大阪ランダム案内。大正区・浪速区・西区

河口の港が浅くて、大型船が入れなかったため……
立教・桃山・神戸松蔭などが聖公会系の学校とのこと。
九条から北へ上がった川口には、幕末の安政条約に従い、明治元年(1868)、大阪開港で外国人居留地が置かれた。
西洋館が建ちならび、各国の貿易商や宣教師も続々とやってきた。この区域を大阪発展の中核にするべく、近くに当時の府庁や市役所も開設された。だが、同じく開港した神戸の方が良港だったので、貿易関係はお株を奪われてしまった。
こちらでは宣教師たちが学校や病院を開いた。記念碑には当時の居留地内の地図もレリーフされており、平安・プール・信愛など、後年移転して現在も存続する学校名が並んでいる。
居留地の周囲は日本人との混住が認められた「雑居地」で、中国人も多く住んでいた。彼らは明治32年に居留地が廃止されたあと、そこにも住みだしたので、中華街ができていたそうだ。しかしこれまた、お株は神戸に奪われてしまった。
まあ、その名残りで西区内には華僑経営の会社や店が随所にあり、だからこそ総領事館もあるのだろうが。
右は日本聖公会の川口基督教会。その宣教師が来たのは明治2年だが、この教会が建ったのは大正9年(1920)とのことである。川口の繁栄がつづけば、大阪は「ハイカラさんがとおる」街、「アドルフに告ぐ」の舞台にもなっただろうに。残念。
大阪ドーム。手前はそのアドバルーン? 違いますよ〜
右。松島は、画面の向かって左側にあります。
西区を南下してきたが、木津川を西に渡れば区内南端の
千代崎。大阪瓦斯発祥の地であり、大阪ドームもその工場跡に造られた。現在でも研究所の高層ビルや関連施設があり、だから裏手にまわると左のようなタンク写真が撮れる。
千代崎は昭和30年代あたりまで岩崎という町名で、明治時代、大阪瓦斯の工場ができる前は墓地だった。ドームが開場したのは1997年。当時は近鉄バファローズの本拠地だったが、球団合併で、現在はオリックスのそれとなっている。
またシーズンオフにはコンサートにも使われるが、若い客全員が絶えず熱狂ジャンプするというロック公演では、近隣の住宅に最大震度3という揺れを与えたので問題になった。
ただし野球もロックも何もないときには人影もなく、だから大阪市主導の三セク時代、テナントが次々に撤退し、運営会社も一度破綻してしまったのだ。右はそこから北へ上がった九条にある、茨住吉神社。茨という字が頭についているのは、寛永時代、生い茂っていた茨を刈って造営したからとも、菟原(とばら)という地から勧請したため、それが訛って茨(いばら)になったともいう。隣接する区画には、明治初年にできた遊郭の名残りで、「松島料理組合」の店がずらりと並んでいる。
西成区の飛田と同じく、手招きされる料亭である。
カツオ・木材・土佐・三菱。なるほどなあ、であります。
「舩」は「船」と同義。いろいろ勉強になりました。
北堀江。市立中央図書館の裏手にある土佐稲荷神社。ここには江戸時代、土佐藩の蔵屋敷があり、敷地内に祀られていた神社が一般にも公開されていた。近くに鰹座橋(かつおざばし)という地名が残っており、長堀通りには「大阪木材市売市場(いちうりいちば)発祥の地」という石碑も立っている。
どちらも土佐藩の特産品を扱う市場があったからで、木材などは二代将軍秀忠の時代に、すでに藩の申請で立売堀に市が立っていたという。その後、蔵屋敷ができたのでこちらに移り、長堀の両岸は全国の木材を扱う店が並ぶまでになった。
(戦後、堀が埋められて木材関係は大正区へ。さらに住之江区へと移ったことは各区で紹介済みである)。
しかし木材店はまだ残っており、右の写真、大阪木材仲買会館という協同組合の施設もある。また明治初年、藩命によって蔵屋敷を宰領したのが岩崎弥太郎で、境内には「日本郵舩仲間」「岩崎家旧邸址」という碑も立っている。つまりここが「三菱」発祥の地であるわけで、だから何と、神社の紋(神紋)にはスリーダイヤが入っている。石垣の献納社名には三菱グループがずらり。毎年春、各社代表が揃って繁栄祈願の参拝もするそうで、その壮観を見てみたいと思ったのでした。
新橋演舞場だけではなく、新町演舞場もあったのだ。
「町人学者」は、大阪の伝統のひとつだった。
新町は、江戸の吉原、京の島原とともに日本三大郭(くるわ)と称された、幕府公認の遊興地。大坂城落城の翌年、あちこちにあった遊女屋を一箇所にまとめたいという願いが幕府に出され、数年後そのための新しい町ができたので、新町と呼ばれるようになった。その南側一帯の堀江も同じく遊興地だったが、新町は芸妓が多く、堀江は娼妓が多かったそうだ。
