大阪ランダム案内。平野区・東住吉区・阿倍野区
会社規模から考えれば、意外に小さな本社ビル。
右の写真は長池。端っこの高架が阪和線です。
液晶テレビ、携帯電話、電子辞書などで著名な「シャープ」の本社は、阿倍野区長池町にある。
当方の子供時代には早川電機という社名で、シャープというブランドおよび現社名の起源は、創業者早川徳次がシャープペンシルを発明発売したことからだ。
現在、世界的な大企業になっていることはもちろん知っていたが、資本金2046億強、連結売り上げ高3兆4千億強、従業員数が単独で2万3千人弱、連結で5万3千人強という数字には仰天した。大学時代の友人がここに入って経理部に配属された。仕事中に彼女のことを思いうかべていたら、それが表情に出ていたのか上司がにやにや笑って、「おい。何をええこと考えとるんや」と言ったという。
その話を聞いた当時は、何となく中小企業的な雰囲気を想像していたのだが、今年定年を迎えた友人、勤務先の巨大企業への成長とともに歩むという、幸せなな会社人生を送ってきたのだ。長らくインドとマレーシアに行っており、先般何十年ぶりに会って聞いたら、経理だけではなく全般を管理する立場だったとのこと。「出世」もしておったのだな。すぐ横手に南北に長い池があるから長池町。JR阪和線で通過するとき、池もシャープ本社もよく見えております。
左。前に来たときには、蓮の花が咲いてました。
右。夜に通ったら恐そうな、その雰囲気がよろしい。
池の周囲の公園が桃の花の名所だということで、現在は池の名前も町名も「桃ケ池」だが、現場で案内板を見ると「股ケ池」になっている。
古くは「臑ケ池」「百ケ池」とも書いたそうで、とにかく発音は「ももがいけ」。昔の池の形が、股状になっていたからだそうだが、百ケ池の方は付近に池が多かったからともいう。随分広い池で、水面には蓮がびっしり。そして池の中の島にあたる部分には、股ケ池明神が祀られている。
案内板によれば、推古天皇の御代、この島に胴回り一丈、長さ三丈六尺という怪物の死体が横たわっていた。そこで聖徳太子が穴を掘って埋めさせたのだが、その後も池に怪異なことが起こるので、鎮霊のため塚を立てた。
それから幾百年後、高津(現在の天王寺区内)に住む人が夢の中で神に祈っていたところ、蛟龍が現れて「股ケ池で自分を祀ってくれ」と頼んできた。そこでつくられたのがこの祠なのであると、さながら「日本むかし話」の世界である。
だから祭神は丸高竜王、丸長竜王と、聞きなれない神名になっている。現在は横手の住宅街とつながっているが、本当に橋ひとつで渡る島で、そこにこの明神さんが祀られていたら、もっといい景観と雰囲気だっただろうと思う。
それにしても、怪物の正体は何だったのか。大蛇かな?
古くからのSFファンなら御存じ。阪南団地です。
右、横手の商店街。散歩でもしてはったかな……
あべの筋に面してそびえるこの建物は、昭和37年(1962)にできた阪南団地。裏手には、近年の昭和ブームでファンの増えた「公団型」の建物が並んでいるが、この棟はいわゆる下駄履き団地で、一階に商店が入っている。外壁はタイル張りで、なかなかの偉容である。
一画は旧制大阪高校の跡地であって、戦後の学制改革で大阪大学(教養過程)南校になったところ。北校は、豊中市にあった旧制浪速高校が、同じく大阪大学に統合されて生まれたもの。現在の阪大の待兼山キャンパスである。
で、この阪南団地、完成直後からまさにこの棟に、サラリーマン時代の眉村卓さんが入居しておられた。結婚して社宅に住んでいたのだが、SFを書きだし、依頼も増えてきていた。先のことを考え、社宅を出たのだ。そしてここに入居中、長女が誕生し、そのあと脱サラもした。
だから眉村さんの小説やエッセイには、ここを舞台や題材にしたものが少なくない。いまは王子町だが、当時は阪南町という町名だったという。横手には小さな商店街があり、郵便局もある。当方、「ここから速達で原稿を送りはったのかな」などと思ったのだった。もっか裏手の公団型の建物は、立て直しのため順に取り壊されている。眉村ファンの皆さん、記録を残したいのなら、撮影はお早めに。
境内は静かな雰囲気。兼好法師の庵があったという。
昔は古墳だったらしく、右のように小高いのです。
阿倍野区も、その西側で隣接する西成区も、南北に長いので境界線が延々とつづく。だから、「ここは、どっちの区に属しているのかな?」と、とまどう場所や施設もある。
代表例がこの海照山正圓寺で、通称「天下茶屋の聖天さん」。天下茶屋という地名は西成区のものだし、同区には聖天下という町名もある。おまけに西成区の公式ホームページにも、「西成区と阿倍野区の境界線のところに天下茶屋の聖天さんの別称で知られる正円寺がある」と紹介されており、所在地も西成区聖天下と記されているのだ。
