ご覧、パンティーだ。.... 佐久間學

(12/7/4-12/7/22)

Blog Version


7月22日

FLAGELLO
Passion of Martin Luther King
Ezio Flagello(Bar)
Nicolas Flagello/
Ambrosian Singers
London Philharmonic Orchestra
I Musici di Firenze
NAXOS/8.112065


イタリア系のアメリカの作曲家、ニコラス・フラジェッロという人が作った「受難曲」です。彼の3つ下の弟が、エツィオ・フラジェッロ、カール・ベームが1967年にプラハで録音した「ドン・ジョヴァンニ」でレポレッロを歌っていましたが、このアルバムでもソロを担当しています。
この「マーティン・ルーサー・キングの受難曲」は、キング師のことを敬愛していたフラジェッロが、1968年の暗殺事件に衝撃を受けて作ったものです。1953年に作ってあったオーケストラと合唱のための5曲のモテット集の間に、バリトン・ソロによって歌われるキング師の演説集の中の言葉をテキストにした音楽を挟み込むという構成が、なかなか効果的です。ラテン語の合唱のパートは、華やかなオーケストレーションの中、合唱がハイテンションに歌いあげるという曲調、しかし、バリトン・ソロによるキング師のテキストのパートでは、ソロはあたかもレシタティーヴォのような趣でしっとりと言葉の意味を伝えています。しかし、そのシンプルなソロを彩るオーケストラの、なんと雄弁なことでしょう。いわばバロック時代の「レシタティーヴォ・アッコンパニャート」を現代に置き換えたような、それは美しいナンバーです。
しかも、例えば4曲目の「In the Struggle for the Freedom」などでは、そのレシタティーヴォは歌われていく中で次第に高揚感を増し、後半には殆ど「アリア」と言ってもいいほどのメロディアスなものに変わります。このあたりは、「オラトリオ」というよりはほとんど「ミュージカル」と言っても構わないほどのキャッチーな魅力にあふれています。
最後の曲となる「I Have a Dream」は、1963年にワシントンで行われた大集会での有名な演説「私には夢がある」をテキストとした、やはり非常に美しいオーケストラをバックに淡々と語られるレシタティーヴォです。「私には夢がある。いつの日かこの国が立ちあがり『すべての人間は平等につくられている』という言葉の真の意味を貫くようになるだろう」といったような崇高な訴え、先ほどの4曲目の最後に出てきた「Crucify」という言葉の繰り返しとともにこれを聴くと、まさにこの曲はキング師をイエス・キリストと置き換えた、「受難曲」そのもののように感じられてきます。
ニコラスの指揮、エツィオのバリトン・ソロによって、1969年にロンドンでこの曲はレコーディングされました。しかし、それを発売してくれるレーベルは見当たらず、この録音はお蔵入りになってしまうのです。実際に初演を行ったのは、フラジェッロの作品に深いシンパシーを持っていた指揮者のジェームズ・デプリーストでした。しかし、1974年のワシントンでの初演に際しては、デプリーストは作曲者の了承のもとに、最後の「I Have a Dream」と、その前の「Jubilate Deo」を、当時の現状では「時期尚早」としてカット、3曲目の「Cor Jesu」のテーマによる新たなフィナーレに差し替えて演奏しました。のちに1995年にKOCHに録音したものも、そのバージョンによっています。

2008年にバラク・オバマが大統領に就任したことで、キング師の「夢」はかなえられました。そして、オリジナル・バージョンの世界初録音が、ここに43年ぶりに日の目を見ることになったのです。
そんな、これが「初出」であるという情報は、ジャケットには何もなく、ライナーノーツを読むまでは分かりません。さらに、カップリングがやはりエツィオのソロによる、これは1963年にリリースされたことのあるニコラスの歌曲集なのですが、これがとんでもなくひどい音なのです。声が完全にひずんでいて、とても不快、おそらく、マスターテープはもうなくなっていて、LPからの板起こしなのでしょう。スカイツリーのお土産ではありませんよ(それは「雷おこし」)。それはそれで「ヒストリカル音源」なのですから仕方ありませんが、一言「おことわり」があってもいいはずです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

