ツーランホームランごっこ。.... 佐久間學

(09/5/8-09/5/26)


5月26日

DURUFLÉ
Complete Sacred Choral Works
Dawid Kimberg(Bar)
Christopher Gray(Org)
Robert Sharpe/
Truro Cathedral Choir
LAMMAS/LAMM 174D


録音されたのは2004年7月ですし、リリースもかなり前のものなのですが、カタログを検索していてデュリュフレの「レクイエム」が見つかってしまったのでは手に入れないわけにはいきません。店頭や国内の通販サイトでは見当たらないので、直に注文、かなり時間がかかってしまいました(4ヶ月以上)。そのぐらいの執念がないことには、到底「デュリュフレ全種目制覇」の野望は達成することは出来ません。
手に入れただけで満足出来たようなものなのですが、演奏がとても素晴らしいものだったので思いがけず幸福な思いに浸っているところです。デュリュフレつながりで、こんな、全く聞いたことのない合唱団と出会えたりするのですから、世の中捨てたものではありません。
演奏しているのは、イングランド島の南西部に突き出ているコーンウォール半島にある州都、トルローの大聖堂の聖歌隊です。余談ですが、コーンウォールといえば、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に登場する地名ですね。マルケ王の后にと、アイルランドの王女イゾルデを乗せた船が向かう先が、このコーンウォールでした。地図で見ると、この半島からは、アイルランドはすぐそばなんですね。
そんな由緒のあるケルト民族の地の大聖堂は、まさにあたりを睥睨する立派な建物です。そこの付属の聖歌隊は、トレブル・パートが少年、その他のパートは全て成人男性ですから、アルト・パートはカウンター・テナーが歌っています。
録音も、この高い天井を持つ広い石造りの空間の中で行われました。まず聞こえてくるのは、かなりの残響が伴うちょっとぼやけたオルガンの音像ですが、それは決してこのデュリュフレの世界を裏切るものではありません。なまじリアルな録音よりも、こんなアバウトさの方がこれらの曲にはマッチすることが再確認されます。合唱も、かなりの距離感をもって聞こえてきます。実際はオルガンとはかなりズレているのですが、この大聖堂全体が作り出す壮大な響きの中では、それすらも全く気にならなくなってくるのですから、不思議なものです。
その合唱の響きは、とてもふくよか、写真で見ると、トレブルの男の子はまだ年端もいかない感じなのですが、歌い出してみるとそんな幼さなどはまるでありません。それどころか、適切なフレージングと表情は、とても自然に暖かい音楽を醸しだしています。ただ、カウンター・テナーのアルト・パートだけがちょっと異質な音色で、そこだけ異様に飛び出してしまうのが難点といえば難点でしょうか。「レクイエム」の「Pie Jesu」は、ソロではなくトレブル・パート全員で歌っています。これが絶品。歌い出しの繊細さとともに、盛り上がりの力強さには圧倒されてしまいますよ。ですから、最後の「Chorus Angelorum」でも、決してただ心地よいだけのものではない、もっとアグレッシブな音楽が伝わってきます。終始、このトレブルの子供たちに、他の大人のパートがリードされている、というほほえましい情景がつきまといます。
「全曲集」ですから、「Messe cum jubilo」も入っています。男声のユニゾン(+バリトン・ソロ)に華麗なオルガンの伴奏が付いた、まさに現代に蘇ったグレゴリアン・チャントとも言うべき作品ですが、そんな魅力的なトレブルが抜けてしまった残りの男声パートは、いかにも危なげな歌い方になってしまっていることは否めません。しかし、なぜか、良くあるていねいに揃えられたユニゾンからは決して聴くことはできない、もっと絶妙の雰囲気が出ていると感じられるのは、なぜなのでしょう。超高速で歌われるそのメリスマには、確かに作曲者が求めた原初のチャントの「味」がちゃんと込められています。もしかしたら、この作品は普通の「合唱曲」と受け止めてはいけないものなのかもしれませんね。

CD Artwork © Lammas Records

5月24日

Slåttar på tunga
Berit Opheim Versto
2L/2L46SACD(hybrid SACD)


