黒い塀。.... 佐久間學

(10/7/13-7/31)

Blog Version


7月31日

In Nativitate Beatae Mariae Virginis
Espen Aalberg, Lars Sitter(Perc)
Anne Kleivset/
Schola Sanctae Sunnivae
2L/2L-069-SACD(hybrid SACD)


ジャケットには「聖母マリアの生誕」というタイトルだけ、作曲家や演奏家の名前は書いてありません。いったいどういうものなのかは全く分からないまま、このレーベルの音の良さだけを信じて、買ってみました。しかし、このジャケットの絵はいったい何を描いたものなのでしょう。上にあるのは心臓?そこから血がしたたり落ちているようですが、なんだか赤い毛糸のようにも見えますね(それは、「マリアのセーター」)。
ライナーを読んでみると、やっと概要がつかめました。それは、ノルウェーのさる大聖堂に残っていた、13世紀の後半に歌われていた単旋律聖歌の写本の中の曲を、グレゴリオ聖歌を歌うために作られた女声合唱団が歌っていたものなのです。それだけではなんの変哲もないものなのですが、それと同時に、ヘニング・ソンメロという1952年生まれで、幅広い分野で活躍している作曲家が、聖歌をモチーフに2007年に作った曲オルガン曲を、この録音のために打楽器奏者2人のための編成に書き直したものを、聖歌の合間に演奏する、というアイディアが盛り込まれているあたりが、ユニークなところです。
言ってみれば、古い音楽と新しい音楽とのコラボレーションみたいなものなのでしょうか。スウィングル・シンガーズあたりがかつてやっていた、ルネサンス期のマドリガルを、シンセサイザーなどで伴奏する、といったようなスタイルなのかもしれませんね。
この合唱団は、1992年に、ここでも指揮をしているアンネ・クライヴセットという女性によって創設されました。もちろん、メンバーはすべて女性、セッションの写真では、12人で歌われています。こういう単旋律の、いわゆるグレゴリオ聖歌は、もっぱら男声によって歌われることの方が多いのではないでしょうか。その際には、現代的な発声ではなく、多少だみ声気味のあまり洗練されていない歌い方の方が尊ばれているような気がしませんか?もちろん、すべてユニゾンで歌われるのですが、高い音になるといきなり音色が変わったりするのが、いかにも「聖歌」っぽい感じがするものです。しかし、ここで歌っている「スコラ・サンクテ・スンニヴェ」という名前の女声合唱団からは、そのようなちょっと鄙びた感触は全く味わうことが出来ません。なんでも、このような音楽を演奏する上での約束事というものは、かなり厳格に定められているそうなのですが、そんなものにはあまりこだわらず、素直に「現代」に生きる「聖歌」を楽しんでいるような余裕のようなものを感じることが出来るのです。
そこにからんでくるのが、打楽器のアンサンブルです。主にマリンバやビブラフォン、グロッケンという鍵盤打楽器による、メロディアスな音楽は、元々はオルガン曲だったせいなのでしょう。そのオルガンのペダルを再現したような、超低音のマリンバなども動員されて、「打楽器」とは思えないようなハーモニーまでも表現されています。しかし、この作曲家は、放送の仕事もしているそうで、そんな「現代的」というよりは、「商業的」とでも言えそうな、かなりポップな肌触りは、いくらなんでも「聖歌」にはそぐわないな、という気もしてしまいます。並べて聴くと、あまりに方向性が違いすぎるのですよね。
そんな疑問を抱きながら、最後の「聖歌」になると、そこには伴奏としてその打楽器が入ってきましたよ。そうすると、そこではなんと「聖歌」の方が「商業音楽」に歩み寄ってきたではありませんか。歌っているのは確かに単旋律なのですが、そこからは見事にハーモナイズされたメロディが聞こえてくるのですよ。このあたりが、彼女らが目指していたものだったのですね。
曲の最後には、盛大に鳴り響くチューブラー・ベル。リアルこの上ないものすごい録音と相まって、「宗教」や「商業」を超えた愉悦感が、確かにここには漂っています。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

7月29日

Masterworks for Flute and Piano II
Sharon Bezaly(Fl)
Ronald Brautigam(Pf)
BIS/SACD-1729(hybrid SACD)


