腹、出らぁ。.... 佐久間學

(10/6/21-7/11)

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7月11日

GIESEKING
Musique de Chambre, vol.1
瀬尾和紀(Fl)
François Salque(Vc)
朴鐘和, Laurant Wagshal(Pf)
Les Ménestrels/LM-001


世界中で活躍されている今年年男のフルーティスト、瀬尾和紀さんは、今までに何枚かのCDもリリースしてきていますが、最後にNAXOSから2006年に録音されたアルバム(パトリック・ガロワとの共演)が出て以来、ばったり音沙汰がなくなっていたのが、少し気になっていました。しかし、実際はすでに2007年に彼のアンサンブル仲間とによるこのアルバムの録音は完成していたのですね。ただ、それを発売することがなかなかできなかったようです。なにしろ、最近のレコード業界ときたら、暗い話ばかり。ネット配信の台頭によって、CDのような店頭で販売するパッケージの売り上げは激減、数年後にはCDそのものがなくなってしまうなどという噂まで飛び交っているありさまです。現に、大手レコード会社ではクラシック部門などはスタッフも解雇して、制作は下請けに任せているそうですし。
そんな状況ですから、瀬尾さんの作ったこんな地味な音源は、既存のレコード会社ではなかなか手を出すわけにはいかなかったのでしょう。それならばと、瀬尾さんは自分自身のレーベルを立ち上げることにしました。さいわいNAXOSの日本法人であるナクソス・ジャパンが販売元を引き受けてくれたようで、ここにめでたく「レ・メネストレル(吟遊音楽家たち)」レーベルの第1弾CDがリリースの運びとなったのです。
ここで瀬尾さんが取り上げたのが、往年のピアニスト、ヴァルター・ギーゼキングの作品です。特にドビュッシーやラヴェルの演奏にかけて定評のあったこの大ピアニストは、作曲家としても多くの作品を残しており、「フルートとピアノのためのソナチネ」などはリサイタルのレパートリーとして多くのフルーティストによって手がけられているほどです。瀬尾さんはこのギーゼキングの作品に深い関心を示し、遺族たちともコンタクトをとって出版されていない自筆稿なども研究したということです。これは「第1集」ですが、このまま順調にリリースを進めて、この知られざる「作曲家」の全貌が明らかになる日が来ることを、期待したいところです。
今回録音されたのは、チェロとピアノによる「ヴォルガの舟歌による変奏曲」と「演奏会用ソナチネ」、フルートとピアノによる「ソナチネ」と「グリーグの主題による変奏曲」、そして、ピアノ2台による「子供の歌による遊戯」です。いずれも彼が得意としたドビュッシーなどのテイストは残しながらも、もっと軽やかな味が加わった、そう、フィリップ・ゴーベールあたりを彷彿とさせるような印象を与えられるものでした。時折顔を出す東洋的なフレーズも隠し味のような魅力を放っています。
最後に収録されている「グリーグの主題〜」は、「叙情小曲集」からの有名なテーマが用いられた大規模な変奏曲です。フルートもピアノも高度なテクニックと、そして音楽性を要求される曲です。瀬尾さんは、そのシンプルなテーマをこれ以上ソフトには歌えないほどに、ていねいに、そして繊細に扱っています。その上での超絶技巧の冴えは、見事としかいいようがありません。そして、それを支えるワグシャルのピアノのこれまた繊細なこと。瀬尾さんのフルートに対峙できるのは、このぐらいの細やかな神経を備えているピアニストだけだという印象を、再確認です。かつて、別の日本人との共演を聴いたことがありますが、そこでプーランクを共演していたピアニストの無神経だったこと。
録音会場が、かつてPHILIPSでの多くの名盤を産んだ「ラ・ショー・ド・フォン」という、フランス料理みたいな(それは「フォン・ド・ボー」)名前のホールです。チェロの力強さ、フルートのきらめき、そしてピアノの繊細さが素直に伝わってくる、素晴らしい録音です。

CD Artwork © Les Ménestrels

7月9日

MOZART
Requiem(ver. Levin)
Julia Kleiter(Sop), Gerhild Romberger(Alt)
Daniel Sans(Ten), Klaus Mertens(Bas)
Ralf Otto/
Bachchor Mainz
L'arpa festante München
NCA/60159 215(hybrid SACD)


