ジョリベ安兵衛。.... 佐久間學

(07/10/2-07/10/22)

Blog Version


10月22日

BACH
Préludes, Toccatas, Fantaisies & Fugues pour orgue
Maurice Duruflé(Org)
Marie-Madeleine Duruflé(Org)
EMI/501300 2


バッハのオルガン曲全集と言えば、普通はCDで10枚を軽く超えるものですが、これは5枚組、タイトルをよく見たら「前奏曲、トッカータ、幻想曲とフーガ」ですって。つまり、バッハ作品目録のBWV531からBWV566までの曲を律儀に番号順に並べ、その他に有名なト短調のフーガBWV578や「パッサカリアとフーガ」BWV582などを加えたというものでした。従って、トリオソナタや、オルガン・コラールは全く含まれてはいません。もっとも、これが録音された1960年代前半には、そんなすべてのオルガン曲を網羅した「全集」などはヴァルヒャとアランのものぐらいしかなかったのでしょうから、これだけのものを揃えたフランスEMI(「パテ」ですね)の勇気は称賛されるべきものでしょう。
演奏しているのは、あのモーリス・デュリュフレと、彼の奥さんのマリ・マドレーヌ・デュリュフレです。最初はモーリスの職場のサン・テツィエンヌ・デュ・モンで、彼のアシスタントを務めていたマリ・マドレーヌですが、後にモーリスと結婚、よくある話ですね。「レクイエム」を作曲者自身が指揮をしたERATO盤では、彼女がオルガンを弾いていましたね。ちなみに年の差は19才でした。う、うらやましい。もっとも、その20年後には二人一緒に自動車事故に遭ってしまい、かろうじて一命はとりとめたものの、演奏家としての生命は絶たれてしまうという痛ましい未来が待っているのですが。
録音が行われたのは、彼らのホームグラウンドではなく、ソワソンのサン・ジェルヴェ・サン・プロテ大聖堂、1963年から1965年にかけて収録されています。録音年代、そしてレーベルを考えると、決して良い音は期待できないと思っていたのですが、聴いてみるとその繊細な響きには驚かされてしまいました。フランス風のストップがふんだんに用いられているゴンザレス・オルガンの明るく軽やかな音が、見事に眼前に広がっていたのです。考えてみれば、デュリュフレがプレートルと共演したサン・サーンスの交響曲第3番は1963年の録音、あれだけスペクタクルなサウンドが実現できていたのですから(オルガンのピッチが低いのがすごく気になりますが)、このバッハでの良い音も頷けます。データを見てみたら、録音スタッフは全く同じ人、当時のフランスEMIの録音クオリティは、ある意味現在のものをはるかに凌いでいたのではないでしょうか。
全体の曲目のほぼ半分ずつを二人で弾き分けるという構成、有名なニ短調の「トッカータとフーガ」BWV565やト短調の「幻想曲とフーガ」BWV542はマリ・マドレーヌの担当です。ここで彼女は、めくるめくレジストレーションの変化を存分に楽しませてくれます。ストレスも発散できるほど(それは、「フラストレーション」)。重厚とは無縁の、かなり高い周波数のスペクトルが勝った明るい音色、クセのあるリード管も惜しげもなく使って、いかにもフランス風の、まさに「幻想的」な世界を見せてくれています。フーガも軽やかなテンポで淀みなく進むさまは、いかにもオシャレ。
ご主人の方も、基本的にフランス風の洒脱なたたずまいは健在です。しかし、若い奥さんに比べるとそれだけ堅実さが前に出てきているような印象が与えられるのは、「パッサカリアとフーガ」BWV582のような渋めの曲を演奏しているせいでしょうか。「トッカータ、アダージョとフーガ」BWV564も、ちょっとまじめ過ぎるように聞こえてしまいます。
こういう、いかにも往年のバッハ像が反映されたようながっちりした曲だけではなく、もっとこじゃれたコラールなどは彼らは録音してはいなかったのでしょうか。そんな曲での二人の個性の違いなども、ぜひ聴き分けてみたいような気がします。
作曲家でオルガニスト、教え子の若い演奏家を妻に迎えるなど、デュリュフレという人はあのメシアンとよく似た人生を送っていたのですね。 

10月20日

Choral Arrangements by Clytus Gottwald
Ralph Allwood/
The Rodolfus Choir
SIGNUM/SIGCD 102


