外車、乗るか?.... 佐久間學

(11/11/25-11/12/14)

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12月14日

音聖・筒美京平
歌謡曲なくして 昭和を語ることなかれ
田中忠コ著
東洋出版刊
ISBN978-4-8096-7650-5

情報伝達をインターネットにべったりと依存した今の時代ほど、多くの「書き手」が育っている時はありません。なにしろ、ちょっとキーボードやタッチパネルを操作するだけで、「書いた」言葉が全世界で誰にでも「読める」状態になってしまうのですからね。かつて学校の「作文」の時間に400字詰め原稿用紙の升目をHBの鉛筆で埋めることに多くの苦難を味わっていた人たちは、ネットの中ではいとも嬉々として「文章」を紡いでいます。おそらく、人類の歴史の中で、これほどまでにたくさんの「書き手」が存在したことなど、ついぞなかったことでしょう。
もちろん、それらの「文章」は、必ずしもそれぞれの「書き手」の思いを他人に伝えるに充分なだけのクオリティを持っているわけではありません。でも、それでいいんです。それは、別に他の人に届かなくとも、あるいは全く目に触れることすらなかったとしても、「書く」という行為だけで完結しているものなのですから。そう、ブログやらツイッター、あるいはフェイスブックのノートという形をとってネットに氾濫している「文章」のほとんどは、「文章」が本来「自分の意志を他人に伝える」という機能を持ったツールであったことにはほとんど拘泥しない、あるいは、そもそもその様な機能があったことすら念頭におかずに書かれたものなのですからね。
これは、ネットの文章はネットに接続できる環境さえあれば、基本的に全く自由に読むことが出来るという特性がもたらしたものなのでしょう。「タダ」なんですから、何を書こうが文句を言われる筋合いはないのですね。
その様な環境で育って、その様な他人には伝達できない文章を書くことに慣れてしまった「書き手」が、何を勘違いしたのかその文章を「出版」したりすると、困ったことになります。出版された書籍を読むには、ふつうはそれなりの対価が伴います。「タダ」で読むわけにはいかないのですね。当然のことながら、お金を出して「買った」人は、それに見合うだけの「文章」を期待することになるわけですから、それが全くそんな価値のないものだとしたら、それを書いた人は赤っ恥をかくことになってしまいます。
そんな悲惨な実例が、この本です。サブタイトル、「歌謡曲なくして 昭和を語ることなかれ」というのからして、ヘンですね。前半は平叙文なのに、後半は命令口調になっているのが、その原因、「命令」には相手があるものですが、この前半からはその相手の姿が見えてきません。「歌謡曲を聴かずして〜」と、相手のアクションを入れなければ、相手は戸惑うばかりです。あるいは、下手に命令を気取らずに「歌謡曲なくして 昭和は語れず」と、全部平叙文にすれば、なんの問題もないものを。
文字通り「表紙」の文章がこのありさまですから、本文になったらもう大変です。著者が筒美京平の音楽を敬愛していることだけは良く分かります。しかし、いくら彼のことを「凄い」とか「スターだ」とか言ってみても、いったいどの辺が「凄い」のかが全く伝わってこないのですよ。そこで出てくるのが、「私は素人ですから」という、とんでもないセリフです。1冊税抜き1200円の本を出版した時点で、好むと好まざるに拘わらず、著者は読者に対して責任を持たなければならない「プロ」と捉えられてしまうのですから、そんな言い訳が通用するはずがありません。
「素人」の悲しさでしょうか、作曲家である筒美京平の魅力を語るはずのこの本には、作詞家たちの情報はいくらでもあるというのに、いったい筒美京平の「音楽」がどういうものなのかを的確に述べた部分は全く見あたりません。あろうことか、78ページには、とんでもないミスプリントが登場していますし。
筒美京平の作曲の秘密が包み隠さず書かれている本だと思って買ってしまったことが、そもそもの間違いでした。

Book Artwork © Toyo Shuppan Inc.

12月12日

GERSHWIN/Rhapsody in Blue
BERNSTEIN/West Side Story
Katia & Marielle Labèque
KML/KML 1121


