レディー画家。.... 佐久間學

(12/1/25-12/2/12)

Blog Version


2月12日

Greek Flute Music of the 20th and 21st Centuries
Katrin Zenz(Fl)
Chara Iacovidou(Cem)
Angelica Cathariou(MS)
NAXOS/8.572369


「ないものはない」と豪語しつつ、あらゆる国の作曲家を網羅しているNAXOSですが、「ギリシャのクラシック」などというシリーズもあったんですね。ただ、ギリシャの作曲家として最も有名なクセナキスの作品がカタログにはないのは、意外な盲点、というか、これではまるでカキノタネを置いてないスーパーみたいなものではありませんか。ペンデレツキはあれほど厚遇しているというのに、なんという片手落ち、ここは一つレーベルの威信にかけても「ギリシャ」シリーズでクセナキスのアンソロジーを揃えて欲しいものです。それにしても、「ないものはない」とはよく言ったものですね。確かに「ないもの」はありません。
そんなわけで、ギリシャの作曲家によって20世紀と21世紀に作られたフルートのための作品を集めたこのアルバムには、聞いたことのある作曲家の名前は全く見あたりませんでした。そこは、ドイツで生まれ、ギリシャで活躍しているフルーティスト、カトリン・ツェンツが、個人的にもつながりのある現代ギリシャの作曲家の作品を世に広めようという大いなる意気込みに、だまされたと思ってつきあってやろうではありませんか。
ここでは、ほとんどの曲がフルート、あるいはアルトフルート1本で演奏されています。したがって、そこからはかなりストイックな、まるで日本の虚無僧がひたすら自身の修行のために奏でるような「重たい」テイストが漂うことになります。テオドラ・アントニオウという1935年生まれの方が1988年に作った「Lament for Michelle」が、まさにそんな「無常観」とでもいうような「深さ」を、まず聴かせてくれています。そこで登場するのは、我々日本人にとっては、極めて親近感を抱けるようなフルートの奏法でした。ほとんど「雑音」にしか聴こえないような「ムラ息」や、平均律からは微妙にずれている音程などは、まさに「尺八」の世界です。日本には福島和夫が作った「冥」というフルート・ソロのための名曲がありますが、これは根元的なところでそれと同じモチベーションによって作られたのでは、と思えるほどの馴染み良さです。その中に、時折「別世界」が感じられることがありますが、それがおそらく「ギリシャ」のアイデンティティなのでしょうね。
アネスティス・ロゴテティスという、1920年に生まれてすでに鬼籍に入られている方の1978年の作品「Globus」は、一人で演奏したものを録音して、それを流しながらライブ演奏をするという、ライヒの「カウンターポイント」みたいなアイディアを持ったものです。ライヒと違うのは、ここではその頃大流行だった「特殊技法」が満載だということでしょう。いきなり「ジェット・ホイッスル」の嵐で聴くものを「現代音楽」の世界へ誘うという手法は、今聴くとなんとも懐かしく、言い換えれば「古くさく」感じられてしまいます。アルバムの中で、この頃に作られた他の作品は、おしなべてそんな「当時の新しさ」を「ホイッスル」や「重音」で主張しているものばかり、世界中どこでも、同じような「試み」は行われていたのだなあ、という感慨に浸れることでしょう。
後半に入っている「21世紀」に作られたものになると、そんな前世紀のしがらみから解き放たれた軽やかさが見られるようになるのも、やはり全世界に共通したものなのでしょう。その中で、1974年生まれの若手、ミナス・ボルボウダキスの「Aeolian Elegy」などは、タイトルの通り「風」をストレートに感じられる爽やかさがありました。これを聴けば、特殊技法はあくまで表現の手段であるという初歩的なテーゼが、今世紀になってやっと浸透してきたな、と納得されることでしょう。
1959年生まれのギオルゴス・コウメンダキスが作った「Forget me」あたりは、1929年生まれのミカエル・アダミスの作品で、フォルクローレ風のヴォーカルが入った「Melisma」とともに、民謡を素材にした、心から「ギリシャ」を楽しめる作品なのではないでしょうか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月10日

MOZART
Flute & Harp Concerto, Sinfonia Concertante for Winds
Lucas Marcías Navarro(Ob), Alessandro Carbonare(Cl)
Guilhaume Santana(Fg), Alessio Allegrini(Hr)
Jaques Zoon(Fl), Letizia Belmondo(Hp)
Claudio Abbado/
Orchestra Mozart
DG/477 9329


