宇野候補。.... 佐久間學

(06/9/18-06/10/8)

Blog Version


10月8日

MOZART
Mass in C minor
Natalie Dessay, Véronique Gens(Sop)
Topi Lehtipuu(Ten), Luca Pisaroni(Bas)
Louis Langrée/
Le Concert d'Astrée
VIRGIN/359309 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55860(国内盤 1025日発売予定)

ご存じのようにモーツァルトの「ハ短調ミサ」は、作曲者が途中で完成させることを放棄してしまったため、極めて中途半端な形でしか現在には伝えられていません。特に「Credo」以降はある程度のスケッチしか残っていないので、例によっていろいろな人の「補筆」に頼らないことにはきちんとした演奏は出来ないようになっています。そこで、今までにいろいろな人がその「補筆」作業を行ってきたわけですが、ここに来てまたまた新しい「版」が加わることになりました。2006年の1月末から2月始めという、まさに作曲者が生まれてからちょうど250年経ったというその時期にこの曲の録音を行ったルイ・ラングレが、そこで使うために準備したものが、ここで聴くことが出来る「ラングレ版」です。これからは台風のシーズンですから、役に立つでしょう(それは「アンブレラ」)。
ラングレは、時系列に従えば、アンドレ版からシュミット版(ブライトコプフ)、ランドン版(ペータース)、エーダー版(ベーレンライター)、モーンダー版(オクスフォードUP)、バイヤー版(アマデウス)、レヴィン版(カルス)という今まで出版されたものは全て満足のいくものではなかったと、ライナーノーツの中で語っています。そこで彼は、自ら自筆稿にあたって、校訂を行うことになるのです。そして、その結果出来上がったものは、今までのものからの「いいとこ取り」のようなものになりました。「Credo」ではモーンダー版のようにトランペット、トロンボーン、ティンパニを追加、にぎやかなサウンドを追求しています。かと思うと、次のソプラノソロのための「Et incarnatus est」では、エーダーやモーンダーが加えたホルンを削除、ランドンの形に戻しています。さらに、「Sanctus」ではシュミット版まで戻った、最初の小節から合唱が入るというものになっています。
オリジナル楽器を用いたル・コンセール・ダストレ(合唱団もこの呼称に含まれています)とラングレの演奏は、おそらく今出ているこの曲の演奏の中でも、最も挑戦的な肌触りを持つものに違いありません。メリハリのきいたオーケストラのアーティキュレーションは、最初の「Kyrie」からこの曲に異常とも言えるテンションを与えています。ハ短調の響きを立ち止まりながら噛みしめるという、今までありがちな表現とは全く異なる、ひたすら先へ進むことを強要されているような歩みが、そこにはありました。そして、そのテンションが全開となるのが、先ほどのような校訂を施した「Credo」です。ティンパニはここぞとばかりに炸裂、とんでもなく速いテンポと相まって、まさに「ハイ」で「サイケ」な世界が繰り広げられることになりました。
そんな「押せ押せ」の進行ですから、このアルバムの看板であるはずの2人の美女、ナタリー・デセイとドミニク・ジャンスの持ち味が少し損なわれているのでは、という感触が与えられるのはやむを得ないことなのでしょう。例えば、彼女たちの二重唱の「Domine」では、このテンポに煽られて、コロラトゥーラが無惨なことになっています。ちなみに、この2人、デセイが上のパート、ジャンスが下のパートなのでしょうが、ソロの曲ではライナーには何の表示もありませんからどちらの人が歌っているのか、分からなくなってしまうことはないのでしょうか。でも、輸入盤にはDVDが付いた「限定盤」もあるそうなので、それを見れば分かるのでしょうね。私は「Laudamus te」はジャンス、「Et incarnatus est」はデセイだと思うのですが、どうでしょう。
合唱は、フォルテで張り切っているときには力強いものが感じられ、メリスマにも破綻はないのですが、ピアノになるととたんに粗さが目立ってきます。生の声が表に出てきて、とても無神経に聞こえてしまうのです。もっとも、そんな細かいことなどあまり気にならない程、このテンションが産み出すドライブ感に魅力が感じられるのも事実です。指揮者の趣味がもしかしたらモーツァルトさえも押しのけてしまっているかも知れないこの演奏、しかし、その爽快感には捨てがたいものがあります。

10月6日

POULENC and His French Contemporaries
Edward Higginbottom/
The Choir of New College Oxford
AVIE/AV 2084


MacMILLAN and His British Contemporaries
Edward Higginbottom/
The Choir of New College Oxford
AVIE/AV 2085


