(仙台限定)ジャス組曲。.... 佐久間學

(08/3/13-08/3/31)

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3月31日

"Enchantment"
Music for Flute and Piano
Kenneth Smith(Fl)
Paul Rhodes(Pf)
DIVINE ART/dda25054


ケネス・スミスというフルーティストは、今現役で活躍しているプレーヤーの中では最も共感出来るものを聴かせてくれる人です。ボーンマス交響楽団に10年間在籍したあと、1983年からはロンドンの名門オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団の首席奏者となります。多くのプロのオーケストラでは管楽器奏者には複数の首席奏者のポジションがあるものですが、このオーケストラの場合は一人しか認められていません(現在は変わっているかもしれませんが)。ですから、その年以降に録音されたこのオーケストラのCDを聴いて、フルートの音が耳に残ったとすれば、それはケネス・スミスの音だということになります。それは、膨大な量に及ぶことでしょう(「ケネスブック」に載ったりして)。彼の音は、決して他の楽器を威圧するようなものではなく、透明な音色と、気品のあるビブラートで、オーケストラ全体の音色に確かな輝きを与えています。
そんな多忙な(首席奏者が1人ということは、すべての演奏会に出演するということになります)オーケストラプレーヤーとしての職務の合間を縫って、彼はASVなどのレーベルに1990年代に多くのソロアルバムも録音しています。最近、新しい録音がないと思っていたら、マルピーが2007年という、こんなアルバムがリリースされました。しかし、いそいそと購入して中を見てみたら、録音は実は1994年と1996年だと分かって、ちょっとがっかり。でも、演奏されている曲は初めてのものばかりですから、なんの問題もありません。と言うより、彼の全盛期とも言える時期のものですから、かえって良かったのかも。
このアルバムは、フランスで活躍していた作曲家の曲を集めたものです。まずは、有名なプーランクのソナタ。聞こえてきた音はまさにASVからのアルバムと同じ、ちょっと柔らかめのタッチの録音でした。データをみるとロケーションもエンジニアも同じですから、それはある意味当然のことでしょう。おそらくASVから出るはずだったものが、こんな形でリリースされることになったのでしょう。それはともかく、あくまで華美に走らない、しかし澄み切った伸びやかなスミスのフルートは、淡々とこの名曲を紡いでいきます。時折見せるさりげないルバートが、とても上品なアクセントになっています。
次は、非常に珍しい曲が続きます。多くの歌曲で知られるヴェネズエラ出身の作曲家アーンの「2つの小品」は、流れるような「女神の踊り」と、リズミカルな「魔法使い」との対比が素敵です。そして、ブルターニュ出身のロパルツの「ソナチネ」も、独特の浮遊感の中に、ケルティックなテイストも見え隠れする粋な曲、最後の楽章に親しみやすい楽想が現れるのも、彼の他の作品に共通した特色です。
続くデュティユーの「ソナチネ」は、いかにも彼らしい細部にまで神経の行き届いた丁寧な演奏です。これを聴けば、なにかと「教材」として扱われることの多いこの曲が、実は単なるテクニックを披露するだけのものではないことが改めて認識されるはずです。
そして、最後に控えていたフランクのソナタ(もちろん、ヴァイオリンのためのソナタの編曲)では、信じられないほどにゆったりとしたテンポの中で、この曲をなぜフルートで演奏しなければいけなかったかを納得させられるような、繊細で趣味の良い世界が広がります。そこからは、このベルギー人がいかにもフランスのフルート音楽の流れの中になんの違和感もなく佇んでいるさまを思い起こすことが出来ることでしょう。そして、それは彼の影響の元に、先ほどのロパルツにまでつながっていることも、スミスの演奏から思いを馳せられるようになるのです。
2008年の時点で、ソリストとしての彼の音色や演奏がどんなものなのか、ぜひ聴いてみたい気がします。

3月29日

混声合唱のための組曲「津和野」
安野光雅 作詞
森ミドリ 作曲
カワイ出版
/1248
ISBN978-4-7609-1248-3


「おやぢの部屋」では初めて、楽譜のレビューです。合唱曲は良く取り上げているので、その楽譜を紹介することがあっても別におかしくはないでしょう?
合唱曲などには縁のなかった作曲家の森ミドリさんが、2007年にこんな「合唱組曲」を作るようになったのには、一つのきっかけがありました。それは2002年のこと、そのちょうど1年前に島根県の津和野町に開館した、その町出身の絵本作家安野光雅さんの作品が展示されている「安野光雅美術館」を訪れた森さんは、ロビーに掲げられていた一つの詩にたちまち釘付けになったといいます。