精力的にフルートのレパートリーを録音し続けているBISの「看板娘」ベザリーですが、進行中のプロジェクト「From A to Z」は一体どうなってしまったのでしょうか。
今回の最新アルバムは、「フルートとピアノのための名曲集、その2」というタイトルです。ですから、当然「その1」があるはずですが、それは2006年にリリースされた、プロコフィエフやシューベルトが収録されているものでした。どちらも、ピアニストはフォルテピアノなどにも造詣の深いオランダ人のロナルド・ブラウティハムです。「1」と「2」に共通しているのは、「名曲集」、とは言っても、それはリスナーにとっての「名曲」というわけではなく、プレーヤー、つまり、音大生や力のあるフルート愛好家であれば、必ず1度は楽譜に目を通したことがあるか、場合によっては演奏したことさえあるような曲、という意味での「名曲」だという点には、注意が必要です。それらの曲は、あのゴールウェイが雑誌のインタビューで語っていたように、「教育としては必要なものだが、必ずしも録音したいとは思わない」という点でも共通しています。「1」では、ジョリヴェの「リノスの歌」あたりが、そんな曲の代表でしょうか。そして、今回はマルタンの「バラード」あたりが、決してゴールウェイがCDに録音することはないような曲になるのでしょうね。きつねとたぬきだったらいいのでしょうが(それは「マルちゃん」)。
マルタン以外の収録曲は、プーランクのソナタ、ライネッケの「ウンディーヌ」、マルティヌーのソナタ、そしてメシアンの「クロウタドリ」です。このあたりになってくると、すでに数々の名演が出揃っているものばかりですから、新参者としては厳しいところです。
ベザリーの録音ではいつものことですが、彼女のブレスの音が盛大に聞こえるのがかなり耳障りです。それは、もしかしたら循環呼吸での鼻からのブレス(というか、吸音)を目立たせたいために、正規のブレスでもあえてはっきり音を立てているかのように聞こえてしまいます。あんたの得意技はよくわかったから、どうか、もっと目立たないようにやってくれないかな、という思いです。そう、あくまでも循環呼吸というのは「手段」であって、それ自体を見せびらかすものでは決してないのですからね。ましてや、そこで得られるはずのせっかくの超長いフレーズが、「鼻息」のために中断されてしまったのでは、何の意味もありません。
もう一つの彼女の「欠点」である、「後ふくらまし」も、健在でした。まあ、それが彼女の持ち味だと割り切ってしまえばそれほど気にならないものなのかもしれませんが、今回のレパートリーの中に多く現れる、しっとり歌うフレーズを多く含んだ緩徐楽章では、それは命取りになりかねません。特にライネッケの第3楽章やマルティヌーの第2楽章のように、ぜひともなめらかな旋律線を作って、思い切り泣かせて欲しいと思っている音楽で、この「後ふくらまし」によって、繊細で甘美なメロディがデコボコに変形されてしまう様を聴くのは、とても辛いものがあります。せめて、フレーズの終わりぐらいはきちんと収めてほしいところを、無神経にふくらまされたりすると、演奏家としての品位さえ疑いたくなってしまいます。ピアニストはいとも切なく歌っているというのに。
彼女の持ち味と言ったら、やはり技巧的なパッセージを鮮やかに吹き切ってくれるところでしょうか。マルタンなどでは、それは見事な早業を披露してくれています。ところが、それが最大限に発揮できるはずのメシアンになると、そんなたくさんの音の中から聞こえてきてほしい「鳥の声」が、全く感じられないのですよ。これは、ある意味ショック。もしかしたら、メシアンというのは、本物と偽物を冷徹に見分けてしまう試金石のようなものなのかもしれませんね。

SACD Artwork © BIS Records AB

7月27日

APHRODITE
Kylie Minogue
PARLOPHONE/50999 642906 2 1


1980年代後半に、米英のヒットチャートは「ユーロビート」とカテゴライズされた音楽に席巻されることになりました。シンプルなビートに乗ったダンサブルなサウンドは、極めてキャッチーなメロディと相まって誰にでも好まれる音楽として世界中でヒットしていたのです。そんな「ユーロビート」を送り出していた「仕掛け人」の中で最も成功を収めていたのが、「ストック・エイトケン・ウォーターマン」というチームです。これは、3人のクリエーターのラストネームを並べたものなのですが、マイク・ストックと、マット・エイトケンという人たちが曲作りを担当、ピート・ウォーターマンという人がプロデュースを担当していました。彼らが制作した曲はまさに当時の「ヒットの方程式」にかなっていたもので、出すものすべてが大ヒットを記録するという文字通りカリスマ的な存在でした。そう、卑近な例では、同じように日本国内でもヒット曲製造マシーンを化していた小室哲也のようなものですね。
彼らが抱えていたアーティストの中で抜群の「成績」を誇っていたのが、以前ご紹介したリック・アストリーと、カイリー・ミノーグです。暑苦しい名前ですね(「懐炉、湯豆腐」)。実は、その頃のカイリーの1989年にリリースされたセカンド・アルバムが手元にあるのですが、今聴いても勢いのあるサウンドは魅力的です。余談ですが、先日さる町内会の夏祭りに参加した時に、BGMとしてこのアルバムが流されていたのに驚いたことがありました。主催者はかなり高齢者と思われるその催し物ですが、おそらく20年前には彼女に熱中していた方が、引っ張り出してきたのでしょうね。それは、確かに時代を超えた高揚感をもたらす音楽でした。

