キリストの商店。.... 佐久間學

(07/8/23-07/9/10)

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9月10日

VIERNE
Complete Organ Symphonies
Jeremy Filsell(Org)
BRILLIANT/8645


フランクやヴィドールの教えを受けた盲目のオルガニストで作曲家、ルイ・ヴィエルヌが作った6曲の「オルガン交響曲」がすべて収録された3枚組のセットです。2004年にSIGNUMに録音されたものですが、BRILLIANTからのライセンス販売によって、2000円もしないお得な値段で入手できますよ。
ヴィエルヌは1900年、彼が30才の時に、パリのノートルダム大聖堂の専属オルガニストのポストにつきます。そして、1937年の6月に開催したリサイタルで、そこのオルガンによって自作の「トリプティーク」を演奏している途中に心臓発作によってこの世を去ることになったのです。その時に演奏助手(譜めくりやストップの切り替えを行います)を務めていたのが、彼の生徒であったあのモーリス・デュリュフレでした。
1899年の「第1番」から、1930年の「第6番」まで、彼の壮年期にコンスタントに作られた「交響曲」は、それぞれ5つ(「第1番」の場合は6つ)の楽章から成っている、まさにオルガンによる交響曲と呼ぶにふさわしい、しっかりとした構成美と多彩なオーケストレーションを味わえるものです。もちろん、「交響曲」とは言っても、ドイツ風にモチーフを展開するというような厳格なものではなく、もっとメロディアスなキャラクターの目立つわかりやすい魅力にあふれています。おそらく初めて聴いた人でもすんなり受け入れて、何度も聴いてみたいと思えるような親しみやすさが、そこにはあるはずです。
例えば「第1番」では、第1楽章と第2楽章が「プレリュード」と「フーガ」と名付けられ、まるでバッハの同名の作品のようないかにもオルガンならではの壮大な世界が広がっています。バッハと違うのは、その「プレリュード」がいかにもフランス風のとても煌びやかなパッセージと音色に支配されていると言うことでしょうか。しかし、続く「フーガ」は、まるでバッハそのもののようなかっちりしたものであることに驚かされます。第3楽章の「パストラーレ」は八分の六拍子の流れるようなリズムに乗って、倍音管の透明な響きで爽やかなメロディが奏でられます。第4楽章の「アレグロ・ヴィヴァーチェ」は、軽やかなイメージ、ちょっととぼけたようなテーマがキャッチーです。第5楽章の「アンダンテ」は、まさに「癒し」の音楽でしょうか。そして、最後の「フィナーレ」では、華やかな伴奏に乗ってまるで映画音楽のような親しみやすいテーマが朗々と響き渡ります。この、最後に最もわかりやすい楽想を持って来るというのが、ヴィエルヌならではのサービス精神の現れなのでしょうか、これを聴けば、誰しもが「この曲を聴いてよかった」と思えるような抜群の効果を発揮しています。
その他の交響曲も、その中に含まれる要素は同じようなものです。煌めくアルペジオの中から浮かび上がる粋なメロディ、軽やかなスケルツォ楽章、ゆったりと歌い上げる甘美な世界、そしてスペクタクルなフィナーレ、これらのものが過不足なく配分されて、均整のとれたスマートな音楽として完結している姿を味わえることでしょう。時折、まるで民謡のような素朴な旋律が現れるのも魅力的です。「第6番」のスケルツォなどには、まるで「ダース・ベーダーのテーマ」の、栗コーダー・カルテットバージョンのようなテイストが備わってはいないでしょうか。 ピアニストとしても世界中で活躍しているオルガンのフィルセルは、とても滑らかなテクニックでめくるめく音の万華鏡を構築してくれました。いくぶんもやもやとした録音のせいで、全体の響きの方が個々の声部を覆ってしまったように聞こえてしまうのが、ちょっと物足りないところでしょうか。ほんの少しの加減でヴィエルヌの個性的なメロディ・ラインが、もっとはっきりと見えるのではないかと思ってしまったのは、ちょっと欲張りなことなのかもしれませんが。

