来ると、参る。.... 佐久間學

(08/9/29-08/10/17)

Blog Version


10月17日

カラヤンとともに生きた日々
エリエッテ・フォン・カラヤン著
松田暁子訳
アルファベータ刊
ISBN978-4-87198-557-4

今年生誕100年を迎えた往年の大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの3番目にして最後の妻エリエッテが執筆した、回想記です。原題は「Mein Leben an seiner Seite」、「彼のそばにいた私の人生」あたりでしょうか。わざわざ「カラヤン」と言わなくても、著者が「彼」と言っただけでその人が分かるのに、なんと無粋な邦題なのでしょう。
常々、この指揮者のそばにいつでもついて回っているこの金髪の美人女性については気にはなっていました。もちろん、それがカラヤン夫人であることは明らかなのですが、あまりに美しすぎるためにそれが単なるカラヤンの「アクセサリー」のように思えてなりませんでした。もちろん、それは単なる個人的な感想ではなく、「カラヤンはスポーツカーやジェット機、そしてモデル出身の美人まで、欲しいものは何でも手に入れた」というような言い方には、いたるところでお目にかかることが出来ます。事実、その二人はまるで親子ほどの年の差があるのは、まちがいのない事実なのですからね。
ヘルベルトが100年前に生まれたことは世界中の人が知っていますが、エリエッテの生まれた年などはどこを探しても見つかりません。しかし、カラヤン夫妻の年の差が実際にどのぐらいなのか、正確なところを知りたいと思ったら、この本のイントロが役に立ちます。それは、まるでおとぎ話のような物語の始まり、船上パーティーで船酔いをしてしまったエリエッテを優しく介抱したロマンスグレーの紳士(まるで、リチャード・ギアとジュリア・ロバーツの「プリティ・ウーマン」みたいですね)は互いに一目惚れしてしまう、という設定(いや、事実かも)です。その時の彼女は「18歳」、そしてヘルベルトはというと「バイロイトで『指環』の第2チクルスを指揮したばかり」とありますから、このシーンは1951年の出来事であるのが分かります。その年は、ヘルベルトが最初にバイロイトに招かれた年で、「第1チクルス」はクナッパーツブッシュが指揮をしているはずですから。ということは、誕生日を迎えていれば彼女は1933年に生まれたことになりますね。つまり、エリエッテはヘルベルトとは25歳違いの後妻だったのです。
最初の出会いがまさにあり得ないほどの美化されたものであるのは、この本で描かれているカラヤンとの思い出が同様に美化されたものであることを示唆しています。従って、読者はこの彼女一流の夢見がちな少女のような(とは言っても、執筆時には彼女は74歳だったはず)記述の中から、注意深く真実のみを読み取る努力を怠ることはできません。例えば、カラヤンは最愛の妻だけを必ずレコーディング・セッションには同席させた、というのは、おそらく真実なのでしょう。しかし、その際にカラヤンは彼女に必ず音楽上の助言を求めた、というのは、はたして本当だったのか、といった具合です。
さらに、涙なくしては読めない感動的なヘルベルトの臨終のシーンも、フィクションではないと言い切れるだけの自信はありません。その場にその時実際に居たのは、当時のソニーの社長大賀典雄氏だけだった、というのは、例えばこちらでもご本人の口から述べられているように、殆ど「常識」と化しています。エリエッテのこのドラマティックな記述をもってしても、いや、だからこそなおさら、それを覆すだけの力とはならないような気がするのですが、いかがでしょうか?
いずれにしても、没後100年を飾るにふさわしい、この上なく美しい「伝説」が、また一つ誕生しました。半世紀前にサン・トロペで未成年の少女をナンパしたカラヤンは、もしかしたらこの日のために彼女を育て上げていたのかもしれませんね。彼が手に入れていたものは単なる「モデル出身の美人」ではなく、死後も彼の崇高な行いを世に伝えてくれる語り部だったのです。

10月15日

WECKMANN
Orgelwerke
Joseph Kelemen(Org)
OEHMS/OC 627(hybrid SACD)


バッハよりも一時代前の北ドイツの作曲家、マティアス・ヴェックマンのオルガン作品集です。実は、かなり以前のことになりますがARCHIVから出ていた「北ドイツのオルガン音楽の巨匠」みたいなタイトルのLPを聴いたときに、そこで初めてバッハ以前の作曲家のオルガン曲と出会い、大きな衝撃を受けたことがありました(ビックリマン)。メインはブクステフーデだったのですが、その中にあったヴェックマンの名前も、その作品から広がってきた、バッハとは全く異なるファンタジーとともに忘れられないものとなりました。