故郷津和野の情景を見事に読み込んだ(「鷺舞い」というのは、津和野の伝統芸能です)安野さんのこの美しい詩に感動した森さんは、その場でこの詩を書き写し、即座にそれに曲を付けてその日に別の場所で行われたコンサートで披露したということです。七・五調のちょっと古風な四行詩、(7+5)×4=48ですから、全部で48文字が使われているのですが、実はそれは「いろは48文字」を、すべて重複なく使い切ったという極めて技巧的なものだったことを森さんが知るのは、ずっと後になってからのことだったそうです。そんな仕掛けを知らなくても、誰にでも津和野を想う気持ちが伝わって来るというのが、安野さんのすごいところなのでしょう。
この詩にさらに続きを書き足して出来上がった「津和野の風」という曲が、安野、森チームによる最初の作品となりました。それ以後、このチームは多くの曲を作り上げることになり、その成果がなんと1冊の絵本にまとまってしまいました。ええ、ほんとですよ。それは「雲の歌 風の曲」という絵本。詳細はこちらをご覧下さい。それらは、安野さんの暖かい言葉と、森さんの親しみやすい、どこか郷愁を誘うメロディとによって、あたかも現代の「わらべうた」のようなものとなっています。
2006年に、さる合唱団からの委嘱で、その中から「津和野の風」と、津和野弁による素朴な子守唄「つわのの子守唄」が合唱曲に編曲されました。さらに翌年には、津和野に関連したもう5曲を加え、独立した混声合唱組曲として再構成されることになります。うち2曲は同じ絵本からの「忘れ旅」という、「シュッシュポッポ」と蒸気機関車の擬音が入った明るい曲と、「天神山の子守唄」という、狸が子守に化けるというユーモラスな曲です。そして、書き下ろしのものが3曲、組曲全体のイントロとなる「山の向こうは」、安野さんの小さな頃の思い出がからむ「つえ子の歌」、そして、もう一つの「いろは歌」である、「つわのいろは」が加わります。
この組曲は、その合唱団、「東北大学男声OB合唱団・Chor青葉」によって、2007年3月11日に東京オペラシティのコンサートホールで全曲初演されました。さらに、その1週間後の3月17日には、この曲の発端の地である津和野の安野光雅美術館でも、同じメンバーによって「現地初演」が行われました。
その後も、同年7月29日には東京のトッパンホールで再演、作品としての存在は確固たるものとなります。そして、今回の出版によって、それはさらに大きな広がりを持つことになるはずです。それは、とかく敬遠されがちな「日本人による合唱作品」への新しい挑戦ともなるものだからです。日本の合唱の世界というものは、なぜか普通の音楽愛好家からは遠いところにあるように感じられます。そこで演奏されている曲はお客さんも、そして歌っている人たちも、みんな眉間に皺を寄せて一生懸命苦行に耐えている、そんな感じがするものが少なくはないような気はしませんか?
しかし、この曲に限ってはそんな心配は無用です。なにしろ、津和野演奏会の時の打ち上げでは、津和野町長や美術館長の前で、「天神山の子守唄」の中にあるにぎやかな狸囃子の部分が「振り」を付けて演奏され、やんやの喝采を浴びたのですからね。

3月27日

Romantic Arias
Jonas Kaufmann(Ten)
Marco Armiliato/
Prague Philharmonic Orchestra
DECCA/475 9966(輸入盤)
ユニバーサルミュージック/UCCD-1212(国内盤4月23日発売予定)