ともに還暦を過ぎてもとびきりの美貌とお色気を保ちながら演奏活動を続けているラベック姉妹を見ていると、やはり同じような年齢で若い頃と変わらないお色気を振りまいているデュオ、「ピンク・レディ」を、つい思い浮かべてしまいます。彼女たちが若さを保っているのは、いったいどんな魔法を使ったからなのでしょう。
ピンク・レディがもっぱら昔のヒット曲を歌っているように、ラベック姉妹もかつて録音していたものを新たに録音し直す、ということで、昔からのファンを喜ばせているように見えます。今回の新録音、あいにく正確な録音データはどこにもないので、いつ演奏されたのかは知る由もありませんが、「ラプソディ・イン・ブルー」にしても「ウェストサイド・ストーリー」にしても、1980年頃に一度録音されていたものです。
「ラプソディ・イン・ブルー」を、1980年の録音と今回のものを比べてみると、その間には大きな「成長」のあとを見いだすことが出来るはずです。旧録音では、若々しい感情にまかせて、それまでのクラシックの演奏家がためらっていたような大胆な表現を軽々と持ち込んだことがはっきり感じられます。例えば、楽譜では八分音符が並んでいるようフレーズを、ことさら「ジャズ」を意識して付点音符で「スウィング」して演奏する、といったようなところです。それは、もちろん全ての部分でその様なことをやっているのではなく、ごく限られたところで、極めて印象的に、場合によってはかなりあざとく「違い」を強調しているものでした。
しかし、新録音では、その様な部分的なサプライズは全くなくなっています。その代わりに、曲全体に渡ってほんのわずかだけ前の音を長目に演奏するという、極めて精密かつアバウトなことを行っているのですよ。その結果、この曲からは、決してこれ見よがしではないほのかな「スウィング感」が漂うようになりました。小手先だけの技巧ではなく、もっと深いところでこの作品の「ジャズ」としての本質を表現するすべを、彼女たちは手に入れたのでしょう。
「ウェストサイド・ストーリー」に関しては、この録音の2台ピアノと打楽器のための編曲を行ったのがアーウィン・コスタルだという点が、興味を引きます。あいにく前回の録音を聴いたことはありませんから、その時と同じものなのかは確かめようがないのですが、コスタルは1994年に亡くなっていますから、今回の録音のための編曲ではあり得ません。おそらく、かなり以前に彼女らのために作られた編曲なのではないでしょうか。
コスタルといえば、シド・ラミンとともに、この名作ミュージカルのオーケストレーターとして知られている人です。いわば、サウンド面でこの作品に寄与していた人物、彼の編曲であれば、この編成でもオリジナルの持つグルーヴがそのまま反映されたものに仕上がっているはず、ただの「仮装」で終わるわけはありません(それは「コスプレ」)。確かに、「プロローグ」などは、口笛の導入から始まる歯切れのよいピアノが、まさにオリジナルそのものでした。次の「ジェット・ソング」では、いきなり4ビートのジャジーな仕上がりで戸惑ってしまいますが、それ以降は期待を裏切らない出来になっています。面白いのは、こういうバージョンで聴いてみると、バーンスタインの音楽は歌詞がなくてもしっかり作品としての完成度が保たれているのが分かる、ということです。これは、先日のBDで、ソンドハイムが「バーンスタインの曲は、あくまでインストとして完結している」と語っていたことと見事に符合します。
ジャケットが、映画版の「ウェストサイド・ストーリー」のエンド・タイトルに呼応したものになっているのも、楽しめます。こちらはスプレー・アートによるグラフィティ風のデザイン、「半世紀後」の「ウェストサイド」です。

CD Artwork © KML Recordings

12月9日

EMI CLASSICS 名盤SACD
BERLIOZ
Symphonie Phantastique
Charles Munch/
Orchestre de Paris
EMI/TOGE-12003(hybrid SACD)


MAHLER
Das Lied von der Erde
Fritz Wunderlich(Ten), Christa Ludwig(MS)
Otto Klemperer/
New Philharmonia & Philharmonia Orchestras
EMI/TOGE-12010(hybrid SACD)


