坊主。.... 佐久間學

(12/5/25-12/6/12)

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6月12日

BACH
Motetes
John Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir
SDG/SDG 716


ガーディナー夫妻のレーベル「Soli Deo Gloria」は、ジャケットのアートワークがぶっ飛んだセンスで楽しませてくれます。ブラームスでは油絵の一部だけを切り取った写真ですし、バッハのカンタータでは、「バッハ」にも「カンタータ」にも全く結びつかない、「民族的」な顔立ちと衣装の人々のポートレートなのですからね。そのような「シリーズ」をなしていないものも、正直意味不明の写真が、聴き手の前に立ちはだかります。去年聴いた「ヨハネ」では、電柱と電線(電話線?)のようなモノクロの写真が使われていましたね。まあ、確かにこの荒涼とした風景は、その演奏に見事にリンクしてはいたのですが。
そして、この最新のアルバムでは、「綱渡り」の芸人の写真です。「綱」つながりで来ているのでしょうか。次はどんなものが登場するのか、楽しみになっては来ませんか?
今回はバッハの「モテット」が取り上げられています。ガーディナーがこの曲を録音したのは1982年以来なのだそうです。その頃ガーディナーとモンテヴェルディ合唱団が録音していたレーベルは、すでにWARNERの傘下にあったERATOでしたね(その後、さらに別のレーベルへと移ったのち、自分のレーベルへ落ち着くのですが、それはまさに、大レーベルが「クラシック」を見捨てる歴史と合致しています)。その時には、「モテット」はBWV225からBWV231までの7曲と、カンタータBWV50BWV118の2曲が2枚のLPに収録されていました。それから30年、2011年のライブ録音の時には、「モテット」はBWV230までの6曲、それに最近はよくカップリングされるBWV159を加えた7曲になっていました。そこに、チェロ、コントラバス、ファゴット、オルガンの通奏低音が加わります。
この前の「ヨハネ」の演奏はとても衝撃的でしたから、ここでもある程度の「覚悟」はしていたつもりでした。しかし、聴こえてきたものは、さらにワンランク上の衝撃でした。「モテット」は低音の楽器の助けはあるものの、本体は合唱だけ、ソリストなどもほとんど登場しませんからそこではもろにこのものすごい合唱の力量が発揮されることになります。それは、まるで背筋が寒くなるほどの体験です。
まず、それぞれの声部が発する旋律線の動きが、尋常ではありません。それは、ただの音符の並びなどではなく、しっかりとそれぞれの音の間が有機的な意味を持って結合されているものでした。歌詞がある部分ではカタコトのドイツ語しか分からないものでさえその意味が理解できるほどの、まるでテレパシーでも発しているかのようなメッセージが伝わってきます。メリスマでさえ、その音のベクトルが確かな意味を主張しています。そんな多くの声部が、まるで生き物のように絡まって迫ってくるさまを想像してみてくださいな。もう、そこは「音」と「言葉」が人間の発声機能を通じて「音楽」そのものを伝えたいと願って、聴く者の脳に直接働きかける、極めて高度なコミュニケーションの場と化しています。
そんなポリフォニーの場面から、いきなりホモフォニーに変わったりすれば、今までの刺激的な場面は瞬時に安らぎに満ちた世界となります。そこでは、ふっくらとした和声を借りて、すべての声部が同時に、別の次元のメッセージを届けてくれることでしょう。そんな緊張と弛緩の狭間からは、すでに「合唱団」の姿などは消え去っています。そこにあるのは確実に耳に届いてくる「音楽」だけです。
こんな「モテット」を聴いていると、これを作ったとされる「ヨハン・セバスティアン・バッハ」という人物さえ、消え去ってしまう瞬間が訪れるかもしれません。卓越した作曲家と、奇跡的なスキルを備えた演奏家が届けてくれたものは、「神」が作った音楽だったのかもしれません。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

6月10日

Bach in Jazz
Martin Petzold(Ten)
Stephan König(Pf)
Thomas Stahr(Bass)
Wieland Götze(Drums)
RONDEAU/ROP6048


