またぁ〜、受難曲ぅ〜?.... 佐久間學

(10/4/20-5/8)

Blog Version


5月8日

BACH
Flute Sonatas
Joshua Smith(Fl)
Jory Vinikour(Cem)
DELOS/DE 3402


ジョシュア・スミスは、1990年に20歳という若さでアメリカの名門、クリーヴランド管弦楽団の首席奏者に就任した、あの「パユさま」そっくりの華麗な経歴(おでこの上がり具合もそっくり)を持つフルーティストです。もちろん首席ですから、演奏する時は一人、助手は要りません。彼の演奏は、今までにハープとの共演での武満やドビュッシー、あるいは内田光子のバックなどで耳にしていたはずですが、特に強烈な印象が感じられたわけではありませんでした。しかし、内田とのモーツァルトのコンチェルトなどは、木管全体の中にきれいにとけ込んで、とても爽やかな演奏を聴かせてくれていたのではないでしょうか。
今回は、彼のリーダー・アルバム。バッハの無伴奏パルティータと、オブリガート・チェンバロとの3声のソナタが4曲というラインナップです。ソナタのうちのロ短調とイ長調は「真作」ですが、あとのト短調と変ホ長調は「偽作」とされています。さらに、イ長調のソナタの第1楽章の欠損部分は、ベーレンライター版のアルフレート・デュールの修復ではなく、ヘンレ版のハンス・エプシュタインによる短めのものを使っています。ただ、楽譜については、ヘンレ版に忠実に演奏しているというわけでもなく、適宜他の原典版の解釈を取り入れているようですね。
しかし、実際に聴いていて興味があるのは、そんな細かな版の問題ではなく、どのような楽器を使って、どんなスタイルで演奏しているか、ということなのではないでしょうか。彼が今回のバッハでとったスタンスは、あくまでモダン楽器によるアプローチ、ピッチもモダン・ピッチです。しかし、ここで彼が使っている楽器は、中古楽器屋さんの棚で偶然見つけたという、ルーダル・カルテの木製のフルートです。その時にはかなりひどい状態だったものを、きちんと修復してもらい、さらに頭部管はルイ・ロットの複製に取り替えて使っているそうです。その音色は、モダン・フルートにもかかわらず、木管のふくよかさをたたえた、とても暖かいものです。高音はあくまでまろやか、低音も、倍音をあまり含まない軽やかな音色となっています。
そんな柔らかな響きのフルートに、繊細なチェンバロが加わります。 モダン・フルートとヒストリカル・チェンバロという編成では、とかくフルートだけが目立ってしまいがちですが、ここでのチェンバロの音像は、かなり大きめに設定されているので、ぼやけてしまうことはありません。逆にフルートのほうがあまり輪郭がはっきりしないような録られ方なので、バランスとしては少し物足りないかもしれません。しかし、録音会場である教会の長い残響時間のおかげで、全体の響きはとてもゴージャスな、まるで王侯貴族のサロンのようなたっぷりとしたものが感じられます。
そう、この録音は、もしかしたらバッハ時代の音楽のありようを、オーセンティックな側面からではなく、あくまでメンタルな意味で再現しようと試みたものだったのではないのでしょうか。オリジナル楽器の演奏家たちが目指してきたのは、当時の演奏習慣の忠実な再現だったはず、確かにそれは意味のあることですが、現代の聴き手にとってはそれはもしかしたらかなり煩わしく感じられるものなのかもしれません。そんな外見的な煩わしさをある意味スルーして、もっと直接的に当時の聴衆が感じていたはずのリッチな雰囲気を味わってもらおう、そんな風にスミスたちは考えていたのでは、というのが、この優雅極まりない演奏を聴いて感じたことです。
なめらかな運指と心地よい音程、そしてあくまでソフトな音色、スミスの演奏は、確かにそんな雰囲気を存分に再現したものです。そこからは、バッハの持つ穏やかな側面を、メッセージとして受け取ることが出来るのではないでしょうか。それは、あくまで押しつけがましいものではない、心地よさを伴うものでした。

CD Artwork © Delos Productions, Inc.

5月6日

TCHAIKOVSKY
Symphonies Nos. 4, 5 & 6
Evgeny Mravinsky/
Leningrad Philharmonic Orchestra
ESOTERIC/ESSG-90037/8(hybrid SACD)


