構えるわ、留守だか〜ら。.... 佐久間學

(10/11/13-12/1)

Blog Version


12月1日

PIERNÉ, FRANCK, FAURÉ
Sonates romantiques
Robert Langevin(Fl)
Jonathan Feldman(Pf)
AVIE/AV2213


ニューヨーク・フィルの首席フルート奏者、ロベール・ランジュヴァンのソロアルバムです。なんかやらしい名前ですね。和風だし。(それは「乱襦袢」)。
カナダで生まれたランジュヴァンは、モントリオールの音楽大学を卒業すると、地元モントリオール交響楽団の団員となります。同じ頃に入団、首席奏者を務めていたのはティモシー・ハッチンス、ランジュヴァンのポストは次席でした。しかし、彼はデュトワと行ったDECCAへのレコーディングでは、次席にもかかわらずソロを任されることがありました。1986年に録音されたビゼーの「アルルの女組曲」と「カルメン組曲」で、有名な「メヌエット」や「間奏曲」のソロを吹いているのは、ランジュヴァンのはずです。ハッチンスほどのしなやかさはありませんが、伸び伸びとした音が聴けますね。
その後、彼はピッツバーグ交響楽団の首席奏者に就任、さらに、2000年には、名門ニューヨーク・フィルの首席の座を射止め、今に至っています。ちなみに、彼の前任者のジーン・バックストレッサーも以前はモントリオール交響楽団の首席奏者でした。さらに、ハッチンスもニューヨーク・フィルからは何度も首席のオファーを受けているのですが、断り続けているのだそうです。モントリオールとニューヨークには、なにか因縁でもあるのでしょうか。
ここでランジュヴァンが演奏しているピエルネ、フランク、フォーレのソナタは、いずれも原曲はヴァイオリンのための作品でした。この時代のオリジナルのフルート・ソナタというものは、極めて数が限られていますから、なんとしてもこれらの素晴らしい作品を自分の楽器で演奏したいというフルーティストの願望は、良く理解できます。そもそもはジャック・ティボーのために作られたピエルネのソナタでも、オリジナルがフルート・ソナタだと思っている人もいることでしょうし、フランクに至っては、もはや完全にフルートのレパートリーと化しているのではないでしょうか。
しかし、フォーレあたりはまだまだフルートで演奏することには抵抗のある向きも多いのかもしれません。この演奏を聴いてみても、3楽章の早いパッセージは、ヴァイオリンの弓を浮かせて軽やかに演奏する、というイメージが、フルートではなかなか出すことが難しいのでは、と感じられなくはないでしょうか。でも、もしかしたら、それはランジュヴァンのちょっと重たすぎる演奏が、そのような思いを誘っているのかもしれません。例えばゴールウェイの1994年の録音(RCA)を聴いてみると、その部分は楽器の違いを超越した軽やかな愉悦感を味わえますから、やって出来ないことはないはずなのですよ。まあ、ゴールウェイと比べるのは酷なことなのかもしれませんが。
しかし、特に他の人と比較してみなくても、ランジュヴァンの演奏にはなにか素っ気ない感じがつきまとっているのは、すぐに分かります。フルートだからこそ、もっと感情を込めて歌って欲しいな、と思うところが、ことごとくあっさり通過されてしまうものですから、聴いていてあまり楽しくないのですよね。フランクなどでそれをやられると、これは悲惨です。正直、全4楽章を聴き終えて、残ったのは疲労感だけだったような気がします。
テクニックは完璧ですし、録音では良く分かりませんが、低音のヌケの良さをみると、おそらくかなり遠くまで響く音なのでしょう。それは、もちろんオーケストラでは最も要求される資質です。しかし、ソリストとしての魅力は、それほど期待しない方がよいのではないでしょうか。
もしかしたら、録音があまり距離感の感じられないデッドなものだったことが、そんな印象を持った要因なのかもしれません。これを聴いて生のフルートの音って、そんなに美しいものではないのだな、と思う人がいたとすれば、それは、この楽器にあまり愛情を持っていないように思えてしまう録音エンジニアの責任です。

CD Artwork © Robert Langevin

11月29日

About Christmas
Berlin Voices
HÄNSSLER/CD98.609


今年もまたクリスマスの季節がやってきましたね。そんな年中行事に合わせて、毎年CDでもクリスマス企画の夥しい数のアルバムが発売されているのでしょう。もっとも、それらはたいがいは一回聴いたら忘れてしまうようなお粗末なものばかり、後世まで名を残すアルバムは、決して多くはありません。
そんな中で、合唱に関しては、1972年にリリースされた「シンガーズ・アンリミテッド」の「Christmas」は、まぎれもない名盤として、40年近く経った現在でも多くの人に聴かれています。

