ノーブラ・ヘルス。.... 佐久間學

(08/5/12-08/5/30)

Blog Version


5月30日

天才の父 レオポルト・モーツァルトの青春
石井宏著
新潮社刊

ISBN978-4-10-390304-8

レオポルト・モーツァルトといえば、今やクラシック界の作曲家ランキングではダントツの1位を獲得するほどになった大作曲家である息子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの才能をいち早く見抜き、それを磨き上げた父親として知られています。
一方で、音楽家としてのレオポルト本人の姿も、最近では明らかになってきています。かつては彼の代表作と言われていた「おもちゃの交響曲」こそは、今となっては他の人(エドムント・アンゲラー)の作品であることがほぼ確実になってしまいましたが、その他の作品もかなりのものがCDで聴けるようになりました。さらに、彼の著書「ヴァイオリン奏法」(正確には「基本的なヴァイオリン奏法の試みVersuch einer gründlichen Violinschule」)は、まさにヴァイオリン奏法に関する古典的な名著として、各国語に翻訳されて現在でも出版され続けています。日本語版も、全音から出ていますよね。
しかし、そんなレオポルト自身の詳細な生涯や、人間性については、彼の息子に比べたら全くと言っていいほど知られてはいないはずです。
ここで石井さんが企てたのは、レオポルトの若い頃の生き様を、多くの資料を基に明らかにすることでした。しかし、それは退屈な論文でも、主観の勝った偉人伝でもなく、まさにその場にタイムスリップして日々の暮らしを観察しているという、まるでテレビドラマを見ているようなリアリティあふれる筆致による物語でした。別に裸の女性は出てきませんが(それは「ストリップタイム」)。それこそ、ピーター・シェーファーが戯曲や映画の中で描き出した息子の「天敵」アントーニオ・サリエリのように、そこにはレオポルトその人が家業の製本屋を飛び出し、そのような下層階級の人間にとっては高嶺の花のザルツブルクの大学へいそいそと旅立つさまが、いかにもありそうな本人の「セリフ」を交えて描かれています。そして、その大学を中退して楽士になるというプロセスも、実に細かく語られます。世にある文献には、「音楽に夢中になりすぎて、学業をおろそかにしたために、中退を余儀なくされた」というようなことが書かれていたりしますが、実際はそんな単純なものではなかったことが、これを読むと分かるという仕掛けです。もちろん、「アマデウス」がそうであったように、ここに書かれていることが「真実」であるという保証は全くありません。しかし、そんなことよりもこの「仮想生中継」の真に迫る文体には、思わず惹き付けらずにはいられない魅力が潜んでいます。
そして、そこにはリアル・レオポルトだけではなく、通り一遍の音楽史ではつい(あるいは故意に)見逃がされている、当時のドイツ周辺における音楽のあり方や、それに携わる音楽家たちの姿も透けて見えてくるという仕掛けも施されています。もちろん、著者の視点は、以前の著作に見られたような、一般に信じられているものとは微妙に異なっている史観に基づくものですから、かなりショッキングなものには違いありません。当時の音楽家などは、殆ど料理人と同じ程度の扱いしか受けていなかったという事実も、この真実味あふれる文体からは生々しく受け取ることが出来るはずです。
著者が語っているのは、レオポルトが先ほどの「ヴァイオリン奏法」を出版までにこぎ着ける1756年あたりまで、そして、同じ年には彼の最後の子供が生まれます。数年後にその子の才能に気づき、生涯をなげうって「天才」を作り上げ、プロモートを行うことになるモチヴェーションの拠り所は、そこまで読んでくれば自ずと理解出来ることでしょう。この物語の最後に現れるのは、「to be continued」というテロップ、そう、これは次なるドラマへのお膳立てに過ぎないのです。著者の構想によれば、この物語は全部で5巻から成るまさに「大河ドラマ」に仕上がるはずのものなのだそうです。もはや80歳に手が届こうという石井さん、ぜひともお元気でその偉業を成し遂げて欲しいものです。

5月28日

Flute & Friends
Emily Beynon(Fl)
Members of Royal Concertgebouw Orchestra
CHANNEL/CCS SA 26408(hybrid SACD)


ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者エミリー・バイノンは、オーケストラで吹いている現役のフルーティストの中では2番目に好きな人です(1番目はフィルハーモニアのケネス・スミス)。ソロを生で聴いたこともありますが、そのしっかりした音と、細やかな表現はとても好ましいものでした。ソロアルバムも含めて、今までに多くのアルバムを出していましたが、今回久しぶりにリリースされた彼女のアルバムは、コンセルトヘボウの首席奏者(First Chairs)というシリーズの第2弾となります。もちろん、選曲などは全て彼女に任されており、オーケストラの同僚たちとのアンサンブルを楽しんでもらおうという企画ですから、彼女がこのオーケストラからいかに信頼されているかが分かろうというものです。別に酒席を設けて根回しをする必要もないわけでして。
ここで彼女が選んだ曲は、全てが女性作曲家による作品、彼女自身が委嘱した曲も含めて、極めて珍しいものばかりです。その作曲家も、聞いたことがあるのはアメリカ人のエイミー・ビーチただ一人、他の人は今まで全く知らなかった人です。
まずは、1947年にウェールズに生まれたヒラリー・タンのフルート、ヴィオラとハープのための「アマージンの歌より」という、あのドビュッシーの「ソナタ」と同じ編成の曲です。日本の古い音楽にも造詣が深いという作曲家ですが、ここではもっぱらケルト風の旋律が支配的です。ヴィオラのローランド・クレーマーとのアンサンブルが絶妙の美しさを見せています。
次が、ビーチのフルートと弦楽四重奏のための「主題と変奏」という、かなり長い作品です。最初に弦楽四重奏で演奏される、独特の転調が魅力的なテーマに、さまざまな変奏が続きます。それぞれの変奏は特色のあるフォルムを持つものなのですが、この編成自体がどうしても音色的に厚ぼったいものになってしまっている上に、弦楽器のビブラートがかなり耳に付くためになにか冗長な印象は拭えません。いっそ、ノンビブラートで演奏してくれていれば、かなり刺激的だったのではないかと、ちょっとこのメンバーには馴染めませんでした。
そして、ロンドンに1956年に生まれているサリー・ビーミッシュのフルートとピアノのための「私の娘に贈る言葉」は、バイノンの委嘱作品です。今から10年以上前にバイノンが新曲を依頼しようとビーミッシュに電話したところ、電話口には彼女のご主人が出てきて、「今ちょっと手が離せないので、折り返し電話します」と言ったそうです。あとで聞いたら、その時彼女はまさに娘さんを出産していたのだとか。そんなこともあってか、彼女がベースにしたのがジャネット・ペイズリーという人の「私の娘に贈る言葉」という、非常に力強い詩だったのです。出来上がった作品は、フルートの高音を多用した、かなりアヴァン・ギャルドな仕上がりとなっています。ただ、時折メシアンのような息の長いフレーズが顔を見せることもあります。
エジンバラに1928年に生まれたセア・マスグレイヴのフルートとオーボエのための「即興曲」は、まさにこの二つの楽器のバトルとも言うべきもの、アレクセイ・オグリンチュクの芯の太いオーボエとの対決が聴きものです。
最後はかなり時代をさかのぼって、パリのコンセルヴァトワールでアントン・ライヒャに師事したというルイーズ・ファランク(1804−1875)のフルート、チェロとピアノのための「三重奏曲」です。自身も後にコンセルヴァトワールの19世紀でただ一人の女性教授となる彼女の作風は、あくまでオーソドックスなもの、4楽章から成るこの作品も、まるでシューベルトを思い起こさせるような、時代の様式にどっぷり浸かったものです。
ジャケットの写真を見て、バイノンがずいぶん年を取ったような気がしてしまいました。そんな年齢相応の、円熟した音楽性を、この中には聴くことが出来るはずです。

