死んでみっと。.... 佐久間學

(11/7/28-11/8/15)

Blog Version


8月15日

音楽用語ものしり事典
久保田慶一著
アルテスパブリッシング刊

ISBN978-4-903951-35-5

最初、この本を手に取った時にはなんの違和感もなかったのですが、表紙をスキャンしようと思ってカバーを広げてみたら、なんと、この表紙の下の部分、全体の3分の2がいわゆる「コシマキ」だったのには驚いてしまいました。そもそも「コシマキ」などというものは、読んだあとではジャマなので捨てられてしまうような存在なのですが、こうなるともう限りなく表紙と一体化した「アンサンブル」を形成しています。
さまざまな音楽用語の語源をたどって本来の意味を明らかにするというこの本、「コシマキ」は載っていませんが、「アンサンブル」はきちんと説明されています。ま、「コシマキ」は音楽用語ではなく、農業用語ですがね(それは「コシヒカリ」)。
以前、イタリア語に関しては、こんな卓越した見識の本がありました。何気なく使っている音楽用語が、本当は全く別の意味を持っていたことに、驚かされたものでした。今回は、イタリア語には限らない、もっと幅広い言語が対象になっています。しかも、著者はその辺のやくざなライターとは格の違う、音楽大学の教授、きっと、新たな知識の吸収に役立つことでしょう。
でも、いきなり前書きで、「『コンピレーション』と『オムニバス』とは、似て非なるもの」というフレーズが出てきたのにはちょっとがっかりです。どうやら著者は、「音楽学」や「言語」には詳しくても、「音楽業界用語」には、ごく一般的な知識しかないようですね。というより、この業界の言葉には、いくら「学問」を極めても理解の出来ないようなものがいくらでもあるのですよ。
しかし、「BWVには現在1127番までの番号が付けられている」などと書いていたりするのを見ると、現実に1128番」の録音を手中にしている者としては著者が本当に「音楽学」に詳しいのかなぁ、と懐疑的にならざるを得ません。さらに、そこは「BWV」という言葉に対する説明を行っている箇所だったのですが、その流れで「ケッヘル」についての蘊蓄をたれているところになると、「ドイツ人、ケッヘル」などと書いていますよ。これも、最近この本で、そもそもケッヘルがモーツァルトの作品目録と作ることになる動機が、オーストリア人としての愛国心だと知ったばかりの者にとっては、許し難い記述です。
そんな、「使えない」本だと思って読んでいると、「ソプラノ、アルト、テノール、バス」という項目で、いきなり「目から鱗」になってしまいました。常々、「アルト」というのは「高い」という意味なのに、なぜ女声の低音を指し示す言葉なのか、疑問に思っていたのですが、その疑問がイッキに氷解してしまったのです。つまり、「アルト」と「バス」というのは、元々は「テノール」を基準にして作られた言葉だ、というのですね。「アルト」は、「コントラ・テノール・アルトゥス」、「バス」は「コントラ・テノール・バッスス」という、それぞれ「テノールに対して高い/低い」という意味のラテン語が縮まったものなのだそうです。
そうなると、「アルト」のことをよく「コントラルト」と言ったりしますが、これもさっきの言葉の別の部分を省略した形になるわけですね。しかし、なぜかこの本では「コントラルト」に関しては全く触れていません。こんなにおいしい「ものしり」を逃すなんて、やっぱり使えません。
イラストも最悪、冒頭で使った「アンサンブル」のところでは、「アトミック・アンサンブル」(化学には詳しいつもりですが、こんな言葉は初めて聞きました)というタイトルのイラストがあるのですが、そこでは、ナトリウム原子とカリウム原子と塩素原子が、三角形に「結合」しているのですよ。こんなことは「化学的」にあり得ません。

Book Artwork © Artes Publishing Inc.

8月13日

LENDVAY
Requiem
László Jekl(Bas), Ingrid Kertesi(Sop)
László Tihanyi, László Kovács/
MR Symphony Orchestra & Choir
HUNGAROTON/HCD 32574


