ヘビー労働。.... 佐久間學

(09/7/8-09/7/27)


7月27日

BARTÓK
Bluebeard's Castle
Elena Zhidkova(MS)
Willard White(Bas)
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0685(hybrid SACD)


バルトークの「青ひげ公の城」の最新録音、このオペラを演奏するのにこれ以上の人はいないだろうという期待が込められる、ゲルギエフの指揮です。さらに、ソリスト陣がちょっとユニーク、青ひげにはなんとウィラード・ホワイトがキャスティングされていますよ。この人の場合、どうしてもガーシュウィンの「ポーギーとベス」のタイトル・ロールである、いざり(死語?)の老人しか思い浮かばないほど、この役とのつながりが強く感じられるものですから、こんな高貴な城主にはちょっと違和感がありました。ベス、ではなく、ユーディットを歌っているジドコワは初体験ですが、写真を見ると、いにしえのユーロビートの女王、カイリー・ミノーグそっくりのルックスです。この人の場合、外見的にはまさにユーディットそのもの、青ひげが是非ともコレクションに加えたいと思えるような美貌と、見境もなく自らの好奇心を相手に強要するという、愚かさを兼ね備えています。
最初に、普通はこれだけのためのナレーターによって朗読される「前口上」が、ホワイトによって語られているのもユニーク、しかも、それはハンガリー語ではなく、ロンドンの聴衆を意識した英語に翻訳されたテキストです。実は、この翻訳を行ったのはバルトークの息子のピーター・バルトークです。ひところ、レコーディング・エンジニアとして活躍していましたが、今は何をなさっているのでしょうか。まさかDJではないですよね(それは「ピーター・バラカン」)。おそらくこの部分が英語によって録音されたものは、これが最初なのではないでしょうか。「Ladies and gentlemen」というフレーズが何度も出てきて、ハンガリー語では分からない微妙なニュアンスが伝わってきます。ただ、これを青ひげを演じるのと同じ人が語る、というのは、やはりちょっとおかしい気がします。
このレーベルのブックレットには、いつも、その演奏が行われたときのメンバーのリストが添付されています(編成を見れば、バンダの金管やオルガンが入っているので、それが分かります)。それによると、ロンドン交響楽団の弦楽器は16型というフルサイズ、その割には、ストリングスが大きく聞こえてくることはなく、木管楽器がアップで迫ってくるという音場になっています。イギリスのオーケストラらしい、軽くビブラートのかかったクラリネットが、ちょっと怪しげなテイストを加えているのも、こういう録音だと良く分かります。
ゲルギエフの作り出す音楽は、いとも病的で、かつてブーレーズなどがとっていた「ファッショナブルな現代音楽」というスタンスとは対照的なもの、しかし、粘りのあるフレージングとくすんだ音色は、病んでいる時代を反映した、別の意味で「現代的」なものと言えるのかもしれません。したがって、「5つ目の扉」の場面でのオーケストラからは、スペクタクルな快感などは得られるわけもありません。おそらく意識してのことでしょう、歯切れの悪いアインザッツから生まれるなんとも言えない屈折した思いは、まさに疲弊しきった現代社会そのもののように感じられます。
ロシア人であるジドコワであっても、やはりハンガリー語は他国語なのでしょう。「言葉」よりはそのドラマティックな歌によって、そんなゲルギエフを支えているように見えます。あるいは、それは指揮者の思惑とは別の方向を向いてしまったものなのかもしれませんが、彼女の特に低音のちょっとした頼りなさが、はからずも退廃的な色づけに貢献しているように思えてなりません。
ホワイトも、いかにもオペラティックな子音の強調によって、明るさとは無縁の重苦しさを演じています。しかしそれも、ゲルギエフが目指しているものとは少しばかりの距離を置いたもののように感じられます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

7月25日

MOZART
Flute Concerto No.2 etc.
André Pepin(Fl)
Ernest Ansermet/
L'Orchestre de la Suisse Romande
DECCA/480 0379