繁盛ぶりは明治以降も変わらず、写真の煉瓦造りの建物、現在は出版取次会社「大阪屋」の社屋の一部になっているが、元々は大正12年に建てられた新町演舞場(二代目)の玄関部分だった。そんな歌舞練場を新築できる財力があったという点からも、当時の新町の繁盛ぶりが想像できるのだ。
右の写真は、間長涯(はざまちょうがい)という天文学者の記念碑で、新町と堀江の境界線、とうの昔に埋め立てられた「長堀」通りの駐輪場に立っている。長涯は江戸時代中頃の人で、本業は質屋の主人。暦学天文の勉強をし、幕府の命で江戸へ行って「寛政暦」を作った。功により直参に取り立てるという話を断り、大阪にもどって家業と研究をつづけた。
近くの橋の上で、イギリス製の機械を使って天文観測をし、そのときには橋が通行止めになったのだという。以上、人物名も業績もエビソードも、今回初めて知りました。
放出(はなてん)と並ぶ、大阪の難読地名です。
漢字ではなく、神名やまじないに使う、神字とのこと。
立売堀は、「いたちぼり」と読む。牧村史陽編『大阪ことば事典』によれば、江戸時代初期、この界隈に堀が作られ、材木市場もできた。板の立ち売りをしている堀、イタタチウリボリがなまり、漢字の板立売堀からも板の字が消えたのだろうとのこと。奥州の伊達(だて)氏が作った堀が元になっているので伊達堀、それが変化してという説もあるそうだ。
そしてこの立売堀、鉄鋼・機械・工具・部品会社の多い街でもあり、花登筐の『どてらい男』で知られた「山善」の本社ビルを初め、大小の企業、卸商店などが見られる。またその一画には、右の写真の四文字でサムハラと読む神社がある。
サムハラとは、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、(何か半村良の世界に入り込みそうだが)この三神の総称なのだという。怪我、災難、危機から守ってくれるそうで、「梅田コマ劇場の舞台から奈落に落ちたけど」(女優・浜木綿子)、「海外旅行中、車にはねられたが」(小倉屋山本の社長)と、無事の御礼談が掲示されている。
「私の甥、宇野宗佑が総理を拝命いたしましたので」という、加護祈願の文言も出ているが、う〜ん、この人は女性問題と選挙惨敗で、2カ月余りで退陣しましたなあ……
知行合一。三島由紀夫も、それを目指した……
右。複数の警官と警備車が、昼夜、警戒している。
靱本町。本町通りに面した天理教の教会前に、大塩平八郎終焉の地という、大きな石碑が立っている。
元・大坂町奉行所の与力にして陽明学者。陽明学は「知行合一」、すなわち思想と行動の一致を説く。おまけに当人も謹厳実直な人物だったから、自身を厳しく律するとともに、奉行所内の不正などもどしどし暴いて敬遠されていたらしい。
幕末も近い天保8年2月、おりからの飢饉による窮民を救済するため、息子、門下生、農民たちなどを率いて乱を起こした。しかしすぐさま鎮圧され、当座は大阪周辺あちこちに逃避行をした。そしてこの靱の某商家にかくまわれていたのだが、密告されて包囲され、息子とともに自害したという。
だが、火薬を使って焼け死んだため人相も判然とせず、「大塩は生きている」、「次は江戸を攻める」などと、噂が長く残ったという。「幕府方と本格的な戦いになったら、退いて(現在の西宮市にある)甲山に立て籠もる計画だった」と、当方、確か何かで読んだ記憶もある。とにかく「激しい」人だったのだ。
右はその近くの中国総領事館。政治文化室、経済商務室、領事僑務室(旅券や華僑関係)、教育室(留学や教育交流)などがあるが、手狭なので湾岸エリアに移る案も出てるそうだ。
左、四つ橋筋側から西を向いて撮った靱公園。
右、あみだ池筋側から東を向いて撮ったテニスコート。
福島区に大阪市の中央卸売市場ができたのは昭和6年。それにともない、雑喉場の鮮魚市場とともに、靱の塩干魚市場も廃止された。そして太平洋戦争末期の空襲で焼尽。
終戦後、東西に長いその地区は米軍に接収され、小型飛行機の発着場となった。市街地のまんなかをいきなり飛行場にするとは、いかにもアメちゃんらしいダイナミックな動きであるが、これはまだ市場跡だったからましな方で、同じ時期、神戸では幅広道路の一定区間が発着場にされていたのだ。
