最中、端っこ。.... 佐久間學

(09/7/29-09/8/16)

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8月16日

Bach Edition Leipzig
Various Artists
CAPRICCIO/49 254


まるでゾンビのように、もう死んでしまったのか、まだ生きているのか良く分からないドイツのレーベルCAPRICCIOですが、昔のカタログの在庫一掃なのでしょうか、ケーゲルのベートーヴェンのように、初出の時よりははるかに安く放出されていたので、つい手が出てしまいます。これは、だいぶ前に注文していたのが、やっと届いたもの、ただ、中にはもう「ブツ」が残っていなくて、いくら待っても届く見込みがないものもあるようですね。まあ、言ってみればアウトレット品ですから、それは仕方がありません。有るとゲット出来るけど、ないことには・・・。
そもそも、この「バッハ・エディション」は、マルCこそ1999年となっていて、あたかも2000年のバッハ・イヤー(没後250年)に向けて準備されていたもののように見えますが、実際には1985年の生誕300年の時に出ていたシリーズを、ジャケットはそのままで単に間に合わせのボックスセットにして出したというだけのものなのです。実際に昔出ていたものを、散発的に何タイトルか入手してありましたが、この中には含まれていないものもあるのですよ。ホルム・フォーゲルが演奏していたオルガンのためのトリオ・ソナタなどが、そういうものです。つまり、80年代のシリーズのハイライトのような形でしか、リリースはされなかったのですね。そういえば、「管弦楽組曲」の余白に何の脈絡もなくチェンバロ独奏でそれこそ「カプリッチョ」などが入っているのは、その時点でコンパイルされたからなのかもしれませんね。
全部で10枚のCDに、もう1枚ボーナスCD(インタビューやリハーサルが入っている、まさに「おまけ」)というのがこの貧相な「エディション」の全容ですが、そうは言っても、これが録音された1980年代前半というのは、まだ「ライプツィヒ」が「東ドイツ」だった頃、その近辺のアーティストを起用して行われたこのシリーズからは、そんな当時の社会情勢までもが演奏に反映されているようにも感じられます。それは、「バッハゆかりの地」という利点を最大限に活用して、「西側」には決して負けないようなものを作り上げようとする、国の威信をかけた意気込みのようなものでしょうか。そう言えば、ペーター・ギュルケやペーター・ハウシルトによってベートーヴェンの交響曲の「原典版」を完成させ、それをライプツィヒ・ゲヴァントハウス管が録音、「西側」に先駆けて「新しい」ベートーヴェン像を提示したのも、これから数年後の出来事でしたね。
そんな意気込みのあらわれが、ブランデンブルク協奏曲第5番の「初稿」の録音でしょうか。最近ガッティたちの演奏で初めて聴くことが出来たこの名曲の最初の形が、この時代にすでに録音されていたというのは、ちょっとした驚きです。現行版と並べて、その場で比べて聴けるようにした配慮もなかなかのもの。
もう一つの注目盤は、「オリジナル楽器」による「音楽のささげもの」でしょう。ドイツという国自体が、そのような動きに対しては「後進国」、「東」ともなれば、さらに保守的な体質だったのでは、という憶測を見事に裏切るような、これは「西側」へ向けての精一杯のアピールだったのではないでしょうか。なんせ、冒頭の「3声のリチェルカーレ」からして、チェンバロではなくフォルテピアノが使われているのですからね。ここでは、そのバッハゆかりのジルバーマンによる楽器の他に、フレミッシュとフレンチのヒストリカルチェンバロのコピーも登場、それぞれの流派の音の違いまで味わうことが出来ます。ただ、「組曲第2番」などではモダンフルートを吹いている当時のゲヴァントハウス管の首席奏者カールハインツ・パッシン(N響のオーボエ奏者茂木大輔さんの師匠、ギュンター・パッシンの弟)にトラヴェルソを吹かせているあたりが、やはり「後進国」。楽器だけは揃えても、演奏スタイルはモダンのままというしょぼさをさらけ出しているのが惨めです。

CD Artwork © Delta Music GmbH

8月14日

The Mozart Album
Danielle de Niese(Sop)
Charles Mackerras/
Orchestra of the Age of Enlightenment
DECCA/478 1511


ちょっと前のヘンデルに続いての、ダニエル・デ・ニースの2枚目のソロアルバムの登場です。ちなみに、この人の名前の日本語表記は、せっかく「デ・ニース」で落ち着いたと思っていたら、日本のレコード会社が「ドゥ・ニース」などとやってくれたものですから、またまた混乱の極みに。先日仲間の飲み会で「デ・ニース」の魅力をとうとうと語っていたら、「その『デ・ニース』というのは、『ドゥ・ニース』のことですか?」などと、訳の分からないことになってしまいましたっけ。フランス語の「de」だから、生真面目に「ドゥ」と表記したのでしょうが、彼女は別にフランス人ではありませんから、自分ではフランス語でも英語風に「デ」と言っているのに。彼女によく似たアフリカ系のオスカー女優でHalle Berry(↓)という、やはり美しすぎる人がいますが、これも「ハリー・ベリー」と読む方がより実際の発音に近いのに、未だにスペルにこだわって「ハル・ベリー」と言っている人は後を絶ちません。

