シャワー便座。.... 佐久間學

(12/1/5-12/1/23)

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1月23日

Tchaikovsky
Symphonies Nos. 4,5 & 6
Herbert von Karajan/
Berlin Philharmonic Orchestra
EMI/TOGE-12050-52(hybrid SACD)


EMIジャパン(いずれはこの社名も変わっていくのでしょうね)が、日本国内だけに向けて制作している「名盤」のSACDは、最初のリリース分を聴いた時には本当に感激したものでした。さすがは、自社で保有しているおおもとのマスターテープまでさかのぼってマスタリングを行っただけのことはある、と思わせられるだけの、それはとてつもないクオリティを持っていたのですからね。
そして、次のリリースの予定に、このカラヤンのチャイコフスキーを見つけた時には、これはなんとしても聴いてみなければ、と思ったものです。カラヤンはこれらの曲をたびたび録音していましたが、これは1971年にDGではなくEMIに録音したものです。かつてFMでこのレコードの中の「悲愴」を聴いた時に、その圧倒的なドライブ感に圧倒された思いがあったのと、3曲中2曲でゴールウェイが録音に参加していることが分かっていたので、それをじっくり「マスターテープの音」で聴いてみたかったのですね。
ゴールウェイが乗っているのは4番と5番だというのは、幸せなことでした。それは、このチャイコフスキーの後期の3曲の交響曲では、4番がもっともフルートが活躍しているからです。それに比べたら、5番や6番は全然つまらないものです。いや、音楽的に、ということではなく、あくまでもフルートパートに限って、ということですが。
その4番では、まさにゴールウェイのフルートが堪能できました。彼が入ってくると、木管パート全体の輝きが、ワンランク上がるのが良く分かります。そして、ソロではカラヤンをも差し置いて、とても自由に吹いていることも。例えば、クラリネットが付点音符で奏でるメランコリックなテーマで始まる、第1楽章の第2主題、そのフレーズの最後のスケールの音型を模倣する時に、ゴールウェイはそれまでの流れを断ち切るように「早め」に入ってくるのですね。まるで、それまでのソロがあまりにもったりしているのにしびれを切らして、「もっと早く!」と言っているように思えてしまいます。
いや、考えてみれば、こういう風に合いの手を「早めに」入れる、というのは、カラヤンの常套手段だったはず、ですからここでは、ゴールウェイはカラヤンに向かって「あんたはいつもこうやっていたんじゃないのかい?」と言っていたのかもしれませんね。
しかし、肝心の音は、今まで聴いてきた他のSACDと比べたら全くの期待はずれでした。SACDらしい生々しさが、全く感じられないのですね。と言うか、マスターテープの段階で音がすっかり飽和してしまっていて、それはいくら他のメディアに移してもどうしようもない録音のように感じられてしまうのですよ。ちょっと見、とても華やかで輝かしい響きなのですが、ある程度の音圧を越えるとそれがとても醜く感じられてしまうのですね。そう、まさに「醜女の厚化粧」そのものの許し難い音だったのです(「酋長の厚化粧」なら許せますが)。こういう音は、FM放送などではとても強いインパクトをもたらすはず、もしかしたら、昔はそれに圧倒されていただけなのかもしれません。
これは、常々EMIでのカラヤンの録音を聴いた時に感じていたことでした。1970年代の前半に、カラヤンとベルリン・フィルは、それまでの「専属」だったDGだけではなく、EMIでも録音を始めます。その時のプロデューサーが悪名高いミシェル・グロッツです。グロッツとエレクトローラ(ドイツのEMI)のエンジニア、ヴォルフガング・ギューリッヒというチームは、この安っぽい音でカラヤンを大いに満足させるのです。カラヤンのお気に入りのグロッツは後にDGの録音でもディレクターに収まったため、彼の趣味で1980年代以降のカラヤンの録音は、全て薄っぺらな音になってしまいました。
グロッツはすでに2年前に他界しています。SACDによってよりはっきりした彼の「罪」は、もはや誰にも糾弾されることはありません。

SACD Artwork © EMI Music Japan Inc.

1月21日

FAVRE
Requiem
Bénédicte Tauran(Sop), Kismara Pessatti(MS)
Michael Laurenz Müller(Ten), Lisandro Abadie(Bar)
Facundo Agudin/
Ensemble Vocal d'Erguël, Lyrica Neuchâtel,
Opus Choeur de Chambre, OSJ Symphonic.net
DORON/DRC 2008


