わたい、痔なんどす。.... 佐久間學

(05/4/25-05/5/12)

Blog Version


5月12日

BEETHOVEN
Piano Concertos Nos.3&4
Yefim Bronfman(Pf)
David Zinman/
Tonhalle Orchestra Zurich
ARTE NOVA/82876 64010 2
(輸入盤)
BMGファンハウス/BVCE-38087
(国内盤 5月25日発売予定)

ブロンフマンというピアニスト、昨年11月にはゲルギエフとともに来日したウィーン・フィルとの共演で、大きな話題を呼びましたね。最近、その模様がテレビで放送されたものを見る機会がありましたが、会場での聴衆の熱狂ぶりはものすごいものでした。大きな体でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をいとも易々と演奏する様もさることながら、アンコールでスカルラッティのソナタという、非常にかわいらしい曲を軽やかに弾いていた姿が、私にはとても印象的でした。そういえば、あのホロヴィッツもスカルラッティを好んで演奏していましたから、ブロンフマンも、この世紀のヴィルトゥオーゾのようにこの愛らしい曲にテクニックを超えたところでの愛着を感じているのかもしれませんね。
そのブロンフマンが、ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレというコンビをバックにベートーヴェンのピアノ協奏曲を録音しました。最近のこの指揮者の実績を考えると、これはあまり相性が良さそうな組み合わせではあるとは思えません。果たして、どんなことになるのでしょう。
そんなある意味「負」の予感は、「第3番」の冒頭のハ短調の分散和音が弦楽器によって奏でられたとき、見事に的中してしまったことを実感しないわけにはいきませんでした。例によって、当人たちは「オリジナル楽器」のポリシーを込めたつもりでやっているであろう、一つ一つの音を無愛想に短く切るという演奏、もちろん、彼らだけでそういうことをやっている分にはなんの問題もないのですが、そこにブロンフマンの洗練されたピアノが入ってくると、それは瞬時に色あせた安っぽい表現に見えてくるのです。このピアニストが紡ぎ出す、ムラのない音色や、輝かしい響き、そのバックとして、このような素っ気ない表現、そして、ビブラートをかけないで弾かれるガット弦の甲高い音色や、ゲシュトップがかかったナチュラル・ホルンのちょっとひなびた響きほど、ふさわしくないものはありません。「第4番」のフィナーレでは、弦楽器の導入に続いてソロのチェロだけを伴うピアノソロが入ります。最初にこの部分を聞いたときには、私のリスニングルームの外を、バイクでも走っていったのかという錯覚に陥ってしまいました。それほどこの華麗なピアノが鳴り響いている中では異質な音色でしかない「オリジナル」っぽいチェロの響き、このミスマッチを、私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。
例えば第3番の第2楽章などでは、ジンマンは見事なまでにピアノをサポートして、一体となった美しい音楽を作り上げています。しかし、オーケストラが前面に出て来る楽章では、その違和感は拭いようがありません。ジンマンは、ブロンフマンをソリストに選んだ時点で、それまでのかたくなな姿勢を改めるか、あるいは自らの意向に忠実なフォルテピアノの演奏家を新たに指名するか、どちらかの道を選ぶべきだったのです。そうしていれば、価格の安さしかじんまん(自慢)出来ないようなアルバムにはならなかったはずです。

5月11日

SHOSTAKOVICH
Symphony No.5
Mstislav Rostropovich/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO 0058


ロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏としては、1982年に手兵ナショナル交響楽団と録音したDG盤が有名ですね。個性的という点では他の追随を許さない、独自のこだわりに満ちたものでした。今回のロンドン交響楽団による新録音(2004年7月)も、基本的な設計は旧録音と変わることはないように見えます。しかし、そこは生身の人間ですから、細かいところでいろいろ違いが発見できて、興味は尽きません。
いずれの演奏でも、第1楽章の低弦によって導かれるヴァイオリンの最初のテーマに、まず驚かされることでしょう。そのすすり泣くようなテーマには、殆どビブラートがかけられていないのです。「殆ど」と言いましたが、旧盤では完全なノン・ビブラート、初めてこれを聴いたときの衝撃は、今でも覚えていますが、強烈な印象を伴うものでした。ただ、オーケストラの能力のせいなのか、録音(あまりに残響の多すぎる、ちょっと焦点の定まらない音でした)のせいなのかは分かりませんが、その効果がメッセージとして伝わるには少し無理があるような印象を受けたことも、また事実でした。それが、今回は適度の「甘さ」が込められていることにより、より納得できる形で受け止めることが出来るのではないでしょうか。前の演奏が人一人いない荒野だとすれば、今回はあくまで人の気配は残した「廃墟」と言ったイメージでしょうか。
第2楽章では、フレーズの終わりで思い切り大見得を切ってくれる潔さが魅力的です。その点では両者とも大きな違いはないように思えますが、ヴァイオリンのソロが出てくると、思わずのけぞってしまいます。ロンドン響のコンマス(「リーダー」ですね)ゴードン・ニコリッチが後半に見せる格別のルバートには、誰しもとびきりの脱力感を味わわないわけにはいかないことでしょう。これは、ショスタコーヴィチが元々込めていた、ちょっと引きつったユーモアとはかなり異質なキャラクター、まず間違いなくロストロポーヴィチのちょっと下品な資質のなせる業に違いありません。
第3楽章には、弦楽器がグリッサンドで上昇する部分があります。今回ここを特別ていねいに強調したことには、何か深い意味でもあるのでしょうか。確かに、普段は聞き流してしまうものが、一瞬耳をそばだてずにはいられない状況に陥るのは、確かです。
第4楽章だけは、前回に比べて演奏時間が1分以上長くなっています。その分、各フレーズの歌い方はよりていねいになっています。中でも印象的なのは「強制された喜び」を表現したであろうフレーズ。ここでロストロポーヴィチが行っているのは、この曲の最初で見せた「ノン・ビブラート」とは対照的な、たっぷりしたビブラートをかけながら極端なピアニシモを維持するという表現です。この部分、これほど緊張感あふれる、まるで青白い鬼火が漂うような演奏は、ちょっと他では聴けないものです。
これ1曲しか入っていないという、CDにしては今時珍しい収録時間の短さですが、これだけ中身が濃厚だともう充分に「得」をした気分になってしまいます。これは、余計なロスを取ったことに対するご褒美としてのお駄賃でしょう(ロス取る褒美賃)。

5月9日

Mirror of Eternity
Wissam Boustany(Fl)
Volodymyr Sirenko/
National Symphony Orchestra of Ukraine
QUARTZ/QTZ 2015


「永遠の鏡」というタイトルのこのアルバム、レバノンの作曲家Houtaf Khoury(なんと読むのでしょう)が作った同名の曲の他に、ハチャトゥリアンのフルート協奏曲と、ウクライナのスタンコヴィッチという人の「室内交響曲第3番」(実質的にはフルート協奏曲)の3曲が収められています。演奏しているのは、レバノン生まれで、現在はロンドンを中心に活躍しているフルーティスト、ウィッサム・ブースタニーと、ウクライナ生まれの指揮者シレンコに率いられたウクライナ国立交響楽団という、ローカリティあふれる顔ぶれになっています。レバノン、ウクライナ、そしてハチャトゥリアンのアルメニアと、いずれもヨーロッパとアジアの境目に位置する国々の、特異な民族性を持った音楽たち、それを、西洋音楽に慣らされてしまった耳へのひとときの刺激剤としてこのアルバムを求めたのであれば、あなたはここで聴くことの出来るとてつもないメッセージに、殆ど圧倒されてしまうことでしょう。そう、まさに私自身が、とりわけハチャトゥリアンに込められた「思い」の大きさに、呆然となっているところです。
原曲はヴァイオリンのための協奏曲を、ランパルのためにフルート用に書き直したこの曲については、機会があって殆ど全てのCDを聴いてきました。そのような下地を持っていたところにこの演奏を聴いたわけですが、その第2楽章には、いまだかつてこの曲からは味わったことのない「悲しみ」の世界が広がっていたのです。最初のフルートソロによるテーマ、それは確かにメランコリックな趣を持つものではありますが、ここでブースタニーが吹いているような、まるですすり泣きを思わせる表現をとっている人など、誰もいません。オーケストラも、中間部のヴィオラによる長いパートソロを聴いてみて下さい。これほど心にしみる重い演奏は、決してヨーロッパの洗練されたオーケストラからは聴くことは出来ないでしょう。そのパートソロが終わって、また現れるフルートソロが、さらに「悲しみ」を助長するもの、フレーズの一つ一つが、まるで針のように心に突き刺さってきます。
しかし、この重苦しい「悲しみ」は、続く第3楽章のダンスによって、ものの見事に「解放」されるのです。それはまるで勝利の宴のような華やかさをもって、真の喜びをもたらしてくれるものです。こんなプログラム、おそらく作曲者自身も意図していたものではなかったことでしょう。そもそもオリジナルのヴァイオリンではなく、フルートだったからこそ、あのような悲痛な響きを醸し出すことが出来たのでしょうから。
ブースタニーのフルートは、決して洗練されたものではなく、華やかさという点では難がありますが、このような深い表現を実現させる「技」には、卓越したものがあります。さらに、レバノンとウクライナの作曲家の曲の場合では、西洋音楽ではあまり使われることのないビブラートや音色のバリエーションが、とても豊か、そして、民族楽器を思わせる高いレジスターでの安定ぶりには、舌を巻く他はありません。それは、テクニックだけではなく、彼の中に流れる「血」のなせる業、西洋の洗練を追い求めることを至上の目的としている私たち日本人が、もしかしたら忘れてしまっていたことを思い出させてくれるものなのかもしれませいよう

