菓子折り付き。.... 佐久間學

(12/2/14-12/3/4)

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3月4日

Helden
Klaus Florian Vogt(Ten)
Peter Schneider/
Orchester der Deutschen Oper Berlin
SONY/88697988642


リヒャルト・ワーグナーの曾孫であるカタリーナ・ワーグナーが、30歳になったばかりという若さでバイロイト音楽祭のトップに座ったことで、この音楽祭もずいぶん変わったものになりました。それまでは、タキシードやイブニング・ドレスに身を包んだ人たちが、まさに「聖地」に「詣でる」といった、ある種特権階級のためのもののようなイメージがあったものですが、今ではなんと街中の広場に巨大モニターが設置され、この「聖堂」の模様が短パンやタンクトップ(もしかしたらトップレス)姿で誰でも見られるようになっているのですからね。
さらに、インターネットや衛星中継でHD映像を同時生中継などという、まさに夢のようなことまで行われるようになりました。昨年のその「生中継」の演目は、奇しくもその44年前の「世界初衛星生中継」の時と同じ「ローエングリン」でした。しかし、もちろん演出はヴォルフガング・ワーグナーのものから、鬼才、ハンス・ノイエンフェルスのものへと変わっていました。その、ネズミの大群やら胎児などが登場するグロテスクなプロダクションでタイトル・ロールを務めていたのが、クラウス・フローリアン・フォークトです。彼は、そんな刺激的な舞台の中で、全世界に向けて刺激とは無縁の甘い歌声をノーテンキに垂れ流していたのです。いや、その声は別にノイエンフェルスの舞台でなくとも、そもそもワーグナーを歌うテノールには必ず求められるキャラクターを、完璧に欠いていたのです。
フォークトの声を初めて聴いたのは数年前、「大地の歌」のCDでした。それは、まさに衝撃的な出会いでした。いえ、別にその声の素晴らしさに驚いたわけではなく、こんな声の人がワーグナーの「ヘルデン・テノール」として、高い評価を受けていることを知ってしまったからです。その時は、本気で冗談ではないかと思ったものです。この人の声には、これまで聴いて来た「ヘルデン」とされている他のテノール、たとえば往年のジェス・トーマスやヴォルフガング・ヴィントガッセン、最近だとサイモン・オニールやヨナス・カウフマンなどに共通している「力強さ」がまるでないのですね。共鳴のポイントがもっと高いところにあって、半分ファルセットが混じっているような、声の質としてはワーグナーで言えばローゲやダーヴィッドのような「軽さ」が全面に出ているものなのです。そんな役を得意としていたペーター・シュライヤーを、さらにナヨナヨにした声、いや、もっと似た声を探すとすれば、あのアンドレア・ボチェッリあたりかもしれませんよ。あのぽっちゃりしたボチェッリがローエングリンを歌う姿なんて、想像できますか?そんなおぞましいことを実現してしまったのが、フォークトなのですよ。絶対、なにかが間違っています。
ただ、世の中にはこんなローエングリンを絶賛する人も、なぜか存在するのですね。そして、ついに「ヘルデン」などという恐ろしいタイトルのこんなソロアルバムまで出てしまいました。まさに「怖いもの見たさ」で聴いてみましたよ。
確かに、ここにはとても「美しい」ワーグナーがありました。大好きな「Winterstürme wichen dem Wonnenmond」などは、そのとろけるような甘さについ心が奪われてしまいそうになります。しかし、その美しさの中には、同時にはかなさも感じられてしまいました。確かにワーグナーの作品に「はかなさ」は欠かせませんが、ここにあったのはそれとは微妙に異なる、なんとも薄っぺらな「はかなさ」だったのですね。それは、同じアルバムの中のコルンゴルトの「死の都」あたりではかろうじて通用するものかもしれませんが、ワーグナーでは決して通用することのないものであることを、このアルバムは見事に証明してくれています。
フォークトのことを「ヘルデン」だなどと思いこんでいる人たちが、いつかは目が覚めることはあるのでしょうか。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

3月2日

STRAVINSKY
The Firebird
Andrew Litton/
Bergen Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-1874(hybrid SACD)