ノルウェーのマイナーレーベル「2L」は、本当に手作りの「マイナー」さがまだ保たれているところなのでしょうね。品番が通し番号になっているようですが、今までにリリースされたアイテムはせいぜい60枚程度でしょうか。これの一つ前の番号は、確かグリーグの合唱曲集でしたね。
内容もなにも分からずに、ひたすらこのレーベルの音の確かさだけをあてにして買ってしまったSACD、もう一つの魅力は、このジャケットにありました。どうやら4人のメンバーによるア・カペラっぽい感じがしませんか?代理店のインフォにも、「楽器の音を口で再現」みたいなコメントがあったような気がしますし、それだったら「ボイパ」を駆使した小気味よい合唱が聴けるのでは、と楽しみに入荷を待ちます。
しかし、入荷予定日をはるかに過ぎた頃に手元に届いたこのアルバムには、どうもアーティストは1人しか居ないようなことが書いてありました。写真に写っている4人分の顔も、よ〜く見てみると逆さづりになったり下を向いたりしているのは、なんだか同じ人のような気がしてきましたよ。そう、確かに、ここで歌っているのはベーリト・オプハイム・ヴェシュトという女性1人だけだったのです。ちょっとがっかり、こういうのも「偽装」と言うのでしょうかねぇ。まあ、でも、中には多重録音で2人、あるいは4人分の声が入っているトラックもあることですし、許してあげましょうか。「早回し」もしてないようですしね。
そんなことよりも、やはりこのレーベルの録音には期待を裏切られることはありませんでした。教会で行われた録音、たった1人で歌っているのに、そこには適度な残響が伴ったとてもリアルな「声」がありました。そう、これはまずヴェシュトさんの「声」のとびきり豊かな音色を楽しむアルバムだったのです。基本的に彼女のフィールドは「民族的」な音楽、発声もクラシックからはかなり離れたものですが、その「地」の声が持つ美しさには圧倒されてしまいます。低音はちょっとはかなさが伴った怪しいものがありますし、高音はそれとは全く対照的なクリアな明るさがあるのですからね。なんでも、彼女は2005年と2006年にノルウェーとスウェーデンで行われた「フォークオペラ版『魔笛』」(それがどういうものなのかは、ライナーの説明だけでは分かりませんが)のツアーで、夜の女王とパパゲーナを歌ったのだそうです。この二つのロールは同時に出てくるシーンはありませんから、一人二役だったのでしょうか。衣装も同じだったりしたら笑えますね。いや、確かにこれらの役を充分に歌えるだけの高音の美しさとテクニックは持っていますよ。
ここで彼女が歌っているのは、「スロッテル」というノルウェーの民族音楽です。車には関係ありません(それは「スロットル」)。本来は踊りの伴奏をするためにフィドルなどで演奏されるインスト・ナンバーなのですが、楽器を弾く人がいない場合にそれを「声」で代用するという伝統があるのだそうです。そんな、昔から伝わる「芸」の、さまざまな形のものがここでは堪能できます。とてもリズミカルで、まさに踊りの伴奏にふさわしいものの中には、ちょっとしっとりとした子守唄風のナンバーもあって、単調さからも免れていますし。
そんな、トラック11の「Bygdatråen」あたりを聴いていると、それこそグリーグの「ソルヴェーグの唄」とよく似たテイストが感じられます。面白いのが、ヴェシュトさんが取っている長調だか短調だか分からないような民族的な微妙な音程です。これは日本民謡にもよく見られる、「クラシック」の音階には当てはまらない音程なのですが、おそらく「ソルヴェーグ」のもとになった民謡も、そんな音程のものだったのではなかったか、という気がしては来ませんか?グリーグは、それを前半は短調、後半は長調にして、「クラシック」との折り合いをつけたのだ、と。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

5月22日

Mahler
Das Lied von der Erde
Klaus Florian Vogt(Ten)
Christian Gerhaher(Bar)
Kent Nagano/
Orchestre Symphonique de Montréal
SONY/88697508212


先日はバイエルン州立歌劇場のオーケストラとの共演盤をリリースしていたケント・ナガノですが、彼はもう一つ、カナダのモントリオール交響楽団の音楽監督というポストも持っとりおーる。今回は、そちらのパートナーとの仕事による、「大地の歌」の新録音です。
モントリオール響といえば、なんと言ってもシャルル・デュトワがDECCAに行った夥しい録音の印象が強烈ですから、おそらく今回の音を聴いて同じオケとはとても思えないような感想を抱く人はたくさんいることでしょう。録音場所も、デュトワ時代によく使われていたサン・テツィエンヌ教会ではありませんし。その録音場所に関するクレジットが、今回はなかなか細かく記載されています。それによると、2009年の1月に彼らの本拠地、モントリオールのサル・ウィルフレッド・ペレティエで2日間にわたって行われた演奏会を「ライブ」録音した後、プラス・デ・ザールという場所で1日「スタジオ」録音を行っています。さらに、2月に今度はミュンヘンのスタジオで「クラウス・フローリアン・フォークトとのオーバーダビング」のためにセッションが設けられているのです。これだけきちんと書いてあるデータも珍しいものですが、おそらく本番でのテノールの調子がイマイチだったので(2日とも)、録り直しをしたのでしょうね。ただ、彼は演奏会の次の日にはもう帰ってしまったため、オケだけを録音して、それを聴きながら後日ミュンヘンでその「カラオケ」を聴きながら一人でソロのパートを録音した、ということなのでしょう。
そういう場合、録り直した部分だけが全く別の音になってしまうというのは良くあることです。しかし、そのあたりはかなり上手に修正して、そんなに簡単にはバレないようにはなっているようです。そういう技術は、今ではおそらく想像以上に発達しているのでしょうね。ただ、よく聴いてみると、5曲目の「春に酔える者」が、同じテノールソロの1曲目と3曲目とは微妙にオケとソロとのバランスが異なっているような気がするのですが、どうでしょうか。フォークトの声にも、少し艶があるようにも聞こえませんか?
そんな風に、後の「修正」を意識したのかどうかは分かりませんが、これは全体に何か冒険を避けたおとなしめの録音のような印象があります。そのせいでもないのでしょうが、ここでのケントの作りだしたマーラーの世界は、とっても渋いもののように感じられます。言ってみれば水墨画の世界、でしょうか。例えば、デュトワ時代に数々の華麗なソロを聴かせてくれたフルートのハッチンス(ブックレットのメンバー表に、まだ名前がありました)の音色の渋さといったら。
もちろん、ソリストもそのような音楽の作り方にふさわしい人選になっているのでしょうね。しかし、先ほどのフォークトは今回初めて聴きましたが、ワーグナーのそれこそヘルデン・テノールのレパートリーでのキャリアを積み重ねてきた人にしては、なんとも情けない声なのには正直がっかりしてしまいます。ワーグナーとマーラーで全く異なる発声に挑戦しているのだとしたら、それはそれですごいことなのですが、それにしてもこのあまりの草食系の歌い方には馴染めません。
もう一人のソリストは、普通は「女声」のアルトが歌うことが多いのでしょうが、ここではバリトンのゲルハーエルと、「男声」になっています。実際、ピアノ版のスコアでは特に女声という指定はないのだそうですね。有名な1966年のバーンスタインとウィーン・フィルの、カルショーによるDECCA録音でも、フィッシャー・ディースカウが歌っていますし。
しかし、このゲルハーエルもここでの歌い方はまさに草食系、最後の「告別」などは、もっと深さがあってもいいのになあ、と、つい思ってしまいませんか?