5月7日

French Flute Music
Patrick Gallois(Fl)
Lydia Wong(Pf)
NAXOS/8.557328


前作のモーツァルトの協奏曲では、今までになかったような型破りな演奏を披露してくれたガロワですが、今回はオーソドックスな「フランス音楽」のアルバムを録音してくれました。もちろん「オーソドックス」だと思っているのは、一部のフルート演奏家及び愛好家だけなのかもしれませんが。というのも、ここに収録されている曲は、プーランクはともかく、ピエール・サンカンやアンリ・デュティユーのソナチネなどは、フルーティストのレッスンには必ず登場する「名曲」ではあるのですが、一般の音楽愛好家が好んで聴いているといった意味での名曲では決してないのです。「勉強したことがあるから」という流れで、リサイタルなどで取り上げる演奏家も多いことでしょうが、大体そういうところに聴きに行くのは限られた「フルート社会」の人たちだけでしょうから、そのような場で真に音楽的な演奏など、生まれるはずもありません。
もちろん、ここでガロワが披露しているものは、そんな硬直したありきたりの演奏であるわけはありません。ある種「お約束」が支配しているこれらの曲から、彼は見違えるばかりの生き生きとした音楽を引き出してくれているのですから。それは、よく言われる「フランス音楽のエスプリ」などというようなちょっと甘ったるい印象を与える語彙で括られるようなものではなく、「魂のほとばしり」とでも言えるほどのもっと逞しいものなのです。それは、例えばプーランクのソナタの最初のテーマの橋渡しに用いられている上昇スケールを、テンポの中でさらりと聴かせるという「普通の」演奏によく見られる扱いではなく、ことさらその中に意味を見出すことを要求するような、一瞬停滞するかのような表現からも、感じ取ることが出来るはずです。
最後のトラックに収録されているのが、ピエール・ブーレーズの「ソナチネ」であることが、このアルバムの価値をさらに高めることになっています。1946年という、「現代音楽」が最も尖った様相を見せていた時代の産物を、このような「名曲」の中に折り込むというプログラミング自体が、すでに「事件」なのですから。実際、この曲の録音で現在入手可能なものは、ブーレーズの「身内」とも言えるソフィー・シェリエのものぐらい(あいにく、聴いたことはありませんが)、いわゆる「名演奏家」によるものは皆無です(シュルツ盤は廃盤になっています)。ですから、そこに、ガロワの演奏が加わった意義は小さくはないはずです。手元に1969年録音のニコレの演奏によるWERGOのLPがあったので、久しぶりに聴き直してみたのですが、それはこの年月が作品に与えた充分な醸成期間であったことをはっきりと物語るものでした。とても複雑なこの曲のスコア、特にダイナミックスには細かい指定があるのですが、ニコレの場合音符を追うのに精一杯で、とてもそこまでは手が回らないという感じなのに、ガロワはまさに余裕を持ってそれらの指定を忠実に音にしているのです。ちょっと意外かもしれませんが、実はこういう現代曲でのガロワの楽譜に対する忠実さには、定評があります。その自信に満ちたしなやかな演奏からは、「ブーレーズ」を、甲高い声がいやだからと(それは「ネーネーズ」)ちょっと敬遠していた人でもすんなり入り込んでいける、確かな魅力が伝わってきます。始まってちょっとしたあたりの、ピアノのトリルに乗った「Très modéré, presque lent」の部分のフルートの美しいこと。