チューリヒ歌劇場での「ティート」のDVDを見て以来、すっかりファンになってしまったカウフマンの、初のオペラアリア集です。ソロアルバムとしてはR・シュトラウスの歌曲集がすでに出ていますから、これがデビュー作というわけではありません。
彼との出会いがモーツァルトだったせいで、やはりモーツァルト・テノールとしてのカウフマンを最初に聴きたいと思っていたのですが、あいにくこのアルバムはタイトルが示す通り「ロマンティック」なレパートリーで占められたものでした。彼の動向を詳しく追っかけていたわけではないのですが、どうやら最近はプッチーニやヴェルディといったイタリア・オペラだけではなく、グノー、マスネのようなフランス・オペラにまで活躍の場を広げているのだそうですね。彼本来の(と、勝手に思っているだけかもしれませんが)モーツァルトやワーグナーも、もちろん押さえた上でのことですから、これはちょっとすごいことです。1969年の生まれと言いますからまだ30代、何にでも挑戦してみようという意気込みの表れなのでしょうか。
最初の「ラ・ボエーム」のロドルフォのアリアが聞こえてきたとき、その中にあのプラシード・ドミンゴと同じような感触が見いだされてしまったのは、意外なことでした(「悔しいぞ、ドミンゴ」というのは、楽天イーグルスの本拠地での今時点のネタ)。ちょっとした歌い方の「くせ」などが、非常に良く似ているのですね。さらに意外なことに、モーツァルトやシュトラウスでは見せることになかった「泣き」が、かなり入っていたのです。ですから、このアリアの中では、実に様々な表現のパターンが披露されていることになります。彼の持ち味の突き抜けるような高音と、それをソフトにした「抜いた」歌い方、そして、おそらく意識的に使っているであろう「泣き」まで、縦横に使い分けた多彩な声の饗宴が、そこにはあったのです。そのひとつひとつのテクニックが、ドミンゴの歌い方に良く見られるものであったことが、先ほどの印象を生んだのでしょう。それは、ある種パヴァロッティ的な天性の甘美さとはかなりの隔たりがあるものでした。従って、それぞれの表現が感覚的に必然と感じられることはあまりなく、どこかよそよそしい、別の言い方をすれば消化不良のようなものを感じてしまうのです。
これがヴェルディになると、伴奏のオーケストラのお粗末さとも相まって(なんという田舎臭いセンス)、なんとも居心地の悪い仕上がりになってしまいます。ヴェルディ特有の「開き直り」があまり感じられないのですね。このあたりが、今の彼のイタリア・オペラに対する限界なのでしょうか。
ワーグナーになると、逆の意味でちょっとした不満が出てしまいます。「マイスタージンガー」の「優勝の歌」は、まさにヘルデン・テノールの持ち歌で、力を抜かずに一気に歌って欲しいものなのですが、カウフマンはことさら甘美な味を出そうと色々と工夫をしてくれているのです。結果的にそれはワーグナーとしては新鮮な魅力を持つものにはなっているのですが、やはりもっとストレートな味が欲しかったな、という思いが残ります。
総じて、彼の手の内がまだ確固たる表現にはなっていないというもどかしさが残るアルバムでした。それは将来に向けての一つのステップだったと思いたいものです。彼の実力とセンスをもってすれば、「あのころは、あんなものも作っていたな」と思える日が、間違いなく来るはずですからね。
この次は、ぜひタミーノやドン・オッターヴィオを、出来ればオリジナル楽器とまでは行かなくとも、もっとキレの良いオーケストラと一緒に聴いてみたいものだと、心底思っているところです。

3月25日

MOUSSORGSKY-RAVEL
Pictures at an Exhibition
Arturo Toscanini/
NBC Symphony Orchestra
日本ビクター/JM-M24XR05(XRCD)

XRCDの「トスカニーニ・オリジナル・エディション」で、「展覧会の絵」が出るという噂を聞いたときには、真っ先に入手しようと思いました。それほど、このレコードには思い入れがあります。それこそ自分でお金を出して買ったもののうちの何番目か、というものですから、まだコレクションはわずかなもの、何度も何度も聴いてスクラッチノイズの場所まで覚えているぐらいに頭の中に入っている演奏(?)なのですからね。そんなに物が豊富ではなかった分、逆にそういう濃密な経験をもてるだけの相手があったというのは、もしかしたらかなり幸せなことだったのかもしれませんね。ほんと、最近などは買っても聴かないCDが山積みになっていますから。
このジャケットも、まさにそのLPと同じ物だったのには、ちょっと驚いてしまいました。あまりセンスが良くないので、てっきり国内盤のためのデザインだと思っていたのですが、これがオリジナルだったのですね。
そして、聞こえてきた音も、そのLPと全く同じ肌触りのものだったのにも、驚かされました。もちろん、この「杉本マスタリング」の成果は著しいものがあって、LPではサーフェス・ノイズにかき消されて決して聴くことの出来なかった豊かな残響が、録音場所のカーネギー・ホールの空間感までも伴って聞こえてきたのには感激させられました。しかし、冒頭の硬質で粗野な金管の音は、全く昔のものと同じだったのです。
実は、持っていたのは10インチのLPでした。ですから、入っていたのは「展覧会」だけ、今回カップリングとして収録されているフランクの「プシュケとエロス」は、その時には聴いてはいませんでした。それを今回初めて聴いてみて、ほんの1年前の録音なのに「展覧会」とはまるで別のオーケストラではないかと感じられるほどの柔らかな音だったので、それにも驚かされてしまいました。その時点で、これほどソフトで耳あたりの良い音に仕上げるのは十分可能だったはずなのに、「展覧会」ではこんな荒々しい音になっているということは、そこにエンジニアではなく、トスカニーニの意志を感じることは出来ないでしょうか。ライナーノーツに述べられている、トスカニーニによるラヴェルのオーケストレーションへの改変の言及は、そのあたりのことへの示唆に富むものでしさ。「サミュエル・ゴールデンベルク」のエンディングの音型を、ムソルグスキーのオリジナルの形に変える(これは、現代の指揮者は良く取り入れるやり方)という姿勢からは、ラヴェルの編曲の持つ洗練さよりは、原曲の持つエネルギー感を大切にしたいというコンセプトがうかがえます。冒頭の金管の音色は、そんなトスカニーニの姿勢のあらわれだったのではないでしょうか。
今回のマスタリングで一番楽しみにしていたのは、「キエフの大門」の冒頭でシンバルが入っているかどうか確かめることでした。LPを聴いていたときには、確かにここにはシンバルが入っていて、その前の「バーバ・ヤーガ」から盛り上がってきたものがここで受け止められて、壮大にこの曲が始まったという印象があったのです。しかし、それ以後、別の指揮者のものを聴くと、誰もそんなことはしていません。せっかく時間をかけて盛り上がったものが、いとも軟弱な金管のコラールで、ガラリと様相が変わってしまっていたのです。
今回聴いて明らかになったのは、やはりトスカニーニは確かにそのような盛り上がりを作っていたことです。ただし、シンバルはスコア通り入ってはいませんでした。その代わりに、ティンパニが信じられないほどのエネルギーで、あたかもシンバルが鳴っているかのようなすさまじいクラッシュを作り出していたのです。
トスカニーニが「展覧会」に込めた思い、それがこのXRCDによってより正確に伝わってきたような気がします。