しかし、正しい所在地は阿倍野区松虫通なのである。
で、この聖天さん、ぼくは以前たまたまタクシーで通過したとき、小高い丘になっている境内に大相撲の幟が立ち並んでいたことで記憶していた(何部屋の宿舎になるのか、御存じの方はお教えを)。天慶2年(939)の創建だそうで、当時は別の場所にあったが、元禄時代にここに移ったのだという。境内から海が望めたので海照山。いまはもちろん、ビルの街だから見えはしない。
聖天は大聖歓喜自在天のことで、インドの土産品で二天が抱き合っている像があるが、あれである。夫婦和合と子宝祈願に効験ありとのことです。そして除災と富貴にも。
紋章は、言わずと知れた五芒星、☆マークです。
写真右は、狐を従えた晴明の像。
阿倍野という地名の起源は、昔、豪族・阿部氏が住んでいたからというのが代表的な説らしい。ところがややこしいことに、区内には阿部王子神社がある一方、安倍晴明神社もあって、阿部と安倍とが混在している。
おまけに陰陽師として有名な安倍晴明は、遣唐使・阿部仲麻呂の子孫だといい、右大臣・阿部御主人(みうし)の子孫だともいう。どちらにしても阿部であって安倍ではない。そのあたりの区別と由来、夢枕獏さんなら詳しいのだろうが、当方にはよくわからんのである。
それはともかく、阿倍野筋という大通りに面して神社があることは前から知っており、ぼくはそこが安倍晴明神社だと思っていた。しかしそれは、仁徳天皇もしくは豪族・阿部氏が建てたといわれる阿部王子神社で、安倍晴明神社はそこから少し歩いた裏手、旧熊野街道に沿った静かな住宅街にある。ごく小さな神社であるが、ここが晴明生誕の地だそうで、境内には晴明公産湯の井戸もある(!)。
安倍晴明は今昔物語や宇治拾遺物語、人形浄瑠璃、歌舞伎、上方講談と、さまざまな作品に出てくるわけで、「葛の葉の子別れ」で知られた安倍泰名は、晴明と牝狐との間に生まれた子とされている。境内には泰名稲荷もあり、虚実融合の妖しさに満ちているのだ。
阪堺電車は、大阪府下唯一のチンチン電車。
写真はどちらも、阪堺線の東天下茶屋駅です。
阪堺電車は正式社名が阪堺電気軌道株式会社。その前身は、明治33年(1900)に運行を開始した大阪馬車鉄道である。以来、電化されたり、社名変更があったり、南海電鉄の一部になったり、曲折を経て現在に至っている。
営業路線は、浪速区恵美須町と堺市の浜寺を結ぶ阪堺線、阿倍野と住吉区の住吉公園を結ぶ上町線。府下唯一のチンチン電車であるが、一部は軌道(道路に埋め込まれた線路)ではなく、鉄道(普通の専用線路)になっている。
写真はその鉄道区間の駅で、改札も何もない低くて短いホームに電車が入ってくる。これが軌道の場合は、安全地帯式の停留所になるのであるが、いま書いていて気がついた。道路の真ん中の安全地帯というものも、最近ほとんど見なくなっているのだ。同じ駅の反対側ホームには馬車鉄道跡の石碑が立っており、説明板によれば廃止は明治41年とのこと。日露戦争が終わって3年後であるわけで、
その頃まで馬に牽かせた客車が走っていたことを、逆に意外に思う。ぼくのイメージとして馬車鉄道は明治初期、文明開化時代の象徴のひとつだったからだ。
なお現在運行中の車輌には、昭和一桁代に製造されたものもある。80歳を越す老体が働いているのである。
大阪市指定の有形文化財になっているそうです。
篠山の方は木造で低い建物だったけど、なぜか……
大阪市立で工芸高校という学校があることは知っていた。しかしどこにあるのかは知らず、ましてどんな校舎なのかということなど、知るよしもなかった。ところが阿倍野区を歩くため地図を見ると校名が載っており、行ってみると、予想もしていなかった美しくて立派な校舎が現れた。
同校のホームページによれば、前身は5年制の市立工芸学校で、金属工芸・木材工芸・図案の3科を持ち、大正12年(1923)に第一回の入学生を迎えている。
そしてその翌年竣工したのがこの校舎で、設計はベルギーのヴァン・デ・ベルデというアールヌーボーの巨匠、モデルはドイツのワイマール工芸学校だという。
(ヴァン・デ・ベルデと聞くと、「完全なる結婚」の著者を思い出すが、無論別人で、それはオランダの医師ですよ)
戦後の学制改革で工芸高校になり、現在は美術・ビジュアルデザイン・建築デザインなど、6学科を擁しているとのこと。イタリアの国立芸術高校が姉妹校になっており、毎年参加者選考の上、研修旅行も実施されているという。
大正時代やアールヌーボーに共通点があるのか、正面玄関では、兵庫県の篠山町で見た古い役場の正面を思い出す。煉瓦造りの校舎の落ち着いた雰囲気も大いに結構で、以上すべてに、「さすがは工芸高校!」と思ったのでした。
左、付属小学校。右、府立高校。二校の共通点は?