5月26日

音楽遍歴
小泉純一郎著
日本経済新聞出版社刊
(日経プレミアシリーズ
001
ISBN978-4-532-26001-9


書店のクラシック・コーナーにこの本が平積みになっているのを見て、一瞬著者の名前を音楽関係者だと思ってしまいました。こんな名前の評論家、いませんでした?(それは、「小沼純一」)
もちろん、この方は、何代か前の(どのぐらい前だったのかは忘れてしまいましたが)総理大臣をなさっていた、あの人です。確かに、総理在任中にMETの楽屋に行って一緒に歌ったり、バイロイトにヘリコプターで乗り付けたりと、音楽がらみのスキャンダルが大々的に報道されたことがありましたから、政治家にしては音楽に関しての造詣が深いのだな、という程度の認識はありましたが、こんな本まで書いてしまうほどだったとは。もっとも、「著者」とは言ってますが、小泉さん自身が原稿用紙に向かった(いや、今時は普通は「パソコンに向かった」でしょうか)わけではなく、日本経済新聞社文化部編集委員、というよりは殆ど音楽評論家として知られている池田卓夫さんが小泉さんにインタビューをしたものをまとめたという、最近よく見られる形の書物です。それをさらに高付加価値のものとするために、適宜池田さんが注釈を加えたり、巻末にインタビューの中で取り上げられていた作曲家や作品をまとめて解説したりしています。ただ、正直、これらの付属物は、親切心の押し売りのような気がして、なくてもよかったかな、という気がします。
つまり、こんな懇切丁寧な「解説」が邪魔になってしまうほど、この中での小泉さんの「語り」は、生き生きとした情熱をストレートに感じさせられるものだったのです。ご自身のクラシック音楽との出会い、そして、それをより深いものにしていく体験を、これほど率直に語ったものには、そうそうお目にかかれるものではありません。
そこから浮かび上がってくる姿は、紛れもない「クラヲタ」の世界ではありませんか。彼の音楽との出会いがヴァイオリンだった、というのは非常に意外な気がしますが、そこから一筋にヴァイオリンの曲を聴き続けて、ついにはリピンスキなどという、生地ポーランドの音楽学者でも知らないようなマイナーな作曲家の作品にまでたどり着く、という課程が、なんの衒いもなく述べられているのが、ちょっとすごいことです。その結果、これは本編で小泉さんが語っていることではないのですが、そのリピンスキの曲を録音していたポーランドのヴァイオリニスト、クルカが来日したときに、大使館で催されたコンサートに列席した小泉さんに「あなたのリピンスキの演奏が、もっとも素晴らしい」と言われて、目を丸くした、という「事件」につながるわけです。いやあ、こうなると、まさに筋金入りの「マニア」の域まで達していると言わなければいけなくなってしまいます。
そんな小泉さんの「マニア」への極意は、とにかく繰り返し聴いて、最初はほんの一部分だった「気に入った」部分を、だんだん増やしていって、最後にはその曲全部を気に入るようになることなのだそうです。これは、まさにクラシック・ファンの原点ではありませんか。今でこそえらそうにマニアぶっている人たちも、クラシックとのとっかかりは、まさにこの「気に入った部分を増やす」という作業だったのではないでしょうか。あまりにも多くのCDやコンサートにあふれかえっているこの時代、つい、なぜ音楽を聴くのかという初心を忘れがちになっているときに、なんと元総理大臣からその心構えを再認識させられるのですから、油断とは恐ろしいものです。
彼が、ここまでのマニアに育った原動力は、飽くなき好奇心です。それによって、ご自身の精神的な糧はあふれるほど豊かなものになったことでしょう。しかし、その成果はあくまで趣味の領域のみでとどまり、本業の方にはなんら及ぶことがなかったのは、非常に残念なことです。

5月24日

MOZART
Sonaten & Variationen
Peter Waldner(Clavichord)
EXTRAPLATTE/EX-663-2


「クラヴィコード」という楽器のことは、ここで何度となく取り上げていますから、どんなものであるかというおおよそのイメージはお持ちになっていることでしょう。ほかの鍵盤楽器と異なるのは、弦を叩いたり(ピアノやフォルテピアノ)はじいたり(チェンバロ)するのではなく、金属片を弦に「押し当てる」ことによって音を出すという点です。従って、ピアノのような複雑なアクションを用いなくとも、鍵盤を叩く力によって音の大小を付けることが出来ますし、弦に当たった金属片はいわば「駒」に相当するわけですから、鍵盤によってそれを動かせばピッチを変えてビブラートのような効果を出すことも出来るという特徴を持っています。
ただ、この楽器は極めて小さな音しか出せませんから、現代の大きなホールでのコンサートに用いられることはまずありません。それこそちょっとしたお屋敷のサロンなどで、ごく近くでその演奏を聴く、といった特別な機会でもないことには、なかなか実際の生の音を聴くことは難しいでしょう。もちろん、私もまだ生クラヴィコードを聴いた経験はありません。
そんな珍しい楽器なので、どうしても接するのは録音を通して、ということになってしまいます。今まで数種類、この楽器を録音したCDを聴いた時には、その繊細さというものが強く伝わってきていたような気がします。なにしろ弦から発する「楽器としての音」以外にも、アクションなどがかなり派手な音をたてるもののようですから、そんなノイズを聴かせまいとすると、いきおい録音レベルを下げるとか、かなりオフマイクにせざるを得ないのでしょう。その結果、それは遠くの方でかすかに鳴っているような風にしか聞こえては来なかったのです。
ところが、このCDはどうでしょう。そんな楽器の音を、必要なものも必要でないものもまとめて味わってもらおう、という姿勢なのでしょうか、思い切り接近した位置のマイクでとらえられたその音は、現実にはまずあり得ないほどのものすごいものになっていました。言ってみれば、細かいところまでがまるで顕微鏡で拡大されたような音でしょうか。
そういう録音の元で演奏されているのが、モーツァルトのソナタや変奏曲です。しかも、クラヴィコーディスト(?)のヴァルトナーは、かなり豊かなパッションを演奏に込めたがる人のようですから、この楽器の特性をめいっぱい活用して、とてもダイナミックな表現(つまり、極端なクレッシェンドとディミヌエンド)を聴かせてくれています。イ短調のソナタ(K.310)でそれをやってくれるのですから、それはものすごいものがありますよ。まさに超異端の音楽、最初のフレーズの抑揚は、ピアノで演奏してもこれほどのものは表現できないのでは、と思えるほどの、まさに鬼気迫るもの、そのパターンでひたすら押しまくってきますから、正直聴かされる方としてはかなりの疲労を伴うものになってきます。
ただ、そんな疲労感は、ある瞬間を過ぎると快感のようなものに変わることもあります。そして、もしかしたらこんな「優雅」とか「典雅」といった言葉からは遙かに遠くにある演奏と、そして「音響」は、モーツァルト自身が聴いたとしたら、案外気に入ってしまうのではないか、という気持ちにもさせられてしまいます。2楽章あたりで味わえる、まるでマンドリンかリュートのような不思議な響きも魅力を誘うのでは。
「きらきら星変奏曲」はもっとラジカルです。特に、低音の細かい動きでの洗練とはほど遠いたどたどしさと、その時の音色の不均一さは、ほとんどエフェクターによるディストーションのようには聞こえないでしょうか。それは時代を超えて、例えばキース・エマーソンあたりにも通じようかという、躍動に満ちた音楽です。パワフルなロックのスピリットまでモーツァルトから引きだした、これはものすごい演奏(+録音)です。

