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※ここまでのあらすじ

この作品はシビアな内容を含んでいます。危険な事、法律に触れる事は、絶対に真似しないでください。

表 紙
第1章 絵を描く少女
第2章 壊れた家
第3章 裏切り
第4章 嘘の記憶
第5章 衝 動
第6章 雪の舞い降るあの坂を
第7章 哀しい再会
最終章 小さな天使が眠るとき




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†最終章
 小さな天使が眠るとき

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29
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 4月。
 私は再び丘へと向かっていた。

 冬の日、この坂を何度一人で上っただろう。
 だけど、今はもう一人じゃない。
 隣にはサーシャがいる。
 私と手をつないで、あの場所へと向かっている。


     ◇ ◇ ◇


 あと一週間ほどでその年が終わろうという頃、ついにサーシャは意識を取り戻した。
 彼女はその後の検査でも特に異常はなく、集中治療室から一般の病室へ移ると急速に回復していった。

 サーシャが良くなってきたことはもちろんすぐエリにも伝えてもらった。
 エリは彼女のことを知ると、声をあげて泣いて喜んでくれたそうだ。
 今、エリも普通の生活が送れるようになる日を目指して頑張っている。

 サーシャが意識不明だった日々、私は不安でずっと浅い睡眠が続いていたけれど、その日はあまりの嬉しさと安堵からだろうか、本当に死んだように深い眠りに落ちてしまった。



 サーシャの点滴が取れた初めての夕食時。
 彼女のベッドまで食事を運んでいき、目の前に出すと「ミサキお姉ちゃん……」と急に何かを求めるように私のことを見つめてきた。

「ん、どうかした?」とたずねると、彼女は「これ……」と言って、真剣な面持ちで何かを訴える。

「あんたの夕食よ。もしかして食欲無いの?」

「ううん」

「じゃ、しっかり食べて」

「食べて、いいの?」

「いいに決まってるじゃない。あんたの分よ」

「でも、こんなあったかいご馳走ごはん……」

 私はサーシャのその言葉にハッとする。
 そうだった。
 元気になってきたことで浮かれていたけれど、この子は生まれてから今までちゃんとご飯を食べられていたかどうかすらわからなかったんだ。
 この子にとっては病院の食事も凄いご馳走なのかもしれない。
 私は自分の鈍感さに呆れた。

 サーシャはそんな私をよそに、そっとスプーンを持ってお粥に手を伸ばし、ゆっくりと口に運んだ。

「おいしい!」

 彼女はとても嬉しそうな表情で呟いた。

「あんた、今まで食べたもので一番豪華でおいしかったのって何?」

 私は少し心が痛んだけれど思い切ってたずねてみた。

「卵かけご飯。雨の日の夜に食べたの」

 卵かけご飯か。確かにあれはおいしい。
 私も子供の頃、大好きだった。
 だけど、今までで一番豪華でおいしかったものが卵かけご飯だなんて。
 しかも誕生日やお正月なんかではなく、雨の日の夜になんて。
 私はあらためて彼女が今までどんな生活を強いられてきたか想像した。

 きっとそれは果てしなく繰り返される虐待の日々の中、ふと稀に気まぐれのようにおとずれる束の間の平穏、空腹からの解放。

 あんたは生まれてこの方、そんな本当に数少ないささやかな喜びを膨らませて膨らませて、大切にして大切にして、それを糧になんとか生きてきたんだろうね。

 彼女は一口一口をとても大切そうに食べる。
 そんな姿を見ていたら、隣で一緒に食べている私も、いつもは特に何も感じず適当に済ませていた食事が、今夜はとてもおいしくありがたく感じた。

 サーシャは何一つ残さず全てたいらげた。

「そんな急にたくさん食べちゃって平気? 気分悪くなってない?」

 私は、長い間ちゃんとしたご飯を食べず集中治療室に入ってからも点滴だけだった彼女のお腹が心配になった。

「うん。ご馳走ごはん、いっぱいおいしかった!」

 サーシャは再びとても嬉しそうな表情をして答えた。

 それから少ししてイワマさんが様子を見にやって来た。

「まぁ、点滴から通常の食事へ変わったばかりなのに、よく食べたわね」

 イワマさんは驚いた様子で言った。

「この子、凄くおいしかったって」

 私は報告した。

「そうでしょ。この病院の食事は絶品なのよ」

「……うん」

 私は頷く。

「いつもはただ口に入れているだけって感じだったんだけど、この子と一緒に食べていたら、なんか……おいしいかなって、思った」

 私は少しはにかみながら言った。

「そう。良かったわ」

 イワマさんは私とサーシャの顔を交互に見ながら笑った。



 病院にいると時間の流れがよくわからなくなる。
 とはいえ、閑散としてきた病室に年の瀬を感じた。
 比較的元気な人は家族と過ごす為に外出許可をもらい、残されたのは症状の重い人や私やサーシャのような事情を抱えた人間だけだった。