ヒギンボトムとオクスフォード・ニュー・カレッジ聖歌隊という珠玉のメンバーが、「20世紀の名匠たち」という面白いシリーズを出してくれました。その第1巻が「プーランクとフランスの同時代の作曲家」、第2巻が「マクミランとイギリスの同時代の作曲家」、「青盤」、「赤盤」といった感じですね。第3巻以降があるのかどうかは分かりません。
「フランス編」は2005年の8月、なんとフランスの教会で録音されています。「イギリス編」の方は、その1年前、2004年の7月、イギリスでの録音ですが、場所はホームグラウンドのニュー・カレッジではなく、バークシャーの教会になっています。そんな感じで、各国を巡って現地録音をするというプロジェクトでもスタートしたのでしょうか。ドイツだとライプチヒのトマス教会とか。
ただ、この2枚の間には1年のインターバルしかないのに、メンバーがかなり代わっているのには、ちょっと驚かされます。少年達が入れ替わりが激しいのは分かりますが、大人のパートでも、大幅なメンバーチェンジがあるのですから。そうなってくると、当然合唱団としての音色や音楽性もかなり変わらざるを得ません。以前からこの団体に対してはかなり良い印象を持っていたのですが、今回の「フランス編」では、トレブルパートにかなりの不満が残ってしまいました。ただ、大人の男声パートにはとても素晴らしいものがあったのは嬉しいことでした。男声だけで歌われれるプーランクの「アシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り」はまさに絶品、柔らかさにかけては今まで聴いた中でもベストの感触でした。そんな男声に助けられて、メシアンやヴィレットのモテットでは良く溶け合った美しい響きを出していました。しかし、メインのプーランクの曲になると、トレブルパートが何か無理をしている感じがつきまとってしまうのです。例えば、「クリスマスのための4つのモテット」の最初の曲、「O Magnum mysterium」で、導入の柔らかい男声に続いて、あのフルートソナタの第2楽章にそっくりなテーマが、それまでの流れに逆らうようなとても雑な歌い方のトレブルで出てきたときには、本当にがっかりしてしまいました。他の曲でも、貧弱な少年パートのせいで、音楽全体がブツ切れで流れのないものになっていましたし。無伴奏のミサ曲など、トレブルの貧弱さだけが目立ってしまって、とても作品の美しさを味わう事は出来ませんでした。プーランクのソプラノパートというのは、こんなに難しいものかと、再認識させられたものです。指揮者のヒギンボトムも、本当は大人の女声を使いたいのかも知れませんね(美人求む)。
しかし、 もう一方の「イギリス編」では、うってかわって充実したトレブルを聴く事が出来ます。その分、男声にほんの少し精彩が欠ける部分がありますが、全体のバランスに影響を与える程のものではありません。こちらの作曲家はイギリスのまさに現役の人たちばかり、作品も実は「21世紀」に作られたものもあるのですが、まあ大目に見て下さい(というか、タイトルは「20世紀生まれの・・・」という事でしょうね)。とは言っても、この中で聴いた事があるのはジェームズ・マクミランの曲だけ、それ以外は名前すら聞いた事のない人ばかりです。その唯一の顔なじみ、マクミランの「On the Annunciation of the Blessed Virgin」は、世界初録音のレイトン盤よりもさらに立ち入った表現を聴く事が出来る名演です。その他には、最も若いライアン・ウィグルスワースという人の「Libera Nos」というミニマルっぽい曲が、とても素敵でした。この人と、マクミランや最初に歌われるジュリアン・アンダーソンという人の作風には刺激的なものを感じる事が出来ましたが、その他はおおむねオーソドックスな肌触り、とても練れた演奏と相まって、時折睡魔さえ催す程の心地よさが味わえたのは、良い事なのか悪い事なのか。

10月4日

Requiem para Cervantes
Àngel Recasens/
La Grande Chapelle Schola Antiqua
LAUDA MÚSICA/LAU 002