最近では、CDだけではなく、実際のコンサートでも「レヴィン版」が使われることが多くなっているモーツァルトのレクイエムです。もう少しすると、仙台市でも、初めてとなるこの版による演奏が聴けるはずです。ただ、練習している当人たちは今まで歌ってきたものとは微妙に違っているので当惑しているようですね。「アーメン・フーガなんて、なじめないわ」などと文句を言ってましたっけ。
今回のアイテムは、レヴィン版としては最も新しいものですが、録音されたのは2005年の8月、しかも、リリースされてからかなり経っていたものを偶然店頭で発見しました。ネットの新譜はくまなくチェックしているのですが、こんなマイナーなレーベルですから、つい見逃していました。でも、ジュスマイヤー版以外の「レクイエム」ですから、もれなくご紹介です。
この版のSACDとしては、LINNマッケラス盤がありました。しかし、それを聴いた当時はSACDを聴ける環境ではなかったので、これが、SACDによるレヴィン版の最初の体験となります。
これはまさにSACDならではのすごい録音でした。教会でセッションが行われていますが、まず、その場所のアコースティックスを最大限に生かしての壮大な残響によって、なんとも広い空間が感じられるものになっています。そんな中で、個々の楽器や声がとてつもない明晰さで聞こえてくるのですよ。ご存じのように、レヴィン版には、ほかの修復稿には見られない印象的なフレーズが、オーケストラ・パートのあちこちにちりばめられているのですが、それらが本当にくっきりと浮かび上がってくるのですね。何度も聴いてきたはずのレヴィン版ですが、今まで聞こえて来なかったようなモチーフにも気づかされたりして、新たな魅力に触れた思いです。楽器の質感も見事に表現されています。本当に静かなところでのバロック・ヴァイオリンが醸し出すなんとも言えない肌触りなどは、ゾクゾクとしたものが迫ってきますよ。そして、合唱ではメンバーひとりひとりの声が浮き上がって聞こえてくるのですね。あとで録音スタッフのクレジットを見てみると、その中の一人に「トリトヌス」のペーター・レンガーの名前がありました。まさに、SACDの特徴を知り尽くした人たちだったんですね。さすがです。
そんなすごい録音ですから、合唱などは少々荒っぽく聞こえてしまうのはやむをえません。40人ほどの、オリジナル楽器のオケと共演するにしては大人数の合唱なのですが、あまりの解像度の高さのために、合唱としてではなく、個々のソリストとして聞こえてしまうのですね。思いっきりかぶりつきで聴いていると言った感じでしょうか。声がでかいぞう
これが、ヘタな合唱団だったら目も当てられないところでしたが、この合唱団は幸いかなりのレベルを持っているところでした。ただ、緊密なアンサンブルによって透明な響きを生みだすほどの訓練は受けてはいないようで、ちょっと雑なところがないわけではありません。しかし、その「雑」なところが、ここでは見事に「力」に変わっている、というのが、うれしいところです。メンバーそれぞれの熱い思いが、ストレートに伝わってきて、それはパワフルな演奏を生みだしているのですね。「Dies irae」などは、ほとんど「叫び」に近いほどの力の入れようなのですが、それが決して不快には感じられないというあたりが、彼らの持ち味なのでしょう。
ソリストたちも、「パワー」という点では負けていません。もちろん、それはベル・カントによる力ずくのものではなく、あくまでこの時代の様式にのっとった範囲内での力強さ、芯のある声による真摯な演奏は、爽やかささえ感じられるものでした。バスのメルテンスのソフトな音色が、そんな印象を生んでいたのでしょう。
そんな素材を任されて、指揮のオットーは衒いのない堅実な音楽を聴かせてくれています。よいSACDに巡り合えました。

SACD Artwork © Membran Music Ltd.

7月7日

BEETHOVEN
Symphonie Nr.9
edited by Peter Hauschild
Breitkopf/PB 5349(study score)


通常、オーケストラの団員というものは、昔から使っている、書き込みがいっぱい入ったパート譜をありがたがっていて、最近の「原典版」などには強い拒否反応を示すものです。
そんな状況が一変したのは、ベーレンライター社が、ジョナサン・デル・マーの校訂によるベートーヴェンの交響曲の原典版を出版したことによります。折からのアーリー・ミュージックの隆盛でベートーヴェンあたりの音楽も作られた当時の演奏形態の再現が試みられるという動きが高まる中、楽譜自体も作曲家が意図した通りのものを使いたいという機運が高まっていたのでしょうね。さらに、おそらく何らかのタイアップの動きもあったのでしょう、大々的に「ベーレンライター版を使用」と謳ったCDも多くの演奏家によって発表され(中には、どこが?というようなものもありましたが)、この楽譜は多くのオーケストラのライブラリーとして採用されることになったのです。
通常、こういう楽譜は指揮者用の大型楽譜とパート譜が一緒になって販売されています。実際の演奏にはあまり用いられない「ポケット・スコア」は、かなり時間が経たないと発売されないものなのですが、ベーレンライター版の場合は大型スコアが出揃うやいなや、ポケット・スコアも一斉に発売されたというのも、その「人気」のほどを表しているのではないでしょうか。決して安くない大型スコアを全曲買ってしまった直後に、はるかに安価なポケット・スコアが出たのを、複雑な思いで眺めていた人は少なくなかったはずです。
そんな商売敵の躍進ぶりを、ブライトコプフが指をくわえて見ているわけはありません。いや、この出版社は、かなり以前から「原典版」に対しては積極的な態度を示し始めていましたから、ベートーヴェンでもそのような「ちゃんとした」楽譜を出そうとしたのは、当然の成り行きだったのでしょう。かつて東独で「ペータース版」の編纂に携わっていたペーター・ハウシルトなどを迎えて、ブライトコプフ独自の「原典版」を完成させました。その最後の成果が、2005年に出版されたこの「第9」の大型スコアです。
ベーレンライターの轍は踏むまいという思いの甲斐あって、ごく最近、こんなポケット・スコアが日本の楽器店の店頭にも並ぶようになりました。さっそくゲット、いろいろ比較しているところです。
原典版の常で、校訂者の判断がその楽譜に大きく反映された結果、同じ資料を基にしていながらこれはベーレンライター版とはかなり異なった楽譜となっています。というより、ベーレンライター版は、やはりかなり大胆な解釈をとっていたことが良く分かります。ハウシルトの仕事は、基本的にかつてのブライトコプフ版がとっていたスタンスを受け継ぐものでした。ただし、注目すべき点もいくつかあります。その最大のものは、第4楽章の330小節目、「vor Gott」のフェルマータの部分でのダイナミックスです。