ところで、これは最近のCDに付いている「新生」ソニー・ミュージックのトレード・マーク。これは一体なにをあらわしているのか、ご存じの方はいらっしゃいますか?

CD Artwork © Sony Music Entertainment

5月20日

TAN DUN
The First Emperor
Plácido Domingo(Emperor Qin)
Elizabeth Futral(Yueyang)
Paul Groves(Gao Jianli)
Wu Hsing-Kuo(Yin-Yang Master)
Mischelle DeYoung(Shaman)
Zhang Yimou(Dir)
Tan Dun/
Chorus & Orchestra of the Metropolitan Opera
EMI/TOBW-3607/8(DVD)


2006年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の総支配人に就任したピーター・ゲルブが手がけた「ライヴビューイング」は、今では日本でもすっかりなじみ深いものになったようですね。その記念すべき最初のシーズンで上演されたタン・ドゥンの新作オペラ「始皇帝」が、「ライヴ」そのままの形でDVDとなりました。世界初演が行われたのは20061221日のことですが、ここに収録されているのは翌年の1月25日まで9回上演された中の7回目の公演、1月13日のマチネーの模様です。ちなみにこのプロダクションはさらに次のシーズンのレパートリーにも入り、2008年5月10日から17日まで3回上演されることになりました。
秦の始皇帝を主人公にしたお話、ということで、どんなに埃っぽく壮大な物語が繰り広げられるのか、ちょっとたじろいでしまいますが、ご安心下さい。タン・ドゥン自身も作成に参加している台本の骨子は、中国統一を果たした英雄の業績、といったような華々しいものではなく、基本的にはもっとオペラに馴染みやすいラブ・ストーリーなのですからね。
そのラブ・ストーリーの伏線として、おそらく秦の時代に演奏されていたであろう音楽が復元される、というシーンが、オープニングを飾ります。そこで大活躍を見せるのが、このオペラハウスの合唱団です。まるで宝塚のような大階段に並んだ黒ずくめの群衆は、一糸乱れぬ「振り」とともに、不規則なリズムの叫び声でそんな太古の音楽を奏でます。そして、それを支えるのが、やはり合唱団によって演奏される手に持った石で太鼓を叩いたり、その石を擦り合わせるという、これも一糸乱れぬ(いや、中には間違えている人もいたような)アンサンブルです。そこに、これは中国のミュージシャンでしょうか、たくさんの陶器を並べた打楽器が加わり、なんともインパクトの強い音楽が壮大に繰り広げられるのです。
しかし、そこに登場したドミンゴの始皇帝(彼が出てきただけで拍手が沸き起こります)は、「こんな音楽ではなく、もっと素晴らしい『賛歌』を作らなければ」と、まるで「第9」のような宣言を行います。その「賛歌」を作るべく用意されるのが、始皇帝の「影」とも言うべき人物カオ・ジャンリ。幼い頃は一緒に育ったものの、今は奴隷の身分の作曲家です。そして、彼と始皇帝の娘のユエヤンが愛し合ってしまうということで、話はロマンティックな方向へ向かいます。この2人が実際に愛し合う「濡れ場」は、「サロメ」そこのけのエロティックな雰囲気が漂う、まさに「サービス・カット」でした。結局その「賛歌」は完成するのですが、それがどんなものであったのかというのは見てのお楽しみ。
タン・ドゥンの音楽は、まさに折衷的、狂言回しとして登場する陰陽師は、京劇のアーティスト、京劇そのもののスタイル、もちろん中国語で彼だけの世界を演じています。本体は英語で歌われますが、その中にもメロディの節々に京劇的な引用が用いられます。アリアの旋律は中国風の五音階を用いたいかにも、というテイスト、そしてクライマックスは、まるでメシアンのような色彩的なハーモニーとリズムによって支配されています。作曲者自身の指揮からは、そんなごちゃ混ぜ様式を一つのエンタテインメントに昇華させようという強い意志が感じられます。間奏曲、でしょうか、オーケストラのメンバーまでが中国風の発声の合いの手を入れる中で華やかに打楽器が演奏されるシーンは、まさに東洋と西洋の幸せな融合のように聞こえてきて、感動すら呼ぶものです。
演出は、メータ指揮の「トゥーランドット」を手がけた映画監督のチャン・イーモウ。これを見ていたら、プッチーニが作り残したそのオペラの最後の部分をタン・ドゥンが作ったものを聴いてみたくはならないでしょうか。

DVD Artwork © EMI Music Japan Inc.

