRなど旧公社、現業組織や、多数の社員従業員を抱える企業が有する、その関係者を対象とする病院のことで、逓信病院、鉄道病院、関電病院、住友病院などがその事例となる。千葉県にはキッコーマン総合病院というのもあると聞く。大方は一般の患者も受け入れているが、自衛隊病院は一部を除いて利用対象者が隊員や家族などに限られるという。
ともあれ昭和12年に開設された大阪警察病院、580ベッドの総合病院として、地域医療の中核的な役割を果たしているのだ。そしてそこから少し歩いて上町筋に出ると天王寺消防署があり、消防・救急用の無線塔が立っている。高さ54メートルで市内全域をカバーできるそうだが、それはつまり上町台地の高さがプラスされているからだろう。
二校間の距離は、道路一本へだてた程度です。
左、上宮学園。右、清風学園。
近鉄上本町駅の近くに、ふたつの私立校がある。
上宮学園と清風学園。どちらも宗教系の学校で、前者は浄土宗知恩院派、後者は高野山真言宗の系列。
前身となったのは上宮が明治23年創設の宗教校、清風が昭和7年にできた電気学校とのことである。また二校とも男子校で中学と高校を擁し、スポーツ関係の人材を多く育ててきたことでも共通している。
上宮の著名OBにはプロ野球選手が大勢おり、なかには兄弟揃ってという例もある。知人の甥か何かにあたる二人であって、聞いた話によれば親思いの兄弟、事業に役立ててくれと契約金を父親に渡したという。それを活用してかどうか、父親の事業、中国にも進出して盛んだというのだ。
ただしプロの世界の厳しさを示す話もあって、兄弟の一人は以前右腕を骨折したことがあった。それを理由に契約金が一千万円減額されたそうである。
一方、清風側には体操、柔道、マラソン、テニスなど多彩な分野に卒業生がいる。アテネオリンピックでは在校生が体操や陸上で活躍したし、写真を撮りにいったときも別棟の校舎に、世界陸上や体操の日本代表決定、あるいは高校総体での総合優勝を祝す大きな垂れ幕が吊されていた。
こういう学校も、いいものだなと思ったのだった。
産湯稲荷とくれば、思い出すのは稲荷俥ですな。
右、通称のもとになった井戸。境内にあります。
天王寺区小橋町。小橋公園の横手にある小さな神社が、上方落語「稲荷俥」に出てくる産湯稲荷である。
明治時代の噺で、だから俥は人力車。
夜間、それに乗って産湯の森まで行けと言った客が、下り際に自分は産湯稲荷のお使いだと称し、近々福を授けてやると言い残して、カネを払わず消えてしまう。イタズラのつもりだったのだが、何と俥に財布を置き忘れていったため大騒動が巻き起こる。そのあとイタズラをした客があわてふためくシーンがあるので、後味の悪さが残らず大笑いできる噺になっており、ぼくは大好きである。
「米朝落語全集・第二巻」や「米朝ばなし・上方落語地図」によれば、噺のなかに出てくる料亭産湯楼、うどん屋の山吹、大浦という米屋などは、すべて実在した店とのこと。
舞台となった場所を知っていた当時の客たち、それだけに虚実皮膜の間にあるストーリーを一層楽しめていたのだろう。森も、現在は境内のみの木立ちだが、その頃はもっと広く黒々としていたに違いないのだ。
なお産湯という通称は、以前東成区で紹介した大小橋命(おおおばせのみこと)が、ここの井戸で産湯を使ったという伝えに由来する。ビル、マンション、住宅が連なる街のなかの、故事スポット、落語スポットである。
左、石柱にも提灯にも「どんどろだいし」の文字が。
右は、千手観音。見上げるばかりの高さです。
学生時代に読んだ開高健氏の「日本三文オペラ」に、髪は伸び放題でばさばさ、汚れきった姿の大男が、「なんや、こう、まるでどんどろ大師みたいな奴ちゃないか」と、荒っぽい連中から笑われるシーンがある。だからぼくは長らく、
その語感のイメージもあって、どんどろ大師というのはコミカルな妖怪か、法界坊のような破戒僧だと思っていた。
しかし本当は空堀町にある善福寺(明治初期までは鏡如寺)の通称で、ここにまつられている弘法大師を、天保年間の大坂城代土居大炊頭が篤く敬っていたから、もしくは隣接する地にその屋敷があったから、土居殿の大師がなまってどんどろ大師になったのだという。