ピアニストとしても知られている1955年生まれのスイスの作曲家、クリスティアン・ファヴルの「レクイエム」です。2010年3月に行われた初演の模様のライブ録音なのでしょう。ライナーには「1010年」とありますが、そんな昔にステレオ録音が出来たはずはありませんから、それはもちろん単なるミスプリントなのでしょうね。
「スイスの現代の作曲家」というシリーズのCD、指揮者はなぜかアルゼンチンのファクンド・アグディンですが、オーケストラや合唱はスイスの団体です。全く初めて聴くところばかりですが、このオーケストラの名前がちょっと気になります。「OSJ Symphonic.net」という、まるでウェブサイトのドメイン名みたいな「ドット・ネット」が最後に付いているのが、なんだかユニーク、確かに、このオーケストラのURLは「http://www.osjsymphonic.net」なのですが。そもそも「OSJ」というのは大阪のテーマパーク(それは「USJ」)ではなく「Orchestre Symphonique du Jura」の略称なのだそうで、そうなると「Symphonic」がダブってますね。いや、そんなことよりも「Jura」という「Jurassic」にも通じるお馴染みの単語にびっくりです。「ジュラシック交響楽団」ですよ。とても他人とは思えません。
もちろん、こちらは太古の恐竜の化石がたくさん発見された「ジュラ山脈」という、スイスとフランスの国境にそびえている連峰から取った名前なのですがね。このオーケストラは、バーゼルや、合唱団の名前にもあるヌシャテルといった、ジュラ山脈の麓の都市を中心に活躍している団体だったのです。
病気のために亡くなった作曲家の兄のために作られたという、この最新の「レクイエム」のテキストは、モーツァルトのような伝統的なテキストから「Offertorium」が省かれています。「Sequenz」は全部使われていますが、モーツァルトとは曲の切れ目が異なっているので、ちょっとまごつくかもしれません。ソリスト4人に混声合唱というのはモーツァルトと同じですが、オーケストラの管楽器はもっと増えていますし、ハープやピアノも入っています。その分、オルガンはありません。
というような比較は、200年以上もの隔たりがある音楽には、なんの意味もありません。こちらは、モーツァルトの時代には存在していなかった「無調音楽」というなんとも中途半端なものを経験してしまった作曲家が、未だにその呪縛から逃れられずにいるのに、あえて、今の時代ではほとんど復権を果たした「ロマンティック」な音楽をめざそうとしている姿勢を明らかにしたかった、という、えらく屈折した音楽なのですからね。
おそらく、作曲家はリズムに特徴を持たせることで、「ロマンティック」な味付けを達成させようとしたのでしょう、「Requiem aeternam」では、かなり複雑なリズムで迫ってきます。それが、もしかしたら指揮者のキャラなのかもしれませんが、あたかもラテン音楽のようなノリの良さをもっているものですから、なんとも居心地の悪い「無調」のフレーズが飛び交っても、さほど気にはならなくなっています。続く「Kyrie」などは、まるで「スケルツォ」といったおもむき、同じように「無調」にエンタテインメント性を持たせることに成功したあのレナード・バーンスタインのようなテイストさえ感じられるものでした。
そんな風に、概して変拍子やポリリズムを駆使してダイナミックにたたみかける部分では、それほどの違和感はないのですが、次第に「無調」が正体をあらわしてくると、もういけません。なんの意味も見いだせない旋律線からは、重苦しい閉塞感が募るばかりです。3つの団体が集まった合唱も、かなり精度の低い演奏ですし。
この「レクイエム」は、この作曲技法が、もはや「現代」ではなんの意味も持っていないことを明らかにした、いわば「無調」を悼むための「レクイエム」だったのかもしれません。

CD Artwork © Doron Music

1月19日

Besides Feldman
Patrick Pulsinger(Syn)
Pamelia Kurstin(Theremin)
Hilary Jeffery(Tb)
Rozemarie Heggen(Cb)
COL LEGNO/WWE 1CD 20298


