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リッチはバイアグラ。.... 渋谷塔一

(02/9/20-02/10/13)


10月13日

BEETHOVEN
Symphonie Nr.9
Ernst-Erich Stender(Org)
ORNAMENT RECORDS/11460
掲示板で最近話題の○リッツですが、私の身の回りでも物議をかもしています。
調査によると、ご当地○リッツには、広島焼き ・野沢菜・ 雲丹・八丁味噌・信州りんご・ なにわ名物たこ焼味博多明太子・江戸むらさき・北海道鮭、あとショップ限定のトマト味が存在するそうです。私の職場は、幸いにしてこういうものが集まりやすく、「江戸むらさき」以外、全て試食済み。仕事そっちのけで各人各様の評価が喧々諤々と戦わされるのです。地域の名産をお菓子に取り込むというアイデアには目を見張るものがありますが、完成度の高さについては明言を鮭た、じゃなく避けた方がいいのかもしれません。
で、前置きが長くなりましたが、今回のアイテムです。あの「第9」をオルガンで演奏したというもの。オルガン演奏は例の如くシュテンダーで、彼自身編曲もこなしています。この人は以前、ブルックナーの7番もオルガンで演奏するという快挙を成し遂げた人。あの時も原曲とは全く違った「オルガン曲」としてのブルックナーを提示してくれたのです。今回も期待できますね。
第1楽章冒頭、弦楽器でモヤモヤ演奏される部分からして、あいまいさのない響きが うれしくなります。盛り上がりに向かって徐々にストップが増やされ、やがてフルオルガンの咆哮でオルガンスムに達します。これぞ、オルガンの醍醐味と言わずにおられましょうか。(この部分は使いまわしです)第4楽章の問題の合唱部分もなんとかクリア。しかしテンポをかなり早くしているのは意図的なのでしょうか?しかし最後の盛り上がりの部分を楽譜通りに弾いて欲しいなどと願うあなたは・・・・ああ、ここも使いまわしになってしまいますね。
そうです。あのフルヴェンのバイロイトライヴでも指摘されていたとおり、あの部分を楽譜の指定通りのテンポで演奏すると、全く細かいフレーズは消し飛んでしまいます。オーケストラでもそうなのですから、オルガンなら何をかいわんや。
結局、試みとしては非常に面白いのですが、完成度としてはイマイチ(すみません)。オルガンの音を聴きたければ、フランクやヴィドール、またはメシアン。第9を聴きたければフルトヴェングラーかベーム、若しくはジンマン。そして、雲丹はやっぱり「いかだ」で食べたいし、○リッツは昔ながらのシンプルなロースト味が好きだなぁ。

10月9日

BACH
The Early Overtures
Siegbert Rampe/
Nova Stravaganza
MDG/341 1131-2
バッハの「序曲」の最新のCDです。普通は「管弦楽組曲」とか言っていますが、楽譜にはタイトルは「Ouvertüre」つまり「序曲」としか書いてありません。つまり、いずれの曲も最初の部分が「フランス風序曲」という、その頃のフランスのオペラの序曲の形式、不均等なリズムを持つゆっくりした部分と、技巧的な早い部分が交互に現われるという形をとっているから、そのようなネーミングになっているのです。
それはともかく、この新しい「序曲」集を手にした人は、少なからぬショックを受けることでしょう。一般的に、この序曲は1番から4番までの4曲で成り立っているとされていますが、ここにはなんと6曲もの序曲が収録されています。もちろん、今では完璧に偽作とされている「第5番BWV1070」が除かれているのは言うまでもないことです。つまり、今まで私達が全く知らなかった「序曲」が2曲も入っているということになるのですね。さらに、もっとも有名な「第2番」の独奏者であるフルート奏者の名前が、どこにも書いてありません。本来ロ短調であるべきこの曲のキーもイ短調になっていますし。
これは、このCDで指揮とチェンバロを担当しているドイツの若手キーボード奏者兼音楽学者であるジークベルト・ランペが、最新のバッハ研究の成果を総動員して、現在演奏されている「序曲」たちが最初に作られた形を復元したものなのです。さらに、新たに加えられた2曲は、いずれも教会カンタータの冒頭に使われているものですが、これも、本来は「序曲」として書かれたものを転用したものと判断し、元の形に復元しています。したがって、この2曲には、他の曲のようにあとに続く舞曲は含まれてはいません。
「第1番」に関しては、元の形が変わっていないとして、手は加えられてはいませんが、その他の3曲は、「復元」の結果、まるで別の曲のようになってしまいました。「第2番」はソロ楽器がフルートではなくヴァイオリンになっています。聴き慣れた技巧的なパッセージも、ヴァイオリンで聴くとほとんどスリルが感じられない分、落ち着いたしっとり感が前面に出てきています。「第3番」と「第4番」は、ティンパニとトランペットは後に加えられたものだとして、カットされています。その結果、「真っ赤だな」には、山全体を覆い尽くしたど派手な紅葉のような昂揚感はなくなり、ひなびた寺院の中庭の、ほんの数本のもみじの木のイメージになりました(3番のガヴォットね)。
「アリア」のくり返しの装飾がどう聴いてもバッハの様式ではないのが気にはなりますが、ノヴァ・ストラヴァガンツァの演奏は自発性にあふれた軽やかなもの。こんな形で、バッハの今まで知られていなかった面を引き出してくれるのは、大歓迎です。「3番」などは、オーボエすら入っていない弦楽合奏の形、これを聴いてしまえば、もはや「管弦楽組曲」などという実情に即していない醜い呼び方をする人は、いなくなることでしょう。

