金婚曲。.... 佐久間學

(09/8/18-09/6)

Blog Version


9月6日

VERDI
Messa da Requiem
D. Nedialkova(Sop), I. Ninova(MS)
R. Doikov(Ten), E. Ponorski(Bas)
Ivan Marinov/
Choir and Orchestra of the Sofia Opera
BRILLIANT/93958


この曲の中の「Dies irae」は、ひところラーメンのCMに使われて、毎日テレビから流れていたことがありましたね。いや、例えば芸能ニュースなどでも、ちょっと衝撃的なシーンにこれを使うのは、もう殆ど定番となってますし。そんな、ある意味「ブーム」に乗ったわけでもないのでしょうが、きちんとした演奏でも、最近のこの曲の露出はちょっと普通ではありません。この2、3ヶ月の間に新しいCDが3種類も発売されましたし、仙台のプロオケ仙台フィルは、10月に定期演奏会でこの曲を取り上げます。そのために、仙台でもトップクラスの4つの合唱団が集まって、この曲を半年間も練習するという贅沢なことも行われたりしています。きっと素晴らしい演奏となることでしょう。
CDの方では、他のパッパーノやデイヴィスも聴いてみたい気もしましたが、同じ時期に出たこのちょっと怪しげなBRILLIANT盤が異様に安かったので、ダメモトで買ってみました。
演奏しているのは、ソフィア・オペラの合唱団とオーケストラ、「ソフィア・オペラ」というのは昼メロではなく(それは「ソープ・オペラ」)、最近ではしょっちゅう日本中で公演を行っているブルガリアのオペラハウスのことなのでしょうね。確か、1965年という大昔にNHKが呼んだ「スラブ・オペラ」という混成カンパニーの一翼を担っていましたね(その他には、ザグレブとベオグラードのオペラハウスも参加、マタチッチやチャンガロヴィッチで大騒ぎになりましたっけ)。
このCDは、まず音を聴く限りそんな昔の頃の録音ではなかったのには一安心。ちょっとノイズが聞こえたりしますが、かなり解像度も良く、定位もはっきりした今風のものでした。しかし、最近ではしっかり録音データなどを付けるようになってきたBRILLIANTですが、これには録音の場所も時期も全く記載されていません。歌手や指揮者もぜんぜん知らない人ばかりですし、なによりも普通はまず80分以上はかかるために1枚には収まらないものが、トータル・タイムが7850秒でギリギリ1枚になっていますから、もしかしたら・・・。ピッチもa=446と少し高めですし。でも、やはり1枚に収録してしまったドミンゴ盤などもありますから、まあそんなことはないでしょうがね。
そのドミンゴの演奏に比べたら、このCDでは1曲目などはずっとゆったりとした演奏になっています。この導入部はオーケストラはとてもたっぷりとした歌い方、合唱も緊張感があふれていてこれはお買い得かな、という気分にさせられます。しかし、それに続く「Te decet hymnus」という無伴奏の合唱になったとたん、彼らはまさに「スラブ」の魂丸出しの、力強く雄々しい(粗野ともいう)歌い方が満開になってしまいましたよ。それからは、ソリストも巻き込んで殆ど歯止めがきかないほどの熱のこもりすぎたハイテンションの世界が広がります。
次の「Dies irae」は想像を絶する速さ、これは同じ形があとになって何回か出てきますから、ここで思い切り時間を詰めた結果、全体の演奏時間がこんなに短くなったのですね。そんな超高速のドライブ感はすさまじいものがあります。金管は吼えまくり、ピッコロは死にもの狂いのハイ・ノート、嵐のような打楽器の殴打。そこに、それに負けないほどのパワフルな合唱が加わるのですから、まさに阿鼻叫喚、酒池肉林です(意味不明)。
一度ここまでレベルが上がってしまうと、もはや平静には戻れません。静かであって欲しいところでも常につきまとう異様なまでの力強さには、もう慣れるしかありません。そう観念すれば、こんな骨太の「Lacrymosa」にも、何か親近感がわいてくるものです。チマチマしたところのない、何か勇気を与えてもらえるようなスカッとしたレクイエム、こんなのが1枚ぐらいあっても、邪魔にはなりません。

CD Artwork © Brilliant Classics

9月4日

MacMILLAN
Seven Last Words from the Cross
Graham Ross/
The Dmitri Ensemble
NAXOS/8.570719


