尾を消す虎。.... 佐久間學

(08/11/8-08/11/26)

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11月26日

エスクァイア日本版 1月号
エスクァイア マガジン ジャパン刊
雑誌コード
11915-01

前回この雑誌が初めて「クラシック」を特集した時には、大きな話題を呼んだものです。それほどまでに、このファッショナブルな雑誌とクラシック音楽との融合は、奇異に映ったのでしょう。カタツムリを食べるほどの奇異さはないでしょうが(それは「エスカルゴ」)。しかし、それに味を占めたのか、この雑誌はそれからも定期的にクラシック関係の特集を組むようになってきたようです。2008年の3月号で行った「ピアノ特集」に続いて、今回は「指揮者のチカラ」というタイトルでの指揮者、及びオーケストラの特集です。
いつもながらの、カルティエやらアルマーニといった超高級ブランドのゴージャスな広告の中に、「カラヤン」などという別の意味でのブランドがいきなり現れるのには、ちょっとした興奮を誘われるものでした。しかし、ここではそんな古くさいブランドは、高級腕時計と「クラシック」との間の単なる導入にすぎません。それに続くのは、まさに「今」のブランドの新鮮な情報です。ヨーロッパやアメリカの都市にライターとフォトグラファーを派遣して今もっとも注目されているオーケストラと指揮者のシーンを伝えてくれているのは、かなりエキサイティングなことです。そこでインタビューに答えている新鮮な指揮者たちは、それぞれに等身大のコメントを寄せてくれています。そこからは、もはやカリスマによって支配されていた時代は完璧に終わってしまっていることが痛感されます。
そんな中にさりげなく埋め込まれた「最新」情報も、要チェック。ベルリン・フィルのオーボエ奏者、アンドレアス・ヴィットマン(茂木大輔のエッセイの中で、一緒にオーディションを受けた時の模様が語られています)は、いつの間にか楽団代表になっていたそうですし、かつての東ベルリンのコンサートホール「シャウシュピールハウス」も、いつの間にか「コンツェルトハウス」と名前を変えていたそうなのです。世の中はどんどん変わっていくものなのですね。もちろん、次のニューヨーク・フィルの音楽監督には、アラン・ギルバートが就任するなどという情報は、決して見逃すわけにはいきません。しかし、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団の音楽監督、トゥガン・ソキエフなんて人、知ってました?
後半は、なぜかローカルな話題となって「街のオーケストラに行こう!」というタイトルで、地方のオーケストラの活動が取り上げられています。その見開きのタイトルページでの「第9」を演奏している写真を見て、思わず目を疑ってしまいました。そう、これは先日行われた仙台版「ラ・フォル・ジュルネ」と言われている「仙台クラシックフェスティバル」、いわゆる「せんくら」での写真ではありませんか。オーケストラは仙台フィル、後ろに立っている合唱団は市民の有志ですが、見覚えのある顔がたくさんあります。こんな晴れがましい場所に仲間たちが顔を出しているなどということがあってもいいのでしょうか。それはともかく、そのページを含め、多くの紙面を割いて「仙台」そして「せんくら」のことが詳細に紹介されているのは、なんとも面はゆいものです。実はこの都市は、「楽都」などと呼ばれて持ち上げられるような資格などなにも持ちあわせていない、文化的には非常に貧しいところなのだということは、そこに住むものだったら誰でも知っているのですからね。なにしろ、まともな音楽ホールとしての公共施設が一つもなかったために、業を煮やした地元の大学が卒業生に寄付を募って、古い講堂を音楽専用ホールに造り替えたというぐらいなのです。そんな実態を伝えることは、この山野さんというライターの能力を遙かに超えているものなのでしょう。そもそも「ライター」とは、「ジャーナリスト」とは似て非なるものなのですから。

11月24日

Percussion Masterpieces
Renato Rivolta/
I Percussionisti della Scala
STRADIVARIUS/STR 33816


