着ぐるみあり人形。.... 佐久間學

(09/5/28-09/6/15)


6月15日

Weihnachten in Europa
Wieslaw Delimat, Pablo Heras-Casado,
Povilas Gylys, Joshard Daus/
EuropaChorAkademie
GLOR/GC08161


このレーベル、以前からも例えばドミンゴが指揮をしたヴェルディの「レクイエム」などをリリースしていたのですが、最近ロゴやらジャケットデザイン、さらには品番の付け方なども一新してガサっと国内市場に登場しました。レーベルの内容は、お馴染みヨスハルト・ダウスの指揮する「オイローパ・コア・アカデミー」をメインとするものには変わりはありませんが、今回はダウスが合唱指揮だけで、オケはカンブルランやギーレンが指揮をしているアイテムも含まれています。それと、その合唱団、ドイツ語表記の「Chor」の部分が、以前はイタリックだったものがそうではなくなっているのも、リニューアルの成果なのでしょうか。
このアルバムは、オーケストラとの共演ではなく、合唱団だけのアカペラの演奏が収められたものです。曲目は、タイトルでも分かるとおり「ヨーロッパのクリスマス」です。このパッケージにはこのレーベルのプロモーションDVDが同梱されていて、ダウスやその合唱団の素顔が紹介されています。それによると、メンバーは文字通りヨーロッパ中の国から集まっていることが分かります。映像を見る限りでは、アジア系の人もいますし。そして、このアルバムのラインナップは、そんな、さまざまなルーツを持つメンバーを反映したものになっています。
全体の構成は4つのパートからなっていて、それぞれポーランド、スペイン、リトアニア、そしてフランスとドイツのクリスマスがらみの曲が演奏されています。もう一つの企画は、最後のフランスとドイツのパート以外は、ダウスではなくそれぞれの国の出身の指揮者が指揮をしているというもの。スペインのパートを指揮しているヘラス・カサドなどは、30歳になったばかりという若者です。
ポーランド・パートは、古い伝承曲を編曲したものが集められています。オーケストラといっしょに歌っていたときにはあまり気づかないような、ちょっとした不揃いな音色や、ちょっと方向性の定まらない音楽の作り方、といったものは、おそらく他の指揮者による不慣れな面が影響しているものなのでしょうか。これは、ある程度仕方のないことなのかもしれません。
しかし、次のスペイン・パートで演奏されていた、ルネサンス期の作曲家、ヴィクトリアとかゲレーロといった人たちの作品を聴くと、なんともこの合唱団との違和感だけが強く迫ってきてしまいます。このような緻密なポリフォニーには、それなりの修練が必要であることが痛感されます。特に、全体の流れを遮るようなかなりダイナミックな抑揚が、「ちょっと違うな」という感じ。
さらに、続くリトアニア・パートも、なにか今までイメージしてきた「バルト三国」の合唱とは微妙に異なった、「余分な元気良さ」のようなものがあふれています。そう思わせられるのは、主にソプラノの積極的な歌い方のせいなのでしょうか。
そして、いよいよダウスが指揮をするフランス・ドイツ編。最初はプーランクの「クリスマスの4つのシャンソン(モテット)」です。この超有名曲、あまたの名演の前ではかなりハードルが高くなってしまいますが、最低限クリアして欲しいプーランクならではのハーモニーの妙が全く感じられないのには、かなり失望させられてしまいます。そういえば、先ほどのスペインのポリフォニーもかなり悲惨な音程だったことを思い出しました。オーケストラの中ではあれ程の完成度を見せていたというのに、何と言うことなのでしょう。
最後のドイツ編も、「きよしこの夜」のなんとも無神経な編曲にはたじろぐばかり、続く名曲たちも、ついになにかを訴えかけるほどのテンションを見せることはありませんでした。これが、この合唱団の実力では決してないはずです。それとも、ほかの魅力で迫る?(それは「オイローケ・コア・アカデミー」)

CD Artwork © Glor Music Production GmbH & Co.

6月13日

MOZART
Arias & Overtures
Helena Juntunen(Sop)
Dmitri Slobodeniouk/
Oulu Symphony Orchestra
ALBA/ABCD 267(hybrid SACD)