右の円形校舎上部に、小さくてわかりにくいけど……
大阪教育大学付属天王寺小学校、平野小学校、池田小学校。付属小学校は三校あり、池田小学校は児童殺傷事件が起きたあの学校である。戦前の師範学校時代以来、
本来の存在意義は通常の教育とともに、教師養成のための実習や、教育関係の研究に寄与することであったはずだが、いつ頃からなのか、一部教育ママが眼の色を変える、進学エリート校と見られるようになってしまった。
殺傷事件の犯人も反エリート意識とともに、「行きたかったけど、行けなかった」恨みを児童に向けたと言われている。三校には付属中学と高校もあり、同様のイメージで捉えられている。そのあたり、当方どうも納得がいかんのである。大阪府立天王寺高校。これは旧制天王寺中学以来の名門校で、北野高校や大手前高校とともに、優秀大学への合格率の高さを誇ってきた。OBは各界とも多士済々。
著述関係では、開高健、谷沢永一、小田実、萩原遼の名前もある。戦後の学制改革時、旧制天王寺中学と夕陽丘高等女学校が生徒を半分ずつ入れ替え、前者は天王寺高校、後者は夕陽丘高校になったのだそうだ。
今回この二校を並べたのは、どちらも校名が天王寺なのに阿倍野区にあり、私立でもないのに校舎に学校名を大きく表示しているという、二つの共通点があったためである。
アベキンさんと呼ばれてるとは、知りませんでした。
右のチンチン電車の背後が、そのアベキンさんです。
前にJR天王寺駅を取り上げたとき(上町台地の部に収録)、このあたりには土地勘がなく、JR天王寺駅と近鉄阿倍野橋駅が隣接していると知ったのも、社会人になってからだと書いた。左の写真がその光景で、左がJR天王寺駅(天王寺区)、右が近鉄阿倍野橋駅(阿倍野区)。
すなわちこの写真は、陸橋上で両区の境界線あたりに立ち、東の方向を向いて撮ったものである。
後者のビルには近鉄百貨店の阿倍野店が入っており、これを大阪府の南部や近鉄沿線に住む人たちは、「アベキン」または「アベキンさん」と呼んでいるらしい。そしてそのアベキンさん、今年の初めだったか、大規模な在庫一掃バーゲンをやっていた。2014年の完工をめざして建て替えるためで、完成すればビルは地上59階、地下5階、高さ約300メートルという日本一の超高層棟になる。
百貨店も大幅増床になり、既存のフロアと合わせて、これもまた日本一の10万平米規模になるという。
右の写真は阪堺電車上町線の終点で、端っことはいえ阿倍野区内、近鉄阿部野橋駅、アベキンさんの横にあるのに、駅名は「天王寺駅前」だ。そのあたりの判断基準がよくわからんのだが、大阪府の北部に住む者は、「どっちにしようとイメージは一緒や」と言うかもしれない。
アポロビルの裏手、「あべの銀座」も閉鎖されている。
右は大阪市立大学医学部の付属病院。
今回からは阿倍野区である。昔、新世界をうろついたとき、ジャンジャン街のガードをくぐったら、道のむこうにまたアーケード商店街があるのを知った。
入ってみると、どこまでもつづいている。山王という地名表示があり、それで自分が西成あたりを歩いていると知ったのだが、途中で枝分かれするアーケードを左に曲がって進むと、また延々とつづいていく。
「いったいこの商店街は、どこまで伸びているのだ?」
思いつつ進むとようやくアーケードが途切れて坂道になっており、その先の細い道にもさらに商店街があって、芝居に使う小道具やカツラを売る店があったので一驚した。
そして気がついてみると、何と阿倍野のアポロビルの裏手に達していた。浪速区→西成区→阿倍野区と三つの区を「かすって」歩いたことになるわけで、
地図で見れば大した距離ではないが、あの方向感覚の怪しくなる「胎内めぐり」のような体験は魅惑的だった。
だが現在、同じルートで阿倍野区に入った一帯は再開発で巨大なビルの街になっており、迷路のような道筋や商店街も、わずかに痕跡を残すのみとなっている。市大医学部の付属病院がそびえており、そのとなりには同様の高層ビルで医学部の校舎もある。街の発展としては結構なことだが、うろつく魅力はなくなってしまったのだ。
左の写真は、左が長居陸上競技場、右が球技場。
右の写真は、第二陸上競技場です。
長居という町名は住吉区と東住吉区にまたがっているが、広大な長居公園と各種競技場があるのは東住吉区。ワールドカップが開催されたり、マラソンのスタート・ゴール地点になったりしているので、全国的に知られているだろう。陸上競技場以外にも、球技場、庭球場などのスポーツ施設があり、公園内には植物園や自然史博物館もある。
そしてここは、戦前から公園化が計画されていたのだが太平洋戦争で中断、戦後の一時期には競馬場と競輪場があったのだという。近場の競馬場といえば西宮の仁川(阪神)、尼崎の園田しか知らなかったので調べてみると、競馬は昭和34年(1959)、競輪場も37年(1962)に廃止されている。当方が小学6年、中学3年のときだから、
まあ、知らなくても不思議はなかったのだ。
競技場の外にはコンクリート製で随分背の高いモニュメントが立っており、そこにはオール平仮名で句読点なしの言葉が彫り込まれている。 「こころよりからだへ からだわがいとしきものよあひともにこのおもきつちけりてかなたへ からだよりこころへ こころわがたのもしきものたづさへてはしりたたへむこのつちをこそ」  ……なるほど。
はりの中野があるので、針中野。わかりやすい!