7月20日

さよならビートルズ
洋楽ポップスの50年は何だったのか
中山康樹著
双葉社刊(双葉新書043)
ISBN978-4-575-15395-8

タイトルが「さよならビートルズ」で、帯のコピーが「ビートルズはダサい!?」とくれば、これはもはやビートルズは今の人にとっては必要のない時代遅れの音楽であることを説いた本のように思われてしまいそう。というか、この帯コピーは著者とは全く関わり合いのないところで作られたもののような気がします。この本のどこを読んでみても、そんな、ビートルズを貶めるような記述は見当たりませんからね。こんな風に、ただ売りたいがために必ずしも内容に即してはいないコピーを使うことは、CD業界に限ったことではなかったのですね。ほんと、○クソス・ジャパンの帯コピーなんかひどいものです。これなんか、あまりにお粗末で悲しくなりますね。
この本は、サブタイトルにもあるように、ビートルズがEMIからメジャー・デビューした1962年を日本における「洋楽元年」と位置づけ、それからちょうど50年目にあたる2012年現在から「洋楽」シーンを振り返ろう、というものなのです。われわれクラシック・ファンにとっては、「洋楽」の歴史はたった50年ではないだろう、と思うのは当然のことですが、もはやこの言葉は「明治時代に西洋から入ってきた音楽」という意味でつかわれることは極めて稀だ、という認識は必要です。そのあたりは著者も心得ていて、前書きでまずこの言葉の意味をしっかり定義してくれていますから、安心できます。
そのような、「安心感」は、著者が1952年生まれの、もはや還暦を迎えた分別のある大人であることから生まれるのでしょうか。最近ネットなどで雑な文章を書きなぐっている若いライターの文章とは一線を画した、いたずらに煽り立てることのない文体には非常に好感が持てます。しかも、ここで語られている「50年」というのは、まさに著者がリアルタイムに「洋楽」に接してきた時期と重なっているのですから、その記述には重みがあります。「事実」を語るだけならば、資料を繙くことによってある程度のことは可能ですが、その時代の「空気」を実際に体験している人には、その「事実」の「意味」までをも的確に綴ることができるのですから。
例えば、1964年のラジオ番組でのリクエストランキングの曲目が羅列されているページを見てみるだけで、おそらくそのころに「洋楽」を聴いていたことがある人ならば、それは単なる曲目のリストというだけではない、当時の生活の匂いまでも蘇らせてくれるタイトルの集まりと感じられるのではないでしょうか。
そんな、まるでタイムマシンに乗せられたかのようなリアリティあふれる回想に交えて語られる「洋楽」受容史、そこで登場するビートルズの来日公演の「意味」を語るパートこそが、この本の一つのハイライトであることは間違いありません。この公演では、「前座」として日本人のミュージシャンも演奏を行ったのですが、そこに出演した人たち、出演を依頼されたのに断ったバンド、さらには「出る」よりも「聴く」方を選んでバンドを脱退した人などに、その後のそれぞれの人たちの姿を重ね合わせると納得のいくことが思い当ったりしませんか?内田裕也って、いったいなんだったんでしょう。
そのような、まさにノスタルジーなくしては語れない輝くばかりの日々の体験の後に、あまりにも唐突に現れるのが、「現代」の「洋楽」シーンを嘆く著者の姿です。まあ、気持ちは分かりますが、こればっかりは時代の流れなのですから、受け入れるほかはありません。「洋楽」は文化である前に「商品」なのですからね。
でも、「ラップは意味がわからないからこそかっこいい」という著者の主張には、無条件に賛同してしまいます。「和訳ポップス」が消滅したように、「日本語ラップ」が消え去る日は、遠くはありません。いや、去らないかな(それは、「去らんラップ」)。

Book Artwork © Futabasha Publishers Ltd.

7月18日

HAYDN
The Creation
Amanda Forsythe(Sop)
Keith Jameson(Ten)
Kevin Deas(Bar)
Martin Pearlman/
Boston Baroque
LINN/CKD 401(hybrid SACD)