それはともかく、このモーツァルト、「アリア集」となっていないのが嬉しいですね。決して、オペラ・アリアだけにはとどまらないところで勝負したいのでありあす、といういうデ・ニースの心意気のあらわれなのでしょう。最初にモテットの「Exsultate, jubilate」全曲で始まり、最後は「証聖者の盛儀晩課」の中の「Laudate Dominum」で締めくくるという、ラテン語のテキストによる宗教曲で額縁を作っているのも、なかなか粋な構成です。
それに挟まれた「オペラ・アリア」も、あまり有名な曲ではなく、マイナーなコンサート・アリアとか、今では殆ど演奏されることのない異稿を取り上げているのも、ユニークですね。これも、知名度ではなく、その曲が自分の技巧を遺憾なく発揮できるものだ、というあたりが選定基準だったのでしょう。この間ユントゥネンで聴いたばかりの不思議な音程のオンパレードのK528のコンサート・アリア「Bella mia fiamma, addio!...Rasta, oh cara」も歌っていますし、やはり、彼女はただ者ではありません。
ヘンデルではクリスティと「レ・ザール・フロリサン」がバックでしたが、今回は大御所マッケラスの指揮です。オケもイギリスの「エンライトゥンメント管」、こことは、グラインドボーンで共演していましたね。ただ、やはりクリスティとはちょっと勝手が違っているようで、何かと伸び伸びと歌いたがっているソリストを、マッケラスはちょっと押さえ込みにかかっているような場面があちこちに見えてしまっているのが気になります。というよりは、こういうバックで歌われることによって、彼女のキャラクターは、実は「ジューリオ・チェーザレ」で見せていたような軽やかなものではなかったことに気づかされます。「歌って踊れて、その上美人」というイメージは、彼女の一面に過ぎず、もっともっとドロドロに入り組んだ情感のようなものでも表現できる資質を、本当は備えているのでは、という思いに駆られてしまいます。
そうなってくると、このアルバムの中では、オトコに棄てられた恨みとは裏腹に、今でも彼を愛しているという設定のドンナ・エルヴィラが最も魅力的に思えてきます。彼女が歌う「Ah! fuggi il traditor」は、そんな複雑な心のヒダが見事にあらわれた素晴らしいものです。このアリアの最後にある、「普通の」エルヴィラ歌手には難しいコロラトゥーラを軽々とクリアしているあたりが、デ・ニースの最大の武器なのではないでしょうか。
ですから、彼女が同じオペラから、超豪華ゲストのブリン・ターフェルとのデュエットで「Là ci darem la mano」を歌うとき、ツェルリーナはただの小娘ではない、もっと駆け引きに長けたすれっからしになっているはずです。そうでなければ、ターフェルがこれほど入念に手練手管を込めたナンパを仕掛けることもなかったことでしょう。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

8月12日

VIVALDI
Concerti per flauto
James Galway(Fl)
Claudio Scimone/
I Solisti Veneti
HARDY/HCD 4039(DVD)