9月8日

ニーベルングの指環 リング・リザウンディング
Ring Resounding
John Culshaw
山崎浩太郎訳
学習研究社刊

ISBN978-4-05-403393-1


イギリスDECCAのレコーディング・プロデューサー、ジョン・カルショーの歴史的な名著の「新訳」です。「新訳」があれば「旧訳」もあるということになりますが、1968年に黒田恭一氏によって訳されたものがそれにあたります。こちらの方はいちおう音楽之友社から出版されたものなのですが、普通に書店で販売されたものではなかったために、今では幻の書籍となっています。つまり、これはその年に発売された、この本の中で詳細にその制作過程が紹介されている世界最初のスタジオに於けるステレオ録音(実は、ライブでのステレオ録音はそれ以前にも存在していました)による「ニーベルングの指環」全曲のLPレコードの国内盤ボックスに同梱されたものだったのです。それは、「指環」のそれぞれの曲がまずそれぞれ箱に入っており、その他にDECCAが制作したライトモチーフを解説した3枚組LPの日本語吹き替え版が一箱、そこに分厚い解説と対訳が入り、さらにこの本が一緒に入っていたという、最近の「初回限定特典付きDVDボックス」など足元にも及ばない豪華なパッケージでした。そもそもその「ボックス」からして本革張り、文字通り永久保存版ともいうべきものだったのです。買ったはいいけど、まるで米俵のように重いものでしたから、それを家へ持ち帰るのに大変な思いをしたものです。
今回山崎氏によって訳されたものは、外見がそのボックスのような分厚いのものであったことにびっくりしました。全部で474ページ、「旧訳」が358ページでしたから、いかに「厚く」なっているかが分かります。
その原因は活字の大きさでした。およそ1.5倍に大きくなり、印刷も凸版からオフセットに変わっていますので、とても読みやすくなっています。読みやすくなったのはそれだけではありません。訳文がとてもこなれたものになっています。しかも、新旧を比べてみると、まったく反対の言い回しに変わっているようなところも見受けられます。それは、最初のページからすでに現れています。
旧(黒田):
最初私たちは、「指環」の全曲を録音するなどという大それた考えはもちあわせていなかった。たとえ私たちのうちの何人かがそれを夢見ていたとしても、そんなことが起ころうとは、期待さえしていなかったのである。
新(山崎):
私たちが《指環》全曲をレコード化するという雄大な構想を明らかにしたのは、今回が初めてではなかった。それどころか、私たちのうちの何人かは以前からそれを夢みていたのだが、本当に実現するとは思っていなかった。
原文を読んでいないのでなんとも言えませんが、どうやらこれは新訳の方に分があるようです。というのも、ここに序文を寄せている黒田氏自身が誤訳を認めているのみならず、旧訳の作業に費やした時間が1ヶ月しかなかったことを告白しているのですから。たったそれだけの時間で良心的な翻訳など出来るはずもありません。そう思って読みかえしてみると、この旧訳はいかにもやっつけ仕事のように感じられてしまいます。
とは言っても、山崎氏の訳文が、必ずしも黒田氏のものよりも優れているというわけではありません。おそらく内容的にはより正しいことは間違いないのでしょうが、他の文章を読んだ時にも感じられる山崎氏特有の「ちょっと気取った」語り口のために、旧訳ほどはカルショー自身の言葉が伝わってこないもどかしさが感じられてしょうがありませんでした。それは、もしかしたら単なる翻訳のテクニックのせいではなく、それがなされた時代の違いによるものだったのかもしれません。旧訳はまさに世界で初めて全曲盤LPが出たその時、しかし、クラシック録音業界に於いてはもはやカルショーのような仕事自体がほとんどなんの意味も持たなくなってしまっているのが、新訳の時代なのです。そこの「熱」の違いが、訳文にも現れているのでは、というのは、原文は読んでいないものの、あのころの「熱さ」を知っている者の単なる憶測ではないはずです。
もしかしたら、新訳の最大の魅力は、黒田氏の序文によって長年謎だった「我らがジークフリート」の正体が判明したことなのかもしれません。

