明日、撮るっ。日は、空(金環日蝕)。.... 佐久間學

(12/7/24-12/8/11)

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8月11日

MESSIAEN
Et expecto resurrectionem mortuorum
Jun Märkl/
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.572714


ドビュッシーのアルバムを定期的にリリースしていると思っていたら、準・メルクルはメシアンでも積極的に録音を行っていたようでした。大曲「トゥーランガリラ」はすでにこのレーベルにはアントニ・ヴィットの指揮による録音がありますから、残りのオーケストラ作品をメルクルに任せようというのでしょうか。
今回のアルバムのメインは、「また、わたしは死者の復活を待ち望みます」です。このタイトルは、ミサの通常分から「クレド」の最後の部分を引用したものですね。正確にはこのあとに「Et vitam venturi saeculi, Amen(そして、来世での命を。アーメン)」というテキストが続いて、曲が終わることになります。
この作品は、1964年に時の文化大臣アンドレ・マルローの委嘱によって作られたのだそうです。マルローは同じころにパリ管弦楽団を作っていますから、とりあえず音楽の歴史に残る重要なことを2つは行ったことになります。
このCDに付けられた帯解説によると、これは「メシアンの作品の中でも、とりわけ規模が大きい」そうなのですが、ちょっとそれには賛同しかねます。普通「規模が大きい」と言えば、二通りのことが考えられます。まず、ステージ上の演奏者が100人以上みたいな、編成的な規模、そして、演奏時間が極端に長いことです。でも、この作品の場合は、そのどちらにも当てはまらないのですよね。編成は40人、演奏時間だって30分ちょっとです。ただ、その編成の中に弦楽器が全く入っていないという点については、注意すべきかもしれません。具体的には木管楽器18人、金管楽器16人、打楽器奏者6人というのが、その内訳、そう、これは常にメシアンの「オーケストラ作品」というジャンルで語られてはいますが、実際には「吹奏楽」なのですよ。とは言っても、ほとんど「ブラスバンド」だけで使われる多くのサックスや、ユーフォニウムのような楽器は入っておらず、オーケストラで使われる楽器がほんの少し多めに集まった、という感じ、ただ、金管の低音に「バス・サクソルン」という珍しい楽器が入っているあたりが、ちょっとユニークなところでしょうか。
もっとユニークなのは、参加している打楽器です。普通のブラスバンドには欠くことのできないシンバルやバスドラム、さらにティンパニも見当たりません。その代わり、ステージいっぱいに並べられているのは(メシアンは、楽譜でその並び方まで指定しています)大小様々の大きさのカウベルがぶら下がったスタンドです。これも、しっかり音階が指定されているカウベルが高音、中音、低音の3つのグループに分けられ、3人の奏者によって演奏されます。まあ、こんな光景を見れば、もしかしたら「規模が大きい」と感じてしまうかもしれませんね。
この楽器が大々的にフィーチャーされているのが、4曲目です。華々しく奏でられるカウベルが、まるでジャワのガムランのように響き渡ります。そんな部分と、小節ごとに拍子が変わるという複雑な変拍子によって鳥の声が模倣される部分がくりかえされ、その間を3発の銅鑼の連打がつなぎます。この銅鑼が繰り返しのたびに巨大なものに成長していくのは、何の象徴なのでしょう。
ただ、この楽章ではメルクルの演奏のアバウトさだけが目立ってしまいます。例えばブーレーズとクリーヴランド管による水も漏らさぬアンサンブルと完璧なピッチで繰り出される精密な演奏とは対極にあるこの姿勢からは、何か汗まみれの「祈り」のようなものは感じられるものの、メシアンらしいエネルギッシュなファクターが完璧に抜け落ちているような気がしてしまいます。同じように弾けてほしい2曲目でのトゥッティの部分でも、音楽は「生」よりも「死」の方に傾いているように思えてなりません。
カップリングの2曲はあまり聴く機会のない初期の作品で貴重な音源です。帯原稿で作曲年代を間違えているのも、ご愛嬌。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

8月9日

PENDERECKI
Fonogrammi, Horn Concerto etc.
Urszula Janik(Fl)
Jennifer Montone(Hr)
Antoni Wit
Warsaw Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.572482