PCオーディオ機器でも積極的な展開を行っているLINNですから、当然CDSACDといったフィジカル媒体だけでなく、ダウンロードによるリリースも行っています。公式サイトに行ってみると、自社製品だけではなく、DECCAあたりのアイテムまで扱っているのですから、すごいですね。ただし、DECCAの場合は権利の関係でしょうか、日本から購入(ダウンロード)することはできませんとさ。
そこで販売されているのが、「スタジオマスター」と呼ばれている3種類のハイレゾデータ、最高位のものはなんと24bit/192kHz(FLAC)という、LPCMでは今の時点で普通に扱えるものの中ではこれ以上はないというスペックになっています。ということは、もともとの録音も、このスペックで行われているということなのでしょうか。その下に24bit/96kHz(FLAC, WMA)のものも有るのですが、価格は同じでいずれも24USドルというのですから、もしかしたらアップ・コンバート?ちなみに、CDと同等の16/44.1のデータは13ドルですって。このハイドンの「天地創造」の場合はSACDでは2枚組になっているので25ドルと、ハイレゾデータの方がお安くなってますね。でも、マルチチャンネルは入っていないのでしょうね。
やはり録音を売り物にしたレーベル、TELARCのアーティストだと思っていたボストン・バロックが、今回はLINNからのリリースです。ただ、録音データを見ると今までのLINNでは見かけない人、というかプロダクションの名前がありました。それは「5/4 Productions」というものです。しかし、個々のプロデューサーやエンジニアの名前を見ると、トーマス・ムーアとかロバート・フリードリッヒ、マイケル・ビショップといった、馴染みのある名前がありますよ。そう、彼らは、まさにTELARCのクルーではありませんか。調べてみると、2009年に、以前からCMG(Concord Music Group)に買収されていたTELARCの主だったスタッフが大量に解雇されてしまったそうなのですね。それで、そこのエンジニアたちが独立して作ったのが、この「5/4」でした。「125%のクオリティ」という気持ちが込められた社名なのでしょう。元PHILIPSPOLYHYMNIAとか、最近はこういう風に、おかしくなってしまったレーベルからエンジニアが独立するというケースが多くなっていますね。
そういえば、このころ買ったTELARCが、今までと品番のつけ方が変わっていたことを思い出して、やはりボストン・バロックが演奏している現物を見てみたら、そのクレジットには同じ名前がすでに「5/4」名義で載っていましたね。ということは、ボストン・バロックはこれ以上TELARCにいてもしょうがないと、録音スタッフ込みで、LINNに移籍したということなのでしょうか。そうなると、こちらには録音機材のコメントはありませんが、TELARC時代には彼らはDSDで録音していたはずなので、さっきのハイレゾデータは、DSDからLPCMへのコンバートなのかもしれませんね。
しかし、同じ演奏家が同じ会場で、同じスタッフによって録音されているのに、今回のSACDからは、TELARCCDとは全然違う印象が与えられます。正直、今まで聴いてきたロンドン・バロックの録音は、なんか焦点の定まらないふわふわした音で、全く魅力がなかったものが、今回は全く別の団体を聴いているようでした。音の密度は格段に上がって、テクスチャーがはっきり分かるようになっていますし、何よりもボーカルのバランスがとてもに良くなっていて、オケに溶け込みながら、しっかり存在感を示しています。SACDになったことが、その最大の要因なのでしょうが、もしかしたら「LINNのブランドを背負うのだから」と、しっかりチェックが入っていたのかもしれませんね。
そんな音のおかげで、今まで退屈だと思っていた「天地創造」でも、最後まで楽しんで聴くことができましたよ。やはりウォシュレットはいいですね(それは、「便器TOTO」)。基本的にかなりロマンティックな演奏ですが、ソリストが変なくせのない、アンサンブルでも美しく歌える人たちだったのも、勝因です。

SACD Artwork © Linn Records

7月16日

UEDA
Requiem ・ Never forget the day and you
本宮廉子, 北爪かおり(Sop), 横町あゆみ(Alt)
坂口寿一(Ten), 熊谷隆彦(Bas)
上田益/
The Kühn Choir of Prague
Prague Philharmonia
REQUIEM PROJECT/SVRP1201


「レクイエム・プロジェクト」というものがあることを、最近知りました。老人会ではありませんよ(それは、「レクリエーション・プロジェクト」)。なんでも、2010年に阪神・淡路大地震から15年目を迎えることから、それに向けて、数多くのテレビドラマの音楽などで知られる作曲家、上田益(すすむ)さんが中心になって2008年から始まった活動なのだそうです。そのために上田さんによって作られたのが、この、「自然災害、戦争、テロなどで亡くなった多くの尊い命のためのレクイエム〜あの日を、あなたを忘れない〜」なのだそうです。
図らずも、2011年に起こってしまった大震災によって、この活動はさらに大きな広がりを持つようになります。ついこの前の3月には、福島でこの「レクイエム」を演奏するとともに、福島県在住の今を時めく震災詩人、和合亮一さんの詩をテキストにした上田さんの新作合唱曲も演奏される機会がありました。そのように、単に「レクイエム」を演奏するだけではなく、その土地で新たな創作を行ったり、制作の段階から地元のスタッフとの触れ合いを大切にするというのが、このプロジェクトの特徴なのだそうです。今の時点では、2015年に東京でオペラ仕立ての「レクイエム」を上演する計画までが明らかになっています。そのような活動が、明るい未来を作っていくことにつながれば、これほど素晴らしいことはありません。
さらに、このプロジェクトは、日本国内を飛び出して外国にも活動の場を広げています。今年の4月1日には、チェコのプラハで東日本大震災追悼のための「チャリティ・コンサート」が開かれ、その最後に「レクイエム」が演奏されました。会場はあの「ドヴォルジャーク・ホール」、5人のソリストは日本から参加、オーケストラはプラハ・フィル、合唱はキューン合唱団です。前プロのバッハの「アリア」や、モーツァルトの「交響曲第40番」は、チェコのピルゼン放送交響楽団の音楽監督、川本貢司さんが指揮をして、メインの「レクイエム」は上田さんが指揮をする、という構成でした。
この演奏会の写真が、キューン合唱団のサイトに掲載されていますが、合唱団の最前列には日本人とおぼしきメンバーの顔があります。日本でこの曲を歌ってきた合唱団の人までも、この演奏会に参加するためにプラハまで行っていたのですね。
そして、この演奏会の前日と前々日に、プラハのスタジオで行われたのが、このCDのためのレコーディングでした。コンサートのライブではなく、しっかりセッションで録音したというのは、単なるイベントの記録ではなく、作品としてより完成度の高いものを残したかったからなのでしょうか。
この「レクイエム」は、一見普通のテキストで作られているように感じられますが、実はラテン語の歌詞の中になんだか初めて見るような言葉があります。それもそのはず、全部で10曲から成る作品の中の4曲は、上田さん自身が作った日本語の歌詞をラテン語に翻訳したものだったのです。例えば「夢をあきらめないでほしい」といったような、それこそ和合さんのようなクサいテキストも、「Ut speciem non relinquere」とラテン語で歌われると、なんだか本物の「レクイエム」みたいに聴こえるから不思議です。ただ、その音楽は、suspended 4の経過和音を多用した、まさにどんなテレビドラマの中でも垂れ流されている甘ったるいものであるのは、作曲家の資質の問題ですから、致し方のないことなのでしょう。でもご安心ください。自分で作れないものはどこかよそから借りてきて、「レクイエム」らしさを強調する配慮に、怠りはありません。そのために「Lacrimosa」で動員されたモーツァルトや伝カッチーニにとってはいい迷惑でしょうが。
いえいえ、しっかり、「聴くためのレクイエムではない」と開き直っているのですから、その志はくんであげないと。

