柔軟曲。.... 佐久間學

(12/6/14-12/7/2)

Blog Version


7月2日

HUMMEL
Hatikva, Fukushima
Giora Feidman(Cl)
Franz Hummel(Pf)
Elena Denisova(Vn)
Alexei Kornienko/
Moscow Symphony Orchestra
TYXART/TXA12002


もしも、1年4か月以上前に「交響曲福島」などというタイトルの曲が作られたとすれば、それは間違いなくこの地方の豊かな自然を反映した、いとものどかな情緒が漂う作品となったことでしょう。もしかしたら、そこからは民謡の一節なども聴こえてきたかもしれません。
しかし、今となってはそんなことは全く考えられません。「福島」というのは、「あの日」を境に人類の悲劇を象徴する地名に変わってしまったのです。「アウシュヴィッツ」のように。
1939年生まれのドイツの作曲家、フランツ・フンメルが作った「ヴァイオリン交響曲『福島』」は、まさにそのような意味で「福島」が使われた典型的な事例に違いありません。しかも、ここではさらに象徴的な地名「広島」までが加わります。作曲家は、最初「原爆」が投下された直後の広島の写真を見て、それにインスパイアされた曲を作ろうとしたのです。しかし、この構想は実現しないまま、未完の作品だけが残りました。そして、あの「原発」事故が起こります。作曲家は、そこに「広島」と同じ惨事を感じたのでしょう、タイトルを「福島」に変えて、作品を完成させたのでした。
ヴァイオリン・ソロを終始フィーチャーさせたその作品は、「ヴァイオリン交響曲」という不思議な呼び名を与えられていました。音楽の基本は無調、しかし、ラテンのテイストはなく(それは「ベサメ・ムチョー」)、オーケストラは常に不気味な響きを大音量で叫び続けています。時折ティンパニが炸裂するような場面では、まさにホラー映画のようなサプライズを味わうことができるはずです。そんな音響の海の中を、ソロ・ヴァイオリンはとてつもなく難しく、したがってほとんど何の意味も伝わってこないフレーズを飽くことなくかき鳴らしています。それは確かに、「原爆」なり「原発」なりの惨事を過不足なく表現しているもののように聴こえます。いや、確かにそれらの事象の恐ろしさが生々しく伝わってくる音楽であることは間違いありません。
そんな過激な音楽が、終わり近くになって調性を取り戻し、平静な情景が広がります。しかし、それはほんの一瞬のことでした。またもや繰り返される意味をなさない不気味な音響の世界、それはまるで人間の愚かさをあざ笑うかのようです。そう、「惨事」を本気になって伝えようとすれば、このぐらいの技法を使って迫るべきなのです。「明けない夜はない」などと、ノーテンキに構えている場合ではありません。
もう1曲、ここで聴くことができるのは、「クラリネットとオーケストラのための交響曲『ハティクヴァ』」です。これも、ソロ・クラリネットが大活躍するまぎれもない「協奏曲」なのですが、この作曲家は「交響曲」というタイトルにこだわります。
「ハティクヴァ」というのは、イスラエルの国歌のタイトル、「希望」という意味を持った言葉なのだそうです。ここでは、スメタナの「モルダウ」に酷似した(イスラエル国民も、自嘲的にそのように言っているそうです)テーマが現れますが、それをもとにした一種の変奏曲になっています。この作品では、オーケストラはとても美しい聴きなれたハーモニーを奏でることの方が多くなっているのは、「福島」とはずいぶん異なった点です。しかし、こちらはクラリネットのソリストがとんでもないキャラの持ち主でした。というか、そもそもこのギオラ・ファイドマンというアルゼンチン生まれのユダヤ人の演奏を想定して、この曲は作られているそうです。クラシックの場合、クラリネットはまずビブラートをかけないで演奏するものですが、彼はもうビシャビシャにビブラートをかけまくり、とても「熱い」思いを込めてハイテンションの演奏を繰り広げます。それはまさに作曲家が言う「魂の叫び」そのものなのでしょう。
「共感」という意味では、こちらの方が「福島」より数段上です。

CD Artwork c TYXart

6月30日

Bach Drama
Céline Scheen(Sop), Clint Van der Linde(CT)
櫻田亮, Fabio Trümpy(Ten)
Christian Immler, Alejandro Meerapfel(Bas)
Leonardo García Alarcón/
Choeur de Chambre de Namur, Les Agrémens
AMBRONAY/AMY031