ショルティの「指環」で、その凄さを見せつけてくれたエソテリックのSACD、最近はDECCAだけではなくDGの録音も手がけるようになっているのでっか?マスターテープにまでさかのぼって、SACD化するというその最新のアイテムが、このムラヴィンスキーとレニングラード・フィルのチャイコフスキーです。1960年の彼らのヨーロッパ・ツアーの間に、DGのスタッフによってステレオ録音されたという、歴史的に意義深いものであることは、重々ご存じのことでしょう。実は、その4年前にも、やはりDGによって同じ4、5、6番がモノラルで録音されており、その際には4番だけはムラヴィンスキーではなくザンデルリンクの指揮だった、というのも、有名な話です。
今回のパッケージでは、「5番」のオリジナル・ジャケットが表紙を飾っています。さらに、3枚それぞれの「ライナー・ノーツ」のコピーが同梱されているのも、嬉しいことです。小さな字で「針圧は6グラム以下で」などと書かれているのも、懐かしいものですね。
ご存じでしょうが、この3曲のうちの「4番」は、かつてSACDで出ていたことがありましたね。ただ、それは、どこにも正確な録音データが記載されてはおらず、それどころか、「○○で行われたコンサートのライブ録音」などという、怪しげな姿に「偽装」されたものでした。それも含めて、「Originals」などとまず比較してみるのが、まず、最初の楽しみです。
今回も、一連のエソテリックのSACD同様、マスタリングを担当したのは杉本一家さんです。彼の仕事ぶりには常に期待以上の成果を体験させられてきましたが、これも期待にたがわず、いつもの「杉本マジック」をまざまざと見せつけてくれるものでした。何よりも、すべての音がとても自然で伸びやかに響いています。不快な音が聞こえてこないのですね。これを聴いてしまうと、「Originals」では、そのネーミングとは裏腹に、かなり手を加えられている音のように感じられてしまいます。聴いていて、かなり疲れるのですよ。
さらに、「4番」の第2楽章のオーボエなど、まさに別物、とても存在感のある音像が、くっきりと浮かび上がっています。続く第3楽章の弦楽器のピチカートでも、雰囲気感が全然違います。試しに、「偽」SACDを聴いてみると、これはもう、わざと倍音成分をカットしたのではないかと思えるほどの、ひどい音でした。さらに、ステレオ感も微妙に狭くしているような感じ、この辺が「偽装」の浅知恵なのでしょう。
この楽章で、作曲家はピチカートを高い音の楽器から順につなげて一つのフレーズを作る、ということをやっています。この部分は、デビューしたばかりのステレオ録音にとっては格好のデモンストレーションになるはず、音が高音から低音、つまり左から右へと移動していくのは、まさにスペクタクルです。ですから、ここで、このオーケストラがいつもとっている「対向型」で録音してしまうと、左端から一旦右端に移動、それからまた左端に向かって音が動くという、ちょっとわかりにくいものになってしまうはず、このあたりも、わざわざ「普通の」配置にさせて録音を行ったエンジニアのこだわりだったのでしょうね。
「4番」はロンドンで録音されたものですが、「5、6番」ではウィーンのムジークフェライン・ザールが使われました。この会場の響きの違いも、はっきり味わうことが出来ます。そんなことも含めて、聴きこめば聴きこむほど、新たな興味がわいてくるSACDです。
そんなすごい音の中から聞こえてくるこのチームの音楽は、録音同様興味の尽きないものです。何よりもびっくりしたのが、とてつもないピアニシモなのに、あふれるばかりの「力」と「表情」を備えている弦楽器。こんなものが、まるでマスターテープのような立体感のある音で迫ってくるのですから、たまりません。

SACD Artwork © Esoteric Company

5月4日

GOULD
American Symphonette
David Alan Miller/
Albany Symphony Orchestra
ALBANY/TROY1174