日本という国は、SACDにとっては世界中で最も居心地のよいところなのかもしれません。よその国ではとっくの昔に見捨てられてしまったこのフォーマットを、これほどまでに大切にしてくれるところなど、どこにもないのではないでしょうか。なにしろ、本国では全くSACDを生産していないメジャー・レーベルの日本法人が、最近になって、なぜかいとも積極的にリリースを進めているのですからね。つくづく、日本に生まれてよかったと思っているオーディオ・マニアは、少なくないはずです。
そんな流れを象徴するかのように、EMIジャパンが今年の末から来年にかけて、なんと全部で100タイトルのSACDを順次リリースすると発表しました。これは、これまでに何度も何度も何度もリイシューを続けてきた極めつけの「売れ筋」を、フルトヴェングラーの一連のSACDと同様、日本で発売するだけのためにイギリスのEMI本社にマスタリングを依頼したというものなのだそうです。SACDファンにとっては、まさに夢のような話です。
夢をかなえるために、第1回発売分の中からの2枚を聴いてみることにしました。まずはパリ管創設時のミュンシュの指揮による記念碑的録音、「幻想」です。これは、手元に2001年に国内盤として発売された「ART」盤のCDがありましたから、それとの比較です。今回のSACDへのマスタリングが行われたのが、アビー・ロード・スタジオですが、この「ART」というのも「Abbey Road Technology」の略語ですから、同じスタッフの手によるものになるのでしょう。いや、実は両方ともイアン・ジョーンズという同じ人が手がけているのでした。
今回のSACDは、まず「ART」のCDよりもヒス・ノイズがはっきり聴こえてきます。あまりノイズを除去せず、マスターテープのままの音でマスタリング、というのが、最近の流れなのでしょうね。確かに、SACDではこれはとても有効、CDとは比べものにならない生々しい音を聴くことが出来ます。というか、この「ART」の場合は、ヒス・ノイズを取った代わりに、イコライジングを施して高域を少し上げてある感じがします。耳あたりはいいのですが、SACDを聴いてしまったあとでは、なにか嘘くさい音に感じられてしまいます。もっと悲惨なのは、ハイブリッド・ディスクのCDレイヤーです。これは、「ART」のような「化粧」を施していないため、単純に解像度が落ちて、なんとも情けない音になってしまっています。
次の「大地の歌」は、実はすでにSACDESOTERICから世に出ていました。あちらもハイブリッドですから、そうなると比較の対象は、もろに杉本さんと、ここでのエンジニア、アラン・ラムゼイとの腕の違いになるはずです。もっと言えば、EMIがどこまで杉本さんに迫れるか、という点が興味の対象になるのでは、と思っていました。ところが、予想に反して、EMIのマスリングの方がはるかに素晴らしかったのですよ。何よりも、音全体にしっとりとした落ち着きがある上に、個々の楽器の存在感が全く違うのです。第1楽章のグロッケンなどは、ESOTERICでも凄いと思ったのに、このEMIはさらにリアリティを増しています。第3楽章の途中で背後に聴こえるバスドラムも、音圧が全然違います。もちろん、ソリストの聴こえかたも別物、ヴンダーリッヒなどは別の人のようです。
よく聴いてみると、ESOTERICではっきり分かる何カ所かのノイズが、EMIではきれいになくなっています(ノイズがないぜ)。これは、元の音に影響を与えずに除去出来るようなものではありませんから、もしかしたら使用したマスターテープが違っていたのかもしれませんね。何度かダビングを繰り返した日本向けのサブ・マスターだったとか。いかに杉本さんでも、元が悪ければどうしようもありません。
こんな素晴らしいSACD100枚も店頭に並ぶのです。EMIジャパンは凄いことをやってくれました。

SACD Artwork © EMI Japan Inc.

12月7日

Arias
Christine Schäfer(Sop)
Julien Salemkour/
Symphonie-Orchester Berlin
SONY/88697914002


クリスティーネ・シェーファーのアルバムは、最近はもうほとんど「アート」と化しています。別にカミソリのオブジェが登場するわけではありませんが(それは「シェーバー」)、なにしろ、このジャケットには全然字がないのですからね。この写真で全てを語る、というコンセプトなのでしょうが、こんなどぎついメークにソフトクリームのような鬘では、この人がシェーファーだなんて、分かりませんよ。ブックレットの中にも、やはりこんなお人形さんみたいなコスプレの写真がてんこ盛りですが、どれを見ても「こんなの、シェーファーじゃないやいっ!」と言いたくなるようなけばけばしさです。「アート」もほどほどにして欲しいものです。
字がなければ、アルバムのタイトルも分かりません。一応背中に書いてあるのが「Arias」という単語、とりあえず「オペラアリア集」でしょうか。確かに、このアルバムは「オペラアリア」を集めたものには違いありませんが、ふつうその様に呼ばれている、いわば「名曲集」といった趣は、ここには全くありません。そもそも、「トリ」として最後に演奏されているのがメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」という、「オペラ」と呼ぶにはあまりに型破りな作品なのですからね。
そう、そんな「型破り」こそが、シェーファーの真骨頂なのでしょう。そんじょそこらの甘ったるい「オペラアリア集」とはまるで違った、これ自体が彼女の「作品」であるかのようなぶっとんだ「アリア集」を楽しんでみようではありませんか。
最初に登場するのが、リヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」からの、「作曲家」のナンバー「Sein wir wieder gut」です。これはまず、オーケストラの華麗な響きによってなにか別の世界へ引き込まれてしまいます。シュトラウスならではの仕掛けが満載のオーケストレーション、そこからはまさに退廃的な香りがぷんぷんと漂ってきます。おそらく、このあたりの感触を、ジャケットの写真は表現しているのでしょう。しかし、彼女の声はあくまでクールです。退廃の海の中にあっても、決してそれに溺れることなく自らを律すると言う芯の強さこそが、彼女の持ち味に違いありません。
次は一転してバロック・エラに突入です。ヘンデルの「セメレ」から「O sleep, why dost thou leave me?」。彼女のクールさは、バロックゆえにさらに磨きがかかります。
かと思うと、その直後に今度はベッリーニの「夢遊病の女」からの「Ah! non credea mirarti」といったベル・カントを披露です。バロックとは正反対の表現力を必要とされるものですが、そのコロラトゥーラは彼女にとってはいとも御しやすいものなのでしょう。ただのテクニックに終わることのない確かな華麗さが光ります。
その様な流れの中では、アルバム中最もベタなナンバー、ヴェルディの「オテロ」からの「Canzone del salice」と「Ave Maria」でさえも、いとも新鮮な味で迫ってきます。シェーファーがヴェルディを歌うと、過剰な感情を排した分、リアリティが増すのでしょうね。
このアルバムでは、時折「箸休め」といった感じでオーケストラだけの演奏が挟まります。ビゼーの「アルルの女」の「アダージェット」などは、見事にシェーファーのコンセプトを反映したクールなものでしたし、シェーンベルクの「Farben」などは、逆に暖かさに包まれていて、興味深いものでした。
そのシェーンベルクに導かれて、メシアンの登場です。天使がタイトル・ロールに向けて語る「Ah! Dieu nous éblouit par excès de Vérité」は、例えばナガノ盤でのアップショーなどとは微妙に異なるアプローチ、メシアン独特の音列から「凄み」のようなものが発散しています。そして、バックのオケはまさに完璧でした。ピッコロによる鳥の声の模倣は背筋が寒くなるほどのインパクトがあります。エンディングでの、オンド・マルトノの絶妙なモレンドとともに完結するシェーファーの世界、見事です。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

