ウェスト、ミニスカ。.... 佐久間學

(10/10/24-11/11)

Blog Version


11月11日

BACH
The Brandenburg Concertos
Sigiswald Kuijken
La Petit Bande
ACCENT/ACC 24224(hyhbrid SACD)


ジギスヴァルト・クイケンにとっては、これが3度目の「ブランデンブルク」の録音なのだそうです。最初は1976年(SEON)と言いますから、「ピリオド楽器」の黎明期ですね。ここでは、グスタフ・レオンハルトやフランス・ブリュッヘンといったビッグ・ネームが指揮をしていて、ジギスヴァルトは演奏者として参加していましたが、次の1993年の録音(DHM)では、「ラ・プティット・バンド」を率いていました。今回2009年の録音も同じ団体ですが、メンバーは大幅に替わっていることでしょう。そして、ジギスヴァルトが担当している楽器も、ヴァイオリンから「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」に変わりました。彼の代わりにソロ・ヴァイオリンを弾いているのはお嬢さんのサラ・クイケン、世代が変わった、ということですね。

「スパッラ」を重用するようになったのは、彼らの最近の流れからは、当然のことでしょう。もはや、彼らはバッハの曲(いや、ヴィヴァルディでさえ)では「チェロ」という楽器を使うことはなくなってしまったのでしょうね。この写真は「3番」のリハーサルの様子ですが、真っ正面に「スパッラ」が3台並んでいるのは壮観です。その隣に、普通の「チェロ」があるではないか、と思われるでしょうが、これは「バス・ド・ヴィオロン」という別の楽器なのですね。これも「スパッラ」同様、クイケンたちが最近よく使うようになっている「新しい」(いや、もちろん「古い」のですが)楽器です。バッハの場合、「チェロ」の楽譜の下段に、記譜上は殆どチェロと同じ音域で「ヴィオローネ」という指示のパートがありますが、今まではここをコントラバスで「1オクターブ低く」演奏することが一般的でした(さげよーねって)。しかし、先日の「オーケストラの世界」でも指摘があったように、たまにこのパートにチェロの1オクターブ下の音符が書いてあることがあるために、近年では「記譜通り」演奏するべきなのではないか、という主張が生まれています。そこで、使われるようになった楽器が、この「バス・ド・ヴィオロン」という、チェロをほんの少し大きくしたような楽器なのですね。
そんな「軽い」低音を持ったアンサンブルが演奏するブランデンブルク、例えば「3番」などでは、第3楽章(ちなみに、カデンツァだけの第2楽章がトラックの最初となっているライナーのトラック・リストは間違いです)をとてつもなく早いテンポで演奏しても、易々と弾きこなせてしまうのですから、見事、としか言いようがありません。「5番」でも、バス声部がこれほど明瞭に聞こえてくる演奏など、初めて聴いたような気がします。特筆すべきは、ここでのエヴァルト・デメイエルのチェンバロ・ソロ。力の抜けたさりげなさの中からにじみ出てくるファンタジーあふれる演奏が、とても素晴らしいものでした。
1993年盤では、「2番」のソロ・トランペットはホルンで演奏されていました。その頃は、ピストンこそないものの、音孔が開いていた「バロックトランペットもどき」しかなかったので、それならば、と、ホルンを使ったのですが、今回は、ホルン奏者のジャン・フランソワ・マドゥーフが、「妥協のないバロックトランペット」で鮮やかな至芸を聴かせてくれています。
同じように、ヴィオラ奏者のマルレーン・ティエルスと戸倉政伸が、「6番」ではヴィオラ・ダ・ガンバを持ちかえて弾いています。ただ、その器用さには感服するものの、ヴィオラとの絡みなどはことごとく「走って」しまって、アンサンブルの体をなしていません。ヴァイオリン・ソロのサラ・クイケンも、たとえば「4番」の終楽章などでは、余裕のないテクニックが露呈されてしまっています。そんなこともあってか、アルバム全体がなんとも窮屈な雰囲気に支配されているのが、ちょっと残念です。この曲では、もっと余裕があって楽しげな奏者間のやり取りが聴きたいものです。

SACD Artwork © Accent Tonproduktion

11月9日

RZEWSKI
The People United Will Never Be Defeated
Kai Schumacher(Pf)
WERGO/WER 6730 2