「シンガーズ」は、ジャズをベースにした女声1人、男声3人の4人のグループ、しかし、彼らは「オーバーダビング」によってさらに声部を増やし、圧倒的に豊かなハーモニーを聴かせてくれていました。このアルバムは、彼らがア・カペラで有名、無名のクリスマス・ソングを歌いあげた「宝物」です。
彼らと同じ4人編成ですが、構成が女声2人に男声2人と微妙に異なる、「ベルリン・ヴォイセズ」が作ったクリスマス・アルバムは、もしかしたら「Christmas」同様に長く愛されるものになるかもしれない、と思わせられるほどの完成度を持っていました。2000年にそれぞれソロやコーラスのキャリアを積んできた4人のドイツのジャズ・シンガーが結成したこのコーラスグループは、その先達に負けないほどのテクニックと、小気味良いグルーヴで私たちを魅了してくれていたのです。
このグループがすごいのは、コーラスとしてのアンサンブル能力と、ソリストとしての力を、エスター・カイザー、サラ・カイザー、マルク・セカラ、クリストファー・ベンというそれぞれのメンバーがしっかり備えている、というところです。たとえば「シンガーズ」だと、ボニー・ハーマン以外のメンバーはソロに関してはちょっともの足りませんし、「マンハッタン・トランスファー」ではコーラスにいまいちタイトさがないというように、とかくジャズ・コーラスというと、そのどちらかの要素が欠けていたりするものですが、この「ベルリン」は違います。ソロではちょっと区別が付かないほどよく似た4人のちょっとハスキー気味の声は、コーラスではその見事な均質さで、完璧に一体化しているのですからね。
彼らのスタイルは、ピアノ・トリオと一緒に演奏する、というものです。ここでは、曲によってさまざまなゲストが加わります。定番の「Joy to the World」(クレジットではしっかり「ヘンデル作曲」とありますね。たしかに、言われてみれば「メサイア」の17番「Glory to God」とそっくりです)では、まずアルト・サックスが入るというインスト面が強調されたアレンジ、コーラスはとことんシンコペーションのノリでジャジーに迫ります。かと思うと、「Stille Nacht(つまりSilent Night)」ではア・カペラ、ただし、基本は5拍子というこだわりのアレンジです。
初めて聴いた「It's Christmas Time All Over the World」という曲は、途中でいろいろな言葉で「Merry Christmas」が現れるという楽しいものです。その中には日本語もありますが「良いクリスマス」なんですって。「酔うクリスマス」じゃなくて良かったですね。この曲をアレンジしているのが、「ベルリン」の先輩格にあたる「ニューヨーク・ヴォイセズ」のダーモン・ミーダー、彼はサックス・ソロも聴かせてくれていますよ。これも初めて聴いた、バッハのコラールBWV469Ich Steh an Deiner Krippen Hier」は、ボーナス・トラックに全く別のアレンジが入っています。バッハといいヘンデルといい、しっかりドイツの伝統が反映されているのですから、素敵ですね。
ところどころに、先ほどの「シンガーズ・アンリミテッド」を明らかに意識したようなフレーズが見え隠れしていました。ふと、彼らの録音がSACDで聴けたら嬉しいなぁ、と思ったりもします。日本のユニバーサルだったら、それも可能なのでしょう。来年のクリスマスプレゼントに、待ってます。

CD Artwork © SCM Hänssler

11月27日

VERDI
Messa da Requiem
Barbara Frittoli(Sop), Olga Borodina(MS)
Mario Zeffiri(Ten), Ildar Abdrazakov(Bas)
Riccardo Muti/
Chicago Symphony Orchestra and Chorus
CSO・RESOUND/CSOR 901 1008(hybrid SACD)