かつてのブライトコプフ版には、ティンパニにだけディミヌエンドが付いていました。ベーレンライター版ではそれがなくなって、全パートがフォルテシモで伸ばし続けるようになったのですが、この新しいブライトコプフ版では、なんとオーケストラ全体にディミヌエンドがかけられていますよ。それをしないのは合唱だけ、この表現は、おそらくハウシルト版を使って演奏されたと思われるマズアとライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏(1990-1991/PHILIPS:録音スタッフは東独のDS)と見事に合致しています。オーケストラが徐々に消えていって、最後にア・カペラの合唱だけが残るのですね。
ただ、ベーレンライター版で最も前衛的だと思われた、同じ楽章のマーチから続くオーケストラだけの部分の最後、合唱を導き出すホルンの不規則なシンコペーションは採用されているのが、面白いところです(マズア盤ではやってませんが)。
いずれにしても、これで、昔のブライトコプフ版は紙コップほどの価値もないものとなりました。

Score Artwork © Breitkopf & Härtel

7月5日

STRAVINSKY
Mass etc.
Philippe Herreweghe/
Collegium Vocale Gent
Royal Flemish Philharmonic
PENTATONE/PTC 5186 349(hybrid SACD)

ヘレヴェッヘとストラヴィンスキーという、一見ミスマッチのような組み合わせのアルバムです。しかし、ここで彼が演奏している曲たちは、ストラヴィンスキーにしてはかなり特殊な位置づけが出来るはずの宗教曲だということに気づけば、そんな違和感もそれほど気にはならなくなるかもしれません。なんせ、マジで教会で演奏されることを想定して作った「ミサ」などがあるのですからね。
その「ミサ」は、編成が一風変わったものでした。ここでは「混声合唱」で歌われていますが、楽譜上は「児童合唱と、男声合唱」という、高音部にあえて大人ではなく子どもの声を求めているのが特徴的です。そして、伴奏が「double wind quintet」という表記なのですが、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンがそれぞれ2本ずつ、ではなく、オーボエ2、コール・アングレ1、ファゴット2、トランペット2、トロンボーン3という、変則的な「十重奏」になっています。これは、ルネサンスのショーム・バンドを模倣した合奏形態なのでしょう。
そこで歌われる合唱も、そんなルネサンス風の様式を模倣しています。ただ、久しぶりに聞いたヘレヴェッヘの合唱団「コレギウム・ヴォカーレ・ヘント」は、なんとも精彩を欠いたものでした。肝心の女声パートが、なんとも硬直した響きで、かつて確かに持っていたはずの透明性が全く見られないのですね。いや、実は彼女たちが変わったわけではなく、もっと透明で滑らかな合唱団を体験してしまった結果、相対的に評価が下がってしまっただけだったのかも。
もう一つ興味のある作品が、バッハのオルガンのためのカノン風変奏曲「高き天より、我は来たれり Vom Himmel hoch da komm' ich her」です。その有名なクリスマスのコラールに続いて、5つの異なるカノンによる変奏が演奏されているのを、オーケストラのために編曲したものですが、変奏の中に現れるコラールを、実際に合唱で歌わせる、というアイディアが光っています。オリジナルのオルガン曲と比べてみると、カノンの声部がフルートなどのソロ楽器で演奏されていて、ある種無機的なオルガンのストップとは異なる肉感的なものを感じることが出来ます。全体的にかなり早目のテンポに変わっていて、特に第4変奏などは、ソロ楽器の超絶技巧に頼らなければ成立しない音楽になっています。そんな「人間くささ」を表に出すのが、作曲者(編曲者)の狙いだったのかもしれませんね。
おそらくこのアルバムのメインとして置かれているのが、有名な「詩篇交響曲」です。ヘレヴェッヘは、この曲から、あえて刺激的な表現を導き出すことを避け、あくまで穏やかな語り口に終始することを心がけているように感じられます。そんなアプローチは、合唱団の雑な響きと相まって、なんとも生ぬるい仕上がりになってしまっているのが、残念です。
このオランダのレーベルは、積極的にSACDをリリースしている点で、ファンには好感をもって迎えられています。それを支えるのが、かつての同じオランダの名門レーベルPHILIPSの録音スタッフによる「ポリヒムニア Polyhymnia」という録音チームです。これも、もちろん彼らによる録音ですが、最近ではドイツの別のチーム「トリトヌス Tritonus」などもこのレーベルの録音を手がけるようになって、さらにサウンドに幅が出てきているようにもなっています。
ただ、そのあたりの情報をいい加減に受け取って、こちらのようなまるででたらめなインフォを流すサイトがあるのは、困ったものです。こんなコアな情報は、たちまちネットで増殖するもの(現に、すでに「汚染」されているブログを発見しました)、普通のメーカー・インフォだったら無視できるのですが、ここはなんだか担当者がえらく力を込めて独自のものを執筆していたりして、さも「真実」のように思わせられるだけに、始末に負えません。こういうものは、決して信用してはいけましんよう