道標には、はりみち、でんしゃみちと彫り込んである。
近鉄南大阪線に針中野という駅があり、その東側一帯も針中野、および中野という町名になっている。
この「針」は「鍼」のことで、中野はこの地で江戸時代から「小児はり」を業としていた家の名前。宝暦年間の絵図にも、「中野村小児鍼師」として載っているのだそうだ。
中野は村の名前が先か個人の苗字が先か。当時からの大地主だということなので、後者かもしれない(御存じの方、御教示を)。子供の夜泣きや疳の虫に効くと評判で、中野のはり→はりの中野→はり中野と変化したのだろう。ただし針中野という駅名ができたのは、近鉄の前身大阪鉄道がここを通った大正末期、駅の土地を中野家が提供したため、敬意を表してつけられたのだという。
町名はぐっと新しく、昭和55年からである。
そして現地を歩いてみると、写真左のような石の道標が何箇所かに残っている。また現在も開業している小児はりの診療所は少し離れた場所にあるが、中野家の邸宅も随分広い敷地で高い塀に囲まれて現存している。
その門の上部に掲げられている額が右の写真で、「なかの、はり」と抜き文字で表示されている。なお小児はりは鍼を刺すのではなく、小さな金属器具でツボに刺激を与えるのだそうだ。いろいろ知ることができて、満足しました。
区内を流れる今川と駒川は、地名にもなっている。
川の水は、浄水されたものだそうです。
東住吉区の南側境界線は大和川に接している。
だからぼくは、区内を流れている小さな川は、その大和川に注いでいるのだろうと思っていた。ところがこの今川は北上している。区内をほとんど縦貫するかたちで流れ、東部市場の近くの杭全で平野川に合流するのだという。そしてその平野川はさらに北上し、城東区の森之宮あたり、大阪城のそばまで行って第二寝屋川に注いでいるとのこと。
「ということはつまり、大阪市内東部区域の平坦な土地は、南より北の方が低いということなのか」
初めてそれを知って、何か意外な感じを受けたのだ。
第二寝屋川は寝屋川と一緒になって大川に合流し、大川は市内中心部を横切って大阪湾に至る。それについては、生駒山系から海へという位置関係から、当然東から西へ流れるとはわかっていたのだが。
またこの今川は、川に沿って公園が作られており、訪れたときには、近所の人が集まって太極拳の稽古をしていた。写真のように、「うるし堤公園」と名付けられた区画もある。昔、堤に漆の木が植えられていたからだそうだが、江戸時代、櫨(はぜ)の木が連なっていたと書いてある資料もある。どちらが正解なのだろう。
まあ、櫨もウルシ科の木ではあるのだけれど。
貨物駅とはいえ、駅舎内には入れないとは?
もっかのところ、西日本最大の貨物駅だそうです。
JR関西本線(大和路線)で天王寺の次が東部市場前。その駅前には百済(くだら)貨物駅もあるのだが、東部市場前とは直接連絡しておらず、そのまた次の平野駅から引き込み線でつながっている。ぼくはなぜか長らく、ここが開高健氏が「青い月曜日」のなかで勤労動員体験を書いている、竜華操車場の跡だと思い込んでいた。
しかしそれは勘違いで、竜華操車場があったのは、久宝寺駅一帯。駅の順序で言えば、平野→加美→久宝寺。平野と加美は大阪市平野区で久宝寺は八尾市であるが、車窓から見ればすぐ近隣だから、若い時代にでも双方の引き込み分岐線の光景に接して混同してしまったのだろう。
竜華操車場は昭和13年(1938)、百済貨物駅は昭和38年(1963)の開業。前者はとうに廃止されているが、こちらは現在、敷地と機能を拡充する工事が進められている。梅田貨物駅の廃止にともない、吹田と百済にその機能を分散するためである。なお、百済という地名は当然、昔の朝鮮半島にあった百済の国に由来する。7世紀頃すでに摂津国百済郡という郡名があったそうで、百済国が滅んだとき逃げてきた人々が、大勢住み着いていたらしい。言葉の壁はどうやって乗り越えたんでしょうかね。
田辺、山坂から、いったん北へ上がりまして……
国内はもちろん、世界各国から商品が入ってくる。
大阪市の中央卸売市場は三箇所に分かれている。
福島区野田に昔からある市場を、関係者は「本場」と呼んでいるそうだが、あとの二箇所は東住吉区今林の東部市場と、住之江区南港の南港市場だ。
本場と東部は、野菜果実、水産物、加工食料品を扱い、南港は鶏肉以外の食肉を扱っている。今林の東部市場が完成したのは昭和39年の11月で、これは戦後の人口増加と生鮮食料品の消費拡大により、それまでの本場施設だけでは到底対応できなくなったことによる。
昭和29年にすでにその建設計画が立てられたというのだから、その面での戦後の復興や増加は、大した勢いを持っていたのだと言える。大阪市のホームページによると、東部市場の敷地面積は105、615平方メートル。取扱い数量は平成19年の一日平均、野菜と果実で約768トン。水産物が生鮮、冷凍、加工品を合計して約263トン。加工食料品が約49トンとある。そうだ、ラジオ大阪でワイド番組をやっていたときのコーナー・スポンサー、「大起水産」の本社も、この東部市場内にあるのだった。その節はお世話になりました。社業御発展を、お祈りいたします。
筒井康隆さんも、氏子だったんでしょうね。山坂神社。
境内には、八日戎という社もある。八日戎、ハテ?