オーストラリアのUNIVERSALから、「エロクェンス」の2枚組シリーズとしてアンセルメの録音が大量にリリースされています。肩こりにはこれ(それは「アンメルツ」)。そんな中で、これはアンセルメにしては非常に珍しいモーツァルト(1曲だけレオポルド・モーツァルト)を集めたものです。殆ど初CD化というレアな音源には、つい手を伸ばしたくなるような魔力が潜んでいました。
最初は、1947年に録音された「交響曲第38番」、当然モノラルです。アンセルメのモーツァルト自体、聴くのは初めてのことでしたが、この時代にありがちな情緒たっぷりなスタイルではなく、もっとサラッとしたある意味スマートなものだったのは、ちょっと意外な気がします。フィナーレなどはかなり速いテンポでアグレッシブに迫ります。逆に、そんな即物的なところが、モーツァルトに関してはあまり魅力的ではないと、当時は判断されて録音も多くはなかったのかもしれませんね。
次がお目当てのニ長調のフルート協奏曲です。これは1957年のステレオ録音です。DECCAとしては最も初期のステレオ録音のはず、ブックレットにオリジナル・アルバムのジャケット写真が載っていますが、まだマーク自体にはステレオをあらわす「ffss」ではなく、モノラル時代の「ffrr」というロゴが残っていて、別のところに「STEREOPHONIC」のロゴが見られるというのが、過渡期を思わせるものです。録音場所も、彼らのそれからの多くの録音で使われることになるヴィクトリア・ホールになっています。ただ、後のスイス・ロマンド・サウンドとはちょっと違った、いかにも高域を強調した安っぽい音なのは、やはり過渡期という感じ。
フルートのソリストは、このオーケストラの首席奏者、1909年生まれのアンドレ・ペパンです。そんな、ちょっと薄っぺらな録音によって、彼のいかにもフランス風の音がさらに軽やかなものに聞こえます。ただ、音楽的にはちょっと余裕のない技巧のせいでしょうか、モーツァルトの持つ軽やかさにはほど遠いものになってしまっています。カデンツァは、この時代の定番ドンジョンが使われています。
1枚目の最後は、1948年の録音で、オーケストラがスイス・ロマンドではなくパリ音楽院管弦楽団という、これも珍しいものです。ジャニーヌ・ミショーというソプラノのソロで、「エクスルターテ・ユビラーテ」全曲。なかなか素直で伸びのある声だと思っていたら、最後の「アレルヤ」でとんでもないコロラトゥーラを披露しているのには、笑うしかありません。
2枚目に入っているのは、13の管楽器のためのセレナーデ「グラン・パルティータ」、これは1955年の録音で、まだモノラルです。しかし、音の「深み」という点では、さっきのフルート協奏曲よりもはるかに充実したものが感じられます。それぞれの楽器がとても生々しい音色で、奏者の息づかいまでもはっきり聴き取ることが出来る素晴らしい録音です。ただ、演奏は後半になるにしたがってどんどん雑になっていくのは困ったものです。それは、明らかにアンセルメが過剰に煽り立てているために、奏者がそれについて行けなくなってしまった結果なのでしょう。最後の曲などは、アンサンブルが完全に破綻しています。
最後に収録されているのが、1968年録音の、レオポルド・モーツァルトのトランペット協奏曲。このあたりになって、やっと聴き慣れたスイス・ロマンド・サウンドが現れてきます。その柔らかな弦楽器の響きはとことん魅力的で、うっとりするようなゴージャスさをたたえています。
そんな素晴らしい録音に慣らされていた人たちが、初めて来日したこのオーケストラの生の音を聴いてがっかりしたことなどは、もはやすっかり忘れ去られている時代だからこそ、こんな珍しい音源が歓迎されるのかもしれません。同時に、CD化されなかったのにはそれなりの理由があったことにも納得させられるのです。

CD Artwork © Universal Music Australia Pty. Ltd.

7月23日

The Ring Goes Swing
Ben Lierhouse(Producer)
Jörg Achim Keller/
hr-Bigband
GATEWAY 4M/3105-2


だいぶ前にParsifal Goes la Habanaというワーグナーとラテン・ジャズを融合させたアルバムを発表したベン・リーハウスのプロジェクトの最新アルバムです。あれから「ハーレム版」とか「フラメンコ版」などを制作、幅広い可能性を模索してきた彼らは、ここでは重厚に「スウィング」で迫ります。「Ring」と「Swing」で韻を踏んでいるところなど、まさにおやぢ好み。
演奏している「hr-Bigband」というのは、「hr(Hessischer Rundfunk)」、つまりフランクフルトにあるヘッセン放送協会所属のジャズ・バンドです。有名なフランクフルト放送交響楽団(正式名称は「hr-Sinfonieorchester」)も、この放送局の所属のクラシックのオーケストラ、こんな風にクラシックの団体と同じレベルでジャズのバンドも持っているのが、ドイツの放送局なのです。日本では考えられませんね。「NHKバンド」とか「読売日本スウィング・オールスターズ」なんてね。
ワーグナーの作品のモチーフを使って、ジャズの曲を作り上げるという手法は別に珍しいものではないのですが、ここでのアレンジを聴くと、単にメロディやフレーズを持ってきた、という以上の、もっと根本的な次元でのワーグナーに対するリスペクトが感じられます。そもそもタイトルからして、ワーグナーのオリジナルのものがそのまま使われていますし。1曲目のジークフリートのあのホルンのモチーフをジャズ・ワルツ風に仕上げた曲などは、そのまんま「Siegfrieds Rheinfahrt」ですからね。もっとすごいのは、「神々の黄昏」のモチーフを多用した2曲目。これには「Zurück vom Ring」というタイトルが付けられていますが、これはご存じの通り、この畢生の大曲の最後の最後にハーゲンによって発せられるセリフなのですからね。
そんな「リング」を「フィーチャー」した曲を聴いていると、これはジャズのイディオムを用いてはいるものの、音楽自体はまさにワーグナーそのものなのではないか、という感慨に行き当たります。確かに、そこからはワルキューレたちの軽やかな動き(3曲目「Die Walkürenritt」や、ラインの乙女たちの歌声(6曲目「Rheingold, Rheingold」)、さらにはミーメの卑屈さ(10曲目「Sieh, Du bist müde von harter Müh」)までもが、元のオペラさながらに眼前に広がってきます。
そこで思い当たるのが、最近の趨勢である演出に於ける「読みかえ」です。ストレッチャーを押しながら走り回るワルキューレといったワーグナーのト書きを完璧に無視したところから始まる「読みかえ」、それを、音楽的に「クラシック」から「ジャズ」に「読みかえ」たものが、これらのナンバーなのではないでしょうか。いくらハチャメチャな演出に変わったとしてもワーグナーのコンセプトは伝わるのと同様、「ジャズ」になっても彼の音楽は揺るぎもしないというのが、すごいところです。
と言うより、こんな共感に満ちた演奏を聴いていると、プロデューサーやアレンジャーのレベルではなく、プレーヤー個人にいたるまで、ワーグナーの作品を日常的に感じる機会がある、と言うのがドイツという国なのではないか、という思いに駆られてしまいます。
ここでは、「リング」以外の作品もとリングられて(取り上げられて)います。それらは、もうちょっと肩の力が抜けた仕上がりになっているでしょうか。ローエングリンの「結婚行進曲」である7曲目「Treulich gefürt」には、なんとあのミュージカルの名作「My Fair Lady」からの、これから結婚式に向かうヒロインの父親が歌う軽妙なナンバー「Get me to the church on time」が粋に挿入されていますし、「オランダ人」の水夫の合唱(9曲目「Steuermann, lass die Wacht」)はパーカッションがたくさん入ってラテン仕立て。この曲の間奏がこれほどラテンのセンス満載だったとは、新鮮な発見でしたよ。
最後、ローエングリンの「In fernen Land」などは軽やかなボサ・ノヴァ。この曲だけにはストリングスも加わり、主人公のゴージャスな品格を醸し出すという演出です。