ヴェックマンは、ドレスデンでハインリッヒ・シュッツの指揮する聖歌隊に参加、シュッツの教えを受けた後、ヤーコブ・プレトリウスのもとでオルガンを学び、1655年から、息を引き取る1674年までハンブルクの聖ヤコブ教会のオルガニストを務めた人です。
ここでハンガリーのオルガニスト、ヨゼフ・ケレメンによって演奏されているのが、まさにその聖ヤコブ教会のオルガンです。1693年に名工アルプ・シュニットガーによって造られたものですが、それ以前にもこの教会にはオルガンは設置されていました。シュニットガーは、そのうちのいくつかのパイプ(最も古いものは16世紀後半のもの)を、そのまま使っています。ですから、ヴェックマンその人が実際に音を出したパイプも、残っているのでしょうね。そして、このオルガンの300周年を記念して1993年にユルゲン・アーレントによって修復が行われた際に造られたパイプもあるというのですから、この中には400年以上に渡るオルガン・ビルダーの仕事が息づいていることになります。
とても親切なことに、このブックレットでは、ストップごとにそのパイプが誰によって造られたものであるのかが明記されています。さらに、各々の曲で使われているストップが小節単位で記載されています。従って、今流れているコラールの旋律を奏でているのは、いつ造られたパイプなのか、などというのが分かるようになっています。そこで聞こえてくるのは、なんとも柔らかく暖かい音、新しく造られたパイプも、400年前のパイプとなんの違和感もなく馴染んでいるのが良く分かります。
この録音では、そんなヒストリカル・オルガンの繊細なパイプの音色が、その肌触りまでも含めてしっかりとらえられています。さらに、これは4段の手鍵盤とペダルという大規模な楽器、その手鍵盤につながっている4つの「ヴェルク」はメインの「ハウプトヴェルク」の中間と上部にそれぞれ「ブルーストポジティフ(ブルーストヴェルク)」と「オーバーポジティフ(オーバーヴェルク)」、そして、演奏者の背後、つまりバルコニーから突き出た形での「リュックポジティフ」から成っているのですが、驚いたことに、この録音には、そんな「ヴェルク」の位置関係までもが、はっきり聞き分けられるほどの音場感がありました。リュックポジティフなどは一段手前から音が出て来ているのが感じられるほどの立体感です。これぞ、SACD。
そんな素晴らしい楽器の素晴らしい録音、そこからは昔聴いたヴェックマンのイメージが鮮やかに蘇ってくるのを感じることが出来ました。バッハのような厳格な音楽ではない、もっと色彩感に富んだイマジネーション豊かな世界が、そこにはあったのです。このアルバムにはコラールを節ごとに別の変奏で聴かせる、というコラール変奏曲が多く収録されていますが、その中でも「Es ist das Heil uns kommen her」という7節から成る曲は聴き応えがあります。1節目では重厚な音で始まったものが、第2節でいきなりかわいらしい音色に変わって意表をつかれます。最も長い第6節では、シンプルなハウプトヴェルクと、刺激的な音を重ねたリュックポジティフとの対話がとてもスリリングな展開を見せていますよ。もう一つのコラール、「Gelobet seist du, Jesu Christ」では、最後の第4節の後半に「Cimbelstern」という「チリンチリン」という音の出る仕掛けまで使っていますしね。