このレーベルのSACDはどうなってしまったのでしょう。今回のCDは、カミルロー・レンドヴァイという、1928年生まれのハンガリーの現役作曲家の2曲の宗教曲を集めたアルバムです。ハンガリー人ですから、正確にはレンドヴァイ・カミルローでしょうか。そんなことを言ったら、このクレジットで「ラースロー」という全く同じ「ファースト・ネーム」をもつバス歌手と2人の指揮者も、それぞれ「イェクル・ラースロー」、「ティハニー・ラースロー」、「コヴァーチュ・ラースロー」と表記しなければいけません。
オーケストラもちょっと耳慣れない名前ですが、「MR」というのは医療ドラマのタイトル(それは「ER」)や、そこに登場する核磁気共鳴診察機器(それは「MRI」)とは全く関係のない、「マジャール・ラジオ」の略号です。かつて「ハンガリー放送交響楽団」と呼ばれていた団体が、最近はこのように表記されているのでしょう。
レンドヴァイという方は、あのリゲティと同じ世代の作曲家ということになります。しかし、彼の場合はハンガリーから離れることはなく、オペラハウスの指揮者や、リスト音楽院の教授として、自国の音楽界のために尽力してきました。今までにオペラや管弦楽曲、協奏曲、室内楽など、多くの作品を残していますが、ここに収録されているのは、今世紀に入ってから作られたもの、いまだに作曲家としてのポテンシャルは衰えてはいないようです。
まずは、ヨハネ黙示録から引用されたドイツ語のテキストによる「Die himmlische Stadt 天国の街」という、2004年に作られたバリトンソロと混声合唱、オーケストラのための作品です。オープニングからチェロの独奏が重々しく聞こえてきますが、このソロは最後まで各所で重要な役割を果たしています。聖ヨハネの語りをバス歌手が歌い、そこに合唱がからむという趣向です。曲の前半は、まるでモーリス・ラヴェルのような手の込んだ華やかなオーケストレーションを聴くことが出来ます。この作曲家の目指したところは、まずはこのあたりの職人的な技法だったのでしょうか。「ダフニス」で出てくる、高音から低音までのパッセージをピッコロ→フルート→アルト・フルートの3人がまるで1人のソロのように繋げるのと同じアイディアを、ここではEsクラ→クラリネット→バスクラに応用したりしていますね。
後半は、いきなり野性的なリズムが現れて、それこそカール・オルフのような雰囲気を醸し出しています。さらに、最後の最後で合唱が決められた音程ではない自由なグリッサンドを披露するという「現代的」な技法も唐突に現れます。さすがにこれは、恥ずかしがって歌っているのがミエミエ。
後半、2003年に作られた「レクイエム」は、「Dies irae」までの最初の3つの楽章で完結してしまっている割には、演奏には45分以上もかかるという大曲です。そもそも宗教的な礼拝に使うことは全く考えていなかったそうで、「作品」としての完成度にこだわったものなのでしょう。1曲目の「Requiem」は、さっきの曲と同じように独奏チェロから始まるという構成です。なにか不安をそそるような曲調は、まるでリゲティが1965年に作った同名曲に、なにか非常に近い精神すら感じられるものでした。この曲にはソプラノのソロが入りますが、彼女の声は、あたかもサラ・ブライトマンのような清楚さをたたえていて、曲との不思議なミスマッチを生んでいます。
2曲目の「Kyrie」は、合唱の各声部がフーガ風にからむ、いわばポリフォニックな曲想、こういうところでは、合唱のボロがもろに出てしまいます。ここにも、シュプレッヒ・ゲザンクが登場するのには、なにか和みます。
最後の「Dies irae」は、この長大なテキストにいともダイナミックな音楽をつけた壮大な楽章です。最後の「Lacrimosa」の直前に、1曲目の冒頭のような静謐な弦合奏が聴かれるのは、殆どお約束でしょう。合唱にもっと力があれば、このあたりで感涙にむせぶ人がいたかもしれません。

CD Artwork © Hungaroton Records Ltd.