CD Artwork © Requiem Project

7月14日

TCHAIKOVSKY
Symphonie Nr.4
Jewgenij Mrawinskij/
Leningrader Philharmonic
DG/UCGG-9047(single layer SACD)


ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが1960年にDGに録音したチャイコフスキーの後期の3つの交響曲は、こちらでご紹介したように、すでにESOTERICによってハイブリッドのSACDが発売になっていました。ですから、最近になって「本家」のDG(日本のユニバーサル)からシングル・レイヤーのSACDが出たと聞いても、全く購入する気はありませんでした。なんせ、こちらで検証したように、ベームの指揮によるブラームスの交響曲第1番の場合はESOTERICSACDの方がはるかに良い音でしたからね。チャイコフスキーでもESOTERICをすでに持っているのなら、別にDGを聴く意味は感じられませんでしたから。そもそも、ESOTERICでは3曲が2枚のSACDに収まっていて6,000円で買えたものが、こちらは1曲ずつそれぞれ4,500円、全部買えば13,500円と、倍以上になってしまいますし。
ただ、DGの場合、DSDへのマスタリングに何かムラがあるような気はしていました。そもそもエンジニアの名前は明記されてなくて、アイテムによって、完成度が微妙に異なっているのですよね。DECCAの場合なども、最近のものは外部でマスタリングが行われているせいか、明らかにいい音になっています。それと、こちらで書いたように、最近のEMIによるSACDでも、同じアイテムがESOTERICよりもはるかに素晴らしかったことなどを体験してしまうと、「もしかしたら」という気持ちにもなってしまいました。たまたま、ちょっとした臨時収入があったので、ダメモトでこのDGの「4番」も聴いてみようかな、という気になったというわけです。オクダさんですね(それは「メルトモ」)。
結論から言うと、それは決して無駄な投資ではありませんでした。このDGSACDは、ESOTERICをしのぐほどの生々しさを持っていたのです。
それは、第1楽章の冒頭ではっきりわかります。ホルンによるファンファーレが終わって、同じフレーズに今度はトランペットが加わった時に、そのトランペットの音がまるで違うのですよ。ESOTERICではなんとも薄っぺらな音なのに、DGではしっとりと落ち着いた深い響きが聴こえます。このフレーズはこの後何度も繰り返し出てきますが、そのたびに、これが本来の音だったのだな、と納得させられてしまいます。そんな序奏を締めくくるクラリネットとファゴットのユニゾンも、はっきり浮き出して聴こえてきますし。
そして、続く提示部での、ファースト・ヴァイオリンとチェロのユニゾンで奏される第1テーマの超ピアニシモが、DGではそのかすかな音の中にビブラートの変化による表情がはっきり聴き取れますが、ESOTERICではなんとも平板にしか聴こえません。この、ほんとにかすかな音による弦楽器はこの楽章でたびたび登場しますが(たとえば、06m24s付近)、いずれもささやくような音の中にしっかりした表現が感じられます。第2楽章の最後で、木管楽器のアコードの間にかすかに現れるヴィオラとヴァイオリンのテーマも、そんな微妙な肌触りがはっきりと表れています。
さっきのEMIの時も書いていましたが、これほどの違いが出てきているのは、エンジニアの腕だけではなく、マスタリングで用いられたマスターそのものが違うような気がしてなりません。ESOTERICの案内では、「オリジナル・マスターからリマスタリング」という言い方をしていて、決して「マスター・テープ」という言葉を使っていないのですよね。DGEMIの場合は、間違いなく「マスター・テープ」を使えるのでしょうが、かつてこちらで明らかになったように、ESOTERICの場合はマスターの選択は先方任せ、みたいなところがありそうですからね。

しかし、なにをもって「オリジナル」とするか、というのは難しい問題です。この曲の「オリジナル」のLPには、2種類のジャケットが存在しているようですし、ライナーだって同じ品番なのにESOTERICのコピー(大きい方)とDGのコピーでは、いろんなところ(赤線)が違っています。なにしろ、「DG」のロゴそのものが、「3行」と「2行」でまず違っているのですから。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