「バッハのドラマ」というタイトルの、CD2枚+ボーナスDVD1枚という、全部で3枚組のボックスです。1枚に1曲ずつ、全部で3曲の「ドラマ」が収録されています。もちろん、バッハが「ゲゲゲの女房」や「梅ちゃん先生」のテーマ曲を書いたわけではありませんよ。
ここで演奏されているのは、BWV(バッハ作品目録)では201番からスタートする20曲程度の作品群、一般には「世俗カンタータ」と呼ばれているものの中に含まれる曲です。もちろん、こんな分類はバッハ自身が行ったわけではなく、後年の研究者が教会での礼拝の時に演奏される目的で作られたもの以外のカンタータを、このような名前でひとくくりにしただけのことなのです。バッハ自身は、単に「Kantate」とか、あるいは目的に応じて結婚を祝うためのものはズバリ「Hochzeitskantate(結婚カンタータ)」とか、お誕生会には「Kantate zum Geburtstag」などというタイトルを使っていました。さらに、その1/3ほどには、イタリア語で「Dramma per musica」というタイトルが付けられています。日本語では「音楽劇」でしょうか、これが、バッハの場合の「ドラマ」になるのですね。
まずは、BWV201の「フェーブスとパンの争い」です。この「ドラマ」の出演者は全部で6人。最初と最後に大きな合唱があって、まずは物語をレシタティーヴォで進行、それに従ってそれぞれの出演者が1曲ずつアリアを歌うという分かりやすい構成です。そんな曲を、指揮者のアラルコンは、まさに「ドラマティック」にさばいてくれます。トランペットやティンパニが加わってただでさえにぎやかな開幕の合唱を、テンポを煽りに煽ってハイテンションに迫るものですから、トランペット(もちろんピリオド楽器)の高音のトリルなどは、ただならぬ悲壮感まで漂ってきますよ。
そんな「イケイケ」感は、アリアになっても付いて回ります。最初のモムス(ハロプロではありません・・・それは「モー娘。」)の元気なアリア「Patron, das machat der Wind!」を歌っているシェーンは、なんだか途中で地声で歌ったりしてかなりドラマティックですよ。
ミダス王役の櫻田さんも、かなりのオーバーアクションでこの「嫌われキャラ」を演じています。ブックレットには「ロバの耳」をつけておどけている写真も載っていましたね。こういうコミカルな味を、透き通るような声と完璧なコロラトゥーラで歌いながら出しているのですから、ちょっとすごいことです。いつの間にこんなに素晴らしい歌手になっていたのでしょう。
ただ、バスのイムラーが歌うフェーブス(アポロン)のアリア「Mit Verlangen」では、勢い余ってこのアリアには欠かせない優雅さがどこかへ行ってしまっているのが、ちょっと気になります。というのも、今まで聴いてきた演奏では必ず聴こえてきたフレーズが、この演奏では全く聴こえなかったのです。その原因は、楽譜を見てみて分かりました。

この、赤線で囲ったヴァイオリンのちょっとした装飾に、大概の指揮者は敏感に反応して、ちょっと目立たせる工夫をしていました。アルブレヒトなどは、わざわざこの部分の前後にポーズを入れて、全く別のものとして演奏しています。それを、アラルコンは「楽譜通り」に演奏しているのですね。それも一つの見識でしょうが、何か物足りません。というか、つまらない演奏になってしまいます。
もう一つの「ドラマ」、「満足せるエーオルス」BWV205では、ホルンまで加わってにぎやかさはさらに増大、まさにこの指揮者の腕の見せ所でしょう。ここでも櫻田さんの歌は冴えてます。
DVDは、教会でのただのコンサートの録画でした。「ドラマ」というから、それこそラトルのマタイみたいなのを期待したのですが・・・。聴きなれた曲があると思ったら、この「岐路のヘルクレス」BWV213は、「クリスマス・オラトリオ」の原曲でした。

CD Artwork © CAV&MA, Ambronay Éditions

6月28日

BACH
Mass in B minor
Felicity Lott, Anne Sofie von Otter(Sop)
Hans Peter Blochwitz(Ten)
Willian Shimell, Gwynne Howell(Bas)
Georg Solti/
Chicago Symphony Chorus & Orchestra
DECCA/478 3931