10月13日

声楽家と医学博士が贈る
歌の処方箋
原口隆一・市江雅芳著
河合楽器製作所・出版部刊
ISBM978-4-7609-4032-5

「音楽でウェルネスを手に入れる」に続く、東北大学教授市江雅芳さんの2冊目の著作が上梓されました。前作では楽器の演奏と健康との関係を中心に述べられていましたが、今回はなんと声楽の分野に挑戦です。市江さんといえば、アマチュアオーケストラでオーボエとチェロ(!)を演奏されているという、いわばマルチ・プレーヤーとして知られていますが、「歌」にまで造詣が深かったとは。
もっとも、本書の場合は、声楽家である原口さんが、もっぱら歌うことに関しては述べられています。市江さんは、声を出す仕組みなどを医学的に解説する、という役割分担、このお二人の絶妙なコラボレーションによって、「歌う」ことが、単に楽しみにとどまらない、健康を長く保つための恰好のツールであることが、明らかにされるのです。
そんな、歌手とお医者さんが一緒に作ったちょっとユニークな発声法のガイドブック、だと思って読み始めてみると、いきなりショッキングな告白が目に入ってきます。なんと、原口さんは「失語症」にかかってしまい、歌うことはおろか話すことさえ出来なくなってしまったことがあったというそうなのです。歌うことを生業とされていた方が歌えなくなってしまうなんて、まるで生きることを否定されてしまったようなものだったのではないでしょうか。しかし、原口さんは、リハビリを経て完全に現役復帰を成し遂げました。その背景にあったものが、昔から続けていたきちんとした声楽のレッスン、つまり正しい呼吸法から始まる歌い方の原点だったというのです。「音楽をする事、とりわけ歌は確実にリハビリの大きな助けになる」ということを、まさに身をもって体験されていたのですね。
そして、まさにリハビリの専門家である市江さんが、そこに理論的な裏付けを与えてくれるわけです。ただ歌うだけではなく、体に無理のない歌い方を習得したときにこそ、それが健康につながるのだということを、解剖学的な見地も交えて非常に分かりやすく教えてくれています。市江さん自身、オーボエを吹いた時の無理がたたって体が不調を訴えたこともあっただけに、それは説得力があります。
さらに、市江さんの場合は、前作でも述べられていた音楽を続けるにあたって最も重要なこともここで強調されています。それは、決して「音が苦」にならないような姿勢です。例えば、合唱団に入るときも、決して歌うことが苦しみに変わることのない、しかし適度のストレスは味わえる(その「ストレス」が上達につながります)ようなところを選ぶようにとおっしゃっています。
楽器も歌も、音楽を楽しみ、かつそれを健康に結びつけるためには何をしなければいけないのか、そんな基本的な導きを、この本からは得られることでしょう。
後半はいわば実践編となっています。楽譜を見て付属のCDを聴きながら、まずは発声練習(「発生練習」はちょっとアブないですが」)、そして実際に歌を歌ってみましょう。その歌の中には日本語だけではなく、ドイツ語、イタリア語、そしてフランス語の歌詞のものまで含まれています。ちょっと取っつきにくいそんな外国語の歌でも、ここで述べられている発音のちょっとした「コツ」をマスターしさえすれば、楽しく歌うことが出来るようになるのではないでしょうか。CDで歌われている「模範歌唱」では、音域もそんなに高くなってはいないので、一緒に合わせて歌うことも出来るでしょう。
ただ、せっかくCDを付けたのですから、ここに楽譜が載っている曲が全部録音されていればな、とは思います。それと、これもせっかく、ですが、ピアノ伴奏だけのカラオケも入っていれば、より実用性が増していたのではないでしょうか。
もっとも、そこまですると本体価格2,800円では済まなくなるかもしれませんがね。

10月11日

LUKASZEWSKI
Choral Music
Stephen Layton/
The Choir of Trinity College, Cambridge
HYPERION/CDA67639


1968年生まれのポーランドの作曲家、パヴェウ・ウカシェフスキの合唱作品集です。普通のインターネット環境では表記出来ませんが、彼のファーストネームPawelの「l」とラストネームの「L」は、「エル」ではなく「ひげ」の付いた文字で、「エウ」と呼ばれるものです。そんな風に、ポーランド語のアルファベットは、普通のラテンアルファベットの26文字ではなく、「ひげ」が上や下に付いたものを含めて全部で32文字から成っているそうです。ただし、その中に「Q」「V」「X」は含まれてはいません。さっきの「エウ」は、英語などでは「W」が担っていた発音になるのですが、そんなわけで「V」の発音はその「W」の役目となり、日本語では「ヴ」または「フ」と表記されることになります。従って、さっきのようにこの作曲家は「パヴェウ・ウカシェフスキ」と呼ばれることになるのです。以上、超初級ポーランド語講座でした。
ポーランドの作曲家としてすぐ頭に浮かぶのは、あのペンデレツキではないでしょうか。彼の代表作「ルカ受難曲」が初演されたのが1966年なのですから、その時にはまだウカシェフスキは生まれていなかったことになります。しかし、彼の中にすでに存在していた「ポーランド現代音楽」のDNAは、そのペンデレツキ以上の輝かしい成果をもたらすことになりました。それは、ペンデレツキと同世代のポーランドの作曲家、キラールやグレツキ(「キラー」や「ゴロツキ」ではありません)などが最後にたどり着いた地平と極めて似た風景、あるいはペンデレツキその人の「落ち着いた」末路とも極めて類似性が認められるものでした。
このアルバムに収められているのは、ラテン語のテキストによる宗教的な合唱曲、いわゆる「モテット」という範疇に当てはまる無伴奏の小さな曲たちです。一聴して分かるのは、そのあふれるばかりの芳醇なハーモニーの世界です。三和音を基調としながらも、ちょっとした変化音を加えることによって生まれる煌めくような感触は、プーランクあたりから始まってメシアンあたりに集結したフランス風の音色を思い起こさせるものです。ごく希に、クラスターっぽい響きが聞こえたとしても、それはもはやかつての「ポーランド」とは異なるコンテクストの中にあるものととらえるべきなのでしょう。
そんな今の「ポーランド」、あるいはペルトやタヴナーといった「ミニマリスト」の様相に、「ソ−ド」とか「ソ−ミ」といった、4度や6度の跳躍を持つメロディの明るい開放感が加わったとき、そこにはいとも屈託のない印象が生まれます。これは、もしかしたら武満徹の合唱曲が持っているテイストとも、非常に似通った世界なのではないでしょうか。
以前、プーランクのアルバムで「ポリフォニー」と共演していたケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団の、これは音楽監督としてのレイトンを迎えたおそらく2枚目のソロアルバムです。前任者のリチャード・マーロウの時の演奏に比べると、全く別の団体のように聞こえてしまうのは、レイトンが求める異常なほどハイテンションのアプローチのせいなのでしょうか。以前はそこそこのまとまりを見せていたものですが、ここでは、そんな小さなまとまりなどかなぐり捨てて、殆ど「叫び」に近い表現まで見せているのですからね。そのあたりで、合唱団としての基本的な能力を超えてしまっているようなところも露呈されているほどの、それは過酷な要求に思えます。それがウカシェフスキの音楽に求められるものなのか、単なるレイトンの趣味なのか、ここから判断するのは困難です。
サイモン・イードンによる、低音の引き締まった録音は、とても素晴らしいものです。このみずみずしさは、合唱の録音の一つの規範になるほどのものではないでしょうか。こういうものこそ、SACDで出して欲しいと思うのですが。