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

7月2日

BARTÓK
Concerto for Orchestra
Georg Solti/
London Symphony Orchestra
DECCA/UCGD-9001(single layer SACD)


「レコード芸術」などでも話題になっていた、ユニバーサル(日本のメーカー)の最新SACDです。21世紀の初頭にCDの上を行くスペックを持つメディアとして登場したSACDは、開発に携わったのがSONYと、そしてUNIVERSAL傘下のPHILIPSでしたから、当然DGDECCAPHILIPSといったレーベルからはこのフォーマットのCDが大々的にリリースされることになりました。しかし、なぜかUNIVERSALや、そしてSONYまでが、いつの間にかこのフォーマットからは手を引いてしまいます。メジャー・レーベルの思惑通りには、このソフト、そしてそれを再生するためのハードは普及しなかったからなのでしょうね。
しかし、SACDそのものはなくなることはありませんでした。マイナー・レーベルを中心にコンスタントにリリースは続けられましたし、新興の、オーケストラの自主制作レーベルでは、SACDで出ることがほぼ当たり前のようになっています。さらに、UNIVERSALの音源自体も、オーディオ・メーカーのエソテリックによって往年のアナログ録音がSACD化されたりしていました。これは、「マスタリングの神様」、杉本一家さんによるマスタリングと相まって、マニアには大好評をもって迎えられ、限定生産のアイテムは予約だけで完売してしまうほどのヒット商品となったのです。
今回の、ユニバーサルによるSACDは、そんな潜在的な需要に応えるために制作されたのかもしれません。なにしろ、その仕様は、一切妥協はしようとはせず、ハイブリッドのCD層や、サラウンドのトラックといった余計なものをすべて排した、まさにオーディオ・マニアに特化したものだったのですからね。しかも素材はSHM、こんなもので商売になるのかな、と、心配になるほどのすごいスペックです。
1枚4500円という、かなりの高額商品、それに見合うだけのものに仕上がっているかは、実際に聴いて確かめてみなければなりません。そこで選んだのが、あのジョン・カルショーがプロデュースした1965年の録音、ショルティとロンドン響による「オケコン」です。オリジナルのLPを聴いたことはありませんから、とりあえず2001年リマスターのCD467 686-2)との比較です。

その違いはまさに歴然たるものでした。「序」の冒頭、低弦のユニゾンに続く弱音器を付けたヴァイオリンの繊細なテクスチュアは、まさにSACDの独壇場です。そして、お待ちかねのフルート・ソロ、CDに比べると、全く別の人が吹いているほどの強烈な存在感が伝わってきます。これなんですよね。ソロ楽器がしっかりと立体的に浮き上がって来るというこの感じが、なぜかCDでは平板なものになってしまっていたのでした。その後の弦と木管のトゥッティでの質感も、すごいものでした。飽和するギリギリのレベルで録音されているものが、まだまだいくらでも余裕があるように聞こえてきます。このあたりは、それこそ杉本さんのXRCDを思い起こさせるような質感です。これはすごい!と思っても、もちろんこのDSDマスターは、2004年にDECCAによって作られたもの、杉本さんの手が加わったものではありません。しかし、なんと良い仕事をしていたことでしょう。DECCAは。ライナーにはその頃に発売された同じマスターによるSACDとの比較が掲載されていますが、今回の単層化や、素材の違いによって画期的に音が変わったとも述べられています。まあ、それが「ウリ」なのですから、マスター自体が別物だという可能性は考えなくても良いのでしょうね。そもそも、ユニバーサルにはマスターは必ず本国のものを使わなければならないという「掟」があるそうなのですし(だとしたら、エソテリックの杉本マスターは何なんだ、ということになりますが)。
そんなすごい音で聴いてみると、今度は演奏の粗さがいやでも分かってしまいます。「フィナーレ」などは相当にヤバい演奏だったんですね。世の中には、真実を知らない方が良かったな、と思えることがたくさんあるのでしょう。