アメリカの名門オーケストラ、シカゴ交響楽団の歴代音楽監督は、それぞれレーベルとの間に、密接な関係がありました。1953年から1962年までその任にあって、レコード界に最初の黄金時代を築いたフリッツ・ライナーの時はRCA、さらに、1969年から1991年まで、20年以上音楽監督を務めたゲオルク・ショルティの時代には、DECCAに多くの録音を行い、さらなる黄金時代を迎えました。そして、1991年にそのあとを継いだダニエル・バレンボイムはWARNER系と、それぞれにメジャー・レーベルとの良好な関係を維持していたように見えます。しかし、2006年にバレンボイムがその地位を去る頃には、世の中のレコーディング事情は大きな変化を迎えることになりました。そんな、かつては市場を賑わしていたメジャーたちは、こぞってクラシックの録音からは手を引いていったのです。特に、コストのかかるオーケストラなどは、真っ先に「仕分け」の対象になってしまいます。
大手レーベルを通じてレコード(CD or SACD)を市場に送り出すすべを失ったオーケストラは、自らの手でレコードを製作する道をとることになります。そこで誕生したのが、オーケストラの自主レーベルです。ほかのオーケストラにおくれをとったシカゴ交響楽団も、2007年に「CSO・RESOUND」という自主レーベルを発足させ、当時の指揮者(音楽監督ではありません)であったベルナルド・ハイティンクによるライブ録音を皮切りに、CDSACDのリリースを始めました(なぜか、ハイブリッドSACDだけではなく、少し安めの価格設定でCDも出しています)。
そして、2010年のシーズンから新たに音楽監督への就任が決まったリッカルド・ムーティが、この自主レーベルに初登場です。就任前の1月に行われたヴェルディの「レクイエム」のコンサートの、もちろんライブ録音です。
オケの自主レーベルの多くは録音の良さを売り物にしていますが、こちらもその例にもれず、かつてのPHILIPSのエンジニアなどをスタッフに迎えて、良質の録音を届けてくれています。たぶん、現場では最初からDSDでの録音を行っているのでしょう。ただ、今回のように大人数の合唱(メンバー表には200人近くの名前が)が入った時には、やはり全体の響きをきっちり収めるのはなかなか難しかったような気がします。オケだけの場合はとても繊細な音が再現出来ているのですが、合唱が入るととたんに音が濁ってくるのですね。ですから、ソリストも加わり全体がフルスロットルの音を出しているところでは、とてもSACDならではの余裕のある音の中に浸るということは出来ずに、なんともストレスの募る体験を強いられることになってしまいます。このあたりが、「ライブ録音」の難しいところなのでしょうね。女には任せられません(それは、「ワイフ録音」)。
ただ、もしきちんとした録音が行われていたとしても、この合唱の演奏自体が、とても精度の低い大味なものであるため、やはりストレスが解消されることはなかったのではないでしょうか。なにしろ、ピアニシモの弦楽器に乗って、とてつもない緊張感をもって歌って欲しい冒頭の「Requiem aeternam」が、なんの抑制もされていないノーテンキなおおざっぱさで聞こえてきたものですから、その時点でこの合唱団のことは完全に見限ってしまいましたからね。
ソリストも、万全のコンディションではなかったのでしょう、特にソプラノのフリットリの深すぎるビブラートは、かなり耳障りなものでした。「Agnus Dei」での、メゾのボロディナとのオクターブ・ユニゾンなどは、したがって、悲惨極まりないものになってしまいました。
ムーティの、なんとも巨匠然としたたたずまいは、なにかとてもよそよそしいものに感じられてしまいます。やはり、彼とアメリカのオーケストラは、あまり相性がよくないのかもしれませんね。

SACD Artwork © Chicago Symphony Orchestra

11月25日

Blue Hour(Blaue Stunde)
Andreas Blau(Fl)
Hendrik Heilmann(Pf)
MDG/308 1659-2


ベルリン・フィルの首席フルート奏者のポストを長年にわたって務めているアンドレアス・ブラウのソロアルバムです。どのぐらいの「長年」なのかというと、彼が20歳という若さでベルリン・フィルに入団したのが彼の師であるカールハインツ・ツェラーが退団した1969年ですから、もう40年以上も首席の座にあるということですね。ベルリン・フィルという、「世界最高のオーケストラ」で、これだけ長くトップを吹いている人は、他にはいません。
なにしろ、彼が入団したときにはまだあのカラヤンが指揮者でしたからね。さらに、首席奏者を2人置いているベルリン・フィルでは、もう一人の首席も替わっています。彼と同じ年に入ったのがジェームズ・ゴールウェイ、そのあとが「出戻り」のツェラー、そして現在はエマニュエル・パユですね。
ブラウは、もちろんオーケストラ・プレーヤーとしてだけではなく、ソリストとしての活動も行っています。しかし、彼の「相棒」たちに比べたらそのディスコグラフィーはとても慎ましいものでした。というか、若い頃に録音したモーツァルトのト長調の協奏曲(EMI)や、フルート四重奏曲(DG)以外のディスクは、今まで聴いたことがありませんでした。それが、もう還暦を過ぎた頃にこんなアルバムを出してくれたのは、ちょっとしたサプライズですね。
「青い時」という、まるでフラダンスの上手な女優(それは「蒼井優」)のようなタイトルですが、これは「blue」のドイツ語「blau」と、彼の名前を引っかけたものなのでしょうね。これを見た時には、いつも、まるで堅物そのもののような形相でくそ真面目にオケでのソロを吹いているブラウですから、その「ブルー」にジャズっぽい意味を持たせ、暗〜いジャズのナンバーでも演奏しているのかな、と思ったのですが、それはどうやら考え過ぎだったようです。確かにここに集められた曲はクラシックだけではなく、ポップスもありますが、そこにはジャズの要素は全くありませんでした。
まず、最初に聞こえてきたのがラテンの名曲「ティコ・ティコ」でした。いかにもダンサブルなこの明るい曲を、ブラウはめいっぱい軽やかに吹いてくれています。アクロバティックな細かい音符一つ一つをていねいに、しかも決してリズムを崩さずに演奏している姿は、やはりオケの中でどんな難しいパッセージでも的確にこなしている日常が反映されたものなのでしょう。この年になってもメカニカルな面での衰えが全くないというのは、ある意味驚異的です。
次の曲は、ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」の第2楽章。こちらでは、全く対照的にしっとりと歌う側面が強調されます。それが、ありがちな甘ったるさではなく、あくまで節度を保った中での情感の吐露という、いかにもブラウらしいものであることに、安心させられます。
ここで取り上げられた曲の中では、「タンゴ」がかなりの数を占めているあたりが、ブラウの趣味を感じさせてくれるところです。もちろん、それはピアソラのような現代的なものではなく、「ラ・クンパルシータ」や「オレ・ガッパ」、そして「ジェラシー」といった古典的なタンゴです。ドイツにはコンチネンタル・タンゴの土壌がありますから、もしかしたらブラウは小さい頃からこれらの曲に慣れ親しんで来たのかもしれませんね。クラシックからほどよい距離を保っている「タンゴ」は、確かに彼にとっては全く違和感のないレパートリーなのでしょう。
派手さはないものの、堅実な日頃の積み重ねがそのまま反映されたような、じんわりと良さがしみ出してくるアルバムでした。このような姿勢の方が、第一線で活躍できる演奏家としての寿命が長いのではないか、などと思ってしまいます。そんな意味で勇気を与えられるアルバムでもあります。