ミラノのオペラハウス、スカラ座のオーケストラは、ピットに入ってオペラの伴奏をするほかに、「スカラ座フィル」という名前でコンサート活動も行っています。そんな団体の打楽器セクションのメンバーが集まって作られたのが、この「スカラ座の太鼓叩きたち」というアンサンブルです。
クラシックの打楽器アンサンブルというと、なにか暗〜いイメージがつきまといませんか?真っ黒なシャツに身を包み、求道者のような姿でうつむき加減にひたすら叩き続ける、といったような。「ストラルブール・ペルクシオーン・アンサンブル」が演奏するクセナキスとか、「ネクサス」というどこかのレーベルみたいな名前(それは「ナクソス」)のグループによるライヒなどは、まさにそんなイメージそのもののような気がしてなりません。
彼らの本拠地スカラ座で行われたコンサートのライブ録音は、そのライヒによる「ドラミング」で始まりました。この、ライヒ初期の大作は全部で4つのパートから出来ていて、続けて演奏するとそれだけで一晩のコンサートが終わってしまうほどの長さを持っていますが、ここではその「パート1」だけが演奏されています。他のパートにはマリンバやピッコロ(打楽器じゃないじゃん!)も加わってある種カラフルな趣もあるのですが、「パート1」で使われるのは「音程のある小さなドラム」だけ、まさにそのタイトル通りのモノクロームの世界が広がるはずです。確かに、ライヒ自身やさっきの「ネクサス」のメンバーによる1974年の初録音(DG)は、この作品のコンセプトであるリズムの位相のズレを精密に追求した、言ってみれば「機械的」で「クール」な肌触りに支配されていたはずです。
しかし、このイタリア人のアンサンブルは、とても同じ曲とは思えないほどの印象を与えてくれます。第一に設定されたテンポの違い、聴いただけではDG盤の倍近くに聞こえるほどの軽やかなテンポで、まずそのアプローチが決して深刻なものではないことを明らかにしてくれます。さらに、ライヒの楽器指定がどのようになっているのかは分かりませんが、時折「楽器」ではなく、「ヴォイス・パーカッション」のようなものが聞こえてくるのも、興味をそそられます。「ドラム」の音さえあれば、なんで出そうが構わないだろうという明るい発想なのでしょう、そこからはいとも新鮮な息吹き(確かに)を聴き取ることが出来ます。
実際のコンサートがどうだったのかは分かりませんが、CDではこの曲が最も新しいもので、演奏が進むにつれて次第にその曲が作られた年代がさかのぼる、という構成になっています。次のチャベスの曲は初めて聴きましたが、鍵盤打楽器によって演奏される12音っぽいフレーズが、妙に郷愁を誘います。続いてのシュトックハウゼンの「ツィクルス」と、ケージの「コンストラクション」という、いわば「古典」でも、どこか弾けた感覚が心地よいものでした。
そして、最後に控えているのが、まさに打楽器アンサンブルの魁とも言うべき、ヴァレーズの「イオニザシオン」です。この曲も、確かにサイレンを使ったりしたユニークさはあるものの、ただやかましいだけのもの、といった印象があったものが、この演奏でまるで異なる風景を見せつけられてしまいました。打楽器だらけの響きの中から、確かに「フレーズ」が、いや、ひょっとしたら「メロディ」が聞こえてきたのですよ。それは、多くの打楽器のつながりの中からごく自然に立ち上がってきたもの、ただのスネアドラムのロールの中にすら、「歌」があるという恐るべきものでした。これはもしかしたら、作られてから70年以上も経って初めてこの作品の真の姿が見えた瞬間だったのかもしれませんよ。おそらく満席だったスカラ座の聴衆の暖かい拍手が、それを物語っているのかも。

11月22日

ALFEYEV
St Matthew Passion
Evangelist
Soloists
Choir of the State Tretyakov Gallery
Vladimir Fedosseyev/
Tchaikovsky Symphony Orchestra of Moscow Radio
RELIEF/CR991094