で、占領期間が終わって大阪市に返還された靱一帯は、細長い公園とテニスコートになった。東西方向の、四つ橋筋から、なにわ筋までが公園。なにわ筋から、あみだ池筋までがテニスコート区画。東京の都心部に比べ、大阪の中心部に緑地エリアが少ないのは歴然たるものだから、この靱公園も貴重な静寂と清浄を提供していることになる。改装されて現在はないが、以前、野外音楽堂だったか何だったか、浅いスリバチ型の施設があり、そこは夜のアベック(カップルなどという時代ではない)、ならびに覗き男の活動場所として知られていた。
テニスコートにはスタジアム形式のものもあり、公式試合、国際試合が開催されたりしている。
左、雑喉場の賑わい。石碑の図版部分です。
右、「靱」の石碑は、靱公園内の小さなお社横にある。
土佐堀、江戸堀、京町堀。東西に長い三町域の、西は江之子島、南は靱(うつぼ)本町。江之子島には雑喉場(ざこば)魚市場跡の石碑が立っている。もちろん上方落語の、桂ざこば師匠の名前はこれに由来する。海辺だったこのあたりには、豊臣秀吉の時代以前から魚市場があり、江戸時代、元禄頃には大阪全体の鮮魚市場となったという。
一方、靱本町には靱海産物市場跡の石碑があり、この場合の海産物とは、塩干魚や鰹節など鮮魚以外の商品をさす。
靱とは元来、弓の矢を入れる容器のこと。秀吉が、競りで「やすやす」(安い安い)と声をあげているのを聞き、「矢巣なら靱だな」と冗談を言ったので、それをもらって地名にしたという。
ただしその当時この市場は北浜にあり、江戸時代初期に本町あたりに移って、さらに現在地に「靱」という町名ごと移転した。雑喉場に近く、あちらが塩干物も売り、こちらが鮮魚も売り、争いになったりしたので、江戸時代後期に扱い品目を区分することになったのだそうだ。上方落語「兵庫船」にいわく、「あんた御商売は」「雑喉場のかまぼこ屋や」。「牛の丸薬」では、肥料用の干し鰯を売りに来た男に、「あんた、ひょっとして靱の儀助さんと違うか」。落語は史実に正確ですなあ。
左。建物は現在、登録有形文化財になっている。
右。これを称して、「はてなの町名」という。嘘ですよ。
前回紹介した土佐堀通り付近。町名はそれと並行するかたちで南へ順に、土佐堀、江戸堀、京町堀と付けられている。
江戸時代、大阪湾からの各種荷船が往復していた区域だからで、大小の堀や運河が縦横に走っていたのだ。現在は町名に名を残すのみで、堀はとっくの昔に埋め立てられた。
左はその江戸堀一丁目にある金光教玉水教会。玉水は教会ができた明治時代、この近くにあった町名であるが、写真の大きな会堂が落成したのは昭和10年(1935)。
高徳の教会長が悩み事をどんどんさばいてくれるため、一日一万人の参拝者が押し寄せた時期もあったという。
右は江戸堀二丁目にある史蹟。市立花乃井中学校という、「突如として美しい校名に行き当たったなあ」と思った学校の敷地内にあり、あとで調べて、井戸の名前だとわかった。
江戸時代、ここには津和野藩の蔵屋敷があり、良質の水の出る井戸があった。明治初期、大阪に来られた天皇に献上し、美味であるというので「此花乃井」という名を頂戴したのだという。摂津名所図絵には「玉乃井」として載っており、献上するときには、玉乃井の水だから「玉水」と称したともいう。
としたら、上記の玉水町もそれが元かと思ったのだが、両地点は1q以上離れている。はてな?
左。幕末には両蔵屋敷でも、「密談」があったのかな?
右。大阪は「反権力」の地だから、受けたでしょうね。
今回から西区に入る。区の北端を北東から南西に流れる土佐堀川(途中で堂島川と合流して安治川)、その両岸(向こう岸は北区中之島)には江戸時代、諸藩の蔵屋敷が並んでいた。だから土佐堀通りには、長州藩蔵屋敷跡の石碑が立っており、ごくわずかの距離で薩摩藩のそれもある。
蔵屋敷とは藩の年貢米や特産物を保管し、売却の手続きもする屋敷。藩から派遣された蔵役人が、出入りの商人と交渉する。流通面金融面ともかなり複雑なシステムで、それをうまく運用した商人が大儲けした例もあるかわりに、飢饉のときなど藩からの無理難題で大損した例も少なくなかったという。
まあ、ときには、「越後屋、そちもワルじゃのう。ぐふふふっ」
などというシーンもあったのかもしれないが。
右は同じく土佐堀通りに立っている、明治から昭和にかけてのジャーナリスト、宮武外骨の記念碑。四国出身で東京で活動し、明治33年に大阪に来た。翌年から八年間、月2回発行の「滑稽新聞」を発行し、その社をこの近くに置いていた。
名前は「滑稽」だが娯楽新聞ではなく、過激なパロディ、もじり、告発、攻撃などを連発した「反権力」紙で、だから発禁処分を受けたり、不敬罪で禁固刑に処されたりしている。
ある種の「奇人」であり、「偉人」なのである。
左、大衆演劇。右、串カツ屋。こんなのがあちこちに!