12月5日

MENDELSSOHN
Symphonies No.3, No.4(2nd version)
Heinz Holliger/
Musikkollegium Winterthur
MDG/901 1663-6(hybrid SACD)


オーボエ奏者として名高いハインツ・ホリガーが、「指揮」をしているという珍しさと、そこで演奏しているのがメンデルスゾーンの「スコットランド」と「イタリア」というなんともベタなレパートリーだったことに、逆に触手が動いてしまいました。ホリガーはオーボエ奏者であるとともに作曲家でもあるのですから、そういう方向からの、なにか新鮮なアプローチでもあるのかな、と。「イタリア」には「第2稿」などという註釈も付いていますから、異稿好きにとってはちょっと気になります(ぜひ聴きに行こう!)。確か、だいぶ前にガーディナーが録音していたはずですが、それを聴いたことはありませんし。
彼の指揮で演奏しているのは、ちょっと小ぶりの室内オーケストラのようです。聴いた感じでは楽器はモダンですが、弦楽器のビブラートは極力抑えられているようですね。そんな、ちょっと渋めのサウンドで、まず「スコットランド」から聴いてみます。まず、第1楽章の序奏の木管楽器のフレーズが、4小節+4小節ではなく、完全につながった8小節になっているのに驚かされます。このあたりは、管楽器のことを知り尽くしたホリガーならではの、ちょっとSっぽい要求なのでしょう。それ以外でも、普通はもっと速く演奏されることの多い第2楽章や第4楽章も、木管楽器のアンサンブルをきっちり聴かせるために敢えて遅めのテンポにしていますから、普段はなにがなんだかわからないところでも、実にはっきりと音楽として聴こえてくるのはうれしいものです。
ただ、第3楽章あたりは、歌い方があまりに素っ気ないように感じられてしまいます。その代わり、なにか厳しさのようなものがとても強く迫ってきます。これは、おそらくピリオド楽器に近いものを使っていると思われるティンパニのキャラクターが、そのような印象に大きく寄与しているのではないでしょうか。ですから、第4楽章の最後に短調から長調に変わっても、明るさは全くなく、音楽は重苦しく進みます。
そして、「イタリア」の「第2稿」です。全く予備知識なしに聴いていたら、第1楽章は普通のものと何も変わっていなかったので、それほどの違いはないのだな、と思ってしまったのが間違いでした。第2楽章になったら、冒頭のコラールに装飾音がなくなっています。いや、旋律自体もかなり変わっているみたい。あわててスコアを引っ張り出して見ながら聴いていると、結局、この楽章は構成自体もかなり大幅に改訂されていたことに気づくのです。
第3楽章は、やはり細かいところで微妙に音形が変わっています。トリオではホルンとファゴットによる「タンタタターン」というリズムに絡むヴァイオリンとフルートの「跳ねた」付点音符が、「なめらかな」ただの八分音符になっているので、かなりイメージが変わります。フルートの場合、もう1度出てくる時には最後が華やかなトリルになってそれが聴かせどころなのですが、ここではそのトリルもなくなっています。そして、その「タンタタターン」のリズムが、後半にもモデラートのテーマに絡みつくように現れます。このあたりが、より深みを出そうとしている工夫の表れなのでしょう。
ただ、同じように改訂された第4楽章の後半ともども、確かに成熟度は増しているものの、それによって音楽がより美しくなったという気にはなれませんでした。今までのものは、それなりに勢いがあってしっかり完結した作品なのに、下手にいじくりまわしてかえって冗長なものになってしまった、という思いが強く残ります。
第1楽章には、改訂の手は及んでいません。しかし、なぜかホリガーの演奏からは、まるで別な音楽のようなものが聴こえてきてしまいました。なにか、素直になれないメンデルスゾーンがそこにいるような。曲全体がちょっとかったるく感じてしまったのは、もしかしたら改訂のせいだけではなかったのかもしれません。