2007年3月27日に世界初演されたという、おそらく現時点で最も新しい、生まれたばかりの「マタイ受難曲」です(若い受難曲)。作曲者はロシアのヒラリオン・アルフェイエフという方、なんでも、この方は音楽の勉強をしたあとでロシア正教の大僧正(と言うのでしょうか。英語では「bishop」)になったという、ユニークな人なのだそうです。もちろん、彼の作品がCDになったのも、これが初めてなのでしょう。モスクワ音楽院の大ホールで行われたその世界初演のライブ録音が、このCDです。
CD2枚組、演奏にはまるまる2時間を要するという、まさに大作です。ただ、5人のソリストと混声合唱にオーケストラがつくというクレジットになっていますが、そのオーケストラは弦楽器だけ、他の楽器は入ってはいません。「マタイ福音書」に基づいた、全体が4つの部分に分かれている構成をとっています。
なんと言っても、最新の「現代」曲なわけですから、その作風などは全く予想がつきません。なにしろ、少し前のバッハ・イヤーの時に作られたタン・ドゥンゴリホフグバイドゥーリナの「受難曲」などは、かなりとんがった、ちょっと取っつきにくいものでしたからね。しかし、僧職者でもあるアルフェイエフのことですから、そんなヘンなものはおそらく作らないだろう、という気はしますが。
確かに、この曲はいろいろな意味で親しみやすい仕上がりになっていました。テキストはもちろんロシア語が用いられていて、他の受難曲同様「エヴァンゲリスト」が聖書を朗読する、というスタイルは守られています。そう、これは確かに「朗読」、というか、まさに「お説教」のような、礼拝の時のアナウンスメントそのものだったのです。「読んで」いる人は、歌手ではなく実際に礼拝でそういう役目を与えられる人(英語で「Protodeacon」とあります)、彼は「歌詞」を、全くメロディを付けずに「語って」いるのです。ですから、そのエヴァンゲリストのパートは、殆ど礼拝そのもの、ロシアの聴衆にとってこれほど分かりやすいものもないでしょう。
アルフェイエフという人は、洋の東西を問わず幅広い音楽を身につけた人なのだそうです。そこに彼自身のアイデンティティが加わるのでしょうか、彼が創り出す「音楽」には、なんとも幅広い嗜好が現れることになります。冒頭の合唱などは、オーケストラの低音がひたすら単調なリズム(というか、全くのパルス)を繰り返すという、ほとんど「ヒーリング」の世界。その中で、バッハにも比べられようというほどの重厚なハーモニーで、いかにもロシア的な増音程を持ったメロディが響き渡ります。かと思うと、それこそバッハが取り入れたようなプロテスタントのコラールそのものが、オーケストラで奏される、という場面もしばしば、これなどは「引用」と考えた方がよいのかもしれません。
もちろん、ソリストによる「アリア」も、4つの部分にそれぞれ1曲ずつ用意されています。テノールのソリストは、その他に「レシタティーヴォ」という合唱との掛け合いで出番があるのですが、他の3人はこれ1曲だけが出番という贅沢なもの、それぞれに見せ場のある美しい曲ばかりです。
時折出てくる「フーガ」というパーツが、意表をつかれるものでした。この時代に真面目にフーガを作ろうという作曲家がいるだけでも奇跡、しかしそれはバッハのような厳格なものではなく、限りなくメロウな「なんちゃってフーガ」ではありますが。
そんな華麗なフーガに続いて終曲になだれ込むと、また驚きが待っていました。そのメロディは、ヒーリング界の名曲、カッチーニの「アヴェ・マリア」そのものだったのです。ソリストも一緒になって思いの丈を込めて歌い上げる合唱団、いったい、この受難曲はなんだったのでしょう。同じ年の12月には、「クリスマス・オラトリオ」も同じメンバーで初演されたとか。これもCDになるのでしょうか。

11月20日

MOZART
Requiem
Ruzanna Lisitsian(Sop), Karina Lisitsian(MS)
Ruben Lisitsian(Ten), Pavel Lisitsian(Bas)
Arvid Jansons/
The Lithuanian State Choir
The Lithuanian RTV Symphony Orchestra
VENEZIA/CDVE 04335


ヤンソンスと言えば、今では息子のマリスの方が有名ですが、1984年に亡くなったその父親のアルヴィドもかつては名声を誇ったものでした。いえ、別に親子の優劣などに、なんの意味もありません(ナンセンス)。そのアルヴィド・ヤンソンスが1976年に残したモーツァルトのレクイエムの放送音源などというものがリリースされました。彼はラトヴィア出身ですが、ここではリトアニアの団体を指揮しています。もちろん、これは初めて世に出たものなのでしょう。当然のことながら、ジュスマイヤー版が使われています。
まず、キリル文字だらけのライナーにたじろいでしまいますが、なにしろまだ「ソ連」時代の録音なのですから、いったいどんな音なのか想像も付きません。しかし、こわごわ聴き始めた割にはそれほどヘンなものではなかったので、まずは一安心。演奏会のライブではなく、放送局のスタジオあたりで録音されたものなのでしょうが、適度な残響があって、合唱もオーケストラも柔らかい響きに包まれています。もちろんステレオで、合唱のパートやソリストの定位などもはっきり分かります。ただ、フォルテシモでは合唱の音が濁ってしまうのは、まあ仕方のないことなのでしょうね。しかし、なぜかバスのソロだけに異様に深い人工的なエコーがかかっているのが気になります。
そのソリスト、4人とも同じラストネームなのも気になりますね。兄弟か、親戚なのでしょうか。あるいは、「リシツィアン」というのは、「松本」や「吉田」などのように、リトアニアではありふれた名前なのでしょうか。肉親にしてはあまりに声の質や歌い方が異なっていますし。ソプラノは伸びやかで素直な声なのですが、アルトは変なビブラートがあってちょっと異質、テノールとバスはまさに「スラブ」風の、あたり構わないおおらかさですから、ソロはともかくアンサンブルになるとかなり悲惨です。
とは言っても、全体の演奏は、予想以上になかなかの高レベルのものでした。特に、合唱がひと味違う渋い魅力を持っていました。考えてみたら、リトアニアと言えば同じバルト三国のエストニアやラトヴィアと並んで、素晴らしい合唱の伝統を持つ国です。この「国立合唱団」も、そんな例に漏れず、独特の深い響きを持ったものでした。ソプラノの暗めの音色には特に惹かれるものがあります。歌い方も、決して大声で爆発するようなことはなく、底の方からじわじわと深いものが迫ってくる、といった、じっくりと訴えかける姿勢が浸透しているようです。
これは、もちろん指揮者のヤンソンスの姿勢との相乗効果なのでしょう。ここで聴くことの出来る彼のスタイルは、あくまで深い内面をえぐり出そうとするもの、その結果、その中には、誰しもがまさに圧倒されるような力を感じないわけにはいかないはずです。基本的に遅めのテンポで終始しているものが、「Rex tremendae」が一般的なもののほぼ倍の遅さで演奏されるあたりから、その尋常でないアプローチは明らかになります。殆ど冗談に近いこのテンポが、合唱のねばり強い声によって必然性を持つのを見るのは、感動的ですらあります。その流れで、やはりスローモーションとなった「Confutatis」と、それに続く「Lacrimosa」は、まさにこの演奏の目指すものが端的に表れた頂点を形作っています。
その「Lacrimosa」、前半の上向音型のクライマックスからは、もしかしたら涙を誘うほどのパッションが感じられるかもしれません。しかし、その後に続くジュスマイヤーの補作を聴くとき、それは到底このテンポには耐えられないものであることも、また感じられてしまうのではないでしょうか。それは、モーツァルトと同時代の作曲家の拙さよりは、モーツァルトに対する過大な思い入れの愚かさこそを、証明しているもののように思えます。