ジェームズ・マクミランの合唱と弦楽合奏のための作品「十字架上7つの言葉」は、以前レイトン指揮の「ポリフォニー」の演奏で聴いたことがありました。これが、マクミランとの初対面、その素晴らしい演奏と相まって、この現在売り出し中の作曲家の曲の魅力にとりつかれることになるのです。それからいくらも経っていないというのに、こんな珍しい曲が別の演奏家によってCDになるなんて、なんて幸せなことでしょう。
ここで演奏しているのは、「ドミトリー・アンサンブル」という、2004年に結成されたばかりの若い団体、なんとこのアルバムがデビュー盤となるのだそうです。特に新しい作品を積極的に紹介するために作られたこのアンサンブル、デビュー・コンサートの最後にショスタコーヴィチの「室内交響曲」(ルドルフ・バルシャイによる弦楽四重奏曲第8番の編曲)を演奏したので、このような名前を付けたということです。「津和野」を演奏したからではありません(それは「モリミドリ」・・・分からないだろうな)。中心を弦楽合奏のメンバーが固めて、曲によって他の楽器、あるいは合唱が参加する、という形態をとっています。
ですから、ここで歌っている合唱は「合唱団」としてのクレジットはありません。それにしてはこの合唱はうますぎ、単なる寄せ集めではなく、ある程度恒常的な活動をしているメンバーが集まったような気がします。実はこのCDをプロデュースしたのがあのジョン・ラッター(彼は、録音から編集までやっています)、自分のレーベルではもちろんプロデュースは担当していましたが、こんな所で名前を見るなんて。おそらくこの素晴らしい合唱の人選にあたっては彼が何か積極的に関与していたのではないか、という気がするのですが、どうなのでしょうか。
その合唱は、おそらくレベル的には「ポリフォニー」と同等のようにすら聞こえます。いや、場合によっては、あちらのようなちょっと張り切りすぎのところがない分、こちらの方がより繊細な表現が実現しているようにも思えます。例えば、曲の前半に頻繁に現れるケルト風の装飾が、とても「こなれて」聞こえてくるのですよね。このあたりは、前の演奏から多くを学べるという、「後出し」のメリットだったのかもしれません。後半ではシュプレッヒ・ゲザンク風の技法が現れるのですが、これもこちらはまるでささやくような歌い方で、よりスリリングな情景を醸し出しています。
合唱としてのキャラクターを決めるソプラノパートも、あちらのようなある種禁欲的なテイストではなく、もっと暖かいものが感じられます。適度なビブラートが、邪魔になる一歩手前の所で、この作品に親近感を持たせる一助となっています。
さらに、こちらでは弦楽合奏の精度も、ワンランク上がっているように思えます。ソロのフレーズも自信を持って弾いている感じ、録音のバランスもあるのでしょうが、オケと合唱がお互いに主張しあって絡んでいる様子が、ゾクゾクするほど伝わってきます。
ハイレベルの演奏が2つも揃ったことで、この作品の持つ「力」がより多角的に感じられるようになってきました。こうした真摯な演奏の実績が時代の篩としての役目を果たし、やがては「古典」と呼ばれるような作品へとなっていくのでしょう。
後半は合唱だけによる無伴奏の曲が3曲、ここでも、合唱団の積極的な歌い方が作品の質を正しく伝えてくれています。「Christus Vincit」でソロを歌っているローラ・オールドフィールドというソプラノの人は、「十字架」でのソリストとは別の人で、もっとクールな歌い方が魅力的です。
最近はNAïVEまで聴けるようになって、さらに充実の度を増してきたこちらでも、もちろんストリーミング再生が出来ますよ。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

9月2日

MOZART
Piano Concertos Nos.23 & 24
内田光子(Pf)/
The Cleveland Orchestra
DECCA/478 1524


ピアニストの名前のあとにスラッシュが入っているのは、ここでは内田さんがオーケストラの指揮もしているのだ、という意味です。いわゆる「弾き振り」という、納豆みたいな(それは「挽き割り」)演奏スタイルですね。以前モーツァルトのピアノ協奏曲を全曲録音したときには、ジェフリー・テイトに指揮を任せていましたから、それから20年程の年月を経て新たなアプローチを展開してくれているのでしょうか。
この録音は、クリーヴランド管弦楽団の本拠地、セヴェランス・ホールで行われています。おそらく、コンサートとリハーサルのテイクをつなぎ合わせた「ほぼライブ」の録音なのでしょう。ピアノの音がオフ気味で、オケの中にとけ込んでいます。ブックレットの写真を見ると、内田さんは客席に背中を向けてオケの木管セクションあたりを正面にした座り方、これは弾き振りの標準的な配置ですね。ただ、同じ写真ではピアノの左手にヴァイオリンとチェロが座っていますから、おそらく右手にはヴァイオリンとヴィオラが来て、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが向かい合うという「対向型」の弦楽器配置になっているのでしょう。同じブックレットには、ウェルザー・メストが指揮台に立っている今のこのオケの集合写真が載っていますが、それは普通のファーストとセカンドがくっついている形ですから、この録音では内田さんの意向で対向型をとったのでしょうね。確かに、音を聴いてもセカンドが右側から聞こえてきます。
タイトルが上記のようになっていますから、当然イ長調の23番が先に演奏されているのだと思って最初から再生を始めたら、いきなりハ短調の暗い響きが聞こえてきたので一瞬何事かと思ってしまいました。なぜか、ジャケットの表示とは逆の順番で入っていたのですね。別にそんな気はなかったのでしょうが、何かびっくりさせられる思いです。
そんなある種の驚きは、そのハ短調の協奏曲のオケの導入の部分でも味わうことが出来ます。ここで、内田さんはなんと雄弁にオケに語らせていることでしょう。彼女は多少遅めのテンポ設定をとった上で、それは細かい表情を引き出そうとしています。短調ならではの、ちょっと濃すぎるほどの味付け、こちらの曲を頭に持ってきたのは、そんな、より思いの丈を込めた演奏を、まず聴いて欲しかったからだったのかもしれませんね。
第2楽章は明るい変ホ長調、しかし、ねっとり感は変わりません。ここではピアノが休んでいる間の木管楽器によるアンサンブルを存分に楽しむことにしましょうか。モーツァルトにしては珍しい、4種類の木管楽器が、さまざまの組み合わせで醸し出すゴージャスなサウンドは、シンフォニー・オーケストラの木管セクションならではの魅力です。
これが第3楽章になると、その粘り具合はさらに増します(やっぱり納豆だ)。停滞するギリギリの、いや、正直これではあまりにも遅すぎてフレーズが細切れになってしまっていると感じられなくもないテンポで、曲は重苦しく進みます。と、突然平行調の長調に転調して現れる木管のアンサンブルが、なんとも言えない開放感を与えてくれます。そして、その後がまたサプライズ。ここで内田さんは、バックの弦楽器を(おそらく)1本ずつにしてしまったのです。ピアノと5つの弦楽器だけの「ピアノ六重奏」、その透明なアンサンブルは、なんとも言えない爽やかさを放っていました。
イ長調の協奏曲も、アプローチは基本的に同じ、隅々までに内田さんのこだわりが反映された重厚なものでした。
でも、朝ご飯は塩鮭と焼き海苔があれば充分、その上に納豆なんてとても、という人には、ちょっと辛いかもしれませんね。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