CD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

11月23日

Norwegian Wood
1966 Quartet
松浦梨沙, 花井悠希(Vn)
林はるか(Vc), 長篠央子(Pf)
DENON/COCQ-84856


ビートルズナンバーをクラシック風にアレンジしたという、ありきたりのアルバムなのですが、雑誌の広告でこのCDのジャケットを見たとき、猛烈に「これは手に入れたい!」と思ってしまいました。いや、ここに写っている、眉の形をすべて今の流行に揃えている、見事に個性をなくした主体性のないファッションの女性の写真に惹かれたわけでは決してありません。それは、このジャケット全体のデザインに、ただならぬこだわりを見いだしたからに他なりません。誰でもすぐ分かるように、これはあの「ザ・ビートルズ」が1963年に発表したセカンドアルバム、「With the Beatles」をもとに、とてもていねいにパロディに仕上げたものだったからです。これがオリジナル。

4人のメンバーの顔の右側から光を当てたモノクロ写真、というこのジャケットのインパクトを生んでいる要素が、まずきっちり押さえられているのが、うれしいところです。なにしろ、4人の顔の位置関係、大きさなどまで、きっちりとオリジナル通りのプロポーションになっているのですから、感動すら覚えます。さらに、涙が出るほどうれしいのが、レーベルのマークですよ。もちろん、マークもロゴも全く別物なのですが、四角い枠に付けられたグラデーションのおかげで、オリジナルの雰囲気がそっくりそのまま表現されています。秀逸、というよりほかはありません。
このアルバムのプロデューサーが高嶋弘之だと聞けば、そんなところまでしっかりこだわったジャケットが出来上がったのは納得できます。「自称」ヴァイオリニストの高嶋ちさ子の父親としてつとに有名ですが、彼はそもそもはビートルズのアルバムを日本で販売していた「東芝音楽工業(現EMIミュージックジャパン)」でのビートルズ担当のディレクターだったのですね。彼の仕事の一つは、国内盤を発売する際の邦題の作成。たとえばこのアルバムのタイトルとなっている「Norwegian Wood」を「ノルウェーの森」などという、元の歌詞を全く顧みないとんでもないものに変えてしまった邦題などが、彼の「作品」になるわけです。困ったことに、これは小説のタイトルなどにもなって世に広まってしまいましたから、もはや取り返しのつかない事態となっています。ここには収録されてはいない、「Ticket to Ride」の邦題「涙の乗車券」が今ではまず使われることはなくなっているのが、せめてもの救いでしょうか。
そんな、ビートルズに最も近い位置にいながら、微妙にピントのずれたことをやっていた人の作ったアルバムは、ジャケットこそは高い完成度を示したものの、音楽としてはなんとも中途半端な出来にしか仕上がってはいませんでした。いや、中には、なかなかいい仕事をしているものもありますよ。「I Want to Hold Your Hand」(これも、高嶋にかかると「抱きしめたい」ですからね)などは、とてもクラシックのアーティストの片手間仕事とは思えないほどのグルーヴが醸し出されていますしね。「While My Guitar Gently Weeps」のイントロのピアノも、最初のうちはオリジナルと同じ思想を感じられるものでした。しかし、硬質な打鍵の後で、ペダルを使ったアルペジオが出てきたとたん、それは見事に消え去り、お決まりの勘違いの世界が広がってしまうのですがね。
最大の勘違いは、「Eleanor Rigby」。もともと、弦楽器だけといういかにも「クラシック風」のオケを持った曲なのですが、同じ楽器でそのまま演奏すれば「クラシック」になるのだと、安易に考えたところに落とし穴がありました。編曲者の加藤真一郎が用意した譜面からは、なぜかジョージ・マーティンのセンスが漂ってくることはなかったのです。
ジャケットで見せたパロディの精神を忘れ、ひたすら出来の悪いコピーに走ってしまったことが、敗因だったのでしょう。ロックを甘く見てはいけません。

CD Artwork © Nippon Columbia Co., Ltd.