10月7日

SEDUCTION
Songs by R. Strauss
Steve Davislim(Ten)
Simone Young/
State Orchestra of Victoria
MELBA/301081
今巷で話題の「女流若手美人指揮者」(こういう冠詞をつけるのって良くないかしらん)シモーネ・ヤングのR・シュトラウスです。以前、某雑誌で紹介され、とても気になっていたアイテムでして、やっと店頭で見かけて即購入したというわけです。
シモーネ・ヤングという、やや下品な名前(シモネタ・ヤング)をもつ指揮者については、かなり知れ渡っていることでしょう。世界各地のオペラハウスでめきめき頭角を表した彼女、数年前に来日してN響を振ったのも記憶に新しいところです。最近発売されたアレヴィの「ユダヤの女」ではウィーンフィルを指揮、その溌剌とした演奏には大層感心したものです。ただし、曲が少々マイナーだったため、多くの人が喜んで聴くところまでは行かなかったのが残念なところ。これが、もし「椿姫」なんかだったら、どこかのCD店の週間売上の上位にランキングされたかもしれません。
今回のCDは、シュトラウスの管弦楽伴奏つきの歌曲です。これならアレヴィよりは私向き?したがって、これを書いているのはマスターの方ではありません。この管弦楽伴奏というのは、シュトラウスがまずピアノ伴奏で書いた曲を自らオーケストラ用に編曲したもので、いかにもシュトラウスらしい色彩に満ちた音楽です。ヤングは、そのスコアに書かれた音符を、全て聴かせてくれるかのように、丁寧な指揮をしているのです。あまりにも音が多すぎるせいか、ともするとハリウッド調のけばけばしさが鼻につく局面すらありますが、これを悪趣味一歩手前で押しとどめるところが彼女の才覚なのでしょう。どの曲も、美しい響きを心から堪能することができます。テノールの甘い声も魅惑的です。曲の内容がどうのこうの言うより、「声」も響きの一環として楽しんでしまえばいいのです。ただし、悲痛な叫びであるはずの「憩え。わが魂」や「解き放たれて」などの曲ですら、甘美さの方が先立っているのには、ちょっと違和感を覚えたりもしますが。「森の喜び」などは、本当に美しいし、あのデーメルの「子守歌」の官能性なども今まで聴いたどの歌手の演奏よりも優れていると思います。
おまけとして、「カプリッチョ」から「月光の音楽」とばらの騎士の第3ワルツが収録されています。これがまた素晴らしい出来栄えなのです。最近「月光の音楽」はプレートルの演奏で聴いたばかりですが、あの儚げな風情とは全く違い、なんともエロティックな音楽です。ホルンのソロも決して上手いとはいえないのですが(すみません)まことに味のある音。そして、オーケストラ全体が混然一体となって艶かしい音を出してくるのですから、これはもうたまりません。ばらの騎士のワルツも、微妙に揺れ動く3拍子が心を揺さぶります。コケティッシュかつエロティック。まさにアルバムタイトルの「誘惑」そのものですね。彼女の指揮で、「ばらの騎士」全曲が聴けたらいいな。とおやぢは心から思うのでした。

