肩凝りに、ドライアイス。.... 佐久間學

(09/9/8-9/26)

Blog Version


9月26日

BRAHMS
Symphony No.3, Choral Works
John Eliot Gardiner/
The Monteverdi Choir
Orchestre Révolutionnaire et Romantique
SOLI DEO GLORIA/SDG 704


2007年から始まった、ガーディナーとオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークのコンビによるブラームスの交響曲ツィクルスは、録音はすでに完了しているようですね。番号順にリリースを重ねて、今回が「第3番」の登場です。今までのCDと同じように、交響曲と同時にブラームスなどの合唱作品も演奏するというユニークなコンサートでのライブ録音で、カップリングは合唱曲です。演奏しているのは、もちろんガーディナーの手兵、モンテヴェルディ合唱団、オーケストラのコンサートにもかかわらず、無伴奏の合唱曲まで聴けるというあたりが、合唱ファンにとっては嬉しいところでしょう。
最初に入っているのが、そんな無伴奏の男声合唱「私は角笛を苦しみの谷で鳴らす Ich schwing mein Horn ins Jammertal」です。この合唱団を支える男声の素晴らしさを堪能できる演奏、若々しい声が心地よく響きます。音楽はあくまで前向き、決して停滞することはなく、サクサクと小気味よく運ばれます。
メインの交響曲が、まさにその男声合唱と全く変わらないテイストで演奏されているというのが、このような形のコンサートを敢行することの意味を良く理解させてくれるものです。第1楽章冒頭の管楽器によるイントロは、澄み切った男声合唱のような力強さにあふれたもの、それは、曲全体に満ちあふれている若々しさを高らかに叫び上げるものでした。そこには、ブラームスと聞いて思い浮かべるような重苦しさはかけらすらも見られません。速すぎるかな、というほどの軽快なテンポに乗って、そこにはまるでメンデルスゾーンのような前期ロマン派の香りが漂います。
オーケストラはもちろんオリジナル楽器を使っている団体です。そこで自ずと比較したくなるのは、ノリントンの最近の一連の録音でしょう。彼が、モダン・オーケストラにもビブラートを使わせないで、独特の「ピュア」なサウンドを目指しているのとは対照的に、ガーディナーはピリオド楽器であるにもかかわらず、弦楽器にはたっぷりとビブラートをかけさせているように聞こえます。ノリントンによる禁欲的なアプローチは、響きの純粋さとともに、時折音楽が「死んでいる」と感じられる瞬間が有ったものですが、こちらの方は、なんのストレスもなく生理的にすっきり感じられます。第3楽章の有名なテーマも、やはりこのようにたっぷりしたビブラートとともに聴きたいものだ、と、再確認です。このテーマがホルンで現れるときの、ナチュラル楽器ならではのちょっとした音程の不均一さあたりこそが、ピリオド楽器による演奏の本当の醍醐味なのではないでしょうか。
したがって、これだけ速いテンポの中では、メカニカル的にモダン楽器には遅れを取っている木管楽器が、ちょっと辛い思いを味わわなければならないことになってしまいます。彼らは、コラールなどのアンサンブルではとても溶け合った見事なハーモニーで暖かい響きを作り上げ、全体の演奏に貢献しているものの、細かい音符のフレーズでソロを吹いたり、お互いが掛け合いを行ったりしている部分では、ちょっとみっともないな、と思えなくもありません。ただ、それは「オリジナル」ならではの味であると思えるギリギリの許容範囲ではありますが。
このCDには、会場の異なる2種類の録音が含まれています。オーケストラ伴奏による「悲歌 Nänie」だけが、合唱のメンバーとオーケストラの編成が違うので別の場所でのセッションだとは分かります。管楽器の聞こえかたなどが全く違っているので、ちょっと興味のあるところなのですが、いったいどちらがどこなのか、このクレジットでは分からないのが残念です。
女声合唱によるカノン「もの憂い恋のうらみ Einförmig ist der Liebe Gram」は初めて聴きましたが、シューベルトの「冬の旅」の終曲と同じメロディだったのにはびっくり。こういうのも盗作になるのかのん