11月21日

PENDERECKI
Credo, Cantata
Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Boy's Choir
Warsaw Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.572032


ペンデレツキの「クレド」は、ヘルムート・リリンクの委嘱によって作られました。世界初演はもちろん、リリンクの指揮により、1998年7月11日にオレゴン州で行われています。そのときの録音がこれ(HÄNSSLER/CD 98.311)。

その1年後、ヴラティスラヴィア・カンタンス音楽祭でのポーランド初演の際の録音も、CDになっていました(CD ACCORD/DICA 34002)。

この時の指揮者はカジミエシュ・コルトでしたが、今回のNAXOSによる2008年の録音は、指揮がヴィットになった他は合唱および合唱指揮、そしてオーケストラも全く同じという陣容です。ソリストはみんな別の人ですがね。これだけ規模の大きい「現代曲」を、10年も経っていないのに再録音をするというのは、ポーランドでのペンデレツキの人気は計り知れないものがあることの証なのでしょうか。世界的な規模ではもはやほとんど顧みられなくなってしまった作曲家でも、母国ではいまだにスーパースターとしてあがめられているに違いありません。
5人のソリストに児童合唱と混声合唱、そして打楽器などがてんこ盛りの大編成のオーケストラという大盤振る舞いに加えて、作品の「尺」も「クレド」だけで50分弱というのですから、これは異様な長さです。なんたって、あの長大なバッハの「ロ短調ミサ」でさえ、その部分は30分ぐらいしかないのですからね。実は、これにはわけがあります。ペンデレツキは、通常のミサのテキストの他に、8箇所にわたって詩篇などからのテキストを加えていたのですね。いえ、別に「水増し」とか「抱き合わせ」などというつもりはありませんよ。きっと、通常文だけでは語り尽くせない強い思いが、この作曲家にはあったのでしょう。
もう一つ、長くなってしまった理由には、声楽の入らないオーケストラだけの部分にかなりの時間を割いていることが挙げられます。そこでは、例えばオーボエやトロンボーンが、切々と歌い上げる哀愁に満ちたフレーズに、人は涙することでしょう。
全体は5つの部分に分かれていますが、その4番目、「Et resurrexit tertia die 主は三日目によみがえり給うた」という復活の場面からは、音楽はさらに輝きを増してきます。まるでヴェルディの「レクイエム」を思わせるような派手なオーケストレーションと合唱の叫び、これには誰しも心地よい高揚感を抱かずにはいられないはずです。次の部分、「Et in Spiritum Sanctum 我は精霊を信ずる」では、中程に、この前の作品「イェルサレムの7つの門」でも使われていた、作曲家自身の考案になる新しい楽器「チューバフォン」が大々的にフィーチャーされていますから、いやが上にもテンションは上がります。束ねた太い塩ビ管の断面をスリッパで叩いて音を出すというだけの「楽器」ですが、その野性的な響きは確かなインパクトを与えてくれます。最後に、彼の大好きなニ長調の美しい和音が鳴り響けば、その余韻に浸れる幸福感を噛みしめることでしょう。
ヴィットが着々と進めているこのレーベルでのペンデレツキ全集では、カップリングの味わいを楽しむことが出来ます。イチゴ味とか(それは「カッププリン」)。異なる作曲年代、つまり、作曲様式を並べることによって、この作曲家の本質を明らかにしようという試みですね。このアルバムでは、1964年に作られた「カンタータ」が収録されています。ラテン語によるフルタイトルは「母校ヤゲロニカ大学を讃えるカンタータ」というもの、その大学の創立600周年(!)を祝って作られたものです。今まで聴いたことのなかった珍しい作品ですが、この時代ですからとことん攻撃的な仕上がりを見せています。正直、お祝いの曲としては引いてしまうような「おっかない」手法が満載、作品の持つ高い志は「クレド」の及ぶところではない、と思わせるのが、おそらくヴィットの魂胆だったのでしょう。
ちなみに、ライナーではこの曲はオーケストラだけのような表記になっていますが、もちろん合唱は入っていますよ。

CD Artwork ©c Naxos Rights International Ltd.

11月19日

MISKINIS
Choral Music
Rupert Gough/
The Choir of Royal Holloway
HYPERION/CDA 67818