CD Artwork © more fine music & media GmbH

7月21日

BERNSTEIN
West Side Story
Matt Cavenaugh(Tony)
Josefina Scaglione(Maria)
Nicholas Barasch(Kiddo)
Patrick Vaccariello/
Orchestra
MASTERWORKS BROADWAY/88697-52391-2


ブロードウェイ・ミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」は、作られてから50年以上経っていても、未だにミュージカルの古典として世界中で上演され続けています。別のところでレポートしたように、今この時点で「劇団四季」が地方公演の真っ最中、しかも、同じ時期に「本場」ブロードウェイのプロダクションまでが来日して、名古屋や東京で公演を行うというのですから、まさに日本中が「ウェストサイド」一色になっているのです。「メタボ」ほどは騒がれませんが(それは「ウェストサイズ」・・・1回使ったな)。
おそらく、そのブロードウェイ・キャストの来日に合わせて制作されたのが、このCDなのでしょう。録音されたのは2009年の4月、それがもう6月末には輸入盤が手に入る状態になっていたのですから、ものすごい早業ですね。でも、昔からブロードウェイの演目は、初演の何日か後には同じキャストによるレコードが出来ていたといいますから、彼らにとってはなんでもないことなのでしょう。おそらく日本の公演会場でも、このCDが山積みになって、その日の感動を反芻しようというお客さんを待ちかまえていることでしょう。
しかし、1957年のオリジナル・キャスト盤から52年ぶりに作られたこのニュー・ブロードウェイ・キャスト盤は、そんな、ただのお土産以上の価値を持つものでした。
伴奏のオーケストラのメンバーが、すべて記載されているということによって弦楽器はヴァイオリンが7人にチェロが4人という、バーンスタイン(いや、正確にはシド・ラミンとアーウィン・コスタル)のスコアに忠実な人数になっていることが分かります。もちろん、木管楽器も「マルチ・リード」が5人、一人でピッコロからバス・クラリネットまでを持ち代えることが要求されているという、まさにブロードウェイのピットでの編成となっています。弦楽器を増やしたりそれぞれの管楽器を専門の人が吹くという「シンフォニー・オーケストラ」の編成、そしてプレーヤーではないというところに、注目です。ちょっとチープなこのサウンドこそが、まさに劇場で味わえるものなのですから。
もちろん、セリフだけの部分はすべてカットされていますが、それでも音楽の間で語られる必要最小限のセリフは、きちんと収録されています。決闘のシーンの最後に、「マリアーッ!」というトニーの悲痛な叫びが入っている録音なんて、他にはありません。さらに、プエルト・リコのメンバーに極力スペイン語をしゃべらせている、という今回のプロダクションのユニークなところもはっきり分かります。その流れで、マリアとお針子たちが歌う「I Feel Pretty」や、アニタのアリア「A Boy Like That」もスペイン語の歌詞になっています。これが、最後の「Finale」になると、マリアの「Hold my hand and we're halfway there」という歌詞を受けて、なんとトニーがスペイン語で「Llevame para no volver」と歌い、こときれるのです。少なくとも、愛し合う二人の間には国や言語による差別は存在してはいなかったのです。たとえ「劇団四季」であっても、実際にステージを見たことがある人は、そのシーンの記憶と、この言葉の持つ意味によって、間違いなく号泣を誘われることでしょう。
その主役2人は、おそらくしっかりクラシックの教育を受けた人なのでしょう。その卓越した表現力は、かつてのオリジナル・キャスト盤の比ではありません。そしてもう一人、とんでもない逸材が「バレエ・シークェンス」の中の「Somewhere」を歌っていました。そのソプラノは、力強い上にピュアな声、スコアでの名前は「a Girl」という、実際には姿を見せない役なのですが、ブックレットの台本では「Kiddo」とあって男っぽい名前、じつは、このニコラス・バラシュくんはまだ10歳の男の子なんですって。
「お土産」を先に買ってしまったおかげで、東京まで見に行きたくなってしまいました。まだ間に合います。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