バッハをジャズで演奏するというアイディアは昔からありました。なんでも、その最も早いものは、1937年ごろのジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの演奏なんだそうですね。
最近になって、「キングズ・シンガーズ」が「クリスマス・オラトリオ」をジャズのビッグ・バンドをバックに歌ったアルバムが出ましたが、これはそんな流れとは一味違った仕上がりを見せていたものです。そこではオリジナルをそのまま歌う「声楽」が、「ジャズ」とコラボレーションしていたのです。あるいはそんな甘っちょろいものではなく、まさに「異種格闘技」の様相を呈していたのかもしれません。
今回も同じようなアプローチ、ここでは、このレーベルではおなじみのテノール、マルティン・ペツォルトがその「声楽」パートを担っています。まずは喉を滑らかにして(それは「トローチ」)。幼少のころからバッハゆかりのトマス教会聖歌隊で活躍、どっぷりバッハの世界に身を置いていたペツォルトが、このアルバムで「ジャズ」と対峙する時の意気込みは、このジャケットを見るだけで分かります。彼が手にしているのは、ブライトコプフ版のカンタータの楽譜のはず。
一方の「ジャズ」サイドは、ライプツィヒのピアニスト、シュテファン・ケーニッヒを中心とするトリオです。ベースのトーマス・シュタールという人は、ウッド・ベースだけでなく、6弦のエレキ・ベースも弾いてます。
アレンジはケーニッヒですが、選曲は誰が行ったのでしょう。最初と最後こそ、カンタータ第147番というベタなところが扱われていますが、ここではかなりマニアックな曲が選ばれているのが、興味をひきます。まずは「マタイ受難曲」の35番のアリアが、その前のレシタティーヴォとともに歌われます。前奏がかなりジャズっぽく自由にテーマを引き延ばしていますが、テノールが入ってくると、オリジナルのベースのオスティナートがそのままキレの良いエレキ・ベースで演奏されます。そこに絡むピアノも、なにか「バッハ」という雰囲気をたたえているのが面白いところ、まずは肩慣らしにあまりヘンなことはしないでおこう、というスタンスでしょうか。
しかし、次の曲は、なんと「ヨハネ受難曲」の「第2稿」だけで使われている13IIというアリアです。渋いですね。この曲はおよそバッハらしからぬドラマティックなテイスト満載ですから、「ジャズ化」のしがいもあったのでしょう。イントロからしてハイテンション、アリアの流れを中断してのエレキ・ベースのソロも、とことんパワフルに迫ります。
面白かったのは、カンタータ第26番のアリア。と言われてもどんな曲だかすぐ分かる人はなかなかいないはずですが、オリジナルはフルートとヴァイオリンのオブリガートが加わった、6/8拍子のとても快活な曲です。ちょっと「ヨハネ受難曲」の9番のソプラノのアリアに似ていますね。もちろんバッハの場合は、普通に十六分音符6個を1拍と数えて6+6の2拍子になっているのですが、ここでのケーニッヒのアレンジのプランは、これを前半は3+3、後半は2+2+2の「ヘミオレ」にして、「チャチャチャ・チャチャチャ・チャー・チャー・チャー」という、まるでバーンスタインが「ウェストサイド・ストーリー」の「アメリカ」で使ったようなリズムで押し通すというものでした。実はバッハ自身もこの「ヘミオレ」はいたるところで使っているのですが、これはその「拡大解釈」といった趣、バッハが内包していたリズムを現代風に置き換えたというかなりショッキングなアレンジでした。
しかし、このプランは、そういうリズムの中で、ペツォルトがあくまでもきちんとしたビートをキープしていればこそ、生きてくるものなのに、そのペツォルトがいかにも及び腰なのがちょっと残念、というかかわいそう。声もなんだか本調子ではないようですし、やはりこういう企画は難しいものがあることを再確認です。意気込みだけではなかなか。

CD Artwork © Rondeau Production GmbH

6月8日

BRUCKNER
Symphonies 8 & 9
Carl Schuricht/
Wiener Philharmoniker
EMI/955984 2(hybrid SACD)


最近、ブルックナーの交響曲第8番、中でも「ハース版」に深い関心を持っているものですから、何か新しく発売されたものはないかと物色していたら、例のEMIの一連のSACDシリーズの中にシューリヒトのものがありました。これだったらまぎれもない「新譜」ですから、堂々と扱えます。もちろん、買ったのは1枚3000円もする国内盤ではなく、「9番」との抱き合わせですが、それでも1500円ぐらいで買えてしまう輸入盤です。
ただ、こちらの、大変権威のあるブルックナーのサイトでは、この録音は確かに「ハース版」の中に入っているのですが、SACDには「ノヴァーク版」と書いてあります。いったいどちらが正しいのでしょう。
そんなことは、実際に聴いてみればすぐわかります。この2つの版の間の相違点は、例えば「4番」でのオーケストレーションみたいなチマチマしたものではなく(それもありますが)、小節数そのものなのですから実にはっきりしています。スコアさえあれば、これは、まぎれもない「ノヴァーク版」であることがわかってしまいます。常々このサイトのデータはかなりいい加減なような気がしていましたが、また一つ不信材料が増えてしまいました。しかし、シューリヒトはこのEMIへの録音の前に、1954年にはシュトゥットガルト放送交響楽団との録音を残しているのですが(HÄNSSLER/CD93.148)、それはハース版で演奏しています。ノヴァーク版が出版されたのが1955年ですから、これは当然のこと、ですから、この1963年の録音もハース版だと決めつけてしまったのかもしれませんね。聴きもしないで。そういう「思い込み」は、できれば慎みたいもの、人間なんていとも簡単に変わってしまえるものなのですからね。