長篇は、小学館文庫・書き下ろし版として刊行されます。
浪速区の最終回は「おまけ」的に、コテコテ写真を紹介。
……『新世界は、大阪〈ミナミ〉の繁華街である難波より、さらに2qほど南に位置する歓楽地で、通天閣という展望タワーと、立ち呑み屋や碁会所などが密集する〈ジャンジャン町〉で知られている。周辺には数多い飲食店とともに、パチンコ店、ゲームセンター、映画館、大衆演劇の小屋などが並び、かんべの若い時代には寄席もあった。
「しかし、ここへはたびたび来てるけど、昔と比べたら、えらい変わり様やな」 「その昔というのは、いつのことです」 「大学時代やな。当時、心がブルーになったらここをうろついてたんやけど、その頃は昼間から人出があって、そのなかを酔っぱらったおっさんなんかが、くだ巻きながらふらふら歩いたり、ちょっと恐い雰囲気の盛り場やったんや」
まぶし過ぎるほどの夏空と炎暑であり、まだ昼前でもあるからか、人通りは少なめで、観光客らしい若い女性たちの姿が目立つ。左右に並ぶ飲食店はやたらに串カツ屋が多く、黄金色に塗られた奇怪で巨大な座像を店頭に出している店もある』
上記は、2010年1月刊行の当方の長篇、『ミラクル三年、柿八年』より抜粋。これは「おまけ」ではなく、「予告」的に。
興味を覚えたお方は、その変化をお比べあれ。
初代桂春団治とともに、「伝説」の多い人ですが……
以前(05年)、このランダム案内の「ミナミ〜新世界〜天王寺」の項でも、通天閣の写真を掲載した。
今回(09年)同じ角度から撮ってみると、右側の店の背が高くなり、看板や装飾がド派手になって、おまけに店頭に大きな黄金色のビリケンさんが座っているという変化があった。
ビリケンさんは、もともとは明治時代、アメリカの女性美術家が夢で見た像をキャラクター化したものだが、通天閣の展望台内に以前からその木像が飾られており、いまでは新世界のシンボルのようになっている。そして近辺の店々は、やたらに串カツ屋が多くなっているのである。
右は通天閣の下に設置されている「王将・阪田三吉」の記念碑。戦前活躍した棋士であるが、当方ゲームのルールを覚えるのが苦手で、トランプ、花札、囲碁などと同様、将棋のルールがまったくわかってないので、「阪田流の向かい飛車」とか「後手番の初手で端歩をついた奇手」などと聞かされても、その「すごさ」「おもしろさ」には、全然見当がつかない。
「愚痴も言わずに女房の小春」という歌の文句は知っているが、これが北条秀司の戯曲「王将」で使われた仮名であり、本名ではないことも、今回初めて知ったのだ。
ただし子供時代に豊中にいたから、墓が服部緑地横の霊園にあることは知ってましたが。
出せば、「へ。これがあの?」と、落胆を招きそうで……
珍しい絵馬。「イボ痔」除けから始まったのかな?
毎年正月、十日戎になると、テレビのローカルニュースに今宮戎神社の賑わいが映る。えべっさんの総本社は西宮で、境内の広さも建物の立派さも段違いに上なのだが、西宮が映らない年はあっても、今宮の映らない年はない。ぼくは西宮派なので、長らくその映像でしか今宮戎を知らず、後年行ってみて、その狭さ小ささに「な〜んや」と拍子抜けがした。
だからここでも、境内や拝殿ではなく石垣を紹介しておくことにする。南地・南花街組合。南地・佐海・佐海春江。南地・三好屋・坂井好子……。これ以外にも、南地・南芸会、北浜・戎講などと、いかにも今宮戎らしい献納者名が眼につくのだ。
その西北側すぐのところには、ごく小さな廣田神社がある。西宮戎北東側の山手にも廣田神社があるが、これはもう格段に広くて大。そして阪神タイガースの優勝祈願に監督以下選手たちが参拝するので、ローカルニュースに映ることも多い。
ただしこちら大阪の廣田には、西宮のそれにはない「アカエイ」の絵馬が奉納されている。魚のエイであって、痔疾や難産、諸病のお守りなのだそうだ。アカエイの尾には毒があり、獲った漁師はそれを切り落とすという、そのあたりから「難を切る」「毒を断つ」お守りになったらしい。なるほど。
機会があったら、入ってみます、調べてみます。
右。浄瑠璃の関係者は、よく参拝するそうです。
日本橋3丁目の高島屋東別館は、見るからにレトロで立派な建物。それも道理で竣工が昭和9年。昭和41年に天満橋へ移るまで、松坂屋の大阪店だったのだそうだ。
移転はぼくの大学入学の年だが、それ以前、阪神間の子供がミナミのデパートまで買い物に来る必要はなく、旧松坂屋にも入ったことがない。また日本橋の電器店街を利用するようになってからも、長らく高島屋工作所の看板が出ていて、インテリア関係のショールームになっていたと記憶する。上部階はオフィスらしく、とにかく普通の売り場はない別館だった。
よって、その時代にも入ったことがなく、今回も一般客向けの建物ではないと思い、外観だけを撮影してきた。けれども、帰ってから調べて、「しまった」と思った。内部には「高島屋資料館」があり、誰でも無料で入れるというのだ。
右は下寺町3丁目の、合邦辻(がっぽうがつじ)閻魔堂。元来は聖徳太子の開基と伝わり建物も大きかったそうだが、それは焼失し、明治時代にこの西方寺の辻堂になったという。
「摂州合邦辻」の舞台で、それは俊徳丸の話であると、それしか知らず、浄瑠璃にはド素人ゆえ、「脳の守り本尊、えんま大王」「咳百日咳お守り」などと掲示されていたけど、恥ずかしながら、その由来や関係に見当がつかないのだ。
左。いまや、施設名に「偽りあり」となっているOCAT。
右。スタンカ投手は、負けたらスカタンと言われてた。