おととし、1908年はルロイ・アンダーソンの生誕100年ということで、世の中はずいぶん盛り上がりましたね。彼のほぼすべてのオーケストラ作品がCDとなり、彼はなんとミュージカルまでも書いていたということなどを人々は知ったのでした。
アンダーソンと同じように、シンフォニック・オーケストラの編曲や指揮、そして、軽いテイストの曲を作った人が、5歳ほど年下のモートン・グールドです。ハゲですが(「毛根」グールドなのに)。しかし、グールドの場合はもっぱら編曲者や指揮者としての名声のほうが先行していて、その作品はアンダーソンほど有名ではないような気がします。そんな中で、彼のオーケストラ曲がまとまって録音された珍しいアルバムがリリースされました。彼の作曲家としての姿が、やっと明らかになることでしょう。
ここで演奏されているのは、いずれも「シンフォネット(小交響曲)」とか「コンチェルテット(小協奏曲)」、さらには「オーケストラのための協奏曲」などといった、「お堅い」タイトルが付いた3つか4つの楽章を持つ「絶対音楽」です。ほんの2、3分で終わってしまう「描写音楽」をもっぱら作っていたアンダーソンとは、ずいぶん違っているような印象を、まず受けてしまいます。もしかしたら、グールドという人は華やかな編曲者とは世をしのぶ仮の姿、本当は難解な曲を作って人々を不安な思いに駆り立てる「現代作曲家」だったのでしょうか。あの、ジョン・ウィリアムスのように。
しかし、ご安心ください。まず、最初に流れてきた「アメリカン・シンフォネット第2番」では、第1楽章でいきなり聞こえてくるのがハイハット・シンバルによる軽快な4ビートのリズムだったのですからね。そう、これはまさにエンタテインメントの極致、ほとんど「スウィング・ジャズ」と変わらない音楽だったのです。ちょっと複雑なシンコペーションなどが出てきても、それはあくまでスウィング感を盛り上げるものですから、何の違和感もなくビートに身をゆだねることが出来るはずです。そして、それに続く「パヴァーヌ」というタイトル(ただし、綴りは「pavane」ではなく「pavanne」)の付いた楽章は、始まるなり「あ、これ知ってる」と叫びたくなるようなキャッチーなものでした。それは、なんとも郷愁を誘われる、どんな人でも必ずどこかで一度は聞いたことがあるのではないかというメロディだったのです。確か、これは歌詞も付けられてヒット曲にもなったものなのでは。そして、最後の楽章はいかにも朗らかな、ウェスタン調の曲です。しかも、そのテーマは有名なバッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番」の「プレリュード」そのものではありませんか。そういえば、第1楽章もベートーヴェンの交響曲第2番のフィナーレそっくり、グールドにはそんなおちゃめな一面もあったのですね。
全部で4曲ある「シンフォネット」ですが、ここではもう1曲、こちらは4楽章形式の「第3番」も収められています。これも、とことん楽しい曲ですよ。
「コンチェルテット」というのは、ピアノ協奏曲の形をとったものです。こちらも、リズム・セクションこそ入ってはいませんが、やはり同じく「アメリカ的」な協奏曲です。「ブルース」などという名前の楽章も、いかにもけだるいおしゃれなテイストに仕上がっています。
そこへ行くと、「オーケストラのための協奏曲」は、そんな明るさがあまり表には出てこない、ちょっとシリアスな曲のように感じられるかもしれません。確かに、ここではグールドはあまり聴いている人を楽しませるような作り方をしていないようにも思えますが、それでもつい現れてしまう親しみやすさには救われます。やはり、彼は根っからのエンターテイナーだったのでしょうね。
ここで演奏している指揮者もオーケストラも、しっかり楽しんでいるのが、よく伝わってきます。

CD Artwork © Albany Records

5月2日

All You Need-Livre de Clavecin
Anders Danman(Cem)
KING INTERNATIONAL/KKC 027


ビートルズの全オリジナル・アルバムが、新しいマスタリングで再発されたのは、去年のことでしたっけ。あの時の大騒ぎを思い出すにつけ、このグループの商業的な成功には、今更ながら驚かされてしまいます。
そんなオリジナルと並行して、彼らの作品のカバー曲も、夥しいものが作られているのはご存じのとおりです。さらに、マジメなカバーではなく、「パロディ」っぽいものもどんどん作られたというのも、いかに彼らの曲が「元ネタ」としての存在感を持っていたかという証になるわけです。ヘビメタによるパロディ、などというおぞましいものもありましたね。もちろん、その親しみやすいメロディやハーモニーをクラシック風に扱ったという、クラシックサイドからの「パロディ」は、なんたって大歓迎、そこにおそらく最初に目をつけたのが、あのジョシュア・リフキンだったのかもしれませんね。
さらに、1977年ごろにリリースされたのが、ベルギーのピアニスト、フランソワ・グロリューによるぶっ飛んだカバーでした。ビートルズの曲を、それぞれクラシックの有名作曲家のスタイルで演奏する、というものですね。というより、その作曲家の特定のピアノ曲に、ビートルズのメロディを埋め込む、というのが基本的なやり方、たとえば「サティ風」では、「ジムノペディ」のリフで「ハロー・グッドバイ」を演奏する、といった感じですね。これは、かなり高度なやり口、クラシックの曲のほうを知っていれば知っているほど楽しめるという、痛快なものでした。「ブラームス風」や「シューマン風」の渋かったこと。あまりの評判に(確か、それは日本でだけの評判だったはずですが)、数年後には「続編」も出ましたね。その中の「バルトーク風」などは、(「ミクロコスモス」+「エリノア・リグビー」)÷2ですよ。すごすぎます。
それから30年以上たって、スウェーデンのチェンバリスト、アンデシュ・ダンマンが作ったのが、このグロリューの精神をそのまま受け継いで、しかし、「元ネタ」はフランス・バロックの雄、フランソワ・クープランやその周辺の作曲家の作ったチェンバロ(いや、クラブサン)曲、特に、その時代の舞曲を集めた「組曲」に特定したという、さらにマニアックな「パロディ」でした。
収録されているのは、「ト長調」と「ニ長調」の2曲の「組曲」です。それぞれ「前奏曲」に始まって、「アルマンド」、「サラバンド」、「ジーグ」、「クーラント」といった、おなじみの名前の典雅な舞曲が続きます。船長ではありません(それは「ダーラント」)。仮に、何の予備知識もなしにこれらの「組曲」を聴いたとしたら、それはまさしく知られざるフランス・バロックのクラブサンの曲だと信じ込んでしまうかもしれないほど、これらの曲の「なりきり」は見事なものでした。いかにも「フランス風」の装飾がいいですね。というか、ジャケットの曲名を見ないことにはそこで使われているビートルズの曲が何なのかを認識することすら困難になってしまうほど、レノン/マッカートニー/ハリソンのナンバーたちは、そのメロディが完膚なきまでに解体されてしまっています。ですから、そんな断片が見事にクープランの衣をまとっていることを発見した時の喜びは、確実に「感動」、言い換えれば「爆笑」につながっていくことは間違いありません。
もはや不可能なことですが、何の情報もなくこの曲を聴かせて、その「中身」を当てさせる、というクイズを作ったら、さぞかし難問になることでしょう。
しかし、このジャケットに「4人」写っているダンマンさんは、そんな面白いことをやったにしては、なんだかずいぶん厳しげな顔立ちですね。もしかしたら、彼としては大まじめにこの曲を作ったのかもしれませんよ。きちんと「考証」を入れて。それが逆に真の「笑い」を生んだのだ、と思うのも、楽しいものです。

