ランダム案内、淀川区・東淀川区・都島区
終戦の前日にも、まだ、集中爆撃があったのだ。
左、慰霊碑。右、それは環状線高架のすぐ下にある。
環状線京橋駅の南側、改札口を出た横手に慰霊碑が建っている。掲示されている由来記によれば、太平洋戦争最末期の昭和二十年八月十四日、すぐ近くの大阪砲兵工廠が米軍の集中爆撃を受けた。そのとき、そこをそれた1トン爆弾が駅を直撃したという。城東線(現、環状線)の高架を突き抜け、立体交差で地上を走っていた片町線のホームに達して爆発した。
そのため避難していた乗客多数が犠牲になったのだが、その数は掲示板によれば二百十名、他の資料によれば二百三十六名となっている。ただしこれは、確認された人数だけでもということであって、実数は五百名とも六百名とも言われている。
慰霊碑はその目撃者の自費によって、二年後の同月同日付けで建てられた。まだまだ終戦後の混乱がつづいていた時代に早くも建立されているのは、彼の心に受けた衝撃が、よほど大きかったからだろう。それにしても、八月十四日に集中爆撃とは何たることか。すでに日本は降伏を決定して連合国に通告済みであり、翌十五日には天皇の放送が予定されていたのだ。最後の駄目押しのつもりだったのかもしれないが、その冷徹さに対する、そして戦争というものに対する、やりきれなさを感じる。
廃線跡と工廠跡。左の写真は、それを一望している。
右も、京橋駅から北西に伸びていた引き込み線の跡。
JR片町線(通称、学研都市線)は、長らく大阪の片町と京都の木津を結んでいたが、平成9年の東西線開通によって、京橋〜片町間が廃止された。その片町駅は、土佐堀通りを東に進んだ場合、「つきあたり」に見える位置にあった。
駅舎が小さかったこともあって、ぼくはそこを通るたびに、市街地のはずれにある始発駅という印象を受けていた。まだ利用したことのなかった若い時代には、そこから電車に乗れば田園地帯を走って、遠い街へ行けるというイメージを抱いていたのだ。沿線の野崎観音や四条畷神社からの連想かもしれず、実際片町線の始まりは、明治28年、浪速鉄道という私鉄が、片町から四条畷までを開通させた参詣鉄道だったという。
また戦前には、大阪城のそばにあった陸軍砲兵工廠と沿線に点在していた関係施設間の、軍需輸送も盛んだったとのこと。戦争中、枚方の陸軍火薬庫が大爆発したことがあり、「なぜ、そんなところに火薬庫が?」と不思議に思っていたのだが、工廠と片町線および引き込み線でつながっていたと知って納得した。
写真は元の片町駅近くの線路跡地で、彼方にそびえるのは大阪ビジネスパークの高層ビル群。つまり、そこが大阪砲兵工廠のあった場所なのである。
一度だけ入ったことがある、大阪市長公館(写真、左)
右はその記念写真、堀、吉朝、小佐田の各氏と、かんべ。
都島区網島町の大阪市長公館には、一度入ったことがある。
1990年2月、第7回咲くやこの花賞(大阪市制定)の授賞式とパーティーがひらかれたときで、この回で同時受賞した桂吉朝さんと落語作家の小佐田定雄さんが、招待者名簿に加えてくれたのだ。式は昼前から始まり、パーティーにはシャンパンも出た。
雪晴れの日で広い庭園の木々は綿帽子をかぶっており、それを背景に記念写真を撮ったりするうち、室内外の温度差も影響してか顔がほてって、酔いがまわってきたことを覚えている。
この市長公館、1959年に大阪市で国際会議があったとき、迎賓館として建てられた。以来、各種式典や市民表彰、公的な会議や会合に使われてきたのだが、実際の年間利用日数は低調で、約八十日という年もあったという。
財政難のおりから売却話も出るようになり、当面は07年4月から大阪市公館と名称を変えて、利用範囲を拡大していくことになった。9月から11月の土曜、日曜には、結婚式場として貸し出す予定だともいう。広大な敷地と美しい庭園、そして環状線のすぐそばとは思えない館内の静かさ。なるほど、いま流行のハウスウェディングには、もってこいの場所なのだ。
財閥の当主にして男爵。そのお屋敷跡です。
左、太閤園の表門。右、藤田邸跡公園の静けさ。
桜宮の太閤園は、広大な敷地内に結婚式場、宴会場、料亭などを配した高級社交施設。旧藤田男爵の邸宅跡であって、当時の茶室や書院式の建物がいまも使われている。
隣接する大阪市立藤田邸跡公園も昔は屋敷内の庭園だったそうだから、明治時代に成功した実業家が、どれほどの財力を持っていたかがよくわかる。長州出身で高杉晋作の奇兵隊にも参加していた藤田伝三郎、実業界に転進したのち、西南戦争時の物資調達で巨利を得たのだ。
つまり政商の元祖とも言える人物だったわけで、裏面の暗闘なども多かったらしく、明治11年には偽札製造の嫌疑で拘引されている。数年後、真犯人が捕まって冤罪は晴れたことになったのだが、その犯人が平安末期の大盗賊、熊坂長範と一字違いの熊坂長庵というふざけた名前だったので、政府のでっちあげ犯だろうという噂が広まった。日本の旧財閥はどこも、この種の疑惑を抱えつつ巨大化していったのだ。
なおこの太閤園、ぼくは広告マン時代に某クライアントの家族慰安会で、演芸コーナーの裏方を勤めたことがある。広い庭園内の常設舞台がある建物。出演者は桂三枝さんや庄司敏江、玲児さん。安月給の平社員が、三枝さんの当日のギャラの額面を聞いて、仰天していたのでした。
京橋のキーワードは、ごちゃごちゃ、雑然。
左、両京橋駅を望む。右、朝方なのでまだ人は少ない。
写真の鉄道は、上が京阪で下がJRの環状線。京阪の派手な車体塗装や手前の自転車群ともあいまって、実にごちゃごちゃした光景である。まさに京橋の面目躍如といえる雰囲気で、両鉄道の京橋駅一帯はとにかく雑然としている。オフィスビルがありデパートがあり、風俗店もあるし、ラブホテルもある。
ショッパーズプラザがあって商店街があって、そのアーケード商店街は京橋一番街、新京橋商店街、京橋中央商店街などと入り組んでいる。またその新京橋商店街の道筋は旧京街道でもあるため、北へ歩くと別れ道があったりカーブしていたり、方向感覚が怪しくなってくるのだ。
対してJR京橋駅の南側には寝屋川が流れており、それを越せば城東区や中央区で、大阪ビジネスパークもある。そこはすなわち、開高健氏の「日本三文オペラ」、小松左京さんの「日本アパッチ族」、梁石日氏の「夜を賭けて」の舞台となった、広大な旧大阪砲兵工廠跡。だから開高氏の作品においてはアパッチ族(屑鉄窃盗集団)の面々、金回りのいいときや密談を行うとき、橋を渡って京橋へ押し出してくる。いまは大阪ビジネスパークに出張してきたサラリーマン諸氏の、夜の発散場所ともなっている、大阪屈指の繁華地帯なのだ。
源八橋と銀橋。どちらにも思い出すことが……
左、銀橋と新銀橋。右、こんな高いアーチの上を!