湊町にあるオーキャットは、大阪シティエアターミナルの略称。1996年の開業時には、ここで関空の搭乗手続きや荷物預けがすべてでき、手ぶらで空港バスやJRの関空快速に乗れるというのが売り文句だった。バスターミナルは上部階、旧「関西線湊町」だった「JRなんば」駅は地下にある。
ところが三セクにはよくある話で、思惑がはずれて利用客数が低迷し、だから現在、空港バスは出ているが、JRの快速は廃止されている。各航空会社の受付カウンターもとうに撤退し、空港アクセス機能は事実上なくなったのだ。
ビル内に数カ国の観光局や航空会社のオフィスが残っているが、無意味さに困惑しているのではないか。関東や四国への長距離バス発着場としては、利用者も多いそうだけれど。
右は難波中にある「なんばパークス」で、緑の丘に見えるが内部は店舗やイベント広場が入った商業ビル。懐かしき南海ホークスの本拠地、大阪球場の跡地であって、ホークスが博多へ移って以降、住宅展示場などになっていた球場は1998年に解体。2003年に、パークスの第一期工事が完成した。
鶴岡一人監督指揮のもと、杉浦忠投手の4連投で巨人にストレート勝ちした1959年の日本シリーズを、当方かすかに覚えている。強者どもが夢の跡である。
村上の旦さん、「大黒さんは、大きに苦労すると書くなあ」
右。難波八阪神社にある、獅子舞台。
当方が毎年、正月にCDを聞き返しては笑い転げている、桂米朝師匠の絶品落語「けんげしゃ茶屋」。そこに出てくる「木津の大黒(だいこく)さん」というのが、敷津西にあるこの大国主(おおくにぬし)神社である。境内に二社があり、スサノオノミコトも祀っていて、そちらの名前は敷津松之宮。
その拝殿前には狛犬が向かい合っているが、こちら大国主の方では、写真のごとく因幡の白兎が座っている。
「♪大きな袋を股に下げ、大好き様が来かかると、そこに因幡の生娘が、服をむかれて丸裸〜」。こんな戯れ歌を思い出しつつ北へ上がって、元町にある難波(なんば)八阪神社。
京都は「八坂」、こちらは「八阪」であるが、夏には祇園祭が仕えられるとのこと。境内の隅に篠山神社というごく小さな社もあり、そこには篠山摂津守十兵衛が祀られている。
寛政5年(1793)〜文化6年(1809)まで、この地で代官を務めた人物で、青物市場の開設を許可したため、関係者が生神様として祀ったのだという。大阪なのに町奉行ではなく代官なのは、このあたりが支配違いの難波村だったからだ。
なぜか境内には、戦艦陸奥の主砲抑気具という、鋼鉄の分厚い円盤も飾られている。陸奥の主砲は16インチだから、直径約40センチである。爆沈後、引き揚げた物かな?
正式名称は、大阪木津地方卸売市場だそうです。
右。校庭に孫文の銅像。壁に「尊師重道」の標語あり。
敷津東の通称「木津市場」は、今回初めて知ったのだが民営の卸売市場で、大阪木津市場株式会社が運営している。
そしてそこは、麺類食堂の全国展開で知られている、グルメ杵屋の子会社なのだそうだ。ただし、木津市場自体の発祥は江戸時代。幕府の許可を得たのが文化年間で、自然発生した市場としてなら、さらに百年ほど前だという。
大正末期に閉鎖、昭和初期に自主運営で再開認可、戦災で焼失、昭和25年から卸売市場として再機能している。以前はごちゃごちゃとした一画だったが、現在は巨大なコンクリートの建物内に多数の業者や店舗が入っている形式。そういう写真はよくあるので、構内用の運搬車を紹介しておこう。
縁がすり減り、角が丸くなり、木肌は洗いざらされて、長年使いこまれてきたことがよくわかる。福島区の中央卸売市場ではターレット(バッテリー式運搬車)が走りまわり、ここではこの手押し車が幅をきかせているのだ。
右は同じ敷津東にある大阪中華学校。昭和21年、在阪華僑子弟のために作られた学校で、幼稚園部・小学部・中学部がある。中華民国(当然、自身では国名を台湾とは言わない)の僑務委員会からも承認されている学校で、小学校の教科書はそちらのものを使っているそうである。
ストレス発散にいかがですか。ドンドコドンと乱れ打ち。
赤い手拭いの稲荷もあれば、白い蛇の神社もある。
環状線芦原橋駅前の「太鼓正」は各種和太鼓のメーカーで、故桂吉朝氏から、太鼓を使う世界の人間なら誰でも知ってる会社だと聞いたことがある。太鼓を使う世界とは、演芸・邦楽・踊りや芝居・社寺やその祭り関係等々ということだろう。
同社のホームページによれば、創業は昭和6年だそうだが、この地には「江戸時代に多くの太鼓職人が集まり、全国有数の太鼓づくりの地として活況を呈して」いたという。だから現在も、和太鼓は大阪の伝統工芸品のひとつなのだとのこと。
長胴太鼓・平太鼓・楽太鼓・桶胴太鼓などと種類も多く、胴は大きな丸木をくりぬいたのち、最低5年は乾燥させるのだそうだ。太鼓道場もやっており、入門教室もある。ホームページでは、各項目とも詳しい解説がなされているので、じっくり読めば太鼓に関する基礎知識があらかた習得できそうだ。
そこから南西に下がった木津川2丁目には、白木神社という小さな社がある。説明版によると、明治時代この祠に白蛇が依憑していたので、「巳の神」として祀られた。水難関係に霊験あらたかであったため、船舶航行の守護神として崇められたのだという。「依憑」は「憑依」と同義だと思うが、白蛇の現物がいたのか、その霊が憑いていたのか、どっちだろう。
光景も雰囲気も、ローカル私鉄の終点ですよ。
「ぞろぞろ」は洒落た噺で、故・円都師匠の得意ネタ。
千日前通りと新なにわ筋の交差点。その南側一帯は桜川で、広告マン時代、クライアントがあったのでよく来ていた。
ところが、交差点の南西角に南海電車高野線の発着駅「汐見橋」があるとは、ずっと知らないままだった。仕事中のぼくが、いかにあたりを「うろつく」ことなく帰社していたかがわかる話であるが、またこの駅自体も目立たないのだ。