となると開高氏は、何か勘違いしていたことになる。ぼくと同様、語感からのイメージで法界坊のような悪僧だと思っていたのか、それとも巨人伝説「ダイダラボッチ」、別名「だいだらぼう」と混同していたのか。まあ小説のなかの、それも地の文ではなく登場人物のせりふとして書かれた部分だから、正誤よりは雰囲気が伝わればそれでいいとも言えるのであるが。なおこの空堀町から餌差町にかけては、
坂道沿いに多くの寺が並んでいる。右の写真は、去年の秋の快晴の日、その一画で撮ったものである。
旧・真田山陸軍墓地。初めて知りました……
左、新撰旅団四等巡査心得、何某氏の墓。
宰相山公園の坂道を上がると、丘の西側が広めの墓地になっていたのだが、普通の墓地ではなさそうに感じた。手前の古びた墓石の一群、同じ形状のこぶりなものが、地面に直接立てられ並んでいるのだ。傾いているもの、苔蒸しているもの。大きさは違っても同様の墓石群が彼方までいくつもあり、さらにその奥には大きな石碑も立っている。
そこで近寄って手前の一群を観察すると、新撰旅団四等巡査心得などという階級が読めた。「昔の警察の合同墓地かしら」と思ったのだが、そこでハッと気がついた。巡査が旅団という軍隊式の編成をされたのは、西南戦争のときなのだ。そして他の墓石や記念碑も読んで、ここが明治4年以来の旧陸軍墓地なのだったとわかった。
帰って調べてみると、日清戦争や台湾出兵までは戦病死者各自の墓が立てられていたが、日露戦争以降、数が多くなり過ぎたので大型の合葬墓碑になったという。もちろん終戦までは旧陸軍省の管轄で、衛兵が立っていた時代もあったそうだが、戦後は民間団体が管理しているらしい。
まったく知らなかった施設に突然遭遇して驚き、曇り空の寒い午後、立ちつくして眺めていると、鬼哭啾々という言葉がうかんできた。霊魂がしくしくと泣くありさま。さすがにそのままは立ち去れず、帽子を取って一礼してきたのだ。
幸村見参。家康はいずこ、狸親爺はいずこ〜っ!
左、「真田の抜け穴」跡。してその正体は?
今回からは天王寺区に入る。ただし、すでに「上町台地」や「新世界・天王寺」で紹介した箇所は、省略させていただく。スタートは玉造本町の宰相山公園。この名称は大坂冬の陣で徳川方の一軍、加賀宰相(前田利常)の陣が置かれたことに由来するという。
対峙する大坂方は御存じ真田幸村。真田の出丸と呼ばれる保塁を築き、大坂城まで通じる抜け穴も掘って、変幻自在に戦った。ただしこれは講談世界の話であって、出丸は史実だが、抜け穴は実は横穴式の墳墓だったらしい。
しかし反権力、反東京の気質が色濃い大阪では、明治大正から昭和にかけても、太閤さんや幸村が根強い人気を保っていた。だから講釈場で「難波戦記」の続き物をやると、大坂落城が近づくにつれて客が減ったという話がある。
史実においても、豊臣家が滅んだ直後からすでに京大坂の町なかに、「秀頼は幸村に守られて薩摩に落ち延びた」という噂が流れたという。もっとも薩摩の谷山にも同様の言い伝えがあったそうなので、これは一般的な判官贔屓、
貴種流浪譚として捉えるべき話かもしれない。それとも、
反徳川という点では薩摩も共通していたからか?
なお写真右の真田幸村の像は、イラストレーター成瀬国晴氏のデザインである。
PLとプール、もちろん無関係です。
若くして死んだ乙女もおり、活躍するOGもおり……
中学時代、「PL学園という校名は、プール学園の略やで」という友人の嘘に、「そうやったんかあ!」と納得して、大笑いされたことがある。無論両者は別の学校で、第一、PLは学園だがプールは学院。母体となる宗教も全然違うのだ。そのプール学院、明治12年に英国聖公会が川口居留地で創立した、永生女学校がもととなっている。都島区で紹介した信愛女学院をはじめ、平安女学院、大阪女学院、桃山学院などもルーツは川口居留地だという。
明治初期以来、キリスト教各派が日本の教育に大きな貢献をしてきたことは、この事例だけでもわかるのだ。
永生女学校が、イギリス人の主教、A・W・プール氏にちなんでプール女学校と名を変えたのは明治23年。勝山に移転したのが大正6年。戦後プール学院となって、現在ここには女子中学校と高校がある(堺市のキャンパスには短大と大学もある)。八千草薫、三ツ矢歌子、坂本スミ子……、
著名出身者の雰囲気、何となくわかる気がする。
写真右、柵内に映っているのは殉難碑で、七人の氏名が彫り込まれている。戦争中、旭区の敷島紡績へ勤労動員されていた女学生たちが空襲に遭い、教師一人と生徒六人が亡くなったのである。
古墳を消滅させるのは、大人か子供か、時間か?