7月12日

GERSHWIN
Works for Piano & Orchestra
Freddy Kempf(Pf)
Andrew Litton/
Bergen Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-1940(hybrid SACD)


毎回刺激的なアルバムを提供してくれるリットンとベルゲン・フィル、今回はピアノにフレディ・ケンプを迎えてガーシュウィンのピアノとオーケストラのための作品4曲をすべて録音しています。その4曲とは、有名な「ラプソディ・イン・ブルー」(1924)、ピアノ協奏曲 in F1925)、「セカンド・ラプソディ」(1931)、そして「『アイ・ガット・リズム』による変奏曲」(1934)です。「本業」のミュージカルは50曲以上、歌は500曲以上も作っているガーシュウィンですが、「クラシック」のこの編成の作品はこれしかありません。最初と最後の曲は、こちらでも聴けましたね。
「ラプソディ・イン・ブルー」は、そのHM盤と同じ、グローフェが最初に作ったバージョンで演奏されています。つまり、ポール・ホワイトマンのバンドの編成が前提ですから、弦楽器はヴァイオリンだけ、木管楽器などは3人の「マルチリード」が、クラリネットからサックス、ファゴットまで持ち替えて演奏するように書かれています。ベルゲン・フィルでは、おそらく専門の奏者が演奏したのでしょうね。ただ、クラリネットのソロを担当した人だけはきちんと名前がクレジットされています。ハーコン・ニルセンというその人は、ここではクラシック奏者にはあるまじき「崩れた」演奏を聴かせてくれていますから、うれしくなってしまいます。もしやエキストラ、と思ってしまうほどの弾けよう、でもメンバー表にはしっかり副首席奏者として名前が載っています。人材豊富な、ベルゲン・フィルでした。
ピアノ協奏曲も、作曲家が本気になって「クラシック」を目指していたことなどはお構いなしに、ひたすらノリの良い「バンド」の感覚で迫ります。こういうアプローチで聴くと、やはりガーシュウィンは一生「クラシック」を書くことはなかった作曲家であることがよくわかります。どんなフレーズもひたすらキャッチー、まずは聴く人をハッピーにさせようという骨の髄までしみこんだエンタテインメントがむき出しになっています。中でも、終楽章はまさにノリノリ、圧倒的なドライヴ感で迫ります。こんな「協奏曲」を聴かされたら、堅苦しい「クラシック」のコンサートでもお構いなしに、立ち上がって踊りだしたくなってしまうかもしれません。
「セカンド・ラプソディ」というのは、あまり聴く機会のない作品かもしれません。タイトルは、いかにも7年前の大ヒットをもう一度、みたいなさもしい根性が感じられてしまいますが、作品そのものは都会の喧騒を描いた映画のサントラ用に作られたものです。ガーシュウィンは、「マンハッタン・ラプソディ」とか「ラプソディ・イン・リベット」というタイトルを考えていたそうですね。「リベット」というのはダライ・ラマではなく(それは「チベット」)、高層ビルの工事で使われる「鋲」のことです。最初のモチーフが「鋲打ち」のように聴こえるのだとか。いかにもこの時代の映画然とした、ユルいサウンドがノスタルジーを誘いますが、逆にそれ以上のインパクトを与えられないあたりが、いまいちマイナーに終わっている原因なのでしょうか。
「アイ・ガット・リズム」は、もちろんテーマがミュージカル・ナンバーですが、それを変奏させるときのガーシュウィンの手法が、しっかり「クラシカル」を目指していることが、なぜかこの演奏では伝わってきます。それは、HM盤を聴いたときには感じられなかったことなのですが、その違いはなんといってもケンプの強靭なタッチから生まれる意志の強さでしょう。
それと同時に、ソリストやオーケストラのメンバーひとりひとりの「熱気」が、完璧に伝わってくる、いつものようなものすごい録音からもそんな印象が与えられたのかもしれません。BISSACDには、まず裏切られることがないことを、さらに確認です。

SACD Artwork © BIS Records AB

7月10日

Nordic Sounds 2
Peter Dijkstra/
Swedish Radio Choir
CHANNEL/CCS SA 32812(hybrid SACD)