駅舎はコンクリートの箱のような無愛想な形状で、内部は薄暗く、改札口のむこうに島型ホームがひとつあるのみ。第一、南海と言えば難波だと思い込んでいたから、後年見つけたときにも、中小私鉄の駅かと思ったほどだった。
できたのは明治33年で、高野鉄道の道頓堀駅としてだという。翌年汐見橋と改称し、その後、南海から近鉄の路線になったりもした。そして現在、高野山行きはすべて難波発着なので、ここからは岸里玉出までの電車が往復しているのみ。
少し南東に下がった稲荷2丁目には、赤手拭稲荷がある。上方落語『ぞろぞろ』の舞台になっている小さな社で、参拝者が紅染めの手拭いを供えたのだという。ただし「米朝ばなし・上方落語地図」によれば、ここは昔は船着き場で、働く者たちが「垢」で汚れた手拭いを松の木にかけていたからとのこと。
その方が、本当だろうと思いますな。
「心ある人は墨を入れて」というのが、心ある文章です。
右は、道路向かいにある、由緒ありげな「船具問屋」。
今回からは浪速区である。大正区との間に流れる木津川を、浪速区西北端の大正橋で渡ってきてすぐの歩道に、安政2年に建てられた「安政大津波」の碑がある。
表側に南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の名号が並べて彫り込んであり、裏側には文字がびっしりで、慰霊とともに後世への警告碑にもなっている。嘉永7年(=安政元年。浦賀にペリーが来た翌年)、6月に大阪で大地震があり、11月初頭にもそれがあって、翌日夕方、津波が押し寄せてきた。
安治川、木津川の河口から逆流した泥水が無数の舟を押し流し、橋を壊し、両岸一帯を水浸しにして多数の犠牲者を出した。大阪の中心部である船場や島之内の住人たちも、上町の高台へ逃げ上がったのだという。
そこで、舟での避難は絶対するな、お金や大事な書類などは大切に保存し、何よりも火の用心に注意せよ、海寄りの田畑などでは突然泥水が吹き上がることもあるので用心しろなどと、今後へのアドバイスが彫られているのである。
だから、「心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れて伝えていってほしい」とも書かれている。以上は、その横手にある現代文による掲示板からの抜粋なのだが、南海沖地震が起きれば、それが現実になるのである。
大正区のラストは、西北方向にもどりまして……
新千歳橋は、トラスとアーチの複合構造。高さ28メートル。
大正区は西側で尻無川をはさんで港区と接しており、
南端の大阪湾内では、南港エリアの埋め立てでぐっと区域を広げた住之江区とも隣接している。当然、地下鉄などで行くには大回りが必要だった港区と住之江区も接近したわけで、両区を結ぶ「港大橋」が架かっている。
左写真の一番奥に見える赤い橋がそれで、全長980メートル。これは日本最長のトラス橋だそうだ。中央部ではコンテナ船が航行できるよう、50メートルを越す高さがある。
その手前に見えているさらに長い橋は、大正区南端の鶴町と港区を結ぶ「なみはや大橋」で、全長1740メートル。中央部の高さが45メートル。車やバイクは有料だが、徒歩なら無料で渡れるという(いつか、ぜひ渡ってみよう!)。
そして、一番手前に映っているのが大阪市の千歳渡船場とその船で、これは同じ大正区の北恩加島と鶴町とを、大正内港を横切って結んでいる。昔、北恩加島が新千歳町と呼ばれていた時代には橋がかかっていたのだが、浚渫工事のために撤去し、替わりに渡船を運航させたのだ。
右の写真、渡船航路と重なるかたちで「新千歳橋」が平成15年に完成したけれど、これは車輌専用なので、渡船は現在も運行されている。橋、橋、橋の話である。
背後の高架は、河口に近い新木津川大橋の上がり口。
右は説明版の写真部分で、遠景が大阪湾。
関西国際空港や神戸空港は新しいので間違いようもないが、大阪国際空港(通称、伊丹空港)と、ヘリや軽飛行機が発着する八尾飛行場については、長らく頭を混乱させてきた。というのが、昔、大正飛行場というのがあったと聞き、それをぼくは大正区にあった飛行場、つまり船町に「木津川飛行場跡」と石碑の立っている、そこのことだと思っていた。
ところがそうではなく、昭和9年につくられた八尾の飛行場(というより発着場)が、14年に軍用となって拡張され、大正飛行場と改称したのだという。伊丹空港は同じ14年にできたのだが、そのときの名前は大阪第二飛行場で、ならば木津川が第一だったのかと思うとさにあらず、第一は大和川の川尻に計画されたけれど実現しなかったのだという。
そして写真左の案内板によれば、この木津川飛行場は昭和2年に着工し、未完成のまま昭和4年から使われだした。東京と福岡に、一日一往復の旅客便が飛んだのだそうだ。
ところが、『市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であったため』、八尾や伊丹にその役を譲って、14年に閉鎖されたという。大阪の戦前の飛行場史、ややこしいったらありゃしなかったのである。
こういう光景、子供の頃から、好きなんですよね〜
でも、ここに夜中一人で放置されたら恐いやろなあ。
南恩加島の南端部と、その先の木津川運河を越えた船町一帯は、大型工場地帯である。セメント、鋼材、橋梁、化学。一番広大な面積を占めているのが中山製鋼所の本社工場で、全景は社の公式ホームページに載っているごとく、空撮写真でしか示せない。左写真、運河の対岸に見えるのもその一部なら、それを渡った右の写真もその一部。
(塀との比較で、設備の巨大さを御想像あれ!)