8月11日

Ray of Hope
山下達郎
MOON/WPCL-10964

山下達郎がDJを務めるラジオ番組「サンデー・ソングブック」は、もう何十年も続けて放送されている長寿番組です。今でこそ民放FM局からのオンエアですが、そもそもはNHK-FMで放送されていたものを、そのまんま民放にスライドさせたという驚くべき経歴を持っているのは、始まった時からすでに確固としたポリシーが明確に打ち出されていたことの証しなのでしょう。
そんなNHK時代からのファンですから、この番組を毎週「エアチェック」して聴くのはもはや習慣と化しています。しかし、あの3月11日の大震災の直後、3月13日のオンエアのときは、それどころではありませんでした。なにしろラジオというラジオは、通常番組は全てキャンセルして、一日中避難生活を送るために必要な情報を流し続けていたのですからね。それは日本全国同じことだったようで、結局この日に放送される分は完全にお蔵入りになってしまったようでした。
「被災地」では、そんな状態はその後もまだまだ続くことになるのですが、キー局のある東京あたりでは、次の週からは何事もなかったかのように通常の番組が復活したようでした。もちろん、それは単に番組枠が復活したというだけで、番組自体はMCにしても音楽にしても、それなりの配慮がなされたものだったのでしょう。
この地で達郎の番組が聴けるようになったのは、さらにその次の週のことでした。しかし、オープニングはいつもとは違っていて、まず達郎の「先週放送したものを、もう一度放送します」というコメントで始まったのです。「DATE FM(仙台のFM局)を聴いている人たちに最も聴いてもらいたかったから」ということだったのですね。確かに、その放送は、自身の身内も仙台出身者である達郎の、被災地へ向けての真摯な気持ちの込められた素晴らしいものでした。
6年ぶりとなる達郎のオリジナル・アルバムは、この頃にはすでにかなりの部分での制作が完了していたはずです。しかし、この震災を受けて、タイトルも含めて大幅な手直しが行われたそうです。まずオープニング、ア・カペラでタイトルの「Ray of Hope」というフレーズが繰り返された後、今回新たに作られた「Never Grow Old」が歌われます。アグレッシブなビートに乗ったその曲は、なにか達郎の思いをストレートに伝えるような迫力を持っていました。最後近くで「形のあるものは/いつかは失われる/だけど僕らは/We will never grow old」という歌詞が聴こえてきた時には、不覚にも涙があふれてきました。ちょっと無防備だった心に波を立てるのに、この音楽と歌詞は充分なものだったのでしょう。
いま、世の中には「復興ソング」なるものがあふれています。それらは、いかにも被災者を鼓舞してやまない直接的なメッセージをふんだんに盛り込んだものです。中には、「上を向いて」という歌詞だけを頼りに、半世紀も前に作られた本来は軟弱な失恋の歌を、無理やり「応援ソング」にでっち上げたものまでありますしね。それらを歌う人たちは、なんと力強い使命感に満ちていることでしょう。
しかし、達郎が作ったこの曲は、そんなミエミエの歌詞などないにもかかわらず、本物の「勇気」を与えてくれるものでした。これはもしかしたら、「音楽」の持つある種の「力」を、見事に作品として昇華させたものなのではないでしょうか。
テレビのワイドショーのために作られた「My Morning Prayer」なども、震災を契機に全く別のものに姿を変えた作品だそうです。達郎お得意のスペクター・サウンドに包まれたキャッチーな響きからも、彼のメッセージは痛いほど伝わってきます。
これらは、パッケージとしての「アルバム」という形で聴くときに、より、作者の思いが受け取れるはずです。細切れの「配信」に慣れてしまった聴き手に、このインパクトが重く伝わることを願いたいものです。これはまさに「背信」とは無縁の、真に信じるに足るものなのですから。

CD Artwork © Warner Music Japan Inc.

8月9日

ABBA The Movie
Lasse Hallström(Dir)
ABBA
UNIVERSAL/B0012058-59(BD)


今世紀になって開発されたDVDの次の世代の録画・再生ディスクは、放送の世界ではすでに一般化していたいわゆる「ハイビジョン」をそのまま録画出来るというフォーマットでした。しかし、なぜかCDDVDのように規格が一本化されることはなく、「HD DVD」と「BD(ブルーレイ・ディスク」という全く互換性のない2種類の方式が、メーカーと映画会社との思惑によって無意味な競争を繰り広げることになってしまいました。そんな企業の身勝手さに踊らされるのは、いつだって消費者です。何十万円もしたHD DVDプレイヤー/レコーダーは、今ではなんの役にも立たないただの鉄くずになってしまったのですからね。その末期には、映画のDVDに、おまけでHD DVDが付いてくるというこんなパッケージも登場していましたね。もちろん、価格はDVD1枚分でした。もうその頃は、この陣営の敗北は決定的なものとなっていたのでしょう。
2007年にこんな映像がBDで出た時点で、もはやBDの優位は決定的なものになっていたのかもしれません。「ABBA the Movie」という、1977年に制作された映画を、画像は修復、音声もリマスターが施されてBD化されたものです。
なんだか、最近は世界中で「アバ」ブーム、「アバ」のヒット曲だけで作られたミュージカル「マンマ・ミーア!」が各国でロングラン上演されたり、そのまま映画化されたものが大ヒットを飛ばしたりと、確実に新しいファン層を広げています。日本でも、先日はテレビで連続して特集番組が放送されていましたね。
そんなブームに乗って、このBDも9月に国内盤がリイシューされることになりました。それまで待てないので輸入盤を調べてみたら、なんと2000円という、DVDよりも安い価格で手に入ることが分かって、さっそくゲットです。おそらく、国内盤はこれと同じものに日本語の帯だけ付けて、4800円ぐらいで販売されるはずですからね。
というのも、普通DVDの場合だと、輸入盤にはまず日本語の字幕は入っていないので、オペラなどは字幕だけのために高い国内盤を買わざるを得ない人も多いのでしょうが、BDにはすでに日本語の字幕が入っているのですね。これはこのアイテムだけのことなのでしょうかね。BDの世界では日本語字幕が「標準仕様」になっているのだと嬉しいのですが、輸入盤BDに誰よりも詳しいと自認なさっている方はぜひご教授下さい。
この映画は、リアルタイムに日本で公開された時に見ていました。正直、それまでは「アバ」なんて知らなかったものが、これを見てすっかりファンになってしまったという、懐かしい作品です。長い間、これはオーストラリアでのコンサート・ツアーの模様を収録した単なるドキュメンタリーだとばかり思っていたのですが、今回見直してみると、実はもう少し込み入った作られ方をされていたものだったのですね。つまり、「アバ」のライブはそのまま見せて、それに、コメディ仕立てのドラマがからむという仕組みなのですよ。上司に「アバ」のインタビューをノーアポでとってこいという無理難題をふっかけられたラジオ局のDJが、孤軍奮闘するというあり得ない話です。「アバ」のメンバーはノーブラでしたが。ナグラの携帯用オープンリール・テープレコーダーでインタビューを録音して、時間に間に合わせるために乗ったタクシーの中でテープをスプライシングしながら編集するというシーンが、なにかマニアックな興味を満たしてくれるものでした。
ライブのシーンになると、いきなり音圧が上がって、そこだけ別物のサウンドになります。それはまさにライブの音、コーラスやストリングスも参加して、スタジオ録音とはまるで違う「アバ・サウンド」が満喫できます。
画面も、かつてスクリーンで見たものが蘇ってきました。途中でDVDを経由したのではなく、最初からBDで見ることが出来た幸せを、かみしめているところです。