リットンとノルウェーのオーケストラ、ベルゲン・フィルとのストラヴィンスキー第2弾です。前作の「春の祭典」と「ペトルーシュカ」では、全くノーマークだったこのチームの演奏の素晴らしさと、それを支えるとびきり凄い録音に圧倒されてしまいましたが、今回も期待を裏切らない仕上がりになっています。
録音は相変わらずの素晴らしさ、まさにSACDでなければ出せないような味があちこちで満載なのですが、録音機材のクレジットで今までには見られなかった項目がありました。それは「オリジナル・フォーマット」というものです。確かに、SACDそのものは「DSD」というフォーマットで再生されるようになっていますが、最初の録音がDSDであるとは限りません。というか、大半のものはDSDではなく「PCM」という昔ながらのフォーマットで録音されているのですね。元がアナログの磁気テープの場合も、最初にPCMに変換してから、さらにDSDに変換する、ということも行われています。ただ、昔と違うのは、解像度(レゾリューション)が格段に高くなった「ハイ・レゾリューション」(略して「ハイレゾ」)のフォーマットになっているということです。過激なヘンタイじゃないですよ(それは「ハイマゾ」)。CDで採用されたフォーマットは「16bit/44.1kHz」でしたが、今では最高で「32bit/192kHz」までの超高解像度が現実のものとなっています。スペック的には、24bit/96kHzPCMが、DSDとほぼ同等の解像度だと言われていますから、オリジナルの録音がどの程度の解像度のフォーマットで行われたかを知れば、別の再生ツール(ブルーレイオーディオでは、24bit/192kHzのフォーマットに対応していますし、ネット配信でもハイレゾのソースは入手できます)によってSACD以上の音を楽しめる可能性を知ることも出来るのです。
しかし、ここで掲載されている「オリジナル・フォーマット」は、なんと「24bit/44.1kHz」というものでした。確かにビット・レートはCDより上がっていますが、サンプリング周波数は同じ、つまり、ダイナミック・レンジは広くはなっても、周波数特性は変わらない(おおざっぱな言い方ですが)ということになりますね。ところが、その様に数字だけでは判断できないのがオーディオの世界です。CDのマスタリングの現場に立ち会ったことがあるのですが、出来たばかりのデータをCDに焼いたサンプルの音は、それまでモニターしていた音とは全く違った、ワンランク下がったものだったのです。エンジニアはこともなげに「それが当たり前です」と言っていました。つまり、1枚何十万円もするようなガラスCDあたりではきちんとフォーマット通りの音が出るのかもしれませんが、普通のCDではそこまで行かないということなのでしょうね。
ですから、オリジナル・フォーマットがCD並みであっても、SACDでは余裕を持って、聴覚上はスペック以上の音を再生することが出来るのでしょう。現に、このSACDでも、ところどころでCDレイヤーと比較してみましたが、その差は歴然たるものでした。
いつもながらの渋い音色のオーケストラは、いたずらに煽り立てることなく、ストラヴィンスキー(もちろん全曲版)をしっとりと味わわせてくれています。最後近く、「カッチェイの死」に続く「深い闇」の部分の細かく分割された弦楽器の響きには、思わず背筋が凍り付くはずです。
カップリングとして、ストラヴィンスキーが他の作曲家の作品を編曲したものが収められています。そこでは、彼とディアギレフとの最初のコラボレーションであった「ショパニアーナ」の、今では演奏されることのないバージョンが聴けるのがありがたいことです。「ノクターン変イ長調」はべったり甘く、「華麗な大円舞曲」は不気味に迫ってきます。「ペトルーシュカ」や「春の祭典」を初演したピエール・モントゥーの80歳の誕生日のお祝いに作った「グリーティング・プレリュード」には、思わず大爆笑です。

SACD Artwork c BIS Records AB

2月29日

KNECHT
Orchesterwerke und Arien
Sarah Wegener(Sop)
Frieder Bernius/
Hofkapelle Stuttgart
CARUS/83.228


あのモーツァルトが生まれる4年前、1752年に南ドイツの街ビーベラッハに生まれ、シュトゥットガルトの宮廷楽長なども務めたという作曲家/オルガニスト/音楽学者のユスティン・ハインリヒ・クネヒトは、今ではすっかり忘れ去られてしまっているかに見えますが、ある一つの事柄によってその名前だけはかろうじて音楽史の片隅にとどまっています。それは、「ベートーヴェンが交響曲第6番『田園』を作った時に、参考にした曲がある。それがクネヒトの『田園交響曲』だ」というものです。
確かに、昔、柴田南雄さんの曲目解説でその様なことを読んだ憶えがありました。ですから、それほど「有名」な曲ならば今の時代ですから、すでに誰か録音しているのではないかと思っていたのですが、実はこのベルニウスの録音が「世界初」だというのですから、ちょっとびっくりしてしまいました。柴田さんのものだけではなく、この「俗説」はかなり広範にお目にかかれるものなのですが、それを書いた人たちは誰一人としてこの曲の「音」は聴かずに、それを語っていたのですね。そういうのを「請け売り」と言います。ゴーヤじゃないですよ(それは「ニガウリ」)。
もっとも、文字情報だけは流布していたようです。このCDのブックレットにもある出版譜の表紙がそうです。