いかにも「現代音楽」といった面白いアルバムを出してくれるので、この「コル・レーニョ」というレーベルには楽しませてもらっています。このレーベル名は、松島の名産(それは「こうれん」)ではなく、弓をひっくり返して木の部分で演奏するという、あの特別な弦楽器の奏法に由来しているのだそうです。ベルリオーズの「幻想交響曲」の最後の楽章で、気持ちの悪い音を出すために使われるのが有名ですね。その様に、かつて誰かが発想を転換させて弦楽器のサウンドの幅を広げたのと同じように、このレーベルも既成概念にこだわらないクリエーターによって作られた、よりパワフルな音楽を提供していきたいのだそうです。
そういう意味では、このアルバムなどはまさに「パワフル」そのものなのではないでしょうか。ドイツの「前衛」作曲家、パトリック・プルジンガーが、他の3人の音楽家と一緒に行った2010年の「ウィーン・モデルン」での演奏のライブ録音、なんでもこのレーベルのプロデューサーがこの演奏を聴いて、即座にCDを作ることを決めたという強いインパクトを持ったものです。
かつての「前衛」が頼ったのが、エレクトロニクスです。今ではシンセサイザーという便利なものがありますから、ここでプルジンガーもそれを縦横に駆使しています。そこで安直なプリセットものは使わず、あえて手のかかるモジュラー・タイプを選んだあたりが、「前衛」の誇り、でしょうか。そこに、もう1台、「テルミン」が加わります、しかし、これを操るパメリア・カースティンは、クララ・ロックモアが拓いたこの電子楽器のリリカルな地平からは遙か遠くの場所に立っているように思えます。正直、最初のうちはどれがテルミンの音なのか分からないほど、それは「テルミンらしくない」姿をさらしていました。
さらに、ヒラリー・ジェフリーのトロンボーンと、ロゼマリー・ヘッゲンのコントラバスという生楽器が加わります。もちろん、こんな仲間とやり合うのですから、楽器本来のまともな奏法などはなんの役にも立ちません。管楽器はミュートを付けたりマウスピースだけで演奏したり、弦楽器もハーモニクスで囁くような音を出したりと、こちらも聴いただけではなんの楽器だか分からないような響きが、適度な緊張感を誘います。
そんな4人のセッションで出来上がった作品、タイトルでは「フェルドマン以外の」といっていることとは裏腹に、そのアメリカの作曲家の音楽がもたらすのと同質の浮遊感が全体を支配しているようです。7つのパートが連続して「演奏」されていますが、それぞれには「Timeless Floating Music」とか「Patterns Not Loops」といった、即物的なタイトルが付けられているのが面白いところ、お陰で、下手な先入観を与えられることはなく、その、まさに漂う様な音楽に身を任すことが出来ます。
さまざまなアイディアが登場しますが、中でも存在感を誇っているのが、先ほどのテルミンです。実は以前、この楽器の現代における名工、ロバート・モーグのドキュメンタリーの中で、テルミンからまるでベースのピチカートのような音を出して驚かせてくれた女性が登場していたのですが、それがこのカースティンその人だったのですね。作品の前半では、彼女が作り出す重低音のパルスに全体が支配されているような印象すらありました。その低音の音圧はものすごいもので、まるでスピーカーが壊れそうな迫力です。マスタリングまでプルジンガーが手がけているようですから、そんな破壊的な音場までが計算されているのでしょうね。
かと思うと、後半にはアコースティック・ベースに導かれて、まるでジャズのセッションのようなまったりとした風景が登場します。もちろん、ソロを取るのはトロンボーンですが、今度はテルミンがそれを模倣してフレーズのやりとりを始めましたよ。
とても懐の深い音楽を味わったな、という満足感に包まれたアルバムでした。

CD Artwork © col legno Produktions

1月17日

Brilliant Flute
Walter Auer(Fl)
長尾洋史(Pf)
LIVE NOTES/WWCC-7665


毎年お正月にウィーンからの生中継で放送されるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは、もはや日本のお茶の間には欠かせない催しとなっているようです。以前はちょっとマニアックなBSで放送されていたものが、最近は地デジ、しかも時間帯はゴールデン・タイムですから、普段「クラシック」などには無関心の人でも、これだけは「年に一度のぜいたく」として見ているのかも知れません。
そんな晴れがましいコンサートで、今年フルートのトップを吹いていたのが、ウィーン・フィルのフルートパートの中ではもっとも若いこのワルター・アウアーでした(その次に若かったギュンター・フォーグルマイヤーは、1月11日に亡くなってしまいました。ご冥福をお祈りします)。ついに重鎮のヴォルフガング・シュルツも引退しましたから、これからは彼の時代になっていくでしょうか。確かに、オケの中で聴くともう一人の「首席」ディーター・フルーリーよりはずっと輝かしい音のようでした。
そんな、オーケストラの中では着実に実績を上げているアウアーの、これはソリストとしてのデビュー・アルバムとなります。制作したのは日本のレーベルというあたりが、最近の録音事情を物語っているようですが、さらに今回の場合は、実際にプロデュースを行ったのは彼が使っている楽器のメーカー、そんな「付加価値」でもないことには、こんな「大物」でもCDを作るのが難しいような時代なのでしょうか。録音されたのは2008年、なぜリリースまでにこんなに時間がかかったのかも、それなりの「事情」があったのでしょうね。
曲目は、モダン・フルーティストとしての意気込みを前面に出したものでした。それは、フルートの技巧を極限まで駆使して、まさに「ブリリアント」な世界を築き上げるという、正直「音楽」よりは「テクニック」を、もっぱらフルートを学ぶ人たちに対してアピールする、といったようなものばかりのように感じられます。ただ、最初と最後に、それぞれワーグナーとビゼーのオペラをモチーフにした作品を持ってきたあたりが、オペラハウスでの演奏が本業のオーケストラのメンバーとしての彼の「こだわり」だったのかもしれません。
冒頭を飾る、そのワーグナーの「ローエングリン」を、ブリッチャルディが華麗な「ファンタジー」に仕立てたものは、初めて聴きました。ヴェルディなどではこの手のものは良くありますが、まさかワーグナーでもこんなパラフレーズが出来るとは、思ってもみませんでしたよ。確かに「結婚行進曲」や「エルザの夢」などは、当時はキャッチーに思えたのでしょう。そのテーマをグロテスクなまでにフルートの細かい音符で飾り立てたという、ただそれだけの曲です。
彼の曲ではもう一つ、「ヴェニスの謝肉祭」も聴くことが出来ます。なんといってもゴールウェイのイメージが拭いきれないものにとっては、技巧はともかく高音のほんのちょっとした「逃げ」が物足りなく感じられてしまいます。それは、あるいは、残響が少し邪魔をしている鈍い録音のせいなのかもしれませんが。
クーラウの「ファンタジー」という無伴奏の曲は、フルートを吹く人の間だけでは有名な割には、録音はほとんどありませんでしたから、「参考演奏」として何よりの贈り物です。いや、技巧の影からさりげなく顔を出すちょっと小粋なフレージングなどは、ただ「参考」にするだけでは惜しいものがあります。
最後のボルヌの「カルメン幻想曲」まで嬉々として聴き通せたとしたら、それはとてもフルートが好きなことの証しになることでしょう。でも、ふつうの「クラシック」ファンにとっては、ちょっと退屈してしまうアルバムなのかもしれません。