いかにも北欧系、抜けるように白い肌ときらめくばかりのブロンドの髪を持つ女性の写真に惹かれて、つい手を出してしまったアルバムです。モーツァルトの序曲とアリア集ですが、こんな美しい人が歌うのですから、きっと素晴らしいアルバムに違いない、と。
オーケストラは、フィンランドの中部、ボスニア湾に面した都市オウルにある、70年以上の歴史を誇るオウル管弦楽団です。指揮者のドミトリー・スロボデニウク(ロシア系ですが、小さい頃からフィンランドで育った方)ともども、名前も、そして演奏も実際に聴くのはこれが初めてのことになります。
まず、そのオーケストラによる「序曲集」では、あまりにマイナーな曲が多いことに軽い驚きが走ります。なにしろ、「有名」な曲は「魔笛」しかないのですからね。オペラ自体は有名でも、「ブッファ」の序曲の中ではダントツで演奏頻度の低い「コジ」に続いて、「イドメネオ」、「ルーチョ・シッラ」、「ティト」という「セリア」の序曲が並ぶのですから、その渋さは際立っています。しかし、「ルーチョ・シッラ」あたりは、多楽章形式のまさに「シンフォニア」といっても良い堂々たるフォルムに、新鮮な感動が味わえることでしょう。
と同時に、「イドメネオ」を聴いている時にふと感じたのは、モダン楽器による弦楽器のアンサンブルの爽やかさでした。途中で出てくる上昇スケールの音型が、とても心に響いたのです。SACD、しかも、録音は「2L」でお馴染みの「DXD(Digital Extreme Definition)」という、「DSD」の4倍のデータ量を誇る高解像度のフォーマットから聞こえてきたそのみずみずしさは、まさに「心を洗われる」ようなものでした。
ティンパニや金管はおそらくオリジナルに近い楽器を使っているような気がしますが、この弦楽器はなんとも華麗なモダンそのものの響きです。最近はモーツァルトでも殆どオリジナル指向の演奏しか聴くことがなくなっていたところに、これはまさに忘れかけていた感覚を呼びさまされるものでした。ていねいに磨き上げられたモダン弦楽器の極上の響きは、たとえ「オーセンティック」という面からは外れていても、いい加減なオリジナル楽器による演奏よりはるかに質の高いものを伝えてくれることもあるのでしょうね。それは言うまでもなく、往年の「巨匠」たちによる仰々しいスタイルとは次元の違う、垢が落ちて一皮剥けたものになっているはずです(「温泉ティック」ね)。
しかし、声楽のフィールドでは、そのような体験は殆ど味わうことはできません。バロック期の歌い方を身につけた歌手の台頭によって、モーツァルトの時代の作品までもが過剰なエモーションを交えて歌われることはなんとも場違いであることに、人々は気が付いてしまったのです。特にソプラノのロールでの、ベル・カント丸出しの歌い方などは、もはやモーツァルトでは殆ど通用しなくなっているのではないでしょうか。
そんな流れの中で、この美しいヘレナ・ユントゥネンは、ギリギリ従来の様式でも受け入れられるほどの軽やかさを持ち合わせていました。それは、先ほどのようなオーケストラの中だからこそ、さほどの違和感がなかったのかもしれません。
彼女が歌うナンバーも、なぜか序曲が演奏されていない「フィガロ」の中のロジーナのレシタティーヴォとアリアを除けば、「コジ」のフィオルディリージや「イドメネオ」のイリアのアリアといった、マイナーなものばかりです。そんな中で、プラハのドゥシェック夫人のために作ったレシタティーヴォとアリア「私のうるわしい恋人よ、さようなら」「とどまって下さい、ああいとしい人よ」での不思議な半音進行で、新たなモーツァルトの魅力に気づくことがあるのではないでしょうか。

SACD Artwork © Alba Records Oy

6月11日

HOWELLS, WHITACRE, PIZZETTI
Requiem
Conspirare
HM/HMU 807518(hybrid SACD)


「コンスピラーレ」というのは、四国地方(それは「コンピラーレ」)ではなく、テキサス州オースティンを本拠地に活躍しているアメリカの合唱団です。またの名を「クレイグ・ヘラ・ジョンソンとカンパニー・オブ・ヴォイセズ」、日本の演歌系コーラスグループの名前のノリですね。「敏いとうとハッピー&ブルー」とか「内山田洋とクールファイブ」でしょうか。
「クールファイブ」は6人編成ですが、こちらは、アメリカ全土から集まったプロのシンガーによる40人ほどの中規模の合唱団、テクニックにしても表現力にしても、かなりのハイレベルのものがあります。時折ソロを取っているメンバーも、とても立派な声の人たちばかりです。創立者である音楽監督のジョンソンは、指揮はもちろん、ピアノ伴奏から編曲までも手がけるという幅広さ、合唱団のレパートリーも、時代やジャンルを超えた幅広さを誇っています。
このアルバムには、タイトル通り「レクイエム」という表題を持つ曲を始めとした、「死」とか「思い出」がテーマとなっている作品が集められています。1曲を除いてはすべてアカペラ、合唱団の力量とソノリテが勝負の曲ばかりです。
まずは、多くの名盤が揃っているハウエルズの「レクイエム」。今まで聴いてきたものは、この曲の持つ繊細さを前面に出した演奏だったような気がしますが、ここではそれよりももっとはっきりした「力」が感じられるものでした。そもそも、この録音がSACDでありながらかなりヌケの悪い、何か押しつぶされたような不愉快な音なものですから、せっかくのハウエルズの緻密な和声が伝わって来にくいところがあります。合唱そのものは、全く破綻のないもの、特にベースの響きには圧倒されるのですが、そんな録音ですから、肝心のソプラノの声のまとまりが犠牲になっているように聞こえてなりません。
「ポリフォニー」の名演で馴染んでいるエリック・ウィテカー(代理店のインフォに「ホワイテークル」とあったので、誰のことかと思ってしまいましたよ)の「hope, faith, life, love」と「i think You God for most this amazing day」では、やはり同じ国の作曲家という部分でのシンパシーがあるのでしょうか、特に言葉の面での積極的なアプローチが心を打ちます。しかし、やはり録音のせいなのでしょう、クラスターの響きが何か生々しすぎて素直に入っていくことが妨げられてしまいます。
ピッツェッティの「レクイエム」というのは、初めての体験でした。いにしえのポリフォニー(あ、これは先ほどのイギリスの合唱団の名前とは別、本来の意味でのタームです)を現代に再構築したという趣の、なかなか美しい曲ですね。「Dies irae」では、有名なグレゴリアンのテーマがフルコーラス引用されていて、親しみを感じさせるという工夫も。「Sanctus」あたりの盛り上がりもなかなかのものです。あいにく、そんなフルレンジの部分での飽和しきった録音は悲惨ですが。
これが世界初録音となるドナルド・グランザム(代理店のインフォでは「グラントハム」)の「We remember them」という小品は、オーソドックスな和声とホモフォニーという平易な曲。最後に9の和音が延々と引き延ばされたあとに解決する三和音の純粋さに「救い」を見る思いです。
もう一つの初録音の曲は、シンガー・ソングライターのイライザ・ギルキソン(代理店のインフォでは「エリザ・ギルカイソン」)が、2004年にアジアを襲った津波に触発されて書いたポップ・チューンを指揮者のジョンソンがピアノ伴奏付きの混声合唱に編曲したバージョンです。フォーク・テイストのシンプルな訴えかけにあふれた曲ですが、ここではピアノが最悪の音で録音されています。ちなみにこのレーベルの代理店はあの「キングインターナショナル」です。