これを見ると、どこにも「田園交響曲」などという名前はないことが分かります。正式なタイトルは「自然の音楽的描写、または大交響曲」というものです。その下に楽器編成が書いてありますが、もちろんこれはいやしくも「交響曲」なのですから、弦楽器は複数用意しなければいけません。これを見て「『交響曲』とは言っても、弦楽四重奏に管楽器が加わったもの」などと言っているのは、業界の習慣を知らない人です。
そして、そのさらに下にあるのが、テキストによる楽章ごとの「描写」です。こんな感じ。
  1. 美しい田舎、そこでは太陽は輝き、優しい東風はそよぎ、谷間に小川は流れ、鳥がさえずる。急流は音を立てて流れ落ち、羊飼いは笛を吹き、羊たちは跳びはね、羊飼いの女が美しい声で歌を歌う。
  2. 突然空が暗くなり、あたりの自然は不安に息をのむ。黒い雲が集まり、風が吹き始め、遠くでは雷鳴がとどろき、嵐がゆっくりと近づいてくる。
  3. 嵐は全ての力で襲いかかり、風はごうごうとうなり、雨は叩きつけ、木々の先端は音を立て、急流の水は轟音をあげながら溢れかえる。
  4. 嵐は次第におさまり、雲は消え、空は晴れ渡る。
  5. 自然は喜びに満ち、天に向かって声を張り上げる。それは、創造主への心からの感謝を捧げる甘く心地よい歌だ。
確かに、これだけ見るとベートーヴェンの「田園」とよく似ていますね。楽章も5つ。ただ、ベートーヴェンの第3楽章(農民の愉快な集い)に相当するテキストがありませんね。
実際に「音」を聴いてみると、これはまさにこの時代、つまりモーツァルトの同時代の音楽にどっぷり浸かっているものでした。後半に出てくる嵐の描写にしても、ただにぎやかなだけで、もしかしたら「お祭り」の描写だと言われても信用する人がいるかも知れないほどです。それよりも驚いたのは、和やかこの上ない第1楽章の途中で、ハイドンの「四季」で最初に現れる合唱「Komm, holder Lenz!」そっくりのメロディが現れることです。この交響曲は1783年に作られ、1785年に出版されていますが、ハイドンがウィーンで「四季」を初演したのは1801年のことなのですよね。まあ、それこそハイドンもこのテキストと同じような音楽を作ったわけですから、同じ時代にあっては同じメロディになるのもありかな、という、シンプルなものなのですがね。
ベートーヴェンが交響曲を作るにあたって、このプランを借用したぐらいのことはあるかもしれませんが、音楽の作られ方は全く別のもの、そもそも時代様式が全然異なっていますからね。こちらの「嵐」は、もっとリアリティのあるものだったはず。

CD Artwork © Carus-Verlag

2月27日

BACH
St. John Passion
Derek Chester(Ev)
Douglas Williams(Jes)
Simon Carrington/
Yale Schola Cantorum
Yale Collegium Players(by Robert Mealy)
REZOUND/RZCD-5017-18


なんたって「版マニア」ですから、「ヨハネ」の第2稿などがひょっこり見つかったりすれば、多少古いものでも紹介したくなってしまうのは、自然の性です。古いとはいっても、録音されたのは2006年ですが、リリースは2008年ですから、まだまだ「新譜」の範疇ですし。
演奏団体はまったく初めての名前ですが、それもそのはず、ここで歌っている「エール・スコラ・カントルム」というアメリカの合唱団は、2003年に作られたばかりなのですね。ここを創設して、その指揮を行っているのが、サイモン・キャリントンです。と言ってもご存じのない方もいらっしゃるかもしれませんね。○ンコみたいな形をした甘いお菓子じゃないですよ(それは「カリントウ」)。彼はあの有名なイギリスのヴォーカル・グループ、「キングズ・シンガーズ」のオリジナル・メンバーの一人です。パートはバリトン、背が高く、いかにも「イギリス紳士」といった風貌の持ち主でしたね。彼はいつの間にかアメリカに渡って、エール大学音楽院の教授になっていたのですね。作曲家、指揮者として成功しているボブ・チルコットやビル・アイヴスなどに続いて、やはり「シンガーズ」のOBが合唱界で活躍している姿をCDで聴くことができる機会が訪れました。
この合唱団は、「1750年以前と、最近の100年間」の音楽を演奏するために作られたものなのだそうです。つまり、バロック以前と(いわゆる)現代音楽をレパートリーにしているのでしょう。「クラシック」と「ロマン」をすっぽり抜いた、というあたりが、なかなか潔いところです。メンバーは24人、エール大学の学生の中からオーディションで選抜されています。写真を見るとアジア系の顔も見られます。
そもそもアメリカの団体による「ヨハネ」自体が珍しいのに伴奏しているアンサンブルはピリオド楽器、しかも、もっと珍しい「第2稿」の全曲盤(この前のファン・デア・メール盤のように、一部で別の稿が使われていることはないようです)、という珍しいものづくしのCDということになります。
珍しいといえば、これはニューヘイヴンとニューヨークの全く別の教会で行われたコンサートのライブを、それぞれ別のエンジニアが録音したものを編集したという変則的なものです。どちらかのテイクがメインで、問題のある箇所を別のテイクに差し替えたのでしょうが、それは見事な編集が行われていて、どこが別の録音なのかは絶対に分かりません。それにしても、この教会のお客さんのやかましいこと。
そんな行儀の悪い聴衆の前だからでしょうか、この演奏はなにか集中力の欠けた散漫なもののように感じられます。何よりも、合唱と楽器とがあまり寄り添っているようには聴こえてこないのですね。クレジットには、コンサートマスターがわざわざ「ディレクター」と書かれています。もしかしたら、アンサンブルはこの人にお任せで、キャリントンはもっぱら合唱の指揮に専念、といった感じだったのでしょうか。コラールなどは、きちんと自分のやりたいように、かなり特徴的なフレージングで雄弁な音楽を伝えてくれていますが、レシタティーヴォの中の合唱が、時折空回りしているように感じられるのが残念です。
ソリストたちは、どうもあまり調子が良くなかったようですね。エヴァンゲリストのチェスターはとても伸びのある声なのですが、低い音域ではコントロールが決まりませんし、他のソリストもことごとくライブならではの醜態をさらしています。合唱も、最後の「Ruht wohl」あたりになると、もう息も絶え絶えという感じです。長丁場は辛いですね。
ただ、続く最後のコラールのあとに、なぜか「バッハの時代の習慣にのっとって」ア・カペラの合唱で歌われた16世紀スロベニアの作曲家ヤーコブ・ハンドルのモテットが、とても清楚で和むものでした。ちょっとバッハでは荷が重かったこの合唱団の本領発揮だったのかもしれません。