CD Artwork © Nami Records Co., Ltd.

1月15日

ザ・ビートルズ・サウンド
最後の真実<新装版>
ジェフ・エメリック著
奥田祐士訳
白夜書房刊
ISBN978-4-86191-556-7

イギリスのレコーディング・エンジニア、ジェフ・エメリックが、ライターのハワード・マッセイの協力のもとに2005年に出版した「Here, There and Everywhere-My Life Recording the Music of THE BEATLES」という彼の自伝は、邦題がこんな陳腐になった日本語版が2006年に出版されています。その後、2009年に、この本の中で主に語られているアーティストのデジタル・リマスターCDの発売に合わせてこの<新装版>が出版されました。
この本が出た時には、全く何の興味もありませんでした。それこそ、ジョージ・マーティンが1979年に「All You Need Is Ears」という自伝を書いて以来幾度となく繰り返された同じような「内幕本」の出版となんら変わるものではないのだ、と。
しかし、つい最近、さる大型書店にあったこの本を手にとって、少し立ち読みを始めた途端、これが出た時に読まなかったことを心底後悔してしまいました。これは、伝聞ではなく、すべて著者自身の体験したことを書きとどめたもの、いわば、もはやほとんど「歴史」と化した「ザ・ビートルズ」に関する、まさに膨大な「一次資料」ではありませんか。さっそくその場で購入、遅まきながらのご紹介です。
ジェフ・エメリックというカレーの好きな(それは「ターメリック」)人は、子供のころからレコーディング・エンジニアになりたいという夢を持っていて、それを実現するために15歳の時にEMIに入社、その後、「ザ・ビートルズ」の中期から後期のレコーディングにエンジニアとして参加することになります。その最大の功績は、名盤とだれしもが認める「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」での革命的な音づくりでしょう。彼は、バンドのメンバーのわがままな要請にこたえるべく、あらゆる手段を使って今までになかったような録音のテクニックを編み出します。それぞれの曲について、こまごましたレコーディングの模様を逐一、まさに見てきたかのように克明に教えてくれるのですから、たまりません。実は、このあたりのことはさっきのジョージ・マーティンの本にも書かれてはいました。しかし、それはなんともお座なりな書き方で、実際に現場で苦労していた様子などはほとんど感じられないだけでなく、中にはエメリックがやったことをさも自分が考え出したような書き方をしているところもあり、今となっては「資料」としての価値すらないものです。
ここで初めて知ったのですが、イギリスで最初に発売されたレコードでは、最後の「A Day in the Life」のコーダで、オーケストラのクラスターに続いてピアノ数台のアコードが鳴らされ、それが減衰していって、完全に無音になったあとで唐突に始まる人の声を、LPの溝の最もレーベル寄りの針が止まる部分にカッティングしたのだそうですね。そうすれば、これは完全にループとなって針を上げるまで延々と続くことになります。でも、国内盤のLPでは、ごく普通に最後に1回だけ「声」が入っているだけでした。とても、そんな面倒くさいカッティングなど、やってられなかったのでしょう。それが、CDでは同じことを何度も繰り返して最後はフェイド・アウトになっています。彼らの「ジョーク」が、CD時代になってやっと誰でも聴けるようになったのですね。
ここで語られる、バンドのメンバーに対する彼の評価も、興味があります。最初のころは全くのダメ人間だったジョージ・ハリスンが、「Abbey Road」の頃には見違えるように成長したと感じるあたりは、とても説得力にあふれています。そのアルバムの有名なジャケット写真は、様々なショットの中から「スタジオから逃げ出している」方向のものを選んだのだそうです。このアルバムの成功を受けて、1970年代にそれまでの「EMI Recording Studios」から「Abbey Road Studios」と名前を変え、観光名所にまでなったこのスタジオを、本当は彼らは毛嫌いしていたのですね。それがなぜかは、この本を読むと容易に分かります。

Book Artwork © Byakuya-Shobo Co., Ltd.