丘とまではいえないけれど、山坂神社の境内は周囲より少し高くなっている。実はそれは古墳であって、その上に神社を建てたのではないかという説があるという。
いつ創建されたのか明らかではないらしいが、古くから田辺には東神と西神、ふたつの氏神が祀られていて、その西の神がこことのこと。大相撲大阪場所がひらかれるときには、九重部屋の合宿所になる。
だからネットで山坂神社をあれこれ検索していると、千代大海が参拝している写真が出てきたりする。山坂神社へ居合い抜きの稽古に行ってきたというブログが、複数出てきたのも興味深かった。ぼくが行ったときには、近所の人が境内を掃除しているだけで静かだったのだが、居合いの稽古、やっていたのなら見てみたかったな。
右の写真は、いまや液晶テレビで世界に名高いシャープが奉納した石柱で、左に「正直」、右に「浄明」と彫り込まれている。「何でまたシャープが?」と思ったのだが、すぐに気がついた。行政区分ではとなりの阿倍野区長池町になるが、歩いてすぐの阪和線を越した南西に、シャープの本社があるのだ。なるほど、なるほど。
北田辺は開高さん。南田辺は筒井さんゆかりの駅。
検索は、大本山法楽寺で、すぐに出ます。
JR阪和線、南田辺駅東側一帯の町名は山坂である。
「えっ。山坂って、あの山坂?」と反射的に思った人は、かなりのSFファン、もしくは筒井康隆ファン。左様。筒井さんが幼少期を過ごした、その山坂なのである。
そしてここには、真言宗泉湧寺(せんにゃうじ)派大本山である、法楽寺という立派な寺がある。門前に「たなべ不動尊」という看板が立っているとおり、本尊は大日大聖不動明王。創建者は平清盛の嫡子、平重盛とのこと。
ただし寺のホームページでは、それにしては当時の記録に「法楽寺の名など一向に出てこないので」、後世の人が脚色した伝説だろうと、随分正直な解説が加えられている。
元亀年間、織田信長の兵火に焼かれたことは史実だそうで、天正時代に復興。江戸時代部分の紹介には、ぼくも名前くらいは知っている高僧、慈雲尊者の得度談も出てくる。
猛暑を避けて早朝取材に出かけたところ、境内のお堂では勤行中で、写真のごとく参拝者が立って手を合わせており、なかなかいい雰囲気だった。
なお、この寺のホームページは非常に充実しており、「なぜ酒を飲んではいけないのか」という戒律講説もある。二日酔いの方、寺名で検索の上、どうぞ御参照ください。
大戦末期、田辺に模擬原爆が落とされていた!
石碑のむこうの掲示板に、右の写真が貼られている。
太平洋戦争末期、米軍は史上初の核兵器使用に備え、
日本各地上空で模擬原爆を使った投下訓練を行っていた……。これはぼくも断片知識として知っていたことであるが、そのひとつが田辺に落とされたことは知らなかった。
その事実を伝える石碑、およびその横に立てられた説明板によれば、昭和20年7月26日午前9時26分、写真右の模擬原爆が落とされ、死者7人、重軽傷者多数を出したという。公開資料を読むと、TNT火薬1万ポンド(約4トン半)が詰められていたからで、その形状から米軍ではこれを「パンプキン」爆弾と呼んでいたと書いてある。
ちなみに原爆には2種類あって、広島型はウラニウム、長崎型はプルトニウムを使っている。そしてこの「パンプキン」は爆縮タイプの長崎型と相似しており、長さ3メーター50、直径1メーター50だったとのこと。
訓練投下の目標にされたのは、東京、大阪、名古屋、福島など全国44箇所。長崎被爆の前日である8月8日には、福井県の東洋紡敦賀工場に落とされ、死者33人を出している。大学時代、夏の合宿(浜辺の喫茶店経営)を毎年この敦賀で行い、東洋紡にも世話になったのだが、そんな話は聞いたことがなかった。青春の思い出と原爆がつながってしまい、複雑な気分である。
左、文学碑。奥の金属板には略歴が記されている。
右、北田辺駅。文学碑はふりむいた左手にある。
近鉄南大阪線、北田辺駅の改札口前に、ぼくが学生時代から愛読してきた作家、開高健の文学碑が建っている。生まれたのは天王寺区東平野町(現・中央区東平)だが、昭和13年、小学生時代にこちらへ転居した。
以後、北田辺小学校、旧制天王寺中学校、同じく旧制大阪高等学校、そして新設された大阪市立大学法学部と、学生時代のほぼすべてをこの地で過ごしている。
ほぼすべてと書いたのは、大学時代、同人誌「えんぴつ」の仲間で、洋酒の寿屋(現在のサントリー)に勤めていた年長の女性と交際を始め、アッと言う間に妊娠したため、家を出て同棲しだしたからである。
文学碑には『破れた繭』の一節が掲示されており、それによると戦前このあたりは大阪の南の郊外で、「畑、水田、空地、草むら、川、池などが、どこにでもあった」という。
そしてこの『破れた繭』には、妊娠した彼女が母親と一緒に北田辺の家にやってきたので、家の者に知れないよう慌てて駅へと逆戻りさせ、阿倍野へ出て、そこらの中華食堂で話を聞いた様子も書かれている。無論、女性は開高夫人となった詩人の牧羊子であるが、夫妻および一人娘という開高健一家、とうに三人とも鬼籍に入っている。開高フレーズで言うなら、「橋の下をたくさんの水が流れた」のだ。
左、北区の茶屋町も、こんな家々が多い街だった。