このレーベルでのヴィットのペンデレツキ・シリーズは、最近はシビル・イェーツという写真家の作品でジャケットのデザインを統一しています。今回のCDのインレイには、そんなジャケットがまとめて紹介されていますが、それはまるでそれ自体がアートのような素晴らしさです。
もちろん、そんな外観だけではなく、アルバムとしてのコンセプトも、毎回かゆいところに手が届くような配慮がなされています。今回も、1960年代から1970年代にかけての「前衛」と、2008年に作られたばかりの「ロマンティック」な新作を同時に聴かせる、という、いつもながらの冴えた選曲が光ります。
前半の5曲が、そんな「前衛」を代表する名曲の数々、このあたりは作曲者自身の指揮によるEMI以外はまず耳にしたことはなかったので、それをヴィットのクレバーな指揮で聴けるのはとても楽しみです。
ところで、その中に、オーケストラの木管パートが全員でオカリナを演奏するというぶっ飛んだオーケストレーションで有名な「ヤコブの夢」がありますが、そのタイトルが、見慣れた「The Dream of Jacob」ではなく、「The Awakening of Jacob」になっていたのに、ちょっと違和感がありました。「ヤコブの目覚め」ですね。もちろん、これは1974年に作られたあの曲に間違いありませんから、いつの間にかタイトルだけが変わってしまったのでしょうか。
気になったので、出版社のサイトで調べたら、なんとこの曲のタイトルはドイツ語で「Als Jakob erwachte aus dem Schlaf, sah er, daß Gott dagewesen war. Er hat es aber nicht gemerkt.」という、とんでもなく長いものだったのですね。日本語だと「ヤコブ目覚めしとき神のいますを見しが、そを知らざりき」となるのだそうです。知りませんでした。
そこで、ふと「帯」に目をやると、そこには「ヤコブ目覚めし時」という「邦題」が付いていましたよ。日頃、誤記や誤植のやり放題という印象しかないこのメーカーの「帯」ですが、こればかりは感心してしまいました。原題まできちんと調べたのでしょうか。侮れません。
これらの曲は、EMI盤に比べると録音がとてつもなく精緻になっていました。フルート・ソロが大活躍する「フォノグラミ」の冒頭の打楽器の強打を聴いただけで、それはもはや次元の違う音になっていることが分かります。かつては、なにかごちゃごちゃと音が重なっていただけ、という印象が強かったものが、もっと細部にわたってそんなサウンドの「元」の仕組みが分かるような録音が可能な時代になったのですね。そして、それだけの録音にさらされてもビクともしないほどの強靭さを、この時期の作品はしっかり持っていた、という事実には、感動すら覚えます。
一方の、全く別人が作ったかのような「ホルン協奏曲」がここに収録されている意味は、ヴラトコヴィッチのソロと作曲者自身の指揮による世界初録音盤を併せて聴くことによって、はっきりしてくるのではないでしょうか。「冬の旅」というサブタイトルが付いているこの曲は、オーケストラが作り出す様々な風景の中を旅するホルン・ソロ、といったようなコンセプトで作られたものなのだそうですが、初録音盤で聴いた時には、それは殆ど意識されることはなかったような気がします。それが、今回のヴィットの演奏では、まさにその「風景」が眼前に広がっているのがはっきり感じられるのですよ。そう、それは、「風景」を描くことにかけてはお得意の、映画やドラマの音楽そのものだったのです。そこで改めて初録音盤を聴き直すと、なぜかそこまではじけてしまうことに対する羞恥心のようなものが、べったりと付いて回っているのですね。それが、「現代作曲家」としての意地だったとしたら、それは己を知らない愚か者というほかはありません。
ヴィットは、ここでもこの作曲家の「本質」を、巧みなプログラミングと演奏で明らかにしてくれました。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

8月7日

Chansonettes mit Bach
Ute Loeck
Georg Christoph Biller
Stephan König(Pf)
RONDEAU/ROP6060


このジャケット、ブロンドの美女と、「スクール・オブ・ロック」に出てきたジャック・ブラックみたいな不細工なデブが並んでいますね。女性の方は「シャンソン歌手」ですが、デブの方には「トマス・カントル」という重々しい肩書きがありますよ。まさか!と思ってしまいますが、よく見てみるとこの顔は確かにあのヨハン・セバスティアン・バッハから数えて17人目にその肩書きを与えられた、ゲオルク・クリストフ・ビラーその人ではありませんか。
その二人の前には楽譜のタイトルが見えますが、片方の「バッハ」はともかく、もう片方の「ビートルズ」というのは、いったい何なのでしょう。まさか、ビラーが「スクール・オブ・バロック」である聖トマス教会の合唱団を指揮して、ビートルズ・ナンバーを演奏しているのではないでしょうね。
実際にアルバムを聴いてみると、その「まさか」は、もっとすさまじい状態で現実となっていました。歌っていたのは、なんとこのビラーご本人だったのですよ。一応、かつてはその少年合唱団のメンバーだったビラーは、きちんと「声楽家」としての修業も行ってきたのですが、結局「ソリスト」として大成することはありませんでした。そんな彼が、ここでは「She Loves You」を「She Loves Me」と歌詞を変えて、相方のシャンソン歌手ウテ・レックに「愛されている」という設定でノリノリの「ソロ」を披露してくれているのです。カントルがこんなことまでやっているのですから、いったい彼の素顔はどんなものなのか、興味がわいてしまいます。
アルバムタイトルの「Chansonettes mit Bach」というのは、シャンソンのみならず、ミュージカルなどでも活躍している歌手、俳優のレックが、2005年から始めたパフォーマンスなのだそうです。バッハの曲と、それとは全く関係のない曲を融合させるという、別に目新しくもなんともないコンセプトですが、なかなかの評判を呼んだようで、とうとうこんなCDまで出ることになってしまいました。そこに、言ってみれば「バッハの権威」であるビラーが加わるのですから、こんなすごいことはありません。
とは言っても、そんな手あかのついたネタですから、今更、という気はします。それどころか、実際に聴いてみると、予想をはるかに超えたつまらなさなのですね。最初に「イギリス組曲第1番」のプレリュードに続いて「レディ・マドンナ」が歌われるのですが、それは聴き手に「いったい、どこが同じなの?」という気持ちを抱かせたまま、独りよがりの勘違いで突き進んでいく、という以外の何物でもありませんでした。その次の曲などは、「平均律」の1番を伴奏にグノーの「アヴェ・マリア」ですよ。こんなんで本気に笑いを取ろうとしているなんて、信じられません。
それと、このレックさんの声が、「シャンソン」という謳い文句とは裏腹に、やたらドスがきいているうえに、不快な縮緬ビブラートが付いているという、それこそブレヒト・ソングあたりを歌わせればこれ以上のものはない、という(実際に、彼女はそういうものを歌っています)ミスマッチぶりなのですね。
そして、そこにビラーのヴォーカルが加わります。これが、はっきり言って「ヘタ」、なんですね。まさに宴会でおやぢが余興に歌っている、というノリなのですよ。
そんな「宴会芸」が延々と続いた後、最後を締めくくるのがバーンスタインの「サムウェア(from ウェストサイド・ストーリー)」のデュエットです。このアルバム、導入のMCこそライブっぽい作り方ですが、演奏そのものはスタジオ録音、もしこれがライブだったら、こんなおぞましい「宴会デュエット」は、会場では完全に浮き上がっていたことでしょう。そもそも、この曲はバッハのカンタータ第19番の5曲目のアリアと一緒に歌われているのですが、カンタータの冒頭のテーマは6度の跳躍なのにバーンスタインは7度の跳躍、全然似てません。