DECCAのミドル・プライス「ダブル・デッカ」という最新のシリーズにショルティが指揮をした「ロ短調」がありました。ショルティのバッハなんてあったのでっか?というぐらいのミスマッチですが、確かに、調べてみたらショルティのバッハの録音で現在DECCAから流通されているものはこれしかありませんでした。これは1990年の録音ですが、なんでも1987年には「マタイ」も録音していて、それがショルティにとっては最初のバッハだというのですね。これなどは、今ではタワーレコードの復刻版でなければ手に入りません。最晩年になって初めてバッハに挑戦したというのは、いったいどのような心境からだったのでしょう。
ここでショルティがバッハに対して取ったスタンスは、当然ながらモダン楽器によるシンフォニー・オーケストラの機能を最大限に発揮させる、というものでした。言いかえれば、ベートーヴェンからマーラーまでと「発展」を遂げてきたとされる西洋音楽の原点としてバッハをとらえるという姿勢でしょうか。バッハを「音楽の父」と崇め、すべての音楽はバッハから始まったとする史観は、前世紀の終わりごろでもまだ健在でした。
そのような演奏様式を否定するものでは決してありません。それどころか、バッハがシカゴ交響楽団のような、ヴィルトゥオーゾ・オーケストラによって演奏された時には、予想もしなかったような美しさが現れることを発見して、少し驚いているところです。それが最もよく体験できるのが、ウーヴェ・ヴォルフの校訂による新しい「新バッハ全集」によれば「22番」となる、「Agnus Dei」ではないでしょうか。というのも、ここのトゥッティのヴァイオリンで演奏されるオブリガートは、最初に聴いたリヒターの日本公演でのものがあまりにひどかったために、なにかトラウマのようになっているのですね。事実、それからこの曲を聴く時には、常に何かしっくりいかないものを感じ続けることになるのです。ユニゾンで弾いているだけなのに、それがぴったりと合って気持ちの良いピッチに聴こえることはまずないのですね。
それが、ここでのシカゴ響のヴァイオリン・セクションは、まさに一糸乱れぬ正確なピッチで、演奏してくれています。しかも、その豊穣さあふれる響きは、スタンレイ・グッドール、サイモン・イードンといった、DECCAサウンドの最後を飾ったエンジニアたちの手によって見事なまでの輝きを誇っていました。そんなブリリアントなオケをバックに、フォン・オッターも渾身のアリアを聴かせてくれます。それは、あまりにストイックに走り過ぎた最近のバッハ演奏を聴き慣れた耳には、なんと新鮮に感じられることでしょう。
オーケストラのソリストたちの名演も、光ります。中でも、録音当時はすでに60歳を超えていたはずのドナルド・ペックのフルートの輝かしさはまさに絶品です。「新」新全集の「7a/Domine Deus」でその存在感に気づいてしまうと、もうフルートの音色にはくぎ付けになってしまいます。その次の「7b/Qui tollis」では合唱に2本のフルートの十六分音符の掛け合いがからみますが、2番フルートとの音色の違いは歴然としています。もちろん、「20/Benedictus」での大ソロは完璧です。
さらには、レイ・スティルのオーボエ・ダモーレと、デイル・クレヴェンジャーのホルンでしょうか。そこには、決してピリオド楽器では味わうことが出来ない「ぜいたくさ」が満ちています。
しかし、合唱に関しては完全に失望です。確かに、この頃まではオーケストラの合唱はかなりいい加減、ベートーヴェンの「第9」でちゃんと歌っている合唱団なんかありませんでしたが、バッハでそれをやられてしまってはちょっと困ります。そんなひどい合唱団が、メリスマだけはやたら張り切ってスタッカートを効かせるのですから、たまったものではありません。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

6月26日

愛のメモリー
松崎しげる
AG/HUCD-10107

今から10年近く前、2003年に、グリコから「青春のメロディーチョコレート」というシングルCDが「おまけ」に付いているチョコレートが発売されました。それに関してのトークはこちらにあります。
そのCDは、1960年代から1970年代にかけてリリースされた「シングル・レコード」を忠実に復刻したもので、大ヒット商品となりました。その中に入っていたのが、この松崎しげるの「愛のメモリー」です。本命は10、二股相手は3(それは、愛の目盛)。

このシングルのオリジナル(↑)は1977年にリリースされました。今年が、その時から35周年ということで企画されたのが、この「マキシ・シングル」です。「シングル」と言っても、収録トラックは全部で14、収録時間は68分、優に「アルバム」に相当するボリュームです。それで税抜き価格は952円、さっきのオリジナル・シングルが600円でしたから、なんというお買い得。実際は、2つのトラックはカラオケですから、曲としては12曲、そのうちの2曲が、今回新たに録音されたものです。つまり、この中にはこの35年間に録音された、12種類の「愛のメモリー」が入っているのですよ。
すでにお気づきでしょうが、このCDのジャケットはオリジナルのパロディになっています。さりげなくスカイツリーなどを取り込んで、「今」を演出しています。これで、ご本人が昔と同じポーズをとっていれば完璧なんですがね。せっかく衣装まで同じにしたのですから。
もう一つ違っているのが、左上にあるレーベルです。オリジナルにはニッパー・マーク、当時のビクター音楽産業の商標が付いていましたが、現在は「ハッツ・アンリミテッド」という会社からCDを出しているようですね。なにしろ35年ですから、そもそもいつまでも同じレーベルにいられるわけはありません。リストを見てみると、これまでにビクター→EMI→ソニー→ロック・チッパー→ジェネオン、そしてハッツと渡り歩いてきたようですね。それぞれのレーベルでベスト・アルバムなどを作るときに、新たに録音していれば、このぐらいのバージョンは集まってしまうのでしょう。この中にはDVDのサントラから取ったライブ・バージョンもありますし。
ただ、その中に、「愛の微笑」という、タイトルまで違っているのがありました。これは実は、1975年に作られた、いわば「愛のメモリー」の「原曲」なのだそうです。当時のヨーロッパの音楽祭に「出品」するために作られたもので、実際は晴れて「第2位」となったのですが、国内では全くヒットしなかったものが、山口百恵と三浦友和が共演したCM(グリコ!)に使われたことで一挙にブレイク、新たにタイトルを変えてシングルとしてリリースされて、大ヒット曲となったのでした。
ということで、正確には37年のスパンの中で行われた様々なアレンジを、まとめて聴くことができるという、この手のものが好きな人にとっては何よりのCDが出来上がりました。確かに、時代によってその時々の流行のサウンドが取り入れられているのがよくわかります。1988年には「チョーッパー・ベース」とか。変わったところではチェコ・フィルを起用してのシンフォニック・バージョン、なんてのもありましたね。でも、やはり一番安心して聴けるのは聴きなれた最初のバージョンです。いや、実は意外なことに、録音もこのアナログのものが一番心地いいのですね。「グリコ」のマスタリングはひどいものだったので今まで気が付かなかったのですが、今回最新のマスタリングで聴くと、アナログ録音の可能性がきちんと伝わってきて、下手なデジタル録音のものよりずっといい音なのですよ。
それと、一番新しいアレンジは、何か原点に返ったような、とても素直なもののように感じられます。巡り巡って、最終的に元のものに立ち返ったということ、やはり最初に新しいものを作り出す時のエネルギーは、アレンジにも反映されるのでしょうね。