この前のCARUSのように、このWERGOというのもSCHOTTという楽譜出版社の一部門としてのレーベルです。LP時代からの長い歴史と、豊富なカタログを誇る、現代音楽にはなくてはならないレーベルでしたね。ただ、最近はあまり勢いが感じられないのは、なぜなのでしょう。
当然のことながら、メインは自社で出版した楽譜を使って演奏されたものになります。ところが、今回の「不屈の民」は、SCHOTTではなく、ZEN-ON、つまり、日本の全音から出版されたものでした。確か、今のSCHOTTの日本法人である「日本ショット」は、かつては「全音ショット」という名前だったような気がするのですが、その頃の提携関係が今も続いているのでしょうか。いずれにしても、この曲は今だと税込み2100円ほどで、簡単に買うことが出来ますから、鑑賞のお供に、あるいはご自分で演奏してみるためにお手元に置いておくのは、いかがでしょうか。
2009年の最新録音は、ドイツの若手、カイ・シューマッハーによって行われました。なんでも彼は7歳でピアニストとしてデビュー、15歳の時にはショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番をオーケストラと共演しているといいますから、殆ど「神童」と呼べるようなスタートを切っていたのですね。しかし、この方、写真を見るとなかなか突っ張った風貌で、とてもクラシックのピアニストとは思えません。金髪を逆立てて、まるでパンク・ロッカーのような「アブナイ」人に見えてしまいます。確かに、彼は学生時代はクラシックのコンサートになどは行かず、まさに「パンク・ロック」に傾倒していたというのですから、そのまんま、ですね。あ、小島よしおやってたわけではないですよ(それは「パンツ・ロック」)。
いや、実は、彼は現在でも「トラストゲーム」というロックバンドのキーボード奏者/エレクトロニクス担当として活躍しています。おそらく、そのスタンスそのままに、「現代音楽」のシーンでもユニークなコンサートを行っているようです。クラシック、現代音楽、そしてロックを並列に融合させるという試み、なかなか楽しそうですね。
そんなシューマッハーくんによって、おそらく彼が生まれる前に作られた「不屈の民」は、新たな側面を見せることとなりました。この変奏曲のテーマであるチリの革命歌が最初に提示されるときに、そこからはとても暖かい情感が伝わってきたのです。このテーマ、革命歌とは言っても、実はかなり軟弱なメロディを持っていて、Aメロの後半などは例えばあの韓国ドラマ「冬のソナタ」のテーマ曲と全く同じコード進行になっています。そう、このパンク野郎のピアノからは、まさにヨンさまとチェ・ジウの純愛物語が感じられてしまったのですよ。
こうして、「冬ソナ変奏曲」(ウソ)は、もはやとても親しみのあるクラシックスとして、なんの抵抗もなく受け入れられる素地が作られてしまいました。いろいろ難しいテクニックやアイディアを盛り込んではいますが、本当はこんな楽しい曲だったんですね。
全部の変奏が終わってからの、自由な「カデンツァ」は、なにかとてつもなく小さな音で始まったと思ったら、ついには音がなくなってしまいましたよ。これって、もしかしたらケージのパロディ?しかし、それは「4分33秒」続くことはなく、ほんの一瞬で終わってしまったので、一安心です。しかし、そのあとで「テーマ」が現れたときの驚きといったら。それは、ほんの1時間前に聴いたものとはガラリと変わってしまった、まるで瀕死の病人のような弱々しいものだったのです。これが、おそらくシューマッハーくんのこの作品に対する「回答」だったのでしょうか。今の世の中、「革命」なんてものは幻想に過ぎないのさ、という。
この録音には、ジェフスキその人が立ち会っていました。その写真がライナーにありますが、孫ほどのピアニストを見つめるその目は、どこか寂しげです。