5月18日

Yevgeny Mravinsky in Moscow
Yevgeny Mravinsky/
Leningrad Philharmonic Orchestra
PRAGA/PRD/DSD 350 053(hybrid SACD)

ムラヴィンスキーとレニングラード・フィル(当時)が、1959年にモスクワ音楽院大ホールで行ったコンサートの「ステレオ」の、未発表録音があったそうなのです。そのアナログ録音のテープをDSDでデジタル変換、SACDでリリースしたというのは、そんな貴重な記録を最高のコンディションでリスナーに届けたい、という、レーベルの熱い思いのあらわれなのでしょうか。
ここに収録されているのは、「コンサート」の最初に演奏されたウェーバーの「オイリアンテ」序曲を除く、シューベルトの交響曲「第8番」(もちろん、演奏当時の表記を尊重しているのでしょう)「未完成」と、チャイコフスキーの「交響曲第4番」です。
ロシアでステレオのレコードが発売されたのは1962年のことですから、この1959年のステレオ録音というのがどの程度のものなのか、興味津々で聴き始めることになります。しかし、「未完成」はやはりその当時の音、という感じは隠せません。冒頭のオーボエとクラリネットのユニゾンによるテーマが、いかにも時代がかった野暮ったい音であったのには、予想されたこととはいえ軽い失望感が残ります。
しかし、「4番」になったとたん、まるで別物のようにすっきりした音に変わっていたではありませんか。これはちょっとした驚き、なにしろ、アナログ録音特有のヒスノイズさえも聞こえないのですからね。あるいは、マスタリングに際してノイズ除去のようなことを行っているのでしょうか。
しかし、しばらく聴いていると不思議なことに気づきました。この「4番」でのオーケストラの弦楽器の配置は、ムラヴィンスキーが必ず取っていた、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンを左右に振り分ける「対向型」ではなく、下手からスコアの上の段からの順番に並ぶという一般的な配置のようなのです。「未完成」は間違いなく「対向型」であるのは、1楽章が始まってすぐのヴァイオリンの3度平行が左右から聞こえてくることから分かります。コンサートの途中で配置を入れ替えるなんてことがあるのでしょうか。
実は、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの「4番」といえば、1960年にロンドンで録音されたDG盤を愛聴していたものでした。フィナーレの常軌を逸したテンポ設定にもかかわらず、決して崩れることのないレニングラード・フィルのアンサンブル能力には、舌を巻いた覚えがあります。このDG盤は彼らが初めて西側のレーベルにステレオ録音したといういわく付きのものなのですが、ここでおそらくエンジニアからの要求だったのでしょう、ムラヴィンスキーは渋々「一般の配置」を取って(取らされて)録音しているのです。

ここで、ある疑惑が持ち上がりました。そんなことがあるはずはない、と思いつつも、「もしや」という気持ちには逆らえずこのPRAGA盤をDG盤(00289 477 5911)と比較してみたら・・・なんと、それは全く同じものだったのです。まず、演奏時間の比較から。これは、ジャケットに記載されている時間ではなく、実際に楽章の頭の音が出てから最後の音が消えるまでの時間です。 秒単位の比較ですから、有効数字は小数点以下2桁ぐらいで十分でしょう。ですから、DG盤はすべての楽章で正確にPRAGA盤の「1.02倍」の演奏時間になっていることになります。つまり、DG盤をアナログテープで2%速く再生したものがPRAGA盤であることになります。そうなると当然ピッチが高くなることが予想されますが、実際にチューナーで測ってみるとDGではa=442Hzだったものが、PRAGAでは見事にa=446Hzになっていました。これは、続けて聴けば普通の人でもはっきり分かるほどの違いです。
もう少し「情緒的」な比較もしてみました。まず、第2楽章の冒頭のオーボエ・ソロです。両方ともかなり聴きづらいチリメン状のビブラートがかかっていますが、表現は淡々としたイン・テンポが基本のものです。そして、明らかに特徴的な5つのポイントが、ことごとく一致しています。丸1では軽いアッチェレランド、丸2と4では拍を無視したブレス、丸3と5では音を長目に吹いています(丸5はかなり極端)。

もう1箇所は、第3楽章の中間部、ピッコロの超絶技巧が終わった197小節目のAsの音。このパターンは2回繰り返されるのですが、この2回目の最後の音だけ出し損なっています。DG盤では2分58秒、そしてPRAGA盤では2分53秒付近で確認出来るはずです。