昨年2005年は、あの「ドン・キホーテ」が出版されてから400年経ったという記念すべき年だったのですね。そういえば、やはり昨年は童話作家アンデルセンも生誕200年という、当たり年でした。興味の対象が異なるので全く関心が向かなかったというのもあるのですが、今年の「モーツァルト」のような異常な盛り上がりは、「ドン・キホーテ」に関しては無かったような気がしますが、どうでしょう。まっ、ご近所に新しいお店が出来たという話ぐらいは聞きましたが(それは・・・確かに「ドン・キホーテ」)。
もちろん、ご当地スペインでは大々的に「400年祭」が催されていたようで、このCDにもそんなロゴが入っていました。このアルバムのコンセプトは、「ドン・キホーテ」を書き上げて11年後、1616年に亡くなったその作者、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラの葬儀の模様を、音で再現してみようというものでした。
中心になるのは、セルバンテスと同時代の作曲家、マテオ・ロメロが作った「死者のためのミサ」ですが、それの前後に「死者のための朝課」や「埋葬式」などのための音楽も演奏されています。言ってみれば、枕経から始まって、お通夜、お葬式、初七日、四十九日から百ヶ日法要、そして納骨という、一連の行事に関するセルバンテスの時代の音楽を味わえるという事になります。もちろん宗派は違いますがね。
セルバンテスが亡くなった17世紀の初頭といえば、音楽史で言えばルネッサンスの終わり、ほとんどバロックが始まりかけている頃になるのでしょうか。このような典礼では全てのテキストを多声部の音楽にするのではなく、一部ではグレゴリオ聖歌がそのまま演奏されています。ここでの演奏も、グレゴリオ担当とポリフォニー担当はそれぞれ別の団体になっています。最初の「死者のための朝課」で聞こえてくるのが、「スコラ・アンテクヮ」というグレゴリア・チーム、メンバーはほとんどスペイン人のようで、いかにも「グレゴリアン」という独特の泥臭くてユルい唱法が和みます。しかし、次のロメロの手になる詩編、「主よ、怒ってわたしを責めないでください」が、「ラ・グランド・シャペル」というポリフォニー・チームによって歌われると、その、あまりに澄みきった世界には一瞬の違和感を覚えてしまう程です。このコーラスとオーケストラが一緒になった団体の事はよく知らないのですが、メンバーの名前だけをみると、スペイン人以外の人がほとんどのようですし、コーラスあたりはイギリス人やオランダ人らしき人がいっぱい、このクリアな響きも納得です。
本体の「レクイエム」になると、サックバットなどの金管楽器が入って、かなりにぎやかなサウンドが味わえます。その中で突き抜けるようなピュアなソプラノが、心地よく聞こえます。もちろん、合間合間のグレゴリアンでは「ちょっと一休み」といった安息感も味わえます。ロメロの音楽、例えば「ディエス・イレ」などの一連の劇的な場面が続く「セクエンツィア」でも、ほとんど一本調子のシンプルな形で押し通すというのは、この時代の様式なのでしょう。後の作曲家が様々に工夫を凝らして絢爛豪華な世界を作り上げているのとは対照的な、ひたむきなものが感じられます。そして、その中にはおよそ抹香臭さのない、カラッとしたものが広がっているのを感じないわけにはいきません。
その印象は、その後に続く「埋葬式」の一番最後の曲、ロペス・デ・ベラスコという人の作った「恋人よ、あなたはなにもかも美しく」というモテットによって、さらに強まります。これは、ほとんどマドリガルのような世俗曲のテイストではありませんか。こんな浮き浮きとした音楽で埋葬されたなんて(本当かどうかは分かりませんが)ちょっと羨ましいセルバンテスです。

10月2日

McCARTNEY
Ecco Cor Meum
Kate Royal(Sop)
Gavin Greenaway/London Voices
Boys of Magdalen College Choir, Oxford
Boys of King's College Choir, Cambridge
Academy of St Martin in the Fields
EMI/370424 2
(輸入盤)東芝EMI/TOCP-70099(国内盤)

1991年の作品「リバプール・オラトリオ」でクラシック界でも「作曲家」として認知してもらう事を目指したポール・マッカートニー、その路線の4作目となる今回も、「Ecco Cor Meum」というラテン語(「私の心を聞け」、でしょうか)のタイトルを持つ、演奏に1時間を要する大作です。そもそもはオクスフォードのモードレン・カレッジから、新しく建設されるコンサートホールのためにと委嘱されたものだと言いますから、もはやポールはラッターやタヴナーと肩を並べる「クラシック」(その2人をクラシックとは見なさない人もいますが)界の大物作曲者として、完全に認められた事になったのでしょうか。
その委嘱元、モードレン・カレッジと聞いて、こちらを思い出す方はよっぽどのマニアに違いありません。そう、ここの聖歌隊はあのキングス・シンガーズの元メンバー、ビル・アイヴスが音楽監督を務めているのです。ポールは曲の構想を練るにあたって、ビルの指揮するこの聖歌隊の演奏で様々な時代の様々な曲を聴いたということです。ちなみに、彼とポールとは実は「We All Stand Together」という、ポールのイギリスでの35枚目にあたるシングルで共演をしていたのだとか。アニメの主題歌であるこの曲がリリースされたのは1984年、アーティストのクレジットは「Paul McCartney and the Frog Chorus」となっていますが、その「蛙のコーラス」を、キングス・シンガーズが歌っていたのですね。縁というのは不思議なもの、今やこの2人は、いずれもイギリスを代表する現代作曲家ですからね。昔のアイドルにはもうもーどれん
その、モードレン・カレッジの聖歌隊と、もう一つ名門のケンブリッジ・キングス・カレッジ聖歌隊、そして、大人の混声合唱とソプラノソロにオーケストラという編成を持つこの曲は、全部で5つの部分から成っています。第1曲は「Spiritus」。低音の不気味なテーマが弦楽器で奏された後、少年アルトと少年ソプラノがそのテーマでプレーン・チャント風に応答を繰り返します。このあたりはとても神秘的で深遠な雰囲気を醸し出しています。この感じががそのまま最後まで続けばいいのにな、と思っていても、しかし、この作曲家の旺盛なサービス精神は、それを許しません。程なく何の関係もないテーマが出てきて、思い切り華麗に盛り上がる頃には、一体さっきの深さは何だったのか、と思えてくるようになってしまいます。これが、この曲の全体を支配しているある種の「弱さ」、それぞれはとても魅力的な部分ではあるものが、それらが何の脈絡もなくつながっているものですから、全体としてはとても散漫な印象になってしまっているのです。
しかし、そんな中にあって2曲目の「Gratia」だけは、とてもまとまりのある美しさを見せてくれています。これは、基本的に8ビートのバラード、ポールが何の邪心も持たないで彼の本来のグラウンドでの手法を存分に使う事によって、最も自然な形の素直な音楽が出来上がりました。
その次に、「間奏曲」という感じでオーボエソロがメインの短い曲が入ります。「Lament」と題されているように、コーラスのヴォカリーズに乗って、心に染みるオーボエのメロディが流れていきます。もちろんこれはこの曲を作っている途中でガンのためになくなった前妻リンダへの思いが込められたものなのでしょう。
残りの3、4曲目、「Musica」と「Ecco Cor Meum」でも、やはり構成の弱さは隠せません。3曲目などは「対位法」に挑戦したのでしょうか、聴いていて虚しくなるようなその陳腐な音型からは、その技法が本来見せるはずの立体的な音楽など、望むべくもありません。4曲目でも、せっかくの魅力的なテーマが、無理に盛り上げようというつまらない配慮で台無しになっています。後半に出てくるオルガンの凡庸さといったら。
いかにメロディが魅力的でも、1時間という長丁場を持たせるだけの構成力が伴わない限り、真にクラシック・ファンを納得させられるだけの作品を作る事は、彼には難しいはずです。しかし、今さらそんな悪あがきをする必要などさらさら無いように、普通は思うのですが。