CD Artwork © Schott Music & Media GmbH

11月7日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 02


1971年生まれのフランスの指揮者、フランソワ=グザビエ・ロトが、2003年にフランスの若いピリオド楽器奏者を集めて作ったオーケストラ、「レ・シエクル」のライブ録音です。この名前、「シエクル siècle」というのはフランス語で「世紀」のこと、このように定冠詞のついた複数形は「後世」というような意味があります。決して、オケの収入だけでは生活できないので、実家から援助(それは「シオクリ」)してもらっているから付けられたのではありません。
指揮者もオーケストラも、最新の「音友ムック」のようなものには名前が載っていない一見マイナーな存在ですが、このチームは「ラ・フォル・ジュルネ」の常連として一部のファンにはすでにお馴染みのものです。それを聴いた人たちの評判もなかなかのものがあるので、期待しても構わないでしょう。なにしろ、これは、ベルリオーズの生地ラ・コート・サン・タンドレで行われている「ベルリオーズ音楽祭」で、指揮者もオケもフランス人(いや、メンバーの中には「コバヤシ・タミコ」さんのような日本人もいますが)のピリオド楽器の団体が演奏した「幻想」の記録なのですから、それだけでもそそられますし。
最近は、「ライブ録音」とは言っても、そのクオリティはセッション録音とほとんど変わらないものとなっています。このCDでも、使われているマイクなどの機材(録音は「ピラミックス」)がきちんと掲載されていますから、なおさらその音に対する自信が感じられます。しかし、最初からいきなりものすごいホール・ノイズが聞こえてきたのには、ちょっとたじろいでしまいます。録音されたのは2009年の8月、空調の音がもろに入ってしまったのでしょうか。このモーター音のようなものは、最後まで続いていました。
機材を吟味した割りには、楽器のバランスが悪いのも、ちょっと気になります。木管セクションだけがはっきり聞こえてきて、弦楽器や金管がちょっと物足りないのですね。しかも、木管の中でも、肝心のピッコロだけがなぜか殆ど聞こえてきません。この曲でピッコロが聞こえてこないことには、魅力も半減です。それと、これは絶対に聞こえて欲しい第4楽章のマーチでのトロンボーンのペダルトーンも、全然聞こえてきません。いったい、どんなマイクアレンジで録音したのでしょうかね。とてもプロの仕事とは思えないこのもっさりとした音は、それだけでこの「商品」の価値を著しく損ねています。
そんな音で聴いたからなのでしょうか、演奏の方も、なにか物足りません。確かに、いろいろアイディアを出しているのは分かります。第1楽章の提示部の繰り返しも、1回目よりはよりハイテンションなものになっていますし、3楽章のコール・アングレと対話するバンダのオーボエも、サロネン盤みたいに次第に遠ざかっているように聞こえないこともありません。しかし、そんな小技を弄するだけで、全体的な音楽は、なにかを表現しようという意識が全く感じられないような、とてもつまらないものに思えてしまいます。それは、とても上品で当たり障りのないもの、もしかしたらそれを「エレガント」で「粋な」演奏とみなして評価されることがあるのかもしれませんが、この曲の場合はもっとハチャメチャなところがないことには、全く面白くありません。そうでなければ、せっかくピリオド楽器を「再発見して修復」(ライナーでのロトの言葉)した意味が無くなってしまうのではないでしょうかねぇ。
そのライナーでロトが最初に挙げている「鐘」にしても、この間のインマゼールがピアノで示してくれた衝撃的な音を聴いてしまうと、なんとも間抜けなものにしか聞こえません。そして、致命的なのがフルートの音程の悪さ。「楽器」のせいにしないで正しい音程を出せるように精進している人は、フランスではまだ少ないのでしょうか。

CD Artwork © Actes Sud

11月5日

MUHLY
A Good Understanding
Kimo Smith(Org)
Grant Gershon/
Loa Angeles Master Chorale
DECCA/478 2506


ニコ・ミューリーという、1981年生まれのアメリカの作曲家の合唱作品を集めたアルバムです。まだ20代、しかし、これからどんどん頭角を現してきそうな予感の、新鋭です。そのうちノーベル賞を取ることでしょう(それは「キューリー」)。彼は、最初はコロンビア大学でイギリス文学を学びますが、そのあとジュリアードの大学院に進み、そこでジョン・コリリアーノなどに師事したそうです。さらに、フィリップ・グラスのアシスタントのような形で、さまざまなコラボレーションを行ってきました。なんと、あのアイスランドの鬼才ビョークなどとも共同作業を行っているのだとか、現代アメリカならではの、広範なジャンルでの活躍ですね。その流れでは、当然映画の音楽なども手がけています。
しかし、彼自身は小さい頃は聖歌隊に属していて、ルネサンスから現代までの合唱音楽に接してきたことが、音楽性の形成に大きな影響を持っていると考えているようです。ライナーでは「合唱音楽を書くことは大いなる喜びだ」と語っていますね。
そんな彼の作品は、確かに教会音楽をルーツに持っていることを感じることは出来ます。「Bright Mass with Canons」というのは、そんなフルミサに近いものです(Credoがありません)。しかし、そのイントロから現れるオルガンによる装飾は、かなり「前衛的」なテイストを持ったものでした。ハチャメチャなオルガンに対して、シンプルな合唱というスタンスなのかもしれません。「カノン」と言っていますが、それはまるで「ディレイ」のように聞こえるのが、「現代的」な仕掛けなのでしょうか。それは、古典的な対位法を味わわせるのではなく、平坦なメロディに「翳り」を加えるもののように思えます。最後の「Agnus Dei」は、本当に美しい音楽です。
彼の本領が見えてくるのは、「Senex puerum portabat 老人は、幼子を抱いた」という、キリスト生誕の聖歌です。流れるようなメロディの裏では、単音のオスティナートが歌われていて、なにかミニマルっぽいテイストを醸し出しています。そのうちに、合唱には金管アンサンブルが加わって、さらにミニマル感が増してきた頃、合唱はテキストを各々が不確定に歌うという、ちょっと懐かしい手法が現れたりします。そこには、ペルトやタヴナーといった、殆ど「主流」となったかに見える宗教曲の流れの中に、決して甘くはならない様な決意の杭を打ち込んでいるようにも感じられてしまいます。最後に収録されている、これは「Expecting the Main Things from You」という世俗曲ですが、ここでの伴奏の弦楽四重奏がいきなりクセナキスのようなグリッサンドを聴かせてくれたりしますしね。
タイトル曲の「A Good Understanding」は、詩篇の英訳がテキストに用いられています。ここにはオルガンの他にパーカッションが加わり、色彩的でダイナミックなサウンドが、このウォルト・ディズニー・コンサートホールいっぱいに広がります。そう、この、豊田さんの音響設計になる卓越したアコースティックスを誇るホールでの録音というのが、さらなる魅力を与えてくれます。決してうまいとは言えないこの合唱団(「ミサ」の中の「Gloria」冒頭の女声などは、悲惨そのものです)が、この美しい響きの空間の中で、とてもしっとり聞こえるのですからね。オルガンの重低音や、パーカッションのエネルギー感や繊細さ、さらには弦楽器の肌触りなどが、とても贅沢な音響となって迫ってきます。
ただ、なぜかそれぞれの楽器や合唱が平板に聞こえてしまうのは、やはりCDの限界なのでしょうか。手元に、同じエンジニア(フレッド・フォーグラー)が同じホールで録音したSACD(サロネンの春祭:DG/477 6198)があったので聴いてみたら、まさに「立体的」な音場が味わえましたが、そのアルバムのCDレイヤーでは、やはりこのミューリーのような平板なものでしたからね。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