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd

9月24日

The Swingle Singers
The Swingle Singers
VIRGIN/966956 2


「スウィングル・シンガーズ」というのがどういう歴史を持つ団体なのかは、こちらにコンパクトにまとめてありますので参照してみて下さい。創立以来40年以上も第一線で活躍している8人編成のコーラスグループです。
もちろん、そんな長い期間ずっとメンバーだった人などは、いるわけがありません。名前の由来となった、創設者ウォード・スウィングルも、いまでは完全に引退していますし、今まで何度もすべてのメンバーを入れ替えるということを行っているのですからね。現在のグループは10年ほど前にやはりすべて入れ替わった人たちで構成されています。その際に、それまで所属していたVIRGINレーベルを離れ、最近ではSIGNUMあたりからアルバムを出しているようですね。
今回発売された4枚組のアンソロジーは、彼らがVIRGIN時代に残したオリジナルアルバムから4枚を、そのままの形で集めたものです。レジ袋は要りません(それは「エコロジー」)。1991年にリリースされた「A Cappella Amadeus」と「Around the World」、1994年の「Bach Hits Back」、そして1995年の「1812」です。
センセーショナルなデビュー当時、そして一度解散してイギリスで再スタートを切った、まだスウィングルがメンバーの一員として活躍していた頃にこそ注目してはいたものの、この時期の「普通の」グループになってしまった彼らには、正直、全く関心がありませんでした。CDが出ても聴くことはありませんでしたし、すぐ近くまでやって来てコンサートを開いても、逆にこんな田舎までやって来るなんて、なんと落ちぶれたものだ、と思ってしまい、知らんぷりです。
それでも、CDが4枚も入って1700円ほどで買えるとなれば、聴いてみたいと思うじゃないですか。ダメもと、というやつですね。しかし、期待していなかったものが結構良かったりするのは世の常、これもなかなか楽しめるアルバムでした。
Amadeus」は、もちろんモーツァルトの作品のカバーです。交響曲第40番を、大幅なカットを入れつつも4楽章全部を8人の声だけで、確かな緊張感を維持したままで演奏していたのには、かなり驚かされました。彼らのテクニックは、昔とは比べものにならないほど上達しています(はっきり言って、昔はかなりヘタでした)。かつてはドラムスやベースも加えて演奏されていた、スウィングルが編曲した楽譜を使っての「アイネクライネ」の最後の楽章では、「ボイパ」でドラムスの代用をあっさりやってのけて、ジャズっぽいノリを見せていますし。そして、おそらくこの頃からの新機軸なのでしょう、オペラのアリアや合唱曲を、声楽の部分とオケの部分をともにコーラスでやってしまうというユニークなナンバーが聴かれます。「コジ」のフェランドのアリア「Un aura amorosa」など、なかなか堂に入ったものですよ。
Bach」でもその路線は貫かれているようで、コラール前奏曲を演奏したあとに、その元ネタのコラールを歌うという、クラシック顔負けのアイディアも盛り込まれています。「ロ短調」や「マタイ」の曲を、モーツァルトとは逆にスキャットだけで演奏する、という肩すかしもありますし。
1812」はライブアルバム、彼らのテクニックがスタジオの中だけではなく、お客さんの前でも完璧に通用することが、これを聴けば良く分かります。タイトル曲はもちろんチャイコフスキーですが、ドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの3つの歌」などという「合唱曲」などまできちんと歌っているのにもびっくり。
一番楽しめたのは、世界の民謡をかなり凝った編曲で聴かせる「Around the World」でした。民族楽器の模倣などもしっかり決まっているからでしょうか、殆ど聴いたことのない曲にもかかわらず、しっかりその国の情感に浸れてしまいましたよ。
いまのグループもそうですが、どんなことをやっても彼らにはなぜか昔のままのテイストがそのまましっかり残っているから不思議です。

CD Artwork © EMI Records Ltd./Virgin Classics

9月22日

BERNSTEIN
Mass
Alan Titus(Celebrant)
Leonard Bernstein/
Norman Scribner Choir
The Berkshire Boy Choir
Orchestra
SONY/88697279882