その手の、いわば「アイドル」だったカイリーでしたが、その歌のうまさにはただのアイドルを超えたものがありました。そのことは彼女自身も認識していたのでしょう、やがてウォーターマンたちとも袂を分かって、新たな可能性を追求するようになっていきます。それからは、彼女は視界の外へ消えてしまい、いつしかその存在自体も忘れてしまっていた頃、2000年代の初頭あたりに、彼女は新天地EMIでの中心的なアーティストになっていたことを知ることになりました。そう、あたかもWARNERでのマドンナのように、彼女はレーベルを背負って立つビッグ・アーティストに育っていたのでした。その頃には、デビュー当時の初々しさは見事に消え去り、それこそマドンナでも意識したのでしょうか、やたら肌の露出の多い「お色気」路線で突き進んでいたのが、ちょっと違和感を抱かせるものではありましたが。
そんな、見事に変身を図った彼女の、これはおそらく通算11枚目となるニュー・アルバムです。購入したのは特別仕様のようで、最近のライブやPVのメイキング映像などが収録されたDVDが同梱されています。その、2009年に行われた北米ツアーの映像には、見事に「大人」のシンガーに変身した彼女の姿がありました。歌声も、まるでベル・カントのような美しい高音を聴かせてくれていますよ。こうなると、マドンナではなく、サラ・ブライトマンあたりの存在をも脅かし兼ねないゴージャスなたたずまいではありませんか。そのステージも、ミュージカル仕立ての粋なものでしたしね。
ところが、肝心のCDになると、それとは全く異なるちょっと古風なテクノ(「クラフトワーク」を連想してしまいました)のサウンドに支配されたヘビーなものだったのには、ちょっと引いてしまいました。いかにも、世界戦略を目指すような野心は強く感じられるものの、セカンド・アルバムのバラードっぽいもののような、リラックスして楽しませてくれる要素が全くないのが、ちょっと残念、ライブで見せてくれた卓越した高音も、ここでは聴くことは出来ませんでしたし。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

7月25日

HOLST
The Planets
Yevgeny Svetlanov/
The Sixteen
Philharmonia Orchestra
BRILLIANT/94044


2002年に亡くなったロシアの巨匠スヴェトラーノフが、199111月にCOLLINSに録音した「惑星」が、BRILLIANTから発売になりました。スヴェトラーノフとホルストという一見ミスマッチ、でも、怖いもの見たさに聴いてみることにしましょうか。なんたって、1000円以下で買えるのですから、気に入らなくたってそんなにダメージはありませんし。同じようにかつては1000円以下で買えたはずのNAXOSなどは、最近の国内盤仕様は法外とも言えるような価格設定になっているので、以前ほどの魅力が感じられなくなっていますしね。
ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団と共演したこのCD、おそらくライブではなくセッション録音なのでしょう、元の録音がとてもバランスが良く、ダイナミック・レンジも驚くほど広いのが充分にうかがえるものです。例えば「土星」の始めの頃に現れる、とても珍しい楽器「バス・オーボエ」のソロなどは、普通はよほど気を付けていないと気づかないものなのですが、ここでははっきり浮き上がるように聞こえてきます。きちんとしたマスタリングが行われていれば、おそらくその上に匂うような肌触りが加わるのでしょうが、この価格ですからそこまで望むのは無理というもの、いや、もっと高いCDで、これよりひどい録音のものなどは、いくらでもありますがね。
スヴェトラーノフは、冒頭の「火星」から、とても重心の低い、堂々たる音楽を聴かせてくれています。テンポを遅めにとって、思い切りオーケストラを鳴らすという、いつもながらの彼ならではのやり方です。そこには、じわじわと盛り上げていった末に、とても中身の濃いクライマックスが生みだされるというエクスタシーが待っています。これが、なかなか心地よいのですね。この曲にありがちな派手な色彩感をあえて避け、もっと根源的な力を表に出すというようなアプローチは、さすがです。
有名な「木星」も、変に浮ついたところのない「大人」の音楽です。正直、あの「聖歌」が出てくるまでの段取りが、いかにも唐突という演奏ばかり聴いてきたので、そのあたりがきちんと意味のあるものとしてとらえられているスヴェトラーノフの設計には目を見張ります。これでこそ、「聖歌」の格調の高さが遺憾なく生かされるものでしょう。そう、これほど悠揚迫らないものを聴いてしまうと、それをポップスにカバーした平原なんたらという歌手のセンスがいかに薄っぺらなものであるかがはっきり分かってしまいます(最近、高校野球のテーマソングをよく耳にしますが、これも最悪ですね)。
ただ、最後の「海王星」(もちろん、「冥王星」はありません)に登場する女声合唱は、ちょっとな、という感じです。「ザ・シックスティーン」のメンバーが歌っているのですが、録音のせいでしょうか、あまりにもくっきり音が立ちすぎていて、違和感があるのですね。それこそ、宇宙の彼方から聞こえてきて、そのまま去っていくような(いや、「去っていく」方はなかなかスリリングなのですが)ミステリアスさが欲しいのに、ちょっと生々しすぎるような。
カップリングとして、リムスキー・コルサコフの「ムラダ組曲」という珍しい曲が聴けます。「♪吹〜けば飛ぶような」は、「ムラタ」ですね。1870年頃に、他の「五人組」のメンバーとの共作として計画されたバレエ音楽ですが、そのプランは失敗に終わってしまったので、その時の音楽を用いて1889年頃に改めて作り始めたものなのだそうです。1曲目の「イントロダクション」でアルト・フルートが加わっているあたりは、彼のオーケストレーションの新境地なのでしょうか。興味深いのは、4曲目の「インド人の踊り」というのが、1888年に作られた「シェエラザード」の第3楽章に非常によく似ていることです。きっと、モチーフ自体はこちらの方が先に出来ていたのでしょうね。