CD Artwork © Rondeau Production GmbH

8月5日

MAHLER
Symphonie Nr.2
Renate Stark-Voit, Gilbert Kaplan(Editor)
Universal Edition
Kaplan Foundation
UE 34315(Study Score)


マーラーの「交響曲第2番『復活』」の「新しい」楽譜が出版されました。今まで散々演奏されていたこんな「名曲」で、なにをいまさら新しい楽譜?とお思いでしょうが、実は、今まで使われていた楽譜には、かなりいい加減なところがあったので、それをきちんとマーラーの自筆稿に立ち返って、細かいところまでマーラーが指定した通りの楽譜が作られた、ということなのです。そういう作業の末につくられた楽譜は「批判校訂版」、つまり「クリティカル・エディション」と呼ばれ、最近ではベートーヴェンなどで何種類かのものが相次いで出版されています。
マーラーの場合も、1895年にマーラー自身の指揮で初演されたこの曲は、1897年にはライプツィヒのホフマイスター社からスコア(=初版、1898年にウィーンのヨーゼフ・ワインベルガー社に引き継がれます)が出版されましたが、国際マーラー協会によって「全集」が編纂される過程で、1970年にエルヴィン・ラッツによってクリティカル・エディション(=全集版)が作られ、ウニヴェルザール社から出版されています。
しかし、この「全集版」は、様々な点で問題を抱えていたそうです。それに気付いたのが、「『復活』しか指揮出来ない指揮者」として有名なギルバート・キャプランです。彼は各地でこの曲を演奏する際に、全集版のスコアとパート譜の間で楽譜が異なっていることに気づかされ、いっそのこと、自分で新たに校訂をやってみようとしたのです。その作業は、2000年からオーストリアの音楽学者、レナーテ・シュタルク=フォイト女史と共同で進められることになります。資産家であったキャプランは、それ以前からマーラーの自筆稿など多くの資料を収集していましたが(自筆稿のファクシミリの出版まで行っています)、さらにこの校訂を行うにあたって、世界各地から新たに資料を購入したということです。
校訂作業がほぼ終了した時点、2002年12月に、キャプランはウィーン・フィルとこの新しい校訂版(=キャプラン版)による初めての演奏を録音します。2003年にDeutsche GrammophonからリリースされたCD、SACDのライナーノーツには、キャプラン版は、国際マーラー協会から公式の「新クリティカル・エディション」と認められ、ウニヴェルザールとキャプラン財団によって共同出版される旨が告知されています。また、この校訂にあたっての最も重要な資料である、マーラー自身が使用し、多くの書き込みを行ったワインベルガー版のスコアの写真も掲載されています。