この間、テレビでフルーティストのペーター・ルーカス・グラーフが演奏していましたね。もう80歳になったというのに、技術的には全く衰えが感じられなかったのは、まさに驚異的でした。その上に長年の経験に基づく「味」が加わるのですから、その素晴らしさはたとえようのないものでした。同じぐらいの年齢のはずのオーレル・ニコレが、もうかなり前から無惨に衰えてしまったのとはまさに対照的です。この楽器では、ある年齢を超えてしまったら、能力を維持するのは極めて難しいのでしょうね。あのランパルでさえ、やはり晩年にはぼろぼろの姿をさらしていたものでした。
そうなってくると、最近何かとここで話題になっているゴールウェイの場合はどうなのか、という点が気になるところではないでしょうか。なんでも、彼の場合は「53歳(54歳だったかも)になったら、もう人前では演奏しない」と公言していたのだとか。やはり、あれだけの輝かしいキャリアを、「老い」のためにみすみす棒に振るようなことはしたくなかったのでしょう。しかし、60歳を過ぎてもまだまだ活発に演奏活動を続けているのはご存じの通り、実際に自分がそんな年になっても、「まだいける」と感じられたのでしょうか。ただ、このあたりになると所属レーベルが変わったりして、なかなか新しい録音が出なくなってしまいました。それでも、去年の新譜などでは、いつに変わらぬ健在ぶりを示してくれていましたね。
そんな中で、やはり去年収録されたDVDがリリースされました。もはや70歳になろうとしているゴールウェイの、「今」の演奏シーンが見られるのですから、これはとても楽しみなものです。
実際に手にしてみると、確かに昔と変わらぬ技術の冴えと美しい音を映像で確かめることは出来ましたが、正直「商品」としては期待はずれの仕上がりになっていました。というのも、これはヴィヴァルディゆかりの地ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿での演奏、というコンセプトなのですが、ゴールウェイも、そしてバックを務めるシモーネ指揮の「イ・ソリスティ・ヴェネティ」(久しぶりに聞く名前、まだあったんですね)も、そこでは実際に演奏はしていないのですよ。つまり、前もって録音したものを流しながら、それに合わせて演奏している、という「映画」などではよくあるやり方で撮影されているのです。もちろん、撮影の時にも実際に音は出しているのでしょうが、明らかに指がずれていたりすると、なにか感興をそがれてしまいます。その上、パッケージにはその「録音」に関するデータが一切記載されていないものですから、この前のムラヴィンスキーではありませんが、あらぬ疑いも抱きかねません。
ただ、ここで演奏している作品10の協奏曲は、ゴールウェイはシモーネとは録音してはいませんし、昔はおそらく低音にリュート(あるいはテオルボ)やファゴットを加えたりはしていなかったはずですから、この撮影に先だって、どこか別の場所できちんと録音したのは間違いのないことなのでしょうね。でも、正直ヴェネツィアの風景や、宮殿の内装などはどうでも良くて、ちゃんとした演奏をしている映像を見てみたいと思っている人には、これは失望以外の何者でもなかったことでしょう。ジャケットの写真が「裏焼き」になっているのもかわいそう。いくらゴールウェイでも、右手でGisキーを操作するのは大変でしょう。サーカスの曲芸ではないのですから(それは「浦安」)。
1983年にニュー・アイルランド室内管弦楽団をバックに「吹き振り」をした録音に比べると、ここでのゴールウェイには、まさに「巨匠」としての風格が感じられます。例えば、緩徐楽章で行っていた自由な装飾などもさっぱりと放棄しているのも、小技に走らない潔さの表れなのでしょう。この先どこまで「現役」を貫いてくれるのか、楽しみです。

DVD Artwork © Hardy Classic Spa

8月10日

BACH
Trio Sonatas
Rafaele Trevisani(Fl)
Piet Koornhof(Vn)
Paola Girardi(Pf)
DELOS/DE 3391


全くの偶然ですが、先日のグリミネッリに続いて又してもゴールウェイの生徒であるラファエレ・トレヴィザーニのアルバムです。ただ、「生徒」といっても、ゴールウェイの場合、どこかの音大の先生とかをやっているわけではないので、毎年夏に行っているマスタークラスが、そんな「教育」の場となっています。そこには、オフィシャルのピアニストとして、ゴールウェイとは長年のパートナーであるフィリップ・モルが参加していますが、彼とともにピアニストを務めていたのが、ここでピアノを弾いているパオラ・ジラルディなのです。実は彼女はトレヴィザーニの奥さん、夫婦揃って「ゴールウェイ・スクール」に縁があるのですね。
今までDELOSレーベルに協奏曲やピアノとのデュオ(もちろん、ピアノはジラルディ)を数多く録音してきたトレヴィザーニですが、今回はヴァイオリンのピエト・コーンホフを迎えてバッハのトリオ・ソナタを演奏しています。彼の場合、これまでに録音してきた曲目は、基本的に師ゴールウェイのレパートリーを踏襲したものになっているように見えます。中にはモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを自らフルート用に編曲して演奏しているようなものもありますが、これも、ゴールウェイが他の楽器の作品を積極的にフルートで吹いてきたことを継承しているに過ぎないわけでして。
もちろん、バッハのトリオ・ソナタも、ゴールウェイは2度ほどパートナーを変えて録音しています。1回目はチョン・キョンファと1979年に、そして、1995年にはなんとバロック・ヴァイオリンのモニカ・ハジェットと共演しています。このハジェットとのセッションでは、チェンバロ(もちろんヒストリカルのコピー)にヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてバロック・ヴァイオリンという、およそバランス的には不釣り合いなアンサンブルの中で、見事にモダン・フルートでバッハの典雅な世界を表現していました。他の楽器と見事に溶け合っている点が素敵です。
しかしここでのトレヴィザーニは、敢えてチェンバロは使わず、ピアノとモダン・ヴァイオリンで勝負に出ています。ゴールウェイによく似た音色とビブラートを持つ彼のフルートは、ですから、モダン・ヴァイオリンとの共演であった1979年盤をお手本にしていたのでしょう。めいっぱいフルートの表現力を駆使した、色彩感豊かなバッハの世界が広がります。ただ、そのお手本では、師匠はピアニストのフィリップ・モルにはピアノではなくチェンバロを弾かせていました。低音にチェロを加えていることでバランスをとり、バッハではやはりチェンバロならではのテクスチャーを大切にしたかったのでしょうね。
ですから、ここでジラルディが弾いているピアノは、何か違和感がつきまとってしょうがありません。別に、今の時代にピアノでバッハを演奏することの是非に関して議論をするつもりは毛頭ありませんが、ソロではなくこのようなアンサンブルの場合は、たとえ相手がモダン楽器であっても、チェンバロとは発音原理の全く異なるピアノが入っていると、やはり「違うな」と感じてしまいます。ヴァイオリンもフルートも、音の出し方に関してはバッハの時代と何ら変わるところはないのですからね。トレヴィザーニが師と同じだけの高みに到達したいと願っているのであれば、パートナーにもきちんとチェンバロも弾けるように「夫」として命じることが必要なのではないでしょうか。それに従わないような妻なら、即刻分かれなさい・・・といっても、こんな可愛い奥さんではそんなことはとても出来そうにありませんが。
ゴールウェイがやらなかった試みとして、本来はオブリガート・チェンバロとフルートのためのイ長調のソナタ(BWV 1032)を、トリオ・ソナタとして演奏しています。ただ、第1楽章の欠損部分は、師と同様、アルフレート・デュールによる修復を使っていますがね。