9月6日

笑えるクラシック
樋口裕一著
幻冬舎刊(幻冬舎新書
050
ISBM978-4-344-98049-5


著者の樋口さんという方はまったく存じ上げないのですが、経歴を見てみると専門の音楽評論家ではないようですね。小さい頃からクラシック音楽を聴き続けているという、筋金入りのクラシック・ファンというところでしょうか。専門家が陥りやすい、変に読者に媚びたところがまったく見られない、直球勝負の潔さが感じられる、秀作です。
まず、「まえがき」の、「クラシックの演奏家は、音楽を勉強としてとらえている」というあたりで、快哉を叫びたくなってしまいます。そうなんですよね。クラシックの演奏家、特に日本人の場合、これがあるからどうしても堅苦しい演奏しかできない人が多いというのは、常々感じていたこと、ここまで言い切ってくれた著者の勇気は、大いに讃えられるべきでしょう。そもそもクラシック演奏家などと威張っていても所詮は「芸人」なのですから、それを「大学」で「勉強」などしたりしたら、なにか肝心なものが身に付かずに終わってしまうことでしょう。
そして、次の「実は笑える曲なのに、真面目に演奏されている名曲」という章が、まさに秀逸の極みです。最初にやり玉に挙がるのがあのベートーヴェンの「第9」。この、高い精神性を秘めたものと誰しもが認める「名曲」の、中でも終楽章を、「ドンチャン騒ぎ」と決めつけているのですから。しかし、よく読んでみると、そのクレバーな分析によってこの楽章の本質を表しているものが見事に明らかにされる様を体験できるはずです。そもそも「歓喜の歌」のテーマがなぜあれ程陳腐なのかも、筆者によって、なぜこんな「酔っぱらいでも歌える歌」になってしまったかを説かれれば、納得しないわけにはいかなくなってしまいます。今まで、この曲を崇高な人類愛の現れだとして特別な思いで聴いたり、あるいは演奏していた人たちは、顔色を失ってしまうことでしょう。それほどインパクトのある、これはすごい発想です。
続く「ボレロ」での、著者の実体験に基づく「真の姿」の解明も、なかなかスリリング、あのエンディングは「なんちゃって」なんですって。そこで引き合いに出されている指揮者が、大好きなアントニ・ヴィットというのも、ちょっと嬉しくなってしまうところです。
このぶっ飛んだ解釈が、そのままのテンションで残りの曲にも及んでいれば、さぞかし迫力のあるものが出来たのでは、と思うのですが、ただ、それでネタが尽きてしまったのか、意表をつかれたのはここまで。それ以降のシュトラウス(もちろん、リヒャルト)やショスタコーヴィチでは、誰でも知っているまっとうな「おかしさ」しか紹介されていないのですから、それこそ「なんちゃって」とかわされたような気持ちになってしまいます。
その失望感は、次の章、「正真正銘笑える名作オペラ」になると、さらに募ります。いや、普通これだけ書かれていれば十分「おかしさ」は伝わるはずなのですが、巻頭であれだけのテンションを見せつけられてしまっては、とてもこんなものでは「笑う」ことなどできません。そこにあるのは、どんな案内書にでも述べられているような誰でも知っている「あらすじ」と、そこから見られるただの、ということは、なんの裏もない素直な「おかしさ」だけ、そこには意外性も驚きもまったくありません。なにしろ、ここの読者はこんなぶっ飛んだオペラ本を体験しているのですから、これしきのもので「笑う」わけにはいきませんね。
とは言ってみても、この本からは著者の長年にわたるクラシック歴から得られた、真に聴くに値するものに対する嗅覚の鋭さのようなものは十分に感じ取ることは出来ます。巻末にはそんな著者が選んだ代表盤が収録されていますので、一度心を洗濯してきれいにしてから(「洗えるクラシック」)これを聴いてそんな感覚の一端を共有してみようではありませんか。

9月4日

知ってるようで知らない
バイオリンおもしろ雑学事典
奥田佳道監修/著
ヤマハミュージックメディア刊

ISBN978-4-636-81891-8


音楽評論家の奥田佳道さんがお書きになったバイオリン(どうもなじめないので、「ヴァイオリン」と表記させていただきます。これだとなんだかバイオ燃料みたいで)についての蘊蓄を集めた本です。「監修」というのは、全部で6章から成るこの本の第2章と第3章は別の方、山田治生さんという音楽評論家が書いているためです。奥田さんも山田さんも実際にヴァイオリンやヴィオラを演奏なさる方々ですから、かなりマニアックなことまで扱われていて、とても参考になります。この楽器に関する、かなり高度な入門書と言えるでしょう。それぞれの章の中は、タイトルごとに殆ど1ページか2ページの短い文章が集まっていますから、力まずに読めてしまうのも魅力的です。
山田さんが担当されている部分は、もっぱら基礎知識といった感じでしょうか。まるで実際にこれから楽器を演奏してみようとする人に対するような、実践的な知識が披露されています。ヴァイオリンなんか全く弾いたことのない人でもなんだか自分で音を出しているような気になってくるから不思議です。「どうやったら良い音が出る?」というタイトルでは、弓の当て方、右手と左手の使い方など、懇切丁寧に教えてくれていますし。
彼のパートで最も印象に残ったのが、バロック・ヴァイオリンに関する記述です。一般の愛好家にとっては、あるいは混同されているかもしれない事実をきちんと整理した上で、バロックとモダンの実際の演奏における違いをわかりやすく述べているのは見事です。しかも、現在ごく普通に行われている奏法について「大きな歴史の中での過渡的なもの」と言い切っているのには、爽快感さえも感じることができます。
いくぶんお堅い山田さんの文体に比べて、奥田さんの語り口にはもっと親しみやすい味が込められています。常々この方の執筆されたものを読んだときに感じられる豊富なデータ量とともに、文章そのものから発散される軽妙なエンタテインメント性も存分に味わえて、最後まで飽きることがありません。彼が描こうとしたものは、おそらくヴァイオリンにかかわる世界の人物群像ではなかったのでしょうか。それは制作者、演奏家、教師、果ては楽器商にまで及びます。人名などでいくぶん煩雑で収拾のつかない部分を我慢しさえすれば、この楽器にまつわるさまざまな人たちの生き方までもが、詳細なイメージとして伝わってくることでしょう。ヨーゼフ・ヨアヒムを中心とした、音楽家間の交流、それによって生まれた名曲の話などは、ひときわ見事な筆致です。さらに、ヴァイオリン奏者以外には殆ど興味も持たれないような、いわば裏方とも言える教師たちの話も興味深いものです。あの破天荒な演奏で知られるナイジェル・ケネディでさえ、立派な教師なくしては世に出ることはなかったという事実には、この世界におけるアカデミックな系譜の一端を見る思いです。
この本の原稿がどういう形で作られたものであるかは知るよしもありませんが、同じような記述が何度も何度も出てくるのが、かなり目障りでした。なにかの機会に別々に書かれたものを集めてまとめたものなのではないか、という感じがしてしょうがありません。最近ではネットで細切れに書いたものを集めた本がよく見かけられますが、そういうものを読んだときに感じるまとまりのなさのようなものを、特に奥田さんのパートで感じられてしまったのは、ちょっと残念なことです。
最後に参考文献が載っていますが、その中にあの名著、石井宏の「誰がヴァイオリンを殺したか」が含まれていなかったのは、著者たちの見識のあらわれなのでしょうか。といっても、ヴァイオリンの価格やニスに関する文章が、多少及び腰だったように見えたのはただの思い過ごしでしかありませんが。
(8月6日追記)
ブログ版に、奥田氏ご本人からのコメントが寄せられました。
この度は「知ってるようで知らないバイオリンおもしろ雑学事典」をお読みいただき、誠にありがとうございました。
ご意見、肝に銘じます。
ヴァイオリンではなく、バイオリン(ビオラも)はヤマハさん及びヤマハミュージックメディアさんの統一表記で、前々から決まっているものだそうです。
小生の担当ページは稚拙でお恥ずかしい限りですが、何かのために書いた原稿ではなく、今回新たにまとめたものです。人物像や傾向、文体が重なったところがあり、重ねてお恥ずかしい限りです。
続編の機会を、もしも戴いた際には気をつけるように致します。
今後ともご教示を下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