7月18日

MUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition
Oleg Marshev(Pf)
Jan Wagner/
Odense Symphony Orchestra
DANACORD/DACOCD656


ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、オリジナルのピアノ曲としてよりは、モーリス・ラヴェルが編曲を行ったオーケストラの曲として聴かれることの方がはるかに多いのではないでしょうか。ただ、ラヴェルは、決してムソルグスキーが書いたピアノの楽譜に、そのままオーケストレーションを施したわけではありません。
ムソルグスキーが、友人の画家ガルトマン(「ハルトマン」という表記は誤り)の遺作の展覧会に触発されてピアノ独奏のための組曲を作ったのは1874年のことでした。しかし、楽譜が出版されたのは彼の死後、1886年だったのです。遺品の中からこの曲の楽譜を探し出して出版に尽力したのは、友人のリムスキー・コルサコフでした。ただ、彼はアカデミックな見地から、作曲家の自筆稿をよりノーマルな形に変えて出版してしまったのです。自筆稿にほぼ忠実な、いわゆる「原典版」が出版されるには、パーヴェル・ラムによる校訂(1931年)を待たなければなりませんでした。ラヴェルがクーセヴィツキーの委嘱によってボストン交響楽団のために編曲を行った1922年には、ですから、彼はリムスキー・コルサコフによる改訂版を元にする以外の選択肢はなかったのです。
リムスキー・コルサコフの改訂で最も目に付くのは、「ビドウォBydlo(ポーランド語で、『l』は『エル』ではなくひげが付いた『エウ』です」の冒頭の「pp poco a poco cresc.」という表記でしょう。自筆稿ではここは「ff」、最初からガンガン弾きまくれ、という指示になっています。ですから、「牛車が遠くから近づいてくる」というオーケストラ版で植えつけられているイメージは、作曲家のあずかり知らぬものだったのですね。もう1点、よく分かるのは「サミュエル・ゴールデンベルク」の最後の音、自筆稿は「ド・レ♭・シ♭・シ♭」ですが、リムスキー・コルサコフは「ド・レ♭・ド・シ♭」と変えてしまいました。ただ、この部分は指揮者の裁量で自筆稿の形に直して演奏するのが、最近の潮流のようです。
ただし、ラヴェルにしてもリムスキー・コルサコフ版を忠実にオーケストラ用に移し替えたわけではありません。「サミュエル・ゴールデンベルク」と「リモージュ」の間にあった「プロムナード」をカットしただけではなく、「古い城」の18小節目のあとに1小節加えたり、「殻を付けた雛」のコーダの前の2小節をカットしたりしています。
ピアノ版に関しても、ラムによる「原典版」は、決して自筆稿そのものではありませんでした。1975年に自筆稿のファクシミリが出版されると、それにしたがったさらに精緻な「原典版」も出版されることになります。その最も分かりやすい違いは、「古い城」の15小節目の右手の最後の「ソ♯」の音の長さ、ラム版は八分音符ですが、自筆稿は四分音符です(面白いことに、リムスキー・コルサコフ版は八分音符なのに、ラヴェル版でコール・アングレによって奏されるそのフレーズの頭は、四分音符になっています)。
現在では、この曲を演奏するときにリムスキー・コルサコフ版を使うピアニストはまずいません。例えば1955年のVOXへの録音で、リムスキー・コルサコフ版を使っていたブレンデルは、1987年のPHILIPS盤では原典版を使っています。もちろん、2009年に録音を行ったこのCDのオレグ・マルシェフも原典版。しかし、彼はラム版に準拠した演奏を行っています。キーシンなどは、2001年の録音でも自筆稿に準拠しているというのに。
ピアノ版と一緒にラヴェル版が入っているのがこのCDの特徴ですが、ここで演奏しているジャン・ワグネル指揮のデンマークのオーケストラ、オーデンセ交響楽団は、なんと、ラヴェルがカットした「殻を付けた雛」のコーダ前の2小節を復活しているのです。ストコフスキーの編曲などでは見られるこの形、ラヴェル版で実際に録音しているは、極めてレアなサンプルです。これあ、貴重。