ダイクストラとスウェーデン放送合唱団の「ノルディック・サウンズ」シリーズ、この前の「1」はスウェーデンの現代作曲家スヴェン・ダヴィッド・サンドストレムの作品集でしたが、今回の第2弾はもう少し人的、地理的、そして時間的な範囲を広げて、スウェーデン周辺の作曲家の作品集、その中にはもはや「現代」とは言えない、殆どロマン派の末裔なども含まれるというバラエティに富んだラインナップです。
スウェーデンの作曲家の中には、「サンドストレム」さんも入っていますが、こちらは「ヤン・サンドストレム」という、全くの別人です。おそらく、同じ名前の人は作曲家だけでも28人ぐらいいるのでしょう(別人28号)。この方は、さっきのサンドストレムと同じ干支、ちょうど12歳年下です。こちらは、ラップランドの出身だそうで、ここではその地方特有のパフォーマンスである「ヨイク」をモティーフにした作品が歌われています。
このアルバムのメインは、そんな「フォークソング」、つまり「伝承歌」に由来した作品のように感じられます。そんな、同じスウェーデン人、あるいは北欧圏の人たちが作った曲を、このスウェーデンの合唱団は、かなりの共感を持って歌っていることがはっきり分かります。
この中で最も若い作曲家が、フィンランドのマンテュヤルヴィ(1963年生まれ)ですが、彼の割と最近の作品が、2001年に作られた4曲から成る大曲「Kosijat」です。こちらも、フィンランドの伝承文学「カレワラ」がテキストになっていて、この作曲者特有の反復のエネルギーが、圧倒的に迫ってきます。かと思うと、その100年近く前に生まれた、スウェーデンの国民的作曲家アルヴェーンの作品などは、なんとも郷愁を誘われるような素朴さがたまりません。
ただ、演奏自体はまさにかゆい所に手が届くような精緻なものなのですが、録音が、SACDにした意味がないほどの、もっさりとしたものになっているのが、気になります。「1」ではそんなことは感じなかったのに。録音会場が違うせいなのでしょうか。おかげで、せっかくの合唱がなんとも精彩を欠く響きに聴こえてしまいます。
そんな音を聴き続けるのがちょっと苦痛になりかけた頃、最後の最後でとんでもないサプライズが待っていました。それは、ヒルボリという1954年生まれのスウェーデンの作曲家が1983年に作った「Muoayiyaoum」という、なんと発音するかも分からないようなタイトルの作品(日本の代理店は、がんばって「モウヲオアエエユイユエアオウム」と表記していますが、なんだか母音が多すぎるような…)です。そもそも歌詞などはなく、すべてヴォカリーズで歌われるのですが、最初のうちは、緻密なハーモニーが微妙に変わっていくというまるでリゲティの「ルクス・エテルナ」のような音楽だったものが、そこに交代で半拍ずれたアタックを付けて細かいパルスを聴かせるという場面になってくると、なんだかミニマル・ミュージックのような様相を呈してきましたよ。しばらくそれが続き、次第に高揚してくると、その正体が分かってきます。それは、まさにミニマル・ミュージックそのもの、あのスティーヴ・ライヒの名作「Music for 18 Musicians」の完璧なパクリではありませんか。この作品が初演されたのは1976年、ECMに最初に録音されたのが1978年ですから、おそらくそれを聴いて「参考にした」のでしょうが、いくらなんでもこんなミエミエのパクリは、作曲家として恥かしいのではないでしょうかね。
なにしろ、延々と同じパターンを繰り返さなければなりませんから、合唱団への負担は相当なものがあるのでしょう、最後の方になってくると明らかにスタミナがなくなって、ただでさえ難しそうな高音が、かなり苦しげな音程になってしまいます。それでも、ソプラノのメンバーは必死になって頑張っていますが、これはそんな苦行に見合うほどの作品では、決してありません。