そう、シューリヒトの偉いところは、まだ世の中はハース版や、下手をすればシャルク版を使うというのが当たり前の時代に、果敢にも「新しい」楽譜を用いて演奏したということなのではないでしょうか。事実、このような「商業録音」でノヴァーク版を使ったのは、シューリヒトがほとんど初めてのはずです。
ただ、細かく聴いてみると、ところどころでちょっと変なことをやっています。第3楽章の160小節目では、ヴァイオリン・ソロの最後に、ノヴァーク版では削除された「第1稿」に由来するフレーズを復活させていますし、第4楽章の「O」と「P」の間も、ノヴァーク版では丸々20小節がカットされて、その代わりに4小節の「つなぎ」入っているのですが、シューリヒトはその4小節をカットしているのですね。やはり、今まで使っていたものと比べて、どうしても直したい、というところを「修理」せざるをえなかったのでしょうか。まさに「修理人(ひと)」。
この演奏の特徴は、とにかくテンポが速いことです。なんせ全曲が71分、まるまる1枚のCDに収まってしまいます。それは、3楽章まではそんなに速いという感じはしないのですが、フィナーレになるといくらなんでも、という気になってしまいます。このSACDでは4'04"から始まっている第3主題などは特に速め、まだブルックナーの演奏そのものが少なかった当時なら仕方がありませんが、ほかの選択肢がいくらでもある今となっては、ちょっとこれではブルックナーの神髄は味わえないな、という気になってしまいます。
もう1点、このSACDは確かにCDよりははるかに深みのある音に変わっていますが、金管のトゥッティなどでは何とも安っぽい響きしか聴こえないのが気になります。というのも、同じパッケージに入っている「9番」では、録音はその2年前なのに、そのような安っぽさが全く感じられない、本当に素晴らしい音が聴けるからです。バランス・エンジニアの名前も、「9番」ではちゃんとフランシス・ディルナットがクレジットされていますが、「8番」には何もありません。これが「9番」並みの音であったなら、もう少し印象も変わっていたことでしょう。

SACD Artwork © EMI Records Ltd.

6月6日

SCHUBERT
Lieder
Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
Gerald Moore, Karl Engel(Pf)
EMI/955969 2(hybrid SACD)


ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが亡くなりましたね。物心ついたころから彼の演奏は聴いていましたが、他のどんな「歌手」とも異なるとびっきりの個性を、直感的に感じていたような気がします。いや、それもそうですが、何よりもラスト・ネームが「フィッシャー=ディースカウ」という長ったらしいものだったことに、強いインパクトを与えられたものでした。後に、このように父方と母方の両方の姓を名乗ることも外国ではあることを知って、文化の違いを強く感じることになる名前でしたね。
ちょうど、「新譜」として、EMIでの4枚のアルバムがSACDになっているものが出ていたので、それを聴いて故人をしのぐことにしましょうか。もちろん、入手したSACDは輸入盤の「Signature Collection」という、演奏家のサインがデザインされている4枚組の豪華セットなのに、2000円ちょっとで買えるアイテムです。全く同じものが、国内盤だと1枚だけで3000円、4枚買えば12000円もするのですからね。ほんと、日本のメーカーは、いまどきこんなぼったくりの商売が通用するとでも思っているのでしょうか。
この4枚のアルバムは、「Schubert Lieder Recital」というタイトルで「1」から「4」までリリースされたものです。それがそのまま、編集なしで4枚のSACDになっているのがうれしいところです。それぞれのアルバムは、1枚ごとに微妙にコンディションが違っていますから、このようにしっかりオリジナル通りの形にするのは、最低の良心でしょう。1955年から1959年にかけて録音されたもので、最後に録音された「3」だけがステレオ、それ以外はモノです。「1」はロンドンのEMIスタジオ(のちの「アビーロード・スタジオ」)で、ウォルター・レッグのプロデュースで録音されていますが、「2」以降はドイツの会場(市役所?)で、ドイツ人のスタッフが手がけています。
「1」は、アビーロード・スタジオとは言っても、オーケストラの録音に使えるスタジオ1や、ビートルズが使ったことで有名なスタジオ2ではなく、一番狭いスタジオ3での録音ですし、1955年ごろのモノですから、そもそも広がりのようなものは期待できませんが、その分なんの色付けもされていない生々しい音が味わえます。そういう環境で録音されたフィッシャー=ディースカウの声は、まるで耳のすぐそばで歌っているようなリアリティがあります。それこそ、口の開け方や息の使い方まで分かるような迫力、これは、間違いなくSACDだからこそ気づかされるものです。CDレイヤーで聴いてみると、それはただの「古めかしい録音」にしか聴こえず、マスターテープには確かに入っている「気迫」のようなものがかなり希薄になっていることがわかるはずです。
「2」になると、録音会場の違いでしょうか、ピアノも声もガラリと変わったものになります。さらにヌケが良くなって、自然なアンビエンスで迫ってきます。ただ、ステレオの「3」よりも、モノの「2」、「4」の方が、音に密度が感じられるのはなぜでしょう。1959年と言えば、DECCAなどではもうステレオのノウハウは確立されていましたが、EMIは一歩出遅れていたことが、こういう録音からも分かります。
しかし、この「3」は全作シラーの詩によるバラードという、とても意欲的な選曲が光ります。最後の「水に潜るもの」などは1曲演奏するだけで24分もかかるという大曲ですから、全部で5曲しか入っていませんが、ここだけで弾いているカール・エンゲルのキレの良いピアノと相まって、そんな珍しい曲に確かな命が吹き込まれています。他のアルバムでのピアニスト、ジェラルド・ムーアは、確かに「味」はありますが、フィッシャー=ディースカウの足を引っ張っているようなところも見受けられます。「4」に入っている「魔王」などは、かなり・・・。
とは言っても、フィッシャー=ディースカウの表現力の豊かさには、改めて圧倒されてしまいます。