11月18日

MUSSORGSKY/Pictures at an Exhibition
LISZT/Piano Concerto No.1
Peng Peng(Pf)
Leonard Slatkin/
Nashville Symphony Orchestra and Chorus
NAXOS/8.570716


前回はオルガン版の「展覧会の絵」を取り上げましたが、その中でちょっと触れていたスラトキンによる「ごちゃまぜ」バージョンです。実は、あの時には2004年に録音されたBBC交響楽団との録音(WARNER)が念頭にあったのですが、驚いたことに、同じ指揮者によるこんな新録音(2007年)が出たばかりではありませんか。これもなにかの縁、これを紹介しないわけにはいきません。
これは、スラトキンが、全部で15人の作曲家(その中にはアレンジャーや指揮者もいます)が行った「展覧会の絵」の編曲の中から、それぞれの曲を自ら選んで演奏したものです。そんな珍しいものをこんなにたびたび録音するというのは、よっぽどご自分のアイディアが気に入っているのでしょうか。ただ、今回は最初の「プロムナード」だけ別の人の編曲になっている、という、ほんのわずかな違いはありますが。
こういうものを聴くときには、結局ラヴェルによる編曲との比較になってしまうのは、避けられないことなのでしょう。耳慣れたラヴェルのオーケストレーションとの違いが際だつほど、その曲は刺激的に感じられる、というのは、ごく自然なことです。そういう意味で間違いなく面白いのが、以前彼自身の演奏でご紹介したこともあったナウモフによるピアノ協奏曲バージョンです。 ここでは「古い城」が取り上げられていますが、オリジナルには縁もゆかりもないしゃれたフレーズがピアノで軽やかに演奏されているのが素敵です。
ヘンリー・ウッドが編曲した「サミュエル・ゴールデンベルクと、シュムイレ」も、意外性という点からはなかなかのものです。「プロムスの創設者」という彼のイメージからはほど遠いぶっ飛んだアレンジです(実は、これが出来たのはラヴェルより前)。そして、逆に期待を裏切られないのが、ストコフスキーの「バーバ・ヤーガの小屋」でしょうか。いかにもオーケストラの響きを信じ切った、それだからこそスマートさのかけらもないサウンドは、まさにラヴェルの対極に位置するものです。
そして、エンディングを飾るのは、映画音楽なども手がけている編曲家ダグラス・ガムレイによる「キエフの大門」です。「バーバ・ヤーガ」の盛り上がりを一旦チューブラー・ベルやタム・タムによる神秘的なイントロで断ち切ったあとは、まさに意表をつく楽器による新鮮なサウンドが響き渡ります。極めつけは、そんなタム・タムなどに導かれて登場する男声合唱。しっかりロシア語の歌詞が付いていて、まさにこの曲のアイデンティティを味わう思いです。しかし、オルガン(なんとチンケな音)も加わって進むうちに、後半になるとラヴェルそっくりのアレンジになってしまうのはどうしたことでしょう。もうネタが尽きて面倒くさくなったとか。
しかし、そんな風に聞き慣れたものとの違いを感じつつも、このコンピレーションからは、組曲全体としての方向性はまるで見えてはきません。そのあたりが、スラトキンの限界なのでしょう。
ただ、おそらくアンコールなのでしょうか、最後に収録されているロブ・マテスの編曲による「アメリカ国歌」の秀逸さには、参ってしまいました。まるでウェーベルンの点描技法のように、タイトルを知らないで聴いたら全く何の曲だか分からないような混沌としたものから、次第に「国歌」の姿が明らかになってくるのはとてもエキサイティングです。肝心なのは、こういうものをコンサートで聴かされても怒り出したりはしない「アメリカ国民」の懐の深さ、「にっぽん」で「君が代」をこんな風に扱ったら、編曲者や演奏家は投獄されてしまうことでしょう。東北の刑務所に。
そう、これは実はコンサートのライブ録音、前曲のリストでソロを弾いている弱冠15歳のペン・ペンくんの颯爽としたピアノが、このCDの最大の収穫となりました。