都島区と北区は、大川にかかる複数の橋で結ばれているわけだが、ぼくは源八橋に思い出がある。駆け出しの広告マン時代、数多い雑用のひとつに、CMやPR映画の撮影ネガを現像に出す作業があった。西区から市バスを乗り継いで源八橋まで行き、そこから十五分ほど歩いて現像所へ届ける。
それだけのことなのだが、幅35ミリで400フィートのフィルムを収める円形缶は、やたらに大き重くて持ちにくく、真夏の炎天下など汗をだらだら流して歩いたものだった。
無論、市バスにだって冷房はなかった。だからいまでもそこをバスで通ると、反射的にうんざりしてくるのである。
一方、写真左側の桜宮橋(昭和5年完成。通称銀橋)には、若き日の桂枝雀師匠が酔ってたびたび、アーチの上を端から端まで歩いて渡ったという伝説がある。
「よくまあ、そんな大胆なことを!」と驚くとともに、「一度それを見せてほしかったなあ」と残念にも思う。いまなら右側の新銀橋もできているので、「師匠。どっちが渡りやすいか、試してみはったらどうですか?」などと、言ってみたい気持ちなのだ。
「どもならんな。人のことやと思うて」 頭のなかに師匠の声を聞きつつ、当方、地上を歩いて渡りました。
桜宮と聞けば、3種類の連想が……
左、櫻宮(神社)とホテル。右、その横手もかくのごとし。
桜宮と聞けば、まず大抵の人が満開の桜並木、大川沿いの春景色を思い出すだろう。霞のかかった夕方などに歩けば、夢幻的と言ってもいい光景が味わえるのだ。
次に上方落語の好きな人は、「桜の宮」や「百年目」というネタを思い出すに違いない。前者はお笑い仇討ち物語であって、花見を楽しむ人々の浮かれ具合がよく出ている。後者は人間国宝桂米朝師匠にして、「なかなか思うようにはできん。一番難しい噺やな」と述懐される、上方落語屈指の大ネタ。
大川を屋形船で上って桜宮にかかり、障子を開け放つ場面があるのだが、その瞬間眼前に広がる低い位置から見た花盛りの光景たるや、話術の妙と言おうか、落語が催眠術であることを再認識させてくれるものなのだ。
そして第三の連想反応として、桜宮と聞けばニヤリと笑う男女も少なくないだろう。環状線桜ノ宮駅の北側一帯がカップル用のホテル街になっており、古くは大坂城の守護社でもあったという櫻宮(神社)が、そのかげに隠れるようになってしまっているのだ。まあ、祀られている主神が天照皇大神で、日本神話は酒にも性にも寛容な世界だから、春が来てあたり一帯が昼夜ともに賑わいだしても、お怒りにはならないだろうが。
「輝く伝統、新古の結晶」 百周年のスローガンです。
左、校舎正面。右、昭和4年、天皇臨幸の記念碑。
戦前の大阪人の生活を伝えた本を読むと、やはり子弟の教育にも実利志向が強かったのか、商業、貿易、外国語など、専門分野の学校へ進んだ、進ませたという話がよく出てくる。
工業方面もそのひとつで、大阪市立都島工業高校はその前身の誕生が明治40年、今年の5月には創立百周年を迎える名門校である。現在も、機械、電気、建築、都市工学、電子工学、理数工学など、多様な学科を揃えて人材を育成している。
ぼくは教育に関しては、個々人の能力と適性に応じた、複数コースの用意されている態勢が良いと思うので、こういった学校には大いに期待する。経済や社会の活気は異種の人材が刺激しあうところから生まれるわけで、偏差値優先の学校秀才が増えるのは、むしろ害悪だと考えるのだ。
会社員時代の先輩社員に都島工高のOBがおり、建築科出身だったのだが広告デザイナーになった。そしてその同期生には、工学系の大学に進んで教授になった人もいるという。知り合いの落語家、桂米左氏もこの学校出身で、昔の日本の建築について、米朝師匠に知識を提供したことがあるらしい。
学んだ基礎を何にどう生かしていくか。人生コースも、複数だからこそおもしろいのだ。
日常世界のなかの、非日常的な小世界。
左、老朽化した建物。右、放免屋という名の差し入れ所。
重要事件の容疑者が収監されたり裁判に出廷するときなど、テレビニュースでよく大阪拘置所前からの中継をやる。すなわち国語大辞典によれば拘置所とは、「死刑囚、拘留した被疑者およびすでに起訴されている刑事被告人のうち拘留状によって拘束されている者などを収容する所」なのである。
ただしその内部の様子については、保安上の理由から公表されていないため、一般の者にはわからない。すぐそばには大川に沿った遊歩道公園があり、周囲は住宅街になっている。それら「日常」世界のなかに、高いコンクリート塀で囲まれた非「日常」の小世界が、静寂とともに存在しつづけているのだ。
とはいえ近隣に高層マンションが増えているため、施設の配置などは、見下ろして知っている人も少なくないだろう。昔この近くで働いていた知人の話では、飲み屋で顔見知りになった職員から、死刑囚の逸話を聞かされたこともあるという。非日常世界の守りも鉄壁ではなく、間々「ほころび」を見せるわけだが、ぼくとしてはそのほうが人間的だと思い、安心できると感じる。
仮にそういった面で守秘完璧となっている社会があったとしたら、それは多分、怖くて危険な社会だろうからだ。
栄枯盛衰は世の常にして、巨大企業もまた例外にあらず
左、手前が商業施設ベルファ。右、ベルコートの高層群
都島区の友渕町には、かつて鐘淵紡績(社名変更で鐘紡、再変更してカネボウ)の巨大な工場があった。
広大な敷地には社宅、男子寮と女子寮、診療所、生協などが揃い、中央研究所や労働会館も配していた。それも道理で、カネボウといえば戦前、国内の全企業中で売り上げ一位になったこともある超名門会社。戦後、繊維産業が全盛を過ぎた時期には労使紛争も起きたが、社長交代によって労資協調と多角経営路線に切り替え、拡大をつづけてきた。
その経緯は城山三郎氏の長篇、『役員室午後三時』で詳細に知ることができる。ぼくの年代なら、「赤ちゃんのときから鐘紡毛糸」というCMソングで、親しまれた会社でもあった。