9月29日

STRAUSS
Lieder
Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901879


ヨナス・カウフマンというテノールを初めて見たのは、BSで放送された「ティートの慈悲」ででした。チューリヒのオペラハウスのライブ映像、ちょっと変わった演出で、ネクタイを締めたり、軍服を着たりと、「現代」風にアレンジされているものでしたが、そこでタイトル・ロールを歌っていたのが、カウフマンだったのです。そういう演出ですから、カツラや大げさなメークもない「素」の顔で登場したカウフマンは、オペラのテノールにはあるまじきスリムな体型と端正な顔つきを披露してくれていました。それはまるで、ハリウッド・スターのヒュー・ジャックマン(例えば、メグ・ライアンと共演した「ニューヨークの恋人」とか、最近では「X-MEN」シリーズでお馴染み)のような、甘さと凛々しさを併せ持つ、とても魅力的なマスクでした。しかし、そんな外観をしのぐほど、本当に魅力的だったのは、その声です。基本的にはリリック・テノールなのでしょうが、そんな声の人にありがちな弱々しさが全く感じられない、突き抜けるような力強さまでが備わったものだったのです。おそらく、普通に考えればモーツァルトの、このティートとか、タミーノやドン・オッターヴィオにはちょっと「強すぎる」キャラクターなのかも知れませんが、それだからこそなにか特別な魅力を感じてしまいました。
というのも、このような役に対する一つの理想のテノールの姿は、ほとんどいにしえのペーター・シュライヤーで固定されてしまっていました。それに比べると、シャーデやボストリッジといった最近の人には、一つ芯の通った力強さが欠けているように思えてなりませんでした。もはやモーツァルト・テノールに対する世の嗜好はそういう甘ったるいものに変わってしまったのだな、と思い始めていた矢先の、このカウフマンとの出会いです。しかも、そこには、シュライアーさえも持ち得なかった決然とした力までもが備わっているではありませんか。なんでも、彼は「パルジファル」までレパートリーに入っているとか。ヘルデンっぽいリリック、もしかしたらこれは、モーツァルトには理想的とも言えるテノールの形(あくまで個人的な好みですが)なのかも知れないと思わせられるだけのものが、彼が歌うティートの中にはあったのです。
そんなジャックマン(あ、彼はミュージカル・アクターでもあったのですね)、ではなくてカウフマンの初のソロアルバムは、なんとリヒャルト・シュトラウスの歌曲集でした。モーツァルトもワーグナーも歌える歌手によるシュトラウス、確かに、これは鋭いところを突いてきています。そして、思った通り、それは見事な成果を上げたものでした。シュトラウスの歌曲といえば、まず女声で歌われるものと相場が決まっていますが、どうしてどうして、彼によって女声にはない新鮮な表現が味わえるのは、とても幸福な体験でした。最初に聞こえてきた「献呈」から、その迷いのないストレートな声には圧倒されてしまいます。それだけではなく、ちょっと力を抜いて柔らかく歌うところの、なんと魅力的なことでしょう。決して大げさな身振りではない等身大の心情の吐露が、そこには見られます。いわば、邪心のない若者の自信と、それとは裏腹な揺れ動く迷いの心のようなものが、彼の歌の中には感じられるのではないでしょうか。ピアノ伴奏のドイッチュも、そんなナイーブな心に突き刺さるような踏み込んだタッチで、音楽を深みのあるものにしてくれています。最後の「悪い天気」なども、ちょっとひねくれたワルツに乗って歌われるシュールな歌詞を、さりげなく表現していて素敵です。
ただ、ほんのちょっとした細かい不満が、録音に対してないわけではありません。カウフマンの声も、そしてピアノも、なにか作り物のような乾いた感じがあって、お互いに「音」として溶け合っていないのです。さらに、フォルテになると声が恐ろしくきついものになってしまいます。これは、録音が行われたベルリンのテルデック・スタジオのせいではないはず、明らかにエンジニアのセンスの問題でしょう。もっとたっぷりとした音場で録音された、モーツァルトのアリア集などを、ぜひ聴いてみたいものです。