2008年に、アバド率いるオーケストラ・モーツァルトが、管楽器のメンバーをソリストに迎えて録音したモーツァルトの協奏曲が、今頃リリースになりました。「シンフォニア・コンチェルタンテ」と「フルートとハープ」とでは録音会場が異なっていますし、なぜか「コンチェルタンテ」だけは両方の会場にまたがって録音されているのは、どういう事情によるものなのでしょう。たぶん、ライブ録音でのちょっとした事故を、別会場でのテイクを差し替えて補正したのでしょうね。もちろん、そんな小技の跡は、エミール・ベルリナー・スタジオのエンジニアの手にかかれば、決して聴いただけで分かるようなことはありません。
「コンチェルタンテ」は、長年「偽作」の扱いを受け続けているのはご存じの通りです。そもそもはマンハイムのフルーティスト、ヴェンドリンク(しかし、汚い名前ですね。「便ドリンク」って)などのメンバーを想定して作られたはずのものが、楽譜は散逸してしまい、それらしいものが見つかった時にはフルートではなくクラリネットがフィーチャーされていたのですからね。少し前までは、それを本来の編成にもどして演奏するという試みが盛んに行われました。ロバート・レヴィン(1983年)やハルトムート・ヘンヒェン(1990年)が作った楽譜によるものが録音もされていますが、それぞれに曲の構成まで変えてしまうような大胆な「修復」が行われています。ただ、たとえ他人の手が入っていようと、今まで馴染んできたものへの愛着には勝てないものがあるのでしょうか、この「修復版」が在来のものに置き換わることは決してありません。正直、レヴィン版などはかえって「人工的」なものになっていて、二度と聴く気にはなれません。
ここでソロを任された4人の奏者は、それぞれにラテン系の国の出身者です。中でもオーボエのナヴァロとクラリネットのカルボナーレのとことん明るい音色と軽やかな歌い方には、思わず引き込まれてしまうものがあります。この編成でのソリスト同士の丁々発止のやりとりが、この二人を中心に繰り広げられている様は、まさにエキサイティングです。オープニングのアバドの指揮ぶりは、なんとも持って回ったくどさがあって、あまり楽しめないのですが、ソロ(ソリ)が入った途端にガラリと景色が変わってしまうのですからね。なまじ指揮者がいない方が面白い音楽をやってくれるのでは、というのは、以前「ブランデンブルク協奏曲」を聴いた時と同じ印象でした。
たぶん、ドイツ系のソリストたちが集まった演奏では、ソリストたちはまず4人全体のアンサンブルというものを考えるのでしょうが、ここではそんな堅苦しいことは全く無視されています。同じフレーズを順番に受け渡すというような場面でも、前の人の歌い方を出来るだけ同じようになぞるなどといったようなチマチマしたこと(一応、それがセオリーなのでしょうが)は一切行わず、それぞれに自分の最も美しい歌を主張しようとしているのですね。その結果、ここからはいとも自発的な音楽が発散されてくることになりました。逆に、その方がアンサンブルとしての緊密さも増してくるのですから、面白いものです。
こんなスリリングな演奏のあとに、ゾーンのフルートを聴くと、なんとも生気に乏しい感じがしてしまいます。バックのオーケストラではナヴァロがオーボエを吹いているので、そちらの方に聴き惚れてしまうほどです。
同じ作曲家の「レクイエム」を録音した時には、レヴィン版やバイヤー版を使っていた「変な物好き」のアバドが、「コンチェルタンテ」でレヴィン版を使わなかったのは、本当にラッキーでした。もしゾーンがこのやんちゃなアンサンブルに加わっていたとしたら、目も当てられなかったことでしょう。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

2月8日

バッハ ロ短調ミサ曲
クリストフ・ヴォルフ著
磯山雅訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93195-0

バッハの「ロ短調」で、最近「新バッハ全集」の「改訂版」が新しく出たことは、こちらでお伝えしてありました。スタディ・スコアが出版されたのが2010年、その時点では楽譜店には1954年に出版されたフリードリヒ・スメントの校訂による「旧版」もまだ置いてあったような記憶があります。品番が違っていても全く同じ装丁ですから、間違って「古い」方を買っていくお客さんがいないのか、心配になったものです。出版社(ベーレンライター)は、2009年まで「旧版」の増刷を行っていましたから、それをまず売り切ってから「改訂版」という目論見だったのでしょうか。
この「改訂版」の校訂を行ったのは、ウーヴェ・ヴォルフという人です。この楽譜が出てすぐ、同じ「ヴォルフ」さんが書いたこんな本が出たので、なんとタイミングの良いこと、と思ってしまいました。なんでも、「改訂版」では新しい方法で他の人が書き込んだ部分を特定しているのだとか、そんなミステリーのようなことをご本人が語っているのかな、と、迷わず買ってみました。元の出版社もベーレンライターですし。
ところが、こちらは「クリストフ」という、別のヴォルフさんだったではありませんか。「バッハのロ短調」などというマニアックなフィールドに、ヴォルフさんが二人もかかわっていたなんて、なんと紛らわしいことでしょう(スペルはちがいます)。しかし、ライプツィヒ・バッハ・アルヒーフ所長という、バッハ研究の最先端にある人の「ロ短調」談義は、まさに最先端の情報に満ちたもので、とても興味深く読むことが出来ました。
先ほどの「ウーヴェ・ヴォルフ」さんも、もちろんここには登場します。その部分は、新バッハ全集として最初に校訂作業が行われたのがこの「ロ短調」だったというあたりからその後の経緯まで、なんとも波乱に満ちた読み物となっています。タイトルを付けるとすれば、「バッハ研究の陰に隠れた、ある校訂楽譜の末路」でしょうか。
スメントが校訂を行った「旧版」の画期的なところは、それまでの「旧バッハ全集」のようにこの曲を1つのものとしては扱わず、それぞれに作られた年代が異なる「Missa」、「Symbolum Nicenum」、「Sanctus」、「Osanna, Benedictus, Agnus Dei et Dona nobis pacem」という4つの部分から成っているものだ、とみなした点でしょう。この「新説」は当時はセンセーショナルに受け取られました。たとえば1961年に録音されたカール・リヒターのLPボックスでは、この呼び名がタイトルとして大々的に表記され、もはや「ロ短調ミサ」という名称は時代遅れだということを強く印象づけていたものでした。