だが光があれば陰も生まれる。不採算部門の存在を隠すため、すでに70年代の終わり頃から粉飾決算が始まっていたという。後年上場廃止となり、産業再生機構の力を借りる事態となったのは、それが悪習化した結果なのだ。
だから現在の友渕町には、カネボウの関係施設は何もない。一箇所でもと思って歩いたけれど、みごとにない。写真のショッピングモールや高層マンション群の名称に、「ベル」という言葉の冠されていることだけが、往年を思わせるよすがなのだ。
もともとは運河、いまは一級河川です。
左、毛馬あたりの光景。右、大川との合流点。
城北川は、昭和60年に一級河川に指定されたが、元来は寝屋川と大川を結んで掘られた運河である。流域の工場地域を発展させるためで、完成したのは昭和15年。現在の地名でいえば城東区の今福南から北進し、旭区を北西方向に横切って、都島区の毛馬近くで大川に至っている。
ところが昭和30年代後半、工場や家庭からの排水が増加したため水質が悪化した。そこで下水道の整備や、寝屋川からの汚濁水流入を防ぐ策を施して、水質を改善した。以後、大雨による都市型浸水や洪水を防止するため、寝屋川の分水路としての役割も果たしてきたという。
ところで、城北運河という名称が城北川に変わったのは上記の昭和60年だが、ぼくはずっと運河として記憶していた。だから大阪湾岸や尼崎の運河に見られるような、工場街を小型貨物船が行き交う光景を想像して出かけたのだが、毛馬あたりでは高層住宅群の近くで、阪神高速守口線の高架下に運搬船が係留された、静かな水面が見られるだけだった。そもそも、その高層住宅群の多くが大規模工場の跡地に建てられたものなのだから、運河の役割はとうに終了していたのだろう。
往年には、「煙の都」の一翼をになった地域であったのだが。
ほんま、知らんかったことが多いなあ……
左、立派な石碑です。右、夕暮れ近い淀川の堤。
江戸時代中期に与謝蕪村という俳人がいたことは、もちろん知っていた。さみだれや大河を前に家二軒。なの花や月は東に日は西に。春の海ひねもすのたりのたりかな。
これらの句も、「ええっと。作者は誰だったっけ?」と思うレベルだけれども、覚えてはいた。しかしその蕪村の生誕地が現在の都島区だったとは、まったく知らなかった。だから淀川南岸の堤防上、毛馬の閘門のすぐそばに石碑を見つけたときには、思わず、「ほんまかいな!」と声をあげていたのだ。
当時の地名で言えば、摂津国東成郡毛馬村。そこで生まれた蕪村は二十歳前に江戸へ行き、俳諧を学んだ。その後、下総に移ったり、芭蕉をしのんで「奥の細道」のコースをたどったり、丹後をめぐったり讃岐を歩いたり、諸国をおとずれた。
中年期からは京都に住み、結婚もして、六十八歳で亡くなるまでそこにいたという。帰宅後調べてこれらの史実を知ったぼく、春になったら暖かい日の夕方に、もう一度あの石碑を見に行こうかと思っていた。春風や堤長うして家遠し。石碑に彫られているこの句には、望郷の想いがこめられているとのこと。
当時の毛馬村の様子を想像して味わえば、心地良く、おだやかな気持ちになれそうなのだ。

閘門という言葉は、パナマ運河で覚えた。
左、メインゲート。右、大堰と水流の取り込みルート。
今回からは都島区に入り、淀川べりから開始する。
となると、まず紹介しなければならないのが毛馬の閘門。大抵の人がそうだろうと思うが、ぼくが閘門という言葉を覚えたのは、中学の社会科でパナマ運河の仕組みを習ったときだった。海面と途中の人造湖には標高差があるので、運河に何箇所も仕切りを設け、適宜水位を調節して船を通過させているというのだ。だから大人になって毛馬の閘門という名称を知ったときには、淀川を航行する船を、水位の違う支流へ出入りさせるための施設だろうと類推できた。
とはいえ、淀川やその支流を上下する船がそう多いとも思えなかったので、京都の蹴上にあるインクラインからの連想で、明治時代の施設跡だろうと考えていたのだ。
しかし実際には、ずっと稼働している施設だった。旧淀川は昔から洪水が多く、明治十八年には大きな被害が出た。そこで新淀川が開削されることになり、明治四十二年の完成時には、新旧淀川の分岐点に洗堰と閘門が設けられた。両方の川の水位を調節することで、船の航行を助けたというのである。そして毛馬にある現在の大堰と閘門は、昭和五十二年に造られたもの。当方、なるほどなるほどと、初回から得心していたのだ。
大和朝廷時代、チーズの元祖を献上した土地なのだ。
左、大宮神社。右、こんな立派な寺が複数ある。
東淀川区の豊里や大道南では、寺や神社がよく目につく。古い民家も目立ち、なかには、昔は庄屋さんだったのかと思うような立派な屋敷もある。だからぼくは歩きながら、「豊里は、米や野菜のよくできる、豊かな里という意味かな」と思ったりした。
しかし大阪市の公開資料によれば、もっと由緒のある命名だった。昔、聖徳太子がこのあたりを四天王寺建立の候補地にし、何度も訪れた。それにちなみ、大正時代の末に大阪市に編入されるまで、このあたりの地名は西成郡天王寺庄だったという。
編入時に、聖徳太子の別称「豊聡耳皇子」から、豊里町と命名されたそうなのだ。また写真の大宮は、それよりさらに古い時代の安閑天皇を祀った神社。これまた由縁のあることで、天皇はこの地をたびたび訪れ、放牧を奨められた。
そこで土地の者たちが牛を飼い、チーズの元祖のような品を献上もした。だから明治ごろまで、乳牛牧(ちちうしまき)という地名や学校名も残っていたというのである。
京に都があった時代なら、淀川沿いの土地にも伝承が多く生まれるだろう。けれども大和朝廷の時代に、この地がこんな逸話の舞台になっていたとは。東淀川区の紹介は今回で終えるが、予想以上の勉強になったのだ。
ひええっ。景清さんまで出てきたぞ!