CD Artwork © Hats Unlimited Co., Ltd.

6月24日

Alois Unerhört
Alois Mühlbacher(Sop)
Franz Farnberger(Pf)
PREISER/PR 91185


タイトルは「前代未聞のアロイス」でしょうか。このCDを作った人は、アロイス・ミュールバッヒャーくんというボーイ・ソプラノがあまりに素晴らしいので、そんな、ちょっと大げさなコピーで煽ってみようと思ったのでしょう。
アロイスくんは1995年の生まれ。2005年に、あのアントン・ブルックナーも団員だったことのあるリンツのザンクト・フローリアン少年合唱団に入団しました。それ以来、合唱団員としての演奏会や演奏旅行のほかにも、アロイスくんは数多くのステージに立っています。バーンスタインの「ミサ」のソリストも歌っているそうですし、オペラにも出演しています。モーツァルト「魔笛」に出てくる少年は定番で、ルネ・ヤーコブスとのプロダクションはこちらのCDにもなっています。さらに日本でも、2010年5月に行われたアルミンク指揮の新日本フィルのホール・オペラ「ペレアスとメリザンド」では、イニョルド(子役)を演じていたそうです。
まあ、そんな予備知識があったとしても、所詮ボーイ・ソプラノですから(さっきの「魔笛」のCDなどは、典型的な「少年の声」でしたし)、こんだけの、「大人の」ソプラノでもちょっと尻込みしそうなレパートリーを歌わせるというのは、ある種見世物的な興味を引くだけのものでしかないだろう、と思っていました。ところが、1曲目の「魔笛」の夜の女王の有名なアリアの歌いだしたとたん、その声には心底びっくりしてしまいましたよ。これは、まぎれもない「ソプラノ」ではありませんか。「ショ〜シュ〜リキ〜」のミゲルくんも、最初聴いた時にはその「少年ばなれ」した声には驚いたものですが、こちらはその上を行く成熟した「オトナ」の声なのですからね。それで、あのとんでもないコロラトゥーラを歌うのですから、ほんとに信じられない思いです。最高音の「ハイF」も難なくクリアですよ。
それに続くのが、同じ「魔笛」からの、今度はパミーナのアリアです。同じソプラノでも全く正反対の性格を持つアリアを、こちらはしっとりと、そして夜の女王とは別の意味の難しさのあるコロラトゥーラも見事に聴かせるのですから、もう感服です。普通、夜の女王とパミーナを同時に歌うソプラノなんて、いませんよね。
もう一組、あり得ないような2つの役を同時に歌っているのが、シュトラウスの「こうもり」です。ここではなんと、アデーレとロザリンデを両方とも歌いきっています。つまり、「小間使い」と「男爵夫人」を見事に表情豊かに歌い分けているのですからすごいですね。
そして、なんと言っても驚かされるのが、もう一人のシュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」からのツェルビネッタのレシタティーヴォとアリア「偉大な王女様」です。この、難易度から言ったら間違いなく上位にランクされるに違いない、超絶技巧満載の長大なナンバー、軽々しく手を出して痛い目にあった歌手は数知れずという難曲を、アロイスくんは楽々とその12分間を楽しんでいるのですからね。
ちょっとした歌い始めのクセや、ピッチの不安定なところは気になりますが、もっとひどくても堂々と「ソプラノ」のソリストとして活躍している人もいるのですから、そんなことは何の問題にもなりません。
ただ、このCDが録音されたのは2009年ですから、その時の彼は14歳ぐらい、おそらく、変声期ギリギリのところだったのでしょうね。でも、なんだかこのまま声が変わらないで、そのまま大きくなってしまいそうな感じもしませんか。たまにそういう人がいますよね。小田和正とか。そうだとすれば、アロイスくんは、あの大人の男の力強さで、女声の音域を歌うという「カストラート」になれてしまうのではないでしょうか。これからの動向が気になるところです(他人がどうこう言うことではないのでしょうが)。オーケストラの伴奏でも、聴いてみたいですね。