10月9日

WEINBERG
Concertos
Claes Gunnnarsson(Vc)
Andreas Jonhäll(Fl)
Urban Claesson(Cl)
Thord Svedlund/
Gothenburg Symphony Orchestra
CHANDOS/CHSA 5064(hybrid SACD)


ミェチスワフ・ヴァインベルクという作曲家は、1919年にポーランドに生まれたユダヤ人です。しかし、ナチスによるポーランド侵攻を逃れて1939年には旧ソ連へ亡命、名前もモイセイ・ワインベルクと変えて、ソ連人として生きていくことになります。スターリンにより投獄されるなど、波乱の人生を送りますが、作曲家としては150曲以上の作品を残し、1996年に亡くなりました。今までは旧ソ連の国営レーベルMELODIYAにいくつかの録音があっただけで殆ど知られてはいない作曲家でしたが、没後10年の2006年あたりからこのCHANDOSレーベルで交響曲全集がリリースされ、次第に認知度が上がってきたところです。
彼の作品は、26曲の交響曲(小さなものも含まれます)を筆頭に、17曲の弦楽四重奏曲など多くの室内楽、そして7曲のオペラと、王道を行くラインナップとなっており、協奏曲の形を取った作品も数多く残しています。そんな協奏曲は、ソ連の演奏家たちとの親交の中から生まれたといいますが、このアルバムにはチェロとオーケストラのための「幻想曲」と、フルート協奏曲第1番、そして、これが世界初録音となるフルート協奏曲第2番と、クラリネット協奏曲が収録されています。
この中では最も初期の作品である「幻想曲」は、1953年に完成されました。3つの部分が休みなく続けて演奏されるという、自由な形を取っています。一度聴いたら忘れられないような、哀愁をたたえたヘブライ風のとても美しいテーマが中心になって音楽は進みます。中間部は、民族舞踊のような生き生きとした趣、そしてカデンツァのあとには元のテーマが再現されて静かに終わるという、非常に分かりやすい構成、もしかしたら涙を誘うかもしれない素直で感動的な作品です。ここでのチェロのソロが、まさに「泣き」を誘うものであったため、そんな印象はさらに募ります。
フルート協奏曲は、2曲の間には大きな年月の隔たりがある分、印象はかなり異なって聞こえます。1961年に作られた第1番は、歯切れのよい超絶技巧が前面に押し出されていて、それだけで心地よい快感を与えられるものです。しかし、1987年の第2番になると、なにかこねくり回したような作風に変わっていて、素直には入っていけない敷居の高さが見られます。それは、作曲家自身の「成長」の跡なのでしょうが、それは聴くものにとっても「成長」を強いられるものであり、ちょっと辛い気もします。もしかしたら、演奏家もそのように感じていたのでしょうか、フルート・ソロを担当しているイェテボリ交響楽団の首席奏者の方も、「1番」ではとても伸び伸びと演奏しているものが、「2番」ではなにか守りに入っているように感じられてなりません。
ヴァインベルクは、あのショスタコーヴィチとは作曲上のアイディアを交換し合うほどの親密なおつきあいがあったそうですが、この曲の第3楽章では、そんないかにもショスタコ風の不思議な「引用」が見られます。それはグルックの「精霊の踊り」と、バッハの「バディネリー」。バッハの方はこの楽章の主題が実は「バディネリー」の変形だという「オチ」があるので分かりますが、グルックはいったい何だったのでしょうか(そんなの、分からなくてもいんよう)。
クラリネット協奏曲も、やはり一筋縄ではいかない作風ですが、こちらはソリストの熱演とも相まって存分に楽しめました。特に、第2楽章の深いたたずまいには惹かれるものがあります。それはまさに、ショスタコの「5番」あたりの緩徐楽章と共通した深さです。
録音は、SACDならではの素晴らしいものでした。特に、弦楽器の生々しさには感動すらおぼえます。こんなよい録音で味わえるヴァインベルク、おそらくファンも増えることでしょう。