CD Artwork © Brilliant Classics

7月23日

バイオリニストに花束を
鶴我裕子著
中央公論新社刊
ISBN978-4-12-004113-6

この表紙、いいですね。谷内六郎っぽいおかっぱ頭の女の子がヴァイオリンを弾いているという、なんか素朴な郷愁を誘うようなテイスト、ありませんか?しかし、そんな「素朴」な見せかけにだまされてはいけません。これは、2005年に刊行され、その後2009年に文庫化された「バイオリニストは目が赤い(原題:バイオリニストは肩が凝る)」に続く、元N響ヴァイオリン奏者の鶴我さんの著作、確かに素朴な一面がないわけではありませんが、前作同様、さりげない「毒」も満載の、油断のならないエッセイ集なのですからね。ちなみに、ここには主に「音楽現代」というクラシック音楽の専門誌に連載された読み物が集められています。この「音楽現代」というのは、まず普通の書店で見かけることはないというぐらいマニアックな雑誌です。ちょっとやらしいですし(それは「音楽変態」)。
「素朴な一面」というのは、かなりの紙面を使って語られている、彼女の生い立ちです。山形という、当時としては恐ろしく「中央」からは隔たった土地に育ち、家庭も決して裕福ではなかった環境から、プロのヴァイオリニストを目指しての涙ぐましい努力の物語が始まるのですから、まさに「おしん」(いや、いくら山形でも・・・)並みの設定ではありませんか。銭湯へ行った帰りに、屋台のお好み焼屋さんでささやかな買い食いをするシーンなどは、ほとんど「赤ちょうちん」や「神田川」(@かぐや姫)の世界です。同じようなスタンスで、彼女の「死」に対する思いが語られる部分が多く見られます。そのあたりは「素朴」を通り越した「重さ」すら感じられます。
前作が文庫化されたときに触れられていましたが、著者はつい最近長年務めたN響を定年退職されました。今回の単行本では、そのあたりの経過がリアルタイムにつづられているのが、興味を引きます。彼女は、所属していたオーケストラのことをシャレで「カイシャ」と書いていますが、そんな普通の「カイシャ」と同じように、芸術団体であるオーケストラでも一定の年齢になった人は「退職」を迎えてしまうというところが、「プロ」の世界なのでしょう。今でこそ60歳が定年となっていますが、その前は55歳だったというのも、「プロ」ならではの設定ですね。もっとも、このようなメジャー(あくまで日本の中で、ですが)オケで定年を迎えても、「地方」のオケに「天下り」する奏者は少なからずいたような話も聞きますので、そんなのもこの社会の縮図のようですね。ただ、最近は、トゥッティのヴァイオリン奏者などは、退職後もエキストラとして「正社員」と全く同じ「仕事」をしたりしているのですね。ここらあたりがおそらくふつうの「カイシャ」とは違うところなのでしょう。
そして、なんといっても読み甲斐があるのが、実際のコンサートでの指揮者とのやり取りの詳細なレポートです。アシュケナージが武満の難曲を「弾き振り」した時のトンチンカンな対応などは、指揮者としての彼のキャリアを脅かすほどのリアリティがあります。さらに、たまらないのが、あのノリントンを迎えた時のドキュメンタリーです。これは、練習風景も含めてテレビで紹介されていたので、N響がノリントンの無理難題に挑戦している姿はある程度知っていたのですが、それを団員サイドはどのように受け止めていたか、ということが良く分かります。やはり、かなり抵抗は大きかったのですね。その時のプログラムに入っていたエルガーのチェロ協奏曲では、ソリストもオケに合わせてノン・ビブラートで演奏していたのは知っていましたが、まさか、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のソリスト、庄司紗矢香にまで無理難題を強いていたとは。でも、それに対する紗矢香さんのリアクションが、素敵ですね。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsya, Inc.