CD Artwork © Donacord

7月16日

DURUFLÉ/Requiem
GRUNENWALD/De Profundis
Sarah Connolly(MS)
Christopher Maltman(Bar)
Jeremy Filsell(Org)
Jeremy Backhouse/
Vasari Singers
SIGNUM/SIGCD163


2008年2月に録音されたという、アイヴス盤に次いで新しいデュリュフレの「レクイエム」です。実は今、同じ曲の別の録音を注文しているところ、もはやこの曲はすっかり「名曲」の仲間入りをしてしまいましたね。実際、最近では、よりポピュラーだったはずのフォーレの同名曲よりもはるかに新録音が多いような気がしませんか?
つまり、かつては安直に、この兄弟のような2つの作品をカップリングしたアルバムが多かったものですが、このところそういう企画にはあまりお目にかかれない、ということにもなるのでしょう。たいがいはデュリュフレの他の合唱曲との同梱が多い中にあって、ここではジャン・ジャック・グリュネンワルドという初めて聞く名前の作曲家の作品が収められている、というのがユニークなところです。
デュリュフレが生まれた1902年の9年後、1911年ににアルプスの麓の街アルシーのそばのクラン・グブリエというところで生まれたグリュネンワルドは、オルガニストであり作曲家であったという点で、まさにデュリュフレとの共通点を持つ彼と同時代の音楽家です。作品がオルガン曲と合唱曲がメイン、という点でも共通していますが、グリュネンワルドの場合、1940年台から50年台にかけて多くの映画音楽(たとえば、1957年の「怪盗ルパン」)を作った、というところはやはり別の個性です。さらに、彼の場合建築家としての一面もあったそうです。もっとも、クセナキスやベートーヴェン(「大工」って・・・)のようにそれが音楽に反映されるということはなかったようですが。
グリュネンワルドの作品、最初はデュリュフレの「4つのモテット」でお馴染みの「Tu es Petrus」です。しかし、それはデュリュフレのような素朴な無伴奏合唱曲ではなく、壮大で華麗なオルガンの伴奏に導かれるものでした。このオルガンの色彩感は、やはり同時代のメシアンにも通じるところがあるような豊かで技巧的なものです。それに対して合唱は、あくまで単旋律を重んじたモーダルなもの、このあたりはデュリュフレとよく似たセンスでしょうね。
続いて、タイトルでは詩篇の「129番」となっていますが、一般的には「130番」の方が通りの良い「深き淵より」に基づく、本来はオーケストラ伴奏による大作が、ここではオルガン伴奏で歌われます。3つの曲から成っていて、最後の部分では詩篇ではなく、「死者のためのミサ曲」の冒頭のテキストが用いられています。これは、感動的なほど繊細な持ち味の曲、華やかさは影を潜めた、シンプルなメロディに乗った深い「祈り」の音楽です。
そして、デュリュフレの「レクイエム」。ここまで聴いてきた中で、フィルセルのとても雄弁なオルガンと、ヴァサリ・シンガーズのフランス風の匂いがむんむんという粋な合唱が印象的だったのですが、それはこの曲でも最大限に生かされていました。男声と女声の絡みなどは、かの作曲者の自作自演盤を彷彿とさせる微妙なローカリティまでも感じさせてくれます。録音があまりクリアではない分、言いようのない猥雑な雰囲気が漂っているのと同時に、激情を吐露する部分でも決して声高になることはないという、この曲に求められるものはすべて備えているような感じすら抱かせられます。
ところが、そんな夢のような気分にしばらく浸っていたころ、「Sanctus」あたりでしょうか、いきなりなんとも無気力なテナーのパートが聞こえてきました。それは、今までの美しい世界をぶちこわすほどの負の力を持つものでした。この合唱団、そんないい加減な団体ではなかったはずなのですが、とんだところで馬脚をあらわしたものです。
それに続く「Pie Jesu」も、失望感を募らせるには充分なものでした。サラ・コノリー自体には常に共感を抱いていたものでしたが、この曲を歌うには彼女の声はあまりに立派すぎます。もちろん、それはあくまで私の個人的な物差し、他の人に強要するつもりなど毛頭ありません。

CD Artwork © Signum Records Ltd.

7月14日

MOZART
Overtures
Rinaldo Alessandrini/
Norwegian National Opera Orchestra
NAÏVE/OP 30479