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

12月3日

BERNSTEIN
West Side Story
50th Anniversary Edition Box Set (BD)

映画版「ウェストサイド・ストーリー」が公開されたのは1961年のことでしたから、今年は「50周年記念」という年になるのですね。いやあ、あの名作が出来てから半世紀ですか。すごいものです。
この映画は、日本でも同じ年の末に公開され、なんと2年間ものロングラン上映を記録したそうです。そんなに長い間同じ映画がかかっているなんて、今ではとても考えられません。仙台でも、「東北劇場」という、スクリーンはばかでかいのに、客席はボロで、床に傾斜がないために前の人の頭がとても邪魔になる映画館で上映されていたはずです。映画館の前には常に長蛇の列が出来ていたという、これも今では考えられないような現象が繰り広げられていました(その中には、とおくから来た人もいたのでしょう)。
パッケージ・メディアとしても、VHSDVDは当然リリースされていましたが、「50周年」を記念してついにBDが発売されました。アメリカ版は、スタンダードの装丁の他に、「おまけ」がたくさんついたボックス・セットがあったので、迷わずそちらを注文です。なんせ、公開時のチラシのミニチュアが、日本版も含めて10枚も付いてくるのですからね。日本版BDももう少ししたら発売されるのですが、それはボックス・セットのみの限定バージョン、しかも、マスターがアメリカ版とは別のものというのでパスです。日本語吹き替え版は、部分的にカットされていて、そこだけセリフがないというお粗末さですし、値段も、日本版はAMAZON価格でも\5,118なのに、アメリカ版は送料も含めて$54.97なのですから、ずっとお買い得。ネックは、日本語字幕がないことですが、何十回となく見てセリフはすべて頭に入っていますから、なんの問題もありません。いざという時には、英語の字幕を見ればいいのですから。

このBDの画面を見ていると、下手に映画館で見るより楽しめるのではないか、というほどの気になってしまいます。一度、最新リマスター版というのを劇場で見たのですが、それはあるシーンだけ画面の真ん中に黒い点がずっと出ていましたし、もう少しましなものを見た時でも、リールの変わり目ではちょっとストレスを感じてしまいました。場合によっては、映写機の光が弱くて、ずっとうす暗いスクリーンを見続けないこともありますし。
なぜか、このボックスには同じマスターのDVDが同梱されています。今はDVDプレーヤーしかもっていないけれど、将来はBDプレーヤーを買いたいという人のための配慮なのでしょうか。しかし、BDを見た後にこのDVDを見てみたら、そのあまりのクオリティの低さに唖然としてしまいました。この現状を知ってしまっては、もうDVDには戻れません。不思議なことですが、アメリカ版の場合DVDは日本版とはリージョン・コードが違うのですが、BDの場合は同じなのですね。なぜなのでしょう。不思議と言えば、BDを再生すると「プレーヤーは常にアップ・デートしてください」とか、「複製はなんたら」といったコメントが日本語で表示されていました。日本語字幕は出ないというのに。
ボーナス・トラックに、スティーヴン・ソンドハイムが自ら語っている曲目紹介が入っています。これは、もしかしたら本編以上に貴重なものなのではないでしょうか。なんせ、この名曲たちを作ったご本人が、その曲が作られた経緯を事細かに話しているのですからね。それによると、まさにこれらの曲はバーンスタインとの「共同作業」の末に出来上がったことが良く分かります。さらには、バーンスタインは、別の作品から多くの部分を引用していたという「秘話」まで語られています。「アメリカ」に使われた「ウアパンゴ」という、ヘミオレを多用したリズムは、別の作品に使うためのスケッチが最近見つかったとか、まるで「音楽学」のような興味深い話が満載です。

BD Artwork © MGM

12月1日

BRAHMS
Piano Concerto No.1
Hardy Rittner(Pf)
Werner Ehrhardt/
l'arte del mondo
MDG/904 1699-6(hybrid SACD)