このページでは初登場、ヴィタウタス・ミシュキニスという、一見ギリシャ人のような名前ですが、実はリトアニアの作曲家の合唱曲のアルバムです。エストニア、ラトビア、リトアニアという、いわゆる「バルト三国」は「合唱王国」として知られています。この方も、合唱界では非常に有名な人なのですが、普通のクラシック・ファンにとってはまずなじみのない作曲家、こういう人を丁寧に紹介してくれているこのレーベルには、いつも頭が下がります。
ミシュキニスは1954年生まれ、合唱団員として歌ったり、合唱の指揮者として多くの合唱団を育てたりといった、演奏家としての実績が輝かしい上に、合唱曲の作曲家として夥しい数の作品を産み出しているという、すごい人です。さらに、それほどのお年ではないのですが、現在は「エストニア合唱連盟(?)」の会長という要職を務めておられるのだとか、おそらく人望も厚いのでしょう。低い棒の下をくぐるのも、うまいかも(それは「リンボー」)。
ただ、えてしてそんな「偉い」人の場合、出来た作品はそれほど面白くない、ということがあるものです。誰とはいいませんが、まわりにそんな人、いませんか?
しかし、ご安心下さい。ミシュキニスが創りだした音楽は、確かなオリジナリティと、人を惹きつけずにはおかない魅力を持ったものだったのです。また一人、好きな作曲家が増えました。
このアルバムに収録されているのは、すべてア・カペラの作品です。そこでは、人の声だけの集団が作りうる格別の魅力が満載です。まずはその色彩的なハーモニー。おそらくメシアンあたりによって頂点が極められた手法であろう、密集した房状の音符が醸し出す、まるで万華鏡のようなキラキラした音のかたまりは、それだけで豊穣な世界を見せてくれます。7つの小さな曲で出来ている、この中で最も長い作品「Seven O Antiphons」では、そんな色彩の7通りの様相を楽しむことが出来ますよ。
この人の作風は、多岐にわたっています。そんな中で、小さなモチーフをオスティナート(あるいは「リフ」といった方が適当なのかもしれません)風に扱って、その上で息の長いフレーズを展開させる、というのがお気に入りのようですね。ミニマル・ミュージックを思わせるこの手法は、そのミニマルが持っていたはずの原初的なリズムを感じさせてくれるもの、そこからは新しいけれども、なにか懐かしい思いを抱かせられるものが、確かに感じられます。この中では、「Pater noster」や「O magnum mysterium」、「Salva regina」あたりに、そんな要素が含まれているでしょうか。現代的なポリフォニーとも言えるこの手法では、クラスターでさえしっかりと意味のある暖かみを感じられるものになっています。
さらに、リトアニアの民族性に根ざしたモチーフも、見逃すわけにはいきません。パンパイプの一種、「スクドゥチャイ」というリトアニアの民族楽器をフィーチャーした「Neiseik, saulala」などでは、ソプラノ・ソロによる哀愁に満ちた素朴な歌が心の琴線をくすぐります。
そんなさまざまな様相を見せるミシュキニスの作品ですが、そのベースにあるのはやはりとことん合唱に浸りきっていた彼自身の体験なのでしょう。合唱でどれだけの表現が可能なのかを、そして、実際に歌う立場になったときにどれだけの「喜び」を味わえるかと知り尽くしている人が作った曲が、面白くないわけがありません。
「ロイヤル・ホロウェイ」という、ここで歌っている合唱団は、CDで聴くのはおそらくこれが3回目、そのたびに印象が異なって聞こえるという、ちょっとつかみ所のない団体です。おそらく、作曲家への対応が非常に敏感なのでしょう。ここでも、ミシュキニスの特質が、最良の形で伝わってきていました。特に、ハーモニーに対する感覚は、ちょっと過剰すぎる残響とも相まって、とても繊細に聞こえます。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

11月17日

Flute Fantasies
Flute Trios
János Bálint, Imre Kovács(Fl)
Budapest Strings
Eckart Haupt(Fl)
Arkadi Zenziper(Pf), Götz Teutsch(Vc)
CAPRICCIO/C7052