10月4日

QUIRE
Christiane Legrand(Sop)
Claudine Meunier(Alt)
Michel Barouille(Ten)
Jose Germain(Bas)
BMG
ファンハウス/BVCM-37305
先日「まちがい音楽用語辞典」にアップした「スウィングル・シンガーズ」の中でとり上げたLPがつい最近CD化されたということが分かって、紹介する気になったものです。したがって、これを書いているのはマスターの方になります。
あの中でも述べたように、ウォード・スィングルとともに「スウィングル・シンガーズ」を結成して、その独特のハスキー・ボイスでこのグループのカラーを担ってきたクリスチャンヌ・ルグランが、「スウィングル」解散後、そのメンバーを中心に作ったグループが、この「クワイア」です。コスチュームは、もちろんラグラン袖ですね。ジャズヴォーカルで用いられる「ダバダバ」というスキャットでクラシックを演奏したのが「スウィングル」なわけですが、「クワイア」は、それをそのまま本来のジャズに応用したといえるでしょう。つまり、ジャズの古典ともいうべきデイヴ・ブルーベックやデューク・エリントンのナンバーを、そのままア・カペラ(曲によってはリズムが付きます)で歌っており、さらに、オリジナルのアドリブ・ソロをコピーして、スキャットの超絶技巧で聴かせるというものです。現在の私達でしたら、同じようなことをやっているグループがたくさんあることを知っていますね。マンハッタン・トランスファーなどは、そのもっとも成功した例といえるでしょう。この、インストのソロをヴォーカルに移すという、いわゆる「ヴォーカライズ」という手法は、元をさかのぼれば、50年代アメリカの「ランバート、ヘンドリックス&ロス」にまでたどり着きます。「クワイア」も「マンハッタン」も、モデルにしたのは同じものだったと言えるのです。
この1976年のアルバム、実は、日本で独自にCD化されたもの。ジャズの場合、クラシックと違って、なぜかこういうケースが多くなっています。おそらく、オリジナルのLPを珍重するコアなファンというのは、ジャズの方が多いのではないでしょうか。そう言えば、「名曲喫茶」などというものはもう絶滅してしまいましたが、「ジャズ喫茶」はまだまだ健在、真空管アンプを用意して、暗いジャズファンを待ち受けていますしね。そのせいか、CD化に当たっても、オリジナルのジャケットなどはきちんと復刻してくれていますから、ありがたいことです。おまけに、クリスチャンヌ直筆のメッセージなども付いていますから、これはもう買うしかないでしょう。
そのような、まさにオールド・ファンは感涙に咽ぶアイテムではありますが、その内容についてはあまり語りますまい。基本的にフランスの合唱はヘタ。ウォード・スウィングルが、なぜグループを解散してイギリスに新天地を求めたか、その訳の一端がうかがい知れる・・・というのは、うがった見方でしょうか。