SACD Artwork © Channl Classics Records bv

7月8日

音楽のためのドイツ語事典
市川克明著
オンキョウパブリッシュ刊
ISBN978-4-87225-342-9

クラシック音楽を聴いたり演奏したりするときには、ドイツ語は欠かせません。なんといっても、今普通に聴かれている「クラシック」の大半はドイツ、あるいはオーストリアに関係した人たちが作ったものなのですからね。「いや、そうではない、クラシック音楽の本当の中心はイタリアなのだ」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、残念ながら現在のクラシック界におけるドイツの優位性は確固たるものです。
「だって、楽譜に書かれている言葉はみんなイタリア語じゃないですか」というのが、イタリア擁護の人たちのよりどころです。確かに、どの楽譜を見ても「Allegro」や「Lent」といったイタリア語はいくらでも見つかりますが、「Schnell」とか「Langsam」なんてドイツ語は、あまり見かけませんね。やっぱり、「本場」はイタリアだったんですね。
でも、ご安心ください。そんな音楽用語をイタリア語からドイツ語に変えて、果敢に「ドイツこそ音楽の中心だ」と主張した作曲家がいないわけではありません。そんなことをしたのはどいつだ、というと、おそらくシューマンあたりが最初だったのではないでしょうか。そして、ワーグナーやブルックナーはほとんどドイツ語で表記を行っています(なぜか、同じ時代のブラームスは、かたくなにイタリア語にこだわっていましたが)。もちろん、もう少し後の時代のマーラーでは、スコアの中はドイツ語で埋められています。
マーラーやブルックナーの場合は、単に曲の頭にテンポや曲想を表記するだけではなく、楽譜には様々な場面で細かく演奏上の指示が書き込まれています。例えば、「hervortretend」という単語などは、どちらの作曲家の楽譜にも頻繁に現れます。ですから、マーラーやブルックナーを演奏する人は、まずこの意味を独和辞典で調べなければなりません。そこには「突出して」というような日本語があるはずですが、それが音楽の表現としてはどのようなことを指し示すかは、ある程度の音楽的な素養がないことには、正しくは理解できないはずです。
そんな時に、間違いなく役立ちそうな本が出版されました。著者の市川さんという方は初めて知ったのですが、特にドイツ語の専門家というわけではなく、本職はおそらくホルン奏者、ドイツに留学した時に自らの経験で身に着けたという、まさに「すぐに役立つ」ドイツ語を解説してくれています。タイトルが「辞典」ではなく「事典」となっている点にも注目してください。ここでは単に単語の意味を説くだけではなく、音楽理論から始まって、個々の楽器に特有の言い方まで、間違いなく音楽家でなければ決してわからないような視点から、音楽全般にわたって事細かに語ってくれています。
特に感動的だったのは、「Orchester」という、非常に頻繁に使っている単語の発音についての記述です。この本ではすべての単語に「カタカナとひらがなで」発音が示されているのですが、この言葉は「オァケスタァ」となっていました(小文字の「ァ」は巻き舌でしょう)。今まで、この表記に従えば「オァヒェスタァ」だとばかり思っていたのに、これはショックでした。まさに「目から鱗」です。これは、ミュンヘン(München)を「ミュンケン」と呼ぶようなことになるのですが、必ずしも法則通りに発音するとは限らない言葉もあったのですね。
ただ、カラー写真満載でなかなか見ごたえのあるこの本なのですが、アートワークやレイアウトがなんともシロートっぽいのが気になります。写真がどういう意味を持ってそこに掲載されているのかよくわからない箇所は数知れず、エクセルをそのまま貼り付けたような太い罫線の表は見ていて苛立ってきます。要は「本」として美しくないのですね。それに気づいてしまうと、内容自体も著者の思い込みの押しつけのようなところがだんだん鼻についてきます。中でも、さっきの「hervortretend」が載ってないのは、致命的です。

Book Artwork © Onkyo Publish Co., Ltd.

7月6日

BARTÓK
Concerto for Orchestra
Music for Strings, Percussion and Celesta
Marin Alsop/
Baltimore Symphony Orchestra
NAXOS/8.572486


2007年にマリン・オールソップがボルティモア交響楽団の音楽監督に就任した時には、「アメリカのメジャー・オーケストラでは初の女性音楽監督」と騒がれたそうですね。指揮者に関してはまだまだ「差別」があるのがこの世界なのでしょうか。ボルティモアでは、最初は団員からそっぷを向かれていたそうですし。しかし、すでにシモーネ・ヤングはベルリン・フィルやウィーン・フィルとの共演を果たしていますから、いずれそんなことはなくなるのでしょう。
このCDは、音楽監督就任の翌々年、2009年に録音された「オケコン」と、2010年に録音された「弦チェレ」という、バルトークのオーケストラの作品では人気度ランキング1位と2位の「名曲」がカップリングされています。いつものように、ライブ録音ではなく、丁寧に時間をかけたセッション録音ですから、仕上がりは上々、とても聴きごたえのあるアルバムです。
ここでは、まず、このオーケストラの磨き上げられた極上のサウンドを、極上の録音で楽しむことができます。確か、だいぶ前にはこのレーベルからオールソップのアイテムがSACDとしてリリースされていたはずですし、今でも、ハイレゾ音源のサイトでは、24bit/96kHzのスペックのデータがダウンロードできるようになっています。それだけ自信のある録音が、このアルバムでもふんだんに味わうことができます。
「オケコン」で驚かされるのは、金管楽器の響きの素晴らしさです。もちろん、まずオーケストラ自体の技量が飛びぬけています。この曲では金管の聴かせどころは随所にありますが、そこで決して力むことなく、なんとも自然体の落ち着いた演奏を聴かせてくれているのですね。そして、それをエンジニアは理想的なバランスと音色で録音してくれました。
「弦チェレ」では、管楽器がなくなって人数が少ない分、さらに精緻で生々しい音を聴くことができます。弦楽器の質感の再現はまさに驚異的。そこに、ピアノやチェレスタの、普通はなかなか聴こえてこない「隠し味」が、絶妙に顔を出して、アクセントを与えています。さらに、例えば第3楽章の冒頭で聴こえる打楽器(木片?)のリアリティと言ったら。
そうなってくると、CDでこれだけのものを味わえるのなら、元の録音はどれだけすごいのか、ということが気になってしまいます。おそらくそれは、アナログ録音をもしのぐほどの素晴らしいものに違いありません。SACDなら、間違いなくそれを体験できるはずなのに、なぜ、このレーベルはそれをやめてしまったのでしょう。
それどころか、いまここが熱心に推し進めているのは、そのような「フィジカル」な媒体ではなく、インターネットのストリーミングによる配信です。Naxos Music Libraryというそのサイトには、ごく最近、EratoTeldecといったWarner系のレーベルがレパートリーに加わったそうで、音源のラインナップは格段に充実したかに見えますが、その「音」はひどいものです。このアルバムもすでにライブラリーに入っているので聴き比べてみましたが、弦楽器は人数が半分に減ってしまったかのような薄っぺらな音になっていますし、決定的なのがさっきの「木片」の音です。CDでは音の輪郭がくっきりと浮き上がっていたものが、NMLでは芯がなくなってバラバラに崩壊しています。そもそも128kbpsAACというスペックですから、それは当たり前の話なのですがね。
ところで、このCDには思いがけない落とし穴がありました。「弦チェレ」の第3楽章(トラック8)のタイムコード5m06sあたりで音をつないだことがはっきり分かるのですね。まあ、それは単なる編集のテクニックの問題ですが、そんな風に実際に「つないだ」ところを体験してしまうと、この演奏全体がつぎはぎの産物のように思えて、ちょっとつまらなさを感じてしまうのですよ。高揚感のようなものも、なんだかあらかじめセットしてあって嘘くさく聴こえる、とか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