CD Artwork © King International Inc.

4月30日

WHITBOURN
Luminosity and other choral works
Matthew Berry/
Commotio
NAXOS/8.572103


最近、このレーベルの合唱関係のアイテムが充実してきたようには、感じられませんか?演奏のレベルもかなり高いものが多く、簡単には見過ごせないものが揃っています。今回も、おそらく日本の市場では初めて紹介されたであろうイギリスの作曲家、 James Whitbournの作品集です。ただ、この誰も聞いたことのない作曲家の名前を日本語で表すときに、このレーベルの日本の販売元が「ホワイトボーン」と表記してしまったために、なんだかこの先読み方に関しては混乱が生まれそうな予感です。先日のローリゼンではありませんが、ちょっと見慣れない綴りの名前だと、何種類かの日本語表記が乱立してしまうことがありますからね。現に、さる楽譜販売サイトでのインフォでは、同じ人を「ウィットボーン」と表記していますよ。いったい、どちらを信用したらよいのでしょうか。しかし、どうやらこの件に関しては、「ウィットボーン」の方がより元の発音に近いような気がするのですが、どうでしょう。というより、「Whitebourn」ではないのですから、これを「ホワイトボーン」と読むのは、かなりきついのではないでしょうかねぇ。どうやら、これはタスキ(業界では「帯」というのでしょうか)制作者の語学力の欠如からくる、ケアレスミスのように思えてしょうがありません。リブ・タイラーのお父さんですか(それは「エアロスミス」)。
1963年生まれといいますから、ジョン・ラッターあたりの次の世代の作曲家になるのでしょう。有名なキングス・カレッジ聖歌隊などから委嘱を受けるなど、すでにイギリスの合唱界では確固たる地位を築きあげている方です。その作品は、確かにそんなラッターの流れを色濃く反映しているとともに、ジョン・タヴナーあたりのテイストも、もはや一つの伝統として取り込んでいる感があります。いとも清らかに漂う「癒し」の情感は、もう現代の作曲家にとっては必須アイテムなのでしょう。
しかし、そんな中にももちろんウィットボーン自身の個性といったものを、確かに感じることが出来るのがうれしいところです。アルバムの最初に聞こえてくる「Magnificato」は、オルガンと打楽器の伴奏が入った、いきなり不協和音の塊から始まる大胆な曲でした。それは、まるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような、原始的な「叫び」にも聞こえるような斬新さを持っていました。
一方、「A Prayer of Desmond Tutu」という曲では、ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデスモンド・トゥトゥ大司教自身がナレーションを担当して、「愛は憎しみよりも強い」といったような「祈り」を淡々と伝えています。あまりにもベタな気はしますが、そんなストレートなメッセージは、平易なサウンドに乗って心地よく伝わってきます。
アルバム・タイトルになっている「Luminosity」という2008年に完成した曲は、音楽とダンスのコラボレーションとして作られたものなのだそうです。ここにはアジア、特にインドの音楽のテイストがとりいれられています。冒頭から聞こえてくるタンプーラという、シタールを演奏する時にアンサンブルでドローン(持続音)を担当しているインドの楽器の音によって、即座にインド音楽モードに入り込むことが出来ることでしょう。それに続いてヴィオラ・ソロがもろインド音階のオブリガートを演奏してくれますし。
演奏しているのは、初めて聴く「コモティオ」という合唱団です。オクスフォード大学の卒業生によって1999年に創設された、現代の合唱曲を専門に演奏するという団体です。イギリスの合唱団ならではの安定したソノリテの上に、きちんと「雑音」までも表現できるという幅の広さが魅力です。なんでも、シュニトケの「レクイエム」を、イギリスで2番目に演奏したのだとか、その実力は折り紙つきです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

4月28日

新しい音を恐れるな 現代音楽、複数の肖像
インゴ・メッツマッハー著
小山田豊訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93547-7