CD Artwork © Delos Productions, Inc.

8月8日

BEETHOVEN/Symphony No.6
STRAUSS/Ein Heldenleben
Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
TESTAMENT/JSBT 8452


このサイトには、フルーティストのジェームズ・ゴールウェイがソリストになる前に、オーケストラのメンバーとして演奏している録音を集めたリストがあります。データはKさんというマニアの方が長年かかって収集したもの、おそらく、世界中捜してもこれだけ充実したリストはないはずです。なにしろ、海賊盤は言うに及ばず、放送を録音したテープなども網羅されているのですからね。肝心の「ゴールウェイが吹いている」という点も、何度も聴いて確認してあります。ただ、彼の音は非常に分かりやすいので長いソロなどがあれば間違いなく特定できますが、ほんの一瞬の出番では判断が困難な場合もあり、時折「削除して欲しい」といったような連絡が入って、リストから消すようなケースもないわけではありません。「Incomplete」というタイトルのように、いつまで経っても「完全」なものは出来ないけれど、限りなく「完全」に近いものを目指そうとするKさんの熱意には、頭が下がります。
そのリストの最新のアイテムが、この、1972年5月のロンドンでのコンサートの録音です。BBCによって録音されていたものが、今回TESTAMENTによってマスタリングされ、正規盤として初めて発売されました。2日間のコンサートが2枚のCDとしてリリースされたのですが、最初の日にはゴールウェイは乗っていなかったので、こちらの2日目のプログラムだけが晴れてリスト入りです。
ジャケットの写真は、当然のことながらカラヤンの指揮姿、しかし、こういったライブ録音のCDだったら、その写真は収録されているコンサートを撮ったものだと思うのが普通ですが、どうもこれはロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールではなく、ベルリンのフィルハーモニーのように見えないでしょうか。というより、かぶりつきに座っている人たちの足の組み方などに見覚えがあったのでちょっと調べてみたら、この写真はカラヤンとベルリン・フィルが1966年に来日した時のパンフレットの中にあった写真と全く同じものでした。元の写真では、右端のおばちゃんの3人先には、着物を着た日本人女性が座っているのですよね。

ということは、これは1966年以前に撮影されたもので、ロンドン公演とはなんの関係もない写真ということになります。まあ、別にどうでもいいのですが、TESTAMENTにしてはずいぶん安直なことをやっているな、という印象を受けてしまいます。もっとも、このCDは品番をみても分かるとおり、ジャケット制作やプレスは日本で行われたものです。この前の本のように、没後20年で沸き返っているカラヤン贔屓の国の人たちのやることですから、笑って許してあげましょう。
ゴールウェイの音を味わうためだけに買ったものではあっても、やはりカラヤンの演奏を聴かないわけにはいきません。「田園」では、普通のスタジオ録音と変わらないような、練りに練り上げられた極上のサウンドとアンサンブルが聞こえてきたので、さすがは絶頂期のこのコンビ、と思いかけたのですが、第4楽章の「嵐」のあたりから、なんだか様子がおかしくなってきましたよ。楽器のバランスがめちゃめちゃなのですよ。やはり、彼らの場合スタジオ録音とライブ演奏とは全くの別物、という噂は本当だったのですね。おそらく録音のせいもあるのでしょうが、金管や打楽器の暴走ぶりは、ちょっと常軌を逸しています。そんな、張り切りすぎた疲れからか、第5楽章のアンサンブルはもうぼろぼろです。ヴァイオリンなどは、本当はチューニングが必要だったのでしょうね。冒頭の美しいテーマからして、およそベルリン・フィルとは思えないような貧相な音なのですからね。
いいんです。ゴールウェイの素晴らしいソロさえ聴ければ。「英雄の生涯」と合わせて80分、1枚で一晩のプログラムが全部聴けるというお買い得CDですしね。