右、これほど立派な「うだつ」も珍しいのではないか。
今回からは東住吉区に入る。まずは田辺であるが、現在このあたりの町名は北田辺、田辺、南田辺、東田辺に分かれている。古くは農村地帯で北田辺村と南田辺村があり、明治22年にそれが統合されて大阪府住吉郡田辺村になった。大正3年には田辺町になり、同14年に大阪市に編入されて住吉区田辺町となる。そして昭和18年、住吉区が阿倍野区、住吉区、東住吉区に分割され、そこでようやく東住吉区の田辺になったわけである。
同区のホームページによれば、昭和初期から市街化が進み、戦後から昭和40年にかけてはそれが急速に進んで、現在ではほとんどが閑静な住宅区域になっているとある。歩いてみるとマンションが目立つ町並みになっているが、写真のように連棟式で門と塀があって二階建てという、大阪市内の古くからの街でよく見かける住宅も残っている。
戦前の建築かしらと思ったけれど、このあたりも空襲を受けた地区だから、ひょっとしたら戦後の建物かもしれない。とはいえ右の写真の連棟住宅、改装されているものの、二階部分に防火と装飾を兼ねた「うだつ」が残っているから、建てられたのは戦前ではないかと思うのだが。
瓜破霊園は大阪市立の広大な公園墓地。
左、海軍飛行兵曹長の墓。つまり、パイロットですね。
瓜破(うりわり)霊園は平野区の南端、大和川に近い場所にある。昔は瓜破村の墓地だったそうだが、昭和三十年の大阪市編入とともに市立霊園となった。敷地が28万平米。池あり木陰ありの広大な公園墓地になっている。そして歩いてみて眼についたのは、やはり戦没者の墓。陸軍中尉、海軍兵曹長、海軍飛行兵曹長、陸軍上等兵……。
陸軍将兵の墓には俗名の上に桜の花、海軍のそれには錨のマークが浮き彫りになっているものが多く、なかには昭和18年に、父親が建立したと記されている墓碑もある。息子の墓を建立する父親。その、言葉には出せなかったに違いない内心の想いを想像すると、「胸が痛む」などという言葉を使うことさえ僭越だと思えてくる。
右の写真は同じ霊園内にある瓜破遺跡のひとつ花塚山古墳で、瓜破古墳群と称されるもののひとつだという。そもそもこのあたりは、現在の大和川の河床にあたる地域だったそうで、集落跡からは弥生式土器や石包丁、石器に木器、さらには中国の銅貨も出土しているとのこと。
死後の世界があるとすれば、ここでは弥生人と太平洋戦争の戦没者が顔を合わせていることになるのだろうか。
現在の町名は、加美鞍作。ん、「くらつくり」って?
右、境内を囲む石の柵に、プロペラ会社の社名が。
JR加美駅前の菅原神社は、名前のとおり菅原道真を祀っている。まあ、どこにでもありそうな神社だが、石の柵に彫り込まれた献納者名に眼がいって足が止まった。
鞍作町・福井鋳造所、堀本鐵工所、尾崎軽合金鋳造所、そしてミカドプロペラ株式会社。
「鞍作という町名は、昔このあたりで馬の鞍を作っていたからなのか。金属や鋳物関係の工場が多い地区らしいが、飛行機のプロペラとなると、これは戦前、戦中の軍需工場かな。それにしては、石がまだ新しそうだけど……」
帰って調べてみると、その推理は半分当たって、半分はずれていた。鞍作という地名は、まさに大和朝廷時代、物部氏が勢力を持っていた時期、このあたりに鞍などの馬具作りを業とする鞍部の一団が住んでいたことによるもの。しかしミカドプロペラは、飛行機のプロペラではなく、船のスクリューや各種機械部品を製造する会社なのだった。
公開資料によれば創業は明治35年で、ここも銅合金による機械部品の鋳造が始まり。加美に本社工場を建てたのが昭和13年で、昭和54年からは三重県の名張に移転しており、平成13年、カーレース用耐熱マグネシウム合金鋳物の国産化に成功したとある。「なるほど。なるほど」であって、偶然のきっかけでこんな知識が得られるのだから、「うろつき」趣味の効用、まことに大なのである。
豪農や豪商が生まれたのは、やはり平和だったから。
右、映画撮影用のセットではなく、本物ですよ。
JR大和路線の加美駅から少し歩いたところに、国の重要文化財建造物に指定されている奥田邸がある。昔、このあたりの鞍作村で代々庄屋を勤めていた豪農の屋敷で、敷地は約千坪あるという。見学許可日ではなかったので外観しか見られなかったが、裏手へまわってみると、瓦を乗せた板塀が手前からはるか彼方までつづいて壮観だった。
長屋門、主屋、倉などの家屋が建築されたのは、江戸時代初期だろうとのこと。また近くには、現在「がんこ寿司」の店舗として使われている屋敷もあり、こちらは同じく江戸時代に菜種油の商売で成功した家だという。そういえば
若き日の広告マン時代、クライアントにサラダオイルの吉原製油があったのだが、この会社も江戸時代の油問屋がルーツだった。豪農ができ豪商が生まれたその背景には、徳川三百年の平和と消費経済の発展があったのだ。
右の写真は奥田邸前に保存されている高札場。説明書によれば、幕府の掟・禁令・条目などを大坂代官所が板書きし、村々に掲示したとある。この高札は旧加美村にあったもので、昭和30年、村が大阪市に編入されるまで、村役場で利用されていたという。屋敷も高札場も、そのまま時代劇のロケに使えそうな雰囲気でした。
なるほど。ここはまさしく、河内ですもんねえ!