7月21日

SALIERI
Requiem
Arianna Zukerman(Sop), Simona Ivas(MS)
Adam Zdunikowski(Ten), Luis Rodrigues(Bar)
Alice Caplow-Sparks(CA)
Lawrence Foster/
Gulbenkian Chorus and Orchestra, Lisbon
PENTATONE/PTC 5186 359


「サリエリ」と「レクイエム」という言葉からは、例の「アマデウス」という映画の中での印象的な場面を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。瀕死の状態にありながらも「レクイエム」を作曲中のモーツァルト、彼は、枕元にいるサリエリに拍子やパートを指示し、メロディを歌って聴かせて、それをサリエリが楽譜に書き起こす、というシーンです。もちろん、実際にこんなことがあったわけではなく、すべてドラマを盛り上げるための架空の設定なのですが、あまりにありそうな話なので、もしかしたらこれを信用してしまっている人はいるのかもしれませんね。罪な話です。ですから、「サリエリのレクイエム」と聞いて、あんな風に手伝った時に得た情報をもとにした、それこそモーツァルトの亜流みたいな作品を連想するのは、全く見当はずれなことです。
実は、この非常にレアな曲は、これが初めての録音ではありません。かつてこちらで取り上げていたように、すでに何種類かの録音が存在しています。さらに、2008年の1月には神戸21世紀混声合唱団という団体がアンサンブル・神戸というプロのオーケストラとともに、日本初演も行っています。このときの録音が、なぜか手元にあるのですが、それは先ほどのアンドレアス・クレッパーによるCDとは多くの点で異なっていたことに驚かされました。まず、タイトルがCDでは「ピッコロ・レクイエム」というようなサブタイトルが付いていたものが、こちらは単に「レクイエム ハ短調」というだけです。曲も、最後に「Libera me」が追加されています。編成も少し変わっていて、「Introitus」で最初に現れる印象的なテーマが、CDではバス歌手のソロだったものが、合唱で歌われていますし、その曲や「Agnus Dei」で大活躍しているクラリネットが、コール・アングレに変わっているのです。「神戸」では、そのために、N響の美人オーボエ奏者池田昭子さんをゲストに呼んでいるぐらいです。
その池田さんの演奏はとても素晴らしく、それだけで演奏全体が引き締まって聞こえるのですが、サリエリの時代にはこの楽器はまだそれほど一般的ではなかったはず、CDには一応「ピリオド楽器を使用」と記載されているので、本来はバセット・ホルンとかバセット・クラリネットが使われていたのでは、という気がするのですが、スコアまでは入手できないので、そのあたりは分かりません。どなたか、日本初演の時のスコアのコピーでも送って下さるような奇特な方はいらっしゃらないでしょうかね。
今回のSACDは、2009年の11月にリスボンで行われたコンサートのライブ録音です。ブックレットで、サリエリの生没年が「1885-1935」などというとんでもないポカをやらかしているので、一瞬商品としての良心を疑ったのですが(なぜか、この業界はこんなつまらないミスが多すぎます)演奏自体はとても安心して聴いていられるものでした。おそらく、今までの録音の中では最高のものなのではないでしょうか。
そんな「まとも」な演奏の中から浮かび上がってくるのが、サリエリの特別な個性です。それは、「レクイエム」のような種類の音楽からさえあふれ出てくる、聴くものを楽しませようとする精神のようなものでしょうか。モーツァルトのように細かく分けずに、一貫して演奏される「Sequenz」では、緊密に構成された中から、えもいわれぬカンタービレが聞こえてきます。「Hosanna」では、一見二重フーガのような厳格な体裁をとっていても、それはもっと直接的な美しさを持つものです。最後の「Libera me」でも、トランペットの華やかなファンファーレは聞き物、なんたって、最初は「ハ短調」だったものが、「ハ長調」で明るすぎるほどに終わるという「ピカルディ終止」は、感動的です。カミナリ3兄弟ではありませんが(それは「ゴロピカドン」・・・知らないだろうなぁ)。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

7月19日

BRUCKNER
Motets et Messe no 2
Norbert Balatsch/
Choeur de Radio France
Orchestre Philharmonique de Radio France
RADIO FRANCE/FRF006