先日ご紹介したメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」のDVDで小気味よい指揮ぶりを披露していたメッツマッハーが、2005年にこんな本を書いていました(やってまったー)。つい最近出た、その日本語訳です。
キャリアの出発点が「アンサンブル・モデルン」のピアニストだったということで、指揮者としての彼の名前は、それこそ「現代音楽」のスペシャリストとして、一部の人にはよく知られています。そんな彼が、自分の体験を通して、「現代音楽」について語ったものが、この本です。しかし、それは決して教条的な解説書ではなく、彼が本当に好きな音楽についていとも楽しげに「こんなのがあるから、聴いてごらん」と言っているような親しみやすさが、いたるところからにじみ出してくるものでした。
それは、彼自身の体験によって裏打ちされているものばかりですので、圧倒的な説得力をもって迫ってきます。例えば、シュトックハウゼンの「コンタクテ」を練習する課程で、彼の音楽に魅了されるようになっていく様子をつぶさに語るあたりの真に迫った描写には、惹きつけられずにはいられません。そのコーナーでの、シュトックハウゼン本人との関わりについても、興味の尽きないエピソードが次々に現れてきますしね。
今年の秋に来日して、新日本フィルとともに演奏するハルトマンについても、それぞれの交響曲の魅力が、熱く語られています。おそらく、この本と、このコンサートによって、彼の作品の愛好家も少しは増えるのではないでしょうかね。実際、メッツマッハーの真に共感に満ちた語り口は、無条件でその曲を実際に聴いてみたくなるものばかりでした。これほど平易な言葉で「現代音楽」の魅力を伝えた本を、他に知りません。
ただ、この翻訳には、そんな魅力を半減させるような欠陥が潜んでいました。まずそのタイトルです。原題は「Keine Angst vor neuen Tönen / Eine Reise in die Welt der Musik」というもの、メインタイトルが「恐れるな」などという命令形なのは、まあ趣味の問題として片づけられますが、サブタイトルは本来は「音楽の世界への旅」なのですから、「現代音楽、複数の肖像」というのは訳者による全くの捏造ということにはなりませんか?確かに、何十年か前の「ゲンダイオンガク」のシーンでは、こんな頭でっかちの意味不明な言葉が飛び交っていたのかもしれません。それは、ひたすら独りよがりへの道を突き進んだ「作曲家」と、そして、それをありがたがって拝聴することが一つの特権だと勘違いしていた「聴衆」を、いみじくも象徴するような言葉なのではないでしょうか。メッツマッハーは「私と一緒に『音楽の世界への旅』へ行きましょう」と言っているというのに。
そんな訳者の勘違いをさらに端的に示しているのは、最後に掲載されている本文には由来しない著者のプロフィールです。かつてハンブルク時代に彼の指揮で開催されていた年末のコンサートのタイトルは、英語でWho is Afraid of 20th Century Music?というものだったのですが、これはもちろんディズニーのアニメ「三匹の子ぶた」の主題歌「Who's Afraid of the Big Bad Wolf?」をもじった、いかにもメッツマッハーらしいウィットに富んだタイトルだったはずです。ですから、日本語で表すときにも、この歌の邦訳として定着している「狼なんか怖くない」にちなんだ「20世紀音楽なんか怖くない」あたりが、素直にそのコンサートの趣旨を伝えるものとしてふさわしいのでは、とは、誰しも思うことでしょう。ところが、ここで訳者が用いた邦訳は、「20世紀音楽を恐れるのは誰だ?」という、まさに「直訳」、メッツマッハーがタイトルに込めた思いからは、はるかに遠くにあるものだったのです。
こんなに面白い本が、こんな扱いによってごく一部の鼻持ちならないマニアの目にしかとまらなかったとしたら、これほど残念なことはありません。

Book Artwork © Shunjusha Publishing Company

4月26日

MAHLER
Symphonie No.1, Rückert-Lieder
Christine Schäfer(Sop)
Christoph Eschenbach/
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
CAPRICCIO/C 5026