10月2日

WAGNER
Tannhäuser
Nilson(Sop),Windgassen(Ten),Fischer-Dieskau(Bar),Adam(Bas)
Otto Gerdes/
Chor und Orchester der Deutschen Oper Berlin
DG/471 708-2
今回DGの「TRIO」というシリーズの一つとして発売されたゲルデスのタンホイザー(録音は68年と69年)はいろんな意味で興味深いアルバムです。
まず、あのニルソンがヴェーヌスとエリーザベトの二役を歌っていること。2人の女主人公を同じ歌手に歌わせるということは、とりもなおさず、既存の解釈とはまるで違ったものになるのです。誘惑と、救済。それが同一人物に拠って行われるとしたら、男としてはただただ翻弄されるしかないではありませんか。そして、ニルソンの強靭な声を聴いていると「もう、どうにでもしてちょうだい」と言った気持ちになってくるから、この二役は成功しているのでしょう。ヴィントガッセンも、手馴れた歌で、聴き手を魅了します。もう少し情けない風情があってもいいかな。と思うのは贅沢すぎるというものでしょう。
さて、指揮のオットー・ゲルデスです。この名前を知っている人はかなりの“音楽通”といえるでしょう。音楽辞典にも載っていないし、他の録音も多くありません。なぜ、そんな指揮者がこのような豪華な歌手を起用したプロジェクトの指揮を任されたのでしょう?このタンホイザー、他の指揮者が振る予定だったのに、突然キャンセルされて、仕方なくゲルデスが振ったという噂もあります。逆に、様々な事情で指揮者の名前が出せない時、ゲルデスの名前でレコードを発売したという噂まであります。とにかく謎めいた人いえるでしょう。
実は、このゲルデス、もともとはケルン生まれの指揮者で、47年から各地の歌劇場でキャリアを積んできたと言います。いかなる事情からか、56年からDGのプロデューサーとなり、63年からはチーフとして、カラヤン等の当時の主要アーティストの録音を担当。70年に退社した後、また指揮者として活躍、73年には来日して都響を指揮した(!)というなかなかの凄腕なのです。
昨年の暮れ、国内企画として出た「ドイツ語歌唱によるオペラ・ハイライトシリーズ」の中に、彼の振った“オテロ”も含まれていました。これは67年の録音。ハイライトとは言え、最初に置かれた「嵐の合唱」から、デズデモーナの「アヴェ・マリア」まで緊張感が途切れることのない素晴らしい音楽でした。
しかし、このタンホイザーは、音楽が四角四面で、ワーグナーの官能性に乏しいのが残念です。序曲も(いくらドレスデン版とは言え)もう少し盛り上がりが欲しいですし、歌合戦の場面も、緊張感に欠けるきらいがあります。ヴィント合戦が、ついついヴェーヌス賛美の歌を歌ってしまう件も、「ああ、やっちゃった・・・」と思わせてはくれません。フィッシャー・ディースカウの歌う「夕星の歌」もそうです。ハープの伴奏のせいでしょうか。それともディースカウだからでしょうか。とにかく真面目で、堅苦しい。あの“オテロ”と同じ指揮者の演奏とはとても思えないのです。
やはりあの噂は本当なのだろうか。想像を膨らませてしまう私でした。

9月29日

A BEAUTIFUL MIND
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン/
UWSD-33531(DVD)
昨年度のアカデミー賞主要4部門(作品、監督、脚本、助演女優)を受賞した「ビューティフル・マインド」が、早くもDVDとして発売されました。この映画の感想としては、マスターがこちらでユニークなレビューを書いておられますので、私にはそれに付け加えるものは何もありません。しかし、この「アワード・エディション」に同梱されている特典ディスクを見ているうちに、私はマスターが見逃してしまった重要なシーンの意味を知ったのです。それは、特殊効果についてのクリップだったのですが、人が走り回っているのに、地面にいる鳩の群れは1羽として飛び立たないでそこにいる、という場面を作るために、CGで鳩を作って挿入する手順を解説しているものです。もちろん、それは、その走り回っている女の子は現実ではなく、ラッセル・クロウの妄想が作り出したものだということを明らかにしたいための演出に必要なシーンなわけです。もう、そういうことには慣れっこになっていたはずなのに、私もそれには全く気がつきませんでした。
しかし、よく考えてみると、これは伏線なわけですから、その時点で彼に幻覚が見えることがはっきり分かってしまってはまずいわけです。かといって、全く気付かなければ何の意味も持たないことになるし、ちょっと考えすぎと言うか、ハリウッドにありがちな作る側だけの論理で成り立っているシーンのような気もしますが。
その思いは、本編のディスクの方に収録されている、「未公開シーン」を見ると、さらに強まります。完成品のフィルムが出来るためには、いかに多くの魅力的なシーンをカットせざるを得ないかということを伝えたいための企画なのでしょうが、私には、そのような、シーンを選択する段階で、本当に必要なものが制作者の都合でなくなってしまう危険性しか感じることは出来ません。そもそも、最初から制作に携わっている人たちは、決して「初めて見る」観客の目で作品を見ることは出来ないわけですから、独りよがりの、見る側にとっては不親切なプロットが出来てしまうのは、ある意味当然と言えるでしょう。
特典ディスクには、実際のノーベル賞の授賞式の映像も入っています。考えてみたら、主人公のモデル、ジョン・ナッシュがノーベル賞を受賞した1994年というのは、大江健三郎が文学賞をもらった年でもあるのですね。その映像には、その大江氏も片隅にちゃんと映っていました。もちろん、映画の方の授賞式の場面ではそこまでのリアリティは追求されてはいませんが。
ジェームス・ホーナーのスコアは、あのシャルロット・チャーチのヴォカリーズを楽器のように使っているオーケストレーションが、素敵です。彼女の蒸留水のようなキャラクター、言い換えれば主張を持たない音楽が、現実と非現実のはざまをさまよう主人公の心理を、見事に表現しています。