CD Artwork © Loft Recordings

2月24日

LANCINO
Requiem
Heidi Grant Murphy(Sop), Nora Gubisch(MS)
Stuart Skelton(Ten), Nicolas Courjal(Bas)
Eliahu Inbal/
Choeur de Radio France(by Matthias Brauer)
Orchestre Philharmonique de Radio France
NAXOS/8.572771


ティエリー・ランシーノという、1954年生まれのフランスの作曲家が、2009年に完成した最新の「レクイエム」です。もちろん、これが世界初録音らしいのお。ラジオ・フランスなどの団体から委嘱を受けた時には、「レクイエムの伝統を一新するようなものを作ってくれ」と言われたそうなのですが、果たしてそんな注文通りのものは出来上がったのでしょうか。
まず、最近の「レクイエム」と言えば、前世紀のブリテンがあの駄作で拓いたような、昔からあるラテン語のテキスト以外の歌詞を持つ音楽を挿入するという作り方が広く行われているような印象を受けますが、この作品でもやはり同じような手が使われています。やはり、「現代」における「レクイエム」の意義を考えた時には、単にカトリックの宗教行事にとどまるだけでは許されないのでは、という意識が働くのでしょうね。
しかし、この作品の場合、その「別のテキスト」の割合がそれほど多くなく、きっちりと「伝統的」な「レクイエム」のスタイルが保たれているのには、なにか安心できるものがありました。気持ちは分かりますが、テキストはあまりいじらないで、音楽で勝負して欲しいな、というのは、この手の作品を聴く時にいつも感じていたことですからね。
ランシーノの場合、その「音楽で勝負」というところが、かなり徹底しているような印象が与えられます。まず、最初に、パスカル・キニャールによるフランス語の歌詞で「Prologue」が演奏されますが、その始まりがバスドラム、タムタム、チューブラー・ベル(+α)という打楽器だけで13回のパルスを叩く、という斬新なアイディアであることに、まず軽い衝撃をおぼえてしまいます。これなら、なにか期待しても良いのではないか、とね。そんな期待に違わず、そこにはまるでペンデレツキの「ルカ受難曲」のような風景が拡がっているではありませんか。メゾ・ソプラノのグビッシュが、ほとんど「語り」のようなものを重々しくわめき続けるのも、まさにそんな景色の登場人物のあるべき姿です。もちろん、オーケストラには打楽器の喧噪でしっかり「アヴァン・ギャルド」を演出して頂きましょう。
合唱が入って、通常文のテキストの部分になると、今度はクラスターによるポリフォニーの登場です。これなどは、リゲティの「レクイエム」の世界ですね。もちろん、ランシーノはリゲティのアグレッシブな混沌の精神はしっかり受け継ぎながらも、「現代」の聴衆に向けての微調整には余念がありません。それが、紙一重のところで「換骨奪胎」という概念の少し前にとどまっているというあたりが、すごいですね。
ですから、「Lacrimosa」で、とても深い男声合唱のクラスターをバックに、ソリストたちがいともリリカルな「歌」を奏で始めたとしても、驚くことはありません。それも、決して「媚び」にはならないだけの逞しさを備え持ったものなのですからね。
Sanctus」になると、さまざまな打楽器を軽やかにブレンドしたオーケストレーションからは、まさに「武満サウンド」そのものの、耳慣れた響きが感じられるようになるはずです。そのあまりに露骨な模倣には、一瞬この作曲家への信頼を失いかけますが、これはリゲティ同様、偉大な過去の作曲家へのオマージュだと思えば、それほど気にはならなくなります。要は、結果です。
つまり、ア・カペラの女声合唱で始まる「Agnus Dei」があまりに美しいものですから、いくらこれがリゲティの「ルクス・エテルナ」を下敷きにしたものだと分かっていても、つい許せてしまうのでしょう。最後の「Dona eis requiem」は、「F」の単音が伸ばされて曲が終わります。そこからほのかに五次倍音の「A」が聴こえてくるのを感じると、人は、「音楽」が全てのもの「許して」いることを悟るのです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月22日