SACD Artwork © Decca Music Group Limited

6月30日

BACH
Matthäus-Passion
Paul Agnew(Ev), Alan Ewing(Jes)
Olga Pasichnyk(Sop), Damien Guillon(CT)
Jean-Claude Malgoire/
Choeur de Chambre de Mamur
La Grande Écurie et la Chambre du Roy
CALLIOPE/CAL 9431.2


ジャン・クロード・マルゴワールが1966年に設立した「王室大厩舎・王宮付き楽団」というとんでもない訳語が大手を振ってまかり通っているオリジナル楽器の演奏団体は、現在まで存続している同じジャンルの団体としてはもはやかなりの古参となってしまいました。それなりに注目されるような録音も発表していたのですが、いまいち知名度が上がらないのは、やはりそんな訳の分からない日本語表記のせいなのかもしれません。
ちなみに、マルゴワール自身は、この団体を立ち上げたときには、まだオーボエ奏者としての二足の草鞋を履いていました。翌年に創設(というか、改組)されたパリ管弦楽団に、初代音楽監督であるシャルル・ミュンシュに請われてコール・アングレ奏者として参加したのです。1970年、大阪万博とのタイアップで初来日したときのプログラムの写真を見ると、確かに彼の姿が写っています。フルートのトップはデボスト、3番にアラン・マリオンがいますね。これはカラヤンとの演奏でしょうが、1969年にカラヤンとパリ管が録音したフランクの交響曲のレコード(EMI)には、コール・アングレのソリストとして彼の名前がクレジットされています。そういえば、「ルーヴル音楽隊」のミンコフスキも、元々はファゴット奏者でしたね。

そんなマルゴワールも、最近ではこの世界の「重鎮」として注目を集めているようです。2009年の4月にパリのシャンゼリゼ劇場で行われた「マタイ受難曲」の模様が、即座にCDとなって登場しました。
「マタイ」全曲がCD2枚組なのも驚きですが、その演奏時間が「2時間37分」(正確には「2時間3655秒」)というのも、さらなる驚きです。この演奏時間、「15655秒」というのは、先日のシャイー盤が「16010秒」だったときに「世界最速」なんて言っていたのに、それをさらに上回る速さではありませんか。こんなところで競ってどうしようというのでしょう。
そんな、異常とも思えるテンポの速さが、この録音では良い意味でも悪い意味でも特徴となっています。とは言っても、「良い」面はとりあえず聴き通すために拘束される時間が少ないということぐらいしか思い浮かびませんが。
そう、ここでのマルゴワールたちの演奏は、少しでも早く演奏を終えて、冷たいビールにもありつきたい、とでも考えているかのような、とても雑なものに終始しているのです。端的に「速さ」を体験できるのが最初と最後の大合唱ですが、そこで見られる「速さ」は、決して緊張感を煽るようなものではなく、ただただゆっくり演奏するだけの強い意志を持ち得ない結果だとしか思えないような、だらしのないものでした。
そもそも、この「楽団」のメンバーのスキルは、そんな速さに付いていけるほどの高度なものではありません。フルート2本できれいにハモって欲しいアリアのオブリガートなどは、2番奏者の音程がひどくて、とても汚い響きになっていますし、オーボエ・ダ・カッチャなどというなかなか吹く機会のない楽器では、音すらまともに出ていないのですからね。
もっとも、そんな「汚い」演奏に対してもいくらか免疫がつき始めると、最後の方のドラマティックな合唱では、「きれいな」演奏からはなかなか生まれないようなショッキングな表現が現れたりしますから、一概に「悪い」面だけではないのかもしれません。
そうなってくると、最初はだらしなく聞こえていたアグニューのエヴァンゲリストにも、粗さゆえの魅力も出てきます。しかし、本当はカウンター・テナーのダミアン・ギヨンのように、最初からインパクトを与えてくれるような歌い方をしてくれた方が良いに決まってます。1986年にSONYにモーツァルトの「レクイエム」を録音したときにドミニク・ヴィスを起用したように、マルゴワールはこういう刺激的な声が好きなのかもしれませんね。決して「丸く終わる」ことはないのでしょう。

CD Artwork © Calliope

6月28日

BARTÓK
Music for Strings, Percussion & Celesta etc.
Zoltán Kocsis/
Hungarian National Philharmonic Orchestra
HUNGAROTON/HSACD 32510(hybrid SACD)