クリトゥス・ゴットヴァルトの編曲作品が、もはや多くの合唱団のレパートリーとして欠かせないものになっているのは、このところリリースされている合唱のCDに、彼の名前が頻繁に見られることでも分かります。そして、なんとゴットヴァルトのものだけで1枚のアルバムを作ってしまうということすらも、珍しくはなくなっているのですから、すごいものです。ほんの半年ほど前にご紹介したクリード盤に続いて、今度は合唱王国イギリスの団体によって、彼の作品だけのCDが録音されました。
ここで演奏しているルドルフス合唱団というのは、1983年に創設された団体ですが、その母体は毎年行われている「イートン合唱コース」という、タモリが講師をしている夏の合唱講習会です(それは「イートモ合唱コース」)。これは、イギリス中から合唱のプロを目指す学生など350人が集まって、講習を受けるというもの、その講習生の中から毎年10人前後の人が、この合唱団のメンバーとして誘われる、というシステムになっています。そのようにメンバーを入れ替えて、常に25才以下の人だけによって合唱団が構成されている、という状態が保たれているのだそうです。今までHERALDレーベルから6枚のCDを出していましたが、これは、SIGNUMへの初の録音となります。
確かに、ここで聴かれるメンバーの声はいかにも若々しく、その上で高度の訓練を受けていることがよく分かるものです。ハーモニーに乱れはありませんし、ゴットヴァルト編曲によく出てくる非常に高い音を出すソリストパートも、全く危なげのない澄んだ声を聴かせてくれています。とは言っても、なにか素材の良さが生かされていないな、という感じが、ここには常につきまとっているのはなぜなのでしょうか。特に男声パートはいかにも生の声がそのまま出てしまって、潤いというものが感じられません。ソプラノソロも、恐ろしく淡泊な味で、妙にまわりのパートから浮いてしまっています。
最後に収録されているマーラーの「私はこの世に見捨てられ」は、今やゴットヴァルトの代表作として多くのCDに登場していますから、比較には事欠きません。その結果、彼らがベルニウスやクリードの境地に達するためには、テクニックを超えた、なにかが必要であることがよく分かってしまいます。合唱が全体としての主張、あるいは方向性を決めかねているのでは、という気がしてなりません。もっとも、アクサントゥスほどのノーテンキさまでに堕しているわけではありませんから、それなりの水準には達しているのですが、なんとももったいないことです。
曲目は、クリード盤でも演奏されていたマーラー、ラヴェル、ドビュッシー、カプレの他にヴォルフ、ベルクやウェーベルンなど、多岐にわたっています。データが全くないのでいつ頃作られたものかは分かりませんが、一体どれほどの編曲が存在しているのか、興味は尽きません。初めて聴いたラヴェルの「マラルメの3つの詩」からの「溜息Soupir」では、オリジナルの楽器編成を意識してか、なんと口笛を吹かせるという反則技を選んでもいます。そのうち、ヴォイス・パーカッションを取り入れるようになるのかもしれませんね。
それは冗談ですが、プッチーニの「私のお父さんOh! mi babbino caro」などというものは、かなり意外な選曲でした。もちろん、ゴットヴァルトのことですから、厚みのあるハーモニーで包み込むことは忘れてはいないのですが、彼の編曲の本来のコンセプトであった「ルクス・エテルナ」の世界を他の曲にも及ぼしてみるという点からは、かなり離れてきているように思えてなりません。そして、それがこの合唱団によって歌われた時になんの違和感もないというのが、ちょっと怖いところ、実はそれこそが最大の問題点なのかもしれません。

10月18日

The Elfin Knight
Ballads and Dances from Renaissance England
Joel Frederiksen/
Ensemble Phoenix Munich
HM/HMC 901983