11月3日

DVOŘÁK/Symphony No.8
BRAHMS/Symphony No.3
Herbert von Karajan/
Vienna Philharmonic Orchestra
ESOTERIC/ESSD-90036(hybrid SACD)

1950年代末から、1960年代にかけて、数々の素晴らしいレコードを世に送ったイギリスDECCAのジョン・カルショー(プロデューサー)とゴードン・パリー(エンジニア)のチームによる録音が、最近続々とSACD化されているのは、何よりも幸せなことです。もちろん、その最大の成果は、1958年から1964年にかけて制作されたワーグナーの「指環」だったわけです。ただ、不思議なことに、そのSACD化にあたったのはDECCAそのものではなく、日本のメーカーだったのですね。オーディオ・メーカーとして知られているTEACという会社には、業務用機器にはTASCAM、ハイエンド・オーディオにはESOTERICなどのブランドがありますが、そのESOTERICが「マスターを取り寄せて」ビクターのマスタリング・センターでマスタリングを行った、というものでした。
しかし、本来DECCAという会社は、LPの時代からマスタリングを外部に任せることは一切許さないという、徹底した品質管理を行っていたところです。いくらなんでもマスターテープそのものから直接マスタリングを行っているなどということは考えられません。たぶん、DECCAによって提供された、マスターテープからハイレゾリューションPCMA/D変換したデータを、こちらでDSDに変換してSACDのマスターを作っていたのでしょうね。つまりDECCAは、アナログデータをデジタルに変換する、というおおもとのところは、決して他の人の手には任さないぞ、という、「一線」は守っていたのでしょう。
しかし、そんな、ワンクッション置いたマスターからのSACD化であっても、杉本さんのスキルは存分に発揮されることになりました。それは、CDからは決して味わうことが出来なかった、かつてのLPでは確かに存在していた「質感」を、しっかんり聴かせてくれるものだったのです。
そんな実績を目の当たりにして、「本家」であるDECCA、というより、今は実体のないそのレーベルを統括しているUNIVERSALも、あくまで日本国内でのことですが、一旦は見捨てたSACDを再びリリースするようになりました。もちろん、こちらはしっかりDECCAによって2004年に制作されたDSDマスターを用いていますが、素材を吟味したり、あえてハイブリッド仕様を避けて、SACDレイヤーのみにするなどのマニア向けのスペックとなっています。
確かに、最初に聴いたバルトークこそ、4500円というべらぼうな価格に見合うだけのクオリティは感じられたものの、次に発売されたシュトラウスでは、CDと比べて、それほど劇的な違いもなかったので、軽い失望をおぼえてしまったものです。
そのシュトラウスと同時期に、同じ会場で、同じアーティストと同じスタッフによって録音されたものが、このドヴォルジャークとブラームスのカップリングです。これは、杉本マスターとDECCAマスターを比較してみるには、格好の素材ではないでしょうか。その結果、こちらの方が明らかにワンランク上、より生々しいものに感じられるのは、なぜなのでしょう。3300円とはるかに安いというのに。
ただ、このSACDが出るにあたってのちょっとしたトラブルが、気になります。そもそもは今年の2月にリリースされたものなのですが、送られてきたマスターが、ブラームスの第1楽章で2小節分まるまる音が抜けているという不良品だったのです。それに気が付いたメーカーは、あわてて本国から「ちゃんとした」マスターを取り寄せようとしたら、なんと、1ヶ月もたたないうちにそれが用意できてしまい、4月には何事もなかったように良品がリリースされたのですね。こんなに素早い対応はありがたい反面、いったい、DECCAではマスターテープがどんな状態で管理されているのか、とても気になってしまいます。もはや「完パケ」のマスターテープなどは存在しておらず、未編集の素材を新たに編集してマスターを作らざるを得なくなっているのでは、とかね。あいにく「不良品」は入手していなかったので、そのあたりを検証出来ないのが残念です。