SACD Artwork © EMI Records Ltd.

6月4日

SHAKHIDI
Orchestral Works
Igor Fedorov(Cl)
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
Mariinsky Theatre Symphony Orchestra
MELODIYA/MEL CD 10 02007


かつては「ソ連」の国営企業だった「MELODIYA」というレーベルは、一時はBMGなどの西側の企業からCDがリリースされていたことなどもありましたが、現在のロシアの元ではどのような形態になっているのでしょう。こんな風に、いきなりゲルギエフと、彼がシェフを務めるオーケストラとの録音が出たりすると、ちょっと戸惑ってしまいます。というのも、ここで登場しているロンドン交響楽団にしても、マリインスキー劇場交響楽団にしても、しっかり独自レーベルを持っていて、今まではゲルギエフとの録音はそこから一本化されてリリースされていましたからね。しかも、SACDで。
実際は、この2つのオーケストラのレーベルの録音を担当しているのは、どちらもイギリスの「Classic Sound」で、エンジニアにはニール・ハッチンソンやジョナサン・ストークスが名を連ねています。このMELODIYA盤では、LSOについては、やはりこの二人のクレジットがありますから、原盤は「LSO LIVE」であることがうかがえますが、マリインスキーの分は聞いたこともないロシア人のエンジニアの名前がありますので、ちょっと正体不明。
おそらく、ここで演奏されている作品が旧ソ連、タジキスタンの作曲家のものなのが、こんなわけのわからないCDが作られた最大の要因なのかもしれません。その、トリブホン・シャヒディという1946年生まれの作曲家のことも、ここで演奏されているクラリネット協奏曲や、様々の交響詩とバレエ音楽のことも、MELODIYAからこんなCDが出ない限り、一生知ることはなかったことでしょう。
何でも、このシャヒディという方は、あのハチャトゥリアンの教えを受けた人なのだそうです。日本の代理店が作った「帯」では、「21世紀のハチャトゥリアン」という惹句が踊っていましたね。まあ、全然聴いたことのない作曲家を紹介するのですから、このぐらい具体的なイメージを抱かせるようなコピーの方が良いにはきまっていますが、こういうものを鵜呑みにするのは極めて危険。
そして、極めて当たり前のことですが、いくら師弟とはいえ、個々の作曲家の個性や芸風は違って当たり前なのですから、この作曲家に「ハチャトゥリアン」の作風を期待して聴くのも、危険なことです。確かに、打楽器を派手に使ったり、リズミカルなフレーズを多用したりと、似ているところがないわけでもありませんが、これは全くの別物です。その最も重要な相違点は、この作曲家にはハチャトゥリアンのようなグローバルな意味で心の琴線に触れるようなものがない、ということです。おそらく、彼の場合、タジキスタン近辺の人たちには必ず通用するような「なにか」を、その音楽に込めているのでしょうが、それがあいにく、ほとんどの日本人に対しては「ハチャメチャ」にしか聴こえないのではないでしょうか。それはそれで、作曲家としての資質が問われるものではありません。世界中のどこででも「美しい」と感じてもらえるような作品を書くことは、決して作曲家にとって必要なことではないのですから。
特に、前半で演奏しているロンドン交響楽団が、そんな音楽に対して及び腰のように思えて、ちょっといとおしくなってしまいます。管楽器奏者たちは、なんとか自分たちの「西洋音楽」の中に彼の音楽を馴染ませようと努力しているのでしょうが、そこにはなかなか踏み込んでいけないもどかしさが感じられないでしょうか。
ですから、後半のロシアのオーケストラでは、そんな「迷い」が全くない分、われわれ東洋人にとってはより入り難い世界が広がります。クラリネット協奏曲などは、正直意図するところが全く理解できないほどです。そんな中で、最後に聴こえてくる「マーチ」だけは、なにやら「ハリスの旋風」のようなテーマが出てきて、一瞬の安堵感が味わえます。しかし、その「ハリス」のいびつさを見るにつけ、彼我の感覚の違いの大きさに気づかないわけにはいかないのです。