しかし、それから半世紀以上を経た現在では、このスメントの主張は全く顧みられなくなっていました。その後の詳細な資料の研究によって、そもそもそれぞれの部分の成立年代すら間違っていたことも明らかになりましたし。当然、「新バッハ全集」としては、さらに新しい校訂が必要になってくるのですが、それもままならないでいるうちに、他の出版社に先を越されてしまいます。今回の著者、クリストフ・ヴォルフによる1997年のペータース版と、ジョシュア・リフキンによる2006年のブライトコプフ版ですね。しかし、ベーレンライターが威信をかけてウーヴェ・ヴォルフに託した「新バッハ全集改訂版」は、「ここ数十年間に獲得された研究水準をはっきりと超えるもの」となったのです。今では、店頭からはスメントの「旧版」は姿を消しました。もうこんな所には住めん、と
作品の成り立ちから、その受容の歴史、さらには演奏する上で欠かすことの出来ない適切なアナリーゼと、これから「ロ短調」に何らかの形で関わろうとしている人にとっては、これはまさに必読書となるはずです。元の文章が堅苦しいのか、日本語訳が拙いのかは分かりませんが、文章があまりにもひどい「日本語」であることを除けば、これほど役に立つ本もありません。

Book Artwork © Shunjusha

2月15日

STRAVINSKY
l'Oiseau de feu
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 06


ロトと「レ・シエクル」の第3弾、ストラヴィンスキーの「火の鳥」です。バレエ・リュスのディアギレフから依頼を受けて作られた新作、「火の鳥」がパリのオペラ座で初演されたのは1910年の6月25日のことでしたが、ロトと彼のバンドは、それからちょうど100年後に、その時の「音」を再現しようとしていました。
かつては、ストラヴィンスキーは「現代作曲家」といわれていたものです。もちろん、彼の音楽は「現代音楽」という範疇で扱われていましたね。しかし、いつの間にかそれは「100年前」の音楽になっていました。なにしろ、1910年といえば、マーラーの最後の交響曲が作られていた時です。もはや、「同時代」という意味での「現代」の音楽では、決してあり得ない状況です。
それは、作曲技法の面だけではなく、演奏に用いられた楽器の面からも、21世紀初頭の「今」と「同時代」とは言えなくなっている点にも、注目すべきでしょう。確かに、管楽器などでは基本的なメカニズムは「今」と全く変わらないものが出来てはいましたが、細かいところでさまざまな「改良」が施された結果、100年前とは、姿は同じでも全く別の音を出す楽器に変わっているものもあるのですからね。いや、そんな「改良」は、今、この時点でも続けられています。楽器のメーカーでは、常に「より優れた」楽器をお客様に届けるために、日々研究を怠ることはないのですね。未だに「新製品」という名の下に、より大きな音が出て、表現の幅が拡がるような楽器が新たに作られ続けているのです。
前回のサン・サーンスのライナーには、ロトのバンドのメンバーが、それぞれの楽器を高く掲げてポーズを撮っている写真が掲載されていました。それを見ると、ほぼ全てのメンバーが「2種類」の楽器を持っています。中にはヴィオール、チェロ、ヴィオラと、3種類の楽器を抱えている人までいました。彼らは、まさにそれぞれの作曲家の「ピリオド」に合わせて楽器を用意していたのですね。確かに、サン・サーンスとストラヴィンスキーでは、使う楽器が違って当たり前、そんなことを実践している姿が端的にわかる写真でした。
今回のライナーでは、管楽器と打楽器の全ての奏者の楽器が、中には作られた年まできちんと表示されて載っています。それは、おそらくマニアが見たらよだれを垂らしそうな貴重なコレクションばかりなのではないでしょうか。よくぞ、これだけ集めたもの、と驚かされてしまいます。
ここで、チェレスタが「ミュステル」というのに、ぜひ反応して欲しいものです。東野圭吾じゃないですよ(それは「ミステリー」)。「今」のオーケストラが備品として持っている楽器は、同じチェレスタでもほとんどシードマイヤーか、ヘタをすればヤマハですから、ミュステルとは似ても似つかない鋭角的な音、もっと言えば、もはや「楽器」とは言えないような音になっています。
そんな、もはや「今」では失われてしまった音を持った楽器が、ここでは集められています。中には、フルートの頭部管だけがクレジットされているものもありますが、その頭部管の変化こそが、この1世紀の間での最大の違いなのです。確かに、それによってフルートは画期的に強靭な音が出るようにはなりましたが、それと引き換えにまろやかな音色を失っていたのです。
ですから、ここで聴くことのできる「火の鳥」は、「今」のオーケストラとは全く異なる肌触りで迫ってきます。ガット弦を使用した弦楽器の響きと、楽器本来の美点を優先させて設計された管楽器、そこに、まるでビロードのような音色のチェレスタが加われば、いかに野性的なオーケストレーションで攻められようが、体はいとも素直に受け入れたくなってしまいます。このCDを聴けば、あの頃の「現代音楽」は、決して人間としての感覚を無視したような作られ方はされてはいなかったのだ、と、だれしもが気づくのではないでしょうか。