BACH
Johannes Passion the 1725 version
Machteld Baumans(Sop), Maarten Engeltjes(Alt)
Marcel Beekman(Ten), Mattijs van de Woerd(Bas)
Frans Fiselier(Jesu), Nico van der Meel(Ev, Dir)
The La Furia Ensemble
Concerto d'Amsterdam
QUINTONE/Q 08001


QUINTONEという、おせち料理みたいな名前(それは「きんとん」)の聞いたこともないオランダのレーベルから、バッハの「ヨハネ受難曲」の第2稿が出ていることを偶然知って、さっそく入手しようと思いました。なんと言っても、丸ごと「第2稿」で演奏しているものは、今までに2種類しか出ていなかったはずですからね。
さらに、食指を動かされたのは、それを扱っているショップのサイトでは、インフォにしっかり「SACD」という表記があったことです。これはなんとしても手に入れねば。
まず、ジャケットがなんとも「アート」なのが嬉しいところです。そして、なんと言っても親切なのは、歌詞の部分に楽譜の番号とトラック・ナンバーが並べて書いてあることですね。こういうものは、だいたい曲の切れ目でトラックを切っているので、1枚目ではそのまま対応出来るのですが、2枚目になると、トラックは「1」に戻ってしまいますから、番号が分からなくなってしまうのですね。その点、これは安心してテキストを見ながら聴いていられます。
この演奏ではちょっと変わったことをやっていて、エヴァンゲリストを歌っているニコ・ファン・デア・メールが、自ら指揮も行っているのです。確かに、レシタティーヴォの時には別に指揮者はいなくても大丈夫ですし、アリアでは別のテノールが歌っていますから、なんの問題もありません。これがライブ演奏なら、ビジュアル的にちょっと目障りな光景が出現してしまうかもしれませんが、教会で行われたセッション録音ですから、そんなこともありませんし。
そんな、歌手が指揮をしているメリットは、聴き始めてすぐに気づきます。後に「マタイ受難曲」の第1部の終曲として、半音高くなってお目にかかれることになるコラールでは、前奏のオーケストラの全ての楽器が、実に心地よい息づかいによって歌われているのですね。そこにエヴァンゲリストのレシタティーヴォが入ってくると、それは全く同じ伸びやかさを持っていることに驚かされます。さらに、シンプルなコラールでの合唱団の歌い方が、このソリストで指揮者の歌い方を、そのままなぞっているような風に聴こえてきます。それは、本当に穏やかな、慈しみの心があふれるバッハでした。
アリアを歌うもう一人のテノール、ベークマンも、とても伸びやかな声で楽しませてくれます。この稿では、そのテノールが差し替えられたアリアを2曲も歌うようになっていますが、それぞれに「13II」ではドラマティックに、そして「19II」ではあくまでリリカルにと、存分にその魅力を味わうことが出来ます。
ただ、あまりにもおおらかな音楽が続くものですから、例えば21番や23番などの「十字架に付けろ!」とか叫んでいるような合唱は、もっとメリハリのきいたインパクトがあった方が、ドラマとしては面白かったような気はします。それは好きずきでしょうが。
しかし、どう考えても理解できないのは、9番のソプラノのアリアです。他の部分ではきちんと「第2稿」の楽譜通りの演奏を行っているというのに、この曲だけが新バッハ全集の楽譜なのですね。両者の間には、細々とした違いが無数にありますし、なんと言っても歌の途中と後奏の小節数が違っていますから、これはすぐ分かります。ここだけ確実に「1725年」以降に手を入れられた楽譜を使ったのは、なぜなのでしょう。

さらに、このアルバムは、商品としての許し難い欠陥を持っていました。ショップのインフォの写真にはしっかり「SACD」であることが明記されていますし、使われているジャケット写真にもこのように「SACD」のロゴが入っているにもかかわらず、届いたものはただの「CD」だったのです(「2CD」という文字もありますね)。品番も、そしてバーコードまで、「SACD」とされるものと同じだというのに。このレーベルが行ったことは、紛れもない「偽装」です。

CD Artwork © Quintone

2月20日

The Red Piano
Yundi(Pf)
Chen Zuohuang/
China NCPA Concert Hall Orchestra
EMI/0 88658 2