ブラームスの交響曲をピリオド楽器で演奏するという試みは、すでにかなり日常化しています。ノリントンやガーディナーの録音によって、モダン・オーケストラで演奏するのとはひと味違った、ちょっと無骨なブラームスの素顔のようなものを味わった方もいらっしゃることでしょう。しかし、なぜかピアノ協奏曲については、今までにピリオド楽器を使おうという人はいなかったようです。そんな、もうとっくに出ていたと思っていたブラームスのピアノ協奏曲第1番の、ピリオド楽器による世界初録音です。
この作品は、ブラームスがまだ20代だった頃に作られています。初演が1859年といいますから、その頃のピアノは当然現代のものとは全く異なったものでした。ここでは、1854年に作られたエラールのピアノが、修復されてそのまま使われています。もう、その音を聴くだけで、今のスタインウェイとは、同じ「ピアノ」と言っても全く別の楽器であることが分かるはずです。ただ、なぜフランス製のエラール?と思われるかもしれません。しかし、ブラームスは、場合によってはドイツやウィーンの楽器よりも、エラールを選択することもあったのだそうですね。
オーケストラは、ここで指揮をしている元コンチェルト・ケルンの指揮者/コンサートマスターのヴェルナー・エールハルトが2004年に設立したピリオド・オケ、「ラルテ・デル・モンド」です。スイーツみたいな名前ですが(それは、「プリン・アラ・モード」)、「世界の芸術」という意味のイタリア語、大きく出たものです。
この協奏曲のために用意された編成は、8人のファースト・ヴァイオリンから3人のコントラバスという、今日一般的に用いられている編成のほぼ半分のサイズです。そんな少ない弦楽器でブラームスの渋い音色が出せるのか、という疑問を抱きながら、まずこのライブ録音を聴いてみましょう。そうすれば、そんな疑問はそもそもなんの意味もなかったことに気づくはずです。まず最初に聴こえてきたオーケストラだけの長い序奏は、「渋さ」とは全く無縁の、いともストレートな力強さにあふれたものだったのですから。そう、これはまさにあごひげをたたえ丸々と太った肖像画のあのブラームスではない、もっと精悍な面持ちをたたえたイケメンの若きブラームスが作ったものであることがはっきり分かる演奏だったのです。
そんな、溌剌としたオーケストラの中にエラールのピアノが登場します。確かにそれは、スタインウェイのコンサートグランドを聴き慣れた耳にはなんとも奇異な印象を与えられるものでした。なんという素朴な音色とエンヴェロープなのでしょう。それと同時に、そこからは確かにブラームスの肉声のようなものが感じられたのです。20世紀以降の洗練された言葉ではなく、まさに19世紀半ばのセピア色の語り口、この頃のピアノには、まだ人と人とがお互いに相手の目を見ながら会話が出来るようなしゃべり方が残っていたのでしょうね。それに比べると、現代のピアノは、なんだか一方的に大勢に向かってがなりたてているような感じがしませんか?相手の意思に関係なく、自分の考えだけを声高に伝える、そんなツールになってしまってはいないでしょうか。
そんな、まるで相手のことを思いやるようなしゃべり方は、第2楽章ではさらにはっきり伝わってくるようになります。とても美しいフレーズは、決してこれ見よがしの華やかさを誇示することはなく、まるで「ありのままの私を知って」と言わんばかりの訴えかけで迫ります。虚飾にまみれた外見よりは、朴訥な誠実さの方が、時には美しく感じられることがあるものです。
フィナーレでは、中ほどでオーケストラに現れるフーガのいかにもな不器用さが、逆に親しみを感じられてしまいます。どこまでも純朴な田舎娘のようなブラームス、とても気に入りました。

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

11月29日

HOLST/The Planets
WILLIAMS/Star Wars Suite
Zubin Mehta/
Los Angeles Master Chorale
Los Angeles Philharmonic Orchestra
DECCA/478 3358