CD Artwork © St. Florianer Sängerknaben

6月22日

XENAKIS/Alax
BEETHOVEN/Violin Concerto
Thomas Zehetmair(Vn)
Ernest Bour/
Ensemble Modern
Gruppe Neue Musik >Hanns Eisler<
Ensemble Köln
ENSEMBLE MODERN/EMCD-017


エルネスト・ブールと言えば、前世紀中ごろの「現代音楽」シーンには欠かせない指揮者でした。夏にも欠かせません(それは「プール」)。例えば、キューブリックの「2001年」のサウンドトラックに使われたリゲティの「アトモスフェール」の音源は、ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団によるWERGO盤でした(これが、初録音。初演は、ハンス・ロスバウト指揮のSWF交響楽団)。クセナキスなどもよく演奏していたはずですが、調べてみると初演を行ったのは、この「Alax」だけでした。
これは、クセナキスの1985年の作品、今まで名前すらも聞いたことはありませんでしたが、Salabertのカタログの中のディスコグラフィーにも載っていなかったので、もしかしたら今まで録音が世に出ることはなかったのかもしれません。おそらくこの1985年9月15日にこの作品が初演された時のライブ録音(放送音源)が、唯一のCDなのでしょう。
ブールの指揮ではあっても、この作品は普通のオーケストラのための編成ではありませんでした。タイトルには「3つのアンサンブルに別れた30人の演奏者のための」というコメントがあるように、かなりの小編成、正確には、フルート1、クラリネット1、ホルン2、トロンボーン1、ハープ1、打楽器1、ヴァイオリン1、チェロ2という10人編成のアンサンブルが3つ集まったものになっています。その「3つ」のアンサンブルのうちの一つがアンサンブル・モデルンだったことから、こんな貴重な録音が彼らのレーベルからリリースされることになったのでしょう。その時に共演していたライプツィヒ(当時は東ドイツ)のグルッペ・ノイエ・ムジーク・ハンス・アイスラーと、ケルンのアンサンブル・ケルンは、今はもう活動していません。
いきなりヴァイオリンの、まるでかきむしるような高音の応酬で始まるこの曲は、最初はまず弦楽器だけで演奏されます。初期の作品のような混沌ではなく、もっと透明感のあるポリフォニーが、ここからは聴こえてはこないでしょうか。なおかつ、そこには「メロディ」すら垣間見られます。そこに金管楽器や打楽器が入ると、情景は全く変わって、いつもの喧騒がやってきます。と、一瞬の静寂の中から3台のハープだけで奏でられるとても美しい瞬間が現れます。それはまるで武満のような、澄み切った世界です。そんな、様々な場面転換を味わいつつ、この頃のすっかり無駄な力が抜けたクセナキスの音楽を堪能してみたらいかがでしょうか。
カップリングが、ツェートマイヤーをソリストに迎えてのベートーヴェン(!)のヴァイオリン協奏曲です。ブールがこういうレパートリーを指揮するのも珍しかったことでしょうし、何よりも、「モデルン」という名前のアンサンブルが「クラシック」時代の曲を演奏するのですから、これは楽しみです。
これは、クセナキスの2年後に行われたコンサートのライブですが、CDで続けて聴いてみると、クセナキスから全く違和感なくベートーヴェンに突入していたのには、驚いてしまいました。ものすごいテンポ設定のせいもありますが、冒頭のティンパニがそもそも「モデルン」な叩き方ですし、続くオーボエもとことん攻撃的な吹き方なものですから。と同時に、これは今のピリオド楽器系の演奏家にも通じるようなところも感じられます。「ピリオド」の人たちのやろうとしていることは、実は「モデルン」だったのかもしれません。
ツェートマイヤーも、このテンポで大奮闘、もしかしたら、それこそ「ピリオド」風に装飾も入れていたのではないでしょうか。そしてカデンツァは、ベートーヴェンがこの曲をピアノ用に直した時に作った「自作」のものを、ヴァイオリンで演奏していましたよ。これも素敵。

CD Artwork © Ensemble Modern Medien

6月20日

KRAUS
Miserere・Requiem・Stella coeli
Michael Schneider/
Deutscher Kammerchor
La Stagione Frankfurt
CPO/777 409-2