その出版がいよいよ具体化したのでしょう。2005年10月18日には、ロイヤル・アルバート・ホール(!)でキャプラン版の「世界初演」が、キャプラン指揮によるロイヤル・フィルの演奏によって敢行されます。それに続くように、明確に「キャプラン版を使用」というクレジットの入ったアルバムがリリースされるようになります。例えば、2008年3月に録音されたジョナサン・ノット指揮のバンベルク交響楽団のSACDや、2009年12月に録音されたマリス・ヤンソンスとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のSACD(+DVD)などです。ただ、そのクレジットで、出版年が「2005年(ノット盤)」や「2006年(ヤンソンス盤)」と一致していないのが、少し気になります。
そのあたりの事情は、2006年3月11日にすみだトリフォニーで群馬交響楽団と「キャプラン版」の「日本初演」を行った高関健さんのこちらの「手記」を読めば、分かるのではないでしょうか。2006年の時点でも、まだミスプリントの確認作業などが行われていたのですね。
実際にスコアや校訂報告が出版されたのは2010年のことでした。それからしばらくして、このようにスタディ・スコアも簡単に手に入るようになりました。確かに、間違った音符や、曖昧な指示は、きっちり直されているようでした。それらの訂正個所は、おそらく耳で聴いても分からないようなものでしょうが、演奏する側では間違いなく確信を持って表現する勇気の持てるものに変わっているのではないでしょうか。
そんな中で、たぶん誰でも違いが聴き分けられる箇所が見つかりました。合唱が初めて入る部分、第5楽章の475小節(練習番号31)から493小節(練習番号33)までを、初版、全集版、キャプラン版と比較してみてください(全集版は、初版の版下をそのまま使い回しているのですね)。
(初版)


(全集版)


(キャプラン版/合唱パートは下3声部を省略)


※赤枠の部分は、ヴァイオリン、ヴィオラ、トロンボーンは「合唱を助けるための補助」と注釈があり、通常は演奏されません。
※緑枠の部分は、キャプラン版ではやはり「合唱を助けるための補助」という解釈です。ただ、キャプラン自身の録音などでは演奏されていませんが、ノット盤では演奏されています。全集版を使っていても、ここは初版のようにフルートやオーボエを入れないものもあります。
※キャプラン版には、「合唱は最初は座ったままで歌うこと」という指示があります。ヤンソンスのDVDでは、それに従っています。

Score Artwork © Universal Edition, Kaplan Foundation

8月3日

CIMAROSA
Requiem
Valérie Gabail(Sop), Katalin Várkonyi(MS)
Etienne Lescroart(Ten), Ronan Nédelee(Bar)
Jérémie Rhorer/
Choeur de Chambre des Musiciens du Louvre
La Philharmonie de Chambre
LIGIA/Lidi 0202243-12
チマローザの「レクイエム」という、まさに「秘曲」は、以前こちら2008年に録音された最新のものを聴いていました。なにしろ、この曲の唯一の録音である1968年のヴィットリオ・ネグリ盤は、CD化もされたのですが、すでに廃盤になっていましたから、その時に初めて、この魅力的な「レクイエム」に接することが出来たのです。確かに、その時に、この、適度にオペラティックな要素(なんと、アリアの最後にカデンツァまで付いてます)を交えた「レクイエム」は、何か心に届くものがありました。ただ、「もっと緊張感のある演奏で聴いてみたいものだ」みたいなことを書いていたように、合唱は満足できるほどの出来ではありませんでした。
そんな珍しい曲の新しいCDが出たというので、さっそく入手してみました。なによりも、指揮者がモーツァルトのアルバムなどでお気に入りだったジェレミー・ロレルでしたから、大いに期待がそそられます。しかし、現物を手にしてみると、そんな期待を裏切るようなことが、すでに外観からもうかがえてしまうのですから、いやになります。まず、録音されたのが2002年だというのですよ。なぜ、10年も前のものがいまごろ。それでも、曲についてのコメントや、録音当時のロレルのポストぐらいは書いてあるのだろうと思って、パッケージの中を探してみたのですが、そんな情報は全く見つかりません。あるのは録音のデータと、トラック・リストだけ。Sの指揮者の名前とか「それは、(ブラック・リスト)」。つまり、ふつうのCDであれば必ず入っている曲目解説や演奏家のプロフィールなどは一切ないのですよ。
それにしてはなんだか厚ぼったいブックレットと、さらにもう1枚のCDまで入っているのはどういうわけ?と思ってよく見ると、それは、このレーベルのカタログと、サンプル音源でした。なんと、1992年に創設されたこのLIGIAというレーベルが今年20周年を迎えるにあたっての、音源付き記念カタログ、というのが、このアルバムの本当の姿だったのでした。そこに、(たぶん)今までリリースする機会がなくお蔵入りになっていた音源を、指揮者がそこそこ世の中に認められたタイミングで「おまけ」としてつけてよこしたのですよ。本末転倒ですね。
それでも、オーケストラは聞いたことのない名前でも、合唱のクレジットは「ルーブル宮音楽隊合唱団」ですから、これはあのミンコフスキの録音に参加している団体のはず、そんなおかしな演奏はしていないだろう、と普通は思うはずです。しかし、そんな最後の期待まで、見事に裏切られてしまうのですから、やりきれません。これは、完全なライブ録音(最後には拍手が入っています)ですから、コンディションがあまり良くなかったのかもしれませんが、それにしてもこの合唱はひどすぎます。一人一人の声が情けない上に、それが全然揃っていないのですから、そもそも合唱にはなっていないのですよ。
救いと言えば、ソリストたちはテノール以外の人はまともに歌っている、ということぐらいでしょうか。
この曲の楽譜は、オリジナルとはかなり異なった形で何種類かのものが出ているようです。実際、NAXOS盤と今回のものでも、間違いなく別の楽譜を使っているようで、ソロで歌う部分と合唱の部分とが微妙に異なっています。実は、手元には2008年に出版されたクリティカル・エディション(ブライトコプフ)があるのですが、それもまた別の楽譜、さらにそこにはどちらのCDにも含まれていない「Libera me」の楽章が最後についています。これは、確かに初演であるサンクト・ペテルブルクでの葬儀の際に演奏されたものなのだそうですが、どこかに紛れていて、これまで出版されたものからは抜け落ちていた、と言われています。それまでの曲の中にはなかったオーボエやファゴットが加わってコントラストを見せているという、この「新発見」の楽章が演奏されている録音も、ぜひ聴いてみたいものです。今度こそはまともな合唱団で。