左、夕方の静かなたたずまい。右、由来を記した石碑。
阪急上新庄駅から南へ歩いていくと、立派な石垣と緑豊かな樹木の目立つ公園があった。かぶと公園というのだが、その命名の由来を記した石版を読んで驚いた。源平合戦の時代、平家の落ち武者平景清(たいらのかげきよ)が、かくまってくれた伯父を過って殺してしまい、二度と武士にはもどらぬと決心して、兜を脱ぎ捨て立ち去った。それがこのあたりだというだ。
「えーっ。景清って、あの景清か?」  ぼくがこの名前を知ったのは上方落語「景清」によってだから、帰宅後さっそく、北村一夫氏著の「落語人物事典」を引いてみた。すると、伯父を殺して悪七兵衛(あくしちびょうえ)と異名を取ったこの男、源頼朝を十年つけ狙って果たせず、逆に日向の国の官位を与えられた。その好意は無にできず、といって源氏の世を見るのも嫌だというので、ついに自分で自分の両眼をえぐり出してしまうのである。
落語「景清」は、その後世奇談という内容なのだが、いきなりその名前に接した当方、逆に眼を見ひらいていたのだ。
ただしここは昔からの公園ではなく、完成したのは昭和五十年。一帯は長らく田畑であって、区画整理で市街地になりだしたのは、昭和三十五年からとのことである。
こんな橋があるなんて、想像もしてなかった!
左、六代目のくじら橋。右、先代の橋に使われた肩甲骨。
たまたま立ち寄った寺で、初めて知って驚嘆した、実に珍しい橋を紹介する。阪急上新庄駅の東方向、内環状線に沿って少し歩いたところにある臨済宗瑞光寺。その境内の小さな池にかかる橋は、欄干や飾りが鯨の骨で作られており、その名を雪鯨橋、通称くじら橋という。宝暦六年(1756)、紀州を行脚中の当時の住職が、太地浦の漁師から豊漁祈願を頼まれた。
僧の身として殺生の祈念はできぬと断ったが、たっての願いを容れたところ、鯨の大漁となった。御礼に金三十両と鯨骨十八本が納められたため、鯨の供養と、すべての生命を大切にという願いをこめて、この橋を架けたのだそうだ。
以来二百五十年。現在の橋は六代目であって、北海道沖で捕獲されたイワシクジラの顎骨と肩甲骨、および南氷洋の調査捕鯨で得られたクロミンククジラの脊椎が使われている。
そして御詠歌もあって、「諸人(もろびと)の願いを架くるくじら橋、直(すぐ)なる心渡し給わん」  またこの瑞光寺、発祥は古く聖徳太子の時代にまでさかのぼり、江戸中期以降、最盛期には境内一万坪の広さを誇ったという。
「犬も歩けば」の言葉どおり、大阪市内もこまめに歩けば、こんな驚きと新知識に行き当たれるのだ。
電車は各駅停車のみ。しかしバスはなかなか……
左、駅前交差点。右、上新庄駅ビルと布施行きバス。
阪急京都線の上新庄は、特急も急行も停車しない駅である。しかし道路が入り組む駅前には、ショッピングビルがあり居酒屋チェーンがあり、大した賑わいを見せている。
またここからは京阪守口市駅まで京阪バスが出ており、大阪市バスの近鉄布施駅行きも発車している。大阪市内の交通に関して、ぼくは中心部の区では地下鉄も市バスも、東西南北、縦横に走っていることに何の違和感も覚えない。けれどもこの駅前で守口や布施という「縦」方向の行き先を見たときには、一瞬とまどい、かなりの遠距離路線のように感じてしまった。
各私鉄が大阪から京都や奈良に向かって伸びており、その放射線間の距離が、このあたりまでくれば大きく開いているように思ってしまうからだ。実際は布施にしても、この駅前から天王寺区や阿倍野区へ行くより近いのだ。その感覚距離と実際距離の落差を心理トリックに使えば、怪人二十面相風の探偵小説が書けそうに思ったのだが、いかがなものか。
なお戦前の一時期、後の阪急京都線は京阪電気鉄道の新京阪線として運行されており、上新庄から桜宮経由で梅田に至る新線も構想されていたとのこと。計画上の梅田駅は、現在のHEPビルあたりだったそうである。
男子校の雰囲気が、わからんのだよなあ。
左、グラウンド側から見た校舎。右、玄関横の大石。
北陽高校へは、中学時代のクラスメイトが何人か進学し、そのうちの一人は遊び仲間だった。世間一般には、阪神タイガースの岡田監督が学んだ高校として知られており、学校のホームページによれば、サッカー、登山、漫画、小説などの世界にも著名OBがいるという。開校は大正十四年(1925)で、教育方針としては、知育、徳育、体育を三本柱にしているとのこと。
だから正面玄関の横には、知徳体と彫りこんだ大石が据えられている。難関大学をめざすコースもあって、スポーツ方面ともども、着々と実績をあげているようなのだ。
ところで、冒頭に書いた遊び友達、ぼくはその後の人生コースを知らないのだが、想像しようとしてもうまく頭が働かない。確か父親が水道工事店をやっていたと記憶しているので、その跡を継ぎ、男どうしの変わらぬ友情や連帯感で、公私ともに助け合いつつ暮らしているのではないか……。
この程度の「甘い」空想しかできないのは、こちらが小学校から大学まですべて男女共学だったため、男子校の雰囲気や友人関係がどんなものか、見当さえつかないからなのだ。
ただしこの北陽高校、平成二十年度からは一部のコースが共学になるとのことなので、御参考までに。
道標には、左、吹田、右、大阪と彫られている。
左、旧亀岡街道。右、曲がり角にある道標。
大阪市北区、天満の天神さんの近くに菅原町があるのは知っていたが、東淀川区にも菅原という地名があるとは知らなかった。由来はもちろん菅原道真で、太宰府へ流されるとき淀川を下ってきてこの地で上陸し、京の方角を眺めて名残を惜しんだ。
そこで、江戸時代(寛永年間)にこの土地が開発されたとき、故事にちなんで、菅原天満宮を勧請したというのである。無論、その神社は現在もある。またこの菅原には、大阪の高麗橋から吹田・茨木・高槻を経て丹波の亀岡まで通じていた、亀岡街道の道筋も残っている。亀岡は明智光秀が城を築き、江戸時代も城下町だったし、戦前は大本教の聖地として名高かった街である。そして古来、京からは老ノ坂を越える山陰道が通じ、池田・豊能方面からは摂丹街道も通っていた。