2000年のショパン・コンクールで優勝した中国出身のピアニスト、ユンディ・リは、鳴り物入りでDGの専属アーティストに迎えられ、何枚かのアルバムをリリースしていましたが、2010年からはEMIに移籍、アーティスト名もただの「ユンディ」となっていました(ユンディと呼んで)。でも、せっかくEMIに来たというのに、そこがDGの親会社であるユニバーサルに買収されてしまったのですから、移籍の意味がありませんね。
とりあえず、EMIからの3枚目となるアルバムでは、それまでのショパン路線からガラリと変わって、なんと「ピアノ協奏曲『黄河』」などというとんでもない曲と、中国の伝承歌をアレンジしたもののカップリングという、「中国路線」になっていました。ほんの数年前には、彼のライバル(?)であるラン・ラン(この人がEMIに来ると「ラン」になるのでしょうか)が、やはり「黄河」をメインにした同じようなアルバムを出していましが、これが中国のアーティストのトレンドなのでしょうか。
ピアノ協奏曲「黄河」と言えば、ほぼ半世紀近く前の中国での「プロレタリア文化大革命」との関連なしには語れない、と思っている人は、もはや少なくなってしまっているのかもしれません。この作品が1973年に初めて「西側」のアーティストによって録音された時には、作曲家の名前すら表記されることはなく、ただ「中央楽団集団創作」となっていました。「紅衛兵」によって「自己批判」を強いられた文化人が多かった中で、なんとも「プロレタリアート」的な作曲のされ方に、言いようのない嫌悪感を抱いたものでした。実際、最後の楽章では毛沢東賛歌である「東方紅」や、なんと「インターナショナル」までが引用されているのですからね。
しかし、今回のCDでは、この曲にはしっかり「洗星海が作曲した『黄河カンタータ』をもとに、殷承宗、触望?、盛禮洪、劉荘が編曲」と、ある程度の個人名が表記されたクレジットがあるので、一応「作品」としての体裁は整っているように見えてしまいます。とは言っても、「元ネタ」である1939年に作られたカンタータは、日本軍の中国侵略に対する抵抗の意味が生々しく込められた曲なのですから、そもそも「芸術的」なモチベーションは二の次、といったイメージはぬぐえません。
ところが、そんな怪しげな作品を、ユンディくんとこの「中国国家大劇院コンサートホール管弦楽団」は、いとも誇らしげに演奏しているのですね。実は、我々にとっては「ゲテモノ」に思われてしまうようなこの作品は、1969年に作曲された時から、まさに中国の近代化を象徴するような「名曲」として、多くの国民に親しまれてきたものなのですね。例えば、編曲者に名を連ねている、初演の時のピアニスト、殷承宗は、中国国内だけではなく、MARCO POLO(現在はNAXOSに移行)などというインターナショナルなレーベルにまでこの曲の録音を行っています。
そして、この正体不明のオーケストラは、紛れもない「西洋音楽」の音を出していました。そこに、ショパン・コンクール・ウィナーが加わるのですから、演奏自体は「西洋音楽」そのものです。終楽章でしつこく繰り返される変奏曲のテーマも、まるでラジオ体操のように元気が良いだけ、と思っていると、テーマの後半がまるでマーラーの交響曲第1番の第3楽章のテーマのようには聴こえてはきませんか?

この曲のオーケストレーションは、普通の2管編成に、フルート奏者の持ち替えで「竹笛」が加わるほか、オプションで「琵琶」が入ることがあります。1973年のオーマンディ盤(↑)では、その琵琶はまさに「中国」をしっかり演出していましたが、今回の録音には用いられてはいません。確かに、ここにそんなものが入ってしまったら、せっかくの「西洋音楽」が台無しです。なんたって、このアルバムのターゲットは全世界なのですから。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