1月13日

BOCCHERINI
Chamber Music with Flute & Oboe
Gergely Ittzés(Fl)
László Hadady(Ob)
Márta Ábrahm(Vn)
Péter Bársony(Va)
Ditta Rohmann(Vc)
HUNGAROTON/HCD 32695


ハンガリーの若いフルーティスト、ゲルゲイ・イッツェーシュの新しいアルバムです。日本酒が好きなんでしょうね(それは「一級酒」)。「若い」とは言っても、1969年生まれですから、もうすでに40代前半、どちらかというともはや「中堅」の域に達しているのでしょう。イシュトヴァン・マトゥスと、オーレル・ニコレから多くのものを学んだということですから、その演奏に対する姿勢はなんだか想像できてしまいます。あくまで音楽に真摯に立ち向かい、フルート以外のレパートリーも貪欲に演奏、そして現代作品なども積極的に取り上げる、といった感じなのでしょうか。さらに、マトゥスなどは自作も演奏していましたが、イッツェーシュの10枚ほどのディスコグラフィーにも、彼自身の作品を演奏したものがありました。
今回取り上げていたのは、ボッケリーニです。例の「メヌエット」だけが突出して有名な作曲家ですが、その他の何百曲もある作品はあまり演奏されることはありません。フルートが加わった作品もいくつかありますが、実際に手元には1枚のCDしかありませんでした。

Auser Musiciという団体が演奏しているそのCDHYPERION/CDA67646)では、「作品19」という6曲のフルート五重奏曲を聴くことが出来ます。これは、弦楽四重奏にフルートが加わったという編成になっていて、そこでのフルートはもっぱらアンサンブルの一員としてのあまり目立たないような役割しか与えられてはいないような印象がありました。この編成の作品は、その他にも何セット(当時は、6曲まとめて出版される習慣がありました)かあるようですね。
しかし、ここでイッツェーシュたちが演奏しているのは、ボッケリーニの作品表では見つけることの出来ない、「フルート四重奏曲」という、モーツァルトでお馴染みの弦楽四重奏のファースト・ヴァイオリンがフルートに置き換わった編成のものです。一応この曲に付けられている「G.260」という、イヴ・ジェラールによる作品番号を頼りに探してみると、それは「弦楽四重奏」であることが分かりました。しかも、これはボッケリーニ以外の人が彼の名前で出版したもののようでした(「作品5」となっていますが、これはボッケリーニの場合はヴァイオリン・ソナタです)。つまり、ここでは「偽作」を「編曲」したものが演奏されているのですね。
このCDには「世界初録音」という表記があります。確かに、その様なものであれば、ここで演奏されたものは初めての録音になるのでしょう。それならそれできちんと表記すればいいものを、なんだかフェアではないような気がしてしまいます。というか、イッツェーシュ自身のライナーノーツは、これがボッケリーニの作品であるという前提で書かれているようですので、そもそも偽作や編曲という認識がないようなのですね。こういうことは、ニコレの教えに背くのでは。
でもまあ、ここは言葉通りに受け取って、「初めて」録音されたというフルートと弦楽器のための四重奏曲と、フルート、オーボエと弦楽器のための五重奏曲(これも、おそらく偽作)を楽しむことにしましょうか。
ここでフルーティストは、彼のサンキョウの銀製のフルートに、いつも使っている金製の頭部管ではなく、木製の頭部管をつないでいます。そこから生まれる柔らかい響きは、確かにこの時代の雰囲気を存分に再現しています。特に、はかなげな低音と、彼の他の演奏を聴いたことがないので確証はないのですが、バロック風の「表現のため」のビブラートが、なんとも言えない味を出しています。なかでも、ゆっくりとした楽章での彼のフルートは、ほとんど涙を誘うほどの強烈な情感が伝わってくるものでした。もちろん、早い楽章での目の覚めるような鮮やかなパッセージも素晴らしいものです。それは、「真作」と信じていたからこそ生まれたテンションなのでしょう。

CD Artwork © Hungaroton Records Ltd.