5月5日

BACH
Cantatas Vol.26
野々下由香里(Sop)
Timothy Kenworthy-Brown(CT)
櫻田亮(Ten)
Peter Kooij(Bas)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/CD-1401


バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハのカンタータ全集も、作曲年代順に録音するという形で着実に進行しているようですね。ちょっと油断してこの26巻を聴かないでいたら、もうすでに27巻が出てしまったぐらいですから、「コレキリヨ」と終わってしまうことなど、あり得ないでしょう。プロジェクトもいよいよ中盤にさしかかり、カンタータの宝庫、ライプチヒ時代2年目の1724年もそろそろ終わろうとしているところです。このアルバムにはその年の10月8日に演奏されたBWV96「主キリスト、神のひとり子」、1022日に演奏されたBWV180「装いせよ、おお、わが魂よ」そしてクリスマスの次の日曜日1231に演奏されたBWV122「新たに生まれし嬰児」の3曲が収録されています。
ここで、ちょっと楽器編成について気が付いたことを。例えば、BWV122では、管楽器はリコーダー3本とオーボエ3本(うち1本はオーボエ・ダ・カッチャ)というように、6人の奏者が必要とされるような指定になっています。実際、ここで演奏しているBCJも、それぞれの専門の演奏家を用意して録音に臨んでいるのですが、厳密なことをいえばこれはバッハ当時の「オリジナル」な姿ではないのです。と言うのも、この曲では6人の管楽器が同時に演奏するという場面は存在しておらず、必ず「リコーダーだけ3本」か、「オーボエ族だけ3本」という形になっています。つまり、トーマス教会のバルコニーにいたのは3人の管楽器奏者だけ、彼らはそれぞれリコーダーとオーボエを持ち替えて演奏していたのです。今で言えば、ジャズのマルチリードのようなものでしょうか、当時の管楽器奏者(実は、そんなたいしたものではなく、言ってみれば単なる楽士)は、一人で数多くの楽器がこなせないことには、生活していくことは出来なかったのでしょう。少し人員に余裕があるときには、バッハはBWV180のように、2本のリコーダーと2本のオーボエを同時に使って、華やかなサウンドを提供するときもありましたが、ここでも、テノールのアリアの時のオブリガートに用いられているフラウト・トラベルソは、さっきまでリコーダーを吹いていた人が演奏していたのです。
管楽器のオブリガートでひときわ耳を引くのは、BWV96でのソプラニーノ・リコーダーでしょう。演奏しているこの楽器のスペシャリスト向江昭雅は、見事なまでのテクニックで爽快感あふれるプレイを披露してくれています。しかし、これほど分業化が進んだ現代ではなく、18世紀のバッハの時代には、掛け持ちの楽士がほとんど初見でにこれだけの演奏を行うことが要求されていたのだと考えると、ちょっとすごいことだとは思えませんか?
声楽陣での最大の収穫は、テノールの櫻田亮でしょう。無理のない発声、魅力的な音色、完璧なテクニック、どれをとっても素晴らしいものです。以前はこんな強烈な印象はなかったのですが、いつの間にこれほどの成長を遂げたのでしょう。ただ、各パート3人ずつ(うち1人はソリスト)という合唱は、それぞれの生の声が聞こえてしまってちょっと感心できません。オリジナルに立ち返れば、人数的にはこれが妥当なところなのでしょうが、メンバーの主張が強すぎては、なんにもなりません。

5月3日

レコードはまっすぐに
Putting the Record Straight
John Culshaw著(山崎浩太郎訳)
学習研究社刊
(ISBN4-05-402276-6)