生年も没年もモーツァルトとほぼ同じ(没年だけ1年あとの1792年)という「スウェーデンのモーツァルト」、ことヨーゼフ・マルティン・クラウスは、「本家」モーツァルト同様、極めて若いころから素晴らしい作品を作っています。そんな中に、19歳の時に作った「レクイエム」があるそうなのです。「本家」が同じタイトルの曲を作りかけたのは35歳、そんなところから、「彼の作品に影響を与えた」などと、なんの根拠もないのに無責任に騒ぎ立てているサイトがあるものですから、これはぜひ聴いてみなければ、と思ってしまうではありませんか。本当は、モーツァルトがこのクラウスの作品を実際に聴いたことがあるかどうかなんて、誰にも分からないことなのですがね。そんなわけで、ちょっと前のリリースですが紹介させてくださいね。
その前に、もっと若い頃、クラウスが17歳の時に作った「ミゼレレ」を、まず聴いてみましょうか。ご存じ、詩篇51をテキストにした13曲から成る30分ほどの曲です。オーケストラの伴奏に乗って独唱と合唱が代わりばんこに登場するという構成、それぞれの曲は1〜2分で終わってしまうほどのコンパクトなものです。オーケストラはピリオド楽器の団体、合唱は若いソリストが集まって2001年に結成された団体で、当然ソロもメンバーが歌っています。そんなソリストの中に、ジュリアン・プレガルディエンの名前がありました。このCDが録音されたのは2008年の4月ですが、その半年後にはZIG-ZAG「ヨハネ」のセッションにエヴァンゲリストとして参加することになる、あのクリストフ・プレガルディエンの息子ですね。彼は、この曲の3曲目、「Tibi soli」などで、その澄み切った声を聴かせてくれています。
このかわいらしいアリアは、モーツァルトの「フィガロの結婚」の第4幕の冒頭で歌われるバルバリーナのカヴァティーナ「なくしてしまった」にどことなく似たテイストのある、とてもキャッチーなものですが、歌いだしの歌詞が「チビ総理」と聴こえてしまうのにはうれしくなってしまいます(おそらく、今の日本の総理大臣を揶揄したい気持ちがあるからなのでしょう。もっとも、その人物に対する卑称としては、それはあまりにも生ぬるいものに違いありません。現実には「ダメ総理」とか「履き違え総理」でも物足りないほどなのですから。かと言って、「キチガイ総理」とののしるほどの勇気はありません)。
そして、その2年後に作られた「レクイエム」です。確かに、「本家」と似ているな、と感じられる部分はたくさんありました。最初の「Requiem」からして、モーツァルトの「Lacrimosa」によく似たテーマが聴こえてきますし、「Kyrie」でフーガが用いられているのは同じアイディアで、そのテーマの中に見られる6度上昇の跳躍は、のちのモーツァルトでの7度下降の跳躍の萌芽と感じられないこともありません。あるいは、全く別物のユニゾンのテーマで始まる「Dies irae」にしても、しばらくするとなんだかよく似たメロディが聴こえてきますし、「Domine Jesus」もほとんど同じ楽想だと言い切ることができるほどの近似性があります。
ですから、これをもって「影響がある」と考えるのはあるいは間違いではないのかもしれませんが、これらの点は実はこの時代の音楽に少なからず見いだせる、単なる「様式」と考える方が、より賢明な判断であるような気がします。何とかセールスポイントを見つけて商品を売りたいという気持ちはわかりますが、過度の「煽り」は禁物です。
もう一つ、「Stella coeli」という2曲からなる小さな作品が、最後に聴けます。「天の星」ですね。なんだか、あまり目にしたくない人の名前みたい。2曲目の冒頭に華麗なオルガンのソロが入るというのも、モーツァルトの「教会ソナタ」に通じる、やはり時代の様式です。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

6月18日

SCHNITTKE
Zwölf Bußverse, Stimmen der Natur
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
HÄNSSLER/SACD 93.281(hybrid SACD)


クリードとSWRヴォーカルアンサンブルのアルバムは、かたくなに同じデザインのジャケットにこだわっていますね。必要最小限のテキストが表示されているだけのとてもシンプルなものですが、アルバムごとにベースの色だけは変えるという、なんとも粋なやり方です。今回のシュニトケでは、さらに左上にあまり見かけないロゴマークが入っています。そう、これはSACDのロゴ、このレーベルでは本当にたまにしかお目にかかれませんから、これは貴重です。
シュニトケの合唱曲と言えば、「合唱のためのコンチェルト」や「レクイエム」が有名ですが、これはちょっと珍しい「12の悔悟詩編」と「自然の声」です。しかし、別に今回が初録音ではなく、1996年に同じカップリングでパルクマン指揮のデンマーク国立放送合唱団によって録音されたCDCHANDOS/CHAN 9480)が最初のものになります。