10月7日

BIZET
Carmen
Anna Caterina Antonacci(Carmen)
Jonas Kaufmann(Don José)
Ildebrando D'arcangelo(Escamillo)
Norah Amsellem(Micaëla)
Francesca Zambello(Dir)
Antonio Pappano/
The Royal Opera Chorus
The Orchestra of the Royal Opera House
DECCA/074 3312(DVD)


ビゼーの「カルメン」をDVDでご紹介するのは、これが初めてです。オペラに強い「おやぢの部屋」にしては、ちょっと意外な気がしませんか?正直、このオペラは確かに名作ではあるとは認めつつも、いつもなにかある種の違和感が伴っていました。音楽は本当に美しいものばかりなのですがねえ。
そんなものをわざわざDVDを買ってまで見てみようと思ったのは、ひとえにヨナス・カウフマンがドン・ホセ(フランス語ですから「ドン・ジョセ」というべきでしょうね)を歌っているからでした。現在最も注目に値するこのドイツ人のテノールが歌ったドン・ホセでしたら、ぜひ聴いてみようと思うじゃないですか。
この映像は、200612月にロンドンのロイヤル・オペラハウス(コヴェント・ガーデン)で行われた公演を収録したものです。タイトル・ロールのカルメンを歌っているのが、これが初めてのステージとなるアントナッチです。そして、指揮が、これもおそらくちょっと意外なパッパーノ、まあ、カウフマンを聴くのが目的ですから、他に誰が演奏しようが、別にどうでもいいのですが。
そんな、全体としては(もちろん、「カルメン」という作品に対しても)それほど期待はしていなかったにもかかわらず、これは充分に堪能出来るステージでした。セット自体はかなり抽象化されたものなのですが、その演出が視覚的にとても贅沢な思いをさせてもらえるものだったのです。これはなかなかのごちそうでしたよ。
第1幕では、いかにもゴミゴミとした猥雑な雰囲気を表現するためのディーテイルが見事に決まっています。子供たちですら、それぞれに汚れた格好をさせられてしっかりとした存在感がありますし、なんと言ってもたばこ工場の女工たちのむせかえるような(って、ほんとにみんなたばこをふかしていましたね)演技には圧倒されてしまいます。彼女らがあまりにも汚れきっている印象だったために、肝心のカルメンが登場しても、それほど目立たなかったぐらいです。
この場面には生きているロバまで登場していましたが、第2幕になると、エスカミーリョはなんと本物の馬に乗って登場しましたよ。明らかにおっかながっているのが分かってしまうような歌い方、ですから、歌っているダルカンジェロよりは、馬の面倒を見ている人の方に神経が行ってしまうほどハラハラさせられてしまいます。にもかかわらず、そんなステージ全体から発散されるエネルギーには圧倒されっぱなし、コーラスの太ったおばさんたちのダンスの振りなども見事に決まっていますから、ひとときも退屈さを感じることはありません。
ここではギロー版ではなく、セリフの入ったバージョンが用いられていますし、そこに次々と現れるキャッチーなナンバーの数々。その上にこれだけの充実したステージとなると、これはもうオペラではなくミュージカルなのではないか、という思いに駆られてしまいます。そう、オペラ・コミックとしての「カルメン」は、紛れもないミュージカルだったのですよ。もしかしたら、今まで「カルメン」がちょっと胡散臭いと感じられていたのは、ミュージカルであるにもかかわらず、退屈なオペラの演出に縛られていたものしか見ていなかったせいだったのではないでしょうか。このはじけたステージを見ていると、そんな考えが妙に現実味を帯びてきます。
カウフマンは、期待に違わない素晴らしさでした。なんと言っても、そのマスクが「ますく(まさか)、オペラ歌手ではないでしょう?」というほどのかっこよさ。声は言うことなし、細やかな表現は絶品ですし、フランス語のセリフもこんなにうまいなんて!
カルメンのアントナッチは、確かにこの役に必要な妖艶さは備えているものの、エラの張ったその顔立ちは、オペラならともかく、ミュージカルでは到底通用しない滑稽なものです。

10月5日

GOODALL
Eternal Light(Requiem)
Natasha Marsh(Sop), Alfie Boe(Ten)
Christopher Maltman(Bar)
Stephen Darlington/
Chor of Christ Church Cathedral, Oxford
London Musici
EMI/2 15047 2