「宇宙」をあらわす時にシュトラウスの「ツァラトゥストラ」のファンファーレを使うのはもうすっかり常套手段になっています。これはもちろんスタンリー・キューブリックの「2001年」のサントラ(だけ)がすっかり浸透したおかげなのでしょう。最近ではもう一人の「シュトラウス」のワルツ「青きドナウ」までも、やはりこの映画のせいでちゃっかり「宇宙」のイメージを持つ曲の仲間入りを果たしてしまったようですね。最初に映画でこのシーンの音楽を聴いた時には「なんとミスマッチ、どなうことか」と思ったものですが、月日を重ねた刷りこみというのは恐ろしいものです。クラシック音楽は、こんなところから「身近」に感じられるようになるものなのでしょう。
それから10年経って作られたジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」の音楽は、「2001年」とは別の意味で「クラシック音楽」とのかかわりを示していました。ジョン・ウィリアムズがこの映画のために書き上げたスコアは、それまでの映画音楽とは全く異なる、まさに「クラシック音楽」風の「シンフォニック」な響きを持っていたのです。いや、正確には「それまで」以前、20世紀半ばごろまではハリウッドでは確かに鳴り響いていたはずの、エーリッヒ・コルンゴルトなどによってヨーロッパからもたらされたロマン派の薫り高い「クラシック音楽」風の映画音楽が、この映画によって再びサウンドトラックの第一線に躍り出た、と言うべきなのかもしれません。
そんな、クラシック度満載の映画音楽を、さらにグレードアップして本物の「クラシック音楽」にしてしまったのが、ズービン・メータの依頼によって、当時の彼の手兵LAフィルが演奏するために再構築されたこの「スター・ウォーズ組曲」です。それは、映画が公開されたのと同じ1977年に、DECCAのエンジニア、ジェームズ・ロックによって、まさに「デッカ・サウンド」そのものの「クラシック音楽」として録音されました。
CD時代に入ると、この組曲は、同じ「宇宙」を扱った正真正銘の「クラシック音楽」である、ホルストの「惑星」(これは「究極の名録音」を集めた本の中でも取り上げられた、やはりジェームズ・ロックが1971年に行った名録音です)とのカップリングでリリースされるようになりました。
そして、今回、一連のユニバーサルのバジェット・シリーズの一環として、このカップリングがリイシューされた時には、「スター・ウォーズ組曲」からは、メータたちのオーケストラの演奏ではなかったバンド・ナンバーがカットされていました。これにより、アルバム全体としてはより「クラシック度」が上がった結果、この2曲がまるでひと固まりの組曲として作られたかのように思えてしまうようになっていました。演奏されているのは「惑星」の方が先ですから、「海王星」の後半に登場する神秘的な合唱が見せる、まさに絶妙のフェイド・アウト(もちろん、これは録音エンジニアの功績です)は、「スター・ウォーズ」のファンファーレを呼びだす、まさに「必然」として感じられてしまうのですね。さらに注意深く聴けば、その「メイン・タイトル」の途中には「火星」のエンディングと全く同じ音楽が現れることに気づくはずですし、続く「レイア姫のテーマ」冒頭のホルン・ソロは、「金星」の冒頭の雰囲気に酷似していることにも、やはり気づくことでしょう。
もちろん、ここで言う「スター・ウォーズ」とは、今では「エピソード4」として知られている、このシリーズの第1作のことです。したがって、「帝国のテーマ」とも言われる「ダース・ベイダーのテーマ」は出ては来ません。これは非常に残念なことです。このテーマが入っていさえすれば、その、まさに「火星」の冒頭のような音楽によって、「惑星」との密着度はより上がったことでしょうに。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

11月27日

指揮者の役割
ヨーロッパ三大オーケストラ物語
中野雄著
新潮社刊(新潮選書)
ISBN978-4-10-603688-0

著者の中野さんは、かつてはオーディオ・メーカーの「トリオ」(現ケンウッド)の社長をなさっていた方ですね。彼のお宅のハイレベルなオーディオ・システムも、よく雑誌などに取り上げられていたはずです。なんせ、オーディオ・メーカーのトップなのですから、当然のことなのかもしれませんが、中野さんはクラシック音楽についてもハイレベルのところで接していたような印象がありました。
そんな方の書かれた、世界屈指のオーケストラと指揮者、あるいは団員とのお話は、ただの「音楽評論家」や、ましてや「ライター」の手になる同じような書物とは、比較にならないほどのリアリティにあふれるものでした。登場する人物のインタビューにしても、それはよくあるおざなりなものではなく、まさに「友人」としての親密さで語られているものでした。何よりも、長く音楽を愛し、さらには音楽業界に身を置いたことで培われた著者の確かな審美眼には惹きつけられるものあります。
登場するオーケストラは、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、そしてロイヤル・コンセルトヘボーの3つです。それぞれに1つの章があてがわれて、全く異なる切り口でそれぞれのオーケストラと指揮者の関係が語られます。
ウィーン・フィルの場合は、まず、そのオーケストラのメンバーによって作られた室内楽団を引き合いに出すことで、オーケストラ全体が一つの「室内楽」であることが強調されています。極論すれば、「指揮者を必要としないオーケストラ」という捉え方でしょうか。ですから、ここでは指揮者にとってはかなり「おっかない」エピソードが数多く登場します。「ある程度名のあるフランス人指揮者」の場合は、コンサートマスターの機嫌を損ねたために、「カルメン」を演奏している間中アンサンブルを微妙にずらすという「いじめ」を受けて、最後には指揮をしながら泣き出したのだそうですよ。某「小澤」に対しても、必ずしもこのオーケストラとの相性がよくないという雰囲気は、多くの団員の証言から分かるようになっています。例の「ニューイヤー」の舞台裏はさんざんだったようですね。初めて知ったのですが、フォルクス・オーパーにはトヨタがかなりの資金援助をしているのですね。「小澤のニューイヤー」がその見返りだったのかも、というような「風評」も、納得できてしまいます。
ベルリン・フィルの場合は、ほとんど「カラヤン論」に終始しているような印象を受けます。ここでの著者のスタンスは、カラヤンに対してあくまで客観的に接しているもののように見えます。「終身」だったはずのベルリン・フィル常任指揮者の地位を奪われる経緯には、もっぱら経営者としての厳しい視点が感じられます。ちなみに、このオーケストラがクリュタンスと最初に録音したベートーヴェン交響曲全集を「モノラル盤」としていますが、これは著者の勘違いでしょう。確かに一部モノラルのテイクものらるようですが、全集には全てステレオ録音のものが入っていたはずです。
コンセルトヘボーでは、今度はコンサートマスターが主役です。著者とは50年来の友人というヘルマン・クレッバースの話を中心に、このオーケストラの歴史がまるで見てきたようにいきいきと語られています。
最後に「よい指揮者」についての1章が加わります。そこで紹介される、著者が「たまたま」遭遇したという某美人女性指揮者(誰だかはすぐ分かります)のリハーサルの現場は、いとも生々しいものでした。稚拙な指揮ぶりの指揮者に対して、管楽器奏者が罵声を浴びせていたのですね。人気があっても実力のない指揮者を、オーケストラの団員はすぐ見破ってしまうのでしょう。本番は、誰も指揮者を見ないで、きちんと演奏したのだそうです。日本のオーケストラも「おっかない」ものですね。