2月18日

Fantaisie
Mathieu Defour(Fl)
Kuang-Hao Huang
CEDILLE/CDR 90000 121


シカゴのレーベル、CEDILLEから出た、シカゴ交響楽団の首席フルート奏者、マチュー・デュフォー(本当は「デュフー」と発音するようですが)の2枚目のアルバムです。1枚目は、こちらのモリックの協奏曲でしたね。録音されたのは2009年ですが、今頃国内の市場に出回っています。翌年に日本で録音された日本のレーベルのCDの方が先に出てしまいました。
その国内盤と同じように、ここでもフルートが好きな人なら誰でも知っている曲が並んでいます。タイトルの通り、全てに「ファンタジー」という名前が付けられたものばかりです。日本語では「幻想曲」と訳されているこのジャンルは、別に夢や幻に題材を求めた曲、というわけではなく、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて花開いた、華麗な技巧によって彩られたショーピース、といったぐらいの意味を持ったものなのでしょう。モダン・フルートのあらゆる技法が網羅され、フルーティストにとって、日々の鍛錬には欠かすことのできない曲ばかりです。したがって、万が一、それを人前(その中には同業者もたくさんいるはずです)で演奏するような時には、とんでもないプレッシャーに見舞われることでしょう。曲のことを隅々までよく知っている人たちが目(耳)を皿のようにして聴いているのですから、どんな些細な失敗も許されることはありません。そんな緊張感を乗り越えて、これらの曲からテクニックを超えた真の愉悦感を引き出すことができれば、彼は本当の意味での「ヴィルトゥオーソ」と呼ばれることになるのです。食中毒じゃないですよ(それは「下痢と嘔吐」)。
そういう意味で、デュフォーはアルバムの至るところで「ヴィルトゥオーソ」であることを証明しています。もはや、細かい音符を目にもとまらぬ速さで演奏するなどという「低次元」の驚きを越えたところで、彼は作品のさまざまな魅力を気づかせてくれているのですからね。
まず、フォーレの「ファンタジー」から始めるあたりが、渋いところです。一見朴訥なようで、なかなか一筋縄ではいかない仕掛けを秘めた曲ですが、デュフォーはそこから繊細極まりない味わいを拾い出してくれています。音色はあくまで華美には走らず、常に穏やかな情感を醸し出しています。曲の最後なども、決して盛り上げずにサラッと仕上げるあたりがさすが、です。
次のゴーベールやユーの同名曲になると、作曲家の個性がキラキラと輝いて現れてきます。デュフォーのアプローチはなにも変わっていないのに、作風の違いがこれほど明瞭に感じられるのは、ひとえに彼のスタイルの柔軟性を物語るものなのでしょう。
ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」などという、まさに手あかにまみれきった「名曲」でも、そのあくまで謙虚に楽譜に立ち向かう姿勢によって、見違えるような新鮮さが感じられるようになります。「コブシ」のきかせかたの中にも、良くある「東洋風」のものではない、いわばハプルブルク帝国の一部としてのハンガリーの風情を感じられるのではないでしょうか。途中で出てくるハーモニクスが、これほど効果的に聞こえてくる演奏も希です。
最後の2曲は、オペラの中のアリアなどを組み合わせてメドレーにしたもの、タファネルの作品は「魔弾の射手」がモチーフになっていますし、ボルヌの作品はお馴染み「カルメン」です。シカゴ響の前任地がパリのオペラ座だったデュフォーにとって、これはもしかしたら普通のフルーティストとはひと味違うアイディアがわいてくるものだったのではないでしょうか。確かに、タファネルからはドイツの暗い森の情景が、そしてボルヌからはジプシーの喧噪が感じられる瞬間があったような気がします。「闘牛士」での朗々たるアリアのあとで、一気に目も覚めるようなフィナーレに流れ込む場面は、まさに息をのむ思いです。
卓越したピアニスト、ホアン・コアンハオのサポートも見事です。

CD Artwork © Cedille Records

2月16日

楽都ウィーンの光と陰
比類なきオーケストラのたどった道
岡田暁生著
小学館刊
ISBN978-4-09-388273-8

一時は「国民的映画」と呼ばれ、年に2回、お盆とお正月に新作が上映される時には、映画館は常に満員になったという「男はつらいよ」シリーズは、もちろん今ではDVDで全作見ることができます。さらに、最近ではマスターからハイビジョンに変換されて、テレビで放送されていたりしますから、それをそのままBDにダビングすればハイビジョンのクオリティのコレクションが出来上がることになります。大画面のモニターで見れば劇場で見るものと遜色のない映像が楽しめるのですから、これはたまりません。目の毒かも(それは「ハイレグ美女」)。
そんな美しい画面で見てみたのが、かなり後期の作品、1989年の第41作、「寅次郎心の旅路」でした。これは、なんと寅さんがウィーンへ行く、というとても現実にはあり得ない(いや、そもそも「寅さん」は現実じゃないし)シチュエーションの物語でした。ウィーン市あたりが全面協力をして撮影されたもので、ウィーンでのロケが大々的にフィーチャーされていましたね。上映された頃はまだウィーンには行ったことがありませんでしたから(いや、今でも行ってませんが)、そこで目にした建造物や公園などには具体的な思い入れなどありませんでしたが、それから例えば「ニューイヤーコンサート」のおまけの映像や、最近のシェーンブルン宮殿でのコンサートの模様などを見たあとでは、なにかとても親近感を覚えたものです。それにしても、竹下景子の眉毛は太かった。
そんな折、小学館からこんな本が出版されました。最近、小学館から「ウィーン・フィル魅惑の名曲」というタイトルであの「ディアゴスティーニ」みたいに隔週で発行されていたCD付きのマガジンがありましたが、その中に毎号岡田さんが執筆されていたエッセイを、まとめたものなのだそうです。
まあ、そのマガジンとのかねあいなのでしょうか、帯には「ウィーン・フィルのすべて」という、おそらく編集者がそれこそ浅田真央の本のように著者の承諾を得ないで付けたのではないかというようなキャッチコピーが踊っていますが、これはあまり信用しない方が良さそうですね。確かにウィーン・フィルの歴史などは細かく紹介はされていますが、この本の目指したものはそれだけにはとどまらない、「ウィーン」という都市の歴史を、大きく世界史、そして音楽史の観点から俯瞰したという、かなり広い視野を持つものなのですからね。
ですから、かつてはまさに正真正銘の「音楽の都」であったウィーンが、フランス革命、そして2つの大戦を経て現在の「単なる観光地」に成り下がる様子を、その土地のオーケストラであるウィーン・フィルを舞台に語る、という手法には、興奮をおぼえるほどの迫力があります。さらに、「クラシック音楽」を支える人たちの変遷、あるいはシェーンベルクのような「新しい」作曲家が徹底的にこの街からは排斥されていたという指摘などは、まさに「西洋音楽史」の著者ならではの鋭い視点です。
もちろん、あのナチズムの時代のウィーン・フィルの現状なども、血が凍る思いでした。ベルリン・フィルなどとは比べものにならないほどの過酷な現実がここにはあったのですね。
最後に、そんな落ちぶれた街を舞台にした映画「第三の男」が登場します。いわばウィーンの「陰」を描いたこの映画は、さっきの「寅さん」で執拗にオマージュの対象になっていたことを思い出しました。それは、単なる観光映画は作りたくなかった山田洋次監督のこだわりだったのでしょうか。その一つが、柄本明が舞踏会(それがどんなものであるかも、この本では明らかにされています。映画を見た時にはまさかほんとにこんなものがあるとは思いませんでした)から帰ってくるところで、影が壁に投影されるシーンだというのは、有名な話です。ご丁寧にチターまで鳴ってくれますし。