SACD Artwork © Esoteric Company

11月1日

Musica Sacra Hungarica
Éva Kollár/
Budapesti Monteverdi Kórus
CARUS/2.151/99


CARUSというレーベルは、同名のシュトゥットガルトの楽譜出版社が、自社の楽譜を使って演奏されたものをリリースしているという、面白いところです。かつては同じシュトゥットガルトのHÄNSSLERも、似たようなことをやっていましたが、今はどうなのでしょうね。ここは、モーツァルトのレヴィン版の「レクイエム」を出版していたところだったのですが、今ではそれがCARUSから出ているそうですから、もはや出版業からは手を引いたのでしょうか。
CARUSの楽譜の音源としてのCDという位置づけは、今回のアルバムでは究極の形になったかに見えます(べつに、9曲しか入っていないわけではありません)。なにしろ、楽譜とCDの品番が全く同じなのですからね。これは、今までのCDとは品番の付け方が違っていたので、もしやと思ってサイトを調べたらそうだったことが分かりました。ただ、スラッシュ以降が、楽譜では「00」、CDでは「99」となってはいますが。
楽譜の方は、ハンガリーのごく最近まで活躍していた(いや、一人だけご存命ですが)作曲家の宗教曲を全部で39曲集めたアンソロジーとなっていますが、CDではそのうちの22曲が収録されています。その中で、最も有名な作曲家はコダーイでしょう。彼の名曲「Esti dal」は、楽譜の巻頭を飾っています。CDでは、最後から一つ前、いろいろ聴いてきて、やっぱりコダーイは落ち着くなぁという感慨に浸ることが出来ることでしょう。
コダーイ以外には、合唱関係者にはなじみがあるものの、普通のクラシック・ファンにとっては聴いたことのない人が並んでいますが、別に名前を知らなくても、それぞれに楽しめる曲ばかりなので、ご安心ください。「宗教曲」というくくりがあるために、どれをとっても心が安らぐものばかりです。ほとんどが3分足らずの曲、長くてもせいぜい6分ですから、飽きることもありません。
そんな中で、コダーイの一世代ぐらい後にあたるラヨシュ・バールドシュという人の作った「Libera me」という、彼の「死者のためにミサ」の最後の曲が、なかなか劇的で聴きごたえのあるものでした。このバールドシュの曲は他にもいくつか収められているのですが、もっと平穏なテイストの曲もあり、なかなか起伏に富んだ作風を示しています。この人の弟のジェルジ・デアーク・バールドシュという人の作品も、なかなかとんがっています。
おそらく、コダーイに次いで有名な、この中では一番若い1947年生まれのジェルジ・オルバーンも、手堅いところを見せています。これさえあれば、合唱団のレパートリー選びに困ることはないでしょう。ただ、ここで歌っている合唱団は、必ずしも洗練されたものではありません。
しかし、そんな内容をうんぬんする前に、このCDはとても商品とは言えないようなひどい音であることは、しっかり指摘しておく必要があります。そう、あの「暮しの手帖」ではありませんが、お金を出して聴く以上、その音は最低限の水準を満たしている必要があるというのは自明の理です。このCDの場合、最初からなんともヌケの悪い素人っぽい音のように聴こえます。録音スタッフは、ハンガリーの人のようですね。だからというわけではありませんが、今まで聴いてきたこのレーベルの音とは、えらくかけ離れた感じです。さらに、真ん中あたりのトラックではついに、レベル設定を間違えたとしか思えないような録音時のひずみがもろに聴こえてくるのですよ。別にライブの「一発録り」ではなく、教会を使ったセッション録音なのですから、プロがこんな初歩的な間違いを犯すなんて、信じられません。というか、これは明らかな欠陥商品、そんなことも気づかずに出荷するという、このレーベルの品質管理とは、いったいどういうものだったのでしょう。「暮しの手帖」のような消費者の立場からの「良心的」な評価を下せば、これはまぎれもない「お買い損」のCDです。