一見なんの変哲もないロッカーの写真、でも、このロッカーの数を数えてみると、全部で22個。確か、2006年のモーツァルト・イヤーにちなんだザルツブルク音楽祭のオペラ全曲演奏のプロジェクト名が「M22」でしたから、これは彼が作ったオペラの数?でも、このアルバムには、「オペラ」ではなく「バレエ」の序曲が1曲含まれていますから、それは変?いえいえ、「M22」の方には、普通は「オペラ」としては扱われない「第一戒律の責務」も入っていたので、差し引きちょうど22曲にはなりませんか?つまり、このロッカーの扉を開くと、その中から宝物のようなモーツァルトの序曲があらわれる、といったコンセプトが込められたジャケットなのでは。
ただ、もちろんCD1枚に22曲も入るわけはありませんから、ここでは12の作品の序曲と行進曲や舞曲など、というラインナップです。それにしても、「イドメネオ」とか「ポントの王ミトリダーテ」などという、普段なかなか聴くことのない曲が入っているのは嬉しいものです。さらにマイナーなバレエ曲「レ・プティ・リアン」の序曲まで聴けるんですからね。夫婦喧嘩の話でしたっけ(それは「プティ・リコン」)。そんな選曲でも分かるように、おそらくこれが最初のモーツァルト・アルバムとなるアレッサンドリーニは、まさに「名刺代わり」といった趣で、彼のモーツァルト像を強烈に見せつけてくれています。
そう、かつてはモンテヴェルディあたりを中心にしたレパートリーで興味深い演奏を聴かせてくれていた本来は鍵盤奏者だったアレッサンドリーニは、最近はシンフォニー・オーケストラからも共演の機会が与えられるほどのオール・ラウンドの指揮者として活躍しています。2005年からは、ノルウェー国立歌劇場の首席客演指揮者というポストまで獲得し、そこでは、モーツァルトのプロダクションなどにも参加、そこで、このオーケストラの反応の良さに惚れ込んだアレッサンドリーニは、こんなアルバムを作ることにしたのだそうです。
このオーケストラは、当然モダン楽器の団体です。しかし、彼はそんなことはあまり気にはしていないようですね。ライナーにインタビューが載っていますが、「レガートしか弾けないモダン楽器には、限界があるのではないですか?」というつまらない質問に対して「いや、モダン楽器に限界はありません。限界があるとすれば、それは演奏家です」と言いきっているのですから。
そんな風に、指揮者が演奏家に対して全幅の信頼を置いていると同時に、オケのメンバーもとことん指揮者の要求を受け入れようとしていることが、この演奏を聴くと手に取るようによく分かります。この指揮者が目指しているのは、モーツァルトが書いた全ての音符、全てのフレーズ、そして全てのハーモニーに意味を持たせることでした。それを実現させるための表情付けは、なんと細かいところまでに及んでいることでしょう。その結果、ここからは音楽のどの瞬間にも何らかのメッセージが伝わってくる、という恐るべきものが出来上がりました。そんなもの、鬱陶しいんじゃないの?と思うかもしれませんね。確かに、アーノンクールあたりはそれで墓穴を掘りましたが、そんなことがまるで感じられないのがアレッサンドリーニのすごいところなんですよ。
「ドン・ジョヴァンニ」の冒頭のアコードなどは、いともさりげない、それでいてさまざまな表情が含まれたもの、そこからは、よくあるような威圧的でおどろおどろしい演奏ではなくても、このオペラ全体の悲劇性を伝えることは出来るのだな、という驚きが生まれます。「後宮」の真ん中のゆっくりした部分のなんという安らぎ感。そして、心を打たれるのは、「劇場支配人」での、なんてことのないクレッシェンドから生まれる限りなく豊かな音楽です。
この人の作るモーツァルトのオペラはどれほどの喜びを与えてくれるのか、今からとても楽しみです。

CD Artwork © NAÏVE

7月12日

Kontra Wagner
Members, Ensembles and Guests of the Berliner Philharmoniker
COL LEGNO/WWE 1CD 60018


2007年の「ザルツブルク・イースター音楽祭」での室内楽のシリーズ「コントラプンクテ」から「リヒャルト・ワーグナーの作品」と、「反ワーグナー」というワーグナーがらみのタイトルのコンサートのハイライトです。そんな日本料理がありましたね(それは「昆布のテンプラ」・・・そんなもん、あっか!)。
なんと言っても面白いのは、「ワーグナーの作品」の方です。と言っても、まともな「作品」は「ジークフリート牧歌」だけ、あとは「ヴェーゼンドンク」の中の「夢」をヴァイオリンやトランペットのソロに編曲したものとか、さらに他の作曲家がワーグナーのモチーフを用いて作った曲が並んでいます。その中の、ヒンデミットが弦楽四重奏のためにアレンジした「さまよえるオランダ人序曲」が白眉です。というか、実は、この曲があったからこのCDを買ったようなもので。「朝の7時に、温泉地の二流のオーケストラが演奏した」というサブタイトルが付いているこの編曲は、以前こちらのWERGO盤(WER 6197-2)で聴いていました。