3月23日

BUXTEHUDE
Sonatas Op.1
L'Estravagante
Stefano Montanari(Vn)
Rodney Prada(Va d G)
Maurizio Salerno(Cem)
ARTS/47731-8(hybrid SACD)


昨年2007年はディートリヒ・ブクステフーデの没後300年という記念すべき年でした。そのおかげで、今までは殆どオルガン曲しか知られていなかったこの作曲家の全貌が、録音によってほぼ明らかになるという快挙が成し遂げられることになりました。北ドイツの町リューベックの聖マリア教会のオルガニストという職務から生まれた膨大な量のオルガン曲と、そしてカンタータなどの宗教的な声楽曲は、まるで宝の山のようなもの、この方面の愛好家にはそれらの録音はとてもうれしい贈り物となったことでしょう。
さらに、教会には関係のない器楽曲もたくさん作っているということも、だいぶ知られるようになってきました。それは、クラヴィーア・ソロのための曲と、アンサンブルによる室内楽作品です。その中で、彼の作品の中で唯一作品番号が付けられた(つまり、出版された)ものが、作品1と2のそれぞれ7曲から成る「ソナタ」です。楽器編成はヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてチェンバロというものですから、通奏低音の伴奏によるヴァイオリン・ソナタのようなイメージを持つかもしれませんが、ここでのヴィオラ・ダ・ガンバは、チェンバロと一緒に同じ低音を演奏するのではなく、しっかりがんばって自分の独立した声部を持っています。つまり、これは3つの声部による「トリオ・ソナタ」ということになります。
そんな曲を演奏、そして録音するために、「ブクステフーデ・イヤー」に結成されたのが、「レストラヴァガンテ」というユニットです。モンタナリ、プラダ、サレルノという、古楽器の世界では名の知れたメンバーは、このレーベルにこの作品1と、作品2(もうすぐ国内でもリリースされます)を録音、さらに2009年までの演奏活動と録音の予定も決まっているそうです。
この3人によるアンサンブルをとらえた録音は、「コンプレッサーもイコライザーも一切使っていない」と言うだけあって(実は、そんなに珍しいことではありませんが)、素晴らしいものです。バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてチェンバロという繊細極まりない楽器にこそ、SACDのスペックはその威力を発揮しているに違いありません。特に、低音楽器でありながら、なんともフワフワとした音を漂わせているヴィオラ・ダ・ガンバが、他の楽器に埋もれることなく十分にその細やかな音色を主張してくれているのはまさに感動的です。この楽器がメロディ楽器として表に立ったときの、なんと味わい深いことでしょう。それを迎え撃つヴァイオリンが、モダン楽器とは全く異なる粗野な面持ちを披露してくれていますから、そのキャラクターの違いは格段に印象的です。これでこそ、3つの声部が対等に渡り合うトリオ・ソナタの醍醐味が存分に味わえるというものでしょう。まるで目の前で演奏しているような生々しさに加えて、録音会場の広い空間の雰囲気も十分に伝わってくる素晴らしい録音です。
ブクステフーデの作品を聴くときにいつも感じる、あふれるばかりのファンタジーと、その場面転換の鮮やかさというものが、この「ソナタ」の中にもしっかり宿っていることも、この3人の情熱的な演奏によって容易に知ることが出来ます。それぞれの曲は7つとか8つといった多くの楽章、というよりは楽想の切れ目によって分かれていますが、それらは彼のオルガン曲のように、まるでふと思いついたかのように瞬時にその光景を変えてくれるものなのです。イタリア趣味も抱負に盛り込まれていて、バッハのような厳格さとはまた別の、魅力あふれる作品です。

3月21日

FOULDS
A World Requiem
J.-M. Charbonnet(Sop), C. Wyn-Rogers(MS)
S. Skelton(Ten), G. Finley(Bar)
Leon Botstein/
4 Choruses
BBC Symphony Orchestra
CHANDOS/CHSA 5058(2)(hybrid SACD)