SACD Artwork c Harmonia Mundi USA

6月9日

HAYDN
Concerto, notturno per lire organizzate
Matthias Loibner,
Thierry Nouat(Lire organizzate)
Christophe Coin/
Ensemble Baroque de Limoges
Quatuor Mosaïques
LABORIE/LC 03


先日のアルペジオーネに続いて、またまた「現代では消滅した」楽器に関するCDです。その楽器の名は「リラ・オルガニザータ」、なんか、イタリアンのメニューみたいで、おいしそうですね。どんな味がするのでしょう。いやいや、これは、18世紀の半ばに流行した、言ってみれば「ハーディ・ガーディ」と「オルガン」が合体した楽器です。食べられません。もちろん、竹内まりやの曲とも関係はありません(それは「ハーティ・パーティ」)。
「ハーディ・ガーディ」は英語ですが、ドイツ語では「ライアーLeier」、この言葉から、シューベルトの「冬の旅」の最後の曲、「Der Leiermann」を思い出す人もいるのではないでしょうか。「辻音楽師」などとも訳されていますが、いわばストリート・ミュージシャン、ギターではなくハーディ・ガーディをかき鳴らしながら物乞いをしている男のことなのでしょう。その最後の歌詞が「Deine Leier drehn?」、「おまえのハーディ・ガーディを『回して』くれるだろうか?」。楽器を演奏するときには、普通「回す」という言い方はしませんよね。「弾く」とか「吹く」とか「叩く」が一般的。つまり、この楽器ではこの「回す」いう動作がポイントになってくるのです。

このように、「ハーディ・ガーディ」の外観は、ちょっと太った大きめのヴィオラ、といった感じです。ただ、そのおしりの部分には、ハンドルが付いていて、それでローラーを「回し」、弦を振動させて音を出します。指板には鍵盤のようなものが付いていますが、その先には「タンジェント」という「駒」があって、鍵盤を押さえるとある長さの弦だけが振動して、音程が変えられるという仕組みです(分かりますか?)。日本に「大正琴」という楽器がありますが、まあ、あんな感じ、ただローラーで音を出すので、長い音を出すことが出来るのが、違いでしょうか(大正琴は弦を弾くだけ)。

さらに、鍵盤で押さえない「ドローン弦」というのがあって、それは常に同じ音を出しています。さっきの「辻音楽師」のピアノ伴奏でも、そんな感じが表現されていますね。
その「ハーディ・ガーディ」を机のようなものの上に乗せて、楽器のまわりとその「机」の中にオルガンのパイプを並べた楽器が、今回の主人公「リラ・オルガニザータ」です(ふう、やっとたどり着いた。前置きの長かったこと)。

このCDでは、ロンドンの博物館に保存されていた楽器を元に作られたコピーが2台用いられています。この楽器の音が資料ではなく、音楽として実際に聴けるのは、おそらくこれが初めてのことではないでしょうか。機構的にどうなっているのかは良く分かりませんが、「弦楽器」の部分と「オルガン」の部分が、時には別々に、そして時には一緒に演奏出来るようになっているために、その音色にはさまざまなヴァリエーションが与えられることになります。ここでも「協奏曲」ではほとんどオルガンの音しか用いられていないようですが、「ノットゥルノ」になるとなんともけたたましい、まさに「ハーディ・ガーディ」の面目躍如といった特徴的な音が聞こえてきます。
ちなみに、ハイドンの「リラ・オルガニザータ」のための曲は、現在では、普通に演奏するときには、フルートなどの管楽器で代用されることが多くなっており、それ用の楽譜も出版されています。そんな「普通」の例の中で、つい最近出たのがこれです(NAXOS/8.570481)。