ジョン・カルショーという骨が丈夫になりそうな名前(それは「カルシューム」)、クラシックレコードの愛好家でしたら必ずどこかで聞いているはずです。イギリス・デッカのレコーディング・プロデューサーとして、1950年代から60年代にかけてきら星のような名盤を作り出した人。中でも、スタジオ録音では史上初の「ニーベルンクの指環」の全曲録音を成し遂げたことは、広く知られています。
その「指環」の録音に携わっている間の興味深い事実を克明に語った記録は「Ring Resounding」というタイトルで1967年に出版され、翌年には黒田恭一氏の翻訳で日本語版も出ています(音楽之友社刊・タイトルは「ニーベルングの指環」)。1958年の「ラインの黄金」に始まり、1965年の「ヴァルキューレ」で終わった録音セッションのドキュメンタリー、これに接した人ならば、だれしも、これらの録音が現時点でもこのレパートリーのファースト・チョイスとして万人に勧めることの出来る名盤たり得ているかが納得できるという素晴らしい本は、あいにく今では入手不可能な状態になっています。私は持っていますがね。

この新刊は、残念ながらその名著の復刻版ではありませんでした。カルショーは1980年に、55歳の若さで急逝してしまうのですが、これはその死の翌年に刊行された、いわば「遺作」というようなものです(実際、最後の部分は未完のままになっています)。ここでは、「Ring〜」で述べられていた以外のことが、デッカに入社する前の海軍航空隊(実は、その前の銀行員の時代も)の時の体験から詳細に描写されているのです。彼は最終的にはレコーディング・プロデューサーという仕事に就くのですが、その職を得てからも文筆の道、とりわけ小説家として身を立てたいという希望を持っていました(実際、出版された小説も2、3ありました)。ですから、その筆致は読むものをとらえて放さない魅力的なもの、文の構成といい、時折見せるユーモラスな仕掛けといい、最後まで飽きることはありません。
もちろん、私たちにとっては、今まで幾度となく聴いてきた名録音が誕生したまさにその時の様子が生き生きと描かれているのですから、面白くないはずがありません。中でも、カラヤンとウィーン・フィルによって録音された「ツァラ」に関する部分では、例の「2001年」との関わりまできちんと述べられているのですから、ここのマスターのように驚喜にむせび泣いてしまう人もいるかもしれません。何しろ、今まで傍証でしか確認できなかったことが、制作者自身の手で明らかにされているのですから(この件に関しては、マスターがこちらに「追記」を設けましたので、参照して下さい。ちなみに、この部分の訳者による「注釈」は全くの事実誤認、ベームとシュターツカペレ・ドレスデンによる「ツァラ」の録音など、存在していません)。
実は、この本を執筆していた時には、カルショーはデッカを離れていました。そして、デッカ本体も、経営者の死によってポリグラムに売却されるという事態に陥っていたのです。デッカの最盛期を作り上げ、その没落にも立ち会えたはずのカルショー、思いがけない病気で亡くなることがなければ、この中に執拗に登場する経営者との確執を伏線とした、壮大な「悲劇」を完結させることが出来ていたことでしょう。

5月1日

SCHNITTKE
Symphony No.8 etc.
Lü Jia/
Norrköping Symphony Orchestra
BIS/CD-1217


80年代から進行していたBISによるシュニトケ全集、20巻目にあたる交響曲6、7番を最後にしばらくリリースがなかったので、てっきりそれで完結していたと思っていたら、久しぶりに21巻が登場です。この全集、ジャケットのデザインがアルフレート・シュニトケの頭文字「AS」を音名で表すという、ユニークなものでした。そもそも、このシリーズのロゴマークがその「A」つまり「ラ」と「S」つまり「Es=ミ・フラット」をかたどった(下のジャケットの右上)、あまりセンスの良くないものなのですが、ジャケット自体も、音符と五線紙を黒字に赤や緑の原色を使って配するという、ちょっと安っぽいものだったのです。