9月27日

PAGANINI/Violin Concerto No.1
SPOHR/Violin Concerto No.8
Hilary Hahn(Vn)
大植英次/
Swedish Radio Orchestra
DG/00289 477 6232
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1333(国内盤 1025日発売予定)

ジャケットのハーン、いつもながらおっかない顔をして写っていますが、でも、何だかずいぶん「丸み」のようなものが出てきたような感じがしませんか? このアルバムでは、これだけではなく、彼女の写真があちこちに載っていますが例えばブックレットの裏表紙のものは髪を下ろして、ちょっとサンドラ・ブロックのように見えないこともありません(これって、褒めてることにならない?)。そして、インレイには横顔のアングルでちょっと寂しげな表情のものがあるのですが、それが「音楽を忘れるなーっ!」の「あおいちゃん」そっくり。「純情ひらり」ですね。
そんな、ちょっとソフトなイメージが感じられるようになった彼女が、パガニーニです。ちょっと前までは、こんな、ロマンティシズム満載の、言ってみれば「陳腐」な曲を彼女が手がけること自体、あり得ないと思えたものですが、いえいえ、ここではその外見同様、なにか包容力さえ感じられる素晴らしい演奏を聴かせてくれていますよ。
なにしろ、超絶技巧満載の曲ですから、思い切り速いテンポでバリバリ弾きまくるのだろうという予想を見事に裏切って、彼女は実にしっとりとしたテンポで弾き始めましたよ。これだと、パガニーニが書いたどんな難しいパッセージでも、その中にはことごとく美しい「歌」が潜んでいることが判ります。その様な、ある意味クレバーさをこの曲に与えたのは、指揮者の大植英次の手腕も大きく貢献しているはずです。ハーンの意図を完璧に汲みとったそのサポートぶりには敬服させられます。実はこの1番の協奏曲、最初から最後まで(ゆっくりした第2楽章ですら)シンバルと大太鼓という、一歩間違えると何ともノーテンキなたたずまいを醸し出しかねない打楽器が、盛大に盛り上げています。それで、もちろん、まるで運動会の行進曲のような楽しい演奏になっているものも数多く聴いてきたものなのですが、彼女たちの演奏にはそんな浮ついた雰囲気は全く感じられませんでした。お祭り騒ぎではない、単にビートをキープするというクールさが、その打楽器の扱いにはあったのです。
第2楽章あたりでは、ハーンは意識的に過剰な歌い方を避けているかのように見えます。ことさらベタベタ手を加えなくても、音楽自体の持つ甘さをそのまま味わってもらおうという姿勢でしょうか。そして、それを演出したのも大植です。この楽章の導入での臭すぎるほどの表情付けが、それに続くハーンの冷静なソロを見事に際立たせています。
第3楽章の軽やかなロンドのテーマ、それを彼女は、タイトなリズム帯に乗って小粋に歌い上げてくれます。それと共に、時たま顔を出すフラジオレットによるフレーズのなんとチャーミングなことでしょう。
カップリングのシュポアの協奏曲第8番は、「協奏曲」というほどの重さはない連続した3つの部分から成る曲です。ブリリアントな趣味の「コンチェルティーノ」といった感じでしょうか。第1楽章はほとんど「序奏」という程度のものですが、ここでもパガニーニ同様いかにも大時代的な大げさな身振りは見られない、ソロがオーケストラの間を軽やかに泳ぎ回るといったさりげなさが素敵です。そして、味わい深いのが、第2楽章。大植の絶妙のドライブで、つかず離れずの距離を保ったオーケストラの上を、ハーンのヴァイオリンはあくまで淡々と流れていきます。素晴らしいのは、まるでささやくようなピアニシモ。あたかも耳たぶにそっと息を吹きかけられたような、そのセクシーさはたまりません。この楽章の中間部で、突然いかにもロマン派っぽい一陣の風が吹きすさぶような場面が現れます。ここでの、うってかわって毅然としたハーンの姿も、また魅力的なのは、言うまでもありません。

9月24日

WAGNER
Der Ring
Hansjörg Albrecht(Org)
OEHMS/OC 612(hybrid SACD)