ジョン・フォウルズ(1880-1939)というイギリスの作曲家は、ごく最近まで全く忘れ去られていた存在でした。日本のアイドルみたいですね(それは「フォーリーブズ」)。それが、このところにわかに脚光を浴びています。そんな中で、彼の最も大規模な作品「世界のレクイエム」の世界初録音盤が登場しました。
この曲が完成したのは1921年のことでした。それはもちろん、その少し前、1914年から1918年までの間に行われた戦争と、深い関係を持っていたはずです。その戦争での犠牲者を悼むという意味で、この曲は1923年の「休戦記念日の夜」に、ロイヤル・アルバート・ホールという大きな会場で初演されることになるのです。その時のプログラムの表紙がブックレットに掲載されていますが、その時の演奏者は「Chorus and Orchestra of Twelve Hundred」という規模だったのだそうです(指揮は作曲家自身、オーケストラのコンサート・ミストレスは、作曲家の奥さん、モード・マッカーシーが努めました)。なんと「1,200人の合唱とオーケストラ」ですって。「1万人の第9」には負けますが、「1,000人の交響曲」であるマーラーの8番よりも大人数なのですね。そんなに多くの演奏家と、そして、もちろんあのどでかいホールを満席にする聴衆が集まるという大イベントが、その時だけではなく、さらに3回、年中行事として開催されたというのですから、すごいことです。
そんな集客力を誇った作品も、そしてその作曲家も、4回目のコンサートが終わるとともに、次第に忘れ去られていきます。そして、20071111日に、同じ会場のロイヤル・アルバート・ホールでこの曲の約80年ぶりのコンサートが開催されました。その時のライブ録音が、このSACDです。
この曲の演奏時間は、1時間半ほどで、そんなに長いものではありません。全部で20の小さな曲が集まっていますが、10曲ずつ第1部、第2部という構成です。テキストには、聖書などから奥さんのモードによって選ばれた英語の歌詞が用いられています。編成は、4人の独唱者に2つの大きな合唱団と、少年合唱、そしてオルガン付きのオーケストラという大きなもの、まず、そんなとてつもなく広いダイナミック・レンジを余すところなく再現したDSD録音の底力には、感服させられてしまいます。冒頭のオーケストラの序奏など、決して静かな音楽ではないのですが、普通のボリュームでは殆ど聞こえないほど、それはやがて訪れるトゥッティのためのレベル設定なのでしょう。
フォウルズという人は、インド音楽などの影響も受けたという、ちょっと風変わりな作風で知られていますが、この曲に限って言えば、そのようなある意味前衛的な趣味は影を潜めています。それよりも、多くの人たちにすぐ親しんでもらえるようなキャッチーなコード進行やメロディがてんこ盛りという、親しみやすさが勝ったものになっています。しっとりと死者を悼む、というよりは、お国のために亡くなった英霊を盛大に讃えましょうという、それが演奏された集会の趣旨にのっとったような明るめな曲調が目立ちます。5曲目の「Audite」などは、その最たるものでしょうか。「東の人たちよ!」といったようなバリトンのソロによる呼びかけに応えて、会場の4隅に設けられたバンダが、順次ファンファーレを奏で、最後に「全ての大陸の人たちよ!」となって会場全体が音のるつぼと化す場面などは、ベルリオーズも顔負けの迫力です。
それとは対照的に、ア・カペラの合唱だけでしみじみ歌い上げるのが13曲目「In Pace」の後半、「救われしものの聖歌Hymn of the Redeemed」です。実はこの部分は、きちんと歌える合唱団がいなかったということで、過去の4回の演奏の時にはカットされていたものなのだそうです。それが、今回の録音で初めて音になったという、これは貴重な記録でもあるのです。その部分を聴くだけでも、このアルバムの価値は十分にあります。