CD Artwork © Carus-Verlag

10月30日

楽器から見るオーケストラの世界
佐伯茂樹著
河出書房新社刊
ISBN978-4-309-27218-4

本屋さんの音楽書コーナーに立ち寄ったところ、なんだかカラフルな本が平積みになっていました。隣にあったのが、なんと「名曲探偵アマデウス」のカラー版ノベライズというのですから、こちらもいかにも、最近流行の初心者向けのクラシックのガイドブック、と言った体裁に見えてしまいます。これで、付録にナクソス音源のCDでもついていたら、完璧に鼻持ちならないガイドブックになっているところですが、ちょっと違う、なにかマニアックな匂いがしたもので、手に取ってみる気になりました。
確かに、その「勘」はあたっていたようです。「マニアック」と感じたのは、豆腐料理(それは「ヒヤヤッコ」)ではなく、おそらくその表紙の写真からだったのでしょう。「なんか違う」というような気がしたのですが、よくよく見てみると、ホルンはウィンナ・ホルン、オーボエもウィーン・タイプ、トランペットはロータリー、ティンパニは手動式と、これはウィーン・フィルだけで使われている楽器を集めたものではありませんか。クラリネットだけ、エーラー管ではなくベーム管というのが不思議なところですが、これだけのこだわりはハンパではありません。
この本は二部構成になっていて、前半はオーケストラの歴史、後半は世界各地のオーケストラの特徴を、それぞれ使われている楽器を詳細に紹介することで明らかにしています。
まず、「歴史」では、バロック期のヴィヴァルディから始まって、20世紀のラヴェルまで、それぞれの作曲家の作品のスコアを見せながら、オーケストレーションの「隠し味」のようなものを紹介してくれています。そして、なんと言ってもそれぞれの時代にしかなかった「古楽器」が、きれいな写真で味わえるのは、たまりません。フルートなども、しっかりその時代時代に使われた異なるタイプのものが使われていますから、安心できますよ。もう、そこからは、著者の「意地」みたいなものも感じられてしまいます。おそらくどこからも突っ込まれないような、完璧なものを目指したのでしょうね。
そこで、初めて知ったのは、今でも慣習的に行われているクラリネットの「持ち替え」の起源です。倍音構造上、昔の楽器では、特定の調しか吹くことが出来なかったので、フラット系にはB管、シャープ系にはA管を使って、対応していたのですね。ホルンが、クルーク(替え管)を取り替えて別の調に対応していたのと同じことを、クラリネットでもかつては行っていたのです。現代の精密な音程を出せる楽器でも、やはりそのようなことが必要なのでしょうね。ほんと、演奏中にマウスピースを抜いて別の管に付け替えているクラリネット奏者の早業には、いつも感心してしまいます。
そして、後半のオーケストラの違いによる楽器の違いも、興味深いものです。いや、そういう特定の楽器のことは知ってはいたのですが、それの写真と、細部にわたっての相違点を詳しく述べているこんな本には、初めて出会ったものですから、今まで漠然と感じていたものを、しっかり実体のあるものとして、知識の片隅にしまい込むことが出来ましたよ。例えば「オフィクレイド」と「チンバッソ」との関係を、これほど明瞭に定義づけているものなど、今までにあったでしょうか。この本の知識がすべて頭に入れば、オーケストラの楽器に関してはどこに行っても恥ずかしくない立派な人になれるはずです。
そんな、どこをとっても「隙」のない本なのですが、1箇所だけ、ケチを付けてもいいですか?それは、「ドイツ型トランペット」として紹介されている、ロータリー・トランペットの写真です。通常のピストン式の楽器と同じような、「縦」になった写真なのですが、演奏するときには「横」にして構えるので、ちょっと違和感があるのですよ。このまま吹いたのでは、右手がとても辛いな、みたいな。

Book Artwork © Kawade Shobo Shinsha Publishers

10月28日

Fragile/A Requiem for Male Voices
Die Singphoniker
OEHMS/OC 817


タイトルが意味深の、「ジングフォニカー」のニューアルバムです。だいぶ前のS & Gをはじめ、これまでに聴いたこのグループのCDで満足できたものは何一つありませんでしたが、そのタイトルにある「Requiem」という言葉には、敏感に反応してしまいます。メインタイトルの「フラジャイル」は確かスティングの曲だったはず、それと「Requiem」というミスマッチが、ある種の期待を抱かせます。別の期待は禁物ですが(それは、「ブラジャー、要る?」)。
パッケージを手にして中身を見ることによって(しつこいようですが、ネット配信ではこのような体験は不可能です)そのタイトルの意味が分かることになります。彼らが最初に演奏しようと思ったのは、ルネサンス期、フランドルの作曲家ピエール・ド・ラ・リューの「死者のためのミサ曲」、つまり「レクイエム」でした。ただ、それをそのまま歌うだけでは芸がないので、その間に他の人の作品を挟み込む、というアイディアを実行に移したのです。かくして、さまざまな作曲家のコラボレーションによる「男声のためのレクイエム」が誕生しました。
スティングの「Fragile」は、スウェーリンクのオルガン曲をコラール仕立てにしたルートヴィヒ・トーマスの曲に続いて演奏されます。「レクイエム」にしては明るすぎるアレンジがちょっと気になりますが、この歌の最後の歌詞、「How fragile we are(私たちは、なんて脆いのだろう)」は、確かに「Requiem aeternam」を導き出すには、ふさわしいものではあります。
そのラ・リューの本体は、例えば1988年に録音されたアンサンブル・クレマン・ジャヌカンの演奏(HARMONIA MUNDI)で聴くことが出来ますが、なんと言ってもこの曲の特徴といえばそのあまりに低い音でしょう。なんでも、ベースの最低音は「B♭」なのだとか。「C」が出れば「すごい」といわれるこのパートにとって、その全音下のこの音はかなり過酷なものです。作曲家は、そこまでして「暗いサウンド」を目指したのでしょうね。ヴィスのグループは、オルガンによってそのあたりの音を補強していますが、ここではあくまでア・カペラにこだわった結果、出せない音はあきらめて安易に移調する道を選びました。まあ、それなりの「暗さ」は感じられますから、それほどの問題ではありませんが。
しかし、それに続く、クルト・ワイルの「ベルリン・レクイエム」からの「Zu Potsdam unter den Eichen」の、なんともノーテンキなたたずまいは、いったい何なのでしょう。ワイルならではのアイロニカルな曲なのでしょうが、その「ひねり」が全く感じられない歌い方には、閉口してしまいます。
そうなってくると、「本体」の方も、ポリフォニーの絡みなどが、かなりいい加減なことに気づかされてしまいます。それぞれの声部がもたらす緊張感といったようなものが、殆ど伝わってこないのですね。彼らの「ユルさ」は健在でした。
それでも、間にラウタヴァーラ、シャンデルル、ニューステットなどといった、このサイトでは「お馴染み」の作曲家の曲を従えて、「レクイエム」は続きます。確かにシャンデルルの「Whispers of Heavenly Death」などは聴き応えがある作品です。
しかし、そんな配慮を帳消しにしたのが、最後から2番目に置かれたエリック・クラプトンの名曲「Tears in Heaven」という、そのまま歌えばきっちり涙を誘うはずの名曲を、無惨にも「明るい」ものに変えてしまったアレンジと、それをなんの疑いもなくそのまま歌ったこの6人の男声合唱団の演奏です。いとも軽やかなカスケイディング・アルペジオからは、死を悼む敬虔な心などは全く感じることは出来ません。「ユルさ」とともに、彼らの無神経さも、しっかり健在であることを思い知らされたアルバムでした。そういえば、「Offertorium」の前に歌われていたスピリチュアルズ、「Deep River」も、無惨な出来でしたね。