右、勝山南公園にある釈超空の歌碑。
地名は勝山(かつやま)だが、この史蹟は御勝山(おかちやま)古墳。古くは岡山と呼ばれていたけれど、大坂夏の陣で徳川秀忠がここに陣を張り、勝利の宴も催したので御勝山となった。そして5世紀前半に造られたこの古墳、前方後円墳だったが、現場の案内板によれば布陣のとき破壊され、いまは後円部分が残っているだけだという。
ただし別の公開資料では、明治23年、この近くに大阪府農学校がつくられ、前方部分が開墾されたからだともいう。完全な姿で残っておれば、南北約112m、東西55m、高さ約8mの偉容を見せていたらしいのだ。
ところでこのランダム案内、朝のラジオ番組でも紹介しているのだが、生野区に入ってから、「昔、古墳の近くに住んでいて、当時は柵などもなかったから、よく登って遊んだ」というお便りをもらった。ぼくも豊中の南桜塚小学校時代、校舎の横に大塚古墳、御獅子塚古墳があったので、恰好の遊び場所にしていた。御獅子塚など、崩れだしたので立入禁止になった。長い時間のなか、放っておけば人工の丘は、崩され削られ遊び場にされて、もとの平地にもどっていくのだろう。御勝山でも前方部分は公園になっており、そこに釈超空(折口信夫)の歌碑が立てられている。 「小橋すぎ 鶴橋生野来る道は古道と思う 見覚えのなき」
左、「尊いお寺は御門から」と申しまして……
右、境内にはお不動さんも立っている。
生野区に舎利寺という町名があることは知っていた。舎利は仏や聖人の遺骨のことだから、いずれ故事はあるのだろうが、陰気くさい地名だなと思っていた。しかしそれは、現場を知らない者の勝手な印象。行ってみると故事どころか、ちゃんとその名のついたお寺があるのだった。
正式な名称は南岳山舎利尊勝寺。宗派は禅宗の黄檗宗。
しかもその起源は1400年ほどの昔、用明天皇の御代にさかのぼる。当時このあたりに生野長者なる人が住んでおり、その子供はものがうまくしゃべれなかった。そこで親が四天王寺に出かけて聖徳太子に訴えたところ、太子は子供に、「前世で預けた仏舎利を返すように」と言った。
子供は口中から仏舎利を三つ吐き出し、以後は話ができるようになった。出てきた仏舎利のひとつは法隆寺、ひとつは四天王寺に納められ、残りのひとつをもらった生野長者がそれを奉って、舎利寺がうまれたというのである。無論、生野という地名も彼の名前に由来する。
そして立派な門をくぐると、広めの境内には築山があり墓地もあるという、静かで落ち着いた雰囲気。「もし近くに住んでいたら、心を平静にしたいときには、ここへ来るだろうな」  そう思って、随分長い時間たたずんでいたのだ。
♪ロート、ロート製薬〜。その本社工場です。
右、体育館にしては幅が狭いようだしなあ???
生野区の巽西には、胃腸薬「パンシロン」や目薬「Vロート」で知られた、ロート製薬の本社工場がある。
昭和50年の近江兄弟社倒産後、メンソレータムの製造販売権を引き継いだ会社でもある。明治32年、南区清水町で薬品販売を始めた信天堂山田安民薬房が始まり。だから今年で創業109年ということになる。
ぼくはそこまでは知らなかったが、とにかく古い会社だとは思っていたので、社名のロートは漏斗、つまり「じょうご」のことだろうと推測していた。じょうごは薬剤調合にも使うはずで、明治時代のいかめしそうな研究室の雰囲気が連想されたからだ。しかし正しくは明治42年に発売した目薬、その処方を受け持った眼科医の、ドイツ留学時代の恩師の名前、ロートムンドから取ったのだそうだ。
「♪ロート、ロート製薬〜」というジングルで、また古くはラジオの「漫才教室」、テレビでは長らく「アップダウンクイズ」を提供してきたので、知名度は抜群だろう。「♪パンシロンで、パンパンパン〜」というCMソングもありましたな。
この本社工場、敷地の広さや複数のビルが建ちならぶ光景は予想以上のものだったが、右の写真、裏手の建物は何に使う施設なのだろう。研究関係? それとも厚生関係? 御存じのおかたは、お教えをば!