ここでは、リコーダー、フルート、オーボエなど、楽器の組み合わせに一工夫あって、オリジナルの味を出そうとしているように見えます。でも、「本物」を聴いてしまうと、なんかただの曲、みたいになってしまって、あまり面白くなくなってしまうのが、不思議なところです。
もう一つ、指揮者のコワンが弾いている「バリトン」という、共鳴弦がいっぱいくっついた楽器も、その独特の不思議な音を聴くことが出来ます。珍しい楽器ファンにはお薦め。


CD Artwork © LABORIE Records, Naxos Rights International Ltd.

6月7日

PENDERECKI
Utrenja
Iwona Hossa(Sop), Agnieszka Rehlis(MS)
Piotr Kusiewicz(Ten), Piotr Nowacki(Bas)
Gennady Bezzubenkov(Basso profundo)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Dhoir and Orchestra
NAXOS/8.572031


ペンデレツキの1970年の作品「ウトレンニャ」といえば、ユージン・オーマンディという、およそ彼のそれまでの作品とはミスマッチだと思われた指揮者に献呈されたことで知られています。4月にアルテンベルク大聖堂でアンドロジェイ・マルコフスキの指揮によって世界初演が行われた後、同じ年の9月にオーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団によってアメリカで初演され、その直後に録音されたものがこちら、「ウトレンニャ〜キリストの埋葬」です。今回のヴィット盤では、オーマンディ盤が録音された次の年に作られた「第2部」にあたる「キリストの復活」が加わっています。そもそも「ウトレンニャ」というのは、聖週間あたりの朝の礼拝のことを指し示す言葉なのだそうですね。つまり、キリストが「埋葬」され、さらに「復活」が起こる、というシチュエーションでの礼拝ということになるのです。
そんな礼拝の意味を持つ音楽に、作曲者が用いたテキストは、ロシア正教で使われている古代のスラブ語でした。そして、歌手たちの陣容の中に「バッソ・プロフンド」というキャラクターが起用されているのが極めて特徴的なテイストを持つことになります。これは、「オクタビスト」とも呼ばれ、納棺の仕事(いや、それは「オクリビト」)はしませんが普通の「バス」のさらに1オクターブ下の音まで出すことが出来るという、スラブ民族特有の声の持ち主のことを指します。さらに、オーマンディ盤ではあまり気づきませんでしたが、ここでのテノールのソリストは、ファルセットを多用したなんとも言えない妖しさを持っていました。
これらの、いわば「スラブ的」な礼拝音楽を作り上げる最後の仕上げが、そんなロシア正教っぽい「聖歌」の挿入です。「第1部」を聴いたときにいとも唐突にあらわれるその「聖歌もどき」は、1964年の名作「ルカ受難曲」の流れを汲むクラスターやシュプレッヒ・ゲザンクの中にあって、なんとも居心地の悪い印象を与えていたものです。そして、今回初めての体験となる「第2部」になると、その「聖歌もどき」の扱いが「第1部」とは比べものにならないほど重要さを増しているように感じられてしまいます。生きの良いアウフタクトを持つその「聖歌」は、まるでこの曲の最も重要なテーマのような扱いを受けていると言ってもおかしくはないほどの頻度をもってあらわれます。それと同時に、全体の音楽までもが前作とは微妙に異なる整然としたたたずまいの中にあることにも気づかされます。一見暴力的で無秩序なように聞こえがちな打楽器の連打の中にも、なにか居心地の良い規則性を見いだすのは、それほど困難なことではありません。
たった1年の間にこれだけの様式の変化が見られるというのは、尋常なことではありません。しかし、巨視的な見方をすれば、作曲家はこの作品の中で、極めて周到に外部へ向けての自己変革の準備を行っていたことに気づかされます。おそらく、デビュー以来彼のアイデンティティとして誰からも認められていた「アヴァン・ギャルド」の様式には、もはや1960年台後半には彼自身が見切りを付けていたのではないでしょうか。かといって、いきなり「リニューアル」をしたのではファンからはそっぽを向かれてしまいます。そこで、おそらく1970年台の半ばごろまでの長い時間をかけて、彼の中ではすでに終わっていた過去の様式をさも大事に持ち続けているフリをして、実はより「親しみやすい」スタイルへ移行しようと目論んでいたのではないでしょうか。1974年の「マニフィカート」あたりでは、それはほぼ成し遂げられていたのでしょう。
そんな「周到」というよりは「姑息」な作曲家の「裏切り」の足跡が見事に透けて見えるのがこの作品、特に「第2部」であることを、こちらで確かめられてはいかがでしょうか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