CD Artwork © Empire Of Music

6月2日

MESSIAEN
Orchestral Works
Various Soloists
Pierre Boulez, Myung-Whun Chung, Riccardo Chailly/
The Cleveland Orchestra, Orchestre de l'Opéra Bastille
Orchestre Philharmonique de Radio France
DG/00289 479 0114


もはや制作部門も下請けに出してしまって、これから新しい録音を行っていく意欲を完全になくしているDGですから、これからの商売は過去の膨大なカタログを手を変え品を変えてリリースしていくほかはありません。おかげで、欲しかったアイテムがとんでもなく安い価格で買えるようになったのはありがたいことですが、逆に「これはぜひ買っておかねば」と、清水の舞台から飛び降りるつもりでちょっと無理をして買ったものまで安くなってしまうのですから、何かやりきれない気持ちです。ほんの数年前に出たものが1枚○百円で出るようになってしまうのですから、今度は逆に新譜を買う人なんかいなくなってしまうのではないでしょうかね。
そんな先のことはしんぷあい(心配)しないフリをして、ユニバーサルからごっそり出てきたのが「コレクターズ・エディション」という、再発ボックスのシリーズです。このシリーズ、パッケージのデザインがなかなかユーモラスなので、つい手が伸びてしまいます。作曲家の写真やレーベルが切手になっていて、それを貼った郵便の荷物、という設定なのですね。ちょっとしたプレゼントで、好きそうなものをまとめてパックして送ってきた、というような感じでしょうか。それぞれにちょっとした「仕掛け」があって、見ているだけで楽しくなってしまいます。本当は、そんなことをやっている場合ではないはずなのに、そこまで頑張られると買ってあげないと悪いような気になってしまいます。このメシアンの場合は、なにやら「サイズ表示」が付いてますよ。おしゃれなメシアンのことですから、アパレル関係の包装なのでしょうか。
実は、メシアンの場合は「生誕100年」にあたる2008年に「コンプリート・エディション」ということで、なんと32枚組のボックスが出ていました。その中から、オーケストラ曲を選んで10枚組にまとめたのが、今回のボックスです。枚数は1/3でも、価格は1/4になっているのですから、すごいものです。
DGの場合は、ブーレーズとチョン・ミョンフンの2人で、メシアンのほとんどの作品を録音していたのですね。ただ、「異国の鳥たち」だけはこのレーベルにはありませんでしたから、同じグループのDECCAにあったシャイー盤を入れて、これでもれなく揃いました。
いや、実はもう1曲、やはりユニバーサル傘下のJADEというレーベルからのものも有りました。それは、初めて聴いた「抑留者たちの歌」という、合唱とオーケストラのための作品です。指揮はアンドルー・デイヴィス。メシアンの大オーケストラがバックに付く合唱曲と言えば「イエス・キリストの変容」しかないと思っていましたが、こんな曲があったなんて。何でも、1945年に作られたこの曲は長い間楽譜が紛失してしまっていたものが、1991年になって「発見」されたのだそうです。演奏するのに1時間半もかかる「変容」に比べると、たった4分で終わってしまうかわいい曲ですが、いかにもメシアンらしい複雑な要素が幾重にも絡み合う中で、力強い合唱が感動的に迫ります。ここで歌っているBBC合唱団がとことんハイテンションなのがいいですね。それに比べると、チョン・ミョンフンが指揮をしている、もっと小さな編成のオーケストラと女声合唱のための「3つの小典礼」は、ラジオ・フランスの合唱団がちょっと気取っていて好きになれません。
そんな感じで、決して「名演」とは言えないものも混じってはいますし、実はほとんどのアイテムはすでに手元にあったのですが、まだ持っていないものだけを買ったとしてもこの価格だったら十分に納得できるので、手に入れてしまいました。事実、さっきの「抑留者」などは、思わぬ拾いものでしたし。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