8月31日

ANDERSON
25 Great Melodies as Originally Composed for Piano Solo
白石光隆(Pf)
TAMAYURA/KKCC 3024


昨年はルロイ・アンダーソンの「100周年」、NAXOSあたりは全集をリリースしてボロイ儲けがあったことでしょう。今年になってもその余波はまだ続いていて、こんな「珍盤」の登場です。これは、アンダーソン自身が、数々の名曲をピアノ独奏用に「作曲」した25曲をすべて録音したものです。このCDと同じタイトルの楽譜が出版されたのは1978年のことでしたが、なぜか、だれもそれを録音しようとはしなかったのでしょう、これが「世界初録音」だ、と、帯には書かれています。この楽譜はこちらで簡単に手に入るようですから、実際に弾いてみるのも一興でしょう。

オーケストラの演奏によるオリジナルを聴き慣れている耳には、このピアノ版はなかなか新鮮に感じられます。その一つの要因は、リズムの滑らかさでしょうか。これは実際に楽譜がそうなっているのか、あるいは演奏している白石さんの表現なのかは分かりませんが、例えば「シンコペイテッド・クロック」などではほんの少しスウィングが入っていて、ちょっとびっくりさせられるほどです。それは、テーマが始まって2小節目のことですが、2拍目がオーケストラ版ではアンダーソン自身の演奏も含めて均等に八分音符二つになっているのに、ここでは前の音符が少し長目になっているのですよね。ただ4小節目の、ウッドブロックのリズムが本当に「シンコペイト」しているところでは、なぜかきっちり8ビートになっているあたりが、アバウトいえばアバウトなのですが。
もう一つ、「ブルー・タンゴ」という、まさにタンゴそのもののリズムを持った曲でも、ここではまるでバルカローレのような優雅なたたずまいを見せています。とてもステップを踏んで元気よく踊ることは出来そうもない、それはまるで子守唄のようなしっとりとした味わい深いものです。そんな中から、彼ならではのメロディ・ラインの美しさが浮かび上がってきます。
しかし、やはりアンダーソンの曲ではオーケストラの楽器や、普通はオーケストラでは使われないような楽器の特徴的な使い方によって強烈な印象が与えられる、というのが最大の楽しみです。そうなってくるとこのピアノ版のあまりにストイックな生真面目さからは、軽い失望が生まれるのも事実です。3本のトランペット(コルネット)が活躍する「ラッパ吹きの休日」あたりは、それがもっとも顕著にあらわれたものではないでしょうか。「ソ・ド・ミ・ソ」とか「ソ・シ・レ・ファ」といった和音を、ある時は3人が同時に鳴らしたり、ある時は前の奏者が吹いた上に順次音を積み重ねて作っていくという面白さが、ピアノでは全く同じ形になってしまって、面白くも何ともありません。しかも、2回目にはダブルタンギングで1つの音符を4つに割って吹いているのも、ピアノ版には全く反映されていませんし。
また、「フィドル・ファドル」は「常動曲」のパロディ、大人数のヴァイオリンが一糸乱れず細かい音符を弾くのが魅力なのですが、ピアノではあまりにも簡単すぎてなんだか・・・。
「サンドペーパー・バレエ」での紙ヤスリをこする音や、「タイプライター」のキーボードをたたく音などは、これらの曲にはもはや欠かせない要因であることには誰しもが気づくに違いありません。このピアノ版は、自分で演奏しながらそんな本来の音を想像して楽しむ、そんな使われ方が最も分相応なのではないでしょうか。
ですから、CDで楽しむのだったら本来のオーケストラ版を聴く方がずっと楽しいに決まってます。その音を知っているからこそ、ピアノ版でもそれなりに楽しめることになるわけで、最初からこんな不完全なものを聴く必要などはさらさらないのではないでしょうか。「世界初録音」と言ってはいますが、これがこんなに長い間録音されなかったのには、至極当然な理由があったのですよね。

CD Artwork © King International Inc.