「編曲」というにはあまりに過激なそのプランは、いかにも「二流」の演奏家が殆ど惰性でいい加減に演奏している様子を再現したもの、それはまさに抱腹絶倒ものでした。その中で「難しいパッセージが演奏できなくて、適当にごまかす」という部分があるのですが、今回の録音でも全く同じように弾いていましたから、ヒンデミットはきっちり「ヘタ」に聞こえるように楽譜に書いていたことが分かります。他にも、全く別のキーでフレーズが現れたり、メロディそのものが微妙に変化していて笑いを誘います。長調のものを短調で演奏するといった他愛のないものなのですが、例えば「水夫の合唱」が出てくる少し前にある「ドミソラソ」という木管のツナギの部分が短調になると、日本人にとってはまるで「演歌」のように聞こえてしまって、思わず大爆笑。「あなたを待てば/雨が降る」というフランク永井の名曲の歌い出し「あなたをま」の部分ですね。さまよえるオランダ人は、時空を超えて昭和の有楽町に現れたのでしょうか。
WERGO盤のライナーでは、「これは決してワーグナーのパロディではない」と言い切っています。そんな、ありがちないい加減なオーケストラに対する皮肉なのだとか。言ってみれば、モーツァルトの「音楽の冗談」の精神を受け継いだものなのでしょう。しかし、このちょっと下品な面白さは、まさにあの「PDQバッハ」にもつながるほどの衝撃ですよ。
他にも、有名なモンティの「チャールダーシュ」をほぼ原曲通りヴァイオリン・ソロが弾いているバックで、4本のファゴット(!)がワーグナーのモチーフを織り込んだ怪しげな伴奏を繰り広げる、というアルトゥール・クルニッヒという人の編曲も笑えます。実は、先ほどの「PDQ」のピーター・シックリーの作品にも、やはりファゴット4本で「トリスタン」や「ローエングリン」をタンゴ仕立てで演奏するというもの(タイトルは「ラスト・タンゴ・イン・バイロイト」)があるのですが、もしかしたらこの日もそれが演奏されていたのかもしれませんね。これは、TELARC盤(CD-80307)で聴けます。

動画もありました。

演奏しているのは、この音楽祭のホスト・オケ、ベルリン・フィルのメンバーやゲストたちです。大きな編成の時に指揮をしているミヒャエル・ハーゼルという人は、このオーケストラのフルート奏者。ピッコロを吹いている映像によくお目にかかれます。中でも、2007年の「ヴァルトビューネ」では、アンコールの「ベルリンの風」の時に指揮者のラトルが指揮台を降りてこのハーゼルのところに歩み寄り、彼の指揮棒とピッコロを交換して、このフルーティストに代わりに指揮をしてもらう、というサプライズがありました。



それは6月のこと、4月のザルツブルクでハーゼルの指揮を見ていたラトルは、その時からこのネタを仕込んでいたのかも。

CD Artwork © col legno Beteiligungs- und Produktion GmbH

7月10日

BEETHOVEN
Die 9 Sinfonien
Herbert Kegel/
Dresdner Philharmonie
CAPRICCIO/50 000(hybrid SACD)


もう消滅したはずのレーベルの商品なのに、ネット通販のランキングですごいことになっていたので買ってみました。
ケーゲルのベートーヴェンといえば、CDが実用化された直後に、おそらく世界初のデジタル録音によるベートーヴェンの交響曲全集のCDとして発売されたものとして、記憶に残っています。録音は1982年から1983年にかけて行われ、このジャケットの左下に「MADE IN JAPAN」とあるように、輸入盤であるにもかかわらず日本でプレスされたものだったという、当時のCD製造の状況を物語るものでした。なんせ、世界中にCDを作れる工場は5つしかなかったのに、そのうちの4つまでが日本にあったというのですからね。(↓10 006-7

それから20年近く経って、CDの上位フォーマットであるSACDが発表されたときにも、このレーベルは高い関心を示したようです。その力の入れようは、2003年にリリースされたこのボックスセットを見れば分かります。外側を覆っているのは、普通のCDのようなスチレン樹脂によるペナペナなケースではなく、なんと3oもの厚さを持つアクリル板を貼り付けたものなのですからね。これだったら、飽きられることはないでしょう。さらに、その際に行われたSACDのためのマスタリングに使用された機材の詳細なリストにも圧倒されてしまいます。ただ、肝心の録音ソースが「1/4インチテープ」というのは分かりますが、その後の「DATとCD」というのが、なんとも不可解です。マスターテープ以外にDATやCDをいったいなんの用途で使ったのでしょう。ロケーションが記載されていないのも不思議ですが、これは音を聴けば録音を担当したドイツ・シャルプレッテンのスタッフがいつも使っていたドレスデンのルカ教会であることは分かります。それらしい写真がさっきのCDには付いていましたし。
そのCD、なんせ最初に買った何枚かのうちの一つですから、ある意味愛聴盤、何回も聴き込んで隅々まで頭に入っているものでした。それがSACDになってどれほどの変化があったのか、この、いかにも「よい音」を目指しているはずの機材のリストを前に、期待はいやが上にも高まります。
確かに、このSACDの音は、かつてのCDとははっきり変わっていました。それはまさに「別物」と言っても構わないほどの変化です。なによりも、個々の楽器の音色の生々しさと言ったらどうでしょう。CDではなにか1枚カーテンのようなもので仕切られていたものが取り払われて、リアルな音があらわれた、そんな感じでしょうか。
しかし、その「生々しさ」が、何か人工的で不自然な感じを伴うものであることには、とまどいを感じざるを得ません。弦楽器など、「リアル」ではあるものの、決して「美しい」とは感じられません。さらに、ここからは、このスタッフのほかの録音、そしてもちろんこのSACDと同じ音源によるCDでは常に感じられていたルカ教会のアコースティックスが、まるで伝わってはきませんでした。豊かな残響に包まれて、まさにいぶし銀のような渋い響きを醸しだしていたオーケストラの音は、まるで化粧をはぎ取られた熟女のような、醜い姿をさらし出していたのです。柔らかに溶け合っていた各々の楽器たちが、むりやり引き裂かれて裸にされてしまった様子は、例えば「第9」のフィナーレのチェロとコントラバスのユニゾンによるレシタティーヴォを聴けば良く分かるはずです。そういえば、機材の中にはコンプレッサーやイコライザーも含まれていましたね。
ケーブルを変えただけでガラリと音が変わってしまうのが、マスタリングの恐ろしさです。どんな立派な機材を揃えたところで、エンジニアの耳、あるいは趣味が悪ければはるかに低スペックのCDからでさえ感じとることが出来た繊細な雰囲気が、まるで台無しになってしまうこともあるという、これはそんな実例です。
ビートルズのデジタル・リマスター盤が出る前に、今のCDを買っておこうという人がたくさんいるのだそうです。同じような危惧を抱く人は、ジャンルを問わずに多いようですね。