9月2日

BINGHAM
Choral Music
Thomas Trotter(Org)
Fine Arts Brass
Stephen Jackson/
BBC Symphony Chorus
NAXOS/8.570346


ジュディス・ビンガムという、1952年生まれのイギリスの女性作曲家の合唱作品集です。彼女は作曲とともに声楽も学んだ人で、10年以上もBBCシンガーズ(ここで演奏しているBBCシンフォニー・コーラスとは別団体)のメンバーとして、合唱団の中で歌っていたこともあるそうです。若い頃から彼女の作品は注目されていて、1970年代にはあのキングズ・シンガーズやピーター・ピアーズなどからも曲の委嘱を受けています。
彼女の作曲技法は、前衛的な書法などは全く見られない、ごくオーソドックスで聴きやすいものです。しかし、もちろん現代作曲家ならではのこだわりは各所で見いだすことはできます。その最も成功したと思えるものが、2曲目の「The Darkness Is No Darkness」ではないでしょうか。この曲は、実は19世紀イギリスの教会音楽家セバスティアン・ウェズリーのアンセム「Thou Wilt Keep Him in Perfect Peace」が元ネタになっています。イザヤ書や詩篇をテキストにしたこの心地よいハーモニーの曲を、ビンガムはテキストを多少入れ替えた上で、ハーモニーに特別な処理を施しました。元の曲親しみやすい雰囲気をそのままに保つのと同時に、そこにちょっと不思議な和声を忍び込ませるということをやっているのです。初めて聴いた人は、新しい響きにもかかわらず、なにか懐かしいものがその中に潜んでいることに気づくことでしょう。そして、それに続いて、今まで無伴奏で歌われたところにオルガンの伴奏が入って、オリジナルのウェズリーの曲が休みなく演奏されることによって、それまで感じていた懐かしさの拠り所を知ることになるのです。
全くの余談ですが、このように2つのものを続けて演奏することを音楽用語では「セグエSegue」と言います。髪の毛が逆立つことですね(それは「ネグセ」)。ですから、ジャケットの曲目紹介にはさっきの2つのタイトルの間に、この「Segue」が入っていて、この2つの曲が続けて演奏されることを示しています。ところが、このレーベルは輸入盤にもかかわらず、全てのアイテムに日本語の帯が付けられていて、簡単な解説が読めるということで好評を博しているものなのですが、その解説を書いた人が、このタイトルをそのまま「直訳」しているのです。「闇もあなたに比べれば−セグエ−永遠の平和を彼にもたらせたまえ」といった具合です。「セグエ」という言葉を知っている人など殆どいないはずですから、これだと何のことだか分かりませんよね。もしかしたら、解説を書いたライターさん自身も知らなかったのかもしれませんね。そう言えば、ここに書いてある解説も、なにか見当外れで本当に知りたいことがなにも分からないといういい加減なものでした。こんな仕事をしていたら、そのうちクビになってしまうのではないかと、他人事ながら心配になってしまいます。
もう1曲、アイディアに満ちた作品が1曲目の「Salt in the Blood」です。これは合唱にブラスアンサンブルが加わった編成、双方のダイナミックな表現力を駆使して、さまざまに変化する海の情景を描いています。最初は穏やかだった海が大嵐に見舞われ、それが収まるとともに霧に覆われ元の静寂に戻るというものです。合唱パートのバックグラウンドには、よく知られたシー・シャンティが用いられているというのが親しみやすさを産んだ要因となっています。
最後に収録されているのが、2004年の「プロムス」のために委嘱された「The Secret Garden」という、やはりブラスアンサンブルの入った大曲です。しかし、なぜかそれほどの感銘を受けることがなかったのは、あのロイヤル・アルバート・ホールに満ちあふれているおおざっぱな雰囲気が、この曲の中につい反映されてしまったせいなのかもしれません。