CD Artwork © Ligia Digital

8月1日

MESSIAEN
Turangalîla-Symphonie
Steven Osborne(Pf)
Cynthia Millar(OM)
Juanjo Mena/
Bergen Philharmonic Orchestra
HYPERION/CDA67816


今年はこの間のピアソラの他に、オリヴィエ・メシアンも没後20年を迎えていたのですね。ほんの4年前には「生誕100年」などと大騒ぎをしていたものですが、そんな余韻も冷めないうちに、またまた記念年を迎えることになってしまいました。頻繁に祝ってもらえるのはよいんことです。そんなわけで、この数年間はメシアン関係の新譜がたくさんリリースされてはいたのですが、何しろこんなご時世ですから、そのほとんどは今まで出ていたアイテムの模様替え、というか、「叩き売り」なのが情けないところですが。
しかし、この「トゥーランガリラ交響曲」は、久々の新録音、しかもライブではなくセッション録音です。つまり、コンサートが行われるのに合わせて、その前とか後にお客さんのいないホールで録音した、というようなものではなく、あくまで録音だけのためにアーティストが集まってリハーサルを行っていたという、完全にレコーディングに向けてのスケジュールが組まれているようなのですね。ベルゲン・フィルのサイトを見てみても、この曲が録音された2011年6月の前後にこの曲をコンサートで演奏した形跡はありません。そもそも、6月から8月までの間はシーズンオフで、コンサート自体が開かれていません。そこで、最近このオーケストラがBISで作ったSACDのデータを見直してみると、見事にその「夏休み」の間に録音されていることがわかりました(細かい曲でシーズンにずれ込んでいるものも有りますが)。これは、ちょっとすごいことなのではないでしょうか。今では、ウィーン・フィルやベルリン・フィルをはじめとする世界的なオーケストラは、ほぼ例外なく実際の演奏会での録音を編集してアルバムを作る、ということを日常的に行っています。もちろん、今のレコード会社にはわざわざセッションを組むほどのコストをかける力はありませんし、そもそもオーケストラの録音自体からも手を引きたがっていますから、オーケストラが自前で演奏会の録音を行う「自主レーベル」こそが、隆盛を極めているのですよ。そんな「ご時世」に、こんな贅沢な環境でアルバム制作を行っているオーケストラがあったなんて。
しかも、ベルゲン・フィルの場合は、そのクオリティも最先端、BISの録音は、文句の付けどころのない素晴らしいものでしたし、今回のHYPERIONへの録音では、エンジニアが元DECCAのサイモン・イードンなのですからね。DECCAなきあとはおそらくフリーで活躍しているのでしょうが、例えばジンマンのマーラー(RCA)などでは、最良のDECCAサウンドを披露してくれていました。
レーベルが変わっても、その録音ポリシーは健在でした。オーケストラでは芯のある弦楽器、輝くような金管楽器とパワフルな打楽器、そして繊細な木管楽器とそれぞれの持ち味が充分に伝えられているうえに、全体に北欧ならではのしっとりとした響きが漂います。そして、ソロのピアノはあくまでくっきりと、オンド・マルトノも、今まで聴いて来たものではあまりはっきしていなかったフレーズが、見違えるように際立って聴こえてきます。
そんな、最高のステージを与えられて、ベルゲン・フィルの首席客演指揮者、1965年生まれのスペイン人ファンホ・メナは、レーベル的にはピアノのオズボーンを立てる企画なのでしょうが、そこはきちんと配慮しつつ、このオーケストラを自在に操って、見晴らしの良いメシアン像を描き出しています。決して脂ぎってはいないサラッとした肌触りなのに、クライマックスの作り方は非常に納得のいくものですから、おのずと音楽の渦に巻き込まれてしまうという、気持の良い演奏です。CDケースのインレイに演奏に参加しているオーケストラの全団員の名前が書いてあるのも、粋な計らいですね。
これだけのクオリティがありながら、SACDではないのが、唯一の不満です。HYPERIONは、もうSACDはやめてしまったのでしょうか。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