CD Artwork © Actes Sud

2月4日

New Favourites
Modern Swedish masterworks for choir
Simon Phipps/
The Swedish Chamber Choir
MUSICA REDIVIVA/MRSACD-103(hybrid SACD)


北欧には素晴らしい合唱団がたくさんありますが、また一つ、お気に入りに加わったのがこの「スウェーデン室内合唱団」です。エリクソンが作った合唱団に似たような名前のものがありましたが、それとは全く関係のない、2007年に出来たばかりの、いわばニューカマーですね。あ、ニューハーフやオカマとは、これも全く関係がありませんからね。
一応、この名前になったのはそんな最近のことですが、それよりも10年近く前から、イギリスで生まれ、イギリスの合唱音楽の伝統をどっぷり身につけたのち、スウェーデンのイエテボリに移住した指揮者、サイモン・フィップスのもと、「サイモン・フィップス・ヴォーカル・アンサンブル」という名前の団体が活躍していました。それがリニューアルされて、今の名前の団体になったと言うことですね。すでに、「SPVE」の時代から、スウェーデンのFOOTPRINTレーベルに何枚かのCDを録音していましたが、今回は同じスウェーデンのMUSICA REDIVIVAから、SACDがリリースされました。これが、演奏、録音とも、とても素晴らしいものでした。
アルバムのコンセプトは、「スウェーデンの合唱音楽の60年を振り返る」といったもののようです。もちろん、それは厳格なものではなく、あくまで合唱団の今までの「お気に入り」の中で、聴衆のウケの良かったものを集めただけなのでしょうが、確かにここにはある一定の時間の中での作曲技法の変遷の跡がくっきりみられるような、「歴史」が、意図的に企んだわけではなくとも、はっきりと見えてきます。
例えば、1943年に作られたマルムスフォシュの「月影」と、1953年に作られたリードホルムの「4つの合唱曲」を比べれば、ロマンティックの名残を秘めていた時代が、いきなり「12音」の洗礼を受けて戸惑っている様子がくっきり分かってしまいます。
しかし、それは別に眉間に皺を寄せて講釈を聴く、といった堅苦しいものでは、もちろんありません。なんといっても、この合唱団の表現力はとてもすがすがしく、その曲のメッセージを受け取るために身構えたりすることは全く必要がないのですからね。完璧なハーモニーと、爽やかな音色に身を任せているだけで、音楽が一人で体のなかに入ってくるという、とても幸せな関係の作り方を、この合唱団はしっかり身につけているのでしょう。「12音」にしても、どこぞの合唱団のように力で押しまくったりしなくても、すんなり伝えるすべを会得しているのでしょうから、ここからは、うっとうしさとは無縁の、ひたすら心にしみる音楽が響き渡ります。
有名なサンドストレム(スヴェン・ダヴィッドの方)の、これもお馴染み、パーセルの未完のモテットの断片を再構築した「Hear my Prayer, O Lord」を、同じスウェーデンの「スウェーデン放送合唱団」の演奏と比べてみると、そんな「脱力感」は良く分かります。パーセルがこれほどまでに「滑らか」に「崩れて」いくなんて。
驚くべきことに、最後の3つのトラックでは、それまでとは全く異なる民族的な発声も披露してくれています。最後のレイクイストの「天の国」は、「キュールニング」という、遠くの山にまで届くような鋭い声の出し方まで取り入れられている作品ですが、そんな、ごく限られた人でなければ出せないような特殊なものを、メンバーは見事にものにしています。もちろん、SACDはそのインパクトを完璧に伝えてくれています。
このレーベル、プロデューサーは藤本ベルガー−里子という日本人なのですね。確かに、カタログにはBCJのオルガニスト、今井奈緒子さんのアルバムなどもありました。ですから、ブックレットには最初から日本語のテキストが印刷されています。これは感動的ですね。ただ、対訳で16曲目と18曲目が入れ替わってしまっているのが、ちょっと残念です。