それが、今度のアルバムでは、見違えるようにあか抜けたデザインに生まれ変わっていて、いかにも「新生」シュニトケ全集という感じがひしひしと伝わってきます。
シュニトケという人も、様々な作風の変遷をたどった作曲家ですが、この生涯の終わりに近い時期の作品では、かつて見られたこれ見よがしなジャズなど他ジャンルとの「融合」は影を潜めているかのように見えます。しかし、「交響的前奏曲」(1993)の冒頭で朗々と鳴り響くなんの変哲もない、ただカッコいいだけの金管楽器のコラールが、次の瞬間にはへんてこな打楽器にサポートされてなにやらエスニックな雰囲気を漂わせるのを聴いてしまうと、やはりこの人は変わっていないことを認識させられてしまいます。そのコラールが、何回か繰り返されていくうちに次第に「壊れて」行くのも、聞き物でしょう。
5楽章構成の「交響曲第8番」(1994)では、最初の楽章が人を食っています。テーマは8分の6拍子で8小節という恐ろしくきっちりしたものなのですが、まずホルンのソロでとんでもない跳躍を含んだ形に変形されたものが提示され、そのあと延々と同じテーマが少しずつ形を変えて繰り返されるという、現代版「パッサカリア」あるいは「ボレロ」といった世界が展開されます(もしかしたら、「ミニマル」と言うべきなのかもしれません)。2楽章と4楽章はセリエルっぽいアレグロ、そして、それらに挟まれた形の第3楽章には、まるでショスタコーヴィチを思わせるような長大で深みのあるレントが横たわります。最後、ほんの1分足らずの「楽章」は、ロングトーンを細かい音程で重ねていくという「クラスター」、20世紀の末期にこの技法を使うことは、郷愁以外のなにものでもないことが実感されることでしょう。
「リバプールのために」(1994)は、そのタイトル通り、ロイヤル・リバプール・フィルからの委嘱作品。まるで映画音楽のようなある意味開き直ったサウンドは、この作曲家のたどり着いた境地なのか、あるいは次のステップのための助走なのかは、この4年後に亡くなる時点でも明らかではなかったことでしょう。
ノールショピング響は、上海出身の首席指揮者ジャ・リューの許で、この楽天的なスコアを見事に音にしています。まるで、屈託のない商業施設(ショッピング・モール?)のよう、そこからは、斜に構えたアイロニーのようなものは、ほとんど感じ取ることは出来ません。

4月29日

MILHAUD
Choral Works
Stephen Layton/
Netherland Chamber Choir
GLOBE/GLO 5206


ダリウス・ミヨーという作曲家、「6人組のひとり」と言うな肩書きで括られてしまえばそれで片づいてしまい、実際の作品についてはいまいちイメージのわきにくい人なのではないでしょうか。ちょっと調べてみたら、作品の数は1000曲近くもあるのですから、かなり旺盛な創作活動を行ったということが出来るでしょう。なかでも、交響曲は、「室内交響曲」というのを合わせると全部で18曲、弦楽四重奏曲もやはり18曲も作っているという、この時代にしては「古典的」なジャンルも押さえた人です。その上で、映画音楽も含めた幅広い分野での作品を残しているのですが、その割には、頻繁に演奏されるものはごく限られたものにとどまっているため、なかなかメジャーにはなりきれないのでしょう。
このアルバムは、そんなミヨーの無伴奏合唱曲を集めたものです。彼の合唱曲は全部で83曲あるとされていますが、恥ずかしい話、私は1曲も聴いたことがありませんでした。したがって、このアルバムの中の曲も、全て私の中での「世界初演」ということになりますね。1930年代の「ローヌ川讃歌」、「2つの都市」、「裸の手の前で」と、1950年前後の「ヴィーナスの誕生」、「ダヴィデの3つの雅歌」、そして、最晩年1972年の「プロメセ・デ・ディエウ」という具合に、ある程度時代的な変遷を追うことも可能な選曲と曲順になっています。
ドビュッシーの亜流のようないかにもフランス風のハーモニーやシンコペーションを多用した初期の「ローヌ川〜」あたりが、典型的なミヨーの作風になるのでしょうか。これが中期の「ダヴィデ〜」になると、プレーン・チャントとハーモニーを交替させるというユニークな構成を取っていて、最も聴き応えのあるものに仕上がっています。しかし、晩年の「プロメセ〜」は、いたずらに懲りすぎたハーモニーを多用しているため、はっきり言って退屈な曲調、これが「円熟」というものなのでしょうか。
ここで演奏しているのはオランダ室内合唱団、指揮は、最近この団体の首席指揮者に就任した、このサイトではおなじみのスティーヴン・レイトンです。レイトンといえば、今最も注目される合唱指揮者、この合唱団との初めてのCDになるこのアルバムでは、どのような音楽を届けてくれているのか、という大きな期待をもって聴き始めたのですが、どうも、何かが違います。かつて、私がこの合唱団を最初に聴いたときには、その、まるでいぶし銀のような渋い音色に魅了されたものでした。しかし、ここではそのような深い響きがほとんど聞こえてこないのです。やたら高音を多用するミヨーのスコアのせいもあるのかもしれませんが、ソプラノの余裕のないナマの声が、とても耳障りに聞こえてしまいます。ですから、ffの部分はまさに悲惨、ハーモニーなどどこかへ行ってしまったような「叫び声」しか聞こえてこないのは残念です。ppになれば持ち前の美しい響きは確保できているのですが、ハーモニーの変わり目がとても雑で、自然な流れが損なわれてしまっています。あの、緊張感を伴った濁りのないハーモニーを引き出すレイトン・マジック、この合唱団にその効き目が現れるのは、もう少し先になるのでしょうか。蛇足ですが、ライナーの歌詞対訳のトラックナンバーに間違いがあります。