7月30日

BELIEVE
Che'Nelle
EMI/TOCP-71400


車を運転しながらラジオを聴いていると、ちょっと気になる曲がかかったりすることがあります。その曲も、1度聴いたら忘れられないインパクトを持っていました。よくあるしっとりと聴かせるバラードで、コード進行もオーソドックスな、キャッチーな曲だな、と思っていたら、サビに入ったところでいきなり半音高く転調したのですよ。一瞬、なにが起きたのか分からないほど、それはショッキングな転調でした。それがそのままエンディングを迎えて、2コーラス目に戻る時に、そのままでは最初のAメロまで半音高くなってしまいますから、そこでまた半音下げるための強引な転調が行われていたのですから、すごいものです。
こういう、元に戻れない一方通行の転調は、ポップスの場合なかなかお目にかかれるものではありません。こんな大胆な(というか、恐れを知らぬ)ことを堂々とやっているのは誰なのか、気になってしまいました。でも、おそらく最初に曲の紹介があったのでしょうが、そんなものは憶えていません。アーティストの名前なんて、知っていれば気が付きますが、全く知らなければ聞いても絶対に憶えてなんかいるわけがありません。なんせ、最近のアーティスト(そもそも、「歌手」なんて言葉は今では死語です)ときたら、「ジュジュ」だの「スーパーフライ」だの、とても「名前」とは思えないようなネーミングで通していますからね。歌いだしが「Destiny」というのだけは憶えていましたから、それを頼りにネットで検索してみても、引っ掛かるのは似ても似つかない曲ばかりでした。
でも、ある時、やっと、その曲が終わった時のMCで、その曲が紹介されたので、あわててメモを取ります。それが、「シェネル」の「ビリーヴ」でした。何でも、映画「海猿」の最新版のテーマ曲なんですってね。
「シェネル」なんて日本人離れした名前ですから、外人?それにしては日本語の歌詞が上手(いや、今の「日本人」の歌う歌詞ほど下手くそなものはありません)、などと思っていたら、確かに彼女は外国人でした。アメリカで活躍しているR&Bシンガーなんですって。でも、それにしては、この友近のようなルックスは、と思ったら、生まれはシンガポールだとか。
そもそもは、普通にアメリカで「洋楽」のシンガー、あるいはソングライターとして活躍していたのが、日本からのリクエストで久保田利伸の「Missing」をカバーしたら大ヒット、日本向けのカバー・アルバム(なんと、「上を向いて歩こう」までカバー)までリリースされてしまいました。そして、今回は「ビリーヴ」をタイトルにした、日本人の作家チームによるオリジナル・アルバムです。もっとも、前作からの流れで、カバー曲も2曲入っています。
驚いたことに、彼女は日本語が全くしゃべれないのだそうです。ただ、同じアジアの語感は共通しているので、歌うことにはあまり苦労はなかったそうですね。「ビリーヴ」にしても、日本語の歌詞の間に英語がちりばめられているという手法が、なかなか素敵です。2曲目に入っている「フォール・イン・ラヴ」という曲では、なんだか聴いたことのあるメロディだと思ったら、それは「大きな栗の木の下で」という、あの遊び歌ではありませんか。その歌詞の部分は英語で、「あなたと、わたし」というところを日本語で歌うという、シュールな引用です。カバー曲のアレンジも、中島美嘉の「STARS」をレゲエ風の後打ちのリズムに変えて、オリジナルとは全く違ったテイストに仕上げていますし。
彼女は、伸びのあるとても素直な声です。この手の「張って歌う」人たちにありがちな過剰なビブラートがないのが、とても新鮮な印象を与えてくれます。かと思うと、最後の「トゥ・ユー」などは、オブラートでくるんだような、とてもソフトに抑えられた声を使って、しっとりとした味を出しています。アルバムの最初から最後まで、これほど味わい深く楽しめたなんて、久しぶりのことです。

CD Artwork © EMI Music Japan Inc.

7月28日

BACH
Hunt Cantata
Sophie Junker, Johnne Lunn(Sop), Damien guillon(Alt)
櫻田亮(Ten), Roderick Williams(Bar)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-1971(hybrid SACD)