松鶴師匠がごひいきだったという今里新地。
左、いい雰囲気ですなあ。右、花街協同組合の事務所。
近鉄今里駅を南側に出ると生野区新今里。今回紹介する今里新地は、その新今里の一画にある。
大阪市内で新地と名のつく歓楽街は、現在では北新地がとびぬけて有名だが、上方落語の世界では難波新地という呼称もそれに並んでいる。飛田や松島など遊郭があった地域も、以前は「新地」をつけて呼ばれていたようだ。
しかし上記四箇所は落語に出てくるが、今里新地が出てくる噺は知らない。それは当然で、この歓楽街は昭和4年につくられた。当時の新作落語には出てきていたのかもしれないが、古典落語の舞台になるはずがなかったのだ。
ただし落語家とは関係の深い遊び場所らしく、道頓堀の角座全盛期だったか、東京の落語家がやってくると、いまは亡き笑福亭松鶴師がここへ招待して遊ばせたという話を聞いたことがある。芸妓の三味線に合わせて唱うとか踊るとか、いかにも玄人らしい遊びの光景が眼にうかぶのだ。
「大阪の商店街」というホームページで今里駅前通り商店街の欄を見ると、「戦後は歓楽街が廃止されましたが」云々と書いてある。しかし写真のような料亭は現在もあるから、これは多分別種の歓楽のことだろう。コリアタウンに近いこととて、韓国クラブや料理店の目立つ街でもある。
桃谷にも、大衆演劇の小屋があったのか!
大阪府下では、9箇所で公演してるそうですよ。
桃谷を歩いているとき、店先などに貼られている大衆演劇のチラシが眼についた。当方、そのための小屋といえば新世界だと思っていたのだが、この街にもあるのだった。
知らなかったのも道理で、この明生座は平成18年10月にオープンした新しい劇場。冬空の下とはいえノボリがはためき、1月公演小泉たつみ・2月公演大川竜之介・3月公演春陽座などというチラシやポスター類も、独特の雰囲気で道行く人にアピールしている。
昼夜2回公演で、入場料は大人1600円、5才以上の子供が1300円。それとは別にショー割り1200円という表示もあったのは、座長以下、座員総出演による歌謡ショーだけを見たい人のための料金設定だろう。
大衆演劇については、ぼくは以前、落語家諸氏と一緒に新世界の浪速クラブへ観賞に行ったことがある。おっちゃんおばちゃんで占められた客席、やじったり笑ったり共感の言葉を発したり、役者の台詞に逐一反応している。
「大衆演劇とは、舞台と観客が一体になって進行させていくものなり」と得心していたのである。なお大阪府下では現在、次の劇場とホテル内で定期公演が行われているという。朝日劇場、浪速クラブ、梅南座、オーエス劇場、鈴成座、満座劇場、明生座、天満座、八尾グランドホテル。
どちらも様にも、千客万来をお祈りいたします。
左、御幸通りのコリア・タウン。その大門。
右、韓国料理店の表に立てられた将軍標。
桃谷の御幸通りには、コリア・タウンと称する商店街がある。東西方向に伸びており、要所に韓国風の門が作られていて、左右には食品食材、料理店、民族衣装、物産などの店が並んでいる。当然ながら、ハングルの表記も目立つ。
かなり以前のことになるが、まだ観光客などを意識した整備がなされていなかった頃、この商店街の道路頭上には無数の白いロープが左右方向に張られていた。
最初はそれが何なのか見当がつかなかったのだが、立ち止まって眺めて、「ああ。あれが、これか!」と大いに納得した。雨天のときなど各店でその下端を引くと、防水布のテントが架け渡される仕組みになっている。
昔懐かしい「浪花小唄」に、「いとし糸ひく、雨よけ日よけ」という歌詞があり、これは戦前の心斎橋筋の様子をうたったものだが、その現物を初めて眼にしていたのである。
ところで、キタにせよミナミにせよ、よく韓国料理店の入り口に、天下大将軍・地下女将軍と記した、トーテムポールのような一対の像が立っている。これは将軍標(ジャングンピョ)といい、元来は村の境界などに立てられていたのだという。日本で言えば道祖神のようなもので、村人の安全や厄除け祈願の意味があるとのこと。今度、韓国料理店へ行ったときには、どうぞお確かめあれ。
あれは何か、プロパガンダのための説だったのか?