9月27日

Alma & Gustav MAHLER
Lieder
Sabine Ritterbusch(Sop)
Heidi Kommerell(Pf)
AUDITE/97.485
行きつけのCD店で私の大好きなアルマの歌曲集をみつけました。
今回の歌曲集はなんと言っても、未出版の2曲が含まれているのがウリ。何でも、この2曲のスコアはどこかの好事家が所蔵しているとかで、演奏したかったら、その人に「スコア見せてちょ」と頼む他ありません。作曲年代も不明ですが、たぶん結婚前のものでしょう。ビコーズ、リルケの詩に付けた「最初に咲いた花がゆれている」には、まだ彼女独特の半音階嗜好は表れていませんし、もう1曲の「私の夜を知っている?」(こちらは恐らく彼女の自作の詩)には師のツェムリンスキーの影響がありありですから。
さて、この2曲ですが、3年ほど前のちょうどいまごろ、伴奏部を室内オーケストラ用に編曲したものが発売され、もちろん私も喜んで聴かせていただいたものでした。そのアルバムは、彼女の歌曲全てに編曲を施して、厚塗りの音で聴かせてくれるという、何ともロマンティックな趣向。既発の曲はそれなりに楽しめたのですが、初めて聴いたその2曲は、すっかり、その音でイメージが出来あがってしまっていたというわけです。
彼女の楽譜を見てみると、ピアノパートにアルペジョが多用されていることに気が付くでしょう。ですから、それは容易にハープに置き換えることは可能ですし、歌と平行して奏でられるメロディは、ヴァイオリンかフルートに。そんな具合に編曲作業が進んだに違いありません。
しかし、こうしてオリジナルヴァージョンで聴いてみると、曲の持つ意外に素朴な味わいを感じるとともに、歌い手の思い入れの違いで、曲がかなり変貌することに今更ながら思い至ったわけです。その他に収録されている曲は、今まで馴染んだものばかりですが、今回歌っているリッターブッシュは、まだ若いソプラノなのでしょう。少々、表現が先走りする傾向もありますが、それが却ってアルマの熱い感情をストレートに歌い出すのです。その主張の強さは、あたかも「私を見て」と訴えるかのようで、聴き手の私は少しだけどきどきしてしまいました。
このアルバムには、夫であるグスタフの作品も収録されています。彼の作品は、アルマのような「私生活の告白」的要素もあまりなく、形式も語法も単純極まりないものです。どう聴いてもアルマの作品の方が出来が良いのでは、と思ってしまうのです。しかし、たくさんの材料を駆使して作品を作り上げるより、本当に必要なものを選択して作る事のほうが何倍も難しいことに気付きさえすれば、なぜ「歴史」は夫の作品を残し、妻とその師の作品を黙殺することに決めたのか、おのずと答えが出るのかもしれません。