CD Artwork ©Testament

8月6日

素顔のカラヤン
20年後の再会
眞鍋圭子著
幻冬舎刊・幻冬舎新書
138
ISBN978-4-344-98138-6


眞鍋圭子さんといえば、かつてはよく音楽関係の雑誌に登場したりテレビの番組などに出演されていた方ですね。最近ではあまりお名前を聞くことがなくなったような気がしていたので、この本のタイトルで彼女の名前を見たときには、なにか懐かしい思いに駆られてしまいました。
ご存じのように、今年はカラヤンの没後20年という記念の年、そこに「20年後の再会」というのは、ちょっと不気味ですね。お盆も近いので、カラヤンも現世に帰ってきたのでしょうか。
もちろん、そんなことはなく、これは、長いこと「カラヤンの秘書」的な活躍をなさっていた眞鍋さんが、ずっと公にしないでいた彼との個人的な思い出を、事細かに語ったものです。「回想」という名の「再会」を果たした眞鍋さん、それは、読者に対しても新たな気持ちで、この巨匠に対する「再会」を求めているようにも、感じられます。
彼女が、この本の中で執拗に、時にはヒステリックに語っているのは、なにかと傲慢な権力者といったイメージのあるカラヤンの真の姿、つまり「素顔」を知って欲しいということでした。にわかには想像しにくいのですが、これを読む限り、カラヤンという人は言葉で意志を伝えることが苦手だったのだそうなのですね。そこで、いきおい誤解を招くことが多くなり、さまざまな伝説が独り歩きしてそんな悪しきイメージが出来上がってしまったのだそうです。まあ、物事には必ず多くの側面があるものですから、これもそんな一つの面だけをことさら強調して新たな人間像を提示している、といったものに過ぎないのでしょう。その人の本当の姿などは、決して他の人に完全に分かるわけではないのですから。
もちろん、そのような「主観」が勝った記述ではない、もっと客観的な、それこそその場に一緒にいた人でなければ知り得ないような「事実」の部分は、とても興味深いものでした。例えば、カラヤンとエリエッテ夫人との関係をこちらと比較しながら読んでみると、微妙な食い違いに気づくはずです。特に本書でエリエッテが「よい妻ではなかった」などと供述しているシーンなどは、このエリエッテ自身の夢物語からはかけ離れた情景です。当然のことながら、カラヤンの臨終の際の記述に関する彼女の捏造にも、これを読めばいともたやすく気づくことが出来ることでしょう。
さらに、カラヤンのまわりに集まってきたさまざまな「実力者」たちも、眞鍋さんの手にかかればなんとも情けないその姿が垣間見えてきます。例えば、今ではソニー・クラシカルの社長を経てメトロポリタン歌劇場の支配人となっている、当時のCAMIのプロデューサー、ピーター・ゲルプあたりは、彼女から見ればまるでハイエナのような胡散臭い存在だったに違いありません。大阪のシンフォニー・ホールのオルガンのピッチがベルリン・フィルのピッチより低いので、別の電子オルガンを使うことを要求したゲルプを、ちょっと姑息な手を使って打ち負かしたことを得意げに語る彼女の筆致は、なんとも小気味よいものです。
著者の紹介に「カラヤンのコーディネイト」というフレーズがあります。カタカナで書かれたこういう抽象的で実態の把握しにくい職種も、彼女が実際にカラヤンに対してどのようなことを行ったかという詳細な描写を読めば、誰でも「コーディネイトとは、こうでねえと!」と思えることでしょう。
これは、心からカラヤンのことを信頼し、おそらくカラヤンからも信頼されていたであろう人だからこそ書くことの出来た、とても美しいカラヤン賛歌です。エリエッテ夫人といい眞鍋さんといい、これだけの「書き手」を生前から用意していたカラヤンの周到さには恐れ入る他はありません。

Book Artwork © Gentosha Inc.