道路両側に、連鋳門・熱延工場門・鋳片門などと表示された門が断続して、延々と製造施設がつづいているのだ。
同社は大正8年に尼崎で個人経営の亜鉛鉄板製造業として誕生し、同12年に株式会社となって以来、この船町工場で製造をつづけてきたという。「微細粒鋼の中山製鋼所・大河内賞受賞」という巨大な看板も出ており、これは強度と疲労特性に優れ、加工や溶接もしやすい鋼材であるらしい。
こういう巨大工場に接すると、もろ文科系で、広告などという軟弱業種出身の当方、「釘一本も作ったことがないという、わしの人生は何やねん」と、忸怩たる気分になる。
せめてものことに、この業界で使われているという挨拶を、送らせていただくことにしよう。御安全に!
木津川沿いのここにいたのは、患者・被災者・俘虜
本当に、知らないことって山ほどあるもんです……
平尾から南に下がった南恩加島。その一画には昔、伝染病・大火事・戦争に関係した施設があったという。
まず伝染病はペストで、『近代大阪年表』(NHK大阪放送局編)によれば、大阪では明治32年に初めて発生し、38年に再発生、40年に「病勢がさらに高まった」とある。そこで翌41年、ここに患者の隔離所が新設されたのだが、それはそのまた翌年には火災被害者の避難所になった。
前に福島天満宮(福島区)の項で紹介した「北の大火」があったからで、延べ2万2千人が仮住まいしたそうだ。そして大正に入って第一次世界大戦が起きると、日本は連合国の一員として、中国沿岸地や南洋諸島のドイツ軍を制圧した。
国内12箇所に俘虜収容所が開設され、ここもそのひとつとして使われたという。ペストの流行・北の大火・第一次大戦。そのそれぞれは知っていたが、それらに関係する施設がここにあったなどということはまったく知らず、思わず「へええっ!」と声をあげていたのである。
平尾亥開(いびらき)公園という小公園に説明板が立てられており、収容所は、その背後に映っている工場地帯にあったそうだ。右はその説明板の写真部分で収容所の全景だが、木津川に帆架け船の浮かんでいるのが時代を示している。
大正区は、リトル沖縄と呼ばれたりしてるそうです。
右は、シーサーが守護する大正沖縄会館。
アーケードの天井に等間隔で釣られた横断幕。そこには、『めんそーれ、楽しくお買い物ができる街、平尾本通商店街』と書いてあって、シーサー、守礼門、パイナップルの絵がレイアウトされている(それ以外は、ケーキ、ジーンズ、液晶テレビ、眼鏡など、各店で売っている商品の絵)。
ただしこれは、夏のセールの抽選で特等は沖縄旅行が当たる、とかの告知ではなく、この商店街のイメージを強調しているものらしかった。なぜなら、(十余年ほど前のデータであるが)大正区は住民の2割ほどが沖縄出身者だそうで、平尾一帯がその中心になっているからだ。
戦前にせよ戦後にせよ、沖縄からの移住者は船で大阪港に着き、近場の港区や大正区に居を定めたという。だから、この商店街の近くには大正沖縄会館があり、少し離れた場所には大阪沖縄会館という施設もある。
付近を歩くと、仲宗根や金城などの店名や表札も眼に入る。そこで、先週紹介した具志堅幸司氏も、親かそのまた親が沖縄の出身なのだろうなと思ったわけである。
ただし、念のために書いておくとこの商店街、神戸の南京町とか生野のコリアタウンのごとく、それ一色というわけではない。というより、むしろ沖縄的な店を発見するのが難しいという、ごく普通の商店街なのだ。
北海道の昭和新山よりは、ぐっと低いのですが……
移転は、一帯の地盤沈下が進んだからとのこと。
千島公園は、総面積が11万平米を越すという広大な総合公園である。しかも、長らく大正区の地場産業としてここにあった製材工場や貯木池を、住之江区に移転させたその跡地に造った公園なのに、平坦なそれではなく、敷地の大部分が緑豊かな丘の連なりになっている。
これは造成当時、昭和45年の日本万国博に向けて地下鉄の延伸工事が行われており、その掘削土砂などを運んで、標高33メートルにまで盛り上げたからである。
「昭和山」と命名されたここには、ツツジや桜がびっしりと植えられており、春は花見の丘となる。大阪市が実行した計画であるが、なかなか良いアイデアであったなあと思うのだ。
公園内には市立の総合体育館もあり、その玄関前に大きな顕彰碑が立っている。碑文中に具志堅という姓が眼についたので、スポーツ関係ならボクシングの具志堅用高氏かと思ったのだが、そうではなかった。昭和59年のロスアンゼルス五輪で、男子体操の個人総合優勝、種目別でも吊り輪で優勝した、具志堅幸司氏を讃えるものだったのだ。