5月22日

Hard Candy
Madonna
WARNER/9362-49884-9

1958年8月16日生まれと言いますから、もうすぐ50歳の大台を迎えようというマドンナのニュー・アルバムです。いやあ、しかしとてもそんな前期高齢者とは思えないようなこのジャケ写はどうでしょう。なんとも瑞々しいボディ、ただ、「セクシー」と言うよりは「マッチョ」と言った方が似合っているのが、気になりますが。
インターナショナル的にはジャスティン・ティンバレイクやカニエ・ウェストをフィーチャーした「4 Minutes」や「Beat Goes On」などのナンバーがイチオシのチューンなのでしょうが、日本ではなんと言ってもキムタク主演の「月9」ドラマとのタイアップ曲「Miles Away」が注目となっています。そのおかげで、このアルバムはオリコンに初登場1位という快挙を成し遂げました。ドラマも始まり、露出が増えてくると、さらにセールスは伸びることでしょう。
もちろん、その前からこの曲はあちこちで耳にすることが出来ました。しかし、最初に聴いたときには、アコースティック・ギターの爽やかなイントロに乗って歌われるボーカルの主が、まさかマドンナだとは思ってもみませんでした。マドンナと言えば、未だに「Like a Virgin」や「Material Girl」での蓮っ葉な歌い方しか思い浮かびません。かなり前に、ロイド・ウェッバーのミュージカル「エヴィータ」を映画化したときにタイトル・ロールとして出演、もちろん歌も歌っていたのですが(このミュージカルにはセリフは全くありません)、それはまさにミス・キャストそのもの、聴いていて辛くなるようなものだったのです。ま、どんな歌を歌っても多寡がしれているな、と。
そんなマドンナが、いつの間にかこんなに素敵な歌が歌えるようなシンガーになっていました。「Miles Away」の中に聴くことが出来る彼女の声からは以前の拙い歌い方はすっかり影を潜め、素材としての声そのものに安らぎを与えられる力が備わっています。それは、なにか包容力のようなものまで感じられる、そう、まさに「癒し」の力さえ持ったものだったのです。そこには、そのようなものを売り物としているクラシック系のシンガーなどとは比べものにならないほどの魅力すらも見いだせるはずです。これは、年齢を重ねた彼女の、輝かしい到達点なのかもしれません。そして、この曲も、そんな彼女の力をしっかり受け止めた、シンプルな中に静かな訴えかけを秘めた素晴らしい作品です。「♪so far away♪」という最後のフレーズの、なんと心にしみることでしょう。
その他にも、このアルバムには美しい曲があふれています。「Give It 2 Me」などは、いにしえのアラン・パーソンズ・プロジェクトを彷彿とさせるものですし、「Incredible」の明るいコード進行は、まさにポップスの王道を行くものではありませんか。「Devil Wouldn't Recognize You」などという恐ろしいタイトルのものも、イントロや間奏でのピアノのフレーズは懐かしさすら誘うもの、そして「Voices」では、ア・カペラのイントロが意表をつきます。この曲のメロディに、ポール・サイモンの投影を見るのは、そんなに見当はずれではないはずでしょうし(「My Little Town」に似てません?)。
このアルバム自体は、おそらく今の音楽シーンの最先端を行くヒップ・ホップのテイストを前面に押し出したものなのでしょう。それはそれでマーケットの需要として求められているものであることは理解出来ます。おそらく、こういうものを愛好する人は多いことでしょう。しかし、このような深みのある歌が歌えるようになった彼女が、そのような一過性のファッションに決して甘んじていることはないだろうというのも、容易に想像できる一つの真理です。猥雑なラップや、スピーカーが壊れているのでは、と心配してしまうほどの歪みのかかったベースラインの陰から聞こえてくる彼女の本心にこそ、ここでは気づくべきなのかもしれません。