CD Artwork © Oehms Classics Musikproduktion GmbH

10月26日

WITT
Symphonies, Flute Concerto
Patrick Gallois(Fl, Cond)
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
NAXOS/8.572089


今回初めて登場したフリードリッヒ・ヴィットという作曲家は、生まれが1770年と、あのベートーヴェンと同じです。彼とベートーヴェンとのつながりは実はそれだけではありません。彼が作った曲がかつては「ベートーヴェンの作品」として世の中に広まっていた、ということがあったのですよ。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、1909年にフリッツ・シュタインという人がイェーナ大学の資料の中から、「ベートーヴェンの交響曲」という書き込みの入ったパート譜を発見したために、それが「ベートーヴェンの若い頃の作品」ということで出版(1911年/ブライトコプフ)までされてしまったのです。なんでも、ベートーヴェン自身がハイドンの交響曲第97番をモデルにして、ハ長調の交響曲を作ろうとしていたことがあったそうで、確かにこの曲にはそのハイドンの曲との類似点が認められたことも、ベートーヴェンの作品であることの裏付けとなっていました。この曲は長いこと「ベートーヴェンのイェーナ交響曲」という愛称で知られていたのです。フランツ・コンヴィチュニーなどという大指揮者も、そのつもりで録音もしていましたね。
しかし、1957年に、有名なベートーヴェン学者のロビンス・ランドンが、別の場所ではっきりヴィットの作品であることが確認できるような、この曲の別の写本を発見したために、「イェーナ交響曲」はもうベートーヴェンの作品と呼ばなくてもいぇーな、ということになってしまいました。ということで、このように晴れてヴィットの作品集のアルバムに収録できるようになったのですね。
ヴィットは10代の終わりごろにエッティンゲン・ヴァラーシュタインの宮廷楽団のチェロ奏者となりました。そこで、宮廷楽長のアントニオ・ロゼッティから作曲のレッスンを受けるのですね。1793年頃に、その楽団ではハイドンの「ロンドン交響曲」のうちの4曲を演奏することになったのですが、その楽譜を手にしたヴィットは、交響曲第97番を「モデル」にしてハ長調の交響曲を作りました。それがベートーヴェンの助言に従ったものであったことが、後に「ベートーベヴェンの交響曲」と誤解されてしまう原因だったのでしょうね。
確かに、この「イェーナ」と「97番」を比べてみると、よく似ているところは数多く見つけだすことができます。楽章の構成は同じですし、テーマ自体も同じモチーフがベースになっています。しかし、同じ変奏曲の形で書かれている第2楽章などは、ハイドンとは一味違うテイスト、それは、シューベルトにも通じるようなものに支配されていることに気づくことでしょう。その第2変奏の中では、当時は珍しかったはずの「サスペンデッド4」(「ソシレファ」という属七の和音の三音を半音上げた「ソドレファ」という、テレビドラマのBGMに良く使われる和音)なども使われていて、ヴィット独自の個性が明らかに感じられます。
もう一つ収録されているイ長調の交響曲は、これより前、1790年頃に作られたものですが、これは明らかにモーツァルトと同時代の様式をそのまま取り込んだ「無難な」作品です。なにも知らずに聴いたら、モーツァルトの作品のように思ってしまうかもしれません。ただ、この中にも転調のセンスなどにはヴィットの個性を見ることは可能です。
おそらく「イェーナ」よりは後に作られたフルート協奏曲は、その2曲の交響曲と比べると、明らかにワンランク上の、もはや古典派の様式にはとどまっていない、ロマン派の萌芽すら感じられるものになっています。ソロ・フルートのパッセージは羽を与えられたような自由さをもって、「新しい時代」を歌いあげているようです。もちろん、そのように感じられたのは、そんな作品の本質に迫るようなアグレッシブな演奏を繰り広げていたガロワの卓越した音楽性のおかげでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