大正区生まれで、市立平尾小学校から大正中央中学校を経て、私立清風高校、日本体育大学へと進んだ人。具志堅は沖縄の姓であるから、当方「なるほど!」と大いに納得したという、その説明は次回にいたしましょう。
地名の由来にも、いろいろあるもんです。
右。泉尾東公園内に設置。多分、私製でしょうね。
泉尾(いずお)は、大正区内で広いエリアを占める町名である。字面と語感が美しく、しかし昔は海だった土地だから、清水が湧き出た場所とも思えない。そこに疑問を抱いていたのだが、今回調べてみて由来がわかった。
元禄時代、ここを開拓した北村六右衛門の出身地が和泉国の踞尾(つくの)村だったので、国名と村名から一字ずつ取って、新農地を泉尾新田と命名したというのだ。
大正区には他に平尾、千島、小林、恩加島などの町名があるが、これらもそれぞれ新田名だったとのこと。平尾は平尾与左衛門、恩加島は岡島嘉平次という開拓者の姓から。千島と小林は、岡島嘉平次の出身地が千林だったので、一字ずつそれを使って命名ということらしい。北村という町名もあって、これは上記の北村氏の名前が残ったもの。
大正区のホームページに、「大正区の区域は新田開発により成り立っているため、運河や用水路がいたるところに張り巡らされていましたが…」とあるように、現在は田畑はもちろん井路(いじ)と称された用水路もまったく残っていない。
右の写真は「栗本鐵工所発祥の地」の石碑で、明治42年から平成14年まで、ここ(千島)にあった工場で水道やガスの鋳鉄管を製造していたという。明治以降、大正区の湾岸は各種工業地帯になっていくのである。
赤穂浪士にも中村勘助はおりますが、無論別人です。
夜間操業の様子は、さながら不夜城だったとか……
JR環状線の南側は三軒家で、江戸時代初期に出た大坂案内の書に、「家数が少なく三軒屋と名付けられたこのあたりも、いまは繁盛している」という意味の記述があるそうだ。
そして、三軒家東にある八坂神社の境内には、中村勘助の大きな碑が立っている。土木治水に功績を残した人物で、豊臣秀吉の依頼で三軒家一帯を開発し、徳川の世になってから木津川も開いた。よって、通称を木津勘助という。
義侠心にも富んでいて、寛永時代、飢饉があったときには私財を投げ出して人々を助けた。さらには、大坂城の蔵を開いて備蓄米を放出するよう願ったのだが聞き入れられず、
遂に「蔵破り」を決行指揮した。だからこの木津勘助、上方講談や浪曲の演題にもなっているのである。罰として近くの島に流され、なぜか二十年ほどたってから死刑になったというのだが、そのあたりは謎で、病死という説もあるという。
すぐ近くの三軒家公園には、「近代紡績工業発祥の地」という石碑が立てられており、これは明治16年に操業を開始した大阪紡績の工場があったから。出資者には澁澤栄一や藤田伝三郎などがおり、その後、大正三年に他社と合併して社名を変更。昭和の戦前には、世界一の紡績会社に成長した。すなわち、現在の東洋紡なのである。
「何の不思議なことがあるか」と、プロは言うはず。
おおむね、橋梁はトラス、ビルはラーメンですな……
今回から大正区に入る。左の写真は木津川にかかる歩道橋から、下流を向いて撮ったもので、右が西区、左が浪速区。そして奥の右手に小さく見えるアーチが岩崎運河にかかる岩松橋、左に見える平らな橋が木津川をまたぐ大正橋。岩崎運河は少し下流で西南に流れる尻無川となって大阪湾に向かい、木津川は南下したあと西へ大きくカーブして、同じく大阪湾へと入っていく。その二つの川にはさまれた、画面奥の正面エリアが大正区なのである。また大正橋のさらに左には、堤防で隠れているが道頓堀川も流れてきている。つまりそこでは水路が変形十字交差しており、だから上記の橋を渡っていると、方向感覚が怪しくなってくるのだ。
右の写真は、岩崎運河に架かるJR大阪環状線の鉄橋で、ほぼ同形のそれが木津川にも架けられている。形式は、複線下路の「ダブルワーレントラス」橋なのだが、やたらに高くて巨大な構造体になっている。これは建設された1928年当時、川や運河を物資輸送の船が頻繁に行き来していたので、途中に橋脚を置くことなく、スパン300フィートで架け渡したためである。通過する列車の荷重は下方向にかかるのに、それを支えるため上へ高くしたという、素人としては、
「これ、ひとつの不思議」と言いたくなる鉄橋なのだ。