「妖精の騎士」と、なにか人気マンガのようなタイトルですが、それとは全く関係はありません。サブタイトルに「イギリスルネッサンスのバラッドと舞曲」とあるのが、その内容です。「妖精の騎士」というのは、そんなバラッドの一つのタイトルなのです。
19世紀の終わり頃にフランシス・ジェームズ・チャイルドという人が、300曲以上の古い伝承バラッドを収めた5巻なら成る「The English and Scottish Popular Ballads」という本を出版しました。その第1巻の2曲目に収録されているのが、「The Elfin Knight」というバラッドの13種類のヴァリアントです。地方や時代によって細かい歌詞の内容は変わっていますが、恋人に「縫い目のないシャツを作ってくれ」というような無理な仕事をお願いしたり、合いの手に「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」といったハーブの名前を連呼するという、あのサイモンとガーファンクルの ヒット曲「スカボロー・フェア」の原型となったものです。そのうちの3つのヴァリアントが、このCDには紹介されています。
演奏しているのが、ジョエル・フレデリクセンを中心とした、「アンサンブル・フェニックス」というミュンヘンの団体です。フレデリクセンは最初はアメリカでリュートと声楽を学びます。アーリー・ミュージックのグループで活躍するとともに、モンテヴェルディの「オルフェオ」などで、歌手としてのステージも経験しています。最近ではヨーロッパを中心に活躍、数多くのアンサンブルに参加した後、2003年に自らのグループ、「アンサンブル・フェニックス」を創設します。
その経歴を見て分かるとおり、フレデリクセンは歌と楽器の双方に秀でたミュージシャンですから、この時代の音楽を完璧に一人で伴奏しながら歌うという「弾き語り」を、高い次元で可能にしています。彼のバスの声は、半端なものではありません。陰影に富んだ歌い方で、恐ろしく幅広い表現を見せつけてくれます。一人だけの演奏で7分25秒を歌いきっている「Barbara Ellen」はまさに圧巻、シンプルなメロディの歌が16回繰り返されるというだけなのですが、歌い方の微妙なニュアンスの変化と、リュートの絶妙のフレーズでとても大きなものが迫ってきます。
このグループには、さらにもう2人の「歌える」プレーヤーが参加しています。テナーのティモシー・リー・エヴァンスと、カウンター・テナーのスヴェン・シュヴァンベルガーです。それぞれがソロを取ったり、2人、3人でハーモニーを聴かせてくれたりと楽しませてくれるのが「Lord Darly」です。ソロと同じスタンスですんなりコーラスに入ってしまうセンスがとても素敵、3人ともハーモニーのツボが完璧に決まっていて、浮き立つようなリフレインでの心地よさは絶品です。シュヴァンベルガーはとても多才な人で、楽器もフルート、リコーダー、テオルボ、リュートを弾きこなすというまさにマルチ・プレーヤー、あちこちで超絶的な技巧を披露してくれています。
ソロでしっとりと聞かせるナンバーとともに、総勢6人のメンバーが一緒になったときのノリの良さも聴きものですよ。何しろパーカッションを担当しているサーシャ・ゴトヴチコフという人のグルーヴがハンパではありませんから、それに乗せられたグループのテンションといったら。彼のリズムは殆どラテン・パーカッションのノリです。例えば8分の6拍子の「Greensleeves」では、ヘミオレが入って、まるで中米の「ウアパンゴ」(「ウェスト・サイド・ストーリー」の「アメリカ」のリズム)みたいになっていますから、これは盛り上がります。
ここでフレデリクセンが作り上げた音楽は、アーリー・ミュージックの訳語「古楽」から連想される、カビくさく古めかしいものでは決してなく、現代の息吹が存分に感じられるものです。もはや、こういうものに対して「古楽」という言葉を使うのは、完璧に実情に合わない時代になっています。それに気づかずに、未だにこの言葉を使い続ける人がいるのはこがくた(困った)ものです。

10月16日

Zauber der Melodie
Herbert Kegel/
Dresdner Philharmonie
DELTA/DC10101


先日HMVに行ってみたら、その週のベストセラーのボードがあって、そこにこんないかにも「名曲集」といった感じの安っぽいCDが置いてありました。タイトルが「メロディの魔法」ですし、このジャケ写の陳腐さといったらどうでしょう。ランキングはその時は2位、値段も決して安いわけではなく、何でこんなものがそんなセールスを上げているのか不思議だったのですが、指揮をしているのがケーゲル、彼にしてはずいぶん珍しい曲目だというところに惹かれて、買って帰ってきました(「買って帰れ」はアイーダ)。後で調べてみたら、確かにこのアルバムはかなりのいわく付きのものでした。なんでも、この中の曲が他の指揮者の演奏と一緒になったコンピレーションがあったそうで、その中のケーゲルの演奏がものすごいものだったことからベストセラーになってしまったそうなのです。そこで、オリジナルのアルバムが、HMVの要請でわざわざ日本向けにリイシューされることになったのだとか。これが録音されたのは1987年頃、もちろんデジタル録音ですが、リリースされたのはLP、ですから、このジャケットはそのLPのものなのだそうです。
確かに、その大評判となったアルビノーニの「アダージョ」は、ちょっとすごいものでした。録音を行ったのは当時の東ドイツの国営企業Deutsche Schallplattenでしょうから、おそらくドレスデンのルカ教会が会場のはず、豊かな残響に彩られたその弦楽器は、まるで氷のように冷ややかなたたずまいを見せていたのです。音楽の流れは「流麗」などとはほど遠い鈍くささ、一歩一歩踏みしめるようなその歩みは、まるで絞首台へ向かう死刑囚のようでした。確かに、これは強烈に胸を打つ演奏には違いありません。しかし、それは、決してハッピーな思いにさせられるものではありませんでした。
そんな風に、いかにも不器用そのものの音楽は続きます。グルックの「精霊の踊り」では、ソロのフルートのイモさ加減が花を添えてくれています。このような曲の演奏にはあるまじき無骨さと不快な音程、中間部からテーマに戻る際のカデンツァの、なんと醜悪なことでしょう。
ですから、グリーグの「過ぎし春」のような寂しい曲などは、まさに水を得た魚、サディスティックなまでに心の弱い部分を容赦なくかきむしります。テーマが薄い編成で出てくるところでテンポを急に上げるという「工夫」も効果満点、もしかしたら涙さえ誘われるかもしれません。
本来なら明るく爽やかに鳴り響くはずのグリンカの「ルスランとリュドミラ序曲」が、いとも重々しいビートで演奏された時点である程度の予想は付きましたが、エルガーの「威風堂々」の怪演はそんな心の準備をはるかに超えるものでした。不思議なテンポの揺らしと、意味不明のリタルダンド、例えば「プロムス」などで聴かれるノーテンキな曲と、これは果たして同じものなのか、と思わせられるほどの、殆ど冗談に近い演奏が、そこにはありました。
そして、トリをつとめるのがストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」ときては、恐れ入るしかありません。いったい、何を考えてこんな曲を入れたのか理解に苦しむところ、シューベルトのとことんぶざまな引用が聞こえてくる頃には、なんとも自虐的な笑いがこみ上げてくるのを抑えることは出来ないはずです。
そんなわけで、これは本来の「名曲集」としては完全な失敗作、「アダージョ・カラヤン」のようにこれを聴くことによって癒されることなど決してあり得ません。そんなものがこれほどのセールスを上げるなんて、いかにクラシックファンの心が歪んでいるかが分かります。いや、もしかしたらこれはケーゲルが仕掛けたどす黒い罠だったのかもしれません。それにまんまと引っかかった私たち、もちろんそれを「誇り」と感じるのに、決してやぶさかではありません。