11月16日

Pictures from Russia
Hansjörg Albrecht(Org)
OEHMS/OC 632(hybrid SACD)


オルガンの可能性を追求してやまないアルブレヒトの、新しいアルバムです。以前ワーグナーの「指環」に挑戦したときに使用したキールの聖ニコライ教会の2台のオルガンによって演奏されています。前にも書いたように、このオルガンは48ストップの大オルガンと、その向かい側にある17ストップの小さなオルガンの両方を、一つのコンソールから演奏できるというものですから、非常に多彩な音色を、空間を超えて繰り出せるという優れものの楽器でしたね。マルチチャンネルで聴けば、その効果は絶大なことでしょう。
今回は、「ロシアからの『絵』」というタイトルです。ムソルグスキーの「展覧会の絵」、ラフマニノフの「死の島」、そしてストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を、オルガン用に編曲したものが収められています。
「展覧会の絵」ほどオリジナルのピアノ曲を離れて編曲された形が広く知られているものはありません。最もポピュラーなラヴェルのオーケストラ版は、ほとんどピアノ版以上の録音頻度を誇っているほどですよね。しかも、オーケストラに編曲したのはラヴェルだけではなく、有名無名を問わず数多くの作曲者や指揮者の手によるオーケストレーションが存在しているといわれています。スラトキンあたりは、1曲ごとに違う編曲者による「展覧会の絵」をライブ録音しているほどですから。クラシックに限らず、プログレ・ロックの雄ELPが演奏した名盤もありました。あるいは冨田勲のシンセサイザー版、などというのも。
ですから、これを聴く前には、オルガンだったらシンセみたいな新鮮なアプローチなのではないか、という、勝手な先入観を持っていました。それは、半分だけはあたっていたようです。とてもクラシックのオルガン音楽とは思えないような派手なパイプの使い方は、まさにシンセの音色に迫ろうというものでした。そしてさらに、そこには冨田が飽くなき追求を見せたような「宇宙」に対するイメージが、全く別な形ではありますが見事に音として反映されていたのです。「ビドロ」などは、まるで「スター・ウォーズ」の「帝国のテーマ」、つまりダース・ベーダーをあらわす音楽のようなイメージを備えてはいないでしょうか。原曲の素朴な荷車の歩みとはうってかわった、兵士の大群が堂々と行進する様が、そこからは聞こえてはこないでしょうか。
もっと「宇宙」が感じられるのは、金持ちのユダヤ人サミュエル・ゴールデンベルクのテーマです。華やかなリード管から流れる音は、まるで「未知との遭遇」での地球外生物との間で使われた交信手段「アープ・シンセサイザー」そのもののようには感じられませんか?「ソラファファド」という音型でしたっけ。ですから、それに続く貧乏なユダヤ人シュムイレのテーマは、まるで母船のまわりを飛び回っている夥しいUFOを描写したもののように聞こえてしまいます。
もちろん、あとの半分は全くの予想外、冨田のような自由奔放なイメージまでを実際にオルガンに置き換えることまでは、さすがにアルブレヒトは行ってはいませんでした。
やはりアルブレヒト自身が編曲を行った「ペトルーシュカ」も、同様にオーケストラを超えた、あくまでオルガンでしかなしえないような挑戦が、心地よいものではありました。そこからは、ストラヴィンスキー自身が込めた音響への挑戦までが、透けて見える思いです。
しかし、この中で最も成功していると感じられるのが、アクセル・ラングマンという別の人が編曲を行った「死の島」だというのが、なにか皮肉な気がします。あくまでモノトーンのストップにこだわったこのオルガン版には、まさに原曲を超えた暗く深い情感が漂っています。それは、ライナーにも紹介されている、この曲を産む元となったアーノルト・ベックリンの「絵」をまざまざと思い起こさせるものでした。

11月14日

武満徹エッセイ選
小沼純一編
筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)
ISBN978-4-480-09172-7

武満徹の文章は、時には彼自身の作り出す音楽よりも雄弁にさえ聞こえてきたものでした。新潮社から1971年に出版された彼の2つめの(ひとつめは、1964年の自費出版)エッセイ集では、そのタイトルの「音、沈黙と測りあえるほどに」自体が、すでに選び抜かれたことばによって音楽を超えるほどの繊細なメッセージを伝えていたのです。