8月28日

SCHNITTKE
Concerto grosso No.1, Symphony No.9
Sharon Bezaly(Fl)
Christopher Cowie(Ob)
Owain Arwel Hughes/
Cape Philharmonic Orchestra
BIS/CD-1727


BISのシュニトケ・エディションもそろそろ30枚近くになるのでしょう、もうほとんどの作品が網羅されてきたのではないでしょうか。そこで、その最新作はちょっとした「寝業」で迫ってきました。彼の出世作である「コンチェルト・グロッソ第1番」の別バージョンと、「交響曲第9番」の「再構築版」という、言ってみれば「異稿集」です。さっそくこちらへ聴きに行こう
「コンチェルト・グロッソ」は、1977年に作られたときには2つのヴァイオリンとチェンバロ、プリペアド・ピアノと弦楽合奏という編成でした。それを、1988年に、オーボエ奏者のヴィアチェスラフ・ルパシェフのリクエストに応じて、ヴァイオリン・ソリのパートをフルートとオーボエに書き直したものが、ここで演奏されています。このバージョンはロシアでは何度となく演奏されているのだそうですが、録音としてはこれが世界初となりました。
この時代の作品ですから、普通「シュニトケ」というと思い出すような、さまざまな様式を取り込んだものを聴くことが出来ます。冒頭からプリペアド・ピアノのソロ、というのもなかなかユニーク、いかにもバロックの模倣といった感じの「トッカータ」や「ロンド」がかもし出す冗談っぽいテイストとの対比がたまりません。こういうものには、まさにベザリーはうってつけ。装飾的な音型をとても滑らかに、ブレスもしないで処理しています。
「交響曲第9番」というのは作曲家にとっての鬼門だ、という言い伝えは、シュニトケの場合も現実のものとなりました。彼の晩年は病魔との戦い、特に、1994年に脳卒中の発作を起こしてからは、殆ど運動機能が麻痺してしまうのです。この最後の交響曲も、左手だけを使ってやっと1997年に書き上げたということです。しかし、そんな、不自由な体で書いた譜面は殆ど判読不能、とてもそのままでは演奏することは不可能でしたから、1998年に行われた初演に際しては、指揮者のロジェストヴェンスキーはきちんとした譜面を作り上げる必要がありました。しかし、この時の楽譜は言ってみれば作曲者と指揮者による共同作業の産物のようなものでしたから、初演はされたもののシュニトケ自身はあまり気に入らなかったようで、ロジェストヴェンスキーに「もう二度と演奏しないでくれ」と頼んだということです。なんか、打楽器を派手に使ったり、チャイコフスキーの曲の引用があったりと、昔のシュニトケならいざ知らず、ちょっと許しがたいものがあったのでしょうね(事実、ロジェストヴェンスキーは、このスコアに交響曲第1番と同じテイストを盛り込んだということです)。
作曲者の死後に、この自筆稿にそれほどの変更を加えない楽譜を作ることになり、ニコライ・コルンドルフという作曲家がその任にあたります。しかし、その作業は難航、彼はその仕事を完成することなく2001年に亡くなってしまいます。結局、その後を継いだアレクサンドル・ラスカトフによって修復作業は終了し、2007年にデニス・ラッセル・デイヴィス指揮のドレスデン・フィルによって、ドレスデンで初演、出版もされました。
なんとも途方のない仕事の末に出来上がった「再構築版」ですが、果たしてこれが本当に作曲者が望んだ形だったのか、という疑問は残ります。彼が最後に到達した境地は、これほどまでに退屈なものだったのでしょうか。
前作ではあまり良い印象のなかったケープ・フィルですが、今回は録音のせいでしょうか、弦楽器のとても透明な響きが心にしみました。調べてみたら、録音会場が違っているんですね。写真で見るといかにも音響設計に配慮したというような新しいコンサートホール、やはり人数は少なめですが、ホールの響きに助けられて素晴らしい音に録音できたのでしょう。

CD Artwork © BIS Records AB

8月26日

BERNSTEIN
Mass
Randall Scarlata(Celebrant)
Kristjan Yärvi/
Tonkünstler-Orchester
CHANDOS/CHSA 5070(hybrid SACD)


Jubilant Sykes(Celebrant)
Marin Alsop/
Baltimore Symphony Orchestra
NAXOS/8.559622-23