5月20日

RZEWSKI
The People United Will Never Be Defeated!
Ralph van Raat(Pf)
NAXOS/8.559360


「不屈の民(正確なタイトルは、『団結した人民は決して敗れることはない!』)変奏曲」というのは、アメリカの作曲家フレデリック・ジェフスキが、アーシュラ・オッペンスの委嘱によって1975年に書いた作品です。テーマとなったのはチリの民主化闘争の中から生まれた曲、それを元に作られた6曲ずつ6つのグループに分けられる、全部で36の変奏が続きます。それぞれのグループでは、まるである特定の作曲様式を模したような変奏が行われていて、それらが集まったさまは、さながら「現代音楽」の諸相が一堂に会したような趣を見せています。それこそ、ガチガチのセリー・アンテグラル風のものからチリの民族音楽でしょうか、フォルクローレのテイスト、そして「まるでフリー・ジャズのフレーズをそのまま楽譜に書いたような」(ファン・ラート)アグレッシブなノリがあったかと思うと、その頃の最先端のファッションであった「ミニマル」っぽい様式まで登場するのですから、たまりません。
しかし、この曲を日本にいち早く紹介した高橋悠治たちは、もっと別なところに注目していました。言うまでもなく、それは、このテーマとなった人民ソングの世界、実はこの曲にはもう2つ、同じような用途で歌われていた歌も引用されているのですが、そのような「闘争」の姿勢を強く打ち出すために、197712月9日に芝の増上寺(!)で行われた日本初演の場では、「盟友」林光が、悠治の演奏に先立ってその3曲を「みごとなソルフェージュで」(柴田南雄)披露するという一幕もあったのです。
初演者のオッペンスによる録音(VANGUARD)もあったはずですが、日本初演直後の1978年に録音された悠治のレコード(ALM)は、長い間この曲の定番として君臨していました。作曲者自身も、2度にわたって自作を録音していますし(HAT ART, NONESUCH)、2007年のライブの模様をDVD(VAI)で見ることも出来ます。それは、朴訥ではあるものの、まさに「共感」に満ちた「熱い」演奏です。
しかし、1998年に、ヴィルトゥオーゾ・ピアノの旗手マルク・アンドレ・アムランによって録音(HYPERION)されたことにより、この曲を巡る状況は一変することになります。なにも「闘争」の心がなくとも、この難曲を、目の覚めるような鮮やかさで弾き切った時に生まれるある種の爽快感によって、別の意味の感動が得られることを、人々は知ってしまったのです。
1992年のスティーヴン・ドゥルーリーの録音(NEW ALBION)に続いて2007年にこの難曲に挑戦したラルフ・ファン・ラートも、アムランの偉業を追いかけていたに違いありません。ここからは、しかし、アムランのような鬼気迫る超絶技巧で勝負するのではなく、もっと乾いた語り口で訴えようとしている姿勢が見られます。当然のことながら、そこからは悠治やジェフスキ本人のこだわった「熱さ」は、感じるべくもありません。
この曲では、36番目の変奏が終わり、最後にテーマが再現される前に、演奏者による即興的なカデンツァが挿入されるようになっています。それを聴き比べるのも、この曲の醍醐味。ファン・ラートの場合は、いきなり内部の弦を直接弾く、という反則技を仕掛けてきます。そして、第27変奏に登場したミニマルのフレーズの引用を延々と繰り広げるというカデンツァに仕上がっています。
しかし、このCDには大きな問題が潜んでいました。1曲丸ごと1トラック、変奏ごとには全くトラック・ナンバーは打たれていないのです。変奏は続けて演奏されますから、楽譜がないことにはその変わり目は分かりません。もちろん、どこからがカデンツァなのか、などとは、普通の人には絶対判別できないことでしょう。ちょっとこれは困ったことです。そればかりか、タスキで「1トラック60分超えと言うのも、聞き手にとっての試練(原文のまま)」などと茶化しにかかっている日本の代理店にも困ったもの。彼らの感覚は汚れきっています(「不潔の民」)。もちろん、こちらの音源も、1トラックです。

5月18日

XENAKIS
Orchesral Works Vol.5
Arturo Tamayo/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1113