しかし、大阪から亀岡まで延々たる街道がのびていたとは、これまた知らなかったことだった。「前に丹波の園部から、おもよどんというおなごしが来てくれてたんやけどな……」 上方落語の「口入れ屋」に出てくるせりふを思い出し、「彼女も風呂敷包みを首筋にくくりつけて、この道を歩いていったのかしら」などと思いながら、写真の、淀川に近い街道跡を歩いたのだ。
これは何だ? わかって驚き、コーフンした。
同じ橋梁内を人と列車が。ふりむけば田舎風の単線光景。
東淡路のはずれで、淀川堤防へ上がってみて驚いた。
鉄橋があり、それは複線の幅を持っているのに片側寄りの単線しか通っておらず、残りの片側は、木の欄干と板張りの人道橋になっているのだ。ふりむけばその単線は北へ伸びて、まるでローカル支線のような静かな光景をつくっている。
「これは、どこの何線だ?」 予想外の路線出現に、ぼくは鉄道に関する断片知識をあれこれ想起し、正解を探った。そして下した判定は、片町線の鴫野から東海道本線の吹田、および片町線の放出から関西本線の久宝寺を結んでいる城東貨物線。「へえっ。あの線はここで淀川を渡っていたのか。しかも、こんなに珍しい形態で」 帰宅後調べてみると、まさに城東貨物線の赤川鉄橋。「鉄道道路併用橋」と称するそうで、ただし将来、人道橋部分は撤去されるらしい。
全線単線で南北に走るこの貨物線を、乗客輸送用に複線化する「大阪外環状線」計画が進行中だからで、そのときには大阪市が新たに人道橋を架ける計画だという。何にせよ、初めて見た光景にぼくは子供のように興奮し、人が歩き貨物列車がその横を通過していくシーンを撮影しようと、随分長い時間待ったのだが、かなわなかったのだった。残念!
あたりまえじゃ。淡路島へ、電車で行けるかーっ!
左、好きな坂道。右、こんな小さな映画館もある。
「こないだ、一人で淡路のおばあちゃんの家へ行ってきた」 
新潟から豊中へ引っ越してきた小学校五年のとき、同じクラスの男子の言葉を聞いて驚いた。子供が単独で淡路島まで行ってきたと思ったからで、阪急電車で行ける淡路もあるとは、まだ知らなかったのだ。また、当時(昭和三十年代前半)の地図をひっぱりだして見ると、十三から淡路までは京阪神急行北方線と記されており、淡路から先のみが京都線になっている。
いま調べてみると、戦前は天神橋から淡路を通って千里山に至る線が本線で、十三・淡路間は支線だったのだ。もちろん現在は京都線がメインで、両線合わせて一日約千本の電車が行き来しているという。そしてその駅前は、北側にも南側にもアーケード商店街が伸び、パチンコ店、映画館、居酒屋チェーンなど、何でも揃う賑やかな街になっている。
左の写真は南側のスナップで、北側への通路がガードをくぐるため、短い坂道になっている。少し薄暗く、時間帯によっては乗降客と買い物客でごった返す光景が好きで、ぼくは前々から、淡路を訪れたときには、坂の上に立ってその模様を眺めたりしてきた。今回もたたずんで写真を撮りながら、小学校時代を思い出していたのだ。
覚えておくのも、作家の仕事なのだ。
左、水道記念館。右、裏手のタンク群。
柴島と書いて、くにじまと読む。難読地名の一例であって、ぼくも正解を覚えたのは社会人になってからだ。ここには大阪市の柴島浄水場があり、51万平方メートルという広大な敷地内に、配水池やポンプ場をはじめとする各種設備を配置している。
煉瓦造りの建物は旧・第一配水ポンプ場で、大正三年から昭和六十一年まで稼働していた。現在は大阪市水道記念館になっており、琵琶湖から淀川に至る水系、淀川「わんど」の生物、水道の仕組みなど、多様な展示を無料で見学できる。
それらの知識とともに、作家としては、この建物自体の姿や雰囲気も記憶しておこうと、強く思わされた。時代は戦前、建物は煉瓦造り。こんな設定で小説中の一シーンを描くときには、ここを思いうかべて書けばいいからだ。桜の季節の光景など、その明るさ美しさに食指が動く。また敷地の裏手にまわると、白い大型タンクの並んでいる一画があるが、それも記憶しておこうと思った。何か別の小説で必要が生じたとき、苛性ソーダ、硫酸バンドなどという薬品名を入れてタンク群を描写すれば、作品のリアリティが高まる。こういった光景や場面を多種大量に記憶しておくのも、作家の仕事のひとつなのである。
からだ+こころ+たましい=全人です。
左、病院。右、無関係だろうけど、近所には聖書学校も。
淀川キリスト教病院は、昭和30年(1955)に診療所として発足したそうだが、現在では複数の施設を持つ総合病院になっている。当方、その名称と建物は、新幹線で上京するとき新大阪を出てすぐの車窓から見えるので、以前から知っていた。
また近年では、ホスピスに関する話を人から聞くとき、この病院名が出てきたことも何度かある。それはともかく、宗教と医療は昔から密接な関係を持っており、それはやはり患者の肉体面ばかりではなく、精神面のケアも必要とされてきたからだろう。
そしてそれを追求していくと、根源的な救いという問題にもいきつく。この病院では、人間とは「からだ」と「こころ」と「たましい」が一体になったもの(全人)で、それらを救い助ける行為を「全人医療」と称しているとのこと。
仏教系では、西本願寺「あそか診療所」の先生の講演を聞いたことがあるのだが、そのなかにも、医療は眼前の患者を救い、仏教は大いなる「いのち」そのものを問題とするという話がふくまれていた。それぞれわかるような気がするのであって、もし自分が病床で「死」ということを考えなければならなくなったときには、その種の話が通じる医師にかかりたいと思うのだ。
どこでも、行ってみるもんですねえ!