バーンスタインが1971年に作った「ミサ」は、作曲者自身が演奏したものが長い間唯一の録音でした。しかし、それから30年以上も経った頃、2003年にケント・ナガノがドイツのオーケストラを使ってこの曲を録音してからは、なぜか相次いで新しい録音が現れるようになりました。まず、今年になって市場に出てきたのは、2006年にクリスティアン・ヤルヴィによって録音されたCHANDOSです。
この曲の編成はかなり巨大です。声楽陣は、「司祭」と呼ばれるソリストが中心になって、ミサの式次、というよりは、このシアター・ピースの「物語」を進行させていきます。そこに男女のソリストが加わります。彼らは「ストリート・コーラス」という少人数のアンサンブルにも参加し、「ロック」や「ブルース」を歌います。その他に大編成の混声合唱と、児童合唱が加わります。器楽は、シンフォニー・オーケストラの中にロックのリズム・セクションが入るという大規模なものです。さらに、前もって録音された音源を、演奏会場を包み込むように配置されたスピーカーから流し、「サラウンド」体験を味わってもらうというのも、当時としては斬新なアイディアだったのでしょう。
おそらく、ナガノにしても、ヤルヴィにしても、この曲に対するアプローチは「バーンスタインが作ったクラシックの曲」というものだったのではないでしょうか。特に、大きな合唱や児童合唱(ヤルヴィ盤ではテルツ)にはどこから見ても「クラシック」の団体を使い、あくまで字義通りの「ミサ」、あるいは「カンタータ」といったくくりで、古典的な名曲と肩を並べるような格調の高さを求めているように思えます。ですから、その中で明らかに「クラシック」からは逸脱した性格を持っている「ストリート・コーラス」のパートが作り出す音楽は、あくまで「異質なもの」としてとらえているのでしょう。ある種、時代の香りを残すスパイスのようなものだ、と。
そんなコンセプトによるこの2種類の録音によって、この作品が「現代」でもなおかつ聴き続けられる理由が理解出来かけた頃、NAXOSからそれとは全く別なアプローチによるオールソップの2008年の録音がリリースされました。国内盤仕様はまだ発売されていないようですが、こちらですでに聴けますので、ワールド・リリースはされているはずです。
この演奏の特徴は、その演奏者、特に声楽陣の選定によってすでにはっきりあらわれています。まず、司祭役のサイクスのとてもクラシックの歌手とは思えないような自由な歌い方(あるいは話し方)はどうでしょう。これは、ケント盤のハドレーやヤルヴィ盤のスカルラータとは、まるで次元の違うパフォーマンス、あちらが変に力んだ嘘くさい「オペラ」だとすると、サイクスはまるで等身大の「ミュージカル」の世界です。最後の最後に歌われる長大なモノローグ「Things Get Broken」などは、まさに生身の人間の心情を吐露しているようなゾクゾクさせられるものでした。そして、「合唱」を担当しているのは、全て黒人のメンバーからなるゴスペル・グループ。彼らのグルーヴは、まさにクラシックの団体とは「別物」の躍動的な生命感を持つものでした。
そう、かつてはミュージカルの劇場のピットの中でも演奏したことのあるオールソップであれば、この作品をあたかも「ミュージカル」のような「非クラシック」ととらえるのはいとも簡単だったことでしょう。そういう視点に立つと、先の録音ではなんとも居心地の悪かった「ストリート・コーラス」のパートが、見事に作品の中のあるべき場所にしっかりはまっていることにも気づかされます。ケント盤を聴いてこの曲を「駄作」だと感じたのは、あくまでそれを「クラシック」だと思っていたからだったことに初めて気づきました。バーンスタインは、どこまで行っても超一流のミュージカル作曲家、決してそれ以上でもそれ以下でもなかったのですね。演歌も作っていますが(それは「与作」)。

SACD & CD Artwork © Chandos Record Ltd, Naxos Rights International Ltd.

8月24日

MOZART
Symphonies Vol.7(1773)
Adam Fischer/
The Danish National Chamber Orchestra
DACAPO/6.220542(hybrid SACD)