このレーベルのクセナキス管弦楽曲全集は、2004年の第4集を最後にリリースがばったり途絶えていたものですから、もしや打ちきりになったのでは、と心配していたところでした。そんな、待ちに待った第5集は彼の最初期の作品集となっています。彼の華々しいデビュー作「メタスタシス」(1954)に始まって、次作「ピトプラクタ」(1956)、最初にコンピューターを導入した「ST/48」(1956)、続く「アホリプシス」(1957)、「シルモス」(1959)、そして最初の舞台作品である「ヒケティデス」(1964)までの6曲が、ここには収録されています。
今までの全集でも世界初録音が多く含まれていたように、クセナキスのオーケストラ作品はなかなか録音されることがありません。このラインナップでは、「ヒケティデス」は現在他にCDとして入手可能な音源は市場には出ていないはずで。その他の曲も、かつて録音されたのははるか昔のことで、「ピトプラクタ」などは、唯一の録音であるル・ルー盤が1965年のものですから、40年以上新しい録音が現れてはいなかったことになります。久々にデジタル録音によって(SACDではなかったのが残念ですが)再録音された彼の原点を、堪能することにしましょうか。その前に、ここで、手元にある以前の録音と、今回のものの演奏時間を、ちょっと比べてみましょう。
メタスタシス:8:551965/ル・ルー)→7:35
ピトプラクタ:9:451965/ル・ルー)→10:35
ST/488:221974/タバシュニク)→10:40
アホリプシス:5:191969/シモノヴィッチ)→6:38
シルモス:11:381969/コンスタン)→12:16
「メタスタシス」以外は、どの曲もかなりゆっくり演奏されていることが分かりますね。確かに、初演当時の演奏には、ただならぬ切迫感のようなものが漂っている様な気がしないでもありません。難しい曲をテンポを落とさずに演奏する、というのが、いわばステイタスだったような時代だったのでしょうね。しかし、作られてから半世紀(!)も経つと、単なるテクニックではなく、もっと「流れ」のようなものを取り込む余裕が出てくるのかもしれません。「メタスタシス」の場合はグリッサンドが大部分を占めているので、そこはあまり粘らずにあっさり処理をした結果だとか。潤滑油を付けて(それは「グリース」)。
しかし、それにもかかわらず、これらの曲を聴き比べた印象というものは殆ど変わらないのには、今さらながら驚かされます。確率論や統計論を音楽に導入するという画期的な作曲技法で作られたクセナキスの作品は、特にこの時代のものは妥協を許さない孤高の世界を形作っていて、演奏時間などには左右されない確固たるものがあるのでしょう。そのようなものは、もしかしたら、もはや現代では意味を失ってしまったものなのかもしれない、という感慨が起こってくるのを避けるわけにはいきません。61人もの生身の人間がそれぞれ異なる楽譜を演奏するというような正直「採算の合わない」ことは、今ではコンピューターによっていとも容易に置き換えることが可能な時代になってしまいました。40年ぶりの録音も、おそらくこれ以降行われることはないような気がしてなりません。そういう意味で、これは極めて貴重な録音となりました。
ここで初めて聴けることになった「ヒケティデス」は、エピダウロスの古代劇場(1988年には世界遺産に登録されました)で上演するために1964年に作られたものです。その時には50人の女声合唱がそれぞれ打楽器も演奏するという形でパフォーマンスが行われたそうですが、出版されたときには2本ずつのトランペットとトロンボーン、そして、ヴィオラの入らない24人の弦楽器奏者のためのオーケストラ曲という形になっていました。この曲の最後に、おそらく民謡のようなものの引用なのでしょう、金管がそれまでと全く質の異なるメロディアスなフレーズを演奏します。これをもって、彼のひとつの時代が終わったと認識させるのも、このアルバムの重要なメッセージだったのかもしれません。

5月16日

SHOSTAKOVICH
Symphony No.5
Christoph Eschenbach/
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1109-5(hybrid SACD)