つぶれたとかつぶれないとかいろいろあったようですが、このレーベルはまたコンスタントに新譜を出せるようになったようですね。その案内を見てみたら、新録音に混じって、なんだかちょっと前のアイテムが2枚組になって、1枚の価格で出ているものを見つけたので、フルートのものを買ってみました。確か、どちらも持ってなかったはずなので、無駄になることはありません。
現物を手にしてみると、確かに外箱は新しく印刷されたものですが、CD自体はリイシューではなく、おそらく倉庫に眠っていた売れ残り品をそのままそのケースに入れただけ、という、いわば在庫一掃の抱き合わせでした。まあいいんです。こんなことでもしないことには、産業廃棄物として処分されてしまいますから、かわいそう。つまり、こんな過剰在庫を抱えることもない、というのが、ネット配信の強みなのでしょうがね。ファイルを1個用意するだけで済むのですから、商売的にはパッケージに勝ち目はありません。
中に入っていたのは、1991年に録音され、1993年にリリースされた、ドレスデン・シュターツカペレの首席奏者エッカルト・ハウプトが中心になったトリオ(10 398)と、1996年に録音され1999年にリリースされた、ハンガリーの中堅ヤーノシュ・バーリントのソロアルバム(10 831)です。
まず、バーリントの方。伴奏はピアノではなく、弦楽合奏に編曲されたものです。この方の演奏は、以前ドヴォルジャークなどを聴いていました。その時にはピアノ伴奏のコチシュの個性があまりにも強すぎて(録音も、ピアノばかりが強調されていました)なんとも地味なフルーティストだな、という印象があったものですから、ボルヌの「カルメン幻想曲」や、ブリチャルディの「ヴェニスの謝肉祭」といった、それこそあのゴールウェイが胸のすくような輝かしい録音をのこしているレパートリーを取り上げているのを見て「大丈夫かな?」と思ってしまいました。
確かに、その「カルメン幻想曲」は、かつてのイメージを裏切らないものでした。細かい音符もていねいに吹いていて、演奏上の破綻は全くないものの、ビブラートがおとなしいせいか、なにか「華」に欠けるものがあるのですね。その代わり、バックのストリングスは高音がどぎつくいかにも派手、これは良くあるBGM向けの音源なのではないかと思ってしまいました。あまりアトラクティブな演奏だと、真面目に聴こうとする人が出てきたりしますから、そういう用途には向かないだろうな、と。
しかし、そんなコンセプトだろうと納得しかけて、残りの曲は流しにかかった頃、聞こえてきた「ヴェニスの謝肉祭」が、BGMにはあるまじきインパクトを持った演奏だったのには、それこそ「期待」を裏切られた思いでした。それは、いったい何が起こったのかと思いたくなるようなアグレッシブさを持つものだったのです。フレージングの潔さなどは、まるで見違えるよう。さらに、この難曲にはメロディと伴奏を一人で吹き分けるという技法があちこちに出てくるのですが、その伴奏部分で音色を瞬時に切り替えるのはまさに神業、ここだけとってみればゴールウェイを超えているかも。新たにコヴァーチュという人が加わったドップラーの2本のフルートのための作品も、素晴らしい出来でした。過去の印象による憶測や、一部を聴いただけの評価は大変危険なこと、丸ごと味わってこその掘り出し物でした。
一方のハウプトは、フンメル、ハイドン、ジロヴェツ、ウェーバーというフルート、チェロ、ピアノのための三重奏の定番、いずれもハイテンションのアプローチで、これらの作品の良さを再確認です。もちろん、ハウプトの渋い音色も、存分に堪能できました。まだ買ってない人にとっては、かつてないほどのお買い得。

CD Artwork © Capriccio GmbH

11月15日

RIES
Works for Flute and Piano
Uwe Grodd(Fl)
Matteo Napoli(Pf)
NAXOS/8.572038


なんだかんだ言っても、他のレーベルではまず取り上げることのないマイナーな作曲家のマイナーな作品をこまめにリリースしてくれるのですから、このNAXOSというレーベルは捨てがたいものがあります。なんたって、毎月コンスタントに何十枚と新譜が出るのですからねぇ。でも、CD屋さんは大変でしょうね。今時のクラシックのスペースが少ないお店なんかだったら、これだけでクラシックの棚がいっぱいになってしまいますね。
フェルディナント・リースという超マイナーな作曲家のフルートがらみのアルバムも、ここで取り上げるのは2枚目となりました。前回はアンサンブルでしたが、これはピアノ伴奏の独奏曲、演奏しているのは、このレーベルの常連、以前シューベルトをご紹介したグロットとナポリのチームです。
演奏曲目は、ソナタが2つ、それに「序奏とポロネーズ」という小品と「ポルトガルの聖歌による変奏曲」という、全4曲のラインナップです。ソナタは、それぞれ3楽章形式、「ソナタ・センチメンタル」というタイトルが付いた作品169では、アレグロ、アダージョ、ロンド・アレグロという表記になっています。ベートーヴェンの同時代の作曲としての様式感を持ったものですが、曲想自体はもっと軽やかなサロン風のテイストを持っています。構えることなく、すんなり入って行ける愉悦感がありますから、楽しめます。中でも、真ん中の楽章の抒情性は心を惹かれます。ピアノはフルートの伴奏というよりは、同等、あるいはより高い比重を担っているように感じられます。やはり、ピアニストとしてのリースの面目躍如、といったところなのでしょう。
もう一つの作品87のソナタは、アレグロ、ラルゲット(これは「楽章」というよりは、「つなぎ」といった感じの短いもの)、そして最後の楽章は変奏曲になっています。恥かしくなるほど平易な(というか、拙い)変奏曲のテーマを、技巧をこらして様々な形に仕上げるという、この時代の一つのファッションの典型です。そういえば、「ポロネーズ」というのも、当時はよく使われたモチーフでした。
最後に入っている変奏曲のテーマは「ポルトガルの聖歌」というものですが、これは聴けばすぐ「あの曲か」と分かる、非常に有名なものでした。それは、「♪神の御子は〜」という歌い出しで始まる、あのクリスマス用の賛美歌だったのです。思いがけず、間近に迫った(?)クリスマスの気分に浸れた、幸せな時間でした。意図せぬクリスマス・アルバム、おそらく、この時期に発売を決めた担当者も、こんなことには気付かなかったことでしょう。玄関にでもぶら下げておきましょうね(それは「クリスマス・リース」)。
「ポロネーズ」にしても、「聖歌」にしても、変奏は至極型どおりのもので、それほど高度の技巧が要求されるものではありません。その分、フルートのグロットはいとも伸びやかな、というよりは「ユルい」演奏で和ませてくれています。もちろん、先日のシューベルトを聴いた時点ですでに分かっていたことですが、普通に「難しい」ところはもはやコントロールがままならなくなっているのが、ちょっとかわいそう。音はとても美しいのですが、まあ、年相応の崩れ方を、この人も体験しているところなのでしょう。
それをカバーして余りあるのが、ピアノのナポリです。いつもながらの柔らかい音色で、きっちりこのフルートを支えています。もともと「ソナタ」などは「フルートのオブリガートが付いたピアノソナタ」といった趣のあるものですから、充分にこの作曲家の魅力が伝わるものに仕上がっています。特に作品169のアダージョ楽章などでは、ピアノにこそ高い技術と音楽性が要求されていますから、たとえフルートが甘美に歌っていたとしても、ついピアノ・パートの方に耳が行ってしまいます。もちろん、ピアノがソロをとったりすれば、その胸のすくようなフレーズには虜になってしまうことでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