このSACDは、HUNGAROTONが進めている「バルトーク・ニュー・シリーズ」という企画の10番目のものなのだそうです。おそらく、前にご紹介した「オケコン」なども、このシリーズに含まれているのでしょう。全編SACDでのリリースというのが非常に嬉しいところです。
今回のアイテムは、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」と、「弦楽器のためのディヴェルティメント」、そして「ハンガリーの風景」の3曲が入ったものです。おまけみたいに付いている「風景」以外は、管楽器が全く登場しないというユニークな編成の曲が取り上げられています。
タイトルを短く言うことが好きなクラシック・マニアの間では最初の曲はもっぱら「弦チェレ」と呼ばれているそうですね。ただ、この呼び名に対しては打楽器奏者は常に「なんで俺の楽器だけ抜いたんだ!」と不満に思っていることでしょう。しかし、実際は曲の中で使われているのに、フルタイトルになったときでさえも、その中には入れてもらえなかった楽器があるってこと、知ってました?それは「ピアノ」と「ハープ」です。ピアノなどは、チェレスタよりもはるかに活躍しているというのに、どうしてタイトルに入っていないのでしょうね。あるいは「打楽器」の中に含まれているのだとか。いえいえ、もしそうだとしたら、チェレスタの方がはるかに「打楽器度」は高いはずですよ。なんたって、中身はただのグロッケンなんですからね。
そんな謎を抱えつつ、この曲はその他には例を見ない楽器編成と、弦楽器は2群に分かれて左右に配置されるという特殊なフォーメーションによって、ほとんど「現代曲」のような扱いを受けることすらありました。例えば、ティンパニの音程をペダルによって操作して、グリッサンドのような効果を出しているあたりは、まさに「現代音楽」ならではの「特殊奏法」なのですからね。
ですから、この曲を聴くときには、そんなエッジのきいた颯爽としたものをつい求めてしまうのかもしれません。そんな中でこのコチシュの演奏を聴くと、なんだか肩すかしをくらったような気にはなりませんか?特に、最初の楽章「アンダンテ・トランクィロ」などは、SONY時代のブーレーズなどに見られる血が凍りつくような冷徹さに慣れた耳には、そのいともあっさりとした語り口には拍子抜けしてしまうかもしれません。しかし、それは同時に、なんとも味わいのある音楽であることにも気づかされるはずです。ハンガリー独特の付点音符のリズムや、民謡に由来する旋法、あるいは民謡そのものの引用などが、いとも素直に体の中に入ってくるような気にはならないでしょうか。
そう、かつて彼の音楽は「黄金分割」とか「フィボナッチ数列」などという小難しいタームによって語られていたことがありました。1978年に出版されたエルネ・レンドヴァイの著作の日本語訳「バルトークの作曲技法」は、そんな流れでのある意味バイブルでした。

そんな、ちょっと居心地の悪い鎧をまとっていた感のあるバルトークの音楽は、実はもっと素朴な魅力に包まれているものなのだ、ということを思い起こさせてくれるのが、この演奏なのではないでしょうか。そう思って聴いていると、「ディヴェルティメント」の最後の楽章に唐突にユニゾンで現れる土俗的なフレーズにも、確かな意味を見いだせるはずです。
SACDの暖かいサウンドも、そんな印象を助けるものです。このアルバムでの主役である弦楽器の、特に弱音でのしっとりとした美しさは絶品です。そこをほのかに彩るチェレスタの特異な音色、そんなバルトークのオーケストレーションの機微は、CDレイヤーで味わうことは極めて困難です。

SACD Artwork © Hungaroton Records Ltd.