SACD Artwork © Delta Music GmbH

7月8日

ABBEY ROAD A Capella
Atrium Ensemble
MUSICAPHON/M 56893


最後のアルバムを録音、バンドとしての活動に終止符を打ってからもはや40年が過ぎようとしているというのに、「ザ・ビートルズ」の人気、というか、セールスの勢いは衰えることはありません。あと2ヶ月ほどすると、彼らのすべてのオリジナル・アルバムに最新の技術でデジタル・リマスタリングが施されたCDが全世界で同時に発売になるのだとか、まさに、クラシックに於ける「カラヤン」みたいなアーティストですね。
その、彼らが1969年に録音した事実上のラスト・アルバム「アビー・ロード」(もちろん、その前に録音されていて、1970年になってからリリースされた「レット・イット・ビー」が、「公式」のラスト・アルバム)は、まさに彼らの最後を飾るにふさわしい、高い完成度を持ったものでした。中でも、「Because」や「Sun King」でのコーラス・ワークは、「ロックバンド」としてのスキルをはるかに超えた、そう、クラシック・ファンにさえも満足感を与えるほどの高度のアレンジと卓越したパフォーマンスに飾られたものでした。
そんなところに目をつけたのでしょうか、普段はロマン派の曲、シューマンやブラームスをレパートリーにして活躍している「アトリウム・アンサンブル」という親しみやすい名前(それは「アトホーム」)のドイツの男声4人組のアカペラグループは、フランク・シュヴェンマーというアレンジャーの手を借りて、このアルバムのすべてのナンバーを無伴奏合唱曲として演奏することを思いつきました。そんな、声だけによる「完コピ」という意気込みは、すでにCDのアートワークにも表れています。ブックレットの下の方に見えるのは、ご存じ、オリジナル・アルバムに使われているEMIのアビー・ロード・スタジオの前の横断歩道の写真にフィルターをかけて荒くしたものですし、タイトルの文字もオリジナルのジャケットの裏側からのコピー、もう少し範囲を広げたものが、インレイのデザインにも用いられています。
シュヴェンマーのアレンジは、ですから、オリジナルをとことんコピーしまくった労作となっています。なにしろ、ボーカルだけではなく、すべてのパートを「声だけ」で再現しようとしているのですからね。ギターのソロなどもしっかりそのままのフレーズを歌ってくれているのには、まさに「ご苦労様」と言いたくなってしまうほどです。「Something」のジョージのソロなども、後半のちょっとダルなところまできちんとやってくれていますよ。「A面」最後の盛り上がりも、これは録音技術もフルに動員してあの壮大な「カット・アウト」を実現させていますし。圧巻は、切れ目なくつながっている「B面メドレー」。中でも、「The End」につながるリンゴのドラム・ソロから、ポール、ジョージ、ジョン(だったかな?)3人のギター・バトルにまで「声だけ」で挑戦してくれているのには、涙さえ出そうになってくるほどです。もちろん、隠しトラックの「Her Majesty」も、オリジナル通りの空白の後に聞こえてきます。
と、アレンジのプランには思わず脱帽させられてしまうものの、このグループの演奏のユルさには、閉口してしまいます。さっきの「B面」の「Polythene Pam」の前でなんだかフワフワしたアルペジオみたいなものが聞こえていたのが、あの硬質のギター・カットだったなんて、しばらくしてから気づいたほどですから。何よりもいけないのは、トップ・テナーやバリトンのソロ。こんなシューベルトみたいなアバウトなノリでビートルズを歌われたのでは、たまったものではありません。肝心のコーラスにしても、「Because」の高音のオブリガートなど、「コーラス」に関してはシロートに違いないジョージの方がはるかに的確なピッチとセンスを持っていることに気づくはずですよ。
クラシックのアーティストがビートルズに挑戦するのがいかに危険なことなのかを証明する実例が、また一つの手に入りました。

CD Artwork © Klassik Center

おとといのおやぢに会える、か。


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