1月11日

BACH/TAKAHASHI
The (Electronic)Art of the Fugue
高橋悠治(Syn)
DENON/COCO-73258


先日のゴールウェイのテレマンと同じ時期に、こんな懐かしいアイテムがリリースされていました。1975年のLPCD化です。もっとも、CD自体は1991年に出ていたのですが、その時には気づかずに、お値段がお安くなってからの今回のリイシューでめでたくゲットです。
この頃の悠治は、開発されたばかりの「デジタル録音」を駆使して、DENONレーベルにバッハを始めとした多くのレパートリーを立て続けに録音していました。「ノイズのないクリアな音」というのが売り物だったはずですが、確かにメリハリのきいたシャープな音でした。ただ、もちろんその頃はまだCDはありませんでしたから、LPのサーフェス・ノイズなどが邪魔をしていて、完全に「ノイズがない」というわけにはいきませんでしたけれど。
ですから、市場にCDが出回って、このような初期のデジタル録音の音源がCD化された時には、大きな期待を持ったものです。ところが、実際に聴いてみるとその音はそれほど良くはないのですね。一番がっかりしたのは、1977年に、悠治とロバート・エイトケンが共演して録音された福島和夫の作品集です。その中に入っているフルート・ソロの作品「冥」などは、なんとも薄っぺらな音で、LPでは確かに聴けたはずの息づかいが、まるで伝わってこなかったのですよ。
今になれば、その原因はいくつか思い浮かべることが出来ます。まずは、マスタリングの技術が確立されていなかったこと。このCDも、後に再発された時にはいくらかマシな音になっていましたね。しかし、もっと大きな要因は、初期のDENONCDとのスペックの違いです。ご存じのように、CDではサンプリング周波数が44.1kHz、量子化ビット数が16bitという規格が定められていますが、同じ「デジタル」でもDENONの場合は1977年の時点では47.25kHz/14bit、さらに、もう少し前だと47.25kHz/13bitでしたから、「CD以下」のスペックだったのですよ。もちろん、それは今にして思えば「アナログ以下」ということになるのですがね。
この「フーガの(電子)技法」は、バッハの「フーガの技法」をシンセサイザーで演奏したものです。使われている「楽器は」、ワルター(ウェンディ)・カーロスや冨田勲がメインで使っていたモーグのモジュラー・シンセサイザーと、当時は「現代作曲家」の間ではなぜか好まれていた「EMS」という、こちらは今のノート・パソコンのように畳んで持ち運びの出来るシンセです。もちろん、この頃はまだ「デジタル」のシンセは出来ていませんでしたから、音色やエンヴェロープを決めるのも結構アバウト、さらに、どちらの機種も単音しか出せませんから、マルチトラックで音を重ねていって、多声部の音楽を作らなければなりません。
そして、今とは決定的に違っていたのが、シークエンサーがなかったことです。いや、沖縄のジュース(それは「シークワーサー」)ではなく長いフレーズを入力する機材のことですが、それがまだ使えませんから、キーボードを「手で」弾いてリアルタイムで入力しなければいけなかったのですよ。隔世の感がありますね。
ここではもちろん悠治がその「入力」を行っているのですが、それがかなりいいかげんなのですね。「コントラプンクトゥスVIII」あたりでは、各声部の縦の線がもうメチャメチャ、「フーガ」の体をなしていません。この頃のシンセはピッチも不安定でしたが、その管理も行き届いてはいなかったようで、「完成度」としては、カーロスのSwitched-On Bachの足許にも及ばないものなのです。
このアルバムは、そんな時代の、この「楽器」を使ってなにか新しい体験はできないかと模索していた音楽家の軌跡、として聴くべきものなのでしょう。幸いにも、これはデジタル録音には馴染まないものでしたから、アナログのマスターテープとして残っていました。そこからは、そんなあがきまでもが、生々しい電子音を通して伝わってくるはずです。

CD Artwork © Nippon Columbia Co., Ltd.

1月9日

The Flute King
Music from the Court of Frederick the Great
Emmanuel Pahud(Fl)
Trever Pinnock(Cem)
Matthew Truscott(Vn), Jonathan Manson(Vc)
Kammerakademie Potsdam
EMI/0 84220 2