5月31日

It Don't Mean a Thing
Marin Alsop/
String Fever
NAXOS/8.572834


マリン・オールソップと言えば、このレーベルでもおなじみ、世界中のオーケストラを相手に活躍している女性指揮者です。いや、別に「女性」などと特別扱いする必要など全くないほどに、他の音楽家同様、今では指揮者が女性であることに何の違和感もない時代になっています。
彼女は、1989年にクーセヴィツキー賞を取って指揮者としてのキャリアをスタートさせる前は、ヴァイオリニストだったということは知っていました。しかし、スティーヴン・ソンドハイムのミュージカル「スウィニー・トッド」のオリジナル・キャスト盤を入手した時に、劇場のオーケストラのメンバーの中に名前を見つけた時には、驚きました。彼女は、ブロードウェイの劇場のピットで演奏するという、まさに「ショービズ」の世界にどっぷりつかっていたことがあったのですね。ここではトップではなく、トゥッティのヴァイオリン奏者のようでした。
それは、1979年に録音されたものですが、1981年に、彼女がコンサートマスター(リーダー)となって結成したのが、この「ストリング・フィーヴァー」というユニットです。小編成の弦楽合奏団ですが、コントラバスは完全にリズム・セクション、そしてドラムスも加わっています。管楽器を全く使わない編成で「ジャズ」を演奏しようというコンセプトだったのでしょうね。それは、そんな彼女のキャリアからは十分に納得のいく活動です。
このCDには、1983年と、1997年に録音されたものが一緒になっています。最初からこういう形だったのか、あるいはコンピレーションなのかは、ここでは全くわかりませんが、1983年の時のプロデューサーが、ウディ・ハーマン楽団のサックス奏者だったゲイリー・アンダーソンなのが、目を引きます。彼はその時だけでなく、1997年の録音でも多くの編曲を担当していますから、このユニットのサウンドに関しては大きな貢献を果たした地位にいたのでしょう。その編曲のプランは、基本的には管楽器によるビッグ・バンドのサウンドを、弦楽器によって再現する、というものだったような気がします。
こういう「置き換え」を聴いていると、別の分野でも同じようなことをやっていることが思い出されます。それは、「吹奏楽」の世界。そこでは、逆に弦楽器のサウンドを管楽器によって再現しようと頑張っていたのですね。シンフォニー・オーケストラのヴァイオリンのパートをクラリネットに置き換えようというのが、彼らの基本的なプラン、それに真剣に取り組んでいる方には申し訳ないのですが、なぜ、わざわざそんなことをするのか、という素朴な疑問が、オリジナルを聴きなれている時には常に湧いてきてしまいます。
同様の違和感が、この、弦楽器だけによる「ビッグ・バンド」でも湧き起ってきます。確かにそれらしい音にはなっているのですが、なぜこれを弦楽器でやらなければいけないのか、という必然性がまるで感じられないのですね。しかも、有名な「In the Mood」などは、サックス・セクションはそれなりのものになっても、金管セクションのインパクトが出ないことには、なんとも「まがい物」にしか聴こえてきません。厳然と存在している「ジャンルの壁」を力ずくで壊そうとすると、こんな悲惨なことになってしまうのかもしれませんね。
ただ、「Liberated Brother」のような、わりと新しめでラテン色の濃いものは、リズム・セクションが「本物」ですからきちんとしたグルーヴが感じられて楽しめます。ブルーベックの「Blue Rondo a la Turk」なども、オリジナルは小さなコンボですし、ここでの変拍子はそもそも「ジャズ」とは一線を画すものでしたから、曲の生命が損なわれることはありません。まあ、だからと言ってわざわざこんなものを買って聴くことに、意味を見出すことはできませんが。

それより意味不明なのが、国内盤の「帯」にある「カニも食べたい」というコピーです。これはいったいなんなのかに

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

5月29日

TÜÜR
Awakening
Daniel Reuss/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Sinfonietta Riga
ONDINE/ODE 1183-2


エストニア・フィルハーモニック室内合唱団は、1981年にトヌ・カリユステによって創立されましたが、それから20年間、彼は芸術監督、首席指揮者として多くのコンサートやレコーディングを行っていました。メンバーにデブはいません(それは、「エステ・・合唱団」)。アルバムはECMCARUSなどのレーベルから数多くリリースされていますが、初期のビロード革命以前、まだ「ソ連」時代にはMELODIYAに録音を行っていました。
2001年にポール・ヒリアーが彼の後継者になってからは、レーベルはHARMONIA MUNDI USAに変わりました。合唱団ではなく、指揮者がレーベルを選ぶというのは、オーケストラと同じ力関係なのでしょう。この、現代合唱界のスーパースターを迎えて、この合唱団によるアルバムのリリースは、より活発なものとなったのです。
2008年にそのあとを継いだのは、やはり世界的な合唱指揮者であるダニエル・ロイスでしたが、ヒリアーほどの活発なレコーディング活動は見られないような気がします。最新のアルバムは、フィンランドのONDINE、最近NAXOSの傘下に入ってしまうなど、弱小感は否めないレーベルです。
しかし、このアルバムは、何か未来が見えてくるような手ごたえのあるものでした。取り上げられた作曲家は、エストニアの中堅、エリッキ=スヴェン・トゥールです。1959年生まれ、今ではエストニアを代表する作曲家ですが、彼のキャリアのスタートはクラシックではなく、「In Spe」というエストニアの「プログレ」バンドのリーダーという、ロック・ミュージシャンとしてのものでした。しかし、彼が影響を受けたELPやイエスのような多くの「プログレ」のように、その作品はクラシックにベースを求めたものでしたから、すでにその時点で「現代作曲家」ではあったわけです。彼の場合、バンド在籍中から正規の音楽教育を受け始めることになります。ちなみに、このバンドの1982年のファースト・アルバムはMELODIYAからのLPですし、「作曲家」としてエストニア・フィルハーモニック室内合唱団と共演した1988年のLPも、やはりMELODIYAでした。
今回の収録曲は全部で3曲。まずは、この合唱団によって委嘱された、19分の間中ア・カペラの合唱が休みなく続くという「The Wanderer's Evening Song」です。最初にいかにも「前衛的」なハーモニーで度肝を抜く、というのが、この作曲家の趣味なのでしょう。それはまさに、半世紀ほど前の「前衛」の名残を「現代」に昇華したもののように響きます。そして、まるでトルミスのような、民族的な素材を用いた息の長いフレーズの音楽が現れます。それを彩る和声の美しいこと、もちろん、そこにはまともな長三和音などは現れるわけもなく、色彩的なテンション・コードやクラスターが満載なのは、やはり「元ロッカー」の意地なのかもしれません。しばらくすると、今度はビートが前面に出てくる音楽に変わります。このあたりの扱いも、ただの「クラシック」とは一味違う「本物」のビートが感じられるものです。
唯一のインスト物は、弦楽合奏のための「Insula deserta(砂の島)」です。これも、ミニマル風のリズミカルな部分と、クラスターなどがべったり塗り込められた和声的な部分が交互に現れる中で、印象的な同じテーマが見え隠れするという、適度にとがった聴きやすい曲です。
そして、合唱とフル・オーケストラのための30分以上の大作が、タイトル曲の「Awakening(覚醒)」です。これが初録音の2011年の作品、やはり、オーケストラのチューニングのようなある種「偶然性」を装ったイントロで刺激を与えてくれたあとは、リズミカルな部分と包み込むようなソフトなサウンドが、円熟の書法を見せてくれます。ここでの合唱も、ベースは民族的なテイストです。
もしかしたら、ヘタな「クラシック」の作曲家よりも、「元ロッカー」の方が、音楽の持つ力を信じられるのではないか、このたくましい、それでいてキャッチーな作品を聴いていると、そんな思いに駆られてしまいます。