このレーベル、一時は完全に消滅していたかのような様相を見せていました。なにしろ、大量に昔のアイテムが「放出」されて、まさに「閉店セール、現品大処分」といった趣でしたからね。あまりの安さに、ついケーゲルのSACDなどという「クズ」まで買わされてしまいましたっけ。その後、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、結局カタログの大部分を引き継いだPHOENIXレーベルの傘下に入って、新録音なども行うようになったのだそうなのですね。品番が「C」で始まり、そのあとに4ケタの数字が続くものが、そんな新しい録音なのだそうです。
そんな新録音、しかもセッション録音で、エッシェンバッハとベルリン・ドイツ交響楽団という新鮮なコンビの演奏によるマーラーが出ました。今年からはワシントンのナショナル交響楽団のシェフに就任したエッシェンバッハですが、決して良好な職場環境ではなかったはずの前任地フィラデルフィアでも、ONDINEの録音ではなかなか聴きごたえのあるものをリリースしてくれていましたから、かなり期待は持てるはずです。オーケストラも、かつてはフリッチャイの元で「RIAS放送交響楽団」という名前で多くの録音を残していた名門ですし(ほう、そうなんですか)。
そんな予想にたがわず、この「1番」は、とても主張のはっきりした素晴らしいものに仕上がっていました。なによりも、最初から最後まで、このオーケストラの力を信じてそこから最良のものを引き出そうという指揮者の思いが、見事に表れていたのです。特に、第2楽章で見られた余裕の表現からは、真の音楽の持つ楽しさが伝わってきます。この楽章での「3拍子」は、たとえばウィンナ・ワルツでその地方の「訛り」がえもいわれぬ味となるように、ほんのちょっとしたリズムの処理が、大きくその魅力を左右することになります。「タララー」という基本的なリズムは決して均等に演奏されるのではなく、「タラッラー」みたいに、1拍目の「裏」をほんの少し早めに(もちろん、それは楽譜に表すことは出来ません)入ることによって、いかにも「レントラー」っぽく粋に感じられるのですね。このチームが繰り出すそのリズムが、まさに絶妙なのですよ。それは、指揮者の指示をオケが忠実に実行している、といった次元のものではなく、両者がまさに阿吽の呼吸でいとも自然に醸し出しているのですね。それだけではなく、次のフレーズへ入るときのほんのちょっとした「タメ」も、絶妙の味付けとなっています(最近北欧の指揮者と北欧のオケによるこの曲のコンサートを聴いたのですが、そこでは完全に「楽譜通り」のリズムで演奏されていて、がっかりしたものです。そこからは、マーラーの匂いが漂ってくることは、けっしてありませんでした)。
第4楽章では、いたずらに煽るようなことはなく、少し抑え気味のテンポで進んでいきます。それは、決してのめり込むようなものではないにもかかわらず、そこから生まれる高揚感は、聴くものを充分に「嵐」の中に誘い込んでくれるものでした。それだからこそ、その嵐が収まったときに表れる穏やかな光景での思い入れたっぷりの表情が心を打ちます。この風景は、まさに楽園、なんと美しいことでしょう。それは、いずれはまた「嵐」によって打ち消されるのですが、そんな、決してたどり着くことのない楽園だからこその美しさが、切ないほどに伝わってはこないでしょうか。
カップリングとして入っている「リュッケルトの詩による歌曲」も、素晴らしい仕上がりです。歌っているのはクリスティーネ・シェーファー、いつもながらの考え抜かれた表現は、あたかも感性ではなく知性に訴えて来るような刺激的なものでした。彼女の歌はまさに変幻自在、リアリティあふれる発音によって、歌詞の持つ世界が見事に描かれます。

CD Artwork © Phoenix Music Media

4月24日

GAZZANIGA
Don Giovanni
Roberto Iuliano(Don Giovanni)
Linda Campanella(Donna Elvila)
Maurizio Leoni(Pasquariello)
Alessio Pizzech(Dir)
Pierangelo Pelucchi/
Fondazione Orchestra Stabile Gaetano Donizetti
BONGIOVANNI/AB 20002(DVD)


先日、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」のプロットの破綻を指摘したところ、「それは、『元ネタ』にはあったものが、ダ・ポンテによって削除されたから」というようなコメントをいただきました。その「元ネタ」、ジュゼッペ・ガッツァニーガが作曲した「ドン・ジョヴァンニ」の存在は、かなり前に聴いたヴァイルの演奏によるCDで知ってはいました。
SONY/SK 46 693
しかし、あいにくこれはレシタティーヴォをすべてカットしたハイライト盤だったため、アリアの比較は出来ても、ストーリーの違いまでは確認することが出来ずにいました。そこで、この際この「元ネタ」をきちんと見てみようと思い、割と最近の(とは言っても、これが映像としてリリースされた最初のもの)DVDを買ってみました。200510月、ベルガモのドニゼッティ劇場での上演のライブです。
この作品は、ジュゼッペ・ガッツァニーガが、ジョヴァンニ・ベルターティという、チマローザの「秘密の結婚」などを書いた劇作家の台本によって作ったもので、1787年の2月5日にヴェネツィアで初演されています。一方、「パクリ」であるダ・ポンテ/モーツァルト版は、その8ヶ月半後の1029日にプラハで初演されていますね。ちなみに、この2作品の正式なタイトルは「元ネタ」が「ドン・ジョヴァンニ、または石の招待客」、「パクリ」が「罰せられた放蕩者、またはドン・ジョヴァンニ」となっています。
この上演では、序曲に先立って演出のピッツェクが書いた「エピローグ」が演じられます。それは、いきなり客席にパスクワリエッロ(「パクリ」では「レポレッロ」と変わっています)役のレオーニが現れて、他の出演者も巻き込んでなにやらにぎやかにしゃべりあう、というものなのですが、あいにくこの部分だけ字幕がついていないので何をやっているのかは、イタリア語に堪能でない限り分からないことでしょう。
そして、おもむろに序曲が始まりますが、オーケストラの編成は管楽器はオーボエとホルンが2本ずつという、かなり小規模なものです。「パクリ」ほどのドラマティックなものではなく、淡々と当時のイタリアオペラの期待を裏切らない音楽が繰り広げられます。
ストーリーは、確かに「パクリ」とは微妙なところで異なっています。最も気になっていた騎士長の墓と石像の問題も、しっかりオッターヴィオ侯爵によって、その建設にあたっての講釈がていねいに語られますので、疑問を感じることはありません。それよりも、「元ネタ」ではドン・ジョヴァンニは、自分が殺した騎士長が確実に埋葬されたかを確認するために、自らの意志でここを訪れていたという点に、興味がひかれます。「パクリ」では確か、たまたま迷い込んだ場所が石像の前だった、という設定でしたよね。
そんなことも含めて、「元ネタ」からは「騎士長殺害の報いを受ける『悪者』ドン・ジョヴァンニ」という構図がかなり強く伝わってきます。なんせ、ドンナ・アンナは明らかにレイプされていますし(台本にあります)、マトゥリーナ(つまりツェルリーナ)も、いとも簡単に餌食になっているのですからね。そんな「元ネタ」に、さらに細やかな情愛を施したのは、「後出し」の特権でしょうか。確かに、モーツァルトの描いたキャラクターは、格段に深みが増しています。「カタログの歌」だって、人数が増えてますし。
ただ、台本だけでなく、音楽も何となく似ているところがあるのは、ちょっと気になります。マトゥリーナの結婚式のシーンなど、もろ「パクリ」。
折りしも、ダ・ポンテと「ドン・ジョヴァンニ」を題材にした映画が公開中、この中では、この「元ネタ」はどのように扱われているのか、あるいはまったく触れられてはいないのか、とても興味があります。