彼の生前に出版された6冊ほどのエッセイ集は、ですから、彼の音楽よりもさらに知的な好奇心をそそられるものとして、ファンの前には存在していたはずです。研ぎ澄まされた語り口をもつそれらの文章は、なんとエキサイティングに感じられたことでしょうか。そんな著作のエッセンスが、こうして文庫本となって手軽に再読出来るようになった時には、しかし、すでに読み手にとってはその好奇心の対象が微妙に変化していることにも気づかされます。それは全く、編者による意に沿わない抽出や、その第1エッセイ集の出版年の誤植(1991年となっています)が責を負うべきものではなく、ひとえに読み手、あるいは聴き手の成熟にともなう現象に違いありません。
そんな中で、彼が映画音楽について語っていることばに、なぜか惹かれるものがありました。
時に、無音のラッシュから、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容(コンテンツ)を秘めた豊かな映像(イメージ)に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それを扶(たす)けるものとして音楽を挿(い)れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている。
「私は、沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」という境地に至った作曲家が、映画音楽について語る時、そこにはこれほどの決意が秘められることになるという事実には、感動すらおぼえます。同時にこのことばは、それが発せられてから30年以上を経た「現代」に於いては、なんとも空虚なものとして響いているという事実にも、驚きの念を隠すことは出来ません。そもそもこのことばは、ハリウッドの映画制作者に対して向けられたものでした。その時すでに、彼の地の映画産業の中では、音楽が独立した利益を生むものとしての認識が確固としたものとして存在していたことを忘れることは出来ません。すでにその時点で、作曲家のこのようなストイックな主張は、彼らには奇異なものとしか感じられはしなかったのです。「音楽を沢山挿れた方が、それだけ利益に結び付く機会も増す筈なのに」と。
「現代」に於いては、世界中でこの彼らの言い分は映像に対する音楽のあり方のスタンダードとなっています。卑近なところでは、今放送中のNHKの連続ドラマの音楽を聴きさえすれば、その実態は的確に把握できることでしょう。「篤姫」の音楽などは、ドラマ(もちろん「映画」と同義語であるという前提で)の「映像」が秘めた「内容と」はまるで無関係なところで響いている、とは感じられないでしょうか。そこにあるのは、まさにドラマとは無関係に成立している、一つの完結した音楽です。それは決してドラマを「扶ける」ことはなく、いたずらに全く「内容」とは無縁な陶酔感を呼ぶものでしかないのです。
もう少しドラマとしての成熟度が低い「だんだん」では、まさに音楽が「内容」を「扶ける」ことに、確実に寄与しています。そこでは、まるで音楽に合わせてドラマが展開しているような錯覚に陥ることも珍しくはありません。
悲しいことにこれが「現代」の映画音楽の実情、武満の思いが一顧だにされないほど、映画音楽は良心を失ってしまっているのでしょうか。そんなことで、ええがね(島根弁)。

11月12日

STRAUSS
Der Rosenkavalier
Claire Watson, Lucia Popp(Sop)
Brigitte Fassbaender(MS)
Karl Ridderbusch(Bar)
Carlos Kleiber/
Bayerisches Staatsorchester
ORFEO/C581 083D(hybrid SACD)


録音に対して極めてストイックな態度を貫き通したカルロス・クライバー、しかしなぜか「ばらの騎士」に関しては今までに2種類もの公式ソースが世に出ているという大盤振る舞い状態でした。それは、1979年のバイエルン・シュターツオーパーと、1994年のウィーン・シュターツオーパーの、いずれも映像ソフトです。それぞれキャストが異なっていて、どちらもクライバーの魅力を存分に伝えているものでしたね。しかも、それぞれのプロダクションは来日していて、実際に日本でも「生」のステージにも接することが出来た、というものでした。
そのうちの、バイエルンの方のプロダクションが初来日したのは1974年のことでした。歌手やオーケストラだけではなく、ステージのセットや衣装までも含めた「引っ越し公演」などまだ珍しかった頃ですから、これは非常に画期的な出来事でした。「フィガロ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「ワルキューレ」、そして「ばらの騎士」という演目が用意され、メインの指揮者は音楽監督のサヴァリッシュ、「フィガロ」と「ワルキューレ」はライトナーとのダブルキャスト、「ばらの騎士」はクライバーだけ、というローテーションでした。その頃のクライバーは今のように大騒ぎをされることもない、はっきり言って無名の存在でしたからチケットも余裕で入手出来ました。そもそも、チケット自体が今みたいな法外な値段ではありませんでしたし。
ですから、その時のお目当ては指揮者よりもオクタヴィアン役のファスベンダーだったような気がします。実際、彼女は声といい、姿といい、まさに全盛期の輝きを備えていたもので、圧倒的な存在感を誇っていました。
それとほぼ同時期、1973年のバイエルン・シュターツオーパーでの公演の放送音源は、以前から海賊盤として出ていたそうなのですが、今回、晴れて公式のものとしてリリースされました。最近のこのレーベルのクライバーもののポリシーなのでしょうか、SACDによってリリースされているのも歓迎すべきことです。
バイエルン放送による元の録音は、かなりクオリティの高かったものなのでしょう。オーケストラの弦楽器のふくよかな音や、木管の輝きなどが満足のいく状態で収録されています。ただ、「銀のばらのテーマ」でのハープやチェレスタ、そしてフルート、ピッコロとソロ・ヴァイオリンが醸し出す響きは、残念ながら東京文化会館での想い出からはほど遠いものではありますが。
まだ拍手が鳴り止まないうちに前奏曲のホルンが鳴り出す、という、いつもながらのクライバーのやり方で、曲は始まります。そして、圧倒的なドライヴ感でぐいぐい引っ張られるところがあるかと思うと、ウィンナ・ワルツの模倣の部分ではまさにうっとりとした別の世界を体験させてくれるという、クライバーのマジックは存分に堪能出来ました。そして、もちろんファスベンダーはここでもとても輝いていました。
しかし、マルシャリンを演じているのが映像や来日公演のギネス・ジョーンズではなく、クレア・ワトソンになっているのには、ちょっと違和感をおぼえてしまいます。なにか薄っぺらな歌い方で、威厳のようなものがまるでないのです。第3幕の最後の三重唱では、ゾフィーのルチア・ポップよりも「軽く」聞こえてしまうほど。確かに、マリー・テレーズの実年齢は30代前半ですから、そんな表現はあってもいいのかもしれませんが、このオットー・シェンクのゴージャスな演出の中では、それは間違いなく浮いてしまっています。
クライバーの生前には正規盤として出ることがなかったのは、そんな欠点があったせいなのでしょうか。この録音は、こんな公なものではなく、それこそ、秘密の酒場(暗いバー)あたりでこっそり聴くべきものだったのかもしれません。