CD Artwork © Ondine Oy

5月27日

PÄRT
Creator Spiritus
Christopher Bowers-Broadbent(Org)
NYYD Quartet
Paul Hillier/
Theatre of Voices
Ars Nova Copenhagen
HARMONIA MUNDI/HMU 807553(hybrid SACD)


ペルト、というか、エストニアという国そのものに強いシンパシーを注いできたポール・ヒリアーは、エストニアの合唱団とのつながりこそなくなってしまったものの、コペンハーゲンに本拠地を移した今も、ペルトのスペシャリストであり続けています。今回の新録音は、2010年にコペンハーゲンで行われたもの、現在の彼の合唱団、「アルス・ノヴァ・コペンハーゲン」を中心とした小規模な合唱曲あるいはソロ・ピースと、弦楽四重奏による室内楽という、バラエティに富んだレパートリーが用意されていました。
合唱のクレジットはもう一つ、「シアター・オブ・ヴォイセズ」という、ヒリアー自身もメンバーとして名を連ねている団体もあります。その2つの「団体」は、曲ごとにそれぞれに単独で歌ったり、「合同演奏」をしたりという、まるで「ジョイント・コンサート」のような様相を呈しているかのように見えます。一応、今回のメンバー表によれば「ToV」の歌手は5人、「ANC」は16人ですから、「合同演奏」の時には「21人」になるのだ、とか。ただ、ここでは「ToV」のメンバーのうちの3人が「ANC」も掛け持ちしていますから、本当は「18人」しかいないんですよね。というか、1998年にやはりペルトの曲を録音した時には、「ToV」のメンバーは24人もいたのですからね。そもそも、この団体は「合唱団」という固定的なものではなく、ヒリアーを中心にしたある種のプロジェクトなのでしょう。
ここでは、「Veni creator」、「The Deer's Cry」、「Morning Star」といった、ペルトの最新作が聴けるのが一つの魅力なのでしょう。しかし、もはやどっぷりと「後ろ」を向いてしまった作風が定着したかに見えるペルトの、いかにも「合唱曲」然としたノーテンキな曲には、ほとんどなんの価値も見いだせなくなってしまっているのは、悲しいことです。こんなものは、別にペルトでなくても構わないのでは、という思いですね。
そんな中で、何曲か「改訂」が行われている作品に、興味がわきました。まずは、「Solfeggio」という、文字通り「ソルフェージュ」をテーマにした1963年の作品です。チーズじゃないですよ(それは「フロマージュ」)。2005年にリリースされた「70歳記念アルバム」(HMU 907407)で、「大人数」だった頃の「ToV」による演奏で、その改訂前の「合唱曲」が聴けますが、それは「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」という7つの音を、そういう歌詞で歌うというだけの曲でした。4つのパートがどこかの音で伸ばしている間に、ほかのパートが続けて歌う中で生まれる不思議なクラスターが、なかなかの味を出していたものです。それを、2008年に弦楽四重奏のために書き直したものが、ここでは演奏されています。歌詞が無くなっただけで、その「前衛的」な響きがただの「ヒーリング」に変わるのを見るのは、ある意味スリリングです。「Psalom」は1985年に作られた時から、弦楽四重奏と弦楽合奏の2つのバージョンがありましたが、ECM449 810-2)の弦楽合奏版と聴き比べると、まるで別の曲のようです。
このアルバムのメイン、1985年の「Stabat Mater」にしても、2008年にもっと大きな編成に書き直されたものをすでに聴いていれば、どちらがよりペルトらしいかを味わうこともできるはずです。
2000年の「My heart's in the highlands」という曲は、「ヒーリング」にしておくにはもったいないユニークなフォルムを持っていました。それは、バッハの「パッサカリア」風のオルガンに乗って、ソプラノ・ソロが「ワン・ノート・サンバ」みたいに「単音」のメロディを延々と歌う、というものです。実際は、FA♭→CA♭→Fという、「ヘ短調」の3つの音の中で、上昇と下降を行うため、「5つの単音」が歌われています。まさに、メロディの原点ですね。ヒリアー自身のライナーノーツでは「ヘ短調」が「ヘ長調」となっているのは、単なる勘違いだと思いたいものです。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