6月5日

HASSE
Cleofide
E. Kirkby, A. Mellon, R. K. Wong(Sop)
D. L. Ragin, D. Visse, D. Cordier(CT)
William Christie/
Cappella Coloniensis
PHOENIX/178


かつてのCAPRICCIOレーベルのライセンスを獲得したPHOENIXから、カペラ・コロニエンシスのCDがまとめて何枚かリリースされました。アウグスト・ヴェンツィンガーを指揮者に迎えて、1954年にケルンのWDR(当時は「NWDR」)によって結成された、この世界初のオリジナル楽器によるオーケストラは、もちろんその時代ですから、今言うところの「オリジナル」とはずいぶん様子が違っていたのでしょうね。その少し後にフライブルクで結成された「コレギウム・アウレウム」と同じように、当初はかなりいい加減なことをやっていたようです。楽器も演奏様式も、まだまだ研究途上でしたから、仕方がないといえば仕方がないのでしょうが、そんなものが永続するわけはなく、「アウレウム」はいつの間にか消滅していましたね。それは歴史の必然、哀れうむことはありません。
しかし、「コロニエンシス」の方は、その活動課程でしっかりした「オリジナル」のカテゴリーとして認められるだけの資質を持った団体に変わっていって、現在に至るまでの長い歴史を誇っています。1997年からはブルーノ・ヴァイルが指揮者となり、例えばウェーバーの「魔弾の射手」や、ワーグナーの「さまよえるオランダ人」の初稿による世界初録音(↓)などの注目盤をリリースしています(DHM/82876 640710 2)。

1986年に、ウィリアム・クリスティを指揮者に招き、当時の「オリジナル」界のスター歌手を集めて録音されたのが、このハッセの「クレオフィーデ」です。CAPRICCIO時代には4枚組の全曲盤だったものが、今回は1枚だけのハイライト盤としてのリリースです。タイトル・ロールを歌っているカークビーのアリアが最も多く収録されて、まるで彼女のソロ・アルバムのような体裁になっています。
1699年に生まれて1783年に亡くなった、ドイツ人でありながら生涯に74曲ものオペラを作った「イタリア・オペラの作曲家」ヨーハン・アードルフ・ハッセが1731年に作ったのが、この作品です。もちろん、この曲を聴くのは初めてのことですが、クリスティの生き生きとした指揮のおかげもあって、当時の人気作曲家であったハッセの実力が、存分に味わえるものに仕上がっています。
溌剌としたオープニングの序曲は、そのあとにゆっくりとした叙情的な部分、メヌエット、そしてアップテンポのフィナーレと、まさに「交響曲」と同じ4楽章形式を持ったものでした。ハイドンがそういう形の「交響曲」を作るずいぶん前に、ハッセはこんなことをやっていたのですね。
実は、カークビーよりも、アニェス・メロン、ドミニク・ヴィスという、当時クリスティのもとで「レ・ザール・フロリサン」のメンバーとして活躍していたカップル(今でもそうなのでしょうか)が聴けるというのが、お目当てでした。メロンの方は、カークビーとのレシタティーヴォを1曲と、アリアが1曲入っています。こうして並べてみると、カークビーとはまた違った、清楚な魅力が強く感じられます。ヴィスは、なんと言っても変幻自在のダイナミックな歌がたまりません。
ヴィスが歌っているこのアレッサンドロのアリアにはホルンとリュートのオブリガートが付いています。なんと、ホルンのカデンツァまで。そんなところもハッセの、ちょっと今までのイタリア・オペラよりはヴァラエティが感じられる斬新な様式のあらわれなのでしょう。
やはり、楽器をコンチェルタンテ風に扱っているのが、第2幕の「Appena amor sen nace」というティマゲーネのアリアです。ここでは2本のリコーダーが華麗な名人芸を披露してくれます。それと同時に、この曲の構成のなんとキャッチーなことでしょう。ちょっとお高くとまった今までのオペラとは確実に変わっている親しみやすさ、しかも、同じメロディを何回も繰り返すという「ヘビーローテ」の手法まで取り入れて、ハッセは確かに聴き手の心をつかむ術を、見事に手中にしていたのですね。

CD Artwork © Phoenix Music Media, BMG Ariola Classics GmbH.

6月3日

SCHUBERT
Music for Flute and Piano
Uwe Grodd(Fl)
Matteo Napoli(Pf)
NAXOS/8.570754


以前同じレーベルのヴァンハルでご紹介した、ニュージーランドで活躍している、ドイツ人の指揮者兼フルーティストのウーヴェ・グロットの、シューベルト・アルバムです。今回のパートナーはマッテオ・ナポリという、まるでイタリアのヒット曲みたいな名前(それは「待ってよ、ナポリ」・・・あ、そんな曲はありません)のピアニストです。
シューベルトのフルート・アルバムといえば定番の「アルペジオーネ・ソナタ」と「しぼめる花変奏曲」の他に、テオバルト・ベームが作った「6つのシューベルトの歌曲」という、ちょっと珍しい曲が演奏されているのが、ここでの目玉でしょうか。ベームといえば、フルートという楽器を今のような形に改良した人として知られていますね。当然、その曲は彼の作った楽器のために書かれてものです。そういう見方をすると、このアルバムの収録曲は、本来使われるべき楽器がすべて異なっていることに気づかされます。「アルペジオーネ・ソナタ」は、文字通り「アルペジオーネ」というまさにこの1曲のみで音楽史に名前を残している珍しい楽器のために作られたものです。