1988年に作られた「悔悟詩篇」は、テキストに16世紀後半の古代ロシア語が用いられた、まるでロシア正教の聖歌のような厳かさをたたえた曲集です。そもそも1曲目などは男声のみで歌われていますから、いかにもロシア的な、ほとんど「ロシア民謡byドン・コサック合唱団」のような世界が広がります。
しかし、シュニトケが目指したのは、もちろんそんな単純なものではありません。彼の和声はいつものようにアイロニーがたんまりこめられた、一筋縄ではいかない複雑なものです。とは言っても、得体のしれない混沌の中から、突き刺すようなソプラノに先導されて輝くばかりの長三和音が現れる瞬間は、ごく自然に感情の高まりを覚えてしまうほどの感覚的な喜びが味わえることは間違いありません。そんな快楽に身を委ねることが、第一義的なこの曲の魅力なのかもしれません。ア・カペラの圧倒的な響きに、しばし酔いしれてはみませんか?
しかし、その長三和音には、必ず「醤油を一滴」みたいな「隠し味」の音が調理されていますから、油断は禁物ですよ。決してペンデレツキのようにノーテンキにはなれないのが、この作曲家の性なのでしょう。もちろん、それが作品を深みのある味に仕上げているのは、まぎれもない事実です。
最後の第12曲目は、テキストが無く、ハミングやヴォカリーズだけで歌われます。脂ぎったコース料理のシメにはさわやかなデザート、といった趣でしょうか。ただし、これもただ甘いだけのスイーツを期待すると、足元をすくわれてしまいますから、ご用心。
もう1曲の「自然の声」は、10人の女声とビブラフォンのための、やはりテキストのない4分ほどの作品です。まるで、リゲティの「ルクス・エテルナ」か、マーラーの「アダージェット」のような雰囲気満載の、美しい曲、ビブラフォンのアクセントがたまりません。
初録音のCHANDOS盤はちょっと腰が引けた印象がありましたが、この合唱団はとことん「攻め」の姿勢で圧倒的な「力」を感じさせてくれます。なんと言っても、ちょっと荒目の声のソプラノが、ノン・ビブラートでリードしているのが、最大の勝因でしょう。デンマークの女声は、ほのかにビブラートがかかって、なよなよしすぎです。
それと同時に、なんといっても録音の違いが決定的に影響を及ぼしています。無伴奏の合唱ほど、録音の難しいものはありませんが、CHANDOS盤ではやはりそれを克服することができず、肝心の盛り上がりで音がかなり歪んでしまっています。しかし、こちらでは、SACDのスペックを最大限に生かした生々しい音を聴くことができます。正直、ここまでリアリティのある合唱が録音で聴けるのは、ほとんど奇跡です。「自然の声」では、10人それぞれの声がはっきり聴き分けられるほどです。もちろん、そんなものは同じディスクのCDレイヤーでは、決して味わうことはできません。
こういうのを聴いてしまうと、SACDのロゴがもっとゴロゴロ見られるような時代になってほしいと、願わずにはいられません。

SACD Artwork © SWR Media Services GmbH

6月16日

ROREM
Chamber Music with Flute
Fenwick Smith(Fl)
David Leisner(Guit)
Roland Thomas(Vc)
Mihae Lee(Pf)
Ann Hobson Pilot(Hp)
NAXOS/8.559674


1978年にボストン交響楽団に入団したフェンウィック・スミスは、2006年に28年の「勤務」を終えて、このオーケストラを引退しました。日本のオーケストラでは定年は60歳のようですが、アメリカの場合はどうなのでしょう。シカゴ交響楽団の首席奏者だったドナルド・ペックの場合は、たしか70歳ぐらいまで現役だったような気がするのですが(「嘱託」という場合もありますが)。仮に2006年に60歳だとすると、現在は66歳でしょうか、まあ、風貌に合致する年代のような気はします。というか、この人は昔から「年寄顔」でしたから、逆にまだこんな年だったのか、なんて思ってしまいます。
このアルバムは、以前、1993年にETCETERAからリリースされたものに、新しく2008年に録音されたものを加えてNAXOSから「アメリカン・クラシックス」シリーズの一環として新装発売されたものです。このレーベルではよくほかのレーベルからの「移行」という形でリイシューを行うことがありますが、こんな風に「ひと品余計に」つけてもらえるのはありがたいことです。
ゴーベールやケックランといった渋い作曲家のフルート曲を積極的に録音してくれていたスミスが、ここでは1923年生まれの現代アメリカの重鎮作曲家、ネッド・ローレムの作品を演奏しています。ローレムと言えば、一部の人にはあのビートルズに対して「マッカートニーとレノンは、シューベルト以降最高の歌曲作曲家だ」という、なんとも中途半端な「賛辞」を送ったことによってのみ知られている人ですが、その作品はオペラから歌曲まで多岐にわたっています。フルートのための作品は、以前こちらで、このアルバムにも入っている「Four Prayers」を聴いたことがありましたが、その他は、いったいどのようなものなのでしょうか。
最初に入っているのが、思い切り初期、1949年に作られた「Mountain Song」です。フルートとピアノという編成ですが、実際には、この曲はフルートだけではなくオーボエやヴァイオリン、さらにはチェロのためのバージョンも出版されています。要は、楽器の特性にこだわらない、アメリカ民謡由来のおおらかなメロディが聴ける美しい曲です。ただ、流れるようなソロのパートとは裏腹に、ピアノ伴奏が何やらジャズの即興演奏のような複雑なものになっているあたりが、もしかしたらこの作曲家の「個性」なのかもしれません。
そんな予感は、続く「Romeo and Juliet」という、1977年に作られたフルートとギターのための作品や、1960年の「フルート、チェロ、ピアノのためのトリオ」を聴いてみると、正しかったことがわかります。ここではフルート自体も、メロディアスなものから12音っぽい薄気味悪いもの、さらにはまるでヴァレーズの「Density 21.5」みたいな「前衛的」なテイストまで、恐ろしく振幅の大きな音楽が展開されています。もちろん、相方の楽器も、時にはアンサンブルさえも無視したような演奏を強いられる場面もあったりしますから、かなりの予測不能でスリリングな体験が味わえますよ。
そういう意味では、「ロメ・ジュリ」同様、イングリット・ディングフェルダーのために書かれた1975年の作品、フルートとハープのための「Book of Hours」は、まさに聴きごたえ満載です。1日の時間の移り変わりを8曲の小品で描いたものなのでしょうが、それぞれ油断できない曲ばかり、特に4曲目の「Terce(Mid-morning)」は、まるでメシアンのような鳥の声の描写が、超絶技巧でフィーチャーされています。
今回新たに録音されたのが、2006年の作品である、さっきの「Four Prayers」です。晩年になって枯れるどころか、その「意外性」はますます盛んになっていて、ここでもフラッター・タンギングを駆使しての「メシアン風」が冴えてます。
スミスの芯のある音は、こんな作風にはうってつけ、最初から最後まで素晴らしい演奏を聴かせてくれています。「引退後」に録音された最後の曲でも、衰えは全く感じられません。こんな風にいんたい(いきたい)ものです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