SACD Artwork © Musica Rediviva

2月2日

SAINT-SAËNS
Symphonie No3 "Avec Orgue", Concerto pour Piano No4
Jean-François Heisser(Pf)
Daniel Roth(Org)
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 04


この前聴いた「幻想」が、録音は悪いわ、演奏はヘタだわといいところがなかったので、またあんな気持ちを味わわされるのは嫌だな、と、もうこの団体に近づくのはやめようと思ったのですが、ジャケットのアートワークが毎回素晴らしいので、つい手を出してしまいました。「いくら裏切られても、かわいいから許す」みたいな、情けない男心でしょうか。
いや、しかし、今回のアルバムはとても楽しめました。いったいあの「幻想」はなんだったのか、と思ってしまうほどの変わりようです。こんなこともあるので、「女」は油断出来ません(笑)
今回は、サン・サーンスの「交響曲第3番」(「オルガン付き」というサブタイトルは初めて見ました)と、「ピアノ協奏曲第4番」というカップリングです。それぞれ、交響曲は教会、協奏曲はオペラハウスと、別々の場所で行われたコンサートのライブ録音です。この団体のコンセプト通り、オーケストラの楽器は全てピリオド楽器なのは当然のことですが、交響曲に使われているオルガンが、会場のサン・シュルピス教会の1862年に作られたカヴァイエ・コル・オルガン、協奏曲のソロにも1874年に作られたエラール・ピアノが使われているという、まさにサン・サーンスの「同時代」の楽器なのには、嬉しくなってしまいます。ちなみに、オーケストラのメンバー表が掲載されていますが、それは名前だけでなんの楽器の奏者なのかは全く分からない、というのは不思議な話です。ま、これが次のアルバムになると、今度は担当楽器だけではなく、それぞれの奏者が使っているそれぞれの楽器の製作者や製造年まで入ってくるのですから、きちんと「学習」はしているようですが。
「交響曲」では、最初に弦楽器の透明な響きが明るく拡がっているのを聴いて、これはなにか期待してもいいのでは、と思ってしまいました。その期待は、最後まで裏切られることはありません。第1楽章の後半で、オルガンをバックに歌う弦楽器の、なんと美しいことでしょう。これこそが、まさに「ピュア・トーン」というべき響きなのだ、と思ってしまいます。某ノリントンは、この間までシェフを務めていたオーケストラでは、最後までこういう響きを作り出すことはできませんでした。それは、まさにピリオド楽器だからこそ、無理なく出せるものだったんでしょうね。さらに、ここでは細やかなフレージングが、涙さえ誘うほどの「味」を出しているのですからたまりません。
第2楽章の後半で登場するフル・オルガンには、度肝を抜かれてしまいました。ものすごい迫力なのに、その音色にはなんとも言えない鄙びたものがあるのですね。常々、このオルガンには、ただ華やかに盛り上げるだけの効果しかないような気がしていたのですが、これは全くそんなイメージを変えてしまうほどのものでした。オルガンが、しっかりサン・サーンスの雰囲気なんざーんす
この部分には、木管楽器の掛け合いが登場します。それも、良くある、ソリストの自己主張でそれぞれの腕を聴かせ合う、といったようなスタンド・プレイは全く見られず、管楽器セクション全体でちょっとした飾りを付けている、という感じの慎ましさが感じられるのが、非常に気持ちがいいものです。
教会ならではのものすごい残響は、曲が終わった時にははっきり分かるのですが、演奏中はそれが邪魔をして音が濁ったりすることがないというのも、録音の素晴らしいところです。
サン・サーンスの「ピアノ協奏曲」を、ピリオド・ピアノで演奏しているものなどは初めて聴きました。これもオルガンと同じことで、いかにも「19世紀」という雰囲気がムンムンの響きです。特にこの曲の最後の楽章の、まるで一本指でも弾けるような素朴なテーマが、D型スタインウェイなどの「モダンピアノ」で弾いたのでは、ぶち壊しになるな、という思いに駆られます。

CD Artwork © Actes Sud

1月31日

TAKANO
LigAlien
Nathan Nabb, 杉原真人(Sax)
池田昭子(Ob), Sharon Bezaly(Fl)
安田紀生子、木村まり(Vn)
Winston Choi(Pf),
南原和子(Hp), 丸田美紀(十七絃)
BIS/CD-1453