11月10日

PAISIELLO
Il Barbiere di Siviglia
Mirko Guadagnini(Conte d'Almaviva)
Donato Di Gioia(Figaro)
Stefania Donzelli(Rosina)
Maurizio Lo Piccolo(Don Bartolo)
Rosetta Cucchi(Dir)
Giovanni Di Stefano/
Orchestra da Camera del Giovanni Paisiello Festival
BONGIOVANNI/AB 20009(DVD)


「セヴィリアの理髪師」と言えば、1816年に作られたロッシーニの作品が有名ですね。もともとはフランスの劇作家ボーマルシェが1775年に作った戯曲を元に作られたオペラなのですが、原作では後日談として作られた「フィガロの結婚」を、ご存じモーツァルトが作曲したのが1786年であることから、「なぜ、オペラでは作曲の順序が逆なのか?」という疑問が湧くことになります。そんな時に、「じつはね、ロッシーニよりずっと前、1782年に、パイジエッロという人がすでにオペラを作っていたんだよ」と優しく諭すのが、クラシックマニアの密かな楽しみでした。しかし、今ではこのパイジエッロ版「理髪師」にも何種類かのCDが登場し、実際に日本人による公演なども行われるようになって、そんなささやかな楽しみは失われてしまいました。
しかし、オペラとしての上演の模様が映像として商品化されるのは、これが初めてのことになります。2005年に、パイジエッロの生地であるターラント(「ダーラント」というノルウェーの船長とは無関係な、南イタリアの都市)で開催された「ジョヴァンニ・パイジエッロ音楽祭」における、この作品のクリティカル・エディション(フランチェスコ・パオロ・ルッソによる)を用いての世界初演の模様が、このDVDには収められています。これによって、今まで話のネタとしては知っていたこの作品の全貌が、初めて、誰にでも味わえることとなりました。
画面に現れたのは、ターラントにある「オルフェオ劇場」という、小さなオペラハウスです。一応バルコニーもある馬蹄形の劇場ですが、ステージの間口はかなり狭いもので、舞台装置も至極簡素、大きな転換などは行われません。オケピットもかなり狭そう、オケは下の方にいて姿は見えませんが、指揮者だけはほとんど全身が客席から見えています。そこで始まった序曲は、まるでモーツァルトそっくりの音楽でした。パイジエッロはこのオペラを、当時滞在していたロシアのサンクト・ペテルブルクで作ったのですが、ですから、このような音楽の様式と言うものは別にモーツァルト固有のものではなく、当時のヨーロッパ全体でごく一般的に広まっていたものであることが、ここでも確認出来ることになります。
アリアにしても、例えばアルマヴィーヴァ伯爵によって歌われるテノールのアリアなどは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の、ドン・オッターヴィオの持ち歌と差し替えたとしてもなんの違和感もないだろう、というほどの似通ったテイストをたたえたものでした。
あらすじはもちろんロッシーニ版と全く同じなのですが、台本の細かいところ、したがってアリアの歌詞などはかなり違っています。パイジェッロの場合はボーマルシェのものをほぼ忠実にイタリア語に訳した台本なのですが、ロッシーニでは、台本作家がかなり自由に書き換えている、というのが、その違いの理由です。ですから、フィガロが登場する時も「俺は街の人気者」みたいな華やかなものではなく、もっと地味に自分の生い立ちを語るようなものになっています。ただ、ドン・バジーリオが歌う「陰口はそよ風のように」などは、同じ趣旨のアリアとなっています。
面白いのは、この演出だけのことなのかもしれませんが、ロッシーニには登場しないマルチェリーナが、歌を歌わない役で登場していることです。「フィガロの結婚」では、彼女はかつてドン・バルトロの女中で、バルトロが手を付けて生まれた子供がフィガロだったことが明らかになるのですが、確かにバルトロの屋敷にマルチェリーナはいたんですね。ですから、これを見ていた当時の聴衆は、すんなり「フィガロ」に入っていけたことでしょう。