バッハが教会の礼拝に用いるためではなく、様々な祝い事(場合によってはお葬式のような弔事)のために作った、いわゆる「世俗カンタータ」は、きちんと楽譜が残っているものだけでも20曲程度、断片などを含めると50曲以上のものが知られています。実際にはほかのジャンルの曲同様散逸してしまったものも多くあるはずですから、彼の生涯にはさらにたくさんのものが作られていたことでしょう。
しかし、「教会カンタータ」に比べると、これらの作品はあまり録音には恵まれていないような気がするのですが、どうでしょう。「教会」の方はいくらでも「全集」が出来ている、あるいは出来つつある状態なのに、「世俗」の全集と言ったらとりあえず思いつくところではだいぶ前のシュライアーとリリンクぐらいしかありません。コープマンは「教会」、「世俗」を区別しないで全集化を進めていたようですが、あれは完成したのでしょうか。
着々とカンタータ全集を作り続けている鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンですが、やはりこちらも「世俗」に関しては2004年に210番(結婚カンタータ)と211番(コーヒー・カンタータ)がカップリングされたアルバムを出したきりでした。
それが、思い出したように208番(狩りのカンタータ)の入ったアルバムをリリースしてくれました。カップリングは、BWV134aという、ちょっとマイナーな1719年の新年を祝うために作られたカンタータです。後に、アリアを一つカットして、1724年の復活祭第3日目に教会カンタータ134番としてリサイクルされます。BWVにはそのあたりの事情が反映されているのでしょう。
208番の方は、なんたって9曲目のソプラノのアリア「Schafe können sicher weiden(羊は安らかに草を食み)」が、かつてのNHK-FMでのバロック音楽の番組のテーマ曲というヘビー・ローテーションで、すっかり有名になってしまいました。この曲の2本のリコーダーによるイントロは、おそらく「バッハ」や「カンタータ」という概念を超えて「名曲」として聴かれているはずです。
作られたのはヴァイマール時代の1713年(1712年という説もあり)という、バッハがまだ20代のころですから、なかなか「元気」なアイディアが満載。さる貴族の誕生日のために作られたものですが、その方の趣味が「狩猟」と「イタリア・オペラ」だということで、その両方の要素をふんだんに盛り込んだりもしています。まずは、「シンフォニア」から、2本のコルノ・ダ・カッチャが大活躍です。これは、仙台限定のいやらしい楽器ではなく(ポルノだっちゃ)、「狩りのホルン」という意味の名前を持つピリオド楽器です。「ロ短調ミサ」にも登場しますね。しかし、このまさに「狩り」そのものの音楽は、聴きおぼえがあります。実は、これは「ブランデンブルク協奏曲第1番」の初稿の1曲目、作られたのがこのカンタータと同じころで、楽器編成も同じだということから、シンフォニアとして使われたのだろう、と推測されているのだそうです。
そのあとは、ソリストたちのレシタティーヴォとアリアが続くというお決まりの進行になるのですが、そのレシタティーヴォの後半には、ものすごいメリスマ、というか、コロラトゥーラが披露されるというサプライズが待っていました。これが「イタリア・オペラ」の趣味を取り込んだものなのでしょう。特にソプラノとテノールの2人による5曲目のレシタティーヴォなどは、櫻田さんの神業とも相まって、まさに息つく暇もないほどの華麗な世界が味わえますよ。1976年に録音されたマティスとシュライアーの演奏に比べると、速度はほぼ倍、そんな時代もあったのですね。
ほんと、2曲とも、その櫻田さんの歌をひたすら堪能するためのようなSACDでした。合唱などは、相変わらずの取り澄ましたクールさには、ちょっと引いてしまいます。

SACD Artwork © BIS Records AB

7月26日

GOULD
Orchestral Works
Jeffrey Silberschlang(Tp)
Gerard Schwarz/
Seattle Symphony
NAXOS/8.559715


新譜だと思って買ったら、実は1994年にDELOSからリリースされていたものの移行盤でした。確かに帯には本当に小さな字でそんなことも書いてありましたね。全く気づきませんでした。新録音でなければ、少しお安くご提供してもいいような気がしますが、どうでしょう。
モートン・グールドのアルバムは、前にこちらで聴いていました。今回重なっている曲は「パヴァーヌ」だけですから、さらにグールドの別の面がたっぷり味わえることになります。いや、その「パヴァーヌ」にしても、まるで別の曲ではないかと思えるほどの、こちらは軽やかな演奏でした。というのも、このアルバムではジェフリー・シルバーシュラグという、おそらくこういう「軽め」の曲を得意としているトランペット奏者がフィーチャーされていて、それがとてもポップな雰囲気を出しているのですよ。この「パヴァーヌ」も、本来は別のパートが吹く部分までトランペットで演奏するように手直しをして、より「シルバーシュラグ節」が際立つようになっています。
ここでは、最初の1曲を除いて、すべてにそのトランペットが入っています。それらの曲は、まず、グールドのメインのフィールドだった「劇伴」としての音楽です。彼は映画やドラマ、さらにはドキュメンタリー番組までと、広範に音楽を作り続けていましたが、ここでそれらをまとめて聴くと、そこにはまさに、今の日本のお茶の間で日々流されているテレビドラマの音楽の要素がすべて含まれているように感じられます。あくまでキャッチーなメロディを前面に出して、本来の「伴奏音楽」としてだけではなく、このように単独で演奏しても十分味わえるものになるように仕上げる、という手法です。おそらく、グールドの場合は、結果的に独立した音楽にもなりうるクオリティを備えるようになったのでしょうが、日本の場合は、最初から「サントラCD」としての需要をあてにしている、という点が、かなり大きな違いではあるのでしょうがね。
「第一次世界大戦」という、CBSのドキュメンタリーのために作られた音楽は、その時代が彷彿とされるような作られ方をしています。それは、いまだに「世紀末」を引きずっているような少し退廃的な雰囲気を持ったものです。特に、「Sad Song」というナンバーには、そんなちょっと怪しさを秘めた魅力が満載です。
一方、NBCで作られた、ドイツのユダヤ人家族が主人公のドラマ「ホロコースト」の音楽は、グールド自身もユダヤ人移民の子であるということもあってか、さらに深みのあるものに仕上がっています。このドラマはエミー賞を獲得したのだそうですね。
最後に演奏されているのは、「マーチング・バンドのためのフォーメーション組曲」です(帯のインフォメーションには「マーチング・バンドよりフォーメーション組曲」ですって。校正ミスですね)。こんなジャンルの曲も作っていたのですね。これは本当に楽しい曲でした。文字通り、マーチング・バンドがフォーメーションを変えるごとに、曲も変わってヴァラエティあふれる演奏を繰り広げるためのものなのですが、そんな「実用音楽」にしておくのはもったいないほどの、まさにアメリカの明るさを終結したようなその数々の「マーチ」には、思わず引き込まれてしまいます。「森のくまさん」も登場しますし、「Twirling Blues」というのが渋くていいですね。
そんな中で異質なのが、最初に演奏されている「コンチェルト・グロッソ」です。もともとは「オーデュボン」という、バレエのための音楽を作ったところが、それは上演されることが無くなったので、4人のソロ・ヴァイオリンとオーケストラのために書き直したものだそうですが、これが聴いていて全然つまらないのですね。これもグールドの「シリアス」な一面なのでしょうが、彼が本気でこちらの道に進まなかったのは、我々にとっては幸せなことでした。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