BD Artwork © A Universal Music Company

8月7日

CDでわかるクラシック入門
広上淳一監修
ナツメ社刊
ISBN978-4-8163-5030-6

同じ「クラシック入門」というタイトルが付いていても、前回のものとは比べ物にならないほどの手間がかけられ、その結果しっかり熱意が感じられるものに仕上がった「クラシック本」ではないでしょうか。というより、そもそもこの本が想定している対象は、あんな十把ひとからげな読者ではなく、ある程度クラシックをきちんと聴いてみようという人たちのはず、なんと言ってもいい加減なことは許されない世界なのですからね。
そのために制作者(こういう本の常として、実際に原稿を書いたりレイアウトを決めたりという、最も重要な仕事を担っている人たちの名前は表紙に掲げられることはなく、巻末に小さな文字で記されるだけです)たちは、様々な工夫を凝らしてコアな読者の好奇心を満足させようとしています。なんと言っても扱う対照が「音」なものですから、それを紙の上で表現するのは極めて難しいのは分かり切っています。そこで彼らは、極力テキストではなくビジュアルなツールを駆使して訴えかけようとしています。そのためには、音楽伝達の根源的な形である「楽譜」を多用することも厭いません。おそらく、今の時代、楽譜を読むことにそれほど苦労を感じない人が増えているという感触が、彼らにそうさせたポテンシャルだったのでしょう。
さらに、独特の図表を考案して、なんとか「音楽」を楽譜とは別の形で視覚化しようという努力には、頭が下がります。ラヴェルの「ボレロ」全曲を、たった1ページの升目だけで表現するなんて、すごすぎます。同じ「オペラ」でも、ワーグナーとヴェルディとではこれだけ違っているのだ、ということも、なんとも小気味よい図形で語り切っていますからね。
そのような体裁を使って、まずはベートーヴェンの「運命」の詳細なアナリーゼを行います。本当だったらかなり面倒くさいはずの和声とか楽式が、これほどすんなりと(いや、実は一部には図の意味を理解するためにちょっと苦労しなければならないところもありますが、ある程度「クセ」が呑み込めてしまえば、あとは楽になるはずです)頭に入ってしまえるのは、殆ど奇跡です。少なくとも学校で教わる「音楽の授業」よりははるかに分かりやすいことでしょう。
そして、さらに一歩進んで、同じ音楽が演奏家によって異なったものになるという、クラシックならではの醍醐味を生む秘密も、ここでは解き明かされます。かなりマニアックなことも知ることが出来ますから、これは真のクラシック・ファンたるためには欠かせない知識です。
そこで、「監修者」の広上さんの登場です。ここで注意しなければいけないのは、この本の中でとてもかわいらしいイラストで描かれている豊かな御髪をたたえた広上さんのお姿は、決して彼の現在の実像を反映したものではない、ということです。先日テレビで、3人の指揮者がそれぞれに秘密を披露するというとんでもない番組が放送されましたが、その時に拝見した広上さんは、ほぼスキンヘッドに近い状態だったのです。この本の99ページの写真あたりが、最もそれに近いお姿でしょうか。
その広上さんは、マニアックな本文とは対照的に、いとも情緒的なお話を綴られています。中でも「真摯に努力をすれば、無名音大出身でも世界的な指揮者にはなれる」という一言は、胸を打ちます。
そんな労作ですが、巻頭のカラーページでいきなり不可解なイラストが現れるのが、残念です。「運命」で使われた楽器を、初演当時と現代とを比較したものなのですが、ホルンやトランペット、ティンパニなどをピリオド楽器にしたのに、チェロだけがエンドピンのあるモダン楽器になっていますし、いくらカラヤンが「倍管」にしたからと言って、ピッコロまで2本使うことはあり得ません。コントラファゴットも、ほんとはあんなに曲がったものではなかったはず。

Book Artwork © Natsumesha Co., Ltd.