1960年生まれの作曲家、たかの舞俐さんの、BISレーベルからの2枚目のアルバムです。前作は彼女のポートレイトがジャケットを飾っていましたが、今回はブックレットの裏表紙に移っています。まるで別人のように見えるのは、髪型とメークのせいなのでしょう。
今回のアルバムタイトルは「LigAlien」という不思議な言葉です。彼女自身のライナーによれば、「Ligeti」と「Alien」を組み合わせた造語なのだとか、彼女の師である「リゲティ」の作曲技法の中に、自分の「エイリアン=外国人」としてのDNAをどのように組み入れていったらよいのか、といった、いわば彼女の根元的な問いかけを、作品に反映させたもの、というような感じでしょうか。ですから、発音は「リゲイリアン」となるのでしょうね。日本の代理店のインフォでは「リガリアン」となっていましたが、それはちょっとスルメが好きな甲殻類(ザリガニ)みたいで、馴染めません。
ただ、このアルバムに含まれる7つの作品の中で、最も長い、まるでメイン・プロのような扱いを受けている「フルート協奏曲」は、そのソリストのシャロン・ベザリーのSpellboundというアルバムのコンテンツとして、すでにリリースされていたものでした。せっかくのオリジナル・アルバムが、なんだかベスト・アルバムみたいになっていて、ちょっと嫌ですね。
師匠のリゲティは、彼女に自分の影響からは出来るだけ自由になって、彼女自身のスタイルを切り拓くように勧めていたのだそうです。それは、「今」の作曲家にとっては極めて重要なことなのではないのでしょうか。というより、彼らにとって、師の世代が築き上げてきた「現代音楽の伝統」などというものは、もはやなんの意味も持たないようになってしまっているはずです。先人が後生大事に伝えてきた「12音」やら「セリー」といった人工的な技法は、今となっては誰にも顧みられることのない「過去の遺物」と化しています。そんな中で、「クラシック音楽」を作って行くには、そんな先人の浅知恵など、なんの役にも立つはずはないのです。
今や、彼女はまさにそんな過去のしがらみからは「自由」になって、彼女自身の語法で音楽を発信し続けています。それは、決して小難しいものではない、おそらく多くの人に共感を与えられるような語り口です。思わず体が動き出してしまうような「ノリ」のよさ、それはもちろん「ジャズ」という概念と無関係ではないはずです。「クラシック」よりはもっぱら「ジャズ」での方が居心地が良い楽器、サクソフォンをフィーチャーした「LigAlien I」や「LigAlien IV」では、「ブギウギ」や「スウィング」といったジャズの語法が大活躍、堅苦しさとは無縁のインタープレイの魅力をふりまいています。
ピアノ・ソロのための「Jungibility」(これも、「Jungle」と「Ability」に由来する造語なのでしょう)などは、ほとんどフリー・ジャズの世界です。まるで山下洋輔の「グガン」でもを聴いているかのような爽快さにあふれた作品です。「ひじ打ち」のクラスターはでてきませんが。
アルバムの中で最も面白く聴けたのが、ヴァイオリンとエレクトロニクスのための「Full Moon」です。ソロ・ヴァイオリンを相手に、そのヴァイオリンの音源を加工した「電子音」などがからみます。もちろん、そこにはいにしえの「電子音楽」のような難解さは微塵もなく、リズミカルでカラフルな合成音の海を泳ぐ「生」ヴァイオリンの「かっこよさ」を存分に味わうことが出来ます。
そんな中で、「フルート協奏曲」を聴き直してみると、ベザリーのソロがたかのさんの世界とはちょっとズレているような気がしてしまいます。ベザリーの資質はかなり奔放なようでいて、それはあくまで「クラシック」の中にしか留まれていなかったことが、そんな違和感の原因なのかもしれません。

CD Artwork © BIS Records AB

1月29日

LLOID WEBBER
The Phantom of the Opera at the Royal Albert Hall
Ramin Karimloo(Phantom)
Sierra Bogges(Christine)
Hadley Fraser(Raoul)
Anthony Inglis(Cond)
UNIVERSAL/GNXF-1418(BD)