かつては「手堅い中堅指揮者」というイメージで、知名度に関しては弟のイヴァンに負けていたアダム・フィッシャーですが、2001年に、急逝したシノポリの代役としてバイロイトに登場したあたりからそれが逆転してきたのではないでしょうか。おでこの上がり方も今では弟に充分ひけをとりません。というか、久しぶりにこの人の写真を見て、「なんと!」と思ってしまったのですがね。
彼は、このDACAPOというあまり国内では流通していないデンマークのレーベルから、デンマーク国立室内管弦楽団やデンマーク放送シンフォニエッタなど複数のオーケストラとともにモーツァルトの交響曲全集の録音を着々と進めています。もっとも、今回が「第7巻」ではあるのですが、その前に出ていたのは「第5巻」だけ、その他はまだ出んまあく。そして、決して「第1巻」から順番に録音しているわけでもありません。
その順番とは、モーツァルトが作曲した順番、このタイトルにもあるように、年代を追って数を重ねていく、という形をとっています。もう「1788年」までの巻数の割り振りは済んでいるのでしょうから、ハイドンの時のようなレーベルの消滅などという事態にはならないで最後まで録音を完了させてもらいたいものですね。
1773年に作られた交響曲ということで、このアルバムには作曲順に2722232425番が収録されています。もちろん、この「番号」は最初のケッヒェルが出来たときのものですから、その後の研究によってこんな風に作曲時期が入れ替わった結果です。もう一つ、「27番」の前に「26番」がこの年に作られていますが、それは「第6巻」に入れられるのでしょう。
25番」以外はおそらくコンサートなどで聴くことはまずない曲ばかりです。そんな人のためでもないでしょうが、フィッシャー自身がそれぞれの曲のイメージをライナーに書いてくれていますから、それを読みながら聴いてみるのも一興でしょう。例えば「27番」の第1楽章は、
若いカップルが海辺に座っている。波が二人のまわりで砕け散る。太陽の光はふりそそぎ、爽やかな風が吹いている。カモメは啼きながら、二人の上に大きな弧を描く。
てな具合です。まあ、それなりにイメージをふくらませていただければいいのでしょうね。
最近の良識ある指揮者なら必ず行うように、フィッシャーもここではかなり徹底したピリオド・アプローチをとっています。ヴァイオリンはファーストとセカンドが向かい合う対向型、ホルンはナチュラルホルンを使っていますし、もしかしたら弦楽器はガット弦なのかもしれません。ビブラートはかけず、音は短めに処理されます。「27番」全体と「24番」の第2楽章にはオーボエではなくフルートが使われていますが(もちろん、モーツァルトの時代には同じ人が吹きました)それも木管の楽器のような柔らかい響きです。
レアな4曲は、それぞれが魅力にあふれるものでした。すべてメヌエットを欠く3楽章形式の短いもので、「23番」では楽章間の切れ目もなく、続けて演奏されます。オペラの序曲のスタイルですね。その真ん中のゆっくりした部分でのオーボエ・ソロが素敵です。
唯一馴染みのある「25番」は、先ほどのフィッシャーのライナーでは「痛み」がテーマなのだそうです。そのせっぱ詰まった表現は、確かに「痛み」を共有できるほどの激しさでした。その中で、大きくテンポを落として朗々と歌われる第1楽章のオーボエのテーマは、さしずめ「癒し」でしょうか。例えば、この曲がフィーチャーされたあの映画で、もしマリナーの今となってはかったるい演奏ではなくこれが使われていたとしたら、あの映画はもっと起伏に富んだものになったのでは、と思わせられるほどの、感情の振幅の大きい、したがって心を打つ演奏です。
SACDの良さが際立つ録音も、特筆ものです。こちらでは、それは十分には伝わらないかもしれませんが。
8/25追記)
ブログ版へのコメントにより、「第6巻」もすでにリリースされていることが分かりました。

SACD Artwork © DRS 8

8月22日

世界の10大オーケストラ
中川右介著
幻冬舎刊(幻冬舎新書
134
ISBN978-4-344-98134-8

新書版で1300円(+税)もしたので、最近の出版界はこれほどまでに強気の価格設定がまかり通っているのか、と驚いたのですが、現物を見たら511ページ、まるで辞書のような分厚く重たい装丁だったので納得です。確かに世界を代表する10のオーケストラのそれぞれの歴史をつぶさに綴ったものが集められているのですから、これだけ膨大なページ数になるのも当然のことでしょう。
その「10」のオーケストラを選ぶにあたっては、おそらく今の時代何を基準にするかについて悩むことが多いはずです。以前ご紹介した書籍でも、なんとも納得のいかないトップ10でしたし、そもそもこの時代にすべての人を満足させる選定基準などあるわけがありません。その件に関しては著者も大いに悩んだようで、巻頭に6ページを割いて「言い訳」を寄せています。「なぜフィルハーモニア?」とか「なんでパリ管が?」と言いたいのはやまやまでしょうが、ここは一つ著者の顔を立てて、この「10大オーケストラ」に従っていこうではありませんか。そう割り切ってしまいさえすれば、こんなランキングはさほど重大ではないことにも気づくことでしょう。
そう、これは、その10のオーケストラの個々の歴史を描いたものですが、当然のことながら、その当時の世界情勢や、そのオーケストラに関わった「人物」の歴史を描いたものにもなっています。そんな人物たちが、あるときは世界の動向に翻弄され、あるときは競争相手との駆け引きに一喜一憂する、そんな極めて人間的な「物語」を見ていると、それぞれのオーケストラなどは単なる舞台背景にしか見えてはこないでしょうか。その「背景」は、ある時は由緒ある宮廷楽団、ある時はレコーディングのための寄せ集め、著者がこだわった「トップ10」とは、図らずもそんなバラエティに富んだ「舞台」を提供してくれるさまざまな出自を持った団体となっていました。
そんな主人公である人物たち(主に指揮者になります)は、著者の手によってまるで見てきたように生き生きと描かれています。由緒あるオーケストラのポストを常に望んでいながら、ついにそれをかなえることの出来なかったブルーノ・ワルターなどは、まるでその悔しさが読んでいるものにも伝わってくるほどのリアリティを備えていますし、さもシンデレラ・ボーイのように伝えられているレナード・バーンスタインにしても、そのポストへの道のりは決して平坦ではなかったことが、さまざまなオーケストラと錯綜する時間軸の中で等身大に感じられるようになっているのです。もちろん、著者の最大の関心はヘルベルト・フォン・カラヤンであることは間違いありません。彼と関わりのあった人物が出てくるたびに、「その時、カラヤンは生まれたばかりだった」みたいな記述が出てくるのには辟易しますが、確かに彼を「物差し」に使うというのは、相対的な位置関係を知るには有効な方法なのかもしれません。
オーケストラの歴史の中にさまざまな影を落としてきたのは、2つの大戦、冷戦時代、そしてビロード革命などのヨーロッパを襲った大きな動き(あるいは、中東の情勢)です。音楽の世界にそのような動きが無関係だったはずなどあり得ない、という当然のことにも、その度にオーケストラが被った変化を、やはり見てきたように語る著者の筆致によってまざまざと実感することが出来ます。
そのような著者の描写を助けたであろう文献の一覧が巻末にありますが、その数はハンパではありません。正確な情報を求めるための著者の努力の一端を垣間見た思いです。ただ、EMIの成り立ちについては文献は提示されておらず、おそらくこちらのネット情報の丸写しのようでした。ということは、そのモトネタはこちらなのですから、当サイトがこの労作の一端を担うという栄誉に浴することが出来たことになりますね。