8月4日

MOZART
The Flute Quartets
Andrea Griminelli(Fl)
Keller Quartet
DECCA/476 5874


レーベルはDECCAでも、制作はイタリアのUNIVERSAL、なぜか、2006年にリリースされたものが今頃日本国内に入ってきました。
グリミネッリと言えば、かつてはあのパヴァロッティのコンサートに「おまけ」みたいに出演していたフルーティストとして、記憶に残っています。時には屋外でも行われることもあったとてつもない聴衆を集めたパヴァロッティのコンサート、甘く力強いテノールのアリアの間に、ゴールドの楽器を抱えたやはり甘いマスクのフルーティストが登場、ブリチァルディやメルカダンテといった作曲家の華やかで技巧的な作品をひとしきり演奏したあと、颯爽とステージから姿を消す、という場面は、多くの映像で誰しもが体験していたことでしょう。パヴァロッティ目当てにコンサートに訪れた人は、あれはいったい何だったのか、と思ったことでしょうね。
グリミネッリは、あの不世出のフルーティスト、ジェームズ・ゴールウェイの教えを受けたこともありました。ゴールウェイはコンサートだけではなく、「マスタークラス」という、フルーティストを対象にした公開のレッスンも数多く行っていました。その中で彼が引き合いに出していたのが、このパヴァロッティだったのです。フルートの表現にはオペラ歌手と共通したものが多いのですが、その中でもパヴァロッティからは特に多くのことが学べる、というのが、彼の信条です。受講生が小さくまとまった表現に終始していると、「パヴァロッティ!」と叫んでもっとスケールの大きな演奏を要求する、というのが、その時の彼の教え方でした。
そんな、言ってみれば「ゴールウェイの師匠」であるパヴァロッティに見いだされ、引き立てられたというのですから、グリミネッリはなんと幸運なフルーティストだったことでしょう。彼はパヴァロッティの元で、きっと多くのことを学んだはずです。
そんな成果が込められているであろう、モーツァルトのフルート四重奏曲のアルバムです。良く知られているように、モーツァルトには弦楽四重奏の1本のヴァイオリンがフルートに置き換わった編成の曲が4曲あります。しかし、ここでは「第5番」として、もう一つの四重奏曲が収録されていますよ。これは、別に新発見の作品ではなく、オーボエ四重奏曲のオーボエパートをフルートで吹いている、というものです。これは、おそらく「師匠」のゴールウェイが1991年に東京クヮルテットと録音を行ったときのアイディアを参考にしたのでしょう。LP時代には「4曲」で1枚にはちょうど良いサイズだったのですが、CDでは「5曲」が標準になるのかもしれませんね。
「1番」というのは、最も有名なニ長調の曲。その冒頭の伸びやかなテーマは、かなり速めのテンポでまさに颯爽と吹かれていて、そこにはイタリア的な心地よい風が吹きます。音色もとても軽やかで明るく煌めいています。まるで、モーツァルトの屈託のない面だけを抽出したような、それは滑らかな演奏でした。共演しているケラー・クヮルテットのメンバーも、同じような軽やかさでフルートを盛り上げています。ただ、しばらく聴き続けていると、何かもう少し心に引っかかるものがあっても良いのにな、という気持ちになってきます。それは、その曲の真ん中のゆっくりとした楽章が、あまりにあっさりしすぎていたせいなのでしょうか。あるいは、彼はこれらの曲のリピートの指示をすべて忠実に守って演奏していますが、そこで繰り返されたものが1回目とうり二つ、これではわざわざ繰り返す意味がないのではないか、と、常に感じられてしまったせいなのでしょうか。あり得ないことですが、それは全く同じものをループにしたようにも感じられるほどでした。いっそ、虫眼鏡(それは「ルーペ」)を使って、調べてみましょうか。
パヴァロッティが、最晩年に「口パク」でミソをつけた轍を、グリミネッリが踏んでいなければいいのですが。

CD Artwork c Universal Music Italia s.r.l.

8月2日

BACH
Orgelmesse
Hansjörg Albrecht
Münchner Bach-Chor
OEHMS/OC 639(hybrid SACD)