ショスタコーヴィチの交響曲、いや、全作品の中で最も親しまれているのは、この交響曲第5番ではないでしょうか。特に、フィナーレのかっこよさは誰しも興奮を覚えるもの、この部分のテンポ設定を巡ってマニアックな分析などを語り始めようものなら、いっぱしのショスタコおたくへの道をまっしぐらに走り始めるまでにはそんなに時間はかからないことでしょう。しかし、そのような表面的な華やかさに酔いしれているうちに、もしかしたらそこには強烈な毒が込められているのではないかと気づく日が来るはずです。その時こそが、真の「タコヲタ」への入り口なのです。
エッシェンバッハがここで企てているのは、この曲における二面性をはっきりとした形で提示することでした。つまり彼は、ショスタコーヴィチが曲を作るにあたって「本気モード」で作った部分と、「おちゃらけモード」で作った部分とを誰にも分かるように描き分けているのです。第1楽章あたりは、さしずめ「本気モード」でしょうか。2003年に音楽監督に就任して以来、確かな信頼関係を築きあげてきたフィラデルフィア管弦楽団から、彼は極上の響きを引き出しつつ、作曲者の本音を紡いでいきます。例えば弦楽器の華やかになってしまう一歩手前の音色が、それを見事に表現していくのです。極端にゆっくりとしたテンポに乗って、時折、いったいこの先どこへ行ってしまうのだろうという不安に駆られるほどの空虚なたたずまいが現れたときには、まさに指揮者の術中にはまってしまっていることを自覚するはずです。
そして、第2楽章が、普通の演奏ではよく見られるキビキビとした面持ちではなく、なんとももっさりとしたテイストで始まったとき、これが明らかに「おちゃらけモード」の音楽であることに気づくことでしょう。跳躍の多い大げさなメロディ、派手な身振りの空騒ぎは、決して額面通りに受け取るべきものではない、もっとどす黒いアイロニーに満ちあふれたものに聞こえてはこないでしょうか。そして、それを仕上げるのが、ひとくさり踊りまくった後の終止に向けてのこれ見よがしのリタルダンドです。チェロのピチカートに乗ったヴァイオリン・ソロの、見事なグロテスクさも、要注意。ただ、これと同じことをやるフルートが、フツーに生真面目な演奏となっているのが、ちょっと惜しいところでしょうか。
第3楽章は、もちろん「本気モード」満載の、充実した仕上がりです。ここでもエッシェンバッハは、じっくりと作曲家の肉声を届けるべく、あらゆる手だてを仕掛けてきます。中でも格別に印象深いのは、ちょうど真ん中あたりでしょうか、ヴァイオリンのかすかなトレモロだけを伴奏に奏でられるオーボエのソロの部分です。その楽章の寂寞感をすべて一人で背負い込んだその音色と、絶妙のノン・ビブラートは、まさに絶品でした。それに応えるクラリネットも、暗い音色は見事なものです。ただ、そのバックで吹いているフルートに、ビブラート過多の明るさがあるのが気になります。それはちょっとした不都合の予兆、その後でそのフルートのソロが巡ってきたとき、その、何も考えていない一本調子なケナーのビブラート(まるで、ウニャ・ラモスのケーナのような)に、失望感を味わうことになるのです。2回目のCの音も外してしまっていますし。
ここまで聴いてくれば、フィナーレが「おちゃらけモード」であることは誰にも分かります。行進曲の馬鹿騒ぎは、どんなテンポで演奏しようが、いや、へたに小細工を弄するだけ、その「毒」が効いてくるのがよく分かります。もちろん、美しいホルンソロで始まる部分からは一瞬の「本気モード」が始まります。そこで「強制された歓喜」の正体を体験した後では、行進曲の再現は滑稽なものでしかあり得ません。
すごすぎます。エッシェンバッハ。

5月14日

MAHLER
Symphonie No.1
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
TUDOR/7147(hybrid SACD)


ノットとバンベルク交響楽団のマーラー第2弾です。前回「5番」が出たときはそれほど強い印象はなかったのですが、今回はその素晴らしい録音に、まず魅了されてしまいました。第1楽章の冒頭で演奏される弦楽器のフラジオ(ハーモニクス)の、なんと美しいことでしょう。塩加減も頃合いですし(それは「甘塩」)。それは、おそらく生で聴いてもこれほどピュアな響きを感じるのは難しいのでは、と思えるほどの、透明で、なおかつ芯のあるものだったのです。ただ、同じ部分をCDレイヤーで聞き比べてみるとそれほどではない平板なものだったので、これはまさにSACDのフォーマットでしかなし得ないことだったのでしょう。確かに、「5番」を聴いた頃にはまだCDしか聴くことは出来ませんでした。
この楽章、弦楽器の普通の奏法でも、とってもふんわりとした、幸せになれる響きが心地よいものでした。このオーケストラが、こんなに洗練された音色をもっていたなんて、ちょっと意外な発見です。そんな美しい響きに乗って、ノットの指揮はあくまで穏やかに進んでいきます。そこにはマーラーの持つ「熱」や「狂気」といったものは皆無です。それだからこそ、この楽章の最後のクライマックスも、不必要な盛り上げ方をしなくても、すんなり快適な高揚感を与えることが出来ているのでしょう。
そのような知的な設計は、全曲を通して完璧に構築されているように見えます。最後の楽章でも、さまざまな要素が飛び交う場面で一緒になってハイにさせられる、ということは決してありません。むしろ、そんな素材を冷静に眺めているうちに、いつの間にかクスリが効いてきたかな、と感じられるようなある意味爽やかさが感じられるのです。それは、聴くものを置き去りにして突き進むナルシズムとは対極に位置する、真に聴衆の心をつかむことの出来る演奏なのかもしれません。
このSACDのパッケージ、「5番」のときは普通の輸入盤をそのままの形で販売していましたが、今回は日本語のタスキと、「特別日本語解説」というものが輸入代理店によって添付されるようになっています。最近はこういう形の「輸入盤」が増えているような気がします。一見国内盤にも思えてしまうパッケージですから、おそらくこういう風にしておくと、例えば「レコード芸術」あたりの国内盤の批評コーナーで取り上げてもらえるのかもしれませんね。それはそれで宣伝になって結構なことなのですが、その分タスキを印刷したり、それを1枚1枚袋に入れたりという(これは手作業ですからバカにはなりません)コストがかさんで、価格が上がってしまうのは困ったものです。メーカーの宣伝のための費用を、なぜ消費者が負担しなければならないのでしょうか。
しかも、その「特別日本語解説」というのが、とんでもない代物でした。演奏者のプロフィールは本来のライナーノーツをきちんと翻訳したものなのに、肝心の「解説」は、それとは全く無関係な、熱狂的にこの演奏を褒め称えるだけという稚拙な「提灯記事」だったのですからね。こういう文章は「国内盤」にはよく見られるものです。しかし、そういう記事にはきちんと大先生の署名がありますから、それなりの重さ(あるいは責任)が感じられますが、ここには書いた人の名前すら記されてはいません。これは、おそらく代理店の人が、例えば販売店に流すインフォのノリで書いたものなのでしょう。そのような、ある種いい加減な情報と同じものを、一般消費者を相手に「特別解説」などと偽って読ませるというのは、とても許されることではありません。
今回初めてSACD環境で彼らの録音を聴いてみて、そのクオリティの高さに感服し、せっかく良い気持ちになっているというに、それに水を差すような「日本語解説」。この代理店は、絶対なにか勘違いを犯しています。