8月31日

DURUFLÉ
Complete Organ Music
Henry Fairs(Org)
NAXOS/8.557924


デュリュフレという人は極端に作品の少ない作曲家でした。なんせ、生前に出版されたものに付けられた作品番号の最後のものは「14番」なのですからね。それは、1976年に作られた「われらが父Notre Père」という合唱曲ですが、実は彼の作曲活動は、その一つ前、「作品13」であるオルガン曲「顕現節の入祭唱への前奏曲Prélude sur l'Introit de l'Epiphanie」が作られた1961年頃で実質的には終わっていたのでした。
その中で、オルガンのための作品は、作品番号が付いているものが全部で6曲あります。作品2(1926)の「スケルツォScherzo」、作品4(1930)の「前奏曲、アダージョと、『来たれ創造主なる精霊』によるコラール変奏曲Prélude, Adagio et Choral varié sur le thème du 'Veni Creator'」、作品5(1933)の「組曲Suite」、作品7(1942)の「アランの名による前奏曲とフーガPrélude et Fugue sur le nom d'Alain」、作品121962)の「ソワソン大聖堂のカリヨン時計の主題によるフーガFugue sur le thème du Carillon des Heures de la Cathédrale de Soissons」、そして、先ほどの作品13です。
昨年、2006年はデュリュフレが没してから20年という記念の年に当たっていたため、世界各地で「レクイエム」(これは「作品9」にあたります)が演奏されていたということは、以前にご紹介しました。さらに、合唱曲と並んで彼のもう一つの主要な作品群であるオルガン曲についても、同じように盛り上がりを見せているのが、このところのCDのリリース状況からうかがい知ることができます。何しろ、2ヶ月連続して新譜として「オルガン曲全集」が発売されたのですからね。いかなる理由にせよ、これはファンにとっては嬉しいことに違いありません。
先に発売になったINTRADAのワルニエ盤の「全集」には、この6曲がすべて収録されています。さらに、今回のNAXOSにも、すでに1994年にエリック・ルブランによって録音された、「作品13」をのぞく5曲による「ほぼ全集」がありました(これは、「レクイエム」などの合唱曲も集めた、2枚組です)。こんなレアなものを2度も制作するなんて、このレーベルは、なんとも不思議なヴァイタリティにあふれたところのような気はしませんか?
今回のイギリス人オルガニスト、ヘンリー・フェアーズによる「全集」では、作品番号が付けられていないものがあと2曲収録されているというのが、まず嬉しいところです。1964年に作られた「瞑想曲Méditation」は、出版されたのが2002年ですから、当然ルブラン盤に収録するのは困難でした。もう1曲は、「ジャン・ガロンへのオマージュHommage à Jean Gallon」という、1953年に作られた和声課題をオルガンで演奏したものです。このガロンというのは、デュリュフレの和声の先生です。カイロではありません(それは「ホカロン」)。
その、珍しい「瞑想曲」が、とてもキャッチーなテーマで、瞬時に惹かれるものがあります。古くはフランクあたりから始まったようなフランス風の流れをしっかり受け継ぎ、そこにさらに古風なテイストが添えられているのが素敵です。そこには、メシアンとはまた違った意味での「瞑想」の形があります。
「レクイエム」のファンでしたら、「作品4」や「作品7」の「プレリュード」が「ツボ」なのではないでしょうか。独特の混沌とした雰囲気は、まさにあの名曲を彷彿とさせるものです。「作品5」の「トッカータ」のダイナミズムも、おなじみの世界です。
楽器のせいなのか、あるいはイギリス勢で固めた演奏家と録音チームのせいなのかは分かりませんが、幾分お上品な仕上がりになっているサウンドには、ちょっと物足りなさを感じます。デュリュフレには、ルブラン盤で聴かれたような原色が勝った音の方が似合います。

8月29日

VERDI
Messa da Requiem
C.Gallardo-Domês(Sop), F.Brillembourg(MS)
M.Berti(Ten), I.Abdrazákov(Bas)
Joshard Daus/EuropaChorAkademie
Plácido Domingo/
Youth Orchestra of the Americas
GLOR/162202