写真は、桃谷三丁目にある御幸森天神宮。
現在の生野区では、鶴橋・桃谷・中川・田島などの住居表示が使われている。しかしその全域ではないが、昭和48年2月の町名改正まで、上記のあたり一帯は猪飼野(いかいの)という地名だった。そしてそれについては以前、概略こんな説を聞いたことがある。
「戦前から在日の人が多く住み、なかには豚を飼っている人もいるので作られた、差別的な地名である」
落語ファンの当方、それが大間違いであり、よくまあそんな歴史を無視した解釈ができたものだと、あきれてしまった。猪飼野はもっと古くからある地名で、江戸時代の小咄にも出てくることを知っていたからである。そもそもは日本書紀に出てくる猪甘津(いかいのつ)が始まりで、朝廷に献上する猪(豚)を飼う猪飼部の民が住んでいたことによる。
津は港であって、入江だったこのあたりが陸地化してのち、猪飼野となったのだ。また鶴橋という地名は、同じく日本書紀に「猪甘津に橋をわたす」との記述があり、そこに鶴がよく飛んできたので名付けられたという。
写真の神社は御幸森天神宮だが、御幸というのは天皇の行幸をさし、仁徳天皇がたびたびこの地を訪れたからとのこと。だからこの神社の主祭神は仁徳天皇。とにかく大阪の歴史は古代にまでさかのぼるのだから、何か説を述べるときには、まず史実を調べてもらわないと困るのである。
東成区から生野区へ。コリア商品の鶴橋市場です。
左、衣類と寝具の店。右、食品と食材の小さな店。
東成区の仕上げは、鶴橋の卸売市場である。環状線鶴橋駅の東側、千日前通りの南すぐから近鉄鶴橋駅の高架下にかけてという区画に、狭い道路、路地、抜け道が四通八達しており、その両側すべてに商店がひしめきあっている。元をたどれば戦後の闇市地帯だから、狭い通路は人がやっとすれ違える程度、小さな店は露店と変わらないほど。
そこを、卸売市場とはいえ一般客向けの店が大半なので、買い物客が押し合いへし合いしているのだ。そしてこの市場の雰囲気を特徴づけているのは、何と言ってもコリア商品を扱う店が多いこと。衣類、食材、食品、漢方薬剤などで、看板や品書きにハングルが使われているのは無論のこと、買い物客の会話にも韓国語がまじったりしている。
チマチョゴリや寝具の鮮やかな色彩、チヂミや豚足をはじめとする食品の匂いとあいまって、なるほどここは在日の人が多く住む街であるなあと納得させられる。
近鉄の高架の南側は生野区になるのだが、そこを歩けば韓国料理店、韓国商品の輸入を手がける小さな会社、韓国仏教の布教所なども目に付くのだ。
こういう街を紹介する場合、文章よりは写真をずらっと並べたほうが雰囲気が伝わりやすいのだが、そして写真は沢山撮ってきたのだが、別のコリアマーケットも扱う予定なので、とりあえずはまあ、上の二枚で御想像を願いたい。
えな→よな→夜泣き、ではないかと思う。
それにしても、上方落語は知識の宝庫ですなあ!
千日前通りの東小橋で、小さな祠を見つけた。柳の枝葉が小屋根に覆い被さるように長く垂れ、夜になったら幽霊でも出てきそうな様子で、ゆら〜り、ゆら〜りと揺れていた。
案内板によるとこの祠は、すぐ裏手の比賣許曽(ひめこそ)神社にゆかりのある大小橋命(おおおばせのみこと)の、胞衣(えな)を納めた塚だったという。胞衣というのは、出産後に母体から排出される胎盤などのこと。
上方落語「こぶ弁慶」によれば、昔はこれを土に埋めたそうで、生まれた子供は、埋めたその上を初めて通ったものを一生恐れるようになるという。蛇が通れば蛇を恐れ、人が踏めば踏んだ人を恐れる。だから親に反抗させないよう、埋めてすぐ父親が踏んだりしたらしい。
で、案内板にはこの胞衣塚の柳が、いつしか子供の夜泣き封じに効くと言われるようになり、「よな塚」と呼ばれて親しまれたとも書いてある。胞衣は古い大阪弁では「よな」と訛って発音していたそうだから、まず「えな塚」が「よな塚」になり、そこから夜泣きへと連想が進んだのだろう。それが柳の効験に結びついた経緯まではわからないが……。
なお右の商店街、鶴橋本通という表記の下に、東小橋南商店街という表示もしてある。地名、商店街名が、神様の名前に由来するとは知りませんでした。
左、昔はロータリー交差点だったので……
右、いま、身近なセルロイド製品って何だろう?