10月14日

HANDEL
Arias
Danielle de Niese(Sop)
William Christie/
Les Arts Florissants
DECCA/475 8746


外国人の名前の日本語表記ほど、難しいものはありません。John Rutterなどは未だに「ラッター」と「ラター」の2通りのものが見かけられます。確かに、実際の発音は「ラター」に近いのでしょうが、本当に似せるのであれば「ララー」ぐらいまで行かないと、本物とは言えません。「ハリー・ポッター」なのですから、「ラッター」で十分だと思うのですが(「ピーター・ラビット」の作者の場合は「ポター」ですけどね)。この人の場合も「レコ芸」にさる高名な評論家の方が「ダニエレ・デ・ニエーゼ」と書いてしまったおかげで、危うくその表記が定着しそうになりましたが(まだ一部では残っています)、今では本人の発音通りの「ダニエル・デ・ニース」が使われるようになっていますから、まずはめでたしめでたしですね。「ラッター」と「ラター」の違いぐらいだったら許せますが、「デ・ニエーゼ」と「デ・ニース」は全然似てねーぜ
彼女のことを初めて知ったのは、あの2005年のグラインドボーン音楽祭での「エジプトのジューリオ・チェーザレ」のDVDでした。いきなり目の前に現れた、歌って踊れるキュートな女性が演じるクレオパトラ、一目でその魅力にとりつかれなかった人などいたでしょうか。その「歌」もあふれるばかりにイマジネーション豊かな装飾の付けられた煌めくほどの素晴らしいものでしたね。このセンセーショナルなグラインドボーン・デビューのせいでしょうか、翌年、2006年には他のキャストは殆ど変わってしまった(指揮者も)にもかかわらず、デ・ニースだけはこのプロダクションのプリマ・ドンナを続演することになったのでしたね。
そして、待望のソロ・デビュー・アルバムがリリースされました。歌っているのは、もちろんお得意のヘンデルのアリア、バックはグラインドボーンでタクトを取ったクリスティです。そして、オーケストラがクリスティの手兵、レ・ザール・フロリサンですから、ピットでのエイジ・オブ・エンライトゥンメント管とはひと味違った音色が楽しめることでしょう。
「ジューリオ〜」からは2曲、ともに第3幕で歌われる「この運命に泣きましょうPiangerò la sorte mia」と「嵐で難破した船がDa tempeste il legno infranto」が歌われています。この、全く異なる情感を描いたアリアを、彼女は見事に歌い分けています。驚くのは、ステージで大きな振りを付けて歌っていたときも、今回教会で録音したときも、基本的なクオリティは全く変わっていないということでした。2年前の段階で、すでに完成されたスタイルを身につけていたことがよく分かります。その上に、今回の録音では陰影に富んだ表現がさらに濃厚さを増しているようにも思えます。
2曲目に歌われている「私を泣かせて下さいLascia ch'io pianga」のような有名な曲を聴けば、その表現の密度の高さが自ずと分かることでしょう。バロックのスタイルはしっかり守った上で、彼女は真に迫った情感をまさに完璧に伝えることに成功しているのです。さらに、その歌に付き添うように、ヴァイオリンたちもまるですすり泣いているように聞こえてはきませんか?そう、バックのオーケストラの自由自在の表現力の高さも、ここでは聴きものです。しっとりとした曲ばかりではなく、生き生きした曲の場合にも、まるでラモーやリュリを思わせるようなテイストが漂っているではありませんか。8曲目、「リナルド」からの「私は戦いたいVo' far guerra」では、まるでコンチェルトのようにチェンバロのソロが伴いますが、それはまさに「クラブサン」という言葉がピッタリするような軽やかでエスプリに満ちた音色とタッチなのですから。