ところで、このジャケットには、そのマルチェリーナも含めた主要キャストが全て写っていますが、右端のフィガロだけ、異様に小さくないですか?実は、彼はこのシーンには登場してはおらず、この画像だけは他から挿入して合成したものなのです。実際のステージとは異なる写真を使うのは、「トリスタン」以来のこの「業界」の伝統のようですね。

11月8日

オーケストラの経営学
大木裕子著
東洋経済新報社刊
ISBN978-4-492-50188-7

オーケストラも「企業」である以上、健全な「経営」を目指すためには、一般社会のやり方にのっとった戦略が必要である、という論調には、何度となくお目にかかっていたはずです。ところが、この本ではその全く逆の立場に立った論理が繰り広げられています。企業として、オーケストラという組織に学ぶべきことはないのか、という、ちょっと今までには見られなかった視点は、確かに新鮮です。
そんなユニークな発想は、著者の経歴を見れば納得が出来ます。彼女はそもそもは音大(しかも藝大!)を出たプロのヴィオラ奏者、プロのオーケストラの団員を経てフリーの奏者になった後、経営学を修めて大学の先生になった、という興味ある道をたどった方だったのです。
そんな彼女が著したこの本は、間違いなく「企業」のサイドの人に読まれることを想定して書かれているものです。したがって、本論に入る準備として、オーケストラや指揮者、それをとりまく教育や社会についての基礎知識が述べられることになります。その部分はかなりの割合を占めていて、まるでそれが本論であるかのように懇切丁寧な解説が繰り広げられます。その結果、ここは、例えば茂木大輔などのベストセラーに見られるものと同程度の、間違いなく現場を体験した人でなければ書くことの出来ない「正確な」描写に満ちあふれることになりました。そう、そこには、その部分だけでも充分に1冊の著作として成立出来るほどに、膨大な情報が詰まっているのです。
その「正確」さの中で語られる、例えば音大生の卒業までにかかる経費、そして、その先の「リクルート」までに及ぶ実態は、まさに説得力のあるものです。莫大な資金を投じたとしても、それに見合うだけの収入が得られる職に就くことは、極めて確率の低いことが、ここでは明らかになります。結局、音楽家が求めるものは芸術家としての自己満足、そもそもそのような損得勘定などは念頭にない、ということなのでしょう。
面白いのは、そのような音楽家が満足を得られる場として、アマチュアオーケストラが挙げられていることです。著者によれば、日本のアマチュアオーケストラのレベルは、なんと「世界一」なのだとか、しかも、その数は学生オケを含めると700以上もあるというのですから、「プロ」にはなれなかった音大生の受け皿としては恰好の存在だと述べられているのです。
秀逸なのは、そのセクションの最後にある、「指揮者」の評定です。これは、後に一般企業における経営者とは微妙に異なる統率者として登場するだけに、その分析は詳細を究めます。彼女は、トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、そして小澤征爾の4人について、「音楽的才能」、「肉体的な強さ」、「心理学的能力」、そして「政治的能力」の4つの「パワー」を四角形のグラフによって比較しています。それによると、各項目に万遍なくポイントを獲得してきれいな正方形になっているのがカラヤン、フルトヴェングラーは、「音楽的才能」はカラヤンを上まわるものの、「政治的能力」でポイントが低いために歪んだ菱形になってしまっています。小澤はカラヤンよりはひとまわり小さな正方形、とか。
これらの部分では、「オーケストラ」サイドの人にとっては煩わしいほどの注釈が、この本がまさにそんなものとは無縁な人を対象にしたものであることを物語っています。したがって、本論であるはずの「経営」セクションに入ると、その注釈は殆どなくなってしまうのは当然のことなのでしょう。「トレードオフ」などという未知の言葉が飛び交う世界は、まさに「オーケストラ」にとっては異次元なのです。スーパーで売ってますよね(それは「トレー豆腐」)。
でも、135ページにある「RCB」というのは、もちろん「RCA」の誤植であることぐらいは、「経営」に疎いものでも分かりますよ。

おとといのおやぢに会える、か。


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