Book Artwork © Gentosha Inc.

8月20日

MESSIAEN
Saint François d'Assise
Rod Gilfry(Saint François)
Camilla Tilling(L'Ange)
Pierre Audi(Dir)
Ingo Metzmacher/
Chorus of De Nederlandse Opera
The Hague Philharmonic
OPUS ARTE/OA 1007 D(DVD)


長いこと待ち望んでいたメシアンの唯一のオペラ「アシジの聖フランチェスコ」の映像です。温泉でくつろぐ聖人の話ですね(それは「足湯の聖フランチェスコ」)。昨年2008年は作曲家の生誕100年というアニバーサリーだったのですが、そんな記念の年を飾るにふさわしいネーデルランド・オペラの素晴らしいプロダクションが、お茶の間でも簡単に味わえることが出来るようになったなんて、まるで夢のようです。
そう、メシアン晩年のこの大作は、まず上演するだけでとても大変なものでしたから、作られてからもう30年近く経つというのに、音だけしか聴けないCDですら2種類しかありませんでした。そのうちの1つは、もちろんパリのオペラ座で1983年に行われた世界初演の録音です(CYBERIA/CY 833-836)。

作曲家の立ち会いの下に行われた初演のドキュメント、これはこれでとても貴重な記録ではあるのですが、あいにくこの公演は完成度から言ったらかなり問題のあるものであったことは否定できません。この複雑な曲は指揮の小澤征爾には荷が重すぎたのでしょう。メシアンの変拍子がもたらすグルーヴは鈍く停滞し、繊細な和声はその変わり目もはっきりしないほど濁りきっていたのです。
その次に音で聴けるようになったものは、1998年のザルツブルク音楽祭、フェルゼンライトシューレでの公演の録音です(DG/445 176-2)。

ケント・ナガノの演奏は、小澤盤に比べるとまさに雲泥の差でした。そこからは、初演では聴くことの出来なかった、メシアンが望んでいたであろう音たちが瑞々しく聞こえてきたのです。メシアン本人がこの演奏を聴くことなく亡くなってしまったのは、とても無念だったことでしょうね(添付されている日本語の解説には、この公演が「1989年のザルツブルク音楽祭」と書かれています。これだと、まだメシアンは存命中、単なるミスプリントでは済まされない重大なまちがいです)。
今回のネーデルランド・オペラ、演出のピエール・アウディは、このアムステルダムの「音楽劇場」という広い空間を駆使して、「リング」で見せたようなオーケストラと出演者が一体となったステージを作り上げました。オーケストラはステージの奥、その前にセットを並べて歌手たちが出入りするという、ほとんど「ホールオペラ」のパターンです。ですから、オケだけで演奏される場面ではそのメシアンの大編成を「目」で確認できるのが一つの楽しみです。真ん中を渡り廊下のようなものが走り、下手に弦楽器、上手に管楽器という配置、最前列にフルートパートが7人も座っているのは壮観です。特徴的な音色を提供している3台のオンド・マルトノは映像の画面からは確認できませんが、後ろのセットの中に埋没していたのでしょうか。
指揮者の姿が常に見える状態ですので、メッツマッハーの指揮ぶりはよく分かります。それは、いとも軽快に変拍子を処理している姿、そこには難しいスコアと格闘しているという段階などはとっくに卒業した、流れるように音楽を進めていく軽やかさが有りました。ナガノによって確立された音楽の精度は、さらに高度の仕上がりを見せていたのです。
フランチェスコを歌ったギルフリーは、前の2回の録音での同じ役のファン・ダムに比べると軽めの声ですので、深刻さとは無縁、ただ、やはり長丁場なので最後の方ではちょっとコントロールが苦しくなっていましたね。それはオケも同じこと、最後の最後に乱れを見せてしまいますが、まあそれはご愛敬、もちろん小澤盤を聴いたあとでは無視できるほどの乱れですから。
4時間半という長さを感じさせないその魅力あふれる音楽、そこには、メシアンがずっと聴衆に対して送り出してきた彼独自の語法がてんこ盛りです。彼の生涯は、このオペラのための「ライトモチーフ」を人々に知らしめるために多くの曲を作ることだったのでは、などという途方もない感慨に浸ったものでした。