10月12日

BRUCKNER
Mass in E minor & Motets
Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA67629


ブルックナーのモテットを入れたCDは、このレーベルにはすでに1982年に録音されたマシュー・ベスト指揮のコリドン・シンガーズの演奏がありました。これは殆どこの曲の決定盤と言っていいほどの完成度を持ったものでしたから、まさか同じレーベルから新しい録音が出るとは思いもしませんでした。しかし、それからきっかり四半世紀後、2007年に録音されたこの演奏は、ベスト盤(いえ、コンピレーションではなくて、さっきのCDということなのですが)とは別の意味での、さらなる決定盤となっていたのですから、嬉しさもひとしおです。
レイトン指揮のポリフォニーという、まさに泣く子も黙る実力を誇るコンビは、しかし、ここではその緻密なハーモニーはそのままに、ある種荒っぽいと感じられるほどのアクティブな歌い方で、曲の持つ「力」を前面に押し出しているように感じられます。モテットの中で最も有名な七声の「アヴェ・マリア」は、出だしの女声三部、それに続く男声四部とも、なんの曇りもないいつもながらの彼らの密度の高いハーモニーが堪能できます。しかし、その後の「Jesus」というテキストで3度繰り返されるセクエンツになったとたん、その様相は一変します。それは、なんとも切迫感のあるたたみかけでした。回を重ねるごとにテンションが高まっていき、最後、ソプラノが高いAの音になるクライマックスでは、とても無伴奏の合唱とは思えないほどの迫力、それはまるで、オーケストラでティンパニのロールのあとにシンバルが高らかに打ち鳴らされる情景すら、浮かんで来るほどのものではないでしょうか。
そして、おそらくこのアルバムのメインであるホ短調のミサ、いわゆる「ミサ曲第2番」です。教会の建物の落成式のために作られたということで、野外で演奏されることが前提になっていますから、伴奏はオーケストラではなく管楽器のアンサンブル、つまりブラスバンドになっているという、珍しい形のミサ曲です。そのために、どうしても教会の内部で行われる敬虔なミサ、という感じではなく、なにか華やいだ、もっと言えばかなり荒っぽい印象を持ってしまいがちです。そんな印象は、もしかしたら、やはり同じレーベルにある1985年に録音されたベスト盤などを聴いてきたことによって作られてしまったイメージだったのかもしれません。どうしても、繊細な合唱と、こんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、「粗野」なブラスバンドとが、なにか遊離したもののように思えてしまっていたのです。
しかし、今回のものを聴けば、そんな悪しき「ブラバン」のイメージは全く覆されてしまうはずです。なにしろ、ここでの合唱は、荒々しさすらもきっちり表現として取り入れるだけのキャパシティを備えていますから、多少乱暴な伴奏とでも十分に拮抗できるだけのものを持っています。そんなアンサンブルと合唱の共演は、やはりこの曲から桁外れに大きな「力」を引き出すことに成功しました。例えば合唱だけで始まる「サンクトゥス」の冒頭では、最初は静かだったその合唱が、みるみるうちに強靱な響きに成長していきます。そして、金管のトゥッティが加わる頃には、その金管を凌ぐほどの存在感を示せるほどになっているのです。
「ブラバン」に拮抗できるほどの力を持った合唱が、曲の「力」を見せしめてくれた結果、このミサ曲に今まで抱いていたイメージがガラリと変わってしまいました。そこには、交響曲と何ら変わることのない世界が広がっていたのです。合唱曲の分野でも、ブルックナーは巨大な建造物のような響きを追い求めていたことが、レイトン達の演奏によって明らかになった瞬間、それはまさに「感動的な体験」に他なりません。

10月9日

ROSSINI
Opera Arias & Overtures
Max Emanuel Cencic(CT)
Michael Hofstetter/
Orchestre de Chambre de Genève
VIRGIN/0094638578826