死者を悼むためのミサ曲である「レクイエム」は、昔から多くの作曲家によって作られてきました。その中には「モツレク」や「フォーレク」などという卑しい略称でしか呼ばれることがなくなっているものもありますが、まあ、それも人気のある曲ゆえの「災難」と受け取っておくことにしましょうか。「有名税」などといういやな言葉に置き換えることも出来るかもしれません。
もちろん、現代に於いても「レクイエム」は作られ続けています。イギリスの作曲家ではベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」(これは「センレク」でしょうか。「ブリレク」もありかも)や、ジョン・ラッターの作品(「ラタレク」という言い方が定着しかけているのは、悲しいことです)が多くの人に親しまれていますし、ミュージカル畑のアンドリュー・ロイド・ウェッバーのものも部分的によく知られていますね(「ウェバレク」とでも言うのでしょうか)。
「ミスター・ビーン」の音楽など、テレビや映画の分野では非常に有名なイギリスの作曲家ハワード・グッドールによって2008年に作られたばかりの、この実質的な「レクイエム」である「エターナル・ライト」は、果たしてそのような略称で呼ばれるほどに有名な曲にはなりうるのでしょうか。「グドレク」とか。宅急便みたいですね(グドレクヤマトの・・・)。
このアルバムで演奏している「ロンドン・ムジチ」の創立20周年ということで委嘱を受けて作られたこの曲は、そんな最近の「レクイエム」と同様、オリジナルのラテン語の典礼文の他に、英語のテキストによる曲も組み合わされています。オーケストラの編成は弦楽合奏にハープと2台のピアノ、そしてオルガンともう1台のキーボードが加わるという、ちょっと教会音楽には似つかわしくないサウンドです。そんなオケが、まるでアルヴォ・ペルトのような雰囲気の混沌としたイントロを奏でる中、1曲目の「Requiem」が始まります。最初は普通の歌詞が合唱で歌われ、そんなエストニア人の作風の模倣か、と思わせられるものの、しばらくして英語の歌詞でソプラノのナターシャ・マーシュが歌い出すと、そこにはまるでミュージカルのような世界が広がります。軽やかなラテンリズムに乗ったその曲は、まさに先ほどのロイド・ウェッバーのようなキャッチーなナンバーでした。歌っているマーシュも、どことなくサラ・ブライトマンを思わせるようなはかなさを伴っています。
グッドールという人は、ドラマの音楽だけではなく、きちんとした合唱音楽でも多くの作品を残しているそうですが、そんな2つの側面が、この曲の中には端的に現れています。それこそ合唱コンクールの自由曲にでも使えそうな、ちょっとヘビーなア・カペラの曲があったかと思うと、まさに甘ったるいラブソングのような曲が続くといった具合、普通の意味での真摯な「レクイエム」とは到底思えませんが、エンタテインメントとしては、これはなかなか楽しめる音楽です。テノールのアルフィー・ボーが歌っている「Agnus Dei」は、東洋的な音階が入っていて和みますし。
5曲目の「Lacrimosa」で使われているのが、あの超有名な「千の風になって」の元の歌詞、メアリー・エリザベス・フライのテキストでした。「Do not stand at my grave and weep」という歌詞は、まさに「あちら側」からのレクイエムという発想なのでしょうか。ちょっとケルトっぽいメロディも、その歌詞を日本語に訳した詩人が作ったものと非常によく似た雰囲気を持っています。もっとも、これを歌っているバリトンのクリストファー・マルトマンは、とても甘い歌い方、彼は、その日本版の歌をいかにも「クラシック」という歌い方で台無しにしてしまった(でも大ヒット)日本人テノール歌手の轍を踏むことは、ありませんでした。

10月3日

RODGERS
The Sound of Music
Frederica von Stade(MS)
Hakan Hågegård(Bar)
Erich Kunzel/
Cincinnati Pops Orchestra
TELARC/CD-80162


このところ、快調にリリースが続いているTELARCの「Classics」シリーズの中に、こんなのもありました。1987年に録音されたリチャード・ロジャースのミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」です。この頃はデジタル録音がやっと一般的になった時期で、ブックレット(もちろん、初出と全く同じもの)を見るとソニーの16ビットのPCMレコーダーが使われていたことが分かります。もちろん、マルチチャンネルではありません(「サラウンド・オブ・ミュージック」)。しかし、スペック的には今の機材よりも数段劣っているはずなのに、出てきた音は同じレーベルの最新録音のものに比べて格段に良いと感じられるのはなぜでしょう。ほんと、鳴り物入りで発売された「ドイツ・レクイエム」のSACDの音のショボいこと。やはり録音の良さは機材の良し悪しではなく、エンジニアの腕(あるいは耳)にかかっているものなのでしょうね。