Book Artwork © Shogakukan Inc.

2月14日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Annemarie Kremer(Sop), Wilke te Brummelstroete(Alt)
Marcel Reijans(Ten), Geert Smits(Bar)
Jan Willem de Vriend/
Consensus Vocalis(by Klaas Stok)
The Netherlands Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72533(hybrid SACD)


2008年に始まったデ・フリエントとネーデルランド交響楽団とのベートーヴェンの交響曲ツィクルスの録音は、この2011年の「第9」で完了しました。SACDの全集としては、ヴァンスカとミネソタ管弦楽団によるものに次いで2番目となるのでしょうか。
癪にさわるのは、この最後のアルバムが出るのと同時に、全曲のセットが格安の値段でリリースされた、ということです。1枚1枚せっせっと買い貯めてきた人の立場は、いったいどうなるのでしょう。せめて、シャイーのように全集を出してから分売というのが、まっとうな商売なのではないでしょうかねえ。
ピリオド・アプローチを全面的に取り入れた刺激的な演奏と、極上の録音によって常に新鮮な驚きを与えてくれたこのシリーズですから、この「第9」も期待は高まります。ただ、前回の「3番」で、デル・マーによるベーレンライター版とはちょっと違うことをやっていたので、まずはそのあたりのチェックです。チェック・ポイントは何カ所かありますが、まずは第1楽章の81小節目で、フルートとオーボエが「ファ-シ♭」ではなく「ファ-レ」という音型を吹いていたので、最近の原典版には間違いないことが確認できます。しかし、第4楽章の120小節目のファゴットのオブリガートの「レ-ミ-ファ」という音型のリズムが、ベーレンライターの「付点四分音符+八分音符+四分音符」ではなく、従来の慣用譜の「二分音符+八分音符+八分音符」となっているのはなぜでしょう。ところが、マーチの直前の330小節目のフェルマータでは、ベーレンライターとも慣用譜とも異なる、「合唱以外の全てのパートがディミヌエンド」という形になっていますよ。これは、かつてはペータース版でハウシルトが行っていた校訂結果、ということは、これはそのハウシルトが携わったブライトコプフの新版を使った演奏なのではないでしょうか。さっきのファゴットのリズムも、確かにハウシルト版と一致します。ということは、もう少し詳しく検証してみないと確実なことは言えませんが、このツィクルスはブライトコプフ新版による、最初の交響曲全集の録音ということになるのかもしれませんね。
肝心の演奏は、期待に違わずエキサイティングなものでした。どのパートを取ってみても、決して今までの「伝統」に流されるようなことはなく、常に楽譜からなにか新しい意味を探し出して、それを音にしょうという意気込みが感じられるのですね。その代表格がナチュラル・ホルンでしょうか。SACDの素晴らしい録音も相まって、彼らの楽器は至るところで今まで聴いたことのなかったような音色を提供してくれています。ゲシュトップなども交えたその多彩な音色は、ベートーヴェンの音楽がいかに予定調和に終わらない驚きを秘めているかを、端的に語ってくれています。同じような意味で、ティンパニの粗野な振る舞いによって、「クラシック音楽」という格調高いものからははるかに遠くにある、まるで「ロック」のような骨太のサウンドが鳴り響く場面にも、頻繁に出会えるはずです。
終楽章の冒頭なども、そんな荒れ狂う音楽だったのは、ですからそれまでの流れからは予想できたことでした。低弦のレシタティーヴォも、「お約束」の粗さです。ところが、あの「歓喜の歌」が始まったとたん、そこは輝くばかりの洗練された世界に変わりました。この陳腐なメロディから、デ・フリエントはなんという高貴さを歌い上げていたことでしょう。これこそまさに、その前に跪きたくなる「神」そのものです。
ただ、そのあとソリストや合唱が現れると、その「神」は姿を消してしまいました。まるで演歌のようなノリのバリトンは論外としても、せっかく良い声を持っている合唱が明らかに練習不足で心を込めるだけの余裕がなかったのが、つくづく惜しまれます。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

おとといのおやぢに会える、か。


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