このジャケ写、ぶっちゃけ超ブキミ、てゆーかキモくね?スキンヘッドはともかく、なんだか耳がとんがっているからまるで宇宙人のように見えますよね。首から下も、これだけ見るとまるで何も着ていないようで、なんかエロっぽいし。
この人は、今売り出し中のカウンター・テナー、マックス・エマニュエル・ツェンチッチです。名前だけ聞くと、宇宙人ではなくてお猿さん(それは「モンチッチ」)。クロアチアのザグレブ生まれ、1987年から1992までは、あのウィーン少年合唱団の団員として、20枚ほどのCDを録音したり、演奏旅行で世界中をまわったりしていたそうです。ご同業のドミニク・ヴィスがロン毛で迫っている(最近、かなりおでこが上がってきてはいますが)のに対抗したわけでもないでしょうが、このインパクトにはちょっとすごいものがあります。確かに、最近のカウンター・テナーの人で頭が極端に薄い、というケースは多いようですね。
ここでは、指揮者のホーフシュテッター(モーツァルト・イヤーのザルツブルクで、「さまよい」の指揮をしていましたね)とのコラボレーションいうことで、ロッシーニのアルバムを企画しています。ツェンチッチはアリアを歌い、ホーフシュテッターは序曲を演奏するというわけですね。ツェンチッチの声は、この前聴いたラッセル・オバーリンのようなタイプです。ファルセットではなく、かなり実声に近い歌い方で女声の音域をカバーするというもの。ただ、ツェンチッチの場合、その声には悩ましいまでのビブラートが伴っていますから、なんか怪しい魅力が漂っています。それは、背筋がゾクゾクするような、まさにカストラートそのものの声のように感じられてしまいます。そういえば、だいぶ前に「最後のカストラート」という方の写真を見たことがあります。はっきりと覚えてはいないのですが、なんか、その「眼」がこのツェンチッチの写真とよく似ていたような気がしてなりません。
そんな「禁断の声」で、低音の力強さを併せ持つ高音の輝かしさと、コロラトゥーラの確かなテクニックを存分に聴かせてくれるのが、最初の曲「タンクレディ」からの「わが祖国よ」というアリアです。テーマ自体は、後にヴァイオリン(またはフルート)とハープのための変奏曲に使われたなじみ深いものです(「♪たんたん狸の〜」にも似ています)。その後で、「パルミラのアウレリアーノ」という、全く聴いたことのないはずのオペラの中のアリアが歌われています。しかし、この曲のオーケストラによる前奏が、なんかどこかで確かに聴いたことのあるものでした。続いてその前奏と同じモチーフが使われている、この曲の序曲が演奏されたとき、それが何であったかが分かりました。それはあの有名な「セヴィリアの理髪師」の序曲だったのです。もちろん、「セヴィリア〜」の序曲が、多忙なロッシーニが前に作っていたものを転用したというのはよく知られていますが、それがこの曲だったのですね。
ホーフシュテッターの指揮するジュネーヴ室内オーケストラは、今年創立15周年を迎えるという、とても若いオーケストラです。一聴して、木管楽器などがとても透明な響きを持っていることが分かります。そして、基本的にモダン楽器の団体なのですが、金管楽器にはオリジナル楽器も取り入れているようです。ホルンあたりは確実にナチュラル・ホルン。その特徴的な響きが、ロッシーニでの確かなアクセントとなっています。「セミラーミデ」序曲では、冒頭でそのホルン4本のアンサンブルが披露されますが、これがなかなか素朴で良い感じ、時折ゲシュトップが入るあたりが、ちょっと今までにない「新しさ」(いえ、実際は「古い」のですが)を体験できるものでした。途中の木管同士がアクロバティックにからむ難所も軽々とクリア、曲は颯爽と進んでいきます。
確かに、カウンター・テナーと、オーケストラの両サイドから、ロッシーニの魅力を存分に味わえるアルバムでした。

10月6日

Beauty and the Beatbox
Shlomo(human beatbox)
The Swingle Singers
SIGNUM/SIGCD104


あのスウィングル・シンガーズが、いつの間にかSIGNUMからCDをリリースするようになっていたのですね。キングズ・シンガーズもこちらにお世話になっているようですし、なかなか侮れないレーベルです。今回の最新アルバムのタイトルは、もちろん「Beauty and the Beast」のもじりでしょう。ブックレットのメンバー・フォトを見てみると、4人の女声はいずれも美女揃いですが、4人の男声は音楽監督のトムくん以外はまさに「野獣」といった面構えですからね。「ビートボックス」というのは聞き慣れない言葉ですが、「ヒューマン・ビートボックス」という言い方で、「ヴォイス・パーカッション」よりも多彩な、声だけによるリズム楽器の模倣、いや、時にはターンテーブルのスクラッチまでも再現してしまうという、最先端のパフォーマンスです。ここではその道の達人、シュロモが参加して、その驚異的な技を披露してくれています。
1962年にウォード・スウィングルによって創設されたこのヴォーカル・グループは、もちろん最初はバッハのインスト曲をスキャットで演奏するということで注目を集めたわけですが、それだけにはとどまらずに常に新しいものへの果敢な挑戦を行ってきました。フランスからイギリスへと本拠地を変え、メンバーをすべて入れ替えた頃には、打ち込みシンセをバックにしてルネサンス期のマドリガルをそのまま歌うという、ミスマッチが高い次元で昇華した素晴らしいアルバムを作っています。
1984年にリーダーのウォードが引退してからは、さらに広範なジャンルのレパートリーを持つア・カペラのグループとして、メンバーチェンジを繰り返しながら全世界で活躍を続けています。もちろん、今はやりの「ヴォイパ」を取り入れることも忘れてはいません。
このアルバムでは、そんなスウィングルが、決して今までのキャリアを忘れてはいないのだな、という感慨を強く抱くことが出来ます。同じメンバーは全くいないのにもかかわらず、昔日のちょっとハスキー気味な音色が、そのまま引き継がれているというのが、ほほえましくも感じられます。チック・コリアの「スペイン」でのユニゾンがいかにもゆるめに決まっているあたりも、このグループならではのことです。一方で、アルトのキネレット嬢などは、まるでオリジナル・メンバーのクリスチャンヌ・ルグランのような見事にジャジーなスキャット・ソロを聴かせてくれています。それは、スウィングルからは袂を分かったはずのクリスチャンヌの精神までをも、今のグループは受け継いでいるかのように聞こえるものでした。そういえば、ウォードがアレンジした「It's Sand, Man!」には、まるで初期のマンハッタン・トランスファーのようなテイストが漂っているとは思いませんか?
クラシックのアレンジも冴えています。パーセルの「ディドの死」のような選曲も、いかにもこのグループの伝統を感じさせるものです。この曲を、決して重たい情緒を漂わせることなく、軽やかなビートに乗せてサラッと仕上げたセンスは、トムくんのアレンジャーとしてのスキルの高さを物語っています(この曲は、シングルカットされているようですね)。ラヴェルの「ボレロ」も、オリジナルの持つ退屈さをそのままコーラスに置き換えることに成功しています。
ただ、のべつヴォイパがビートを刻んでいるという状況は、ちょっと煩わしいと感じられてしまうのも事実です。最後のトラック、かつてのこのグループのレパートリー、バッハの「バディヌリー」のセルフ・パロディともいうべき「Bachbeat」でのヴォイパ、いや、ビートボックスの執拗な応酬には、ちょっとひるんでしまう人もいるのでは。ヒップ・ホップまでその範疇に取り込んでしまった気でいるスウィングル、いったいこれからどのような道をたどろうとしているのでしょうか。とりあえず、きつめのパンツで勝負ですか(それは「ヒップ・アップ」)。