3月19日

The Romantic Flute
Jeffrey Khaner(Fl)
Hugh Sung(Pf)
AVIE/AV 2131


最近は、フルーティストのソロアルバムで「これは」というものがあまりリリースされないようになっているような気がしませんか?現に、この「おやぢの部屋」でも、フルートがらみのレビューで一人気を吐いているのがシャロン・ベザリーというのでは、あまりに寂しすぎます。確かに、今の時代には、新しいCDをぜひ手にとって聴いてみたいと思えるような、例えばランパル、ニコレ、そしてゴールウェイといった、真の意味でのソリストは、もはやいなくなってしまったような気がしてなりません。
とは言っても、ジェフリー・ケナー(「カーナー」という表記もありかーなー?)という、一応それなりの評価が固まっているフルーティストがこうしてアルバムが出したりすれば、それだけで食指が動いてしまい、とりあえずは紹介しておかねば、ということになってしまいます。
ケナーは、1990年からフィラデルフィア管弦楽団の首席奏者を務めているフルーティストです。その前にはクリーヴランド管弦楽団に在籍していたといいますから、輝かしいキャリアの持ち主と言うことが出来るでしょう。確かに、オーケストラの中で聴くことの出来る彼の音は、独特の存在感を誇ってはいます。
彼はまた、ソリストとしてもこのレーベルから多くのアルバムを出しています。クララ・シューマンのヴァイオリン曲を初めてフルートで演奏したというような珍しいものもありましたね。今回はロマン派の名曲を集めたもの、ヴィドールの組曲、ゴダールの「3つの小品」、ライネッケの「ウンディーヌ」、フランクのヴァイオリン・ソナタのフルート編曲、そしてサン・サーンスの「ロマンス」という、フルーティストであればだれでも1度は手がけたことのある曲のオンパレードとなっています。そのような、いままでに多くの人が演奏しているものを敢えてアルバムとして世に問おうというのですから、実はこれほど恐ろしいこともないのではないでしょうか。CDまで発表したのですから、そこには過去の名演を超えることが出来たという自信があったので、それをぜひ聴いてもらいたいという気持ちがあったのでしょうか。あるいは、そんな気負いなどはさらさらなく、単に自分の普段の演奏を多くの人に聴かせたいためだけに録音したのでしょうか。その二つの姿勢の違いは、かなり大きなものがあるはずです。
しかし、このCDから聞こえてきたものは、なんとも平凡で起伏に乏しい、言ってみれば楽譜をただ音にしただけというものでした。そこからは、一流の演奏家であれば間違いなく与えてくれるはずの、胸をえぐられるような熱い思いなど、到底聴き取ることは出来なかったのです。
しかし、ここに収められている曲というのは、まさに「ロマンティック」なテイストをたたえたものばかりなのですから、たとえ一流のものでなくとも、そこから「ロマン」を感じられないというのは、ちょっと困ったことなのではないでしょうか。ライネッケの「ウンディーヌ」が、まさにそんな曲、この時代の作曲家がフルートという楽器に対して非常に冷淡だった(それは、楽器が改良過程であったなどの理由があるのですが)中にあって、殆ど唯一の「ロマン派のフルートソナタ」として、その存在価値を一手に引き受けているような立場にある作品なのです。従って、この曲の中にあるテーマは、どんなものでも「ロマンティック」に歌いきって欲しいと思っても、そんな見当はずれなことではないはずです。八分の六拍子に乗って出てくる、最初のただの分散和音に過ぎないテーマですら、ここでのケナーのような素っ気ない吹き方では募るのは失望感ばかり、第3楽章の本当に夢見るようなテーマで涙を流そうなどと思うのが、そもそものまちがいだったと知るのは、なんと辛いことなのでしょう。

3月17日

RACHMANINOFF
Piano Concerto "No.5"
Wolfram Schmitt-Leonardy(Pf)
Theodore Kuchar/
Janácek Philharmonic Orchestra
BRILLIANT/8900