次から次へと、興味深い史実が出てくる土地です。
平野公園(旧称・松山公園)内にある立派な記念碑は、「河内音頭宗家初音家礎之地」というものである。その文言によれば、『昭和のはじめ初音家太三郎にひきいられた初音屋五人衆によって、ここ松山公園を拠点にして、現代の河内音頭の礎が築かれ』たのだという。
「う〜む、そうかあ!」と思わずうなったのは、大阪の夏の風物詩、各地の盆踊りで披露される河内音頭の歴史に、俄然リアリティが加わったからだった。一般に大阪の夏の踊りは、明治から昭和戦前までは近江発祥の江洲音頭が主流で、河内音頭が広まったのは戦後だとされている。ぼく自身も、中学時代(1960年代初め)に鉄砲光三郎の「鉄砲節」が大ヒットしたとき、初めて河内音頭を知った。
寄席においても、桜川の屋号を持つ戦前からの芸人連は江洲音頭の流れを汲んでおり、初音家賢次のような河内音頭派が台頭するのは戦後なのだ。無論、もっか活躍中の「新聞読み」、河内家菊水丸もその一人。
しかしこの地においては、昭和初期から盛んに謡われていたという。ひとつの芸が「流れ」になり「うねり」となって広まっていくさまが実感でき、大いに納得していたのだ。
右の写真は、同じ公園内にある「平野の黄金水」の井戸。湿地で水質の悪い土地だったが、この井戸の水は良質で、飲料や酒造に使われたのだという。
平野郷は、河内木綿の産地でもあったそうです。
明治初期の、コレラ流行の逸話まで出てくるとはな。
前回少しふれた環濠とは、自衛と安全のため、村や町をぐるりと囲うように掘られた濠のことである。平野郷ではその内部への木戸口が十三箇所あり、そこには橋がかかり、門や門番の詰め所、それに地蔵堂がもうけられていたという。写真左はそのひとつ、樋之尻口門の地蔵堂。そしてこの木戸口は八尾久宝寺への出入り口だったそうだ。
すぐそばの赤比留目神社裏手に樋之尻橋の石柱が保存されているが、それは石垣の上に立てられている。その石垣自体が、環濠の土塁だったとのこと。また神社の横が公園になっており、右の写真はその一画に残されている、濠を埋め立てた跡らしい小さな橋。同じような光景は、前回の杭全神社の境内でも見られた。
なお、この環濠がいつ掘られたのかは正確にはわかってないが、戦国時代から江戸時代を通して水運や灌漑にも利用されていた。環濠は明治初期にはいくつかの池に分かれてしまっていたが、木戸口はその頃にもまだ使われており、公開資料によれば、明治12年コレラが流行したときには、門を閉じて人の出入りを制限したとのことである。
ちなみにこのあたり一帯、江戸時代には綿畑が広がっており、明治時代には綿業も盛んになったという。
いやまあ、いろんな故事や来歴を蔵する街です。
知らなかった。昔、平野は自治都市だったという!