4月27日

MATHIAS
Orchestral and Vocal Music
Jeremy Huw Williams(Bar)
David Pyatt(Hr)
Anthony Hose/
Welsh Chamber Orchestra
METRONOME/MET CD 1066


ウィリアム・マティアスという、1934年に生まれて、1992年に亡くなったウェールズの作曲家のことをご存じでしょうか。「ザ・スパイダーズ」のメンバーではありません(それは「マチャアキ」)。もちろん、私は全く聞いたことはありませんでしたが、「ちょっと聴いて見ませんか?」と友人が貸してくれたこのCDを聴いて、すっかりこの人が好きになってしまいました。現在は「UK」の一部となっていますが、本来はいわゆる「イングランド」とは異なる民族であるケルト人の国であったウェールズ、ライナーでは英語とともにケルト語も併記されている通り、とことんウェールズにこだわったこのアルバムからは、何とも心やすらぐ彼の地の「匂い」のようなものが、ふんだんに漂ってきたのです(実際に行ったこともないのに、そんなものがなぜ分かるのか、不思議ですが)。
1986年にアンソニー・ホースによって創設されたウェールズ室内管弦楽団のデビューアルバムとなるこのCD(録音は2003年)、そこから聞こえてきた弦楽器の響きが、決して他の団体の録音からは聴くことが出来ないような心安らぐものであったことも、決定的な魅力になっています。この柔らかな、決して他人に怒鳴り散らすようには聞こえないこの穏やかさは、とびきりの包容力をもって迫ってきます。
最初の曲は、建物のオープニングセレモニーのために書かれた「イントラーダ」という短い作品です。オーボエ、ホルンがそれぞれ2本と弦楽合奏という軽い編成、その管楽器も、見事に弦楽器に溶け合っている様が素敵。曲調も、決して派手ではないのにしっとり祝福のメッセージが伝わるという渋いものです。次の「ウィリアム・ブレイクの詩による歌曲」では、バリトン独唱にチェレスタ、ハープ、ピアノと弦楽合奏という編成が、さらに透明感あふれるサウンドを提供してくれます。全部で12曲からなる曲集ですが、特に最後の2曲は、まるでサン・サーンスの「水族館」(「動物の謝肉祭」ですね)を思わせるような浮遊感に、惹かれるものがあります。これで、バリトン独唱のウィリアムズから重苦しさが抜けていれば、もっと爽やかな味わいが出ていたのでしょうが。もう1曲、ウェールズの伝承歌を編曲したものも収録されていますが、やはりもっと軽さが欲しいものです。
しかし、かつて、尾高忠明指揮のBBCウェールズ・ナショナル響のツアーでのソリストとして日本を訪れたこともある、ロンドン響の首席ホルン奏者パイアットのまろやかな音色は、このオーケストラとは見事に融合しています。穏健な中にも確かな歌心を伝えてくれている、古典的な4楽章形式のこのホルン協奏曲、最後の楽章の変拍子は、ちょっとしたアクセントでしょうか。時たま聞こえてくるコントラバスのピチカートの深みのあること。
そして最後に、弦楽器だけで演奏される「トレノス」という、内に秘めた情感を控えめに伝えるすべを見事に発揮した晩年の佳曲を聴けば、この作曲家の魅力にどっぷり浸かることが出来ることでしょう。もちろん、ここでの弦楽器の響きもまさに絶品です。