10月4日

BACH
St Matthew Passion
Teresa Zylis-Gara(Sop), Julia Hamari(Alt)
Theo Altmeyer, Nicolai Gedda(Ten)
Franz Crass, Hermann Prey(Bas)
Wolfgang Gönnenwein/
Süddeutscher Madrigalchor, Consortium Musicum
EMI/500941 2


1968年に録音されたゲンネンヴァインの「マタイ」が、EMIの3枚組セットのリイシューシリーズの一つとして再発されました。あまりこまごまとしたことを考えず、おおらかなバッハに接するのも良いかな、と買ってみたところです。健康食品もブームですし(それは「減塩ヴァイン」)。
まず、ソリスト陣の豪華さには目を見張ります。特にニコライ・ゲッダ、フランツ・クラス、ヘルマン・プライあたりはオペラで大活躍していたスターたちです。どんな「マタイ」になっているのか、ちょっと怖いような。そんないやな予感は、最初のテノールのアリア「Ich will bei meinem Jesu wachen」で、残念ながら的中することになります。まず、イントロのオーボエソロの吹き方が、今では考えられないほど情緒的であることに驚かされます。それは、最初の八分音符のGの音をたっぷりテヌートして情感を込めるというようなところに端的に表れています。その音は、殆どスタッカートで短く吹くという演奏に慣れている現代人にとっては、これはかなり違和感の伴う歌わせ方です。そして、それに続いて聞こえてくるゲッダの歌の、なんとおおらかなことでしょう。ベル・カントの極地とも言うべき輝かしい声で歌われるバッハは、まさにオペラハウスのステージで響き渡るのにこそふさわしい音楽でした。想像してみて下さい。もう亡くなってしまいましたが、あのパヴァロッティがバッハのアリアを歌っているようなものなのですから、これはすごいものがあります。
しかし、ひとまずご安心下さい。こんな場違いの演奏を聴かせているのはどうやらゲッダだけのよう、他の人はそれぞれにバッハにふさわしい真摯な歌い方を心がけているようですから。中でもアルトのユリア・ハマリの落ち着いた歌い方には思わず聴き惚れてしまいます。この方は確かカール・リヒターが来日したときに同行した歌手の一人、テレビで見た「ロ短調ミサ」の中の「アニュス・デイ」は、今でもはっきり覚えているほどのインパクトのある、素晴らしいものでした。ですから、このアルバムの中に出てくるアルトのためのアリアは、ことごとく美しく、心に響くものでした。冷静に聴いてみると、彼女はとてもキビキビしたリズム感を持っていることが分かります。決して自分の都合で拍をごまかしたりしないような正確さの上に立った、この深い声と表現は、まさに驚異的です。
レシタティーヴォは、とてつもなくゆったりとした流れの中で進んでいきます。ですから、その流れに必然性を感じられるだけの密度の高い歌い方が、エヴァンゲリストのテオ・アルトマイヤーと、イエスのフランツ・クラスには求められることになります。もちろん、この二人の演奏は完璧です。中でもアルトマイヤーは信じられないほどのテンションの高さで、ヒステリックの一歩手前のエヴァンゲリストを演じています。
ゲンネンヴァインに育てられた南ドイツ・マドリガル合唱団は、細かい情感よりは、大人数にまかせた「マス」の力で、この曲を押し切ろうとしているように聞こえます。コラールの入りなどは、メンバーそれぞれの息づかいまで感じられるほどの、切迫したものがあります。それは、敬虔なコラールよりはむしろ情景を表す合唱の場面で、これ以上はないほどの効果を発揮することになります。第1部のおしまいあたりの「Sind Blitze sind Donner」という激しい合唱には、度肝を抜かれます。
ゲンネンヴァインの指揮ぶりは、いかにも大時代的なものです。アリアの終わるかなり前から準備されている、大見得を切るようなリタルダンドは、どんな場面でも繰り返されるとかなり鬱陶しく感じられてしまいます。まるで、オペラを聴いているようなドラマティックな「マタイ」、こんな演奏が大手を振っていた時代もあったのですね。