かつては他のレーベルのライセンス品などで破格の値段のボックス物などを大量投入、CD界に価格破壊の嵐を巻き起こしたこのレーベルは、もはや「超廉価盤専門」などとは言ってはいられなくなってしまいました。いつの間にか自社での制作が多くなって、なかなかユニークな企画を発表するようになり、ちょっと侮れないものに変わってしまっていたのです。それでも、全集のような形でのセットものではまだ割安感がありましたが、今回のアイテムはなんと1枚でノーマル・プライス、こうなると、もはや普通のマイナー・レーベルと何ら変わらないようになっていますね。もう一つの「廉価盤」の雄NAXOSも、ちょっと垢抜けなかったジャケットが何となくスマートになってきたと思ったら、値段も少しスマートになり、一流品の仲間入りをしていましたし。そのうちには高音質のマスタリングを行うような噂も飛び交っていますから、こちらも油断はできません。
しかし、この企画のユニークさには、価格のことを言う必要もないほどの衝撃が与えられるのではないでしょうか。なにしろ、ラフマニノフのピアノ協奏曲「第5番」の世界初録音ですからね。もちろん、彼が作ったピアノ協奏曲は「4番」までしかありません。ですから、これは新しく発見された誰も知らない楽譜を、初めて演奏したものなのでしょうか。だとしたら、かなりセンセーショナルなことですね。
あいにく、この曲はそのようなまっとうなものではありません。正式なタイトルは「交響曲第2番に基づくピアノ協奏曲」、つまり、あの激情のるつぼと化した甘美この上ない交響曲を、ピアノ協奏曲に作り替えたものだったのです。そんなアイディアを思いついたのはピーター・ヴァン・ヴィンケルという、このレーベルでもその演奏を披露しているオランダのピアニストでした。彼は、ラフマニノフの交響曲第2番を聴いていて、「なにかが足らない」と思ったのだそうです。そして、ロシア生まれのピアニスト兼作曲家、現在はベルギーで主に映画やテレビの仕事を行っているアレキサンダー・ワレンベルクという人にその「再構築」を依頼します。
ワレンベルクは、まず4楽章あった「交響曲」を、3楽章の「協奏曲」にするために、交響曲の第2楽章と第3楽章をドッキングさせて、それを第2楽章としました。最初に出てくるのは元の第3楽章アダージョの有名な甘いテーマです。それがひとしきり続いたあとに、元の第2楽章のスケルツォが登場します。そしてカデンツァを挟んで、またアダージョに戻る、という構成です。そんな風に、元の形を適宜切りつめたり、もちろんなにもなかったピアノパートを新しく作ったり(カデンツァもあります)という作業を行った結果、この「協奏曲」は元の「交響曲」の40.6%の長さになったということです。
こうして、2000年にヴァン・ヴィンケルが思いついたアイディアは、2007年に実際にスコアとして完成、その年の6月にチェコで録音されたものが、このCDということになります。
そこから聞こえてきた「協奏曲」は、確かにラフマニノフのフレーズで満ちあふれているものでした(当たり前ですが)。しかし、良く出来てはいますが、ここでヴァン・ヴィンケルとは別の意味で「なにかが足らない」と思ってしまうのはなぜでしょう。例えば、元の第3楽章でオーケストラ全体からわき出てくるはずの熱い思いが、ピアノが加わったこのバージョンからは殆ど感じ取ることができないのです。さらに、フィナーレが持っていたはずのとてつもない躍動感が、なぜかすっかり消え失せています。「足らない」と感じたのは、おそらくラフマニノフ自身が曲を作るときにその中に込めていたであろうパッションだったのではないでしょうか。このワレンベルクのアレンジ、これがコンサートで演奏されたとき、果たして割れんばかりの拍手を受けることはあるのでしょうか。

3月15日

MOZART
Symphonies 38-41
Charles Mackerras/
Scottish Chamber Orchestra
LINN/CKD 308(hybrid SACD)


MOZART
The Last Concertos
Andreas Staier(Fp)
Lorenzo Coppola(Cl)
Gottfried von der Goltz/
Freiburger Barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 901980


全くの偶然なのでしょうが、ほぼ同じ時期に、同じ絵画をジャケットに使ったCDが発売されました。その絵画というのは、イグナツ・ウンターベルガーという画家が1784年頃に描いたとされる「ウィーンのフリーメーソン支部における歓迎儀式」という作品です。ジャケットではそれぞれ一部分しか使われてはいませんが、全体はこんな絵です。「ダ・ヴィンチ・コード」で一躍有名になったこの秘密結社の集会を描いたものですが、あちこちにこの結社のシンボルであるモチーフが見つかりますね。

なぜ、モーツァルトのアルバムに揃いも揃ってこの絵が使われたかというと、この中の一番右側に座っている人がモーツァルトその人ではないか、と言われているからです。あんまり似てませんが、おそらく確かな根拠があるのでしょう。
素材が同じジャケットだからと言って、この2つのアルバムが内容までが同じだと言うわけではありません。それどころか、それぞれのアーティスト、マッケラスとゴルツは、ここではモーツァルトに対してまさに正反対のアプローチを試みているのではないかとさえ思えるほどの異なりようを示しています。
38番から41番までという、最後の4つの交響曲を演奏しているマッケラスと、彼が桂冠指揮者を務めるスコットランド室内管弦楽団は、モーツァルトから「悦び」を引きだしているように思えます。木管楽器はモダン楽器、しかし金管のホルンとトランペットはそれぞれナチュラル管を用いるという、最近広く行われている折衷案では、まずその木管がとことん美しい音色で透明感あふれる世界を表現、そこに金管の粗野な音色がアクセントを与えます。弦楽器は、極力ビブラートを抑えた、しかし、あふれる情感は決して殺すことはない歌を聴かせてくれています。そこからは、たとえ短調である「40番」でさえも、生き生きとした愉悦感が与えられるものとなって表現されています。
そのような、自然に逆らわない演奏を繰り広げていたものが、「41番」になったとたん、作品の持つ構成的な重みに負けてしまったのでしょうか、それまでには見られなかったもたつきが感じられてしまうのが面白いところです。逆に、そのもたつきの中からこの曲の特別さを感じさせる、というのが、ひょっとしたらマッケラスの作戦だったのかもしれません。
対するオリジナル楽器による、モーツァルト最後の協奏曲であるクラリネット協奏曲と、最後のピアノ協奏曲、第27番を組み合わせたアルバムのほうは、もっと真面目な、いえ、マッケラスを聴いたあとでは「くそ真面目」と言った方が良いようなモーツァルトへの迫り方を聴かせてくれています。シュタイアーのフォルテピアノなどは、聴いていてちっとも楽しくありません。最後のロンドなど、どうしてもっと素直になって軽やかに歌えないのか、不思議に思えるほど、オリジナル楽器の面子というものもあるのでしょうが、もうそろそろそういう時代は終わりかけているのでは、という気もしませんか?
多分、クラリネットのコッポラあたりは、すでにそんな波に乗っている人なのでしょう。そもそも楽器からして、「オリジナル」のバセット・クラリネットではなく、クラリネット・ダモーレを使ってるんだもーれ。下降音型からはシャープを外すというちょっとエキセントリックな趣味も、この楽器の味わいによって「悦び」に変わります。そして、彼の持つ天性の明るさは、いかにバックが暗くても、損なわれることはありません。いやあ、このトラヴェルソの重さといったら。