毎年夏に行われるバイロイト音楽祭を、年末にNHK-FMが放送するという「年中行事」は、今でも続いているのでしょうか。だいぶ昔のことになりますが、その時の解説を作曲家の柴田南雄さんが行っているのを、よく聴いていたことがありました。おそらく、原稿もご自分でお書きになっていたのでしょう、その精緻な分析に基づく解説は、とても刺激的なもの、そこでワーグナーについて学んだことは数知れません。「『ライトモチーフ』ではなく、『グルンドテーマ』というのが正しい」といったような蘊蓄は、今でも確かな教えとして残っています。さらに、柴田さんはドイツ語の発音が非常に正確でした。ですから、出演者の名前なども、それまでカタカナでなじんでいたものとは微妙に異なっていて、やはりショックを受けたものです。「Karl Böhm」という、その頃のバイロイトの常連だった指揮者の名前も、NHKのアナウンサーによる「ベーム」というカタカナとは完璧に別物のウムラウトで発音してくれたのですから、それは新鮮な驚きでした。
ある年には、それまで長年バイロイト音楽祭の合唱団の指揮を担当してきたウィルヘルム・ピッツが引退することになり、後任の合唱指揮者が紹介されました。もちろん、その名前は柴田さんでも初めて聞くものだったのでしょう、「『ノルベルト・バラッチュ』という人でしょうか」と、一つ一つの音節を、ことさらていねいに発音していました。なんだか、壊れかけた建物のような(それは「バラック」)イメージもあって、その名前はその時にはっきり脳裏に刻まれることになりました。
1928年に生まれたバラッチュは、最初はあのウィーン少年合唱団のメンバーとして、教育を受けています。大学時代に作った合唱団は、オーストリアの合唱コンクールで、何度も優勝したそうです。そして、1968年から1983年までは、ウィーン国立歌劇場の首席合唱指揮者を務めます。もちろん、その間には30年近くにわたってバイロイト音楽祭の合唱指揮者を務めることにもなりました。さらに、世界中のオペラハウスからの要請で、客演の合唱指揮を務めるとともに、ウィーン・フィルを始めとしたオーケストラの指揮者としてもキャリアを築きます(その中には、日本の大阪フィルも含まれています)。ある意味では、世界のトップに上り詰めた合唱指揮者と言えるでしょうね。
そんなバラッチュは、最近ではラジオ・フランスの合唱団とも親密な関係を持っています。このアルバムは、最近出来たラジオ・フランスのアーカイヴによる自主レーベルからのリリース、そのコンビが2000年の5月30日に、パリのサル・プレイエルで行ったコンサートのライブ録音です。
この合唱団は、ラジオ・フランスのもとにあるフランス国立管や、フランス放送フィルと共演するための、フランスでは唯一の大編成のプロの合唱団なのだそうです。メンバー表は掲載されていないので正確な人数は分かりませんが、おそらく100人は超えるメンバーが歌っているような感じは、聴いていて分かります。彼らは、聴き慣れたブルックナーのモテットを、そんな人数に見合ったとても深い響きで演奏してくれていました。しかし、それは、まるでロシアの広大な大地を思い起こさせるような、音程も定かでなくなってしまうほどの止めどもない「深さ」であることには、かすかな戸惑いを禁じ得ません。ほとんどクラスターと化した重々しいブルックナー、それはそれで一つの姿ではあるのでしょうが、それを受け入れるのにはかなりの苦痛と忍耐を伴うことでしょう。
ミサ曲第2番も、まるでバックのブラスバンドに張り合うかのような粗野な合唱には、ついていくのはかなり困難なことになります。何よりいけないのは、この合唱から敬虔さのようなものが全く感じられないことです。ひたすらがなり立てるだけの声によるミサ、それがブルックナーであるだけに、異様さは尋常ではありません。

CD Artwork © Radio France

7月17日

BACH
St. Matthew Passion (Sung in English)
Grace Davidson (Sop), Mark Chambers (CT)
Jeremy Budd (Ten, Ev), Eamonn Dougan (Bas, Jes)
Jeffrey Skidmore/
Ex Cathedra Choir & Baroque Orchestra
ORCHID/ORC 100007


タイトルにあるように、「英語によって歌われた」マタイ受難曲です。実は、英語圏ではそのような演奏は決して珍しいものではなく、例えば以前ご紹介したウィルコックス盤などもCDとして存在しています。この、1978年に録音された(ちなみに、今回のアルバムのライナーノーツでは「1979年」となっていますが、それは間違いです)DECCA盤では、1911年に作られた「エドワード・エルガー版」を用いて演奏されています。実は、今回のジェフリー・スキッドモアによって1969年に創設された「エクス・カセドラ」という、水木しげるの大好物(それは「カステラ」)のような名前の合唱団も、かつては同じ「エルガー版」で、英語の「マタイ」を演奏していたのだそうです。しかし、今回の演奏では、ニコラス・フィッシャーとジョン・ラッセルという人たちによって新たに訳されたテキストによって歌っています。それは、より現代人の感覚にフィットする歌詞によって演奏するという試みだったのでしょう。
実際に「エルガー版」と「フィッシャー・ラッセル版」の歌詞を比べてみましょうか。例えば最初の合唱の冒頭。

「エ」:Come, ye daughters, share my mourning
「フィ・ラ」:Come, you daughters, share my mourning

さらに、エヴァンゲリストの第1声
「エ」:When Jesus had completed all these sayings, he said unto his desciples
「フィ・ラ」:When Jesus had finished saying these things, he said to his disciples