左、崇禅寺山門の偉容。右、県庁跡の石碑。
上方落語に「崇禅寺馬場」という、めったに口演されないネタがある。ぼくも先代・森乃福郎師で聞いたのみ。
夜の崇禅寺付近が舞台になっており、ほとんど人の通らない、静まりかえった暗闇という印象が残っている。現在は住宅街であるが、行ってみて驚いた。崇禅寺という寺院、白壁の塀をひきまわした、非常に大きな寺だったのだ。
資料によれば、室町時代、八町四方の土地に伽藍を建て、将軍家より八百石を賜ったとある。またその門前には、「不許葷酒入山門」という禅寺独特の石柱とともに、「摂津県、豊崎県、県庁所在地跡」という石碑が立っており、これにも驚いた。明治初期、廃藩置県で多くの小県が置かれたことは知っていたが、摂津県は現在の兵庫県の一部だったと覚えていたからだ。
調べてみると経緯は複雑で、分離や一部編入などのため、当時の大阪府の他に、堺県・摂津県・河内県という名称が次々に登場する。そして摂津県は豊崎県と名前を変え、次に兵庫県に編入され、そのあと一部地域を大阪府に移管したとある。ぼくの記憶、間違いではないが不正確だったのだ。そしてそのめまぐるしい変遷事務も、この寺内の役所で扱われたのだろう。
いや。勉強になりました。
功労者は、いしいひさいち氏なのだ!
左、ごく小さな駅。横の踏切から、新大阪駅が見えてます。
今回からは東淀川区に入る。JRで大阪から吹田方面へ行くとき、新大阪を出た普通電車が、速度も上がらないまま東淀川駅に着くので、思うことがある。 「ふりむいたら、新大阪の駅が見えとるやないか。こんな駅、いらんのと違うか」 だがそれは非居住者の勝手な思いであって、小駅なれども、昭和15年(1940)以来、地域住民のお役に立ってきているのだ。
ところで、東淀川という区名や駅名を全国に知らしめた功労者は、漫画家のいしいひさいち氏だろう。大学時代の下宿地だった由で、作品タイトルや舞台に数多く使われている。そのため氏のファンや漫画マニアが、現地見学ツアーをしたとも聞く。
一方、いしい氏自身は徹底的に生身の自分を隠す人で、マスコミには一切登場せず、顔写真さえ出たことがない。無論ぼくも、どんな人なのか全然知らない。「カネができたからって、生活態度を変えるほど単細胞じゃない」という名言があるから、いまだに下宿生活者の雰囲気をたもっているのかもしれない。
だからひょっとして、ぼくが駅の写真を撮影中、横を通り過ぎたラフな服装のおじさんが、ひさしぶりに東淀川を訪問中の御本人だったかもしれないのである(まさか!)
全体としては、雑然とした街です。
左、路地裏。右、併走高架が、街の見通しを悪くしてる。
地下鉄御堂筋線、西中島南方駅の近くには、過去、知り合いが二人いた。一人はSFの先輩で、マンションに一人住まいの身。こちらもまだ独身だったから、飲んだあとそこに寄り、遅くまで議論したり、そのまま泊めてもらったりした。
当時、新御堂筋の東側は古い木造家屋の多い住宅街で、生鮮食品店が並ぶ市場や、気のいいおばさんがやっているお好み焼き屋などがあった。もう一人は、それから二十年ほどあと、ビルのテナントとしてうどん屋を始めた友人で、夕方からは飲み屋になるため、東京からの帰り、新大阪駅からぶらぶら歩いて寄ったりした。飲みながら、「この周辺のビルに勤めるサラリーマンは、昼食代を低めに抑えるし、夜もサービスセットだけで帰る客が多い」 「風俗店ができて、店を終えて帰る駅への道で、毎晩声をかけられる」などという話を聞かされたのだ。
そして、SFの先輩は結婚後転居したし、友人は店の権利を人に譲ったため、この一画に知りあいはいなくなった。現在、駅前一帯はオフィスビル、マンション、飲食店、スーパーマーケット、ビデオショップなど、職・住・遊が混在する街になっている。
大阪市内には、こういう街が増えているように思うのだ。
大阪の暑さ、暑苦しさ、ここに極まれり!
左、走るやつまでいる。右、この包装だもんねえ。
(東京在住の某氏談) 大阪の夏が暑いとは聞いてたけど、
ひどかったね。こないだ出張で新大阪駅に着いただけで、それを体感させられたよ。なにしろ車内からホームに出た途端、ムワッとした粘っこい熱気に襲われてさ、しかもそいつがズボンの裾からも侵入して、両脚をいやらしく這い上ってくるんだ。
出札口を出たら、行き来する乗降客がやけにせかせか歩いてるわ、団体客は出発前からうかれてしゃべり散らしてるわ、なおさら暑くなってくる。おまけに土産物店には、タコ焼きせんべいだのタイガース饅頭だのが山積みで、目立ちゃいいんだろうとばかりに、赤や黄色のけばけばしさを誇示してる。
外へ出たら長距離バスの乗り場があるんだけど、案内アナウンスが駅の建物に反響してわんわん響いてる。広場のむこうはビル街なんだが、これが高さも形もてんでばらばらでさ、
おまけにそれぞれ好き勝手な方向を向いて建ってやがる。街の眺めまで暑苦しいんだよ。「ひでえところに来たもんだ」と思ったら駄目押しがあってさ、頭のすぐ上を、大阪空港に降りるジェット機が轟音上げて通過していくんだ。
いやまあ。夏の新大阪駅周辺てのは、暑さ、暑苦しさの総合展示場だね (えろう、すんまへん!)
お。こんなところにも、長い商店街があった!