北ドイツ、シュレスヴィヒ・ホルスタイン州の州都キールにある聖ニコライ教会の大聖堂には、3段鍵盤、リュック・ポジティーフも備えた大オルガンと、その反対側に、小振りながら19世紀フランスの名工カヴァイエ・コルが制作したクワイア・オルガンが設置されています。フランスの楽器がなぜドイツに?とお思いでしょうが、このオルガンは元々はパリで作られ、後にフランス北部の町トゥルコアンの教会に移設されたものなのです。しかし、1995年にはもう使われなくなって倉庫に仕舞い込まれることになってしまいます。それが、2003年から2004年にかけて修復され、このキールの教会に設置されたのです。その際に、もとからあった大オルガンと同時に操作できるように、電動アクションによる演奏台も付け加えられました。もちろん、この歴史的な名器の手動アクションを生かすために、それは簡単に取り外しがきくようになっています。
その、ドイツオルガンとフランスオルガンという2台の楽器を同時に演奏して、ワーグナーの「リング」の世界を再現しようと考えたのが、オルガニストのハンスイェルク・アルブレヒトと、レコーディング・エンジニアのマーティン・フィッシャーという人でした。もちろん、実際に演奏するのはアルブレヒトだけ、フィッシャーの方は録音でその手腕を発揮する、といった、演奏に関しては「あぶれる人」(前にも使ったな)に徹したコラボレーションが展開されています。ただ、その「録音」がただ者ではなく、ポップミュージックの世界で日常的に使われている「多重録音」、つまり「オーバーダビング」の手法を積極的に使って、厚みのあるサウンドを作り上げることを試みているのです。さらに、フィッシャーが重視したのが、「サラウンド」による音場設計です。SACDのマルチチャンネルレイヤーのフォーマットをフルに活用した音作りが、ここではなされることになります。「5.1サラウンド」対応のシステムで聴けば、大オルガンとクワイア・オルガンとのちょうど真ん中に座っているような体験が味わえることでしょう。
このアルバムは、「ラインの黄金」の前奏曲、つまり「リング」全体のオープニングから始まります。その最初の低音のまさに「オルゲル・プンクト」が、ペダルによって奏されるのですから、これほどオルガンにふさわしい場面もありません。そこに、ホルンが入ってくる感じは、なかなかのもの、これこそオーバーダビングの勝利でしょう。つまり、普通にリアルタイムで録音した場合の障害となるストップの切り替えなどが、ここでは全く感じられないほどスムーズに聞こえてくるのです。「ヴァルキューレの騎行」では、そのメリットが最大限に発揮されています。トリルのテーマがまるで周囲を取り囲むように現れるのは、まさにサラウンドの醍醐味でしょうし、必要な声部を残らず演奏するのも、オーバーダビングなくしては出来なかったことに違いありません。しかし、ここで、そんな迫力いっぱいの音たちの中から、ひときわ力強く聞こえてきてほしい金管のフレーズに、全く精彩がないのはどうしたことでしょう。これは、おそらくパイプオルガンの宿命とも言うべきアタックの不明瞭さに起因しているのではないでしょうか。音の立ち上がりが鈍いことが、これほどのデメリットになっていたとは。
ですから、その様な迫力いっぱいのシーンよりは、「ジークフリート」の「森のささやき」のような繊細な部分の方が、より実りのある成果を上げていたのは、ちょっと皮肉なことです。このシーンでの幾重にも積み上げられた木の葉の描写のデリケートさには、特筆すべきものがあります。そして、森の小鳥の声が、おそらくカヴァイエ・コルの小さなオルガンによって演奏されているのでしょう、その繊細な音色は、このアルバムの中で最も美しいものでした。
最後は、「リング」の本当の最後、「神々の黄昏」のエンディング、「ブリュンヒルデの別れ」です。ここでも、最後の変ホ長調の和音がディミヌエンドしていく模様は、絶対に普通のオルガンの録音では出来ないこと、エンジニア、フィッシャーのこだわりは、ここで花開きました。同時に、「リング」を「最初から最後まで」1枚のアルバムに収録することにも、成功したのです。

9月22日

My Magic Flute
James Galway(Fl, Cond)
Catrin Finch(Hp)
Jeanne Galway(Fl)
Sinfonia Varsovia
DG/00289 477 6233
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1340(国内盤)