ye」とか「unto」なんて、ヘンデルのオラトリオにでも出てきそうな単語ですね。最初のフレーズは、言ってみればかつては「娘たちよ、来るのじゃ」だったものを、「ねえちゃん、おいで」(笑)と訳したようなものなのでしょうね。余談ですが、テレビなどではよく老人が使っている「〜じゃ」という言い方を実際に使っている人に、未だかつてお目にかかったことがありません。
そのような歌詞に対する感覚は、エルガー版によるウィルコックスの演奏が18855秒かかっていたものが、15743秒にまで短縮されるような昨今のこの曲に対するアプローチとも、おそらく無関係ではないはずです。しかし、そのようなテンポアップの主たる原因が何世紀も前の演奏様式の再現だというのに、歌詞だけを「現代風」にするというのもなんだかなぁ、という気がしないでもありませんね。
ただ、残念なことに、そのような「新しい」歌詞になったことによる変化というものは、我々普通の日本人にはまず認識するのは不可能なことです。それよりも、慣れ親しんだドイツ語ではないことに対する違和感の方がよっぽど重要な意味を持ってくるのではないでしょうか。これは、あくまで英語を母国語とする人たちが味わうべき演奏なのでしょうね。なんだか、蚊帳の外に置かれて悔しくないですか?いっそのこと、日本語による「マタイ」なんて、誰か演奏してくれないでしょうかね。
これは、バーミンガムのシンフォニー・ホールという、バーミンガム市交響楽団の本拠地として知られる収容人員2,200人の大ホールで行われたコンサートです。しかし、演奏自体はそんな広い空間に惑わされることのないコンパクトな仕上がりになっています。演奏の精度も、ライブならではの傷は少なからずあるものの、先日のマルゴワールに比べたら格段のものがあります。
このコンサートが行われたのは、2009年4月10日、その年の「聖金曜日」つまり、キリストが十字架に架けられた日という、キリスト教徒にとってはとても重要な記念日(?)です。その日に、自分たちの最も共感できる言語で受難の歌を歌った合唱団のメンバーは、きっと何か特別な思いを抱いていたはずです。その思いはホールを埋め尽くした聴衆にも伝わり、最後の盛大な拍手を生んだのでしょう。教会での礼拝ならいざ知らず、コンサートホールなのですから、そんな不作法も許してあげましょうね。

CD Artwork © Orchid Music Limited

7月15日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Christiane Oelze(Sop), Ingeborg Danz(MS)
Christoph Strehl(Ten), David Wilson-Johnson(Bas)
Philippe Herreweghe/
Collegium Vocale Gent, Academia Chigiana Siena
Royal Flemish Philharmonic
PENTATONE/PTC 5186 317(hybrid SACD)


かつて、オランダには有名な電機会社PHILIPSを親会社として作られた同名のレーベルがありました。LP時代にはそれこそ「イ・ムジチ」などのレコードで大ヒットを飛ばしていましたね。浣腸じゃないですよ(それは「イ・チジク」@タモリ)。もちろん、CDの時代になっても、その躍進ぶりは続きます。なんたって、そのCDの規格をソニーとともに作ったのがこのPHILIPSなんですからね(もっと言えば、カセットテープの規格を作ったのも、ここでした)。ところが、DGDECCAとともにUNIVERSALの傘下に入ってから、何だか様子がおかしくなってきます。いつの間にか、新しい録音を行わなくなっていたと思っていたら、ついにレーベルそのものが消滅してしまったのです。
そこで、2001年に、かつてのPHILIPSの経営者3人が集まって作ったレーベルが、このPENTATONEです。彼らは、PHILIPSのカタログの一部を管理するとともに、新しい録音も企画、その際に掲げたのが、「すべて、SACDのサラウンドでリリース」というスローガンでした。やはりPHILIPSでのエンジニアが作った録音チーム「Polyhymnia International」が、その最先端の録音を担当するといういわばPHILIPSOBによる両輪体制で、今までに多くの名盤を世に送ってきています。
ところが、最近になって、そんな緊密な録音のパートナーが替わるという事態が起こりました。10年近くにわたってお互いを高めあってきた恋人を裏切り、さらにスキルアップしてくれそうなオトコに乗り換えた、というようなものでしょうか。その相手というのが、1987年にシュトゥットガルトで創設された「Tritonus Musikproduktion」という、ECMSONYDGHM、さらにはサンフランシスコ交響楽団の自主レーベルまでも手掛けている録音チームです。
そんな「浮気」の末に出来上がったのが、2007年から始まったこのヘレヴェッヘとロイヤル・フランダース・フィルとのベートーヴェン・ツィクルスです。ただ、同じメンバーによる先日のストラヴィンスキーだけは、元カレとの仕事でしたが、そちらまでも「浮気」の疑いがかけられてしまったという、笑えない事実があります。こういうことは、一度あやまち(?)を犯してしまうと、なかなか信じてもらえないようになってしまうものなのです。
PENTATONEがなぜTritonusに走ったのかは、当人同士の問題ですから深い詮索は無用です。好きなもの同士が一緒になればいいのですからね。リスナーとしてはその結果良いものが出来さえすれば、それで構わないのですよ。
この「第9」を聴いた限りでは、その評価は微妙です。録音のクオリティ自体はどちらも非常に高いレベルにありますから問題はないのですが、それぞれの録音ポリシーがかなり違っていることだけは、これ1枚を聴いただけでもはっきりするはずです。Polyhymniaは、個々の楽器の音がきっちりと聞こえてくるのに対して、Tritonusは、全体の響きを重視して録音するような傾向にあるのですね。雰囲気的にはこちらの方がより自然な感じはするものの、やはり、音だけで聴くときには、もう少し明晰なところがあった方が、より好ましく思えてしまいます。実際にこの演奏の場合、モダン・オケがかなりピリオド・アプローチを試みているために、例えば木管の楽器を使っているフルート・パートなどは明らかにバランス的に弱くなっていて、ソロのパッセージがほとんど聞こえてこないのですよね。まあ、そのあたりはあくまで好みの問題なのでしょうが。