9月24日

WAGNER
Der Fliegende Holländer
Eaglen(Sop), Struckmann(Bar), Seiffert(Ten), Holl(Bas)
Daniel Barenboim/
Staatskapelle Berlin
TELDEC/8573-88063-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11421/2(国内盤 1120日発売予定)
バレンボイムのワーグナー、この「オランダ人」をもって、普通に上演されるレパートリーは全て録音し終えました。おめでとうございます。
この「オランダ人」という作品は、もちろん、その中ではもっとも早い時期に作られたもの、様式的にはまだ従来のイタリアオペラのしがらみから抜け出せない部分が多々あります。それがこの作品の弱点であるとしてあまり高く評価しない人もいますが、私はその中途半端なところが大好き。若い頃のワーグナーの、言ってみれば未完成な部分が、とても好ましく感じられるのです。
ところが、バレンボイムはどうやらそんな甘っちょろい考えは持ってはいなかったようです。「オランダ人」を作った作曲家は、将来「トリスタン」や「パルジファル」を作ることになる作曲家と同一人物だという視点から、この作品にもっともっと大きな意味を持たせようとしているのです。例えば、いかにもノーテンキな音楽でしかないダーラントのアリア「異国の客人を迎えてくれ」のオーケストラは、ただ明るいだけではない、なにか打ち沈んだものになっています。そう。これは明らかに、これから起こる、ゼンタとオランダ人との運命的な出会いの伏線としての明るさなのです。その結果、ダーラントとオランダ人は、まるで立場が入れ替わってしまったかのように聴こえてきます。事実、ダーラント役のロベルト・ホルのほうが、オランダ人役のファルク・シュトルックマンよりはるかに存在感があります。第1幕のオランダ人のモノローグの、なんと女々しいことでしょう。
バレンボイムは、序曲からして、初稿の形である「救済のテーマ」抜きのエンディングを採用して、このドラマの甘すぎる結末に反旗を翻しています。さらに、オプションの間奏曲を用いて幕間を取らず、全曲を続けて演奏、最後まで緊張感を持続させる仕掛けには抜かりがありません。雄弁すぎるほどのオーケストラは、「水夫の合唱」の間奏のような陽気であるべき部分にまで、しっかり次のシーンのための意味を持たせています。この合唱のシーンは、最初のノルウェー人の合唱から、すでに不気味さが背後に漂っているという、おそるべきものです。
もう一つ、エリック役のペーター・ザイフェルトによって、逆転の構造はさらに明らかになります。細やかな感情表現と、伸びのある声は、エリックの器をはるかに越えた雄大なもの。したがって、オランダ人が三角関係の清算を望んだところで到底勝ち目はなく、いかにゼンタ役のジェーン・イーグレンが大げさ過ぎる身振りで救済を叫んでも、ついに幕切れに「救済のテーマ」が現われることはありません(これも初稿の形)。かくして、オランダ人はすごすごと尻尾を巻いて引き下がり、未来永劫さまよいつづけることしか出来なくなってしまうのです(そんなの、おら、やんだ〜)。

9月22日

XENAKIS
Orchestra Works Vol III
大井浩明(Pf)
Arturo Tamayo/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1068
タマヨ/ルクセンブルク・フィルによるクセナキスのオーケストラ作品の全集も、この前ご紹介した第2集に続いて第3集がめでたくリリースされました。これまでのアルバムでは戦略的に世界初録音を売り物にしていましたが、今回は初物はなし、少し落ち着いて、ある程度評価の定まったものを腰を据えて仕上げていこうという姿勢なのでしょうか。
このアルバムの目玉は、何といっても3曲ある彼のピアノ協奏曲のうちの一つ、「シナファイ」(1969)でしょう。なにしろ、ソリストが日本人の大井浩明さんなのですから。大井さんという方、実はピアノは独学で始めたという変り種、それが、いまやこのクセナキスのような難曲のエキスパートとして世界中で活躍しているのですから、「学歴」などというものがいかにあてにならないかがわかります。というか、ある種アカデミックなものに縛られていないからこそ、こういう曲を演奏しようという気になるのかもしれませんが。この「シナファイ」、なんでも、ピアノパートは譜面が10段もあるとか、同時に16の声部を弾かなければならないとか、その常軌を逸した難しさにかけては右に出るものはありません。かつて、あの高橋悠治が日本初演をした時には、演奏が終わった時にはピアニストの指先は血だらけになっていたとか(心配したまわりの人は言いました。「もうこの曲を弾くのはこれっきりにしなふぁい」)。
そんな伝説めいたものまで生んでしまう、まさに「秘曲」なのですが、ここでの大井さんの演奏からは、そのようなおどろおどろしいものを感じることは全く出来ません。そこにあるのは、まるでシークエンサーのような正確さで、見事に音楽を「処理」している姿、この人選には生前のクセナキス自身がかかわっているそうですが、作曲者がこの演奏を聴いたら、「もっと難しくしておくのだった」と言ったかもしれません。
同じ頃(1972)の作品「エリダノス」では、やはり初期の作品群に見られる、多量の音による「制御された混沌」が見られますが、タマヨの演奏はそこから実に見晴らしの良いポリフォニーを導き出しています。弦楽器の響きの柔らかさ、特にピチカートの美しさからは、かつての演奏にありがちだった難解さなど、微塵も感じることは出来ません。
1986年の「ホロス」と、1990年の「キアニア」になると、それまでの作品にははなかったホモフォニー的な書法が全面に出てきます。あたかもメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」のような、予測可能なリズムと判別可能な和声。それは、もはや混沌とは無縁の、誰にでも親しめる芳醇な音響世界です。
タマヨがここで私達に見せてくれているのは、そのような「分かりやすい」クセナキスの姿です。これで、演奏しているルクセンブルク・フィルが、トゥッティでアインザッツを完璧に合わせでもした日には、もはやクセナキスのことを異端の作曲家だと思う人は誰もいなくなることでしょう。