左の入り口から歩いていくと、右の立派な質店がある。
阪急三国駅の東側すぐに、アーケード商店街があった。入ってみると意外に長く、百円均一ショップの大型店があったり、生鮮食品の安売り店があったり、なかなか賑わっていた。
古風で立派な質店もあり、昔ながらの気遣いを守っている点に好感を覚えさせられた。気後れする客でも入りやすいよう、商店街側と路地側の二カ所に入り口を設け、かつ顔が差さないよう長めの暖簾で戸を隠すようにしてあるのだ。
それで思い出したのだが、会社員時代の知り合い夫婦が、この近くに住んでいると聞いたことがある。男は頭はいいけれど計画性がなく、ギャンブル好きだった。ところが、当時「結婚なんかして大丈夫かいな」と言っていた共通の知人が、何年か前に彼らと出会ったそうで、その印象を教えてくれた。
「あいつ落ち着いとったわ。嫁さん、老けてたけどニコニコしてて、ええ夫婦に見えたで」
女は世話女房型だったから、他人にはわからない良さを相手に見いだし、暖かく見守りながら切り盛りしてきたのかもしれない。「ひょっとして、若い頃にはここにも何度か……」と、質店を眺めつつ思ったのだが、それは作家の通俗的な過剰想像。男も結婚を機に、働き者になっていたのかもしれないのだ。
街が変わる。人も替わる。変わらぬものは?
左、阪急三国駅。右、神崎川。対岸は豊中市になります。
上方落語「池田の猪買い」に、大阪から池田まで
猪の肉を買いに行く男に対して、道筋を教える場面がある。
「お初天神の北門からは一本道や。十三の渡し、三国の渡しと、渡しを二つ越える。服部の天神さんをしりめに殺して岡町。岡町を抜けたら池田やな」 
十三の渡しは中津川(現淀川)、三国の渡しは神崎川であって、橋も鉄道もない時代の、のんびりとした雰囲気が味わえるのだ。一方、阪急宝塚線で通学していた高校時代、車窓から見る三国一帯は、町工場と木造アパートが密集する街だった。
会社勤めをしていた昭和四十年代後半、同僚が神崎川近くのアパートに入っており、一度行ったことがあるのだが、そのときにも同じ印象を受けた。金属関係の工場が多かったのか、道が赤茶けていたようにも覚えている。
だがこのあたりも都市整備が進み、マンションが立ち並ぶ街になっている。何よりも驚いたのは阪急三国駅の変容で、昔は本当に小さな地上駅だったのだ。
ちなみに三国という呼称は、古い地名の三国島が元といい、さらに古くは、桓武天皇の時代に開削した川を三国川と称したのが始まりだともいう。変わる様相と変わらぬ地名。
それを通して、古今無数の人々の生活が思われる。
あの先生は、不運な転職をしたのかしら?
左。マンションの一室に、会社はまだあるのだが……
阪急宝塚線で通学していた昭和30年代末の高校時代、十三から三国までは大小の工場が並ぶ区間だった。
ボルカノ(バーナー)やケントク(艶出しワックス)の看板を覚えており、独特の経営方針で有名だったケントクの構内には、教会のような塔が立っていたと記憶している。また精密な歯車を多数使用する手回し計算器、タイガー計算器の工場もあって、ここへは中学入学時の担任だった数学教師が、転職した。
そのとき子供心に、「いまの仕事に見切りをつけて、能力を生かせる職場を選んだんだな」と思った。高校通学の車窓から工場を眺め、折々、思い出してもいたのである。
ところが、戦前から販売されてきたというこの計算器、電卓が誕生したことでその役割を終え、昭和45年に販売を終了した。
社会人になってからそれを知ったぼく、「あの先生、また転職することになったのかしら」と、他人事ながら心配していたのだ。
そして今回歩いてみると、その一画はタイガーの名を冠したマンションや駐車場になっていた。一方ネットオークションなどでは、コレクターが往年の製品に高値をつけているという。人、商品、業界。それぞれの盛衰を思いつつ歩いたことである。
白雪おばさん、さらなる御活躍を!
左、映画ロケにも使われた路地。右、名代の酒饅頭屋さん。
阪急十三駅前は、東側にも西側にも商店街があり、路地には食堂や一杯飲み屋が並んでいる。暑い中、そんな狭い道を歩けば、人気タレントの桜井一枝さんを思い出す。
当方、大学四年の六月下旬、小さな広告代理店に就職が決まり、七月からはバイトを兼ねて通いだした。そしてまず週一回やらされたのがラジオの公開録音の手伝いで、酷暑のなか、客席用のパイプ椅子を三十脚ほど運んだり、表にホースで水を撒いたりした。そのとき番組のアシスタントをしていたのが、まだ駆け出しクラスの桜井さんだったのだ。
ただし、十三出身の彼女は、持ち前の明るさとバイタリティーで見る見る仕事を増やしたのだが、こちらは脱サラするまでの六年間、ひたすら下請け仕事の日々。後年彼女に、「将来どうなるのかなあと、いつも思ってたよ」と言ったことがあるほど、先の見えない時代だったのだ。すると、そのとき彼女はこたえた。
「でも私も、あの少し前までは食堂の出前持ちのバイトで食べてたんよ」 写真の路地を歩きながら、「こんな店で働いてたのかな」と感慨を覚えたわけである。
自称「十三の白雪姫」、昔なじみの無遠慮さで言わせてもらえば「白雪おばさん」、ますますの御活躍を!