DVD Artwork © Bongiovanni

4月22日

BARTÓK
Concerto for Orchestra
Zoltan Kocsis /
Hungarian National Philharmonic Orchestra
HUNGAROTON/HSACD32187(hybrid SACD)


2002年の録音と、決して「新譜」ではないのですが、最近何かと「オケコン」に縁があるものですから、この曲のおそらく何番目かに「最新」に近いものということで、ご紹介させてください。
「オケコン」といえば、つい最近、テレビでスクロバチェフスキが読売日本交響楽団を指揮した映像が放送されましたね。かなり期待をして見ていたのですが、なんとも淡泊な演奏だったのには、ちょっとがっかりしてしまいました。何よりも、管楽器奏者達が常に安全運転に終始していて、ハラハラさせられることがないのですね。この曲では、もっと弾けて生々しい躍動感を見せつけて欲しいと常々思っているものですから、こんなサラリーマン根性丸出しの日本のオーケストラは失望の対象以外の何者でもありません。
それに比べると、ハンガリー屈指の名門オーケストラと、超有名なピアニストだった指揮者というこのコンビによるバルトークの第1弾として録音されたこのアイテムは、なんでもこのレーベルで最初のSACDだったのだそうで、それだけでも、なんか独特の意気込みが感じられますね(それ以後、このレーベルがSACDを出していたことはほとんど気づかされなかったのですが、最近になって再開されたバルトーク・ツィクルスが再びSACDによるリリースなので、こちらを聴くのも楽しみです)。
もちろん、録音された場所はブダペストにある「フェニックス・スタジオ」という有名なところですから、きちんとしたセッション録音、マイクアレンジなどもかなり吟味されていたのでしょう。その音は、それぞれの楽器のキャラが立った、目の覚めるように鮮やかなものでした。
そんな録音でことさら思い知らされるのが、管楽器奏者達のとてもユニークな個性です。2楽章に出てくる各パートの1番奏者と2番奏者によるデュエット・ソロの先陣を切るファゴットの、いかにも「俺たちの音楽」といった感じの押し出しの強さは、なんとも強烈なインパクトを与えてくれますよ。いや、そもそも、この楽章の冒頭に現れるサイド・ドラムの、乾いた音色とタイトなリズムの中にすら、確かなメッセージが込められていたことに気づいていたはずですし。このファゴットのフレーズは後半にも再現されますが、その時には3番奏者のカウンターも加わってさらに圧倒的な力で迫ってきます。
この曲の中には、多くの変拍子が現れますが、それに対する処理もひと味違った仕上がりとなっています。例えば、1楽章の、静かな序奏のあとにひとしきり盛り上がったあとに訪れる「トランクイロ」と表記された部分は、3拍子と4拍子が不規則に繰り返される面倒くさいリズムを持っているのですが、そこを彼らはいとも滑らかに演奏しているのです。そうすると、不思議なことにそこから「言葉」が聞こえてくるのですよ。そう、それはまさにハンガリーの言葉を母国語とする人たちが普通にしゃべっている、という感じなのですね。これを体験してしまうと、先ほどの読響のような普通のオケが演奏したものは、まるで片言の外国語のように思われてしまいます。この作品、バルトークはアメリカのオーケストラのために作ったのでしょうが、なんのなんの、そこにはこんな真の「民族性」がしっかり埋め込まれていたのですね。
ですから、ショスタコーヴィチの「レニングラード」のパロディとして知られている4楽章で、そんなおちゃらけた楽想の間にヴィオラによって演奏される甘美なフレーズが、いとも素っ気なくほとんど無表情に現れたときには、逆の意味でなにか強い意志が働いていることを感じないわけにはいきません。
かつて、小林研一郎などが常任指揮者を務めていたころは、このオーケストラは、いかにも「田舎のオケ」といった感じでしたが、コチシュのもとで、それを逆手に取った見事な花を開かせようとしているのかもしれません。「オンコチシュン(温故知新)」ってやつですか。