もう全く疑問の余地はありません。この「4番」は、ジャケットに明記されているような「1959年4月24日にモスクワで録音」されたものなどでは決してなく、1960年の9月14日から15日にかけてDGの手によってロンドンで録音されたものに、ほんの少し手を加えたものだったのです。これがアウト・テイクだったりすれば少しは救われるのかもしれませんが、おそらくDG盤のCDからの板起こしなのでしょうね。こんなお粗末な「偽装」が、ついにレコード業界にも波及してきたなんて。いや、もしかしたらすでにそんな「汚染」が蔓延しているのが、この業界なのかもしれませんね。ちなみに、この「偽物」を国内で販売しているのは「キングインターナショナル」という会社です。もうジタバタしないで、納めるものを納めてしまった方がよいのでは(それは「ネングインターナショナル」)。

SACD Artwork © Praga Digitals

5月16日

TAVENER
Requiem
Elin Manahan Thomas(Sop)
Andrew Kennedy(Ten)
Joephine Knight(Vc)
Vasily Petrenko/
Royal Liverpool Philharmonic Choir & Orchestra
EMI/2 35134 2


ヒーリング業界では圧倒的な人気を誇っているジョン・タヴナーの最新作「レクイエム」が、2008年2月28日にリヴァプールで初演されました。これはその時のライブ録音です。演奏された場所は、リヴァプールのメトロポリタン・カテドラルという「大聖堂」、ブックレットの裏表紙にその時の写真がありますが、それは大きな丸天井を持つ巨大な空間です。真ん中に祭壇があって、それを囲むように2300人分の椅子が配置されています。
この「レクイエム」は、ソプラノとテノールのソリスト、それにチェロ独奏とオーケストラという編成で作られています。ただ、オーケストラは弦楽器と金管楽器と打楽器だけで、木管楽器は入っていません。さらに、そのメンバーの配置が非常にユニークであることが、その写真からも分かります。まず、チェロ独奏がど真ん中に控えていて、そのまわりを十字架状に他のメンバーが囲みます。チェロの正面には弦楽器、指揮者はその前にいます。指揮者の後ろにはソプラノとテノールのソリスト、チェロの後ろには金管楽器と合唱団、そしてチェロの左右のバルコニーには打楽器がいます。つまり、お客さんはそれらの演奏者に間に座ることになり、まさに「サラウンド」の体験を味わうことになるのですね。
そのような音場は、どのような形で録音されていたのかは分かりませんが、これはごく普通の2チャンネルのステレオですから、CDの音は全て真っ正面からの平面的なものにしか聞こえません。本当は後ろから聞こえてくるはずのソリストは真ん中に定位していますし、独奏チェロと打楽器もかなりの距離があるはずのものが、ごく近くにあるようにしか聞こえません。ただ、そんな距離感は、演奏上の「事故」という別の形でリスナーには伝わることになります。それは、全部で7つの楽章から成るこの曲の中心に位置し、音楽的にも最大の昂揚感が味わえる4つ目の楽章でのことです。普通のカトリックの「レクイエム」では「Dies irae」以降に相当するドラマティックなこの楽章では、全てのパートがフォルテシモで叫びまくるのですが、金管、弦楽器、そして合唱が、そこで見事にズレてしまっているのですよ。お互いの距離が離れすぎているのと、この会場のとてつもない残響で、とても他のパートを聴いて合わせることなどは出来なかったのでしょうね。いや、あるいはこんな「ズレ」すらも、タヴナーによって計算され尽くされたものだったのかもしれませんが。あの長い髪のように(それは「ズラ」)。
実際、タヴナーは綿密なプランを練っていました。彼の言葉によると、その楽章を中心に、全体の音楽がシンメトリカルに作られているのだそうです。確かに、演奏時間などを見るとそれはその通りのものでした。曲全体も、最初にチェロのソロで始まったものが、最後もやはりチェロのソロで終わるというものです。さらに、テキストの面でも、これは単なるカトリックの宗教音楽を超えた、全世界の宗教を包括した内容を持つという壮大な設計に基づいているのだそうです。最後の楽章では、ソリストと合唱の4つのパートのそれぞれが、全く異なる宗教に由来するテキストを同時に歌う、というシーンが登場します。同じパターンが執拗に繰り返されるうちに達成される息の長いクレッシェンドとディクレッシェンド、そのプランのあまりの周到さの中には、ちょっとした押しつけがましさも感じてしまうほどです。
「レクイエム」の演奏時間は35分と短め。余白には2004年に作られたソロ・ヴァイオリンと銅鑼と弦楽合奏のための「マハーシャクティ」という、まさに「ヒーリング」の王道を行く曲と、1991年の「エターナル・メモリー」という、チャイコフスキーの「1812年」に出てくるロシア正教のコラールそっくりのテーマによるチェロと弦楽合奏のための曲が収められています。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

5月14日

MARTÍN y SOLER
Il burbero di buon cuore
Elena de la Merced(Angelica)
Carlos Chausson(Ferramondo)
Véronique Gens(Lucilla)
Saimir Pirgu(Giocondo)
Cecilia Díaz(Marina)
Irina Brook(Dir)
Christophe Rousset/
Orquesta Sinfónica de Madrid
DYNAMIC/33580(DVD)