最新の「レコード芸術」を読んでみたら、「海外盤試聴記」に先日ご紹介したバーンスタインの「ミサ」のレビューが載っていました。国内盤の発売は10月ですから、これを書いた方は輸入盤を入手したのでしょうか。あるいは、メーカーからサンプルとして貸与された物を聴かれたのでしょうか。なんだか、いつの間にか輸入盤のレビューも、国内盤と変わらないようなプロモーションの場となってしまったようで、白けてしまいますね。
それはともかく、そのレビューを読んでみたら、「この曲はミュージカルだ」と書いてあるのにはびっくりしてしまいました。私と同じ着眼点でこの曲をとらえている人は、他にもいたのですね。まさか、私のレビューを読んでから、その原稿を書いたわけではないでしょうがね。
その「おやぢ」を書いたときには、作曲家自身の演奏も聴いてみたかったのですが、とっくに廃盤になっていると思って捜してみもしませんでした。しかし、「レコ芸」でのレビューではそれについても触れています。そうなると、やはりこのアイテムを避けて通ることは出来ません。
と思っていたら、なんと1年ほど前にバーンスタインの自作自演を集めたオリジナル紙ジャケの10枚入りボックスが出たときに、その中にこの曲も入っていたのが分かったので、あわてて入手です。確かにそれは、小さくなってはいましたが、昔それこそ「レコ芸」あたりの広告で見たのと同じジャケットでした。
この自作自演盤を聴いてみたかったのは、そもそもバーンスタインはこの作品でどのようなものを目指していたのか、知りたかったからです。それには、まず演奏者のクレジットが役に立ちます。メインであるはずのオーケストラは、ただ「Orchestra」と表記されているだけで、固有の名前があるわけではありません。つまり、常設の団体ではなく、このイベント、ケネディ・センター(The John F. Kennedy Center for the Performing Arts)のこけら落としのために集められたテンポラリーなオーケストラ、と言うか、ほとんど「バンド」であることが分かります。つまり、エレキギターやドラムセットのような、クラシックのオーケストラにはちょっと違和感のある楽器たちも、至極すんなり溶け込めるユニットの形態がとられているということ、これは、この作品の性格を語る上で、かなり重要なファクターになってくるはずです。
そして、それ以上に作品の性格を左右するはずの「セレブラント」のキャラクターにも注目してみましょう。ブックレットにある、ロン毛でギターを持った姿のタイタスは、当時の最先端のファッション「ヒッピー」そのものではありませんか。これが録音されたときにはまだジュリアードの学生だったアラン・タイタスは、その30年後にはバイロイトでオランダ人やヴォータンを歌うことになることなど想像できないような、まさにクラシックとは無縁のパフォーマンスに終始していました。これこそが、作曲家が望んだセレブラントのあるべき姿だったのではないでしょうか。
それに対して、「ロック」や「ゴスペル」を歌うストリート・シンガーたちには、何かと中途半端な雰囲気が漂います。それが人選によるものか、演奏の習熟度によるものかは知るよしもありませんが、なにかと「迷い」のようなものが感じられてしまいます。
このような布陣で世の中に問いかけた「ミサ」、しかし、長いブランクの後にこの作品を取り上げたナガノやヤルヴィは、バーンスタインの発した思いを正確に受け止めることには必ずしも成功してはいませんでした。オールソップのNAXOS盤によって初めて、作曲家の想いが理想的な形で開花したとは言えないでしょうか。いずれリリースされる国内盤でも、「ミサ曲」などという堅苦しいタイトルではなく、単なる「ミサ」という、まるでミュージカルのような邦題が採用されているはずですよ(それは「ミサ・サイゴン」)。

CD Artwork © Sony BMG Music Entertainment

9月20日

WAGNER, MOZART etc.
Opera Arias
Jonas Kaufmann(Ten)
Claudio Abbado/
Mahler Chamber Orchestra
DECCA/478 1463


カウフマンの新譜は、まずジャケットが秀逸でした。どこかで見たことのある風景だな、と思っていたのですが、これは有名なドイツロマン派の風景画家、カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの「霧海の上に佇むさすらい人」をもじったものではありませんか。

オリジナルは後ろを向いていますが、振り向くとこんな顔、ということでしょうか(後ろ向きバージョンも、裏側にありました)。それだけではなく、ブックレットの中の写真までも、それぞれ「山上よりエルベ渓谷を望む」と「山頂の十字架」が元ネタという楽しい企画です。こういう、思わず力が抜けるようなセンスは大好きです。


前作では、イタリアやフランスのオペラ・アリアも歌っていましたが、今回はすべてドイツ語で歌われているナンバーが集められています。その中でもワーグナーが半数を占めていて、いまのカウフマンが期待されているフィールドがうかがえます。それは、「待望久しい、ヘルデン・テノール」というカテゴリーなのでしょう。鎌倉、ですね(それは「エノデン」)。もっとも、最初に「ティート」で彼の魅力に気づかされたものとしては、モーツァルトのタミーノにも大いに期待が高まります。さらに、ベートーヴェンのフロレスタンもはずせませんし、全く聴いたことのないシューベルトのオペラからのアリア、というのも、そそられます。
ワーグナーの、特に「ローエングリン」あたりでは、フォークトなどが評価されているように、必ずしも「ヘルデン」でなくてもいいのでは、という風潮が高まりつつあります。カウフマンもそんな流れの影響でしょうか、「In fernem Land」ではいとも軽めの声で歌い始めます。しかし、それは盛り上げるための単なる小技、肝心なところでは朗々たるヘルデン声を披露してくれて、颯爽とした気分にさせてくれます。ほんと、この人の突き抜けるような声はまさにワーグナーにはうってつけ。
面白いのは、「ワルキューレ」のジークムントとジークリンデのデュエットである「Winterstürme wichen dem Wonnemond」の前半だけを完結させて(ワーグナー自身による終止)歌っていることです。リサイタルなどでは聴いたことがありますが、CDでは初めて、ちょっとこの終わり方には違和感がないわけではありませんが、カウフマンの魅力は満開です。
しかし、アバドの指揮によるマーラー室内オケが、少ない弦楽器をごまかしているのがいかにもミエミエの、およそワーグナーには似つかわしくない安っぽいサウンドなのにはがっかりさせられます。充分なプルトによるふっくらとした弦楽器に包まれてこそ、管楽器の咆哮が生きてくるのに、きっとなにか勘違いをしているのでしょう、少ない弦楽器でも表現(あるいは録音技術)でカバーできるのだとばかりの、やたらハイテンションの小手先だけの演奏には、うんざりしてしまいます。
モーツァルトでは、身の丈にあった音楽にはなっていますが、それでも、録音のせいもあるのでしょうが、管楽器の生々しい音には参ります。第1幕フィナーレの、「3つの門」のシーンあたりから始まって、フルートのオブリガートが付くナンバーまで続けるという、さっきのワーグナーとは逆の、カットして欲しいところの方が多いという変な選曲ですが、そのフルートがキーノイズまではっきり聞こえるほどのオンマイクなのですからね。そんなやかましいオケのせいかもしれません、ここでのカウフマンは明らかに力みすぎで、「ティート」で期待したような「力強いリリック」は、ついに聴くことは出来ませんでした。
初めて聴いたシューベルトの「フィエラブラス」とか「アルフォンソとエストレッラ」などという珍しいオペラの中の曲は、変な力みもなく、シューベルトならではのメロディの美しさを存分に味わえました。もう少しするとお目にかかれるリートが、楽しみになってきます。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