以前、今里ロータリーと呼ばれていた大今里の交差点は、千日前通りと今里通りが交差し、そこに長堀通りが斜めに接続して(終わって/始まって)いるので、五方向に道路が伸びている。ぼくのサラリーマン時代、ラジオの道路交通情報では、ここと此花区の四貫島大通りが渋滞箇所の常連だったが、どちらもいつのまにか、あまり聞かなくなった。
広域管制の成果か、車の流れが変わったのか?
右はその近くにある大阪セルロイド会館。明治後期、堺に堺セルロイド、網干に日本セルロイド人造絹糸ができて、セルロイドの国産化が軌道に乗った(ちなみに、この二社は大正期に、他の数社も含む大合併で大日本セルロイド、後のダイセル化学工業となった)。
櫛、眼鏡枠、装飾品など、象牙や鼈甲の代用品として多用され、戦前の大阪はセルロイド産業のメッカだったという。だからこんな優雅な会館も建てられたわけで、昭和6年(1931)に完成し、現在テナントビルとして使われているこの建物は、国の登録有形文化財に選ばれている。
いまはプラスチック万能だが、子供時代、ピンポン球、キューピー人形、学生服のカラーなど、セルロイド製品は身近にいくらでもあった。カラーを細かく切ってアルミの鉛筆キャップに詰め……と、これはその燃えやすさを利用した超小型固体燃料ロケットの製造法。よく飛ばしたものです。
「起業の地」と「創業の地」、こちらは前者です。
梁石日氏については、前に触れましたね。
千日前通りの玉津二丁目で左の写真の掲示を見つけて、「あれっ?」と思った。松下幸之助に関して、福島区の阪神野田駅付近にも同じような掲示板があるからだ。
そこでとにかく図示に従って現場へ行ってみたところ、住宅街の路地の奥、小さな寺の門前に右の写真の石柱が立っていた。首をひねりつつ帰宅したのであるが、調べた結果、二箇所の掲示はどちらも正しいということがわかった。和歌山出身で明治43年から大阪電灯という会社に勤めていた幸之助、大正6年にそこを辞め、妻やその弟(後年、三洋電機を創立した井植歳男)と一緒に、ソケットの開発を始めた。そのとき住んでいたのが当時の東成郡鶴橋町、つまり現在の東成区玉津町。翌7年に転居して松下電気器具製作所を設立したのが、福島区大開町だったのである。だから東成区は「起業の地」、福島区は「創業の地」と、言葉の使い分けがなされている。
それにしても、よくまああれだけ巨大な企業に成長させたもので、一度、松下資料館見学のため守口市の本社工場敷地内に入らせてもらったことがあるのだが、その広大さには理屈ぬきで圧倒された。幸之助の生き方や経営方針に批判意見が多々あることは知っていても、そのときの実感は「えらいもんだなあ!」だったのだ。
東大阪から生駒山を越せば、奈良県です。
左、夜には明かりをともせる道しるべ。
千日前通りを、コクヨ本社から少し西に歩くと、古い石の道標が保存されている。江戸時代の後期、文化三年(1806)に立てられたものだそうで、上部をくりぬき、石の蓋をかぶせて、夜間は明かりをともせるようになっている。
いま保存されている場所のすぐ近くに奈良街道と北八尾街道の分かれ道があり、当時はその分岐点に立てられていたのだという。「深江菅笠」の回で紹介したように、大阪から奈良へは、生駒山の暗峠(くらがりとうげ)を越えていく。馬の鞍が後方に裏返るほどの急坂であるため、鞍返り峠が語源だという俗説もあったらしい。牧村史陽編「大阪ことば事典」で「くらがり」を引くと、この峠の説明に、芭蕉の「菊の香にくらがり登る節句かな」という句が紹介されている。古人が興趣を覚えつつ越した難所も、現在なら国道308号線のトンネルで簡単に抜けられるのである。
右の写真は近くの酒類販売店だが、たまたまなのか、流通の関係でそれが入りやすいのか、しきりに奈良の酒を強調しているのが興味深かった。エンタツ・アチャコの漫才、奈良見物のネタでも土産物のひとつに奈良酒が挙げられているので、近々、聞き返してみることにしよう。