あのモーツァルトよりも2歳年上のスペイン生まれの作曲家ヴィセンテ・マルティーン・イ・ソレル(最後の3つがラスト・ネーム)は、モーツァルトがウィーンで「フィガロ」などのオペラを作っていたのと同じ頃に、ウィーンで活躍していました。言ってみればこの二人はライバル同士、お互いにその存在を意識しあっていたことでしょう。なにしろ、「フィガロ」などの台本を執筆したロレンツォ・ダ・ポンテは、彼のためにも台本を提供していたのですからね。こちらにも書いたように、実際に「フィガル」のアリアのパクリっぽいアリアが入っている彼の「Una cosa rara(椿事)」もダ・ポンテの台本によっています。そして、このオペラが人気を博しために、それまで上演されていた「フィガロ」が打ち切りに追いやられた、というのは有名な話、さらに、その腹いせにモーツァルトが「ドン・ジョヴァンニ」で「椿事」からの引用を行っている、というのもオペラ・ファンにはお馴染みの珍事です。
今回、世界初録音となったDVD(これまで、CDすらありませんでした)がリリースされた、「椿事」と同じ年、1786年に上演されたやはりダ・ポンテの台本による「善良な心の気むずかし屋」というオペラ・ブッファは、正確な意味では「初録音」ではありません。その中で歌われるソプラノのための2曲のアリアだけはすでにCDなどが出ているのです。ただし、それはマルティーン・イ・ソレルの曲として扱われているのではありません。作曲者のクレジットは、なんと彼のライバル、モーツァルトなのですよ。それは「コンサート・アリア」として知られているK.582の「誰が知っているでしょう、私のいとしい人の苦しみを」と、K.583の「私は行ってしまうわ、でもどこへ?」です。敵同士だったこの二人が、ここでは「共作」をしていたのでしょうか。
実際の経緯は、こうです。評判の良かったこのオペラは、3年後の1789年に再演されることになったのですが、その時にルチッラという浪費癖の人妻の役を歌ったルイーズ・ヴィルヌーヴという新人歌手のために、モーツァルトが新しい曲を提供し、今まであった曲と差し替えて歌われたのです。この頃にはマルティーン・イ・ソレルは次の任地のサンクト・ペテルブルクにいましたから、他人のオペラに勝手にそんなことをして大丈夫だったのでしょうね。それにしても、今だったら著作権などが問題になっていたことでしょう。ちなみに、このヴィルヌーヴ嬢は、次の年の「コシ・ファン・トゥッテ」の初演ではドラベッラを歌っています。
重要なのは、他の人が書いたものが挿入されていても、当時のお客さんはなんの違和感も抱かなかっただろう、ということです。実際にここでヴェロニク・ジャンスが歌うその2つのアリアを聴いてみると、それは見事にこの作品の中に馴染んでいます。というより、すでに序曲の段階で、この曲は耳に馴染みやすいものでした。もちろん、それはあのモーツァルトと全く同じテイストが、その中に存在していたからです。さらに、各幕の最後を飾るフィナーレの見事なこと、入れ替わり立ち替わり登場する人物の細かい状況の変化が、絶妙のアンサンブルで実に巧みに表現されています。もちろん、それは「フィガロ」第2幕の長大なフィナーレが、モーツァルトによってしかなしえないものでは決してなかったことを示しているのは明白なことです。
イリーナ・ブルック(ピーター・ブルックの娘)による現代風の設定と、クリストフ・ルセのピリオド・アプローチによって、新鮮な若々しさを与えられたマドリッドのレアル歌劇場のプロダクション、それは、接する機会さえ多ければ、このスペインの作曲家のオペラは「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」と同等、もしかしたらそれ以上の楽しみを間違いなく提供してくれることを私たちに教えてくれています。

DVD Artwork © Dynamic/Teatro Real

5月12日

The Glenn Gould Bach Collection
Glenn Gould(Piano, Harpsichord, Harpsipiano)
SONY/SIBC 129(DVD)