9月20日

NO BORDERS
Richie Beirach Trio
Richie Beirach(Pf)
George Mraz(Bass)
Billy Hart(Dr)
Gregor Huebner(Vn)
VENUS/TKCV-35305
(9月26日発売予定)
1959年にジャック・ルーシエが「プレイ・バッハ」を発表した時から、ジャズはクラシックの中にアイディアを求めるという方法をその手中に収めました。純粋なジャズファンからは白い目で見られようが、バッハなどを素材にしてインタープレイを展開するジャズマンは、今日まで絶えることはありません。リッチー・バイラークも、そんなピアニストの一人。これまでに出した数多くのアルバムを中で、折に触れてクラシックを素材にした曲を取り上げてきています。ACTレーベルからの前作では、クラシック・ファンでさえあまり馴染みのないスペインの作曲家フェデリコ・モンポウを取り上げたのも記憶に新しいところでしょう。VENUSレーベルでの3作目に当たる今回のニューアルバムでは、そのモンポウの「哀歌〜内なる印象第1番」をタイトル(邦題)チューンに掲げ、サティ、ドビュッシー、ショパンなどのクラシックによる曲が8曲、バイラークのオリジナルが1曲という、ユニークな構成をとっています。
バイラークのクラシックの扱い方は、「最初にテーマありき」という先駆者ルーシエの方法論とは大きな隔たりを見せています。例えば、ルーシエも弾いていたバッハの有名な「シシリアーノ」(正確には、息子エマニュエル・バッハの作品という説が有力ですが)。ルーシエは、いくぶんフェイクされているものの、まずは原曲をそのまま呈示、その後に自由に即興を繰り広げるという手順は崩しません。それが、バイラークの場合では、いつまで経ってもききおぼえのあるメロディーなど聴こえてはきません。ジョージ・ムラツのベースでテーマらしきものが歌われるのはほとんど曲が終わろうかという頃なのです。ショパンの前奏曲(作品28の4)のように、Jポップのアーティストが使ってもおかしくない程のキャッチーなテーマ(桑田佳祐の「東京」に似てません?)でさえ、ほんの断片しか用いないという潔さ。その分、ジャズ本来のドライブ感あふれるテイストは存分に味わえます。言ってみれば、クラシックを一度解体して、そのエキスだけを上手に取り入れるという、高度な作業の結果できあがった、紛れもないジャズのアルバムなのでしょう。
ただ、中には、そのアプローチが中途半端に終わっているものもなくはありません。サティの「グノシェンヌ」などは、原曲がそのままの形で出てくる数少ないものですが、そのテーマの呈示の際に少し音を変えているのです。サティの場合は、もともとが不思議な旋法を使っているのですから、それを変えてしまったのではなんだか訳がわからなくなってしまいます。よく知られているバッハなどとは異なる接し方が必要ではないかと、偏屈なクラシック・ファンは考えてしまいます。
とは言え、ヴァイオリンのグレゴール・ヒューブナーをゲストに迎えての「哀歌」などは原曲以上の情熱を見事に歌い上げている素晴らしい演奏です。ここでは、ドラムスのビリー・ハートが、マレットやサンバル・アンティークを駆使した豊かな音色でサポートしています。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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