9月18日

巨匠(マエストロ)たちの録音現場
カラヤン、グールドとレコード・プロデューサー
井坂紘著
春秋社刊

ISBN978-4-393-93545-3


レコード・プロデューサー(正確には「レコーディング・プロデューサー」でしょうか)という職種については、最近ではかなりその実態が知られるようになってきました。もっとも、それはクラシックよりはポップスの世界での出来事のように思えます。「マイケル・ジャクソンのアルバムは、クインシー・ジョーンズがプロデュースした」みたいに、果物のような名前(それは「クインシーメロン」)のかつてのジャズ・ミュージシャンは、この不世出のスーパースターのプロデューサーとして広く知られています。
プロデューサーというのは、本来はレコード会社の社員として、会社全体のニーズに応える形で、与えられた予算の中でレコードを制作する仕事を与えられた人たちのことを指し示す言葉でした。例えばあの「ザ・ビートルズ」のプロデューサーだったジョージ・マーティンは、EMI系列のPARLOPHONEという会社のサラリーマンでした。彼の場合は単なる制作管理のみならず、編曲や、場合によってはソングライティングにも関与するという、音楽的なサポートもその「仕事」の範疇、なんと「In My Life」や「Lovely Rita」では自らのピアノソロまで披露しています。
クラシックでも、単に録音セッションを仕切るだけではなく、演奏家に対して音楽的なサジェスチョンを与えるのも、プロデューサーの役目である、と、ご自身もその職業に携わっている著者は力説しています。そんな大先輩、ジョン・カルショーのことを綴った部分を最後に持つこの本は、その半分ほどはかつて「レコード芸術」誌に連載されていたものでした。連載中にはもちろん目にしてはいたのですが、そのカルショーの記述が、彼自身の著作「レコードはまっすぐに」(このみっともない邦題は何とかならないものでしょうか)と「リング・リザウンディング」の引き写しに過ぎないような気がして、積極的に読む気にはなれませんでした。しかし、今回の単行本では、書き下ろしでカラヤンの項目が加わっています。こればかりは、いくら「レコ芸」のバックナンバーをひっくり返しても読むことは出来ませんから、買うほかはありません。
そのカラヤンの部分は、時代を追って彼を支えたレコーディング・プロデューサーについて詳細に記述したものです。同じプロデューサーである著者の視点からの言及が、面白くないわけがありません。時代の流れの中で微妙に変わっていくカラヤンとプロデューサーたちの力関係、そこから著者は、まさにカラヤン自身がセルフ・プロデューサーへと成長していく過程を見事に描き出しています。彼が最終的に確立した金儲けのスパイラル、そこでは、カラヤンはプロデューサーたちすらも彼の持ち駒、すなわちプロデュースの対象として支配していたのです。これほど共感できる「カラヤン批判」も希です。
著者は、カルショーや、カラヤンの初期の録音を担当したレッグを理想的なプロデューサーとして描くと同時に、演奏家の言いなりになっていたグールドのプロデューサー、アンドルー・カズディンなどに対しては否定的な態度を取っています。演奏家と一緒に音楽を作り上げるのが、プロデューサーの仕事なのだ、と。しかし、現在ではそんな理想的な仕事を全うできる環境は極めて限られたものになってしまっているのではないでしょうか。ほんの少し編集が加えられただけのライブ録音や、ひどいときにはミスがそのまま残っている放送音源が堂々と商品として流通しているのですからね。
かつては確かに存在していたはずの「レコード芸術」という概念(雑誌の名前ではなく)、それが死に絶える前にぜひとも語り伝えたい、そんな著者の悲痛な思いだけは、確実に受け止めることが出来るはずです。

Book Artwork © Shunjusha Publishing Company

9月16日

MAHLER
Symphonie No.9
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
Bayerische Staatsphilharmonie
TUDOR/7162(hybrid SACD)