亡くなってもはや四半世紀以上経ったグレン・グールド、最近では、音だけでは物足りないのか、生前に残した映像(当たり前ですが)までもが、映像ソフトとして市販されるようになっています。カナダの放送局CBCの番組に出演した膨大なアーカイヴは、1992年にはレーザー・ディスク、そして昨年一斉にDVDとして市場を賑わしたのでした。
これは、そんな映像の中からグールドがバッハを演奏したものだけを集めた超お得なコンピレーションです。「動く」グールドが132分も収録されているというのに、価格は税込みでたったの2100円、1957年から1969年までの「歴史的」な映像を、たっぷり楽しむことにしましょう。
いかにも「時代」を感じさせるのが、1957年に演奏されたピアノ協奏曲第1番です。スタジオには当時のことですからかなり大きな編成のオーケストラが入っているのですが、なぜかハープやティンパニ、そしてバスドラムなどが、きっちり奏者付きで並んでいるのですよ。もちろん、この曲でこれらの楽器が使われることはありませんから、打楽器奏者などは何もしないでずっと立ちっぱなしなのですが、これはいったい何だったのでしょうね。
この中で、いろいろの意味で聴き応えのあったものは、1962年にたぶん同じ時に収録されたカンタータ第54番とブランデンブルク協奏曲第5番、そして「フーガの技法」のコントラプンクトゥス第4番です。グールドが演奏しているカンタータなんて、まさに珍品中の珍品ではないでしょうか。ここで彼は、指揮をしながら通奏低音として「ピアノ」を弾いているのですが、その音色がなんだかとてもチェンバロに似ているのに、まず驚かされます。見た目は全く普通のグランドピアノ(というか、セミコン)です。もしかしたら、この時代にはスタインウェイもモダンチェンバロを作っていたのか、などと思いを巡らしてクレジットを見てみると、そこには「ハープシピアノ」と書かれていましたよ。調べてみたら、これはグールドの造語で、普通のグランドピアノのハンマーのフェルトに何か金属を打ち込んで、チェンバロのような音を出せるように改造した楽器なのだそうです。ちょっと前にラヴェルの「子供と魔法」のところでご紹介した「ピアノ・リュテアル」と同じようなものなのでしょうね。録音のせいもありますが、チェンバロと言うよりはホンキー・トンク・ピアノのように聞こえてしまうのが難点です。
曲が始まると、ソリストがおもむろに歩いて現れるというクサい演出、それが、ラッセル・オバーリンだったのにはまたびっくりです。こんなところでお目にかかれるとは。アルト・ソロのための、アリアが2曲とその間のレシタティーヴォだけというコンパクトなカンタータ全曲を、おそらくこの時でしか実現できなかったような不思議なサウンドで味わう楽しみ、これだけでもう元を取ったような気になってしまいます。
しかし、そのあとに控えているのが、ジュリアス・ベーカーをソロに起用した「5番」なのですから、なんとも贅沢な話です。この頃のべーカーは、まさに脂の乗りきった旬のフルートを聴かせてくれていますよ。
1969年の映像では、「ハープシピアノ」のようなまがい物ではなく、ちゃんとした「チェンバロ」も弾いています。これも、超レアなシーンですね。しかも、その楽器は、もはや現在では普通に目にすることは不可能なヴィットマイヤーの「モダンチェンバロ」なのですから、二重の意味で貴重な映像です。

そして、1965年に行われたユーディ・メニューインとのヴァイオリン・ソナタ第4番は、まさに2人の巨匠が織りなすドキュメンタリーとなっています。ピアニストに向き合って立っているヴァイオリニスト、お互い暗譜なのに、決して顔を見合わすことはなく、それぞれが自分の中で音楽を完結させているという、途方もなく冷ややかな世界が広がっている、これは希有なセッションの記録です。

DVD Artwork © Sony Music Japan International Inc.

5月10日

L'Avant-garde du Passè
Elisabeth Chojnacka(Cem)
TOWER RECORDS/WQCC-177/8


お馴染み、モダン・チェンバロの大家ホイナツカが、今はなきフランスのレーベルERATOに残した2枚のアルバムが最初に国内盤として発売されたのは1990年のこと、その時はレギュラー・プライスの単品として、個別に売られていました。それが、1997年に2枚組で出直った時と同じジャケットとライナーのものが、タワーレコード仕様で発売です。半分近くの値段になって、お買い得。
現代音楽のスペシャリストとしての印象が強いホイナツカですが、この2枚には彼女の楽器が本来演奏されていた時代の作品が収録されています。1枚目は1974年に録音された「昔のポーランドの舞曲と音楽」、2枚目は1981年に録音された「過去の前衛」というタイトルの、主にバロック時代の作品集です。ERATOWARNER傘下になる前のオリジナルの品番(もちろんLP)は、それぞれERA 9247STU 71480、分かる人には分かる懐かしい数列です。
「前衛」あたりは、年代的には、ヒストリカルの楽器を使う可能性もあったのでしょうが、そんな音楽にもあえてモダン・チェンバロでの挑戦を貫いた彼女の心意気には惹かれるものがあります。というのも、これらのアルバムで彼女が選んだ曲目には、単なる「バロック名曲アルバム」にはとどまらない、彼女ならではの強い意志が込められているからなのです。まず「ポーランド」では、彼女の母国の殆ど、というより全く知られていない、作者すらも明らかでないような作品を演奏、ポーランド音楽の知られざる沃野を垣間見せてくれています。そして「前衛」では、文字通り今聴いても斬新さを感じられる挑戦的な作品が集められています。
この録音に使われたのは、1963年に作られたアンソニー・サイディのモデル。このビルダー、最近ではヒストリカルのコピーも作っていますが、当時はもちろんモダン、いかにもモダンならではの多彩な音色が楽しめる楽器です。「前衛」をプロデュースしたヨランタ・スクラが、ERATOを離れて立ち上げたレーベル「OPUS111」で作ったホイナツカのアルバムのブックレットに 同じ楽器(多分)の写真がありますが、確かに足で操作する無数のストップが付いているのが分かりますね。