ジャケットのドミンゴの写真がえらく荒い画質ですが、これはビデオの映像を取り込んだものです。普通にスティル写真を使えばいいものを、わざわざこんなのにしたのには訳があります。そう、これは2006年8月6日にミュンヘンのガスタイク・ホールで行われたコンサートのライブ録音なのですが、CDと同時にDVDもリリースされているのです。CDだけを買った人でも、この写真を見ればビデオ映像があるのだなと分かるという、一つの戦略なのでしょうか。
どのような経緯で実現されたコンサートなのかは、ライナーノーツを読んだだけでは分かりかねますが、とにかく、アメリカのオーケストラ、ヨーロッパの合唱団、それぞれ大学生ぐらいの若いメンバーによる団体が共演したというイベントなのだそうです。
合唱の方はオイローパ・コア・アカデミー、以前も「マタイ受難曲」などのしっかりした演奏をご紹介したことがありますが、もちろん合唱指揮はダウスです。ここでは総勢200人ほどの編成で参加しています。対するオーケストラは、アメリカ全土から集まったという、100人ほどのメンバーです。両方合わせると300人、その時の一部の写真がありますが、ガスタイク・ホールのステージの上はびっしりと埋め尽くされていた様子がうかがえます。
指揮をしているドミンゴは、もちろんあのテノール歌手です。最近ではこのようにオーケストラや合唱の指揮をすることもありますし、オペラさえも振ってしまうというマルチタレントぶりを発揮しています。その指揮ぶりは彼の歌のスタイルと見事に合致、決して情におぼれることのないクレバーな歌い方は、どんなときにも彼の演奏の原点になっているのでしょう。ここでも、そのような基本的にインテンポの音楽は爽快に進んでいきます。さらに、若々しいメンバーに煽られて、その爽快感は最後まで生き生きとしたドライブ感も産むことになりました。
その結果、通常ではまず80分以下で終わることはなく、CDでは2枚組となるのが当たり前のこの大曲が、なんと78分、CD1枚に収まってしまいましたよ。
そんな、殆ど超特急と言っていいようなテンポにもかかわらず、この演奏からは性急さというものは全く感じることはできません。それは、歌うべきところではしっかり歌っているせいなのでしょう。何しろ、冒頭のオーケストラのピアニッシモはちょっと尋常では考えられないほどの「小さな」(決して「弱い」音ではありません)ものですから、その緊張感といったらたまりません。そこに入ってくる合唱も、ダウスに鍛えられただけあって、しっかりした存在感が主張されています。この合唱は、フォルテになっても決して崩れたりしないところが魅力、若々しい声は何よりの力になっています。
オーケストラは、繊細さよりはむしろ力強さをアピールしているのでしょう。金管のパワーといったら疲れを知らない若者の特権がそのまま発散したかのような潔さです。もちろん、若者に暴走はつきもの、何度も出てくる「Dies irae」では、ぜひピッコロのつんざくような高音を聴きたいと思っても、金管の咆哮は、それをも消し去ってしまっていましたね。
ソリストたちも、めいっぱいの熱演を聴かせてくれています。中でもソプラノのガラルド・ドマスの熱い表現は、全体のテンションをも引き上げていることでしょう。
これほどまでの熱演、写真ではスタンディング・オベーションとなっているにもかかわらず、終演時の拍手がカットされてしまったのは、ちょっと残念、しかし、これを入れたら確実にCDの容量を超えてしまっていたことでしょう。それを聴きたければDVDも買えという、要領のいい商魂のあらわれ?

8月27日

KORNGOLD
The Sea Hawk
Irina Romishevskaya(Sop)
William Stromberg/
Moscow Symphony Orchestra
NAXOS/8.570110-11