ベルリン・フィルという「世界一」のオーケストラの首席奏者なのですから、パユのことを「世界一」のフルーティストと言っても おかしくはないのかもしれません(「ブラウはどうなのか」と突っ込まれると微妙ですが)。だから、このジャケットを見て下さい。本人は図に乗ってとうとう「フルートの王様」になってしまいましたよ。というわけではありませんが、本物の「王様」で、フルートを吹くばかりではなく、自らもフルート曲を作ってしまったという人がいましたから、そのコスプレ、ですね。
その「王様」とは、18世紀プロイセンの啓蒙専制君主フィリードリッヒ・ヴィルヘルム二世、いわゆる「フリードリッヒ大王」です。宴会では飲み放題(それは「フリードリンク」)。この「大王」が生まれたのが1712年ですから、今年は生誕300年という記念すべき年になります。このCDのリリースは去年のことでしたが、もちろん、今年に向けてのお祝いの意味が込められているのでしょう。もっとも、服装はこんな感じでも、使っている楽器はこんなに長い金製のものではなく、もうちょっと小振りの木製ですがね。
なにしろ、その頃の大王の宮殿(サン・スーシー)には、クヴァンツやエマニュエル・バッハなど、そうそうたる音楽家が集まっていましたから、「大王」ゆかりの作品を集めてアルバムを作ることなど造作もありません。ここでは、とうとうお祝いの気持ちが昂じて2枚組になってしまいました。1枚は協奏曲、そしてもう1枚は室内楽とソロという、とても充実した内容です。装丁も、ずっしり重いフォトアルバム仕様、中には50ページにも及ぶ解説本が収められています。
とは言っても、それは同じことを英独仏の三カ国語で書いたからそんなに厚くなってしまっただけで、実質はその三分の一しかありません。パユの書き下ろしによる気合いの入った原稿は読み応えがありますが、ふつうのブックレットには必ず載るはずの演奏家のプロフィールが一切ないというのが、ちょっと物足りない、というか、無駄に分厚いものを作ってしまったな、という気がします。
なにしろ、1枚目の協奏曲で登場する「ポツダム・カンマーアカデミー」に関する情報が、ここからは全く得られないものですから、困ってしまいます。そもそも、この団体の公式サイトでのディスコグラフィーでは、しっかり「指揮:トレヴァー・ピノック」となっているのに、ここではチェンバロ奏者としてのクレジットしかないのですからね。というのも、この協奏曲を聴いてみると、とても指揮者なしで演奏しているとは思えないような恣意的な表現だらけなものですから、とてもピノックはチェンバロだけで収まっているわけはないと思えてしまうのですよ。
そんな、ちょっと「やかましい」オケをバックに、パユは、いつものこの時代の曲を演奏する時の彼のスタイル(ビブラートを抑えて音を伸ばさない)でいともあっさり吹いていますから、なんとも居心地が良くありません。さらに、このオケはもちろんモダン楽器の団体ですが、その音がとてもモダンとは思えないような雑な音色なのですね。エンジニアが悪いのか、あえてそんな乱暴な音を要求したのかは分かりませんが、正直、これを聴き通すにはかなりの忍耐が必要です。
もう1枚の方にはそんな乱暴なオケは入っていませんから、気楽にこの時代の音楽に浸ることが出来ます。「大王」が与えたテーマを元に「大バッハ」が作ったトリオ・ソナタなどは、まさに極上の「癒し」を与えてくれるものでした。「大王」自身が作ったロ短調のフルート・ソナタも、技巧的なパッセージを軽々とクリアして華やかな世界を見せてくれています。
そんな中で、フルートだけで演奏されるエマニュエル・バッハのイ短調のソナタは、サロン的な軽さを全く見せない、ある意味「深さ」を追求した演奏に仕上がっています。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

1月7日

BEETHOVEN
Symphonies nos. 2&3
Jan Willem de Vriend/
The Netherlands Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72532(hybrid SACD)


デ・フリエントとネーデルランド交響楽団とのベートーヴェン・ツィクルス、4集目は「2番」と「3番」のカップリングですが、収録時間がCDのマキシマムをほんのちょっとオーバーしたために、2枚組になってしまいました。シングル・レイヤーのSACDだったら難なく入ったものを。ふつうベートーヴェンの交響曲だったらCD5枚で収まるものを、たった1分かそこらの「はみ出し」だけで6枚になってしまったのですから、ずいぶん無駄なことをやっているような気がしてしまいます。
しかし、もしかしたらデ・フリエントのことですから、この「2番と3番」というカップリングに特にこだわりを持っていたのではないでしょうか。前回の「7番と8番」では、地味だと思われていた「8番」を「7番」と組み合わせることに、確かな意味を持たせていたではありませんか。ましてや、この「2番」と「3番」との間には作曲技法上に格段の「進歩」が見られるというのは多くの人が認めるところです。あえて2枚組にしてまでもこの組み合わせにこだわったのには、必ずや深い考えがあってのことに違いありません。
先に、「進歩」後の「3番」から聴いてみましょう。いつもの通りのピリオド・アプローチが徹底された演奏で、ノン・ビブラートの弦楽器とおそらくピストンやヴァルブのない金管楽器が、ほとんどピリオド楽器によるオーケストラのような小気味よいサウンドを醸し出しています。第2楽章の「葬送行進曲」などは、普通の重苦しい演奏とは一線を画した、まさに「行進曲」という部分を思いっきり強調した颯爽とした仕上がりになっています。
ただ、フィナーレにはちょっとした問題がありました。一連のデ・フリエントのツィクルスは、以前書いたように「デル・マー版を使用」しているように思っていたのですが、ここではデル・マーの見解とは全く異なる演奏が登場しています。トゥッティの序奏が終わって、テーマが現れる時に、最初はピチカートで演奏していた弦楽器が、木管楽器の合いの手が入ったところをアルコで演奏しているのであるこ。確かに、楽譜を見ると、八分音符で書かれていたテーマはそこだけ四分音符になっているのですね。ですから、その違いを出すためにそこをアルコにするというのは、昔から指揮者の裁量で時折行われていたことでした(最近では、シャイーがその様に演奏しています)。しかし、デル・マーは校訂報告の中で、「ベートーヴェンは、書く時間を節約するために八分音符+八分休符のつもりで四分音符を書くことがあった」として、ここはアルコで演奏する意味はないことを明記しています(スコアをお持ちの方は、17小節と25小節を比べてみて下さい。17小節の1拍目だけをアルコで演奏する人はいません)。
そして、「2番」を聴きましょう。「3番」に比べると格段に穏やかな音楽が広がります。なにか、すんなり入って行ける「優しさ」があちこちに漂っているのですね。特に気持ちいいのが第2楽章。ノン・ビブラートの弦楽器による流れるようなテーマは、心底ほっとできるものでした。こんな素敵な、まるでシューベルトのようなメロディを、ベートーヴェンは書けていたのですね。これこそが、「2番」と「3番」との間に横たわっていた大きな「境目」だったのでしょう。これを聴いてしまうと、「3番」の各楽章のテーマの、なんと魅力に乏しいことでしょう。そもそも第1楽章のテーマなどはモーツァルトのパクリですしね。
「3番」以降、ベートーヴェンは曲の構成などではとてつもない「進歩」を遂げることになります。しかし、総じて「2番」の第2楽章のような優しいメロディは影を潜めて行くように感じられます。「葬送行進曲」を軽やかに演奏しつつ、そんなことを気づかせてくれたのが、このカップリングでのデ・フリエントだというのは、あまりにうがった見方でしょうか。