8月5日

人生が深まるクラシック音楽入門
伊東乾著
幻冬舎刊(幻冬舎新書220)

ISBN978-4-344-98221-5

「指揮者の仕事術」という衝撃的な本をお書きになった伊東さんの、最新のクラシック本です。今回は「入門」というタイトルにもある通り、これから「クラシック音楽」を聴こうとする人に対するガイド、といった性格が強調されているようです。ですから、あくまで対象は「初心者」、そのためにはまず「クラシック音楽とはなにか」という素朴な疑問に対して答える、という姿勢が見られるのは、至極順当な手順です。
そこで、まず著者が提供するのは、「初心者」には混乱を誘いかねないこんな疑問です。いわゆる「クラシック音楽」というのは1000年以上の歴史があるにもかかわらず、ほんの数百年前に作られた音楽が「古典」とか「クラシック」と呼ばれているのはなぜなのだろう。これは、さも音楽史の盲点を突いたかに見える問いかけです。そこで著者は、「ドイツ人たちが、ドイツ音楽の優位性を主張するために、そのように呼び始めた」と、一見それまでだれも指摘しなかったかに思えるような言い方で斬新な説を披露しています。でも、これは別に目新しい考えではなく、すでにほぼ「常識」とされているものであることは、たとえば石井宏さんの著書を読めば明らかです。
そんな、今では常識となっていることをことさら得意げに披露するのを読んでいると、なんだか著者の思考はそれほど深いものではないように思えてくるから、不思議なものです。ただ、ここあたりは、まだご愛嬌で済まされるものなのかもしれませんが、逆に、今では完全に間違いであるとされていることを、臆面もなく語っていたりすると、それはちょっとまずいのではないか、と心配になってきます。なにしろ相手は「初心者」なのですから、偉い「先生」が書いたことであれば、何の疑いもなく信じ込んでしまいますからね。
それは、いたるところで見受けられます。まず驚いたのが、「バッハは『平均律』的な調律を愛用した」という記述です。おそらく、著者はバッハが使ったものがいわゆる「平均律」でないことはちゃんと承知していたのでしょう。そのうえで、分かりやすいように「『平均律』的」などというあいまいな言い方を使ったのでしょうが、これでは「初心者」には大切なことは伝わりません。著者は「科学者」としても著名な方のようですが、このように物事を単純化して「わかりやすく」説明したがるのは、「科学者」の悪い癖です。
もう一つ、「バッハは、カトリック教会からの依頼によって『ロ短調ミサ』を作った」という、とんでもない「新説」まで披露してくれます。とは言っても、これが今では誰からも顧みられない主張であることは明らか、なんだかかわいそうになってきます。
同じバロックの音楽でも、イタリアとドイツとでは全く異なることを解明するために、それぞれの国の教会の建築様式から説き起こす、などというのも、なかなか面白い視点ですが、そのまとめとして、同じ「通奏低音」と呼ばれているものが「イタリア語では『バッソ・コンティニュオ』だけど、ドイツ語では『ゲネラル・バス』だから、全く別物」とあったのには、思わず爆笑です。
なぜ、こんなにも大雑把な本が出来上がってしまったのだろうという疑問は、「あとがき」を読むことによって氷解しました。これは、インタビューを他の人が起こした原稿をもとにして作られたものだ、というのです。言ってみれば「ゴーストライター」の手になるタレント本のようなものだったのですね。使い捨てですか(それは「100円ライター」)。最終的には本人による推敲の手は入っているとは言っていますが、その程度の安直なスタンスで作られたものであれば、こんな隙だらけの本が出来るのも納得です。さっきのようなことは、ちょっと文献を調べればすぐ分かるような事ばかりなのですから。
ちょっと、「初心者」をなめてはいませんか?

Book Artwork © Gentosha

8月3日

BRAHMS
Sinfonie Nr.1
Karl Böhm/
Berliner Philharmoniker
DG/UCGG-9021(single layer SACD)

ESOTERIC/ESSG-90053(hybrid SACD)