SACD-60701
そんな素敵な録音、序曲(なんでしょうね)で聞こえてくる鳥の声のSEのリアルさで、まずびっくりさせられます。最初は部屋の外で鳴いているスズメかな、と思ってしまったほどですから。オーケストラの音も、なんと瑞々しいことでしょう。変に残響に頼るのではなく、楽器の芯の音をきっちりとらえている、という感じです。オーケストレーションの「隠し味」であるグロッケンやトライアングルも、適度な明晰さで聞こえてきます。そして圧巻は、結婚式のシーンでのオルガンのとんでもないレベルです。よくこんな無茶が出来たなと思えるほどのものすごい迫力、まさにTELARCの面目躍如、ですね。
ご存じのように、このミュージカルはもともとは1959年にブロードウェイで初演されたもので、現在でも各地でロングラン公演を続けているという「名作」です。最近ではあのアンドリュー・ロイド・ウェッバーによるプロダクション、というのもありましたね。ただ、これを元に1965年に作られた映画がすっかり有名になってしまいましたから、そちらでこの作品に親しんでいる方の方が圧倒的に多いことでしょう。しかし、このアルバムは、もちろんステージ版に拠っていますから、舞台に接したことのない人には馴染みのないナンバーなども登場します。映画では、おそらく、ハリウッドの論理で全く歌を歌わないセリフだけの役になってしまったのが、フォン・トラップ大佐の婚約者エルザと、興行師のマックスですが、ここではその二人が「歌って」いる「How Can Love Survive?」と「No Way To Stop It」という曲が聴けるというのが、嬉しいところでしょう。マリアとフォン・トラップ大佐とのデュエット「An Ordinary Couple」というのも、映画ではカットされていましたね。
いくら「シンシナティ・ポップス」が演奏しているからといっても、これはミュージカルをクラシックのアーティストが演奏していることに変わりはありません。そこでは、この3年前に録音された、やはりクラシック指向の「ウェスト・サイド・ストーリー」と同じ居心地の悪さを味わうことになります。キリ・テ・カナワのマリアほどではありませんが、フレデリカ・フォン・シュターデのマリア(同名!)には、ジュリー・アンドリュースのイメージがあまりにも浸透している現実を差し引いたとしても、不満は隠せません。声が暗めなのは仕方がありませんが、リズムがこれだけ停滞してしまうと、あの元気の良い娘の姿は見えては来ません。
それよりも、本来はあまり重要ではないナンバーなのに、きちんと「クラシック」のつもりでロジャースが書いたであろう、幕開けの修道女の合唱は、本編以上に魅力的なものに仕上がっています。それと、やはりこの録音の主役はオーケストラ。ただ、その編曲はステージ版にしてはかなり凝ったものですし、映画のものともかなり違っています。誰がそれを担当したのか、というデータがブックレットに見あたらなかったのが、ちょっと残念。

10月1日

Expressions
竹内まりや
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCL 10611/4

1978年にデビューした竹内まりやは、今年で「芸能生活30周年」を迎えることになりまりや。そういう節目にリリースされたのが、この「コンプリート・ベストアルバム」です。何が「コンプリート」なのかというと、これは彼女がデビューしてから今までの30年の間にリリースしたすべての作品(「楽曲」とか言ういかにもな業界用語は絶対使いたくありません)の中から選んだものを集めたアルバムなのです。そんなことは別に特別なことではないだろう、と思うかもしれませんが、実はそうではないのがこの「業界」なのですよ。今でこそ、自分が録音した原盤(つまりマスター)をしっかり自分で管理するアーティストも出てくるようになっていますが、かつては原盤は所属レコード会社の所有物と見なされていましたから、別なレコード会社へ移籍したような場合には、もはやその原盤に関する権利は放棄しなければならなかったのです。つまり、全くアーティストのあずかり知らないところでコンピレーションなどを作られる、というような事態は日常茶飯事だったのです。最近では、CDにするためのリマスタリングなどを行いたいと思っても、アーティストには一切関与出来ないことになってしまいます。
まりやの場合は、デビューしてから3年間は「RVC」というレコード会社(現在は「BMGジャパン」と改称)の専属歌手でしたが、結婚を機に退社、1984年からは「ムーン・レコード」から再デビュー、現在に至る、という経歴ですので、「業界の掟」に従えば「RVC」時代のものを含んだベストアルバムは出せないことになります。
そのような悪しき慣例を打ち破って、あくまでアーティスト個人としてのベストを実現させたのは、彼女の現在のプロデューサーの山下達郎でした。達郎自身も、同じような移籍を経験、過去の音源をリマスタリングするのには大変な苦労をした(「敵陣に乗り込む」と言っていましたね)そうです。
いずれにしても、そのような努力のおかげで、晴れてRVC時代のまりあを、きちんとしたマスタリングのCDで聴けるようになりました。それが、今回の「コンプリート・ベストアルバム」の最大の成果なのでしょう。
その違いを確かめるために、手元にあった1984年リリースのRVCのCDと比較してみました。その違いは歴然としています。なんとも平板だった音のイメージが、くっきり際だって、それぞれのパートの存在感をしっかり主張しているものに変わっているのが、はっきり分かりました。ただ、逆にそんな明晰さが仇になって、昔の録音の欠点までさらけ出しているようなものもありました。実は今回最も楽しみにしていたのが「September」でした。前のCDだと、EPOが参加しているコーラスが非常に固く聞こえてしまっているので、それがどのぐらい改善されているかな、と思ったのです。しかし、今回のものでは、その「固さ」がさらに強調されているではありませんか。当時のアナログ録音では、ダビングを重ねるとどうしても音は劣化してしまうものでしたが、それをマスタリングで救うことは出来なかったのですね。そういえば、「涙のワンサイデッド・ラヴ」のヴォーカルの冒頭「♪初めてあなたを見たのは」の「を」の部分でのドロップアウトも、1984年盤と同じでしたね。
しかし、そんな、よりリアリティを増した音だからこそ、まりやの30年の間の変化も、つぶさに感じることが出来ることになります。デビュー当初は、ほんとにヘタだったものが、いつの間にか見違えるほど洗練されてくる課程はまさにドラマティック。そして、おそらく1987年の「駅」あたりで、さらに劇的に新境地が開かれているのが分かります。2006年の「返信」で、それはまさに究極の高みに達したのではないでしょうか。30年という長いスパンがたった3枚のCDにまとまったからこそ、そんな感慨にも浸れるのでしょう。