今年、67歳を迎えるゴールウェイ、DGに移籍後の3枚目、というか、実質的には2枚目となるアルバムは、期待通りモーツァルトにちなんだものとなりました。メインは、公式には6度目の録音となる「フルートとハープのための協奏曲」、その他にはなにやら編曲ものが並んでいます。まあ、「お祭り」ですから、こんなラインナップもあり、きっと楽しいものに仕上がっている事でしょう。
ぐらいのノリで聴きはじめた人は、後半に入っている「The Magic Flutes」という曲で、全く予想もしないサプライズに出会う事になってしまうのです。このタイトル、もちろん彼が最後に完成したオペラ「魔笛」のことですが、楽器が複数形になっている事で、そこではゴールウェイと奥さんのジーニーとの共演が行われているのが分かります。デイヴィッド・オーヴァートンという人がこの2人とオーケストラのために編曲したもの、しかし、それはそのオペラの単なるトランスクリプションなどでは決してありませんでした。ここで繰り広げられているのは、モーツァルトの作品から自由にそのテーマを持ってきてつなげたという、いわゆる「ポプリ」と呼ばれるものだったのです。いや、正確には、そのようなジャンルともさらに距離をおかなければならないような、ほとんど「ごちゃ混ぜ」に近い編曲だったのです。
全部で3つの「楽章」に分かれているこの曲、最初にはその「魔笛」序曲の3つのアコードから始まります。そして、そのあとに続くのがまあ想定内の選曲、そのオペラでのタミーノの「絵姿」アリアです。しかし、その朗々たるメロディが途中からこのアルバムにも収録されているピアノ協奏曲第21番の第2楽章のテーマに変わるあたりから、その編曲の正体が明らかになってきます。それは、最も分かり易い実例では、あのP・D・Qバッハと非常に近いテイストを持つ、どこか一箇所留め金が外れたような、ぶっ飛んだったものだったのです。もちろん、そういうものが大好きな私は狂喜に打ち震える事になるのでした。この曲は、まるで今のモーツァルトブームをあざ笑うかのように、「こんな曲、知ってるか?」といった感じでとことんマニアックなテーマを次から次へと出してくるのです。もし全部言い当てられたら賞金1000万円、みたいな、言ってみればこれは超難易度の「クイズ」ですよ。交響曲40番がいつのまにか41番になっていたかと思うと、次の瞬間には39番、などという仕掛けだってありますよ。
「第2楽章」は3拍子、お馴染み、ト長調のフルート協奏曲のフィナーレで始まるのですが、そこにニ長調の協奏曲のアウフタクトだけ1拍入るという、うっかりしてたら聞き逃してしまうようなものもあります。それから、これはP・D・Qバッハの常套手段、絶対いっしょには演奏できっこない曲を無理やり同時に聞かせるというテクニックも満載です。そのフルート協奏曲と「アイネクライネ」とかね。
最後の楽章は、クラリネット協奏曲がフィーチャーされています。これは、もしかしたらオリジナル以上に煌びやかなものを、彼の演奏から味わうことが出来るはずです。そして、最後までついて回るのが、タイトルにこだわった「魔笛」からの引用、それが、例えば「フィガロ」のナンバーあたりと渾然一体となっている様は、壮観です。一見ハチャメチャなこの編曲、というか再構築、もしモーツァルト自身が手がけたら、きっとこんなものになっていたのではなどという楽しい想像を膨らますには十分なものがあります。
これ1曲で、このアルバムは存分に楽しむ事が出来ました。メインの協奏曲を聴いて、オーケストラやハープとの様式上の齟齬に戸惑ったり、もしかしたらゴールウェイさえも寄る年波には勝てなくなる事もあるのかな、などという思いがよぎった事も、すっかり忘れさせてくれるものが、そごにはありました。

9月20日

DURUFLÉ
Requiem
David Briggs(Org)
Adrian Lucas/
The Combined Choirs of Gloucester,
 Hereford and Worcester
GRIFFIN/GCCD 4023


デュリュフレのレクイエムには目がないものですから、入手できる限りのCDを聴いて、こちらにそれぞれ短いコメントを自分の言葉で掲載しています。特に今でも簡単に手に入るBISのグレイドン盤については、「素直な発声、均質な音色、正確な ハーモニー、正しい音程、合唱の 質感をとらえた録音。どれをとっても 素晴らしく、安心して身をまかせられる」と、普段の辛口ぶりからはとても想像できないような持ち上げ方を披露していますよ。それだけ素晴らしい演奏だったということ、本当に心を打たれるものに対しては、賛辞は惜しみません。
もちろん、これだけのリストを作ってしまったのですから、この曲のリリース情報には気を使っているつもりです。ただ、新譜に関してはほぼもれなくご紹介できるように務めてはいるのですが、マイナーなレーベルではついこぼれてしまうこともあります。これもそんな一例。別の曲を探していて偶然カタログから発見したものです。ただ、1999年6月の録音ですから、いざ取り寄せようとしてもすでに手近なところでは在庫はなくなっています。ダメモトでお店に注文を出して、しかし、数ヶ月後には入手できたのですから、なんとラッキー。
これは、イギリスのグロスター、ウースター、そしてヘリフォードという3つの大聖堂の聖歌隊が一緒になって演奏したものです。この3つの町、すぐ近くなのに空路で集まったのでしょうか(それは「ヘリポート」)。総勢60人近く、かなりの大人数です。そして、単なる「合同演奏」という次元を超えた、集まることによってさらに高いものを求める姿勢によって、素晴らしいものが出来上がっています。
この曲を少年がトレブルを歌っている聖歌隊で演奏しているものは数多く世に出ていますが、なかなか満足のいくものには出会えません。この曲のソプラノパートに要求されるものは、単に澄みきった音ではなくもう少し細かい表現力が伴ったもの、そのあたりで、やはり少年だけというのでは物足りない部分が出てきてしまうのでしょう。結局、先ほどのグレイドン盤のような成人女声によるものに頼らざるを得ないと。しかし、ここで3つの聖歌隊が合体した結果、このトレブルパートは、驚くほどの「力」を持つようになりました。そして、それはまさにこの曲にこそふさわしい力強さだったのです。例えば「Sanctus」でのクライマックス、「In excelsis」という部分での輝きはどうでしょう。これこそが、この曲が求めていたダイナミックレンジの理想的な再現なのでは、と思えるほどのエネルギーが、そこにはありました。
もう1点、驚かされたのが「Pie Jesu」です。もちろん、これは本来はメゾソプラノの独唱のための曲なのですが、これをトレブルパートがユニゾンで歌っているのです。ロバート・ショーのように、ソプラノパート全員で歌わせた例も今までになくはないのですが、それはパートソロにする必然性が全く感じられない、なにか中途半端な印象が拭えないものでした。しかし、これは違います。前半のしっとりした味は、トレブルならではの澄みきったもの、そして後半、音が高くなって盛り上がる部分では、少年合唱にはあるまじき、真に訴えかける濃厚な表現が出来ているのです。実際、これは凡庸なメゾ歌手など及びもつかない、殆ど涙を誘うほどの素晴らしいものでした。
In Paradisum」あたりは、そんな力強さが災いしたのか、やや繊細さに欠けてしまっているのが残念ですが、それでも十分な水準を保ったものであることは、間違いはありません。単にリストを充実させるだけのために入手したものが、これほどの素晴らしさを持っていたなんて、世の中、侮れません。
ちなみに、この曲が初演されたのは1947年のことですが、その時に指揮をしたのが、ロジェ・デゾルミエールだと、このCDのライナーノーツには書いてあります。以前「ウィキペディア」で調べたときに、このときの指揮者が「ポール・パレー」だとあったので、それを信じていたのですが、どうやらそれは間違いだったようですね。こういうものを鵜呑みにしてはいけません。念のため、他のライナーを全てチェックしてみましたが、「デゾルミエール」はあったものの、「パレー」は全く見つかりませんでした。こちらでは「パレー説」をとっているようですが。