地下鉄「新深江」駅には、社員用の専用通路がある。
右はショールーム。以前、見学したことがある。
大今里南には、コクヨの本社がある。子供の頃にはノートや便箋の会社だと思っていたが、いまはオフィス家具から事務機器、さらにオフィス通販、ゲームソフトにまで事業を拡大している。だから現在のコクヨ株式会社は、グループ各社の持ち株会社なのだそうだ。
ではその社名、「コクヨ」とは何なのか。大学時代のクラブのOBに、コクヨに勤める黒田さんという人がおり、経営者一族の息子だという話だった。だからぼくは長らく、伊藤忠兵衛を略して伊藤忠のごとく、コクヨは黒田余一とか与介とか、創業者の名前の略称だと思っていた。
実はそうではなく、明治38年に黒田表紙店として和式帳簿の表紙製造を始めた創業者が、大正初期に店名を黒田国光堂とあらため、ついで商標を国誉と定めたからというのが正解。「くにのほまれ」であるが、この場合の国は日本ではなく、出身地富山県が想定されていたという。
そして戦後、片仮名のコクヨになったのだけれど、中国のグループ企業には国誉貿易有限公司などと、漢字の表記が使われている。筒井康隆さんのエッセイに、
「手紙は匿名で寄越しながら、うかつにも名前入りの便箋を使っておる。コクヨという女だ」 という内容の文章があるが、これはもちろん冗談である。
深江は、菅笠で有名だった土地です。
右、菅笠と、それをかぶった旅の人々の図。
「大阪離れて、はや玉造。笠を買うなら深江が名所。名前は深江笠やけど、実は浅い笠でございまして……」
これは上方落語「東の旅」冒頭部分の一部であるが、深江笠の始まりは大和時代の、「笠縫」という氏族によってだという。別の公開資料には、同じ人々のことなのかどうか、大和の笠縫村からの移住者によるという説も載っている。
とにかくそんな古い時代から、近辺に自生していた菅を使って生産されてきており、万葉集にも「難波菅笠」という名称が出てくるのだそうだ。そして江戸時代、普通の菅笠の他に、大名行列用や伊勢参り用など多くの笠が作られた。上記「東の旅」はまさにその伊勢参りの噺であって、喜六・清八の二人連れ、深江笠をかぶり、生駒山の暗(くらがり)峠を越えて、とりあえず奈良をめざすのである。
写真左、深江稲荷の門前には「摂津笠縫邑跡」および「深江菅笠ゆかりの地」という、ふたつの石碑が建っている。右は大阪市営地下鉄・千日前線「新深江」駅の改札口で、これまた菅笠の地であったことをアピールしている。深江菅細工保存会もあり、天皇即位の大嘗祭や伊勢の式年遷宮には、いまもここの菅笠が使われているとのこと。
笠ひとつにも、多様な故事来歴があるんですなあ。
社章も、大ヒット商品の形をしている。
左、カッター会社の本社。右、印刷会社の搬出口。
若き日の広告マン時代、カッターナイフは仕事の必需品だった。企画資料の切り張りをしたり、デザイナーではなかったけれど、見よう見まねで簡単な版下の貼り込みくらいはできるようになっていたのでその作業をしたり、「オルファ」には随分お世話になったのだ。
にもかかわらず、その会社が東成区にあるとは、今回うろつくまで知らなかった。オルファ株式会社(旧名・岡田工業)のホームページによると、昭和31年(1956)、創業者が、割れたガラスの破片と板チョコから、この製品を着想したという。ニュートンの林檎、ベンゼンが見た亀の夢と同様、アイデアというものは、いつどこから訪れるのか予測不能。
その着想が育って、現在この社の製品はカッターナイフの世界基準商品になっているのである。
右の写真は印刷会社で、こういう光景もぼくに懐かしさを感じさせてくれる。なお、東中本から東今里、神路から深江へと歩くと、さまざまな業種の工場が眼につく。そしてさらに歩いて、「工場が一層多くなってきたなあ」と思ったとき、
足は市境を越えて、モノ作りの街として知られる、東大阪市に入っていたのだった。なるほど。
左、玉楠大明神。楠神社と通称されている。