9月29日

Salomix-Max
Salome Kammer(Voice)
Rudi Spring(Pf, Arr)
WERGO/WER 6709 2


サブタイトルが「Voice without limits」ですから、「限界のない声」でしょうか、確かにこのアルバムのリーダー、ザロメ・カンマーの「声」にはジャンルもカテゴリーも超えた多様なキャラクターが宿っていました。特に、現代作品での「声」の持つ可能性を極限まで追求したテクニックには驚きを隠せません。
このような「声」を売り物に現代音楽の分野で活躍した人には、キャシー・バーベリアンというまさに「ワン・アンド・オンリー」の才能の持ち主がいました。腕の力もありました(それは「バーベルマン」)。ザロメのアルバムは、この故バーベリアンに捧げられています。同じWERGOレーベルに、彼女が録音した「MagnifiCathy」というアルバムがありますが、それが、このザロメのアルバムのブックレットにも紹介されていることからも、両者の間の緊密な関係はうかがえます。
そのアルバム同士の曲を比べてみると、その中でこの二人は1曲だけ全く同じ曲を歌っていました。それは、クルト・ワイルのミュージカル「ハッピー・エンド」の中の「スラバヤ・ジョニー」というナンバーです。サビの部分がワイルの作品としては最も有名な「マック・ザ・ナイフ」と酷似したメロディを持っているこの曲を、バーベリアンはまるでロッテ・レーニャへのオマージュであるかのように細かいビブラートを付けて歌っていましたが、ザロメはもっと前を向いた歌い方を目指しているかのように見えます。バーベリアンにとってのワイルが「過去のもの」であったのに対し、ザロメのそれはあくまで「現在」としてのレパートリー、それは彼女が現にミュージカル女優であることと無関係ではないはずです(「マイ・フェア・レディ」のイライザ役を、もう150回以上も演じているのだとか)。バースの付いた「虹の彼方に」がとても魅力的なのは、当然のことです。
同じように、バーベリアンの「持ち歌」であったベリオの「セクエンツァ」も、ザロメが「演奏」すると、全く異なる趣が現れてきます。まさに1960年代の匂いのプンプンする、人間の声から全く意味を剥奪して「素材」に還元したという作品からは、しかし、人間が声を出すという行為にはどんな場合でも「意味」、あるいは「意志」がともなうのだ、という事実を再確認させられることでしょう。そんな意味で、これはとても「セクシー」な「セクエンツァ」です。
まるで現代の(そう、ベリオはもはや「現代」ではありません)「セクエンツァ」とも言うべき作品も、2人の作曲家のもので聴くことが出来ます。彼女が演奏すると「セクシー」どころか、まるで「セックス」そのもののようになってしまう、カローラ・バウクホルトの「エミール」というちょっとアブない曲はさておいて、ヘルムート・エーリンクの「2wei」という作品は、サンプリングの手法を取り入れて1人で2人の声を出すという今風の仕上がりを見せていて、楽しめます。
アルバン・ベルクの「4つの歌曲」では一転して、まるで「クラシック」のソプラノのような見事なベル・カントも披露してくれています。そんな直球勝負のひたむきさが、この曲には不思議にマッチ、確かな充実感が味わえます。もしかしたら、このあたりが彼女の素顔なのでしょうか。そういえば、ブックレットの中の写真ではなかなか可愛いルックスのようなのに、このジャケットはあまりにもかわいそう、演奏同様、彼女の素顔をぜひきちんと見てみたいものです。
ワイルなどのカバー曲では、バックにクラリネット、フルート、そしてアコーディオンなどが入って、かなりぶっ飛んだアレンジ(ピアニストで、作品も提供しているシュプリングの編曲)を楽しませてくれます。アルバムの冒頭では、コール・ポーターの曲でバス・クラリネットがいきなりキー・チョッパーで驚かせてくれましたが、リムスキー・コルサコフの「熊ん蜂」では、ソリストを差し置いて、アルト・フルートが大活躍でした。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17