これは、チェロのように膝の間に挟んで弓を使って演奏するものの、弦は6本でギターと同じチューニング、指板にはフレットも付いているという、まさにチェロとギターを合体させたような楽器です。あるいは、ヴィオラ・ダ・ガンバに非常に似ている楽器と言えるのかもしれません。それをフルートで演奏するときには、最低音はフルートでは出すことの出来ない低いミですし、重音も出てきますからそれなりの「改変」を行う必要があります。そもそも、音域自体も1オクターブ高くなりますし。現在ではゴールウェイやトレヴァー・ワイなど、多くのフルーティストによる編曲楽譜が出版されていますが、ここではグロット自身の編曲が使われています。
さらに、「しぼめる花」が作曲された頃には、まだベームの楽器は完成してはいませんでした。シューベルトが想定したのはこの曲を作るきっかけとなった友人のフェルディナント・ボーグナーが使っていた、低音のHまで出すことの出来る9キーの楽器だったはずです。
ベームの「6つの歌曲」は、以前はウィリアム・ベネットが1985年に日本で録音したもの(CAMERATA)があったのですが、もう廃盤になっているようなので、おそらくこれが現在入手可能な唯一の録音になるはずです。タイトルの通り、シューベルトの「冬の旅」から「おやすみ」と「菩提樹」の2曲と、「白鳥の歌」から「漁夫の娘」、「セレナード」、「海辺で」、そして「鳩の便り」の4曲が集められています。「変奏曲」というほどの大げさなものではなく、元の歌曲の尺をそのまま保って(ピアノ伴奏はほとんど変わりません)自由に装飾を施した、という仕上がりになっている楽しい曲です。有名な曲ばかりですから、ここでのベームの手の内がとても良く分かる、というのが一つの魅力でしょう。フルートという楽器を知り尽くした人の、フルートをいかに華麗に聴かせるか、というノウハウがこれらの曲の中にはぎっしり詰まっていますよ。ちょっとバランスに問題のあったベネット盤に比べると、こちらはフルートの音がとてもくっきり録音されていますから、そのあたりの「仕掛け」はよりはっきり分かることでしょう。
ピアノ伴奏がスタインウェイとは思えないようなとても柔らかい響きに聞こえるのが素敵です。フルートの方は、かなりリアルな録られかた、あまりに細かいところまで聞こえてしまうので、ちょっと演奏家にとっては辛いところがあるかもしれません。しかし、グロットの低音から高音まで良く響く伸びやかな音は、確かな存在感として迫ってくるものがあります。
ただ、問題は彼のテクニック。「歌曲」ではほとんど目立たないものの、さすがに「しぼめる花」ではその衰えは隠しようもありません。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

6月1日

Djonki don
Nordic Voices
AURORA/ACD 5055(hybrid SACD)