1986年に初演されたアンドリュー・ロイド・ウェッバーのミュージカル「オペラ座の怪人」は、昨年25周年を迎えました。それを記念して201110月1日と2日に開催されたのが、この「25周年記念公演」です。ただし、それは単に今まで世界中の劇場で延々と続けられていた公演とは一線を画す、とてつもないスケールを持ったものでした。まず、会場には、普通のミュージカル用の劇場ではなく、ロイヤル・アルバート・ホールという、あのBBCの「プロムス」でおなじみの巨大なコンサートホールが使われています。スタッフは学生ばかり(それは「アルバイト・ホール」)。収容人員7000人という比類のないキャパ、もともとコンサートのためのステージしかなかったものを逆手にとって、ホール全体を使っての演出が取り入れられ、出演者も通常の3倍に増やされています。さらに、すでにオペラの世界では日常的に用いられるようになった「ライブ・ビューイング」の手法によって、リアルタイムにヨーロッパやアメリカの劇場や映画館でスクリーン上に公演の模様を再現していたのです。
もちろん、この映像素材は、日本の映画館でも昨年末から大都市での上映が始まり、今でも地方都市での上演が続いています。その素材がついにBD化、この画期的なステージの模様が「お茶の間」で楽しめるようになりました。なんでも、映画館で使われたデータはコマ数を変換する時のトラブルで、音声に欠陥があったそうですが、BDではそんなことはありませんから、もしかしたら映画館よりも「良い音」で楽しめるようになっているのかもしれません。
とは言っても、やはり映像はいくら大画面モニターであっても、映画館のスクリーンとはスケールが違うのでしょうね。最初の頃は、ホール全体のアングルでは細かいところが分からず、いったい、そこで何が行われているのか的確には把握できない状態が、しばらく続いてしまいました。しかし、次第にカメラワークに慣れてくれば、その仕組みは次第にはっきりとしてきて、そこに注がれているエネルギーがいかにハンパではないことを思い知ることになるのです。
まずは、オーケストラ。このホールにはオーケストラ・ピットはありませんから、ステージの後の一段高くなったところに配置されています。出演者は、ステージの前にあるモニターで、指揮者を見ることになります。総勢45人ほどの小ぶりの編成(弦のプルト数は4-2.5-2-2-1.5)ですが、劇場のピットでのしょぼいオケに比べたら、格段に深い響きです。弦楽器はいかにもしっとりと聴こえてきますし、なによりも「序曲」などではこのホールに備え付けのオルガンが加わるのですから、そのサウンドはまさに「本物」の重厚さを持つものでした。
そして、コンサートホールを劇場に変えてしまうマジックをかなえたのが、ロック・コンサートなどでおなじみのLEDスクリーンでした。クリスティーヌがファントムに連れられてやってくる地下の湖のシーンでは、劇場と同じように床から燭台がせり出してくるのを、このスクリーンによって体験することが出来ます。背景を瞬時に変えられるのですから、場面転換も極めてスムーズに運んでいました。
そんなお膳立ての上での、劇場と同じ繊細さを持った演技や歌は、感動的でした。キャストたちはすべてハイレベルの人たちばかり、中でもファントム役のカリムルーの声の多彩さには、圧倒されてしまいます。
一応「お祭り」ですので、アンコールでは25年前のオリジナル・キャストが登場して歌うというオマケがついていました。なんとも皮肉なことですが、彼(彼女)らの「芸」によって、この作品は25年をかけてまさに「オペラ」を超えるほどのとてつもないクオリティを築き上げていたことが実証されていたのです。ほんと、OCCDを聴き直してみると、マイケル・クロフォードのファントムなどはまるでシロートです。

BD Artwork © Universal Studios

1月27日

ORFF
Carmina Burana
S. Saturová(Sop), B. Bruns(Ten), D. Köninger(Bar)
Martin Grubinger & The Percussive Planet Ensemble
Fernan & Ferzan Önder(Pfs)
Rolf Beck/
Schleswig-Holstein Festival Chor Lübeck
SONY/88697 99511 2


オルフの「カルミナ・ブラーナ」の2台ピアノと打楽器バージョンは、ほんの数ヶ月前に出たばかりでした。こんな珍品は一つあれば充分、なにも無理して新しいのを買うこともないな、と思うのが、庶民の感情でしょう。しかし、変わったバージョン好きとしては、とても見過ごすことは出来ません。たとえ無駄でもとりあえず手に入れる、それが好事家というものです。
ところが、聴いてみてびっくり、演奏は素晴らしいし、録音は良いし、こんなに手放しで嬉しくなってしまうCDなんて久しぶりでした。
このバージョン、今までに4種類ぐらいのものに接してきましたが、今回もそれらと同じ、オルフの弟子のキルマイヤーが編曲した楽譜が使われています。しかし、冒頭の「O Fortuna」が聴こえてきた瞬間、もしかしたら他の人がアレンジしたものなのではないか、という気になってしまいました。それほどまでに、同じ楽譜でも聴こえかたが違っていたのですよね。まず、ピアノの高音がとてもはっきりしているので、コードさえ違って感じられます。そして、なんといっても打楽器の存在感がハンパではありません。このあたりは楽譜を見ると他のものとなにも変わっていないのに、この、マルティン・グルービンガーをリーダーとする打楽器のチームは、その楽譜からとことん「熱い」インパクトを産み出しているのですね。それは、「クラシック」のオーケストラに取り込まれてお上品に収まっている「楽器」ではなく、それらの楽器が元々持っていたそれぞれの民族の「力」までをも一緒に抱え込んで発散させている、むき出しの「パーカッション」そのものだったのです。
さらに、彼らは必要とあらば楽譜には書かれていないことまでも実行しています。オリジナルでは2本のフルートが美しいオブリガートを奏でるソプラノ・ソロのナンバー「In trutina」では、最後にタムタムが入ってその余韻を楽しませてくれますし、最後の最後、「O Fortuna」のリプリーズのエンディングでは、グラン・カッサは楽譜のように頭に一発叩くのではなく、ティンパニと同じようにロールで打ち続け、とてつもないクレッシェンドをかけています(もちろん、1曲目ではそんなことはやっていません)。グラン・カッサ一つで作りだしたふつうのオーケストラ以上の高揚感。これには、文句なしに打ちのめされてしまいます。
ピアノ・パートのエンダー姉妹も負けず劣らずアグレッシブ、至るところでハッとさせられるようなフレーズに気づかせてくれます。かと思うと、とてもソフトな音色で(録音のせいもあるのでしょう)味わい深く迫ってくるのですから、たまりません。バリトン・ソロが甘くレシタティーヴォを歌う「Omnia sol temperat」では、歌い出しに続くアコードを、やはり意識的にアルペジオにしています。これが、まるで「シェエラザード」のヴァイオリン・ソロに寄り添うハープのように聴こえてきますよ。
そのバリトンのケニンガーは、まさに出色の出来、声はあくまで滑らかでまるでビロードのよう、これを聴いて心がとろとろにならないオナゴなどはいないのではないでしょうか。テノールのブルーンスも、良く響くテノール声域と、伸びのあるカウンター・テナー声域を使い分けて、ただ1曲の持ち歌を完璧に歌い上げています。ソプラノのシャトゥロヴァーは、ちょっと不安定な所はありますが、強靱な声は魅力的です。
合唱は、何も言うことはありません。今まで数多くの「カルミナ・ブラーナ」を聴いてきましたが、その中で間違いなく上位にランキングさせるものだと言うだけで、その素晴らしさは伝わることでしょう。久しぶりに巡り会えた全ての面で満足のいく「カルミナ」、ただ一つの不満は、大人たちに負けずにこの名演の一翼を担っている児童合唱団の名前がクレジットされていないことだけです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