1959年に録音された、ベームとベルリン・フィルによるブラームスの交響曲第1番が極めつけの名演と言われる所以は、あの「暮らしの手帖のレコードショップ」で、「最高の演奏」という評価を得ているからです。
それによると、このベームのレコードは、演奏は間違いなく最高なのですが、国内盤のプレスが劣悪で、総合では「2位」に甘んじていました。当時、SACDで発売されていれば、間違いなく「1位」になっていたことでしょう(ありえない!)。
そんな、待望のSACDが、今回なぜか2種類同時にリリースされました。一つは、ユニバーサルから出た、2011年にエミール・ベルリナー・スタジオで制作されたDSDマスターを使用したシングル・レイヤー盤(4500円)、そしてもう一つはエソテリックから出た、杉本一家さんのマスタリングによるハイブリッド盤(3300円)です。
そこで、なぜこんな不思議なことが起こってしまったかについてはあえて触れず、この2種類の「商品」がどの程度違うのかを、客観的に比較してみましょう。
両者は、共に明らかにCDとは異なる次元の、まさにSACDならではの音である点は共通しています。例えば、第1楽章冒頭では、コントラバスの低音は豊かに響き、高音のヴァイオリンは突き抜けるような音圧を誇る間を縫って、木管楽器が彩りを添えるというスケールの大きい立体的な音場に圧倒されます。しかし、それぞれの盤を比較してみると、そこには予想をはるかに超えた違いが存在していることに、正直唖然とさせられてしまいます。
まず、コントラバスの低音は、エソテリック盤の方がはるかに芯のある、引き締まった音に聴こえます。まさに、コントラバスがパートとして一丸となってこの部分を盛り立てているのがよくわかります。ユニバーサル盤では、ただ低い音が鳴っているな、というぐらいの感じ、そこからは奏者の顔は全く見えては来ません。ヴァイオリンの高音も、全く違います。そもそもこの音源であるマスターテープの劣化もあるのでしょうか、共にかなり硬めの音になってしまっているのは同じなのですが、エソテリック盤ではそこにほんのりとみずみずしさのようなものが加わっているのに対し、ユニバーサル盤では、その硬さだけがそのまま強調されたような、ちょっと長く聴き続けるには忍耐を必要とする音になってしまっているのですね。それは、第4楽章の最後のクライマックスになるとさらに顕著になってきます。エソテリック盤であれば、フォルテシモの渦の中に心地よく埋もれていられるものが、ユニバーサル盤では、そのヴァイオリンの、殆ど拷問に近い乾ききった音のために、早く終わってほしいという辛さだけが感じられてしまうのです。
つまり、「暮しの手帖」風に言ってしまえば、ここでのお買い得はなんと言ってもエソテリック盤ということになりますね。それに対してユニバーサル盤は、値段が高いにもかかわらず、いいところはなにもありません。
マスタリングというのは非常にデリケートな作業なのでしょう。全く同じ音源であるにもかかわらず、これだけの違いが出てしまうのですからね。そもそもユニバーサル盤の「エミール・ベルリナー・スタジオ」という、エンジニア個人の名前が表に出て来ない言い方が気になります。まさかダンサーの養成所ではないでしょうが(それはバレリーナ・スタジオ)同じ所がマスタリングを行った1962年のカラヤン盤は、オーケストラ、録音会場、エンジニアが全く同じなのに、こんなひどい音ではありませんでした。
そこへ行くと、エソテリック盤ではきちんと杉本さんの名前を出していますから、安心できます。得意げに「こっちの方が音がいいのは当たり前」と威張っている杉本さんの顔が目に浮かぶようです。
エソテリック盤のライナーで諸石さんが気にしていたフルート奏者は、ニコレでもツェラーでもなく、おそらくフリッツ・デムラーです。

(10/17追記)「Incomplete List of J. Galway in Orchestra」のKさんより、フルート奏者はマティアス・リュッタースだとのご指摘がありました。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH, Esoteric Company

8月1日

BACH
Weihnachtsoratorium
Ingeborg Danz(Alt), Martin Petzold(Ten)
Christoph Genz(Ten), Panajotis Iconomou(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig
Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4034/35