4月25日

BACH
Matthäus-Passion, Johannes-Passion
Christoph Prégardien(Ten)
René Jacobs(Alt)
Gustav Leonhardt, Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
DHM/82876 67402 2


BACH
Matthäus-Passion
Robert Luts(Ten)
Orlanda Velez Isidro(Sop)
Sytse Buwalda(CT)
Pieter Jan Leusink/
Holland Boys Choir, Netherlands Bach Orchestra
AMSTERDAM CLASSICS/AC 20050


最近は「マタイのCD」の安売りがトレンドなのでしょうか。たまたまお店をのぞいてみたら、なんと、あの古楽界のカリスマ、アーノンクール御大の2000年録音の「マタイ」が、2090円という、信じられないような価格で並んでいるではありませんか。当初は確か6000円ぐらいはしたはずの豪華ブックレット仕様のあのアルバムがですよ(もっとも、これは販売元のワーナーがあんな風になってしまったので、投げ売りをしているということなのでしょうが)。
そのアーノンクールが移籍した先のBMGでは、定評のあるDHMレーベルのラ・プティット・バンドの「マタイ」と「ヨハネ」がセットになって、こちらは3690円というお買い得なお値段を提供していたので、まだ持っていなかった私は早速ゲットしてしまいましたよ。特にレオンハルトの「マタイ」は各方面で評価の高いものですから、いつかは聴いておきたかったものでした。しかし、このアルバム、残念ながらそれほど感銘を受けることはありませんでした。何よりも失望させられたのは、合唱の女声パートを歌っているテルツ少年合唱団のあまりのひどさ。音程は定まらないし、声は弱々しいし、児童合唱の悪い面ばかりが表に出てしまった悲惨なものでした。なぜか、ソロの女声もここの団員が歌っているのですから、それがどんな結果を生んでいるか、おわかりになることでしょう。もう一つ、レオンハルトの、コラールを演奏するときに各拍にアクセントを付けるという変な癖も、今聴いてみると著しく全体の流れを損なう、みっともないものでした。その点、同じセットのクイケンの「ヨハネ」は、すっきりした自然な流れがとても美しい名演です。
これらは、1989年と1987年の録音でしたが、2004年の「マタイ」の新録音が1990円で買えるというのが、このロイシンク盤です。この名前を聞いてピンと来た方もいらっしゃるかもしれませんが、この指揮者は例のBRILLIANT(今回のレーベルも、実体は同じもの)で、なんと2年間でバッハの教会カンタータ全曲を録音してしまったというものすごい人です。全曲がCD2枚に収録されていることから予想されるとおり、かなり早めのテンポを取っているすっきりした演奏ではあるのですが、なぜかもっさりした印象を持ってしまうのは、録音のせいでしょうか。そう、教会で録音されたということを考慮してみても、明らかに残響の多すぎるちょっと幼稚な録音のせいで、この「マタイ」は、本来の演奏の意図が少しゆがめられて伝わったかもしれない、残念な結果を生んでしまっています。その点が顕著に表れているのが、カンタータの時とは比べようもないほどの豊かな説得力を身につけた合唱。特にトレブルの自信に満ちた力強い歌い方、変に他のパートと融合しようとはしない独特の主張が、この甘ったるい録音のおかげで台無しになってしまっているのです。もし、もっとダイレクトな録音がなされていたならば、この合唱は特に後半のドラマティックな部分では、ハーモニーなどを超越した怒濤の説得力を、遺憾なく発揮していたことでしょう。
ただ、この録音が良い方に作用した部分もあるのは、救いです。それは、第2部の中程、トラヴェルソとオーボエ・ダ・カッチャのオブリガートを伴うソプラノのアリア「Aus Liebe will mein Heiland sterben」。ポルトガル出身のイシドロの細身の声がこの芳醇なエコーに包まれて、そこには真の「癒し」の世界が広がっていたんだっちゃ

おとといのおやぢに会える、か。


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