左、静かで長い参道から、森のなかの拝殿を望む。
JR大和路線、平野駅の南東側すぐに、うっそうとした森がある。広大な杭全神社境内の木々であって、なかには樹齢八百五十年を越すと言われる楠の巨木もある。
平安時代初期の九世紀、平野の守護神として素戔嗚尊を祀ったのがこの神社の始まりで、それを勧請したのは坂上田村麻呂の孫とのこと。そもそも平野という地名も、当時ここに荘園を持っていた田村麻呂の息子廣野麿から出ているともいう。高校の日本史で習った「征夷大将軍」や「荘園」などの名称と、何十年ぶりに出会う町なのだ。
そして掲示板の神社紹介には、「中世、平野郷が堺と並んで栄えた頃は、社運隆盛を極めた」と書いてあり、ここでも特異な歴史が顔を覗かせている。堺同様、戦国時代の平野は、周囲に環濠をめぐらせた自治都市だったというのである。そのことをぼくはまったく知らなかったのだが、歩いてみると上記環濠の名残りがあったり、古い立派な屋敷があったり、なるほど歴史ある町なのだなと納得させられた。
商店街の店などに、平野郷と記した提灯が吊られていたりするのは、それに対する愛着と誇りの現れなのだろう。なお、杭全神社という名称になったのは明治三年とのこと。右の写真は鳥居前にあった日露戦役紀念碑だが、
歴史と由緒ある土地だけに、こういう記念碑や顕彰碑も、あちこちでよく目につくのだった。
楽しいお寺、全興寺。左は商店街に面した入り口。
右、駄菓子屋さん博物館。大人も子供も興味津々。
平野本町の全興寺は、高野山真言宗、一願不動と薬師堂のお寺である。その案内書によれば、聖徳太子が小さな堂をたて、薬師如来を安置したのが始まりとのこと。当時この地は文字通り広々とした野原だったが、堂を中心に次第に人が住みだし、町ができていったという。
また興味深いのは、その境内にいろんな「人寄せ」ポイントがあること。「小さな駄菓子やさん博物館」には、懐かしい駄菓子やおもちゃ、パチンコ台などが揃っている。
「地獄堂」は地獄の様子を大型スライドで見せる設備で、幼児ならその怖さに泣き出しそうだが、「子供に恐怖心を与えて、言うことをきかせようとはしないように。閻魔の姿は本来は地蔵の慈悲の心の顕れです」という、保護者向けの注意書きも立っている。他にも瞑想ができる円形の地下室、頭を入れると地獄の釜の音が聞こえるという丸穴のあいた石などが、人の興味と遊び心をそそっている。
近所の子供たちの遊び場所にもなっているらしく、取材時も小学校高学年の女の子たちが、「○○ちゃ〜ん」「ああ、××ちゃん。いま、みんなでなごんでたのよ」などと言っていた。「なごんでた」は今風の意味とニュアンスで使っていたのだろうが、いい雰囲気だった。
「楽しいお寺」というものの、実現例ではないかと思う。
左、この幅の狭い敷地に、駅舎とホームがあった!
右、車輌は「モ205」という型だそうです。
大阪府下で唯一残っている路面電車は、阪堺電気軌道(阪堺電車)の上町線と阪堺線である。この両線、以前は南海電鉄に属するものだったが、昭和55年(1980)に阪堺電車に分離譲渡された。そして同じ時期、同じく路面電車だった南海平野線も、地下鉄谷町線が天王寺から八尾南まで延伸されたため廃止となっている。
平野駅からは上記、上町線の天王寺駅前行きと、阪堺線恵美須町行きが出ていたとのこと。現在、その跡地がプロムナード形式の公園になっており、煉瓦で再現した線路、走っていた車輌のレリーフなどを見ることができるのだ。
そこを歩きながらぼくは、「なぜ廃止前に乗っておかなかったのか」と自分を責めた。天王寺からなら田辺、駒川、中野を越していく路線。終点にして六角屋根の駅舎があったというこの駅は、平野という古い街への入り口だった。
同じ訪れるにしても、地下鉄谷町線の中途駅である平野駅を上がるのとは、到着の雰囲気が違ったはずなのである。廃止された路面電車、他の例をあげれば、阪神の国道線は乗ったが、野田から天六へ行く北大阪線には乗っていない。京都と神戸の市電は乗ったが、大阪市内は地下鉄とバスばかりで市電は未乗車に終わってしまった。
チンチン電車と終点駅の情景が好きな自分が、何をしておったのかと悔やまれるのだ。
「欣求浄土・厭離穢土」なんて言葉もありましたねえ。
左、平野上町、大念佛寺の立派な門前。
今回から大阪市の東南端、平野区に入る。何か独特の歴史を持った土地らしいのだが、詳しいことはまだ何も知らない。例によって歩き、調べて、驚嘆していくことにしよう。
最初は大念佛寺であるが、門前が立派で、境内も広く、本堂も随分大きな建物である。それも道理で、ここは融通念仏宗の総本山なのだった。寺のホームページから抜粋させてもらえば、融通とは溶け合い和合することで、
念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物など、すべての関係の上に融通和合の世界を自覚し、苦悩と迷いのこの世を、喜びにあふれた、悟りの智慧の輝く浄土にすることをめざした教えだという。
別の公開資料によれば、浄土宗や浄土真宗の源とも言える、「浄土教」仏教を伝えているとのこと。
「浄土宗ではなく浄土教。そういえば高校の日本史で、平安時代あたりに出てきたっけな」
まさにその浄土教で、だからこの大念佛寺も、平安末期の大治2年(1127)、鳥羽上皇の勅願によって開かれた寺がもとだという。京都・壬生寺(律宗)の壬生狂言も、この融通念仏の流れを汲むとのこと。なお門前に立つ右の「なにわ七幸めぐり」案内、記された七つの社寺を、ぼくはすべて訪れたことがある。願掛けでまわったわけでなく、いつのまにかそうなっていたのは、年齢のなせる技だろう。