11月13日

Verismo Arias
Jonas Kaufmann(Ten)
Antonio Pappano/
Accademia Nazionale di Santa Cecilia
DECCA/478 2258


ついこの間初めて名前を知ったばかりだというのに、ヨナス・カウフマンはあっという間に世界中のオペラファンの人気を獲得してしまいましたね。今や、名だたるオペラハウスからは引く手あまた、ザルツブルクやバイロイトのような音楽祭でも引っ張りだこの超売れっ子となっています。来年は、メトロポリタン歌劇場の公演で、ついに日本でも「生」カウフマンにお目にかかれますしね。しかし、その演目が「ドン・カルロ」というのが、ちょっと微妙。さらに会場がNHKホールですから、オペラを見るには最悪の場所ですし、カウフマン自身もキャンセルの「前科」がありますから、いくら大ファンだといっても、おそらくチケット争奪戦に加わることはないでしょう(と、言っておきます)。
しかし、東京のレパートリーがヴェルディだからといって二の足を踏むのは、もしかしたらもったいないことなのかもしれません。今回の彼の3枚目のオペラアリア集は、そんな「ベルカント」を飛び越えて、なんと「ヴェリズモ」なのですからね。いったい、彼のレパートリーはどこまで広がるのでしょう。
ご存じのとおり、「ヴェリズモ」というジャンルは、19世紀後半に楽譜出版社のソンツォーニョによって、半ば人為的に作られたものですが、そこで追及された輝かしいオーケストレーションや、技巧的なアリアといったものは、音楽的な一つの様式として、その時代のオペラに広範に反映されていったのですね。その中では、特にソプラノやテノールのソリストには多大の表現力が要求されることになります。もちろん、彼らの「楽器」である喉への負担もハンパではないため、このあたりの作品をレパートリーにすることには慎重な歌手は、少なからずいるようです。というか、その程度の志でオペラに挑むという人たちが「ヴェリズモ」を歌ったとしても、その成果はたかが知れています。あふれんばかりの声と、そしてエモーションを武器に、果敢に歌いあげてこそ、「ヴェリズモ」の魅力に迫れるのではないでしょうか。
そうなってくると、カウフマンあたりは、まさにこれ以上はない適役のように思えてきます。ワーグナーの力強さを持った甘美なヴェリズモ、これは、確かにハマるかも。
しかし、彼はそんな「期待」には、見事に背いてくれました。彼は、ノーテンキに声を張り上げて美声をひけらかすといった、イタリア人の歌手が良くやるようなパフォーマンスからは見事に距離を置いた、まさに「現実味」あふれる世界を構築していたのです。有名なレオンカヴァッロの「パリアッチ」(ロンドン、こっち)の「Vesti la giubba 衣装を付けろ」では、まるで突き刺すような歌い方で迫ります。「歌う」と言うよりは、あたかも「語る」かのようなその表現は、なんとリアリティを持っていることでしょう。だからこそ、大サビの「ridi, Pagliaccio」での「泣き」が、さらなる現実味を帯びてきます。
かと思うと、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「Mamma, quel vino è generoso ママ、この酒は強いね」では、適度に抜いた声も交えてなんとも軟弱なマザコンぶりを披露してくれています。理知的な表現によって、まさにドラマを演じきっているカウフマン、生のドン・カルロも見てみたくなってきました。
もちろん、ヴェリズモならではのフル・ヴォイスも健在なのですが、そこで時折見られるほんのちょっとした「頑張りすぎ」のようなところが、気になることがあります。あのドミンゴのように、いつまでも衰えないで立派な声を聴かせ続けて欲しいものです。
バックを務めるパッパーノも、いつもながらのドラマティックなサポートが光ります。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

おとといのおやぢに会える、か。


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