SACD Artwork © Hungaroton Records Ltd.

4月20日

ROTHE
Matthäus-Passion
Hans Jörg Mammel(Ev)
Wolf Matthias Friedrich(Je)
Bernhard Klapprott/
Cantus Thuringia
Capella Thuringia
CPO/777 554-2


「またぁ〜」と言われそうですが、このところ受難曲ばっかりが続くこのページです。ついこの間「受難日」を迎えたばかりですので、許して頂きましょう。
今回は、珍しいものをどこからか掘り出してくるのがお得意のこのレーベルの最新の企画「チューリンゲンの音楽遺産」というシリーズから、ドイツの中部、チューリンゲン地方の都市ゾンダースハウゼンで楽士を務めていたヨーハン・クリストフ・ローテという人が1697年に作った「マタイ受難曲」です。この作曲家、全く初めて聞く名前ですが、その曲名からすぐ連想されるバッハより30年以上前、1653年に生まれているそうです。しかし、亡くなったのが「1700年または1720年」というのですから、いかに本人に関する情報が乏しいかが分かります。いずれにしても、もしかしたら若いバッハも自転車に乗って聴きにいった(駐輪場に置いて)かもしれない知られざる「マタイ」ですから、一聴の価値はあるはずです。
ゾンダースハウゼンの宮廷の中にある博物館に所蔵されている自筆稿には、「マタイによる主イエス・キリストの受難 ヴァイオリン2本、ヴィオラ・ダ・ガンバ4本、歌手11人、チェンバロのための」というタイトルが書かれていますので、実際に演奏する人数が分かります。もちろん、「通奏低音」の参加は常識の時代ですから、この演奏ではさらにヴィオローネとオルガンが加わっています。ちなみに、ジャケットの写真では、指揮者のクラップロットが、プログレ・ロックのキーボーディストのように、ポジティーフの上に横長のチェンバロである「スピネット」を重ねて置いています。
「歌手」の内訳は、エヴァンゲリストとイエスを含めた、ソロ歌手が8人、それに4声か5声のコーラスですから、適宜ソリストもコーラスに加わったのでしょうね。バッハの曲も、最初からこのように指定されていれば、コーラスが何人なのか悩まなくても済んだのでしょうがね。
伴奏楽器が弦楽器だけ、しかも、大半はヴィオール族ということで、サウンド的にはなんとも渋い世界が広がります。その分、歌手達の声がストレートに伝わってきます。
曲の形式はバッハと同じ、レシタティーヴォによる聖書朗読の間に「アリア」などが挿入されるという、いわゆる「オラトリオ風受難曲」というものです。ただ、CD2枚組で演奏時間は1時間半、バッハの曲の半分程度の長さしかありません。これは、バッハではかなりの長さを占めることになるアリアが、だいぶ短いものになっているのがその要因です。というか、ここでの「アリア」というのは、バッハのようにあたかもオペラのアリアのような起伏に富んだ大規模なものではなく、ほとんどのものは賛美歌(つまり「コラール」)をそのまま歌っているからなのです。一応ソリストによって歌われますが、その「アリア」はほとんどが2分にも満たない、素朴な、それこそ16小節ぐらいのものを「1番、2番〜」と繰り返すようなものなのです。前奏もなく、いきなり歌から始まるものも多くなっています。ですから、バッハではコーラスで歌われる「コラール」が、ここにはありません。かつてはこのようにシンプルだった「受難曲」の中に華麗なアリアを取り入れることによって、バッハはあれだけの壮大な作品を産むことになったのだなぁというような、あたかも、音楽史の1ページを見る思いが、この曲を味わうことによってわいては来ないでしょうか。
とは言っても、レシタティーヴォで民衆の言葉を表す役目を担っているコーラスの部分では、バッハとはまた違った形での「叫び」が表現されていて、別の側面からの福音書の印象が伝わってきます。
歌っている「カペラ・チューリンギア」のメンバーを中心とするメンバーは、いずれも伸びやかな声でこの渋い曲に光を与えています。特に、3人のソプラノのとても澄んだ音色には、和みます。

CD Artwork © CPO

おとといのおやぢに会える、か。


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