バンベルク交響楽団と、その現在の芸術監督ジョナサン・ノットによるマーラー・ツィクルス、「5番」、「1番」、「4番」ときて、今回は「9番」の登場です。
今回、ジャケットを見ると、オーケストラの名前が2つ書いてあることに気づきました。一瞬、編成の大きい曲なのでその「バイエルン州立フィルハーモニー」という、聞いたこともないような名前のオーケストラと合同で演奏しているのかな、と思ってしまいました。実は、「フィルハーモニー」の方はこのオーケストラの別の名前だったのですね。彼らの公式サイトでも、きちんと併記されていますし、CDのロゴマークにも、確かに以前から小さい字で書いてありました。これは、2003年に制定された、バイエルン州やバイエルン放送との結びつきを印象づけるための「称号」のようなものなのだそうです。なんとも紛らわしい。そういえば、このSACDも、バイエルン放送との共同制作になっていますね。
これはもちろん輸入盤なのですが、ケースを開けると日本の代理店が作った「特別日本語解説」なるもの(ただ1枚の紙の表裏に印刷しただけのもの、どのあたりが「特別」なのでしょう)が入っていました。「解説」に名を借りた、青臭い主観的な「評論」は噴飯ものですが、元のブックレットには書いてないことがあったのにちょっと注目です。それは、「セッション録音」ということば。ギャラが出ないんですって(そんな殺生な)。いや、コンサートをそのまま録音するのではない、ちゃんとホールやスタジオを借り切って行う録音のことですよ。それにしては会場のノイズなどが聞こえてくるところもあるので「ほんとかな?」という気になってしまいます。そこで、公式サイトで確認してみると、そのあたりのことがしっかり記載されていました。
このオーケストラの本拠地は1993年に完成した「ヨーゼフ・カイルベルト・ザール」という立派なホールなのですが、そこを2008年にホワイエなどを拡張する改修工事を行った際に、内部の音響についても手を加えたというのです。それを手がけたのが、音楽ホールの音響設計の第一人者、豊田泰久さんです。東京のサントリーホールや札幌の「キタラ」を始め、最近ではLAの「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」や、サンクト・ペテルブルクの「マリインスキー・コンサートホール」など、国際的に評価の高い数多くのホールを作ってきた豊田さんの今回の仕事が、こちらで詳しく述べられています。一番のポイントは、山台の迫りを作ったことだそうですね。そして、その「迫り」の効果を確認するための最初の録音が、このマーラーの「9番」のセッションだったのだそうです。そのページの下の方にその時の写真が載っていますね(これを見ると、フルートパートが4人しかいません。本当は5人必要なのに、エキストラを呼ばないで4番奏者がピッコロを持ち替えたのでしょうか)。
確かに、改修前の「1番」などに比べると、特に弦楽器の存在感がよりリアルになっているような感じはします。エンジニアが違うので一概には言えませんが、確かにホールの音響は改善されているのでしょう。ダイナミックレンジの設定が及び腰で、肝心のバスドラムの強打が、まるでリミッターをかけたように歪んでいるのがちょっと気にはなりますが。
ノットは、そんなシャープな音場をめいっぱい使って、キレの良い演奏を繰り広げています。第1楽章のハープの不思議な音程にしても、ホルンのゲシュトップにしても、確かな意味のあるものを届けてくれていますし、さまざまなパートが放つ、まるで針で突き刺すようなアタックは「痛み」すらも感じさせてくれます。それが、最終楽章の平穏な世界へと変わるまでの物語は、とても聴き応えがあります。最後に訪れる、「交響曲」にはあるまじきとてつもないフェイド・アウトの緊張感といったら、この世のものとは思えないほどです。そこでは、ノット自身のうなり声さえ音楽の一部と化しています。