DVD Artwork © Opus Arte

8月18日

FAURÉ
Requiem
Dominic Harvey(BS)
Thomas Allen(Bar)
Martin Neary/
Winchester Cathedral Choir
The English Chamber Orchestra
GENEON/GNBC-4154(DVD)


フォーレの「レクイエム」を、実際に教会の中で演奏している新しいDVDが出ました。最近ではそんな機会にはコンサートホール向けの仕様である「第3稿」ではなく「第2稿」が使われることの方が多くなっているので(いや、コンサートホールでも、確実に「第2稿」が主流になりつつあります)「第2稿」マニアとしては当然食指が動きます。
演奏しているのは、マーティン・ニアリーの指揮によるウィンチェスター大聖堂聖歌隊、もちろんその由緒ある石造りの大聖堂の中で撮影されているのでしょう。ニアリーという名前は、1997年に行われたダイアナ妃の葬儀の時に、その会場であったロンドンのウェストミンスター寺院の聖歌隊の指揮をしていた人、ということで記憶にありました。その後で、任地がウィンチェスターに変わったのでしょうか。
しかし、現物のDVDを手にしてみると、それは全くの勘違いであることに気づかされます。そのパッケージには、本当に小さな字で「© 1980 Southern Television」と書いてあるではありませんか。つまり、これが録画されたのは1980年以前だということになりますよ。「第2稿」に基づく最初の出版譜である「ラッター版」が刊行されたのが1984年ですから、これが録画された頃には「第3稿」しか世の中には存在していなかったはずですね。実際に再生してみると、やはりこれは「第3稿」、映像では、「Pie Jesu」以外には出番のない木管楽器奏者が手持ちぶさたにしているのが分かります。しかも音声トラックはモノーラルの上になんとも歪んだ音で、モラルのかけらもありません。とても80年代の音声ソフトのレベルには達していない、まさに音声には無頓着だったその頃の「テレビ番組」そのものの音でした。とんでもない物を掴まされてしまったものですね。さらに調べてみると、このアイテムは、2002年に、これを販売している会社がまだ「パイオニア」という名前だった頃に一度リリースされていたものでした。「ジェネオン」と名前が変わったからといって、実質リイシューのものを新譜のように売りつけるなんて、なんという商売をしているのでしょう。
いや、でもこれは一概にメーカーを責めるわけにはいきません。こちらを見れば、ニアリーがウィンチェスターにいたのはだいぶ昔だったことは分かるはず、自分で書いておきながら、それをコロッと忘れていたのですからね。年はとりたくないものです。
この「テレビ番組」の最初にはジョン・ギールグッドという、イギリスの名優、というよりは、ごく最近までハリウッドで「執事役」として活躍していた人が出てきて、ひとくさり作曲家のことや曲の成り立ちなどを語ります。それに続いて真っ赤なローブに身をまとった聖歌隊のメンバーが入場、指揮者のニアリーも同じ格好です。もっとも、オーケストラは黒いシャツ姿、しかし、合唱がこのオーケストラと一緒に演奏しているシーンはほとんどありません。先日のゴールウェイ同様、これも先に音を録っておいて、合唱がそれに合わせて「口パク」をしている、というものでした。彼らは曲によって、この大聖堂の色々な場所に立たされて「歌って」います。それはまるでこの建物のガイド役のように見えてしまいます。そう、これもやはり、主役は合唱団や彼らが演奏している音楽ではなく、それが響いている建物だったのです。それに気づくと、この演奏がいかにも雑なものであるのも理解できます。テナーあたりは、パートの中で音をまとめようという気持ちなどまるでなく、ひたすら自分の声を目立たせてこの「番組」の中に残そうとしているのではないか、と思えるほどの自分勝手な歌い方に終始していますし。
それにしても、アレンの若いこと。彼の髪がまだ黒々としていたのを見るためだけに、こんなしょうもないDVDを買ってしまったのだとすれば、これほど悔しいことはありません。

DVD Artwork © Geneon Universal Entertainment

おとといのおやぢに会える、か。


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