1月25日

Duets II
Tony Bennett
COLUMBIA/88697 66253 2


巷で大評判のトニー・ベネットの最新アルバムを聴いてみました。去年85歳というとんでもない年になって作られたこのアルバムは、なんとBILLBOARDのアルバム・チャートで初登場1位を獲得したというのですから、すごいものです。芸歴の長いベネット自身にとっても、これが初めての「1位」だというのですから、感慨もひとしおでしょう。
実は、この5年前、2006年に彼が80歳になった時に、記念に作られたアルバムが「Duets/An American Classic」でした。タイトルの通り、彼がこれまでに歌ってきたスタンダード・ナンバーを、今をときめく人気アーティストと一緒に「デュエット」した、というもので、これもかなりの評判になったものです。せっかくだからと、こちらもついでに聴いてみたのですが、確かに素晴らしいアルバムでした。何より、ベネット本人の声がとても80歳とは思えないような力強いものでした。リズムやピッチには寸分の乱れもありませんし、高音で張った声も堂々たるものです。ですから、それにからむ歌手たちは、自分の個性を出す前に、まずこの声に圧倒されて、ほとんど「先生と生徒」みたいな歌い方になっているのですから、すごいです。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンといったロック畑の人が、そんな感じでかしこまって歌っているのがおかしくて。かと思うと、スティービー・ワンダーなどとは、まさに「真剣勝負」といった緊張感あふれるやりとりが聴かれたりしますから、とことん中身の濃いアルバムでしたね。

それから5年、彼の歌は全く衰えてはいませんでした。いや、声の張りなどは、前作以上かもしれませんよ。さらに、サウンド的にも格段にパワーアップしたものが聴かれます。前作ではあまり使われていなかったビッグ・バンドのアレンジが、前面に押し出されているのですね。そんなキレのいいサウンドに乗って、まず登場したのがレディー・ガガです。うすうす気づいてはいたのですが、彼女は本当に歌が上手なんですね(いや、「歌手」なんだから歌がうまいのは当たり前なのかもしれませんが、なんせ○任谷由美が、歌が歌えなくても歌手になれることを証明してしまったものですから)。声が素晴らしいのはもちろんですが、ここではベネットと対等に渡り合えるほどのジャズ的なセンスも披露してくれています。年の差60歳の軽妙なデュエット、これは素敵です。
別の意味で素敵な味を出していたのが、こちらは80歳に手が届こうかというウィリー・ネルソンです。カントリーのフィールドでありながら、ベネットとはなんの違和感もなく溶け合っている彼のだみ声は、まさに「重ねた年輪」が感じられるものでした。おまけに、とことん渋いギター・ソロまで聴かせてもらえますよ。
ベネットは、どんな人が相手でも、常にリラックスしながら楽しんで歌っているようでした。豪華ですね(それは「デラックス」)。おそらく、あまりリハーサルなどは行わないで、その場の「ノリ」を重視したような作られ方なのでしょう。間に「今度は、君の番だよ」みたいなセリフまでが、極めて「音楽的」に入っているのですから、たまりませんね。
ただ、中には「なんでこんな人が」というのがいないわけではありません。その筆頭がアンドレア・ボチェッリ。まさに「水と油」を絵に描いたような唐突さには、笑ってしまいます。同じクラシック指向でも、ジョシュ・グローバンはなんなく馴染んでいるというのに。
前作のプロデューサー、大御所のフィル・ラモーンとともに、ここではベネットの息子、ディー・ベネットが、エンジニア兼任でプロデュースも行っています。彼の手によって、ほぼフルサイズのオーケストラによるストリングスのサウンドが、とても華麗で上品に仕上がっています。それは、前回のベルリン・フィルの弦楽器など比較にならないほどの美しさです。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

おとといのおやぢに会える、か。


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