SACD Artwork © Tudor Recordings AG

9月14日

Round Per Minute
Michael M. Kasper(Vc)
ENSEMBLE MODERN/EMCD-006


まるで、同じドイツのレーベルECMを思わせるようなモノトーンのジャケット、さらに、ブックレットもジャグァーが格納されているガレージからチェロケースを運び出し、どこかへと遠ざかるチェリストという、象徴的なモノクロの写真に飾られています。本家ECMが、そんなジャケットのこだわりとは裏腹にどんどん中身がつまらなくなっているのとは対照的に、こちらはとても充実したアルバムに仕上がっています。その写真にもきちんと意味があることも後に判明しますし。
これは、1980年からアンサンブル・モデルンに参加している(途中で空白期がありますが)チェリスト、ミヒャエル・カスパーの、ソロアルバムです。もちろん、このレーベルですからすべて「現代音楽」というカテゴリーの作品が並びます。
まず、最初の3曲は、20世紀半ばに作られた言ってみれば「古典」でしょうか。まるでその当時の激動(もしくは混沌)の音楽シーンを反映するかのような、特徴的な作品が続きます。最初はリゲティの「独奏チェロのためのソナタ」です。彼のまだハンガリー時代の作品、それこそコダーイの同じ楽器のための曲と同じ、民族的なテイストと、明白な調性感に支配された、なんとも懐かしい曲です。
その、ほんの数年後に作られたのが、ツィンマーマンの、やはりソロ・チェロのためのソナタ。これあたりが、このアルバムの中ではいわゆる「難解な現代音楽」の筆頭でしょうか。さまざまな特殊奏法を駆使して、考え抜かれた音列を奏でるものですが、今となってはそのひたむきさが逆に新鮮に感じられます。こんな時代もあったのだな、と。
そして、ラッヘンマンの「プレッション」という、さらに数年の時代を過ぎて作られた曲が続きます。このあたりから、テクノロジーと芸術との結びつきが避けられないようになってくる状況を象徴するような、マイクやアンプなしでは成り立たない音楽の萌芽が見られます。
そして、後半は、そのような、いずれは袋小路へ突き当たる流れとは一線を画した、現代へとつながる新たな潮流の音楽が始まります。1956年生まれのマイケル・ゴードンはまさにロック世代、彼の「インダストリー」という作品は、素材そのものは極めて単純なものの繰り返しという「ミニマル・ミュージック」の属性を感じさせますが、そこに、ロックならではのテクノロジーを積極的に導入しています。具体的には、音を歪ませる「ディストーション」というエフェクターを使って、チェロの音をまるでヘビメタのギンギンとしたギターのように変えてしまっているのです。それが徐々に盛り上がって、エンディングはまさにジミヘンのようなカタストロフィーが展開されます。あいにく、チェロはかなり高価ですから、ジミヘンのように楽器を燃やしたりは出来ませんが。
そんな騒乱が収まると、演奏家は何を考えたのか、チェロをどこかへ置いてきて、手拍子だけで演奏するというそれこそ「ミニマル」の極致、スティーヴ・ライヒの「クラッピング」を始めましたよ。もう一人の手拍子と2人して(4人だと「スワッピング」)ひたすら同じパターンをたたき続け、片方がほんの少しテンポを速くしてその「ズレ」を楽しむ、という、ひところ大流行した作品、というかパフォーマンスです。
そして、最後を締めるのが、タイトルにもなっているアルヴィン・ルシエの「RPM's」という曲です。1分あたりの回転数をあらわす単位のことですが、ここで聞こえてくるのは、自動車のエンジンをふかす音だけ、そう、ここで、チェリストの愛車であるさっきのジャグァーが登場することになるのです。カスパーのクレジットで「チェロ、手拍子、ガスペダル」とあったのは、このことだったのですね。彼はここではアクセルペダルを「演奏」していたのです。ほとんどジョン・ケージの世界、ここまでやられると、あまりの爽快さに笑わずにはいられません。

CD Artwork © Ensemble Modern Medien

9月12日

Abbey Road
The Beatles
EMI/3 82468 2


40年も前に作られたアルバムが「新譜」として登場、それが発売される日には徹夜でレコード店に並ぶ人が出たり、それがニュースとして紹介されたりと、なんだか異常とも思えるような大騒ぎになっています。そういう次元の騒がれ方には、敢えて背を向けていたいと思っていても、ものが「ビートルズのデジタル・リマスター」というのであれば、一応は聴いてみたいという気持ちを抑えることは出来ません。
そんな時にレファレンスとして聴くのはこのラストアルバム、サウンド的にも、そして音楽的にも最も充実していると誰しもが認めているアイテムです。さらに、個人的な体験に照らしても、なにしろこれが最初に買ったビートルズのアルバムだった、という点で、特別な思い入れは避けられません。ただ、その際に購入したのが、LPではなくオープンリール・テープだったというのは、かなり特異な体験となるはずです。パンは焼けませんが(それは「オーブンレンジ」)。