「リング」「ゴルトベルク」「展覧会の絵」と、ユニークな曲目をオルガンで演奏してきたこのシリーズ、オルガンのパイプをあしらった統一デザインによるジャケットとともに、なんとも挑戦的なインパクトを与えてきています。オルガンのハンスイェルク・アルブレヒトと、プロデューサー/エンジニアのマルティン・フィッシャーのチームによる最新作は、ちょっと色物っぽかったこれまでのものとはちょっと趣を変えた、バッハの「ドイツ・オルガン・ミサ」という、オーソドックスに迫るものであったのには、別の意味で肩すかしを食らったような感じがしたものでした。しかし、そこは彼らのこと、「オルガン・ミサ」のテーマとなったコラールを、オリジナルの4声合唱のバージョンで歌っているものを付け加えて、「他社製品」との差別化を図ることも忘れてはいません。もっとも、このアイディアは別に珍しいものではなく、最近では鈴木雅明によるBIS盤もありました。このあたりが、オルガニストであり、合唱指揮者でもある両者の強みなのでしょう。
そんなわけで、到底1枚のSACDには収まらず2枚組となっていますが、コラールが入らなくてもまず1枚に収録するのは難しい、この「ドイツ・オルガン・ミサ」は、バッハが生前に出版した「クラヴィーア練習曲集」の「第3巻」にあたるものです。「第1巻」の「6つのパルティータ」、「第2巻」の「イタリア協奏曲とフランス組曲」、そして「第4巻」の「ゴルトベルク変奏曲」は2つの手鍵盤、つまりチェンバロのために書かれていますが、この「第3巻」は足鍵盤(ペダル)も入ったオルガンのために作られました。曲集の最初と最後に「前奏曲」と「フーガ」が置かれていて、まるで「表紙」のように全体の荘厳なイメージをキャラクタライズしています。その中に、「ミサ曲」の典礼にしたがって、それぞれのパート(「キリエ」とか「グローリア」)にちなんだコラールを元にしたオルガン・コラールが全部で21曲、そして、最後に4曲のかわいらしい「デュエット」と呼ばれる2声の曲が演奏されます(もちろん、その後にさっきの「フーガ」ですね)。
聴きどころは、さまざまなテクニックを駆使して飾られたそのコラールたちの、多様な味わいでしょう。言ってみれば、これはバッハが生涯作り続けてきたオルガン・コラールの集大成のようなもの、まさに、それまでのノウハウの積み重ねを誇示するような「テク」の冴えを、じっくり味わおうではありませんか。
そんな「テク」を、オルガニストがさらに際だたせるものが、オルガンのストップの選択です。ここでアルブレヒトが演奏している楽器は、オーストリアの山間の街ホプフガルテン・イン・ブリクゼンタールの聖ヤコブ・レオンハルト教会にあるオルガンです。写真で見ると、バルコニーにリュック・ポジティフが配置されているというバロック・オルガンのスタイル、ファサードの装飾や、ストップの文字なども、そんなヒストリカル楽器のような重厚さをたたえているものでした。しかし、データを見ると、これは1998年にスイスのビルダーによって作られた、極めて新しい楽器だということです。現代でも、こんな装飾的な楽器を作ることが出来るのですね。確かに、音を聴いてみるとヒストリカル特有のノイズは皆無で、かなりクリアなサウンドを持っていることが分かります。そんな楽器の特性を最大限に発揮した、曲によってはかなり「現代的」な、ストップを用いて、バッハの発想をさらに過激に聴かせるような意図が、アルブレヒトの演奏からは感じられないでしょうか。
ただ、元のコラールを歌っているミュンヘン・バッハ合唱団が、いかにもやっつけ仕事に終始しているのが残念です。こればっはりは、合唱団の資質の問題なのでしょうから、どうにもなりません。

SACD Artwork © Oehms Classics Musikproduktion GmbH

7月31日

JACKSON
Choral Music
Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION/CDA67708


意欲的な録音の成果を次から次へと届けてくれて、まさに片時も目を離すことの出来ない存在となったレイトンと「ポリフォニー」、彼らによる現代の合唱界の最先端の作曲家たちの紹介には、毎回強い刺激を与えられてばかりいます。雨も防いでくれます(それは「レインコート」)。今回のガブリエル(ゲイブリエル)・ジャクソンも、そんな、期待に背かない作曲家の一人でした。
1962年に英領バミューダで生まれたイギリスの作曲家ジャクソン、写真を見るとスキンヘッドのちょっとおっかない、というか、とても作曲家には見えないような外見です。とは言っても、初めて聴いた彼の作品は、いともすんなりと心の中にしみこんでくる親しみやすさを備えていました。彼自身のライナーのコメントによると、彼の作品は「単純なメロディ、コード、ドローン、オスティナートで出来ている」そうなのです。そこには「中世のテクニックとアイディアへの興味が反映」されているのだ、と。確かにそんな分かりやすいパーツがふんだんに用いられている、という印象は否定できません。しかし、彼が作り出した音楽を聴いていると、彼はそのような原初的な手法の中に、実はもっと根元的な「力」を感じていたのではないか、という思いに駆られます。ヨーロッパの音楽史の中でさまざまな才能が産み出してきた多くの技法によって、あたかも「進化」したかのように見える音楽も、実は「中世のテクニックとアイディア」を超えるものではなかったことに、おそらく彼は気づいてしまったのではないでしょうか。それが最終的には収拾のつかない混沌へと向かってしまった経過を身をもって知ることの出来た年代だからこそ、容易にそのようなスタンスをとることが出来たのかもしれません。
そんな彼の音楽の本質が、レイトンとその合唱団の、とてつもないハイテンションのアプローチによっていともストレートに伝わってきます。ありきたりな美しい「コード」が、決して陳腐には響かずに、その中に言いようのない力が秘められていることを誰しもが感じられるのは、ひとえに彼らのいつもながらの高密度で振幅の大きい熱演のなせる業なのでしょう。
そんな幸福なコラボレーションが見事に結実されたことを実感できるのが、2004年の作品「Ave Maria」ではないでしょうか。有名な聖母マリアをたたえるテキストが、最初はとびきりの柔らかさで甘く迫ってきます。それが後半、とても30人足らずの無伴奏合唱とは思えないような大音響で「Sancta Maria, mater Dei」という言葉が響き渡ると、その渾身の、殆ど「叫び」とも思えるような響きこそが、ジャクソンの作品の持つ「力」であることに気づかされます。と思っていると、次の瞬間に襲ってくる、殆ど静寂と思えるほどの穏やかな風景。この極端なまでの変化によってもたらされる世界の美しさは、まさに筆舌に尽くしがたいものがあります。
2000年の作品「Cecilia Virgo」では、冒頭にちょっと意外な「前衛的」な技法が現れます。しかし、まるでクラスターのような無秩序の世界と思えたものは、実は同じフレーズを時間をずらして重ねたという、それこそタリスあたりが多声部のモテットで使った技法そのものであることに気づきます。またしても、「単純な技法」の勝利です。
アルバムのタイトルとなっている2005年の作品「Not no faceless Angel」にだけは、チェロとフルートの伴奏が入ります。チェロはオブリガートを朗々と歌うとともに、低音でリズミカルなパターンを演奏して、「オスティナート」のシーンを作り出しています。一方のフルートは、かなりオフな音場で合唱にぴったり寄り添ったエコーを奏でます。どこまで行っても、ジャクソンの音楽にはシンプルな素材が満載、しかし、そこから生まれる宇宙はなんという豊穣さをたたえていることでしょう。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