SACD Artwork © Challenge Classics

1月5日

Across the Sea
Chinese-American Flute Concertos
Sharon Bezaly(Fl)
Lan Shui/
Singapore Symphony Orchestra
BIS/CD-1739


アメリカで活躍している3人の中国系作曲家のフルートとオーケストラのための作品を集めたアルバムです。もちろん、フルートを演奏しているのはシャロン・ベザリーです。これは一応新譜ではあるのですが、収録されている4曲のうちの2曲はすでにリリースされていたもの、そして今回の「新曲」も録音されたのは2008年という「大昔」ですから、あまり気合いが入っていないように思えてしまいます。何よりも、最近の彼女のアルバムはほとんどSACDだったのに、これはふつうのCDです。もしかしたら、この中で一番古い録音が2000年のものですから、それがSACDの「ハイレゾ」に対応できなかったせいかな、とも思ったのですが、録音機材はGENEXGX8000、今ではもう見かけないMOレコーダーですが、しっかり24bit/96kHzのスペックを持ったものでした。ですから、その音源をDSDに変換しても問題はないはずです。となると、もはや彼女がこのレーベルで「特別扱い」されることがなくなった、ということなのでしょうか。
実際に、以前SeascapesというタイトルのSACDに入っていたジョウ・ロン(周龍)の「The Deep, Deep Sea」という2004年の作品を、今回のCDと聴き比べてみると、その違いは歴然としています。ピッコロやヴァイオリンの質感が全く別物なのですね。
そういえば、最近のBISのクレジットには、ロベルト・フォン・バールの名前は見あたらなくなっています。そのことと、今回の扱いとは、なにか関係があるのでしょうか。彼女の「ファン」としては、とても気になるところです。
ジョウ・ロンの作品はもう一つ、2008年に作られた「Five Elements」。「木火土金水」という、中国の五行思想に登場する5つの元素を、演奏効果を上げるために「金、木、水、火、土」と並び替えて、それぞれを音で描写するという分かりやすい曲です。間に入っている「木」と「火」が激しい曲想として対比を作っています。「金」では、文字通りさまざまな金属打楽器が煌びやかな世界を演出していますが、これをSACDで聴いたらな、さぞや「金!」という感じがしたことでしょう。CDではブリキのおもちゃみたいにしか聴こえませんから。ここでベザリーは、フルート、ピッコロ、アルトフルートと3種の楽器を使い分けてそれぞれの情景を描ききっています。こういう音楽だったら、彼女の変なクセも全く気になりません。まさに、彼女の超絶技巧に酔いしれるばかりです。「水」のカデンツァなどは、圧巻ですよ。
2000年に録音され、作曲家の名前のタイトルのアルバム(CD-1122)に収められていたのは、その前年に作られたブライト・シェン(盛宗亮)の「Flute Moon」でという2つの部分に分かれた作品です。最初の部分はピッコロがフィーチャーされ、まるで「ゴジラ」のテーマのようなバーバリズム満載の音楽になっています。ごじらは、タイトルが「Chi-Lin's Dance」、中国の架空の怪獣「麒麟」がモチーフになっています。なんでも、「麒」は雄で「麟」は雌なんだそうですね。ですから、ここではオーケストラが「雄」、ピッコロが「雌」を演じているのだそうです。
それとは対照的にフルートとオーケストラによるリリカルな後半が「Flute Moon」。これは、12世紀頃の中国の詩人が作ったメロディが元になっているそうで、いかにもなチャイニーズ趣味がふんだんに味わえます。
最後の曲、チェン・イ(陳怡)の「The Golden Flute」は、アルバムの中では最も聴き応えのある作品なのではないでしょうか。そもそも、作曲家はフルートに中国古来の管楽器のような音色や奏法を要求したということですから、フルーティストにとっても真剣勝負、とても高い次元での「融合」が実現しています。しかし、やはり求められるテクニックはハンパではありませんでした。さすがのベザリーでも明らかにてこずっているな、と思えるところがあちこちに。それが言いようのないインパクトを生んでいるのですから、作曲家の目論見はまんまと成功したことになります。

CD Artwork © BIS Records AB

おとといのおやぢに会える、か。


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