これは、最初にLPが発売されたのと同じタイミングで、当時の「東芝音楽工業」から出たテープです。その15年後に出現するCDのように、「これからはテープの時代だ」とまで言われて盛り上がるかに見えたフォーマットですが、それは決してLPにとって代わることはありませんでした。さらに、今では再生するハードもありませんから、実際にその音を聴くことすら出来ません。しかし、それを聴いていた当時の記憶は鮮明に残っており、その時の音が、このアルバムの音として、刷り込まれてしまっていたのです。
ですから、その後LPを購入し、1984年頃には「東芝EMI」からCDも出たので、それも入手しました(これは、1987年に「公式」にCD化される前に、日本でだけCDのデモ用にどさくさ紛れに作られた物で、程なく廃盤になります)が、それらはテープの記憶とはかなり隔たりのある薄っぺらな音でした。
今回、「デジタル・リマスター」と聞いて思いだしたのが、「イエロー・サブマリン・ソングトラック」や、「ラブ」でした。このテクノロジーの可能性をまざまざと見せつけてくれるような、なんとも生々しいその音は、しかし、おそらく元の音以上に煌びやかな仕上がりになっていたために、ある種の危惧も抱かざるを得ませんでした。確かにそこまで出来ることは分かったが、それが果たして必要なことなのか、と。
しかし、今回のCDを聴いて、そんな杞憂は吹き飛びました。そこからは、まさに最初にテープで聴いて頭の中に住み着いていた音と全く変わらないものが聞こえてきたのです。それは、派手さはないものの、アナログ録音特有の芯のある、存在感に満ちた音でした。具体的にはボーカルや楽器のそれぞれのパートが、まさに「立体的」に迫ってくる物です。これは、このアルバムが、それまでのものとは違って「ステレオ」だけのためにミックスされたことと無関係ではないはずです(当時はまだステレオの装置が、特にポップスのユーザーの間では普及していなかったため、「サージェント・ペパー」ですらモノーラルバージョンもリリースされていました)。
しかし、「Here Comes the Sun」での繊細なアコギを聴くに付け、これがSACDであったなら、もしかしたらさらに繊細な、そう、まさにテープの音を超えるものが聴けるのではなかったのか、という思いは募ります。同じレーベルがピンク・フロイドをSACDで出していたことなど信じられないほど、今ではメジャー・レーベルがこのフォーマットを見捨ててしまっているのが、これほど悔やまれたことはありません。
購入したのは、左側にアップルロゴが入っている紙ジャケもどき、ブックレットにジャケ写の別テイクが載っているのは感動的です。しかし、本物の紙ジャケを欲しい人は、このアルバムが含まれていない法外な価格設定のモノ・ボックスを買わなければなりません。しかし、まんまと乗せられてそんなものが完売してしまうのですから、なんと情けない。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

9月10日

My Classics!
平原綾香
DREAMUSIC/MUCD-1216

2003年に、ホルストの「組曲『惑星』」の中の「木星」を大胆にカバーしたことで、クラシックファンからも一躍注目を集めた平原綾香、あれから、もう5年以上経ってしまったのですね。今回の彼女の7枚目のオリジナルアルバムは、デビューの原点に立ち返った、全曲クラシックの曲のカバーという画期的なものです。
その「Jupiter」では、原曲のメロディをそのまま歌うという、無謀とも言える企てに挑戦していました。よく知られているように、このオーケストラ曲のテーマは作曲者自身の手によって「I Vow To Thee, My Country」という聖歌に作り替えられました。その際に、曲の途中で原曲のメロディを1オクターブ下げて、全体が1オクターブとちょっとの中に収まるように直し、誰でも歌えるような形になっています。しかし彼女は、そんな「手加減」を加えず、2オクターブの音域となるオリジナルをそのまま歌ったことによって、まず、やかましいクラシックファンの追及の手から逃れることに成功したのです。
今回のアルバムでは、そのような、ある意味肩に力の入った「クラシックは、なにがなんでもオリジナル」という姿勢は見事に消え失せています。彼女がここでとった手法の一つは、例えばベン・リーハウスの一連のワーグナーのカバーのような、そこはかとなくオリジナルの精神を残していれば、それほど細かいことにはこだわらない、というもののようでした。それが端的に表れているのが、「ロミオとジュリエット」でしょう。オリジナルはプロコフィエフ、あんな非メロディアスな曲をいったいどうするのかと思っていたら、はっきりしたテーマは「騎士たちの踊り」だけ、それがなければちょっとヘビーなロック・ナンバーだと思ってしまうほどのさりげない引用です(それがいいんよう)。
「カタリ・カタリ」と、「ネッスン・ドルマ」を合体させたという「ミオ・アモーレ」も、そんな「いいとこ取り」の例でしょう。このプッチーニの有名な曲をありがちに歌い上げるのではなく、単に素材としてはめ込むというセンスは秀逸です。しかも、そのパーツを、全部を4拍子にならしてしまうというこの手のアルバムの常套手段をとらずに、きちんとオリジナル通りの譜割りにしたあたりとか、2コーラス目は合唱の途中からソロが入るという構成を生かした点もなかなか。これは、場合によっては全面的にオリジナルの力に頼るという、彼女の柔軟な姿勢のあらわれなのでしょう。「Moldau」なども、そんなオリジナルのメロディだけで勝負、そこでピアノ伴奏のジャズっぽいコードを生かすあたりが、なんとも言えない隠し味になっています。
ドボルジャークの交響曲第9番の第2楽章を使った「新世界」では、ストリングスが刻むパルスがまるで蒸気機関車のSEのように聞こえます。これが、鉄道マニアだった作曲家の嗜好を反映したのであれば、なんとも恐るべきアイディアです。
最後のトラックは、デビュー曲の「Jupiter」。この曲だけ、いきなり音圧が高くなるのに驚きますが、それ以上に驚くのが、ここでの彼女の声です。多少エフェクターが入っているのを差し引いても、その声、特に低音には、それまで聴いてきたこのアルバムの中の曲ではついぞ聴かれることのなかった力強さがあったのです。いつの間にか、彼女の声からは、デビュー当時には確かにあったはずの生命感が見事に失われてしまっていたことに、いやでも気づかされてしまうのではないでしょうか。
ライナーには、クラシックに馴染みのないリスナーへの配慮なのでしょう、オリジナルの作品の解説を杉本明子さんというソプラノ歌手の方が執筆されています。それの「AVE MARIA」の項目などは「ウィキペディア」の丸写し、プロのライターだったらとても許されないことです。しかも、いくら出自の疑わしい曲だといっても、顔写真がモンテヴェルディだなんて、ちょっとリスナーをなめてません?