バッハの「クリスマス・オラトリオ」は、バッハ作品番号ではBWV248という「一つの作品」としての扱いですが、実際には6つの作品が合体したものです。これは、クリスマスから新年にかけての6回の祝日にそれぞれ演奏されたカンタータをひとまとめにしたものなのですね。つまり、これらは、バッハのライプツィヒ時代、1734年の1225日から3日間、そして1735年の1月1日、その年の新年の最初の日曜日の1月2日、さらに顕現節である1月6日に、それぞれ演奏されたのでした。「一つの作品」を演奏するのに6晩を要するのですから、これから150年ほど経ってから作られたワーグナーの「指環」の4晩を軽く凌駕するボリュームとなっています。さすが、音楽の父(意味不明)。
ワーグナーがそれらを作曲する作業は遅々として進まず、完成までには20年以上もかかってしまいましたが、バッハの場合はそんなにはかかりませんでした。というか、メインの部分はその前の年、1733年に誕生日のお祝いのために2曲のカンタータを作った時に、すでに翌年のクリスマスにも使うことを想定しておいたのですね。もちろん、それをそのまま使うようなことはしていません。例えば、カンタータ「Tönet ihr Pauken! Erschallet, TrompetenBWV214から最初の合唱を「クリスマス・オラトリオ」第1部の最初の曲に転用する時には、ティンパニの連打に呼び出されるトラヴェルソ2本によるフレーズの頭を、十六分音符一つ分だけ遅らせています(→BWV214、→BWV248)。
これだけ周到に準備されて作られたこの作品は、したがって「他の曲からの転用が多い」という理由だけでその価値が下がることは決してありません。そもそも、ホルストの「木星」を「もののけ姫」に転用したり、自身の作品である「トトロ」をそのまま「ポニョ」に使い回した作曲家Hなどとは、バッハは格が違うのですよ。
2009年の12月に、実際にライプツィヒのトマス教会で6日かけて行われたコンサートでの、そのバッハの16代後のカントールであるゲオルク・クリストフ・ビラーは、今までのバッハの作品の録音同様、モダン楽器のオーケストラを使いながらも、ピリオド楽器に近いものを使ったり、その時代の奏法を取り入れたりと、可能な限りその「先輩」の音楽の忠実な再現を心がけています。それだけではなく、ここでは声楽についても「ピリオド・アプローチ」を試みているようでした。それは、ソプラノのソロをトマス教会聖歌隊の少年に歌わせるというユニークなアイディアでした。
別に、そういうことをやったのは彼が初めてではありません。ピリオド楽器の黎明期に、とてもピリオド楽器とは言えないようなものを使って録音されたアーノンクールとレオンハルトによるバッハのカンタータ全集では、確か少年合唱団のメンバーがソロも歌っていたはずです。それ以後、そんな試みは絶えて見かけないようになったと思っていたら、こんなところでまた出会えるとは。
実際、「クリスマス・オラトリオ」では、ソプラノ・ソロの出番は極端に少なくなっています。1人だけで歌うアリアは最後の第6部に1曲あるだけですからね。ですから、最初に演奏された時にはソリストはいなかったのではないか、と考えた結果、このようなことを行ったのかも知れません。
しかし、ダンツのようなしっかりした声のアルトが歌っている中で、ソプラノだけがか細い、はっきり言って拙い演奏を披露しているというのは、正直心地よいものではありませんでした。それでなくても、本体の合唱がいつにも増して不安定なものですから、もっぱらきっちりと端正な演奏を心がけているオーケストラの方に耳が行ってしまいます。ほんと、ヴァイオリン・ソロなどは見事なものでした。

CD Artwork © Rondeau Production GmbH

7月30日

Beyond All Mortal Dreams
American A Cappella
Stephen Layton/
The Choir of Trinity College, Cambridge
HYPERION/CDA67832


「全ての滅びゆく夢を超えて」というタイトルは、ここで歌われている曲の中にはありません。レイトン自身がアルバム・コンセプトとして提案したのでしょうか。確かに、このフレーズはジャケットを飾る聖ミカエルの像とともに、アルバム全体を包む神々しさを的確に表現しています。
アメリカの作曲家によるア・カペラ曲のアンソロジー、残念ながらここに登場する8人の作曲家の名前と作品は、全て初めて耳にするものばかりでした。しかし、それらはなんとも懐かしい思いを醸し出してくれるものばかりだったのには、軽い衝撃を与えられてしまいます。それがレイトンの趣味というフィルターを通った結果である点は差し引いたとしても、全ての曲が、なんとも無防備な心の深いところまで入り込んできて、確かな共感をもぎ取っていくものだったのですから。
そんな、似たようなテイストを持つ作品を産んだのが、生年に1世紀近くの隔たりをもつ作曲家たちだったという事実に、まず驚かされます。最も年長の(いや、すでに物故者ですが)ヒーリー・ウィランが1880年生まれなのに対して、最年少のオラ・イェイロは1978年生まれなのですからね。
ウィランの次の世代がこれも物故者である1920年生まれのエドウィン・フィッシンガー、それからは1950年前後生まれの「塊」が5人も続きます。1949年のスティーヴン・ポーラスとスティーヴン・スタッキー、1950年のフランク・フェルコとウィリアム・ホーレイ、そして1953年のルネ・クラウセンです。そして、次の世代のイェイロとなるわけですね。
これらの作曲家たちは、その1世紀の間に起こった作曲技法の変遷などには全くかかわらないフリをしながら、ひたすら「美しい」合唱曲を作り続けました。それもそのはず、そもそも時代的な先達とも言えるウィランが目指したものはそんなチマチマとした技法の遠く及ばないルネサンス時代の音楽だったのですからね。しかも、そのあとを継いだスタッキーの曲はトーマス・タリス、フェルコに至ってはヒルデガルト・フォン・ビンゲンへのオマージュなのですから。そこには、無調も、12音も、そしてクラスターや偶然性も入り込む余地はなかったのでしょう。ここでは、見事に溶け合った三和音の世界が、レイトンとケンブリッジ・トリニティカレッジ聖歌隊という、彼のもう一つのパートナー「ポリフォニー」よりは穏健さを旨とするペアによって、輝かしいばかりに広がります。
もちろん、個々には多少の「冒険」が見られることもあるでしょう。フィッシンガーの「Lux aeterna」では、グレゴリアン・チャントの呼びかけに対して、元の音を伸ばしながら4度上昇、3度下降という音型を繰り返して、結果的にクラスターを産み出すという「斬新な」アイディアが披露されています。しかし、これはあくまでも「ツカミ」の効果をねらっただけのもので、そのあとはごく平穏なハーモニーが現れてくるだけ、リゲティの同じタイトルの曲で使われているクラスターとは、似て非なるものです。
スタッキーも、「タリス」の2曲目「O sacrum convivium」ではオスティナートで同じパターンを繰り返すという「新しい」技法を使っていますが、逆にそれは他の部分の「懐かしさ」を際立てるという効果しか生んではいません(この繰り返しがなぜか「お盛ん、カメレオン」と聴こえてしょうがありません)。
そんな「中間世代」の悪あがきを横目で見ながら、「新世代」のイェイロはなんのためらいもなく「美しい音楽」を極めようとしています。「Sanctus」と、テキストは「Agnus Dei」である「Phoenix」は、そんな信念がストレートに現れた感動的な作品、そして演奏です。
そんな煌めきにあふれた秀曲たち、これがSACDであったなら、よりナチュラルな響きと息づかいが味わえたことでしょう。