またものすごいヴォーカル・アンサンブルを見つけてしまいました。「ノルディック・ヴォイセズ」という、1996年に結成されたノルウェーの6人組のアンサンブルです。メンバーは女声3人、男声3人、それぞれノルウェー音楽アカデミーか、オスロ・オペラ・アカデミーを卒業したという「プロ」の音楽家ばかりです。ただ、メンバーの音楽的なバックグラウンドは多様で、合唱だけではなくオペラや指揮、そして作曲などのジャンルにわたっているのだそうです。実際、このアルバムの録音のあとで、この6人のオリジナル・メンバーのうちの一人、ベース担当の人は、しばらく作曲に専念したいということで、一時他のメンバーに替わっているということです。
彼らのレパートリーは「中世」から「現代」までの幅広い時代をカバーしていますが、このアルバムでは「現代」の作品が演奏されています。全部で6人の現代ノルウェーの作曲家の作品、1曲を除いてはすべてこのアンサンブルのために作られた「新作」です。もちろん、全て無伴奏。そう、彼らの活動の最大のものは、そのようにして新しい作品を産み出す、というものだったのです。なんたって、このAURORAというのは、「ノルウェー作曲家協会」のレーベルなのですからね。そんな作曲家たちが合唱音楽の可能性を広げたいというときに、それに応えるだけのスキルと音楽性を備えていたいというのが、彼らの殆ど使命感のようなものなのでしょう。そのテクニックには、とてつもないものがありました。
とは言っても、ノルウェーの現代の作曲家といったらとりあえずニューステットぐらいしか思い浮かばないものとしては、ここに現れている人たちは全く馴染みがありません。正直、読み方も分からないぐらいで。そもそも、アルバムタイトルからして、インターネット環境では正確には表示できないものでしたしね。
まず、1曲目のラッセ・トゥーレセンの「Diphonie I」という、テキストをもたないサウンドで勝負、といった感じの曲では、なんと「ホーミー」が使われていたのに驚かされます。台所用洗剤ではありませんよ(それは「チャーミー」)。モンゴルの「倍音唱法」として知られているテクニックですが、ノルウェーの民族的な発声で同じようなものがあるのでしょうか。全員がこの「ホーミー」をきっちりコントロール出来るまでにマスター、それをアンサンブルで聴かせるというのは、ある意味「奇跡」に近いものがあります。この曲の終わり近く、7分22秒あたりで、タイトルの「ジョンキ・ドン」というリズミカルな5拍子のパーカッシブなパターンが聞こえてきます。楽譜にはジャケットのようなスペルで「擬音」が表記されているのでしょうね。
3曲目、ヘンリク・オーデゴールの「O Magnum Mysterium」という馴染みのあるクリスマスのテキストの曲になると、その「ホーミー」が、「声明」と合体しましたよ。世界中の素材を取り入れようという彼らの貪欲な精神には敬服してしまいます。
ところで、日本の仏教寺院のお盆の恒例行事「御施餓鬼会」では、1000軒を超える檀家さんに対してまとめて供養を行うために、最後に10人以上の僧侶が分担して檀家名を読み上げるというシーンがあります。そこにはまさにクラスターにも似た混沌が出現するのですが、5曲目のセシーリ・オーレ の「Schwirren」という、アルバム中最大の長さを誇る作品で「素」のテキストの朗読が複数のメンバーによって同時に行われたときに、思わずそれが連想されてしまいました。
この中ではコーレ・コルベルグの「Plym-Plym」1曲だけは1967年に作られたものです。しかし、まるで「歌謡曲」のようなクリシェ・コードの引用があったりするこの曲の方が、他の21世紀の作品よりキャッチーに聞こえるのは、なぜなのでしょう。もちろん、「今」の作品に的確に「音」を提供しているこのメンバーのテクニックとセンスには感服させられっぱなし、久しぶりに妥協のない「とんがった」音楽を堪能した気持ちになれたのですが、そこにとどまっていてもいいのか、という声がどこからともなく聞こえてくるのを遮ることは出来ません。

SACD Artwork © Norwegian Society of Composers

5月30日

WAGNER
Lohengrin
J. Botha(Lohengrin), A. Pieczonka(Elsa)
F. Struckmann(Telramund), P. Lang(Ortrudd)
Semyon Bychkov/
WDR Radio Choir Cologne etc.
WDR Symphony Orchestra
PROFIL/PH09004(hybrid SACD)


もしかしたら、もはや死に絶えたと思われていたスタジオでのオペラの録音に、最近復活の兆しがあるのかもしれません。それも、それらが隆盛を極めた以前の姿よりさらにクオリティの高いものとなって。
そんな幸福感に浸れたのは、この、演奏から録音まで、隅々に手間のかかった仕事のあとが感じられるSACDを聴いたお陰です。セミョン・ビシュコフが、彼のオーケストラを使い、彼のホームグラウンドであるケルンのフィルハーモニーで行った録音セッションは、それだけでも2週間という「長期」にわたっていましたが、実はそのはるか以前から周到な準備がなされていたものでした。プロダクション自体は数年前からスペインでのコンサートとウィーンでの上演で作り上げられていたものだということですし、その集大成というべきケルンでの2回のコンサートの直後に組まれたのが、このセッションだったのです。
それだけの時間をかけて練り上げられてきたビシュコフたちのローエングリンのベーシックなコンセプトは、おそらく薄暗いピットの中に埋もれていたオーケストラを、燦々と光の降り注ぐ場所へ引きずりだすことだったのではないでしょうか。3時間以上かかるオペラの全曲盤、それをなにもしないで集中して聴き通す自信などなかったので、仕事の片手間に聴き流そうと思ってSACDプレーヤーに放り込んだのですが、まず聞こえてきた前奏曲のあまりの繊細さと雄弁さにはまさに体中が凍り付く思いでした。とてもこれはなにか他のことをやりながら聴くようなものではない、と、改めてスピーカーと対峙、全神経を集中して聴き始めることになるのです。
そのオーケストラは、まさに「絹のような響き」、前奏曲の透明さは、ほとんど宗教的ですらあります。それは明らかに、この作品が、オペラというにはあまりにも「神聖」過ぎる後の作品、「パルジファル」の後日談であることを意識したビシュコフの視点のなせる業だったに違いありません。普通のオペラの上演では、ステージ上のバンダによってかなりいい加減に演奏される裁判開始のファンファーレまでが、なんと上品で音楽的に歌われていることでしょう。
そのシーンの最後に剣で盾を打ち鳴らすときに聞こえてきたショッキングな音、それは、映像などがなくても、眼前にそのシーンがまざまざと映し出されるものでした。ここから、一つの「予感」が脳裏をよぎります。もしかしたら・・・。
聴きすすむうちに、その予感は現実のものとなりました。第2幕第2場でのエルザとオルトルートの位置関係(エルザの声は高いところから聞こえてきます)、第3幕第1場、いわゆる「結婚行進曲」での遠近感、さらには第3場への場面転換の音楽のやはり遠くのラッパがしだいに近づいてくる音場設定など、これはまさにあのジョン・カルショーが試みた「ソニック・ステージ」そのものではありませんか。もちろん、その半世紀前のテクノロジーは、当時とは微妙に異なる意味合いを持っているはずです。オペラハウスの映像がいともたやすく手に入るようになってしまった現代では、どうしてもその奇抜な演出にばかり目が行きがち、真摯に音楽に耳を傾けつつ、自分なりのシーンをその中に描ける助けになれば。現代に蘇った「ソニック・ステージ」は、そんなものを目指しているのかもしれません。
1998年のバレンボイム盤と同様、ここでは慣例的なカットをすべて排した「完全版」を聴くことが出来ます。第3幕第3場の有名な「聖杯物語」も、本来の形で味わえますよ。しかし、それを歌っているボータからは、なぜか以前にはあった強靱な響きがすっかり消えています。この声で聴く「2番」のつまらないこと。せっかくの「完全版」の成果が、なぜ作曲家自身がカットしたかが納得できたことのみでしかなかっとのは、とても残念なことです。