CD Artwork © Dreamusic Inc.

9月8日

BRUCH
Arminius
H. C. Begemann(Bas), M. Smallwood(Ten)
U. Eittinger(Alt),
諸岡亮子(Org)
Hermann Max/
Rheiner Kantorei
Göttinger Symphonie Orchester
CPO/777 453-2


マックス・ブルッフといえば、代表的な作品はヴァイオリン協奏曲ト短調、そしてチェロとオーケストラのための「コル・ニドライ」それから・・・あとは思い浮かびませんね。3つの交響曲や他の多くの協奏曲(ヴァイオリン協奏曲だけで3曲あります)などは、今では殆ど演奏されません。さらに、彼にはオペラやオラトリオなどの声楽作品もたくさんあるのですが、こちらはそんなものがあったことすら知られていないという寂しさです。そんな中で、彼が40代半ば、1877年に完成した「アルミニウス」というオラトリオがCDになりました。ヤカンの製造過程を音楽であらわしたもの・・・なわけはありませんね。いくら原料がアルミニウムだからといって。
「アルミニウス」というのは、紀元前後のあたりに実在した、ゲルマン人の一派ケルキス族の首長の名前です。ローマ帝国に支配されていたゲルマン人を解放した英雄として、ドイツではかなり有名な人のようです。「アルミニウス」というのはローマ帝国の公用語であるラテン語での読み方、ドイツ語的には「ヘルマン」と、確かに良く知られた名前になります。
彼の偉業のハイライトは、紀元9年に起こった「トイトブルクの森の戦い」です。ここでアルミニウス率いるケルキス族は、ローマの総司令官プブリウス・クインクティリアス・ウァルスの軍を破り、ゲルマン人に勝利をもたらしたのです。この戦いのあたりを記したヨーゼフ・クッパースという人の叙事詩を読んだブルッフは、それをテキストにして、このオラトリオを作りました。
この演奏が行われたのは、2009年の2月28日から3月2日の間、その場所はというと、実際にこの戦いの遺跡が博物館と公園になっているオスナブリュック近郊の「カルクリーゼ」というところです(ちなみに、「オスナブリュック」というのは、このレーベル「CPO」の本拠地ですね。「O」が「Osnabrück」の頭文字)。つまり、これはその戦いの「2,000周年記念」にちなんだイベントの一環として行われた演奏会の記録だったのです。それにしても「2,000周年」とは、壮大な時間感覚ですね。
曲全体は、「序」、「聖なる森の中で」、「蜂起」、「戦い」という4つの部分から成る、演奏時間が1時間半という大作です。アルミニウス役のバス歌手、ジークムント役のテノール、そして尼僧役のアルトという3人のソリストと合唱、それにオルガンの入ったオーケストラという大規模なものです。オルガンを、ハノーファー在住の諸岡さんが務めています。
ブルッフは1838年に生まれていますから、ブラームスより5つ年下ということになります。その作風も、ヴァイオリン協奏曲で分かるとおり、ブラームス同様あくまで伝統的なロマン派の流れをくむものです。したがって、このような物語の音楽としては、その時代の先端を行っていたワーグナー的なドラマティックな手法をとることはなく、殆どメンデルスゾーンあたりを思い起こさせるようなきっちりとした様式感を持った音楽に終始しています。さらに、おそらくブルッフはこのオラトリオを、4楽章の交響曲に見立てて作曲したのではないでしょうか。2曲目の「聖なる森の中で」は、アダージョ楽章に相当する穏やかな曲想となっていますが、その他の部分には力強い戦いを思わせるような情景が広がるという対比が見られます。
そんな音楽ですから、初めて聴いても容易に入っていける親しみやすさがあります。オトコ二人や、合唱のとことんハイテンションで力強い迫力には圧倒されますし、アルト・ソロのしっとりとした味にも和みます。なんと言っても、2,000年前の英雄を全力で盛り上げようとしている演奏メンバーのみならず、このイベントを企画したまわりの人たちの姿勢には、すごいものがあります。それが「ゲルマン民族」の力なのでしょうね。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

おとといのおやぢに会える、か。


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