NAXOSの「Film Music Classics」というシリーズは、古典的な映画のサントラを最新の録音で蘇らせるというなかなか力の入った企画です。今回のコルンゴルトの「シー・ホーク」にはさらにものすごい力が込められていて、もはやオリジナルのスコアやパート譜は残っていないこの映画の音楽を、丸ごと「修復」するという荒技を披露してくれています。しかも、上映の際にはカットされたものとか、予告編のために作られた音楽なども合わせた「完全版」、トータルで115分もの長さのものに仕上がりました。当然CD1枚には収まらずに2枚組となっています。もちろん、こんなものは世界初録音に決まってます。しかも、余白の30分にはコルンゴルトが音楽を付けた最後のハリウッド映画、「Deception(邦題:愛憎の曲)」のためのすべての音楽が収録されています。こちらも世界初録音です。
ここで、スコアの「修復」を担当したのは、ハリウッドでも活躍している作曲家、ジョン・モーガンです。実際に彼が行った仕事の結果を聴くと、まるで今作られたばかりのような、そう、例えばジョン・ウィリアムズのスコアが作り出す絢爛豪華なサウンドが響き渡るさまを体験できますこあ。もちろん、事実は全く逆なわけで、ジョン・ウィリアムズこそが、コルンゴルトのサウンドを模倣して現代のスクリーンに蘇らせた張本人なのですがね。
そうは言ってみても、やはりこの「新しさ」は、あまりにも「現代的」過ぎるような気にはならないでしょうか。この曲に関しては、このページでも今までにプレヴィンゲルハルトによる2種類の録音を取り上げています。それらがどのようなソースを用いて演奏されていたのかはわかりませんが(プレヴィン盤には、いちおう編曲者の名前が明記されていました)、今回聞き比べてみると、明らかにオーケストレーションが異なっている部分が見うけられるのです。それは、例えば「メイン・テーマ」の中間部、甘美なストリングスのメロディをフルートの細かい音型が彩るという、まさにジョン・ウィリアムズそのものっぽい部分なのですが、このフルートのオブリガートが、今回のモーガンのオーケストレーションでは、とても目立って聞こえてきます。良く聴いてみると、ここではフルートにグロッケン(あるいはチェレスタ)が重ねられていることがわかります。これは、前の2種類の録音では聴くことの出来なかった特徴です。
そんな具合に、おそらくモーガンはオリジナルのスコアにはなかったような小技を駆使して、コルンゴルトのサウンドをさらに輝かしいものに「修復」したのではないか、と思われてしょうがありません。ジョン・ウィリアムズが「ハリー・ポッター」で頻繁に用いたチェレスタの音色が、ここではとても目立って聞こえてくるあたりが、もしかしたらモーガンの隠し味の正体なのかもしれません。これは、コルンゴルトの原点であるR・シュトラウスが「薔薇の騎士」の中で見せてくれたこの楽器の使い方とは、かなり方向性が違うように思えるのですが、いったい事実はどうだったのでしょうね。
いずれにしても、それほど機能的とは思えないこのロシアのオーケストラ(最初のテーマの金管のもたつきぶりったら)が、サウンド的にはとてもスペクタクルなものを聴かせてくれているのですから、これはなかなかすごいスコア、そして録音です。
もう1曲の「愛憎の曲」では、うってかわって甘美な世界が広がります。この映画のストーリーは、音楽家の三角関係だとか、ひょっとしたら画面が音楽に負けてしまっていたのかもしれませんね。映画の中で演奏される「チェロ協奏曲」(後に、「本物の」協奏曲となります)には、千住明の「宿命協奏曲」(リメーク版「砂の器」ですね)などとは次元の違う本物の才能の煌めきが感じられます。

8月25日

BACH
Messe h-Moll
Ute Selbig, Susanne Krumbiegel(Sop),Elisabeth Wilke(Alt)
Martin Petzold(Ten),Gotthold Schwarz(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig
Leipziger Barockorchester
RONDEAU/ROP4009/10


モーツァルトのレクイエム(バイヤー版)バッハのマタイ受難曲(初期稿)と、それぞれに素晴らしい演奏を披露してくれていた、ライプツィヒ聖トマス教会のカントール、ビラーとその合唱団による、「ロ短調ミサ」です。もっとも、こちらの方が「マタイ」より先に入手していたものなのですが。
先の2曲ではモダンオーケストラであるゲヴァントハウス管弦楽団との共演でしたが、ここではオリジナル楽器の団体、ライプツィヒ・バロック・オーケストラがバックというのが、変わっているところです。しかし、この合唱団のオリジナル楽器との相性の良さと言ったらどうでしょう。ちょっと意外な組み合わせによって、とても素晴らしい演奏が生まれました。
最近では、ピッチの違いさえなければモダン楽器かと思わせられるような団体も見受けられる中にあって、このオーケストラはオリジナル楽器の特性に逆らわない、無理のない表現を大切にしているように見受けられます。いかにも力まずに楽器の「鳴り」がそのままフレージングになっているようなすがすがしいサウンドからは、とても風通しのよい音楽が広がってきています。
そして、合唱が見事にそのオーケストラとのサウンドと合致しています。幾分頼りなげなトレブルパートですが、こういう弦楽器と一緒になるとそのピュアなキャラクターが見事に際立って、確かな存在感となって現れてくるのです。大人の男声パートも、特にテナーのみずみずしさは光ります。「Kyrie」や「Cum Sancto Spiritu」、「Et resurrexit」で現れるパートソロの難所も楽々とこなすフットワークの良さが、さらにそれに磨きをかけています。
ソリスト陣が、そんなオーケストラと合唱の求めているものにしっかり寄り添っているのも、心地よいものです。2人のソプラノで歌われる「Christe eleison」では、それぞれの透明な声が見事に溶け合って、この世のものとも思えない美しい世界を描き出しています。後のソロを聴いていくと、第2ソプラノのクルムビーゲルのほうがよりクリアな音色であることがわかります。テノールのペツォルトは、前述の「マタイ」で大活躍をしていた人ですが、ここでは一転して抑えた歌い方に終始、見事に他のパートとのバランスをとっています。アルトのヴィルケは、この曲で要求される「深さ」を、さして力まず、さりげなく表現しているのが素敵、バスのシュヴァルツもやはり軽めの声を心がけているかに見えます。
例えば、「Gloria」の中の第1ソプラノとテノールのデュエット「Domine Deus」を聴いてみると、そんなメンバーが作り出す音楽のテクスチュアが透けて見えてくる思いです。ソロもオーケストラも、それぞれのパートが見事に浮き出して、絶妙のバランスで聞こえてきます。オブリガートのフラウト・トラヴェルソはもちろんですが、バックのヴァイオリンまでがこれほどまでに表情豊かに歌っているのを完璧に聴き取れる演奏など、ほとんど初めて味わったような気がします。それは、優秀な録音も一役買っているはずです。コンテゥヌオは同じ人が曲によってチェンバロとオルガン(ポジティーフ)を弾き分けているのですが、その違いまでがはっきり聴き取ることが出来るのですから。
歴代カントールの業績を受け継ぎながらもひと味違った新しさを追求しているかに見えるビラー、これからも見逃せません。スプーンを曲げたりするかもしれませんし(それは「ゲラー」)。