Book Artwork © Shinchosha

11月25日

WEINBERG
Requiem
Elena Kelessidi(Sop)
Vladimir Fedoseyev/
Wiener Sängerknaben, Prague Philharmonic Choir
Wiener Symphoniker
NEOS/NEOS 11127(hybrid SACD)


この前協奏曲のSACDを聴いて、かなりの親近感をおぼえた作曲家、ヴァインベルクは、「レクイエム」も作っていたのですね。その最新の録音が出たというのですから、これは聴かないわけにはいきません。なんといっても、この作品が初演されたのはほんの2年前、2009年の11月ということですから、まだまだ新鮮です。
そんな最近の初演だからといって、ヴァインベルクがこの「レクイエム」を作ったのは彼の晩年ではなく、ずっと昔、1965年から1967年にかけてのことでした。彼の友人ショスタコーヴィチから、1962年に作られたブリテンの「戦争レクイエム」を聴くことを勧められ、この作品に対する「返事」となるようなものを作ろうとしたのがきっかけなのだそうです。しかし、なぜかその楽譜は彼のデスクの引き出しの奥に仕舞いこまれてしまい、死後13年も経ってから、やっと初演されたのだということです。
このSACDは、初演の翌年、ブレゲンツ音楽祭でのヴァインベルク作品の集中演奏の際に演奏されたもののうちの一つです。他の作品も、同じレーベルからシリーズでリリースされています。なによりも、すべてSACDであるのがとても大きなメリットですね。最近は、CDの音がとても貧しく感じられて仕方がありません。
初めて耳にしたヴァインベルクの「レクイエム」が、そんな、とても良い音だったのは、とても幸せなことでした。この曲の編成はオーケストラにソプラノ・ソロと児童合唱、混声合唱が入るという大きなものなのですが、それらが一斉に鳴り響くという場面は意外と少なく、ほんの少しの楽器だけで演奏される部分がかなりを占めています。そんな繊細さから、トゥッティによる大音量まで、なんのストレスもなく味わえるのですからね。特に、ふつうはあまり用いられることのないチェンバロ(モダン・チェンバロでしょうね)やマンドリンといったか細い音の楽器が、ライブ録音にもかかわらずしっかり聴こえてくるのは、ありがたいことです。
声楽パートのテキストには、ブリテンの作品のように、現代の詩人によるものが使われています。ただ、ブリテンにあった本来の「レクイエム」のラテン語の歌詞は全くありません。ロシア人の他に、スペイン人のフェデリコ・ガルシア・ロルカやアメリカ人のサラ・ティースデイル、そして日本人の深川宗俊といった各国の詩人(歌人)の詩が、全てロシア語(たぶん)に翻訳されて歌われています。なぜか、このパッケージにはそれらの原詩はおろか、対訳すらも掲載されていないので、その内容を知ることは、ロシア語(たぶん)が聴き取れる人に限られる、というのが、このSACDの最大の汚点でしょう。この作品でのテキストは、たとえ当時の「ソ連」の体制の中であっても、かなりの主張が込められているものですから、それんはぜひ知っておきたいものでした。
ただ、テキストの意味を剥奪された、かなり情緒的な印象しか受け取れないにもかかわらず、全体の三分の一を占める長さの4曲目、深川宗俊のテキストによる「広島の短歌」というタイトルの部分からは、なにかしっとりとしたメッセージを受け取れたような気がします。最初の部分はほのかなビブラフォンをバックにフルートやマンドリンのソロが奏でられるなかで、静かに合唱が歌うという情景、フルートは尺八、マンドリンは箏の模倣でしょうか。そのフルートが、一転バスドラムに乗って行進曲風のフレーズを吹き出すと、合唱は無調風の不安なものに変わります。クライマックスは、ア・カペラで朗々と歌い上げられた後に襲ってくる多くの打楽器による「惨事」の描写でしょうか。後半にまた静かな場面が戻ってくるのも印象的です。最後の、ちょっと拙い児童合唱には、癒される思いです。
全体で1時間ほどの長さ、ヴァインベルクのちょっとニヒルな魅力が満載の「レクイエム」です。

SACD Artwork © NEOS Music GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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