SACD Artwork © Profil Medien GmbH

5月28日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.5, The Nutcracker Suite
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.254


ノリントンとシュトゥットガルト放送響のコンビによるチャイコフスキーは、以前2004年に録音された「悲愴」を聴いていましたが、正直それほどの感銘を受けるものではありませんでしたね。弦楽器のビブラートを排してきれいなハーモニーを作るという、彼らの目指している「ピュア・トーン」の効果が、チャイコフスキーのぎらぎらした音楽ではそれほど発揮されてはいなかったのが、そのように感じた最大の要因でした。そもそも、ノリントンとチャイコフスキーはあまり相性がよくないのでは、とも。
今回は、それから3年後の2007年に録音された「5番」と「くるみ割り人形」です。やはりノン・ビブラートの弦楽器から華やかな響きを求めるのは非常に困難だということは再確認しながらも、この3年の間にノリントンが付けたある種の「折り合い」のようなものは感じることが出来ました。そんな弦楽器の「しょぼさ」を逆手にとっての、ノリントンならではの表現が、そこには見られたのです。
それは、「5番」第2楽章の中程、その楽章の冒頭でホルンによって奏でられたいとも甘美なテーマがヴァイオリンによってあらわれる部分で顕著に見られます。この、ヴァイオリンらしからぬ低音によって歌われるテーマは、木管楽器のオブリガートによって飾られているのですが、それはなんとも不思議なテイストの、なにか行く先の定まらないような雰囲気を持っています。「飾る」というよりは「邪魔をする」といった木管たちのフレーズの断片、ノリントンは、おそらくそのオブリガートに注目したに違いありません。「しょぼい」ヴァイオリンと一緒になったその木管からは、なんともグロテスクな、まるでゾンビのような気配が漂っているのですからね。
そんな具合に、この演奏には至るところにノリントンのいたずらっぽい仕草が顔を現しています。フィナーレなどは、まさに彼の「好き勝手」といった印象が色濃く感じられます。次々と現れる新鮮な驚き、次はどんな「技」を繰り出してくるのか、といった期待が満載です。なんせ、終わり近くでの「ドラえもん」のイントロに良く似たテーマなどでは、度肝を抜くようなダイナミクスが付けられていますしね。これは、コンサートのライブ録音、終演後の拍手やブラヴォーの嵐には、そんなノリントン節に酔った聴衆の思いが強く感じられました。
「くるみ割り人形」の方は、SWRのスタジオでのセッション録音、当然ホールでのライブとは異なった音で聞こえてきます。もちろん、エンジニアも違いますし。しかし、ここで聴かれる弦楽器は、ライブの時に聞こえていたちょっときつめの、ノンビブラートの悪いところだけが目立ってしまっていた音とは全然別物でした。別にビブラートを付けないことをやめた(変な言い方ですが)わけではないのに、例えば「アラビアの踊り」で出てくる弱音器をつけたヴァイオリンのふんわりとした肌触りは、普通の奏法のオケと全く変わらないものだったのです。今までさんざん聴いてきた禁欲的な響きは影を潜め、それこそ「ピュア」な美しさがそこにはあふれていました。これを聴けば、もしかしたら、ノリントンが求めていた響きは、大ホールでの力任せの演奏では本当の姿を現してはいなかったのではないか、という思いに駆られてしまうことでしょう。
サウンド的には一皮むけたこの「くるみ割り人形」、しかし、ノリントンの「個性的」な表現は変わることはありません。「葦笛の踊り」の3本のフルートのフレーズの最後の音にテヌートが付いているにもかかわらず短く切っているのもその一つ。しかし、何回か繰り返すうちに、プレイヤーがだんだん「楽譜通り」になっていくのが、面白いところです。指揮者とメンバーが「折り合い」を付けるのは、何年経っても難しいものなんねん

CD Artwork © SWR Media Service GmbH

おとといのおやぢに会える、か。


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