湯浅年子 〜日本初の国際的女性科学者〜

  • 1909年(明治42年) 上野に生まれる。三男四女の六番目。

  • 江戸っ子のお嬢様で文・理両方の優れた才能を発揮(絵もうまい)。

  • 1927年 東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大)理科入学。

  • 1931年 東京文理科大学(現・筑波大学)に、物理学科初の女子として入学。

  • 1937年 東京女高師の助教授になる。この頃、フランスのジョリオ=キュリー夫妻の人工放射能の論文と出会う。

  • 1940年1月26日 神戸港よりフランスに向けて出港。3月2日にパリ到着。

  • イレーヌ・ジョリオ=キュリーにラジウム研究所入りを断られる。

  • 1940年3月29日 コレージュ・ド・フランスのフレデリック・ジョリオ=キュリーがOKを出す。

  • 1943年 フランス国家理学博士取得。

  • 1944年8月 大使館の命令でパリを退去。1945年7月に帰国。8月15日、日本はアメリカに無条件降伏=終戦。

  • 1945年 東京女高師復帰。日本人学生や科学者に歓迎されるが、じつは実験ができず不満。

  • 1949年 フレデリック・ジョリオ=キュリーの誘いで再渡仏。本格的に研究を再開。

  • 1954年 お茶女(1952年より新制大学でこの名)を退職。パリで永住を決意。1956年にイレーヌ、1958年にフレデリック・ジョリオ=キュリー死去。(放射線障害)

  • これ以降、原子核物理学、少数核子系の研究者として、国際的に活躍。世界中の学会に出席。

  • 癌になっても休まず、日仏共同研究の実現に全力投球。

  • 1980年 パリの郊外の病院で死亡。この日に日仏共同研究承認。

  • 2002年 お茶の水女子大を主催機関として湯浅年子記念の奨学基金設立。