7月24日

PIAZZOLLA
Histoire du Tango
Cécile Daroux(Fl)
Pablo Márquez(Guit)
HARMONIA MUNDI/HMG 501674


今年は、タンゴ界の巨星、アストル・ピアソラが亡くなってから20年目という記念の年なのだそうです。もうそんなに経ったの、という気がするのはなぜなのでしょう。そういうアニバーサリーに敏感なこの業界では、これにちなんで数々の企画が展開されているのでしょうね。
そんな時にピアソラの「タンゴの歴史」というタイトルのCDが出たりすれば、やはりそんな「お祭り」にちなんだ新録音だと思ってしまいます。ジャケットも、今まで見たことのないものでしたし。そもそも、こんな、いかにも情熱的な風貌の美人フルーティストのCDなんて、見ればすぐわかります。
しかし、あいにくこれはそんな「ピアソラ・イヤー」とは全く無関係なアイテムでした。最近のこのレーベルのミド・プライスのシリーズ「hmGold」の一環としてリリースされた、もともとは1998年に録音されたものなのでした。オリジナルのジャケットにも同じ写真が使われていたようでしたが、当時は気が付かなかったようです。
この美しい方はセシル・ダルーというフランスのフルーティストです。一部では「ダロー」という表記も見られます。いったい、どちらが正しいんだろー1966年に生まれています(代理店によるインフォでは「1969年」となっていますから、初期の資料ではサバを読んでいたのでしょう)から、録音した時は30代に入ったばかり、当然この写真もそれ以前に撮られたものなのでしょうが、美貌とともにこのアダルトな貫禄もすごいものです。ところが、彼女は昨年、45歳の若さで亡くなってしまったそうなのです。なんともったいない。「美人薄命」とは、まさにこの人のためにあるような言葉ではないでしょうか。
パリのコンセルヴァトワールを卒業した彼女は、多くのコンクールに入賞して一時はルーアンのオペラハウスのオーケストラの首席奏者も務めていたそうですが、録音では現代音楽の分野で何点かのものがありました。その中に、クセナキスの「Nyu-yo」という1985年に作られた曲があったので、ちょっと驚いたことがあります。クセナキスがフルート曲を作っていたとは。しかし、これは実は日本語のタイトル「入陽」を欧文表記したもので、そもそもは尺八、三弦、2台の琴のために、「邦楽4人の会」から委嘱された作品だったのですね。それを、ダルーの依頼で作曲家自身がフルートと3本のギターのために編曲したものを、そこでは演奏していたのです。ここでは、ダルーは完璧に尺八を模倣したフルートで、クセナキスには珍しい東洋的な情感を表現していました。
もはや、フルーティストにとっては定番のレパートリーとなったピアソラの1986年の作品「タンゴの歴史」は、タイトルの通り、時代とともに様相を変えていったタンゴの姿を、フルートとギターによってピアソラなりの解釈で描いたものです。ただ、このような元来「非クラシック」であったものを楽譜にあらわした時には、おのずと演奏者のアプローチが試されることになります。この曲を委嘱し、初演したマルク・グローウェルズあたりの演奏を聴くと、楽譜はただのガイドに過ぎず、そこから離れたダンス音楽である「タンゴ」としての躍動感をより大切にしているような、おそらく作曲家も望んだに違いない表現が感じられるのではないでしょうか。
しかし、ダルーの場合は、あくまで「楽譜に忠実に」というスタンスを崩そうとはしていません。いや、そこそこ軽めのフェイクを入れてみたり、自由なカデンツァがあったりはしますが、それはあくまで「クラシック」、いや、「現代音楽」の範疇としてのレアリゼーション、ピアソラを「現代音楽の作曲家」としてとらえるという姿勢は頑として貫かれています。最後の「現代のコンサート」が、ピアソラが感じた当時の「現代音楽」を反映させたものであることは、そんなアプローチでなければ気づくことはなかったことでしょう。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

おとといのおやぢに会える、か。


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