7月29日

BACH
Orchestral Suites for a young prince
Gonzalo X. Ruiz(Ob)
Monica Huggett/
Ensemble Sonnerie
AVIE/AV 2171


バッハの「管弦楽組曲」、略して「カンクミ」などというノーテンキなネーミングで知られている4つの「組曲」は、成立年台などについて多くの論議を呼んでいる作品です。最近の研究によると現在広く知られているものは後年手が加えられたバージョンで、そもそもの形はケーテン時代、音楽好きだったレオポルド公の宮廷楽団のために作られたものであることが分かってきたそうです。そのような研究の先鋒は、お馴染みアメリカの音楽学者、ジョシュア・リフキンです。このリフキン、名前が知られるようになったのはお掃除用のモップ(それは「ダスキン」)ではなく、それまで人知れず埋もれていたスコット・ジョプリンの「ラグタイム」を世に知らしめたことだったのですが、今ではそれよりも先進的なバッハ研究の第一人者としての方が、通りが良くなってしまいました。彼の最大の功績は、バッハの合唱曲を大人数で歌うことを、ちょっと恥ずかしいものにしてしまったことでしょうか。
リフキンの研究にしたがった形で、2001年に「組曲」の最初の形を再構築、録音してくれたのはジークベルト・ランペでした。その時には、ロ短調からイ短調に変わり、ソロ楽器もフルートではなくヴァイオリンになってしまった「第2番」や、トランペットとティンパニがなくなってしまった「3、4番」には驚かされたものでした。まあ、それが最初の形なのだ、と言われれば、従うしかありません。
そして、その流れをさらに推し進め、「2番」のソロ楽器をオーボエにしたバージョンを提案しているのが、このモニカ・ハジェットたちとのアンサンブルでオーボエを演奏しているゴンサロ・ルイスです。やはりこの曲には管楽器のソロの方が似合っている、と判断したのでしょう。確かに、以前のヴァイオリン版は、あまりにあっさりしすぎていて物足りない面がありました。さらに、元々はオーボエだったものを、より演奏人口が多いフルートのために書き直すという可能性についても、彼は自身のライナーによって詳細に述べています。
そのような「可能性」を議論することよりは、実際に「音」を聴いた方が話はストレートに伝わります。オーボエがソロを取っている世界初録音の「2番」は、果たしてフルート版を超えることは出来るのでしょうか。
まず、「序曲」の中間部での技巧的なソロ楽器の扱いでは、このオーボエの奏でる音型はなんと自然に聞こえてくることでしょう。このフレーズを華やかに仕上げるのはフルートにとってはかなり難しいことなのですが、それを、オーボエはいともたやすく成し遂げてしまっています。「ブーレ」のような細かい音符も、やはりオーボエの方が見事にキャラが立っています。いかにもフルートっぽい装飾だと思っていた「ポロネーズ」もオーボエが吹くことになんの遜色もありません。そして、極めつけは最後の「バティネリ」です。そう、この曲は「バディネリBadinerie」ではなく「バティネリBattinerie」の誤記だったのだ、というのも、ランペやルイスの主張です。今まで「冗談っぽく」とか訳されていたこの舞曲は、それとは全く別の「戦闘的」な意味合いを持った踊りだったのです(こんなことを知らされた世のフルート教師は、困ってしまうことでしょうね)。ですからこのソロの「戦闘ラッパ」的なイメージは、フルートよりはオーボエの方がより似つかわしいのは明白です。
そんなわけで、フルーティストにとっては誠に残念なことですが、この曲はまさにオーボエのために作られたのではないか、という箇所があちこちで見つかってしまいました。完敗です。リフキンたちのおかげで、大人数の合唱団とともに、フルーティストも、この曲をフルートで吹くことの無意味さを噛みしめる時代が来てしまいました。真実を知ることは、必ずしも幸せなことではないのかもしれません。

CD Artwork © Monica Huggett

おとといのおやぢに会える、か。


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