10月2日

Jolivet Conducts Jolivet
André Jolivet/
Members of NHK Symphony Orchestra
TOWER RECORDS/NCS-547


タワーレコードが、今はもう廃盤になって手に入らないアイテムを、丁寧に再発してくれています。そんな中で、このシリーズは、「ビクター・ヘリテージ・コレクション」というもの、ウィンナーとかフランクフルトでしょうか(それは「ソーセージ・コレクション」)。本当は「遺産」という意味のこのシリーズ、現在のビクター・エンタテインメントが「ビクター音楽産業」と名乗っていた時代よりもさらに昔、日本ビクターが直に音楽ソフトも製造・販売していた頃の録音が集められています。ちなみに、「音楽産業」としてソフト部門が独立したのは1972年のことでした。
今の日本のレコード会社のクラシック部門というものは、かなり悲惨な状況に陥っています。SONYWARNERなどは、そもそも親会社がクラシックに見切りを付けて新しい録音を行わないようになっていますから、出るものといったら過去のカタログの焼き直しばかりです。自社で制作しようとしても、ある程度販売の見込める「ライトクラシック」のしょうもないアーティストに限られてしまいますから、到底まともなクラシックファンの食指が動くようなものは生まれては来ません。いや、なによりも、実はこういう会社のクラシック担当のスタッフは、クラシックのことを何も知っていないという、恐ろしい現実があるのですから。
そんな昨今の業界事情からは想像も出来ないことですが、セールスのことなどは何も考えず、ひたすら「文化」とか「芸術」に貢献するだけのためにレコードを作っていた、という幸せな時代が確かにありました。クラシック自体が非常に偏った趣味で、愛好者の人口も極めて少なく、利益を上げるのは最初から無理、商売は他のポップスや歌謡曲の部門に任せて、好きなことをやってやろうという道楽息子の発想でしょうか。もちろん、こんなマニアックなものは売れるわけはありませんから、一度発売されればそれでおしまい、40年近く経った今頃になって、やっとCD化されたというわけですね。
このアルバムは、フランスの、当時は現代作曲家だったアンドレ・ジョリヴェが1970年に来日したときに、N響のメンバーを集めてスタジオで録音されたものです。この録音のあと、1974年にはジョリヴェは亡くなってしまうのですから、まさにかけがえのない記録となりました。
演奏されているのは、「フルートと打楽器のための協奏的組曲」と、「7人の奏者のためのラプソディ」という、どちらも打楽器が大活躍する曲です。フルートの小出信也と、4人の打楽器奏者による「協奏的組曲」などは、1965年にランパルのために作られたばかりの曲です。そのランパルがERATOに録音したのが1966年ですから、これは世界で2番目の録音なものかもしれません。それはまさに、若々しい演奏家たちが全力でこの「新しい」曲に立ち向かっている姿が生々しく記録されたものでした。いかに作曲家自身が指揮をしているといっても、とりあえずこの複雑なリズムを音にするだけで精一杯という、なにか痛々しいものまで、そこからは感じられてしまいます。ランパルの録音や、ずっと後になってからのアランコ(ONDINE/1993年)盤に見られる4人の打楽器が醸し出すアンサンブルの妙などは、望むべくもありません。フルート・ソロにしても、とても早く演奏しなければならない第3楽章を、いかに安全に乗り切ろうかという思いがありありと見えてしまって、思わず笑いを誘われてしまいます。この楽章の途中にはっきりテープをつないだ跡が残っていますから、それだけテンポを落としても、結局うまくいかなかったのでしょうね。「ラプソディ」の方も、トランペットが派手に間違えていますし。つまり、これは当時の演奏家の現代音楽に対する水準というものを見事に「記録」として後世に残したものでもあったのです。
このアルバムをプロデュースしたのは井阪紘さん、もちろん、後に「CAMERATA」レーベルを作ることになる方です。

おとといのおやぢに会える、か。


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