5月25日

HAWES
Lazarus Requiem
Thomas Walker(Ten)
Elin Manahan Thomas(Sop), Rachael Lloid(MS)
Patric Hawes/
Exeter Philharmonic & Cathedral Chorus
Royal Scottish National Orchestra
SIGNUM/SIGCD282


2008年に初演された非常に新しい「レクイエム」の、初録音です。作曲したのはパトリック・ホーズという1958年生まれのイギリスの作曲家、すでにこのレーベルからも何枚かのアルバムを出していて、合唱関係ではかなり名前が知られている人です。ここでは、これまでの作品でも協力してきた兄のアンドルー・ホーズ(詩人にして聖職者)のアイディアに従って、通常の「レクイエム」の間に、新約聖書のヨハネによる福音書の中にある「ラザロ」のエピソードを挟み込むことにしました。マグダラのマリアの弟であるラザロは、病気にかかって亡くなってしまいますが、4日後にやってきたイエスが死体を収めた洞穴をふさいでいた石をどけさせると、そこからは蘇ったラザロが現れた、というお話ですね。
これを、福音書の記述にほぼ忠実に、イエス、マリア、そしてマリアの姉のマルタの言葉をそれぞれソリストが歌い、地の文を合唱が歌うという、「受難曲」ではおなじみの手法で進行させました。つまり、1曲で「レクイエム」と「受難曲」を同時に味わえる、という、なんともお得な曲が出来上がったことになります。
構造が非常に分かりやすいうえに、音楽もとことん伝統的な書法に徹していて、安心して聴いていられます。まずは序曲代わりに「ラザロへのエレジー」というインスト曲が演奏されますが、フルートの長大なソロで始まるそのテーマは、とても懐かしい情感をたたえた美しいものでした。「スノーマン」でおなじみのやはりイギリスの作曲家、ハワード・ブレイクの持っているテイストとよく似た和声感も、とても上品で心地よいものです。
そして、まず「ラザロ」が始まります。全部で6つの「タブロー」(ハセガワさんじゃないですよ・・・それは「サブロー」)が、文字通り「絵」のように「レクイエム」の間を飾ることになるのですが、それぞれ、最初にその「額縁」に相当するイントロが奏されます。まるで、グレゴリア聖歌のような単旋律がハープに乗って聴こえてくるのですが、それを担当する楽器がバリトン・サックスなのが、軽いショックを与えてくれます。前の曲でのフルートの上品さに比べると、この楽器の無神経さには殆ど耐えられないものがあります。それに続く合唱のテンション・コードや、弱音器を付けた弦楽器の思慮深さとは対極にあるこの乱暴な楽器をここで用いた作曲家のセンスが、理解できません。
もう一つ理解できないのは、そのあとの曲、いよいよ「本編」である「レクイエム」の登場だと思って身構えていると、そこにはあのデュリュフレの曲が流れてきたではありませんか。いや、正確には、この名作で使われているグレゴリオ聖歌を、ホーズも同じようにテーマとして使っているだけなのですが、なぜかそれが「パクリ」に聴こえてしまうのですね。ただ、ほかの楽章ではオリジナルのテーマしか使われてはいません。
「ラザロ」では、テノールによるイエスの言葉に、思い切り高音を使ったハイテンションのメロディが与えられていますし、オーケストラにもホルンが加わって盛り上げられています。それを歌うウォーカーの声はそれに見事にハマったもので、見事なインパクトを与えてくれます。最後の「タブロー」でのクライマックスなどは、まさに圧倒されてしまいます。
「レクイエム」の方も、かなりベタなオーケストレーションで盛り上がります。ほとんど合唱だけで歌われていますが、「Benedictus」ではソプラノ・ソロが加わっています。おそらく、E.M.トーマスを想定して作ったのでしょうが、高音での音程の怪しさは致命的、彼女は、もはやそのような期待に応えられる資質をなくしてしまったのでしょうか。合唱の、やはり怪しげな音程とも相まって、最初の「エレジー」にみられた上品さが最後まで続かなかったのが、残念です。

CD Artwork © Signum Records

おとといのおやぢに会える、か。


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