3月13日

RAYKHELSON
Jazz Suite and other works
Yuri Bashmet(Va, Cond)
Igor Butman(Sax)
Igor Raykhelson(Pf)
Moscow Soloists
TOCCATA/TOCC 0055


イゴール・レイヘルソンというロシアのピアニスト/作曲家のアルバムです。1961年にロシアのサンクト・ペテルブルク(当時は「レニングラード」でしたね)で生まれたレイヘルソンは、当地の音楽院でクラシックとジャズの両方のピアノを学びます。卒業後彼は「エマージング・スターズ」という音大生が作ったオーケストラ(それは「ライジング・スター」)みたいな名前のジャズ・カルテットを結成して、ソ連(当時)国内をツアーで回ったと言うことです。1979年にニューヨークに移ってからは、エディ・ゴメスなどといったそうそうたるジャズマンたちと共演するかたわら、クラシックのコンサート・ピアニストとしても室内楽や協奏曲を演奏するという多才なところを見せています。
1998年に、このアルバムでもソリスト、そして指揮者として演奏に加わっているヴィオラ奏者ユーリ・バシュメットに出会ったことにより、彼のために多くの曲も作るようになります。その最初の成果が、アルバムタイトルでもある「ジャズ組曲」です。ショスタコーヴィチにも同じような名前の曲がありましたが、あのような完全に「ジャズ」という概念をはき違えたものではない、これはしっかりジャズのイディオムが生かされたなかなか興味深い作品です。
正式なタイトルを「ヴィオラ、サクソフォーン、オーケストラのためのジャズ組曲」というものですが、もちろんヴィオラパートはバシュメットのために、そしてサックスのパートは長年の仲間であるテナー・サックス奏者イゴール・ブットマンために用意されたものです。その他に、レイヘルソン自身がピアニストとして参加、ソロピアノだけではなく、ドラムスとベースが加わったトリオとしても重要なパートを担います。全部で7曲から成る「組曲」、それぞれの曲の性格が見事に「クラシック」と「ジャズ」に分けられているというのが、まず見事な構成となっています。最初の曲ではまるでピアノ・コンチェルトのような格調高いレイヘルソンのピアノが聴けたかと思うと、それに続く曲は完全にジャズナンバーになっているという変わり身の早さが素敵です。弦楽合奏がジャズのユニットにからむときも、それはあくまでジャズの語法によるテンションコードによるハーモニーと、シンコペーションといったアレンジとなっています。そこからは、決してジャズとクラシックとの安直な融合は許さないという、双方の分野に秀でた作曲家のポリシーのようなものを感じることはできないでしょうか。3曲目には「Take Three」というサブタイトルが付けられていますが、これはあのポール・デスモンドの名曲「Take Five」へのオマージュなのでしょう。
ピアノ・トリオの軽快なグルーヴ感とともに圧倒的なのは、ブットマンのサックス・ソロ。ヴァイタリティあふれるモーダルなプレイは、ひとしきり爽快な思いを与えてくれるものです。もちろん、バシュメットのソロもあるのですが、あいにくこちらはアドリブ・ソロではなく、いかにも記譜されたものをそのまま弾いているという堅苦しさがもろに出てきてしまって、「ジャズ」として聴くには辛いものがあります。まあ、本人が楽しんでいればそれは別に構わないのでしょうが。
ただ、彼の本領は、やはりしっかりとした「クラシック」の作品の方でこそ発揮できるはずです。2002年の作品である「ヴィオラと弦楽合奏のためのアダージョ」や、ヴァイオリン・ソロにエレーナ・レヴィチを加えた2003年の「ヴァイオリン・ヴィオラと弦楽合奏のためのリフレクションズ」では、「ヒーリング」までに堕してはいない心地よい安息の世界が胸を打ちます。
このアルバムの中では最も新しい(2005年)「弦楽合奏のための小交響曲」は、それこそショスタコーヴィチが作ったかと思えるようなネオ・クラシカルなテイスト、レイヘルソンの幅広い嗜好がうかがえるものです。

おとといのおやぢに会える、か。


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