7月4日

MOZART
GRAN PARTITA
Vincent Genvrin, Yoann Tardivel Erchoff(Org)
HORTUS/HORTUS 071


モーツァルトの13の管楽器のためのセレナーデ(いわゆる「グラン・パルティータ」)を、オルガンで演奏しようという人が現れました。確かに、オルガンはパイプに空気を送って音を出すという、まぎれもない「管楽器」なのですから、そんなにヘンなことではないのかもしれません。というか、一瞬タイトルが「ORGAN PARTITA」に見えてしまったのは、なぜ?
1曲目の序奏あたりは、最も違和感なく管楽合奏がオルガンに置き換わった部分でしょうか。最初の堂々たる付点音符のアコードなどは、それこそバッハのような荘厳さで響き渡ります。もしかしたら、そのリズムがほんの少し「フランス風」に後の音符が短く演奏されていたために、そのように感じられたのかもしれません。その合間に繰り広げられるクラリネットのソロの部分は、やはりオルガンでもソリスティックに聴こえてきます(それ、素敵)。
しかし、主部のアレグロ・モルトに入ってからも、そんな重厚さを引っ張ってしまったあたりから、この演奏の悲劇が始まります。ファゴットの八分音符の刻みに乗って運ばれるこのテーマは、まさにモーツァルトならではの軽やかさをもったものなのですが、その重たいことと言ったら。まずは、リズムの八分音符。ペダルのストップなのでしょうが、立ち上がりが鈍いために拍の頭が決まらず、リズムになっていません。ですから、まるでお祭りのような華やかさを持つテーマは、なんとも居心地の悪い思いを強いられてしまっています。おそらく、編曲も担当したこのオルガニストは、オリジナルの声部をすべてオルガンに置き換えようとしたのでしょうが、管楽器の特性も知らずにやみくもにそんなことをやったとしても、決してモーツァルトの優雅さが再現されることはないのです。
3曲目のアダージョは、例のピーター・シェーファーの「アマデウス」で、サリエリがモーツァルトの才能を痛いほど思い知る、という設定の場面で流れていた曲でしたね。ちょっと聴いただけでは、シンプルに感じられる曲なのに、実際は多くの声部が入り組んだかなり複雑な作られ方をしています。ですから、ここではとても独りで演奏することは出来ないと、オルガニストをさらにもう1人使っています。つまり、低音のオスティナートやそれを彩るコードを一人が演奏して、そこに入ってくるソロのパートをもう一人が演奏するというわけですね。これも、やはりすべてのパートをきちんと演奏してやろうじゃないか、というオルガニストの姿勢が反映されたものなのでしょうが、その結果この伴奏部分は無制限に肥大してしまうことになりました。さらに、その上に、「アマデウス」では確か「天空からの音楽」と形容されたソロ・オーボエが、オルガンに置き換わってしまうとなんとも間抜けなものになってしまいます。基本的にオルガンではビブラートはかけられませんから(機械的に音を震わす機能はありますが、それは感情表現のビブラートとは似て非なるものです)、オリジナルでのオーボエのように表情豊かに歌うことなどできません。それは、いとも人為的な、まさに「天空」とはかけ離れた音楽だったのです。
この曲には、2つのメヌエット楽章があります。どちらも2つのトリオを持つ変化にとんだものですが、中でも4曲目の方はテーマもかわいらしく、愛すべき音楽です。それは、登場する楽器が次々と変わって音色の変化を楽しませてくれるという魅力も持っています。そこで、オルガニストはこの曲のフレーズごとにストップの組み合わせを変えるということで、その変化を出そうとしています。ところが、図体の大きい楽器の悲しさでしょうか、そのストップの切り替えごとに一息ずつの間が空いてしまうのですね。これも相当間抜け、かくして、この編曲からは、モーツァルトが持っていた軽やかさ、優雅さ、そして自然な流れが、すべて失われてしまいました。

CD Artwork © Hortus

おとといのおやぢに会える、か。


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