オリジナル楽器が隆盛を極めている今のバロック音楽のシーンでは、この時代の音楽をモダン・チェンバロで演奏することはまずなくなっています。それどころか、モダン・チェンバロを演奏すること自体が、何か後ろめたささえ伴うものとなってしまってはいないでしょうか。確かに、実際に17世紀前後の宮廷などでは、こんなケバい音色の楽器が鳴り響くことなどはあり得なかったでしょうが、だからといって頭ごなしに抹殺されてしまうには、ホイナツカが繰り出すその楽器の色彩的な世界は魅力的すぎます。このCDを聴けば、例えば、同じ時代の鍵盤楽器であるオルガンには許された華麗さを、この楽器にだって許してやってもいいのではないか、と思うような禁断の同志が生まれるに違いありません。
そんな、チェンバロと言うよりは、まるで電子キーボードのようなキャラの立った音色満載の彼女の楽器だからこそ、「前衛」のアルバムに込められた、ある意味現代の作曲家よりもはるかに過激な「前衛性」が、ストレートに味わえることになります。例えばヒュー・アストンというイギリスの作曲家の「ホーンパイプ」という曲などは、とてもヒストリカルの範疇には収まりきらないほどのパッションが込められていることが、彼女のまるでフリー・ジャズのような演奏から知ることが出来ます。作者不詳の「ラ・ミ・レに基づいて」という16世紀に作られた曲などは、まるでヒーリングのような甘い音色で奏でられると、殆どエリック・サティの作品と区別が付かなくなります。
モダン・チェンバロは、もしかしたら楽器ではなく、4世紀の時間を行き来することが出来るタイムマシンなのかもしれませんね。借金はかさみますが(それは「債務増し」)。

CD Artwork © Warner Music Japan Inc.

5月8日

PUCCINI
Turandot
Gabriele Schnaut(Turandot)
Johan Botha(Calaf)
Cristina Gallardo-Domâs(Liù)
David Pountney(Dir)
Valery Gergiev/
Wiener Philharmoniker
DENON/TDBA-80350(DVD)


最近「DENON」というレーベルで、今まで他のレーベルから出ていたDVDが大量に再発売されていますね。3年前にリリースされていたはずのあのクリスティの「ジューリオ・チェーザレ」などが、さも新譜のような顔をして店頭に並んでいるのですからちょっと混乱してしまいます。
この2002年のザルツブルク音楽祭のライブ映像である「トゥーランドット」も、かつては「TDK」として5000円ほどの価格で出ていたものが、今回ほぼ半額、CDの全曲盤よりも安い値段で再発されたというありがたいアイテムです。もっとも、品番を見ると前のもの(TDBA-0035)をそのまま継承しているようですから、レーベルは変わっても発売元そのものは変わってはいないのでしょうね。そのあたりの業界の複雑な事情は、理解不能です。
このプロダクション、何と言っても目を引くのはデイヴィッド・パウントニーの奇抜な演出でしょう。いきなり人形の首が切り落とされる、などというショッキングな幕開けにまず度肝を抜かれてしまいますが、それに続く想像を絶するようなスペクタクルなシーンにはただただ驚くばかり、手がハサミになった群衆にいったいどんな意味があるのかなど考えるヒマもなく、次々に目を見張るシーンがこれでもかと繰り出されます。
そしてもう一つの魅力は、このプロダクションはルチアーノ・ベリオが2001年に行った最後の部分の補作を使った上演の、最初の映像だということです。ご存じのように、「トゥーランドット」はプッチーニの遺作で、第3幕の途中までしか完成されてはいません。残りの部分は、プッチーニのスケッチを元にフランコ・アルファーノという、道路みたいな名前の(それは「アスファルト」)作曲家によって新たに作られ、現在ではこの「アルファーノ版」が普通の上演では使われています(一部カットがあるそうですが)。それは、「Nessun dorma」のテーマ(「イナバウアー」のテーマ、ね)が高らかに鳴り響くという、最高の盛り上がりでエンディングを迎える、ある意味「感動的」なスコアではあります。
しかし、この映像によって、「ベリオ版」は、そんな「アルファーノ版」とは全く異なる様相を呈していることが、容易に分かるはずです。おそらくアルファーノは、出来上がった結果はともかく「プッチーニだったら、こう作っただろう」というコンセプトで補作を行ったのでしょう。しかし、ベリオの場合は、最初からそんな仕事は放棄しているかのように見えます。そう、彼が行ったものは「補作」などという職人的な修復作業ではなく、完全な彼自身のオリジナルの「創作」だったのです。リューの死から始まるその作業は、最初のうちこそプッチーニの作った「リューの死のテーマ」を執拗に繰り返してはいますが、あたかもこれだけやればもう充分だ、とでも言うかのように、そのあとにはまるっきりプッチーニの作風とは共通点のない「ベリオ節」満載の展開となるのですからね。しかし、注意深く聴いていくと、そんな中に今まで出てきたさまざまなテーマが巧妙に見え隠れしていることも発見出来ます。言ってみれば、プッチーニのコラージュのようなもの、そこからは、アルファーノ版とは全く次元の異なる不思議な「感動」すら、呼び起こされるはずです。
そして、ここではパウントニーの演出が、その「感動」を見事に視覚化しているのです。今までの華やかな仕掛けは一体何だったのか、と思わせられるような暗い情景に変わった中で、かつてはまるで機械の一部と化していた民衆たちが、本来の人間の姿に戻ってあらわれてくるのが、そんな青白い「感動」の始まりです。服装は変わっても、口元に残るタトゥーはかつて彼らが「奴隷」だったことの名残なのかもしれません。
前に、これと良く似たシーンを見たことを突然思い出しました。それは、パトリス・シェローのバイロイトでの「指環」のラストシーン。トゥーランドットによる民衆と、そして彼女自身への呪縛は、神々の黄昏とともに解かれたのでしょうか。

DVD Artwork © Creative Core Co., Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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