9月18日

幻のコンサート
有山麻衣子(Sop)
佐藤和子(Pf)
宇野功芳(Cond)
ORTHO SPECTRUM/KDC 6001


なんでこんなところに「スピード」のHIROが、と思われたことでしょう。グループ解散後もソロとして活躍している彼女が、ついにクラシックに転向してリサイタルを開いたものが、「幻」のCDとして発売になったのかと。もちろん、それはウソですが、しかし、よく似てますね。
ここで歌っているのは、有山麻衣子という方、もちろんそんな名前を知らなくても、クラシックファンとして恥じることは全くありません。この方は、大学の合唱団で歌っているところを、あの宇野功芳氏に見出され、彼の教えを受けた結果このようなCDを出せるまでになったという、まるで「オペラ座の怪人」のクリスティーヌのようなラッキー・ガールです(あ、ファントムは宇野先生ね)。でも、彼女は音楽を職業にする気は全くないのだとか、普段は一OLとして働いているのだそうです。
宇野氏が惚れ込んだというのは、その無垢な声です。彼が言うには、クラシックファンの中にも、声楽に対するアレルギーを持っている人は多いのだと。いわゆる「クラシック歌手」にありがちな「吠えるような発声法」と「声がゆれるビブラート」には、馴染めない人もいるのだそうです。そこへ行くと、有山さんは合唱団員としては理想的なノン・ビブラートで伸びやかな声を持っていました。それを彼は大切に育て上げ、決してプロの声楽家にはない魅力を持つソリストとして、こういう形で世に送り出したのです。彼をして「天使の歌声」と呼ばしめた理想的な歌手、しかし、彼はファントムのように、それを遠くから見守るような奥ゆかしいことはしませんでした。実は、ブックレットの裏表紙には、本番で彼女の歌を宇野氏が「指揮」をしている姿が掲載されているのです。自らの手で、最後の表現を彼女に施したい、そんな強い思いのあらわれなのでしょうか。こんなうざったいお節介を、良く彼女が許したものだと思ってしまいますが、そこは信頼で深く結びついた師弟関係、これしきのことで、はたのものが口出しをする必要はないのかも知れません。
実は、これは純粋の「リサイタル」ではなく、録音のために、ごく少数のお客さんを入れて演奏、その模様を修正することなく記録するというものなのだそうです(それを「幻のコンサート」と言っているのだそうです)。曲目は、いわゆる「童謡」や、小学唱歌のような、ごくシンプルなものが並んでいます。おそらく誰でも一度は耳にしたことであろうそれらの曲は、懐かしさの彼方にかすかに残っている耳慣れた歌い方とは、かなり異なった表現で聞こえてくることに、気づくことでしょう。いや、「表現」というのは不適切な言い方だったかも知れません。そこから聞こえてきたものは、まさに彼女の「美しい声」が全てだったのです。ほとんど無表情なその歌い方には、言葉さえも意味を持つことはなく、「表現」とは全く異なる不思議なベクトルが感じられたものです。そこにあるのは、煌めくように漂っている「音」だけ、それが、10何曲か続くことによって、頭の中は空っぽになって、とても癒されたような気分になってくることを誰しもが感じることでしょう。そう、これはまさに、今のクラシック界の寵児、「ヒーリング」の最たるものではありませんか。これの虜になると、なんの主張もない音楽に身をゆだねてしまうという、影響力の大きいものです。アルバムの最後の方に、「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」のアリアが歌われているのですが、ですから、これは全く「オペラ・アリア」ではあり得ない、なんの力も持つことのない軽やかな音の浮遊として聞こえてきます。
そんな中で、唯一フォーレの「ピエ・イェーズ」だけは、この曲が求めている世界を完璧に再現した深い感動を持って味わうことが出来ました。これこそは過剰な「表現」からは最も遠いところにある曲、もしかしたら彼女たちは意図しなかったところで、見事に理想的な演奏が誕生していたのです。
録音は、彼女の透き通る声を完璧に収録した、素晴らしいものです。そのために彼女の低音の未熟さが強調されているのは、仕方のないことかも知れません。

おとといのおやぢに会える、か。


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