6月14日

GOLIJOV
La Pasión según San Marcos
Vocalists
María Guinand/
Schola Cantorum Venezuela
Orquesta La Pasión
Members of the Simón Bolívar Youth Orchestra
DG/00289 479 0346


最近の再発CDの中には、きっちりとテーマが設定されているシリーズも有ります。今回UNIVERSALDGDECCA)から10のタイトルがリリースされたのは、「20C」というシリーズでした。何のことはない、「20世紀」というだけの話なのですが、文字通り1905年に作られたドビュッシーの「海」から、まさに世紀末、2000年に作られたオスヴァルド・ゴリホフの「マルコ受難曲」までのラインナップです。中にはスティーヴ・ライヒの「ドラミング」なども入ってますよ。信じられないことですが、この曲の初録音はDGで行われたのでした。
この「マルコ」は、2000年のバッハ没後250年の際にヘルムート・リリンクとシュトゥットガルト・バッハ・アカデミーが「記念」として様々な文化圏の作曲家に委嘱した4つの「受難曲」のうちの一つで、他の3曲同様シュトゥットガルトでの初演のライブ録音がHÄNSSLERから出ていました(譚盾の「マタイ」だけはSONY)。もちろん、いくらライセンス販売が横行しているとしても、そんな音源がDGから出るわけはありません。これは2007年にヴェネズエラのカラカスで新たに録音されたものです。フルプライスのCDDVD付き)は2010年に出たばかり、それがこんなに早く「型落ち」してくれるのですからありがたいものですね。
ジャケットには「シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ」の名前があったので、てっきりあのドゥダメルが指揮をしているのだと思ってしまったのですが、よくよく見てみると指揮者は初演の時と同じマリア・グイナンドでした。何度も録音できていいですね。確かに、この作品の場合はいくらラテン・アメリカ出身のドゥダメルでも、指揮をするのはちょっと無理かもしれませんね。初演盤のレビューはこちらにありますが、90%は「ラテン音楽」で作られているこの「受難曲」を束ねるには、「クラシック」とは別のスキルが不可欠でしょうから。
一応、録音データは2007年1月となっているのですが、そのほかにも同じ会場で2008年の11月、さらには2008年の11月から12月にかけては、ボストンのスタジオでもセッションがもたれているようです。ですから、これは初演のような完全なライブ録音ではなく、セッション録音がメインになっているのでしょう。初演盤との最大の違いは、そんな作られ方による録音の違い、楽器や合唱のバランスが、全く別物になっています。7曲目、「ベタニアの注油」でメインとなって聴こえてくるキレの良いピアノは、初演盤ではほとんど聴こえてこなかったため、まるで別の音楽のように感じられてしまいます。ソリストも、その次の8曲目の「なぜ?」などでのビエラ・ダ・コスタは初演盤のルシアナ・ソーサよりも、個人的には魅力的です。
しかし、初演盤には確かにあったはずのコーラスのひたむきさが、今回の録音にはあまり見らません。何か、細かい表情にこだわり過ぎて、肝心のグルーヴが生まれていないのですね。結局、ゴリホフのファンであれば、できれば両方を揃えてそれぞれの味わいを堪能するのが、一番なのではないでしょうか。
ところで、今回の発売に合わせてネットに登場したインフォを見たら、とんでもない文章が載っていたのには驚いてしまいました。いや、文章自体には何の問題もないのですがね。まあ、実際にこれを読んでみてください。同じものはこちらでも見られます。
どうです。これって、さっきの10年前の「おやぢの部屋」にある初演盤のレビューの完全なコピペでしょう?出来合いの文章を出典を明らかにせず丸ごと盗むなんて、ユニバーサルのインフォ担当者は、なんとも薄汚い仕事をしていたものです。いや、そもそも、代理店のインフォなんて、この程度のものなのかもしれません。あきれるほどの意識の低さ、彼らはもはやCDを、いや「音楽」そのものを「文化」とは考えられなくなっているのでしょう。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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