6月25日

新版 古楽のすすめ
金澤正剛著
音楽の友社刊

ISBN978-4-276-37105-7

前回「ア・カペラ」の本当の意味、などということを書いたら、なんと、そのお墨付きみたいなことが書かれてある本が出たばかりでした。世の中、狭いものです(ちょっと意味が違う?)。それは、1996年に刊行された金澤正剛さんの名著「古楽のすすめ」の新装版です。お相撲さん向けの本ではありません(それは「賭博のすすめ」)。その中で、この「ア・カペラ」に用いられている「カペラ(=教会、礼拝堂)」という言葉は、一般名詞ではなく、ヴァティカンのシスティナ礼拝堂という特定の場所を示す言葉であったことを知らされるのです。そこでは、一切の楽器演奏は許されなかったのだそうですね。まさに「目から鱗」とはこんなことを言うのでしょう。
その他にも、「シャープとフラット」、あるいは「ナチュラル」の起源についても、今まで漠然と分かっていたつもりのものがいとも理路整然とまとめられているのには、感動すら覚えます(ここで著者は「シャープさん・フラットさん」という往年のクイズ番組を引き合いに出していますが、これは「曲名当てクイズ」で、ここに書かれているようなものとはちょっと違います。スタジオで、原形をとどめないほどに編曲された曲が演奏されたりして、それを早く当てたほうが勝ち)。同様に、教会旋法についての説明も、なんと分かりやすいことでしょう。そう、この本は、そのような「いまさら聞けない」コアな疑問に対する極めてすぐれた「解説書」として、座右に備えておきたいものとなっています。
おそらく、最初にこの本が出たときに最も衝撃として感じられたのは、楽譜の成り立ちや、演奏法に関する記述ではなかったでしょうか。楽譜とは、単に音楽を書きとめるための手段に過ぎないものであるという、今となってはほとんど常識と化した概念も、当時としては、まさに画期的な見解だったはずです。とは言っても、今ではアマチュアの合唱団のメンバーでも「ムジカ・フィクタ」(楽譜には書かれていないシャープやフラットを、慣習に従って付けること)を知らない人はいませんし、「ノート・イネガル」(記譜上は均等なリズムであっても、不均等に演奏すること)あたりは、この時代の曲を演奏しようとする人なら誰しもが知っていなければならない基本知識となっています。
そのように、最近の「古楽」をめぐる状況はまさに日進月歩ですから、15年近くも経てば、もはやその内容は「古く」なってしまいます。そもそも、オリジナルの原稿自体が、もっと「昔」、1980年代にフリーペーパーに連載されたものなのですから、もはやそこに書かれていたことなどは何の意味も持たないほどのものになっている可能性もありますしね。ですから、今回の改訂によって、最新の研究成果が反映された「今」に通用するようなものに生まれ変わっているのでは、という期待を持っても構わないはずです。
さらに、この本の原稿が書き始められたころと、現代とを比べると、その間には演奏面に於いても劇的な変化がありました。それは、単に「古楽」の世界にとどまらない、広範なものだったはずです。ですから、黎明期から現代までを一貫して的確な審美眼をもって見てきた人であれば、必ずやわくわくするような語り口でそのあたりを述べてくれていることでしょう。
しかし、そんな期待に反して、実際にはそれほどの画期的な書き直しがあったような形跡はほとんど見られなかったのには、ちょっと失望させられてしまいました。いや、そもそも「ancient music」の訳語である「古楽」という日本語自体が、今では、例えば「奏鳴曲@sonata」や、「遁走曲@fugue」のように、もはや「古い」概念になってしまっている現実を受け入れず、依然としてタイトルに掲げている時点で、すでに著者にはそのような志はないことに、気付くべきだったのかもしれません。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

6月23日

Aces High
VOCES8
SIGNUM/SIGCD 187


またまた、素晴らしいコーラス・グループの登場です。「ヴォーチェス8」という、その名の通りの8人の「声」によるイギリスのアンサンブルです。2003年に、ウェストミンスター寺院の聖歌隊(つまり、ダイアナ妃の葬儀の時に歌っていた聖歌隊で、「ウェストミンスター大聖堂」の聖歌隊とは別団体)のOBによって作られたそうです。腰回りが異常に太い怪物のような人たちなのでしょうか(それは「ウェストモンスター」)。ただ、アルト・パートまでは男性が歌っていますが、ソプラノは女性が2人加わっていますから、純粋なOBは6人だけということになります。ソプラノ、アルト(カウンターテナー)、テナー、ベースがそれぞれ2人ずつというのは、あの「スウィングル・シンガーズ」と同じ編成ですね。あるいは、「マンハッタン・トランスファー」×2、とか。
このグループは、それこそルネッサンスのポリフォニーから現代のジャズやポップスまで、とても幅広いレパートリーを誇っているのだそうです。今回のアルバムは、その「ポップス」のテリトリーでのお披露目です。ア・カペラです。
ちなみに(阿部寛風)、「ア・カペラ」という言葉は、日本ではかなり混乱した使われ方をしていたようです。本来は「無伴奏の合唱」のことなのですが、ちょっと気取った芸能人達が、一人だけで歌うときも伴奏がないと「ア・カペラ」などと言ったものですから、単に「無伴奏」という意味に取り違える人が出てきてしまいました。これは明らかなまちがい、いつか言ってやらなければ(誰に?)、と思っていたら、「ゴスペラーズ」や「RAG FAIR」によって「ア・カペラ」ブームが巻き起こり、こういうものが「ア・カペラ」なのだ、という認識が広がってくれました。それでも、おおもとの「教会風に」という意味からは微妙にずれてはいるのですが、まあ、この程度の誤差は認めてやりましょうね。
そんな、今風「ア・カペラ」に欠かせないのが、ヴォイス・パーカッションでしょう。聖歌隊時代にポリフォニーを歌っていた頃は、きれいにハモってさえいれば大丈夫だったのでしょうが、「今」の音楽をビート感たっぷりに歌うためには、この、声によるリズム楽器は必須アイテム、「ヴォーチェス8」のメンバーも、その修練には余念がありません。さらに完璧を期すために、彼らはわざわざアメリカのシリコン・ヴァレーにあるスタジオにまで出向いて録音を行いました。
その成果は、めざましいものがあります。なんせ、マイケル・ジャクソンの「Smooth Criminal」のように複雑なリズム帯を駆使したものでも、彼らはなんなく「声」だけでその世界にほぼ近似したものを作り上げているのですからね。あるいは、最初はしっとりとホモフォニックに見事なハーモニーを聴かせていたところに、いきなりこのリズムが入ってくる、などというショッキングなアレンジは、とても効果的です。このグループの「お抱え」アレンジャーであるジム・クレメンツの手腕は、見事に花開きました。何曲も収録されているボンド・ソングでも、別の曲のテーマをさりげなく紛れ込ませたりして、芸の細かいところも見せています。
個人的にもっともハマったのは、ビーチ・ボーイズの「Good Vibrations」でしょうか。かつて、バーバーショップのグループがこの曲をいとも無惨に演奏していたのを聴いたことがありますが、そんな苦い体験を払拭するような、オリジナルのビート感を完璧にコピーした素晴らしい演奏です。途中で出てくるレスリー・スピーカー(ハモンド-B3の専用アイテム)の物まねが、見事に決まっていますし。
ただ、ソロをとったときに、男声メンバーはそれぞれに熱く歌っているのに、女性のうちの一人がなんとも硬直した歌い方しか出来ていないのが、ちょっと耳障りでした。他が完璧すぎると、こんなところでも気になってしまいます。