5月12日

OLDFIELD
Tubular Bells
Elizabeth Bergmann(Pf)
Marcel Bergmann(Pf)
Jerome van Veen(Pf)
Sandra van Veen(Pf)
BRILLIANT/8812


マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」という曲は、まるでリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」のような扱いを受けてはいないでしょうか。共通しているのは、いずれも映画の音楽として使われたために大ヒットしたということ。そして、有名になったのは、それぞれの曲のごく一部分だけだったということです。
ご存じのように、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」で、まるでライトモチーフのような使い方をされた「ツァラ」の冒頭のトランペットのファンファーレに続く壮大な部分は、その映画の画面と見事なマッチングを見せて、殆どそこだけで単独に演奏されるようになっています。それ以降の残り90%は、まず聴かれることはないでしょう(この曲が使われるようになった経緯はこちら)。
同じように、「チューブラー・ベルズ」も、オープニングのミニマル風の部分が1973年に公開されたホラー映画「エクソシスト」の中で使用されたために、一躍有名になったという経歴を持っています。実際はLPの両面をそれぞれ「Part 1」、「Part 2」と分けた演奏時間が50分に及ぶ大作なのですが、こちらも全曲が、例えばラジオなどで紹介される機会などは皆無でしょう。
オールドフィールドがこの曲を作った1972年といえば、当時のミニマル・ミュージックの牽引者であったスティーヴ・ライヒが、それまでのコンセプトであった「音のズレ」から、スタイルをややホモフォニックなものにシフトしかけたあたりになるのでしょうか。その時のオールドフィールドの手法は、ですから、すでにライヒのスタイルを先取りしたものになっていました。さらに、マニエル・ゲッチングが、「アシュラ」名義でシークエンサーを使って同じような表現を試みたアルバム「New Age of Earth」を発表するのは、もっと先の1976年のことになります。
オリジナルは、オールドフィールド自身とサポート・ミュージシャンによる多くの楽器の演奏を多重録音で重ねたという、手間のかかったものです。それをライブで演奏出来るように、オーケストラのために編曲されたものが、1974年には、ロイヤル・フィルにオールドフィールドのギターがフィーチャーされて発表されています。それから30年経った2005年に、マルセル・ベルグマンを始めとする4人のピアニストがリアルタイムで演奏した、というのがこのアルバムです。
編曲も行ったベルグマンは前半の「Part 1」の部分だけを使って、2台のピアノ+2台のシンセサイザーのためのバージョンと、4台のピアノのためのバージョンという2つのものを用意しました。おそらく、その2つは同じ譜面を演奏しているのでしょう。そこで半分のメンバーがピアノではなくシンセを弾くことによって、よりオリジナルに近い音色が得られると考えたのでしょうか。その試み、単なる好みの問題かもしれませんが、ピアノだけの方がより完成度の高さが感じられるものに仕上がってしまったのは、ちょっと皮肉なことです。オリジナルの持つ、後のコンピューターの「打ち込み」からは決して得られないようなかなりいい加減なテイストが、この4人のピアニストによって忠実に再現されているのは良いのですが、そこにシンセの「手弾き」で例えばベース・ギターの模倣などが入ってくると、そこだけちょっと浮いてしまうのですよ。それだったらピアノだけの方がいくらかマシかな。というところでしょうか。
ですから、宙ぶらりんに同じものを2回聴かせるぐらいなら、その代わりに「Part 2」をしっかり録音して欲しかった、というのが正直な気持ちです。今となってはライヒの亜流にしか聞こえない(事実はそうではありませんが)「エクソシスト」のフレーズは、この壮大な作品のほんの一部でしかないということこそを、全曲の演奏から知らしめるべきではなかったのか、と。

おとといのおやぢに会える、か。


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