CD Artwork © Hyperion Records Ltd

7月28日

HINDEMITH
Orchestral Works
John Neschling/
Sao Paulo Symphony Orchestra
BIS/SACD-1730(hybrid SACD)


最近、読響の指揮者下野竜也さんが、ヒンデミットが編曲したワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲を、オリジナルの弦楽四重奏を弦楽合奏に直して、演奏会で取り上げていたそうですね。この形での演奏は「世界初演」なのだそうです。定期演奏会ではないものの、こんな、人をおちょくったような作品を堂々とオーケストラで演奏してしまうなんて、下野さんのお笑いのセンスはまだ健在のようでした。
そもそも、下野さんはお笑いだけではなくヒンデミットも大好きなようで、読響ともヒンデミットの作品をシリーズで演奏しています。以前、別なオーケストラを指揮している「ウェーバーの主題による交響的変容」を聴いたことがあったのですが、それは推進力のあるとても素敵な演奏でした。
今回、ヒンデミットの代表的なオーケストラ作品を集めたアルバムがリリースされました。めったにヒンデミットなどは聴きたくなることはないのですが、演奏しているのがネシュリング指揮のサン・パウロ交響楽団というので、ちょっと興味がわいたのですね。
このコンビの演奏といえば、ブラジルのレーベルBISCOITOから出ていたベートーヴェンの交響曲などを以前楽しく聴いていたものでした。そのレーベルとBISとがどういう関係にあるのかは分かりませんが、それと同じものがBISのカタログに載っていたり、今回のようにBISのプロダクションとして制作されたりしています。そのあたりの事情に通じている方は、ご一報を。
じつは、BISでの彼らの演奏は、前にベザリーのバックという形のものを聴いていました。それも今回と同じSACDだったせいでしょうか、ちょっと気取った演奏だったのが気になりましたが、今回のヒンデミットはどうなのでしょうか。
ここで演奏されているのは「画家マティス」、「気高き幻想」、「ウェーバーの主題による交響的変容」(曲順)の3曲です。ここからは、いかにもSACDらしいとても余裕のある「いい音」が聴こえてきたのは、幸せなことでした。なによりも、弦楽器がとても繊細な音色で表情豊かに演奏しているのには、ちょっと驚かされてしまいます。録音のせいなのでしょうが、ベートーヴェンの時のようなちょっと荒々しいところなどは全く見られず、ひたすら柔らかな肌触りで迫ってくるものですから、まるで全く別のオーケストラを聴いているような気になってしまいます。
木管楽器も、こんなに上手だったのか、と見なおしてしまいます。ヒンデミットではフルートが大活躍する場面が多く見られますが、どれもうっとりするような甘く、時には力強い音色で楽しませてくれます。一緒にアンサンブルしているオーボエも、まるでドイツのオーケストラのようなどっしりした音色で安定感を見せていますし。
ただ、前半の2曲では、そんな美しいところは満載なのになにかこのオケの本来の姿だと勝手に思っているノリの良さが、ほとんど感じられないのですね。なにか、小さくまとめようという受け身の態度に終始しているようなのですよ。常々感じているのですが、ヒンデミットの音楽というのは、なにか素直に入っていけないところってありませんか?テーマのメロディ・ラインが、どこか不自然で美しくないのですよね。もしかしたら、この指揮者とオーケストラも直感的にそんなところに反応していたのかも。
ところが、最後の「ウェーバー〜」では、そんな「無理」が全く感じられないのですよ。終楽章の金管などはノリノリです。おそらく、この曲にはヒンデミットのオリジナルのテーマではない、もっとキャッチーなウェーバーのものが使われているのが、その原因なのでは、と、勝手に思ってしまいました。ベザリーの時もそうでしたが、このオケはほんとに好き嫌いがはっきり音に出るのでしょうね。
彼らが「オランダ人」を演奏したら、どれほどハチャメチャになるか、ちょっと怖い気がしますが、「おら、やんだ〜」と言わないでぜひ聴いてみたいものです。

SACD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17