8月23日

MESSIAEN
Complete Organ Works
Willem Tanke(Org)
BRILLIANT/8639


1908年に生まれ1992年に亡くなったオリヴィエ・メシアンは、パリの聖トリニテ教会のオルガニストでもあり、生涯にわたってオルガンのための作品を書き続けた作曲家でした。何しろ、彼の最初に出版された曲というのが、1928年に作られた「天上の宴Le Banquet céleste」なのですからね。続いて1930年には「二枚折りの絵Diptyque」、そして有名な「永遠の教会の出現Apparition de l'Église éternelle」(1932)、「キリストの昇天L'Ascension」(1934)、「主の降誕La Ntivité du Seigneur」(1935)、「栄光に輝く体Les Corps glorieux」(1939)などが1930年代に作られ、いったんオルガンのための創作からは遠のくことになります。ここまでが、言ってみれば彼のオルガン作品における「第1期」でしょうか。
第二次世界大戦後の1950年になると、「精霊降誕祭のミサMesse de la Pentecôte」で、再びオルガン曲が作られるようになります。翌1951年の「オルガンの書Livre d'orgue」、1960年の「献堂式のためのヴェルセVerset pour la fète de la Dédicace」とともに、「第2期」を形作っています。
「第3期」には、9曲から成る「聖なる三位一体の神秘への瞑想Méditations sur le mystère de la Sainte Trinité」(1969)とCD2枚分、18曲から成る最後のオルガン曲「聖体の秘蹟の書Liver du Saint Sacrement」(1984)という2つの大作が含まれます。
実は、これ以外にも出版されていないものなど数曲あることはありますが、とりあえずこれだけのものを収録した8枚組の「全集」が、買い方によっては4000円以下で入手できるという破格の値段でリリースされました。このレーベルは、かつては出所不明の得体の知れない音源でさまざまな「全集」を出していたものですが、最近では録音データなども明記したれっきとした自前の録音で、なかなか渋いレパートリーを出すようになっていますので、侮るわけにはいきません。これは、オランダのオルガニスト、ウィレム・タンケが1994年にハールレムの教会で録音したものです。セッションは10日ちょっとしかありませんでした。せっかちだったんですね(それは「タンキ」)。4段鍵盤のフランス風の大オルガンは、メシアンの曲に欠かせない多彩なリード管や澄み切った倍音管を備えており、優秀な録音(2007年に新たにリマスターされています)と相まって起伏に富んだ音色を楽しめます。そもそもメシアンのオルガン曲全集で現在入手できるものは殆どありませんから、これはファンであれば絶対に買っておいて損はないもののはずですよ。
この全集の特徴は、ほぼ作曲順に収録されているということ、1枚目から聴いて行けば自ずとメシアンの作曲技法や様式の変遷がうかがえるようになっています。ただ、いちおう彼の場合「第1期」と「第2期」の間では大きな変化があったとされていますが、実際にこの8枚を連続して聴いていく時には、そんな変化はごく些細なものに過ぎないことにも気づかされてしまいます。おおざっぱな言い方をすれば、彼が描き出した世界というものは生涯変わることはなかったのだという印象が、ここからははっきり浮かび上がってきます。敢えてその「世界」を1つだけ挙げるとすれば、あたかも「憧れ」が込められたかのように聞こえてくる和声でしょうか。それは、最初からはっきりした形で示されることもありますし、もっと複雑で混沌とした響きの中から、まるでうめくように顔を出すこともあります。それは、もしかしたら「神」の言葉をオルガンで代弁しようとした作曲家の心の内のあらわれなのかもしれません。
私の一番のお気に入りは、「栄光に輝く体」の中の4曲目、「死と生の戦いCombat de la Mort et de la Vie」。前半に出てくるどす黒いイメージの「死」と、後半のまさに「癒し」の極地とも言うべき「生」との対比は、20世紀のオルガンの語法が到達した最高の世界です。

おとといのおやぢに会える、か。


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