右、木の股におかれた、お稲荷さんと狐。怖いなあ。
東中本にある八王子神社の御旅所。案内板によれば、ここは古くは仁徳天皇が高津宮にましましたとき、その守護神として祀られたものだという。時代下って大坂夏の陣で焼失し、寛永年間に再建。江戸時代を通して八剱大明神と称されてきたが、明治に入って八剱神社と改められた。
その後、近くの中本にある八王子神社に合祀され、その御旅所となった由。境内には太い枝を幾方にも伸ばした樹齢約千三百年という楠の大木があり、玉楠大明神として祀られている。明治43年、淀川堤防決壊による大洪水があったとき、この大枝に村の者40数名が三日間避難して助かったともいう。確かにそれが可能な大きさなのだ。
そしてごつい股には小さなお稲荷さんの社がおかれており、狐が宙を睨んでいるのだが、いやあ、静寂の夜にここを通って月明かりでその姿を見上げたら、さぞかし怖いだろうな。子供だったら、親におんぶかだっこされていても泣き出すのではないか。そのとき、「悪いことをしたら、この狐様が罰を当てなさるよ」と言い聞かせれば、効果は抜群だろう。幼少時にその種のインプリンティングを行っておくことは、しつけと人格教育上、必要だと思うのだがどうだろう。
一文字姓の認め印あります。ああ、なるほど。
左、済民日報大阪本社。右、中大阪朝鮮初中級学校。
東成区中本で、ビルの壁面に「済民日報」という看板を見つけた。反射的に、「経済」という言葉の語源となった熟語「経世済民」を思い出し、「経済紙かな。それとも民を救済するというんだから、宗教関係紙かしら」と考えた。
ところが帰ってすぐにネット検索したところ、ハングルの画面が出てきたので驚いた。韓国は済州(チェジュ)島で一番読まれている新聞だったのだ。またそこから少し歩いた東中本には、北朝鮮系の中大阪朝鮮初中級学校がある。
それでようやく思い出した。ヤンソギル(梁石日)氏の長篇「夜を賭けて」の舞台にもなっているように、となりの生野区と同様この東成区にも在日の人が多く住んでいるのだ。
そしてさらに思い出した。若い時代、確か今里だったと覚えているのだが、町のハンコ屋の表で「一文字姓の認め印あります」という貼り紙を見たことがある。一瞬どういう意味かわからず、歩きながら考えて、ああそうかと納得したことがあったのだった。四代目桂米団治師の落語「代書」にも、在日の依頼者李大権氏が登場する。米団治師匠、東成区の住人で副業に代書屋を営み、その経験を踏まえてこのネタを作ったのである。作中では李大権氏、代書屋をやりこめる側にまわっているので念のため。
右の石像に、思わずゾクッとしていたのだった。
左は公衆衛生研究所の建物。
今回からは東成区に入る。中央大通りの南、環状線森ノ宮駅のすぐ東という一画には、府立成人病センター、公衆衛生研究所、環境農林水産総合研究所が並んでいる。
「だけど、こういう施設は紹介しだすと長くなるからなあ」 
そう思って通過しかけたのだが、敷地内の少し奥まった場所に赤いよだれかけをつけた石像が立っているのに気づき、足が止まった。地蔵でもなさそうなので、近づいて確認したところ、そこは大阪府犬管理指導所という施設で、石像はすりよって彼を見上げる犬二匹とともに立っていた。「よだれかけは供養のしるしだろう。ということは……」 
そこまで考え、当方思わずゾクッとしていたのだ。帰宅後調べてみると、ここは狂犬病予防に関する業務とともに、野良犬の捕獲、飼い主からの申し出に応じての引き取りなども行っている。無論、迷い犬の返還、新たに飼いたい人への譲渡などもしており、そのために法律で定められた期間を越えて、飼育もしているらしい。だが、それらの幸運にもれた犬は、炭酸ガスによって処理される。
社会安全と防疫の観点から見ればこの種の施設は必要で、職員を悪く思うのは筋違い。動物が被害者で、加害者は無責任な飼い主なのだ。捨てようかと思った人も、この石像を見れば思いとどまるかもしれないのだが……