10月24日

BACH
Passion selon Saint Matthieu
Hugues Cuénod(Ev), Heinz Rehfuss(Jes), Magda Laszlo(Sop)
Hilde Rössel-Majdan(Alt), Petre Munteanu(Ten), Richard Standen(Bas)
Hermann Scherchen/
Wiener Akademie-Kammerchor
Orchestre de l'Opéra de Vienne
TAHRA/TAH 701-703


元々はウェストミンスターの1953年の音源ですが、TAHRAという、ヒストリカル音源を復刻させたーら右に出るものはないと言われているフランスのレーベルによってマスタリングされたものが登場しました。
フランスのレーベルですから、曲目や演奏家の表記はすべてフランス語になっています。オーケストラは「ウィーン歌劇場管弦楽団」、実体はウィーン・フィルなのでしょうが、契約の問題などでこのような名前を使ったのでしょうか。そして、合唱団が「ウィーン・アカデミー室内合唱団」となっていますが、これは先日ミュンヒンガーの「ロ短調」で素晴らしい演奏を聴かせてくれた「ウィーン・アカデミー合唱団」とは全く無関係な団体の様ですね。基本的な合唱の訓練などなにも受けてはいない、もしかしたら、録音のための寄せ集めの団体だったのかもと思えるほどのひどさです。
そんな、とんでもない合唱が最初の合唱を歌い始めると、そのテンポがまるで最近の「ピリオド系」の演奏家のように速いのに、ちょっとびっくりさせられます。この時代に、こんなテンポで演奏している人がいたとは。実は、添付のライナーは、今回のリリースに合わせて書き下ろされた最新のものなのですが、そこでは「マタイ」の演奏史のようなノリで、今までの録音の演奏時間の比較などが行われています。かつてはクレンペラーのように223分もかかっていたものが、アーノンクールのような「バロック」の指揮者の出現で173分などという「速い」演奏が広まり、最速はコープマンの154分だ、といった具合です。それによると、このシェルヘンの演奏時間は199分、この5年後に録音されたカール・リヒターが197分ですから、全体ではそんなに速いわけではありません。なぜそんなことになっているかは、もうしばらく聴いていると分かります。速かったのは最初の曲だけで、それ以降はほぼ標準的なテンポを取るだけではなく、なんと、とてつもない、ほとんど冗談のような「遅い」テンポになっているところがどんどん出てくるのですよ。まずは、「受難のコラール」として有名な15番と17番のコラールです。そのような深い意味を持つ曲をとことん歌いこもう、というのが、シェルヘンの基本的なコンセプトなのでしょうね。そういえば、そこまでにも、イエスのレシタティーヴォの部分ではかなり丁寧に歌わせていました。しかし、このコラールをこのテンポで演奏するためには、合唱団のスキルがあまりにも不足しています。気持ちはよくわかるのですが、こんな、それぞれのメンバーが好き放題にビブラートたっぷりで「吠え」続けているような合唱団が、のたうちまわるように演奏したとしても、それはうっとうしいだけのこと、おそらく指揮者が求めたであろう緊張感にあふれた切なさのようなものは、全く伝わってくることはありませんでした。
極めつけは、ご想像通り、最後の合唱です。いやあ、これはすごい。普段聴き慣れたもののまさに半分の速さでしょうか、それがこのだらしない合唱で延々と続くのですから、これはもう拷問に近いものです。
ただ、そんなひどい合唱さえ我慢すれば(そんなことは不可能だ、とはおっしゃらず)、たとえばアルトのレッセル・マイダンなどの歌うアリアは、本当に心にしみます。しかし、エーベルハルト・ヴェヒターとかペーター・ラッガーといった、後年大活躍を見せる大歌手が、ピラトやペテロのような「端役」を歌っていたなんて、なんと豪華なキャスティングだったのでしょう。オーケストラも、ウィーン・フィルの名手たちが素晴らしいソロを聴かせてくれています。49番のソプラノのアリアでのオブリガートフルートで、まさに当時のウィーン・フィルの音色を披露してくれているのは、巨匠ハンス・レズニチェクのはずです。ライナーに「カール・レズニチェク」とあるのは、なにかの間違いでしょう。

CD Artwork © TAHRA

おとといのおやぢに会える、か。


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