CD Artwork © Signum Records

6月21日

Roots: My Life, My Song
Jessye Norman(Sop)
SONY/88697 64263 2


ジェシー・ノーマンと言えば、オペラやリートの分野で圧倒的な表現力を武器に様々の名演を繰り広げていた、不世出のソプラノ歌手です。「ソプラノ」とは言っても、その声はなめらかに低音にまで深い響きがつながり、「メゾ」あるいは「アルト」でも十分通用する、驚異的な音域を誇っています。かつてマゼールの指揮で録音されたマーラーの交響曲第2番(SONY)での「原光」のソロで受けた衝撃、その地を這うような音色は、今でも忘れられまぜーる
最近ではほとんどそのようなジャンルからは引退しているのでしょうか。オペラを歌ったという話は伝わってきませんし、CDのリリースもとんと聞かなくなりました。彼女は今年の誕生日が来れば65才、まだまだ立派に通用する年齢なのでしょうが、確かに「引き際」を考えてもおかしくないような微妙なお年頃ではあります。かつての輝きに満ちたフル・ヴォイスが衰えてしまうのを聴くのは、ファンにとってもつらいことにはちがいありません。
そんなノーマンの最新アルバムは、2009年にベルリンのフィルハーモニーで行われた彼女のソロ・リサイタルのライブ録音です。ただ、そんな録音データは、このパッケージにはどこを探しても記載されていません。しかも、ここには収録されていないはずのミュンヘンやフランクフルトのコンサートでの録音スタッフなどという余計なものが入っているのですから、なんともいい加減な話です。
それはともかく、この2枚組のCDでは、4部構成の彼女のコンサートがすべて味わえます。その第1部は、コンサートのタイトルである「ルーツ」を端的にあらわしている、アフリカのドラムから始まります。有名なスピリチュアルズを、時にはコントラバス1本だけの伴奏で歌ったりしていますが、それは、なかなか小気味よいアレンジです。さらに、彼女の声を最大限に生かすような、朗々たるゴスペル・テイストのものも聴き応えがあります。このコーナーの最後が、なんとバーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」からの「Somewhere」にソウルフルに迫る、というものですから、すごいですよ。当然のことですが、アレンジャーのクレジットはありません。
次のコーナーがかなりの曲者です。タイトルが「The 'A' List」というのですが、ここではニーナ・シモン、リナ・ホーン、エラ・フィッツジェラルド、そしてオデッタという、名前の最後に「A」という文字を持つ黒人女性ヴォーカリストのレパートリーをカバーする、というコンセプトで演奏しています。しかし、それは単なる「カバー」などという生易しいものではなく、それを歌っていた人までをも「カバー」しようという、とてつもないものだったのです。ノーマンの敬愛するそれらのアーティストに、ほとんど「なりきった」歌い方は、オペラであれほどの表現力を見せつけていた彼女にしてはいともたやすいものなのでしょうが、それが、たとえばリナ・ホーンの微妙に暗い音程までをも正確に再現しているのを聴くと、改めて驚かずにはいられません。なんといっても圧巻は、最後に3曲も歌っているオデッタでしょうね。ここでは、「元ネタ」の持つポリティカルなメッセージが、ノーマンの強靭な歌声でさらに増幅されて伝わってきます。
3番目のパートは「フレンチ・コネクション」というタイトルで、プーランクが作ったシャンソンからスタンダード・ナンバー、そして、なんとビゼーの「カルメン」の最も有名なナンバーが歌われています。その「ハバネラ」が、オペラ歌手によって、全くクラシックとはかけ離れた発声で、ボサノバっぽい軽妙なリズムに乗って歌われるのですから、これほど痛快なこともありません。
最後のコーナーは、もうほとんど「ジャズ歌手」のノリで、エリントン・ナンバーなどが歌われます。こんな楽しいことをしながら過ごせる「老後」なんて、なんとうらやましいことでしょう。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

さきおとといのおやぢに会える、か。


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