ヘレヴェッヘは、同じ曲を1998年に、オリジナル楽器のオーケストラとHARMONIA MUNDIに録音しています(HMC 901687)。それと聴き比べてみると、基本的なアプローチは全く変わっていませんが、なぜか昔の録音の方が勢いがあるように感じられてしまいます。声楽陣も、昔の方が安定感がありました。こちらでは、超高速の第4楽章のマーチに、テノール・ソロが全くついて行けてないという悲惨な一面も。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

7月13日

GERSHWIN by GROFÉ
Symphonic Jazz
Lincoln Mayorga(Pf)
Al Gallodoro(Reed)
Steven Richman/
Harmonie Ensemble
HARMONIA MUNDI/HMU 907492


このアルバムのタイトルは「グローフェによるガーシュイン」です。グローフェというのは、もちろん「グランド・キャニオン」で有名なアメリカの作曲家ファーディ・グローフェのことですね。彼は、ガーシュウィンが「ラプソディ・イン・ブルー」を作曲したときに、そのオーケストレーションを担当した人、というくくりでよく語られています。そんな時のグローフェに人が抱くのは、クラシックのスキルの乏しいガーシュウィンに対して、アカデミックな部分での手助けをした人、というイメージなのではないでしょうか。それにしては、そのグローフェによる「ラプソディ〜」の最初の形が「ジャズのビッグバンド編成」というのが、ちょっと納得のいかないことになってきます。グローフェという「クラシック」の作曲者に依頼したのなら、なぜ最初から普通のオーケストラの編成ではなかったのでしょうか?
そのあたりが、もう一つのタイトル「シンフォニック・ジャズ」というタームを解き明かす鍵となります。きちんとしたクラシックの教育を受け、クラシックのオーケストラの奏者としての経験もあるポール・ホワイトマンがつくった楽団は、今から考えればかなり変ちくりんな楽器編成を持ったものでした。いわゆる「ビッグバンド」とはちょっと違っていて、ふつうはそのようなバンドには含まれていないホルンやチューバが入っています。リズムセクションも、ただのドラムセットではなくティンパニやらチューブラー・ベルなども入った多彩な打楽器と、なんとバンジョーまでが含まれています。そして、「シンフォニック」と呼ばれるだけあって、ヴァイオリンが最低でも8人は加わっているという不思議な編成です。これは、ガーシュウィンが没した8年後に公開された「アメリカ交響楽(原題はRhapsody in Blue)」という映画の中で実際に見ることが出来ます。なんたって、ホワイトマンが「ヒムセルフ」で出演しているのですから、リアリティがあります(指揮棒が異様に長い!)。ガーシュウィンがソロを弾いている隣に、バンドのピアノもあるのが面白いですね。

そして、この編成のために編曲を提供していたのが、当時ホワイトマンのバンドの専属アレンジャーだったグローフェなのですね。彼は、どちらかと言えばクラシックではなく、言ってみればこのようなショービズの世界で活躍した作・編曲家として語られるべき人だったのでしょう。そのあたりは、このアルバムにたっぷり収録されている、ガーシュウィン・ナンバーの編曲を聞けば、よくわかることです。
そのためのお膳立てに駆りだされたのは、かつてホワイトマンの楽団で実際に演奏していたというサックス奏者アル・ガロドロですもちろん、他の木管楽器も演奏している「マルチリード」です。カクテルではありませんが(それは「マルガリータ」)。もう90歳を軽く超えているはずのガロドロの演奏は、まさに驚異的です。「Summertime」での彼以外にはなしえないほどの奇跡的なソロ、そして、「ラプソディ〜」では冒頭のクラリネット・ソロ(グリッサンドは絶品)に続いて、バス・クラリネット、サックスと、おいしいところを独り占めしているのですから、すごすぎます。
ジャケットはガーシュイン自身が写っている写真、そして、中を開くとデジパックに収まっていたのは、こんな「レコード」のミニチュアでした。

こちらには、日本製の「ドーナツ盤」のミニチュアがありましたが、今回はおそらく「SPレコード」なのでしょうね。溝の感じがなかなかリアルです。もっとも、こちらも「同心円」になっていますが。
そこまでしてこのCDが伝えたかったのは、まさにガーシュインその人が生きていたころの彼の音楽の真の姿だったのでしょう。そう、ここではそんな1920年代から1930年代に一世を風靡した「シンフォニック・ジャズ」が、いとも生々しい姿で再現されていたのです。

CD Artwork © Harmonia Mundi USA

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17