ここにもあった、懐かしい雰囲気の映画館。
右の愛染恭子のポスターには、笑いましたぜ。
先般、ラジオの仕事で桂米朝師匠にお話をうかがう機会があり、そのときこんな言葉も出た。「昔の講釈の小屋には、夫婦二人でやってるような小さなところが多かった。戦後の街の映画館にも、そういうのがおましたな」 
そこまで小さくはないが、ぼくが豊中に住んでいた昭和三十年代後半、歩いていける距離内に映画館は四軒もあった。
「少年探偵団」「日蓮と蒙古大襲来」「日本一の無責任男」。
これらは友達と見にいった作品であり、チェコ映画の名作「悪魔の発明」は小学校の課外授業として観賞した。だがそれらの小屋も、テレビの普及につれて次々と閉館してしまった。
大学時代にはすでに、映画は梅田か三宮で見るものになっていたのだ。けれども、趣味と仕事を兼ねてあちこちの街をうろついていると、懐かしい雰囲気の映画館にいきあたることがある。大阪の新世界はその代表だし、先年、近鉄布施駅前の商店街で、まさに「街の映画館」という小屋を見かけたときには、タイムスリップしたような気になった。
写真は十三本町の商店街にある小さな映画館だが、これもまた懐かしい雰囲気に充ち満ちていた。となりに模型店でもあれば、小学校時代の記憶が噴出してきたに違いないのだ。
なお、右の愛染恭子のポスター、黒い服を着ているようだが、これはそのように描き加えて、胸を隠しているのである。だから、館内の同じポスターでは露出していた。子供も行き来する商店街だから、気を遣ってるんでしょうね。
追記。06年7月中旬、ここも閉館したそうです。
十三本町は、賑わいの街なのである。
左、歓楽街の始動時間帯。右、健在のラブホテル街。
高校時代の電車通学で、梅田からは阪急宝塚線を利用していた。帰路、友達と庄内で下車して回転焼きを食べたりしたものだったが、十三では下りたことがない。
バーやキャバレー、パチンコ店に麻雀荘。
そして当時はトルコ風呂と称していたソープランド、連れ込みホテルと呼ばれていたラブホテル。車窓から見えるそれらの看板やネオンサインに、「未成年者立入禁止」の雰囲気を感じ、何となく怖くもあったからだ。
サラリーマン時代には、ごくたまにだが、梅田から遠征して飲んだりした。そのとき聞いた話によれば、昔、線路際にソープのビルがあり、夏の夜など窓をあけていたりする。
阪急の終電が通過したあと、ズック靴と軍手姿で鉄柱を上り、送電線伝いにそのビルの前まで移動して、覗いていた男がいたのだという。マニアの世界にも古き良き(?)時代のあったことがわかる話だが、現在はマンションが増えて、その一画も様変わりしている。裏手のホテル街は健在だが、若いカップルが昼間から談笑しつつ入っていく姿を見ると、おじさんとしてはアホらしくもあり、うらやましくもあり。
写真は十三本町のレジャー街。看板の明かりがつき、風俗嬢がタクシーで出勤してくる、賑わい開始の夕方である。
はてさて、十三番目か、十三条目か?
左、三複線の鉄橋。右、昭和7年完成の十三大橋。
左は十三(じゅうそう)側から見た、阪急電鉄の淀川鉄橋。京都、宝塚、神戸の各線が並行しているので、三複線と称する。「私鉄初の三複線!」 そう聞いたのは中学時代だが、当時アホだったぼくは、そういう名前の新路線が開通したのだと思っていた。高校一年の終わりに豊中から西宮へ転居し、以後卒業までの二年間、阪神と阪急を乗り継ぐ電車通学で往復した、懐かしい鉄橋でもある。
それはともかく、読みにくい地名を集めた本などに、ときどき「十三」が出てくる。命名の由来は、昔このあたりに、川の上から数えて十三番目の渡しがあったからだという。また、現在の阿倍野を基点とした古代の条里制で、十三条目にあたっていたからだともいう(以上、大阪市の公開資料より)。
ぼくはこれまで前説を信用していたのだが、どうも後説に理があるような気がしてきた。というのが西区の九条について、「何で突然ここだけに、都大路みたいな地名が?」と、長らく疑問に思っていた。それも後説で納得できるからである。
ともあれ現在、この付近の淀川には阪急の鉄橋、十三大橋、そして新十三大橋がかかっている。庶民の街、レジャーの街として名高い十三は、大阪北部の交通の要衝でもあるのだ。
う〜む。こいつは何者なのだ?
左が問題のエテ公。右の石柱は知ってたのですが……
北野高校の北側に十三公園がある。敷地は広く、花の公園と称しているだけあって木々も多い。春には大勢の花見客が弁当をひろげたりする。なぜそれを知っているのか? 年に一度あるなしだが、ここを利用させてもらっているから。
市内の仕事場から自転車で梅田へ、梅田から国道176号線を走って、学生時代に住んでいた街の変化を見るべく豊中へ。その途中、この公園で一服するのである。だから「花の公園」という名称も、そう記された石柱を見て知っていたのだ。
ところが、今回じっくり敷地内を歩いて、初めて知った石像があった。写真の猿であって、公園の南西側の隅にぽつんと一匹、南を向いて座っている。台座には何も彫りこまれておらず、説明板もないので、その正体や由来はわからない。
口に筒状のものをくわえているが、笛でも吹いていたのが折れたのか。また、最初からこいつだけだったのか、昔は仲間がいたのか。神社や寺ではなく公共の公園に座っているのは、これが神猿ではないからか。それとも以前ここに庚申堂でもあり、堂は廃されて猿だけが残ったのか。
手持ちの資料では判明せず、ネットで散々検索してもわからない。猿の話だけに、赤面しつつ教えを乞うのである。
旧制中学〜新制高校。犠牲者もおり、アホもおり。
左、現在の正門あたり。右、複数の黒点が弾痕です。
今回からは淀川区に入るが、この建物は何だ。どこかの現代美術館か? とんでもない。名門北野高校なのである。昔の校舎は茶褐色の石張りで、くすんだ色合いが伝統の長さ重さを象徴していた。「高度成長期以前の青春映画を撮るなら、ロケ地にぴったりだな」初めて見たとき、そう感じたほどなのだ。
そしてその壁の一部は、敷地の端にある新校舎の西面に、三階建てのまま「張り付かせる」かたちで残されている。まだ旧制中学だった戦争中、この校舎も米軍機の銃撃を受け、生徒も犠牲になった。壁には弾痕が生々しく残っているので、鎮魂保存しているのだ。話は突然飛ぶが、知人が得意先の年長者と雑談中、出身高校を聞いたら、「阪急の十三の近くにある学校」だとこたえた。どこだかわからなかったので、「はあ。そうですか」とだけこたえたら、相手が不機嫌になったという。
「とおっしゃいますと、どちらですか」と聞き返せば、相手はおもむろに校名を告げるのであるらしい。無論、知っていれば「へえっ。北野ですか!」と感嘆するのも、良い対応姿勢であるとのこと。ちなみに、「魚崎のほうの学校」という言い方もある由。まあ、名門校にもいろんなOBがおられるようでして。