 大晦日。

 私はイワマさんといくつかの大切な約束をした。
 B5の紙にその内容を自分で書かされた。

・これからは規則正しい生活をして、毎日19時には家にいること。

・学校にはきちんと行くこと。

・軽い自傷行為と市販薬への依存を完全に克服するため、心療内科に通うこと。

・家族のことは専門家の人と相談していくこと。

・危ないことは絶対にしない、危ない所へも絶対に行かないこと。

 この紙の内容を毎日一回声に出して読むことは勘弁してもらったけれど、部屋の壁のいつも見えるところに貼って、最低一日一回は必ず確認することを約束させられた。

 そんな感じでサーシャと二人、病院で年を越した。


     ◇ ◇ ◇


 年が明けると、早々にまず私が退院した。
 サーシャは、火傷で引きつった肩や腕、それに、今までの栄養失調などでもうしばらく大事も取って入院が必要だと診断された。

 そして、彼女は退院後に施設へ行くことが決まった。

「施設?」

 私は驚いて聞き返す。

「そう、児童養護施設。身寄りのない子や家庭環境に問題のある子供達が入園するところよ」

「イワマさんが手配してくれたの?」

「私というよりも、この病院が関係福祉機関と連携して、そこの人達と一緒にしっかり検討して決めてくれたの」

 サーシャはまだ小さい。
 しかも正式な名前すらなく、肉親もいない天涯孤独の身。
 それに、長い間の虐待によって心身共に問題も抱えているはず。
 誰かが保護して、全ての面においてしっかりケアして更生させていかなければならない。
 でも、私はまだ右も左もわからない未成年の学生。
 一人でサーシャの面倒をみることなんて到底無理だ。
 だから、彼女にとって施設が唯一の道で、一番良いことだとは思う。

「安心して、そこの園長さんはとても優しくて強い人。その道に長年携わってきて信頼できるプロ中のプロよ。私が保証するわ」

「うん、でも……」

 もちろん、イワマさんの言うことなら信じてもいいって思える。
 だけど、サーシャのこととなるとどうしようもなく心配になってしまう。
 最近は施設でもよくイジメや虐待があるという話を聞く。
 本当に大丈夫だろうか。

「それでね、これは私からの提案なんだけど、施設はここからそう遠くないところにあるから、サーシャちゃんが入園したらあなたも学校の帰りにこまめに寄って、園長さんから色々とアドバイスをしてもらったらどうかと思うの。その後、夕食だけ食べて帰るなんてこともできるみたいだし。そうすれば、毎回サーシャちゃんとも会えるし、彼女が楽しく生活できているかどうかもちゃんと確かめられるでしょ。それで、もし何かあれば園長さんにでも私にでも言ってくれればいいわ」

「そんなことができるの?」

「ええ、もしそうしたかったら私の方で連絡しておくから。どうする?」

「そう、したい」

「よかった」

 とてもありがたい話だった。
 でもそれ以上に、サーシャと私にはこんな親身になってくれる人達がいるということ自体が一番嬉しかった。



 それから私はイワマさんとの約束通り、生活の改善に取り組んだ。
 市販薬は全部捨てて、毎日高校に通い、勧められた心療内科と家族問題の専門家のところへも毎回通っている。
 もちろん、サーシャの元へも通い詰めた。
 私は彼女の車イスを押して院内を散歩するのが日課となり、イワマさんとも自然に言葉を交わせるようになった。
 時にはファーストフードの紙袋を下げ、時にはお菓子を買い込み、それこそ雨の日も風の日もという言葉がぴったりだった。

 サーシャはというと、丘の上で絵を描いていた時と特に変わりはなく、静かに私を見ていた。
 彼女は食事をしたり、歯を磨いたり、お風呂に入ったり、TVを見たりといった、普通の子が当たり前にしていることを一つ一つ楽しげにする。
 私がたまに差し入れするハンバーガーやお菓子も喜んで食べてくれた。
 そして最近、心なしかふっくらしてきた。

 一つ、また一つと、色々なことが上手く回り出していた。



 ただ、私の中ではまだ二つの大きな問題が残されていた。
 その一つは、炸裂させようとして失敗した例の不発弾データだ。

 この病院に入院している時も退院してからも、それはずっとそのままになっていた。
 さすがにもう今から炸裂させる気になんかならない。
 だからといって全て消す勇気もどうしても持てなかった。
 メモリのデータを自ら全て消すということは、私が苦しみ悩み抜いてきた時間を自分自身で否定してしまうような気がしていたから。
 それでどうしたらいいかわからず悶々としていた。

 だけど、その問題はある時に突然解決することになる。
 というよりも、すでに解決済みだったと言った方が正確かもしれない。

 私はサーシャの意識が戻って以来、可能な限りずっと彼女のそばにいた。一緒にいてできることは何でもしてあげた。
 私自身、彼女に色々としてあげたかったし、その喜ぶ顔が見たかった。
 そして、そんな笑顔や姿をずっと残しておきたくて、毎回、スマホでたくさんの写真や動画を撮っていた。
 メモ帳には毎日のリハビリやご飯の様子なんかも事細かに書き留めていた。

 そんな時、たまたま誤って不発弾データの入っているフォルダをタップしてしまう。
 一応ついでだからと中身を確認してみたところ、データが一つも見当たらない。
 私は驚いて「何よ、これ!?」と大声を出してしまった。

 最初、私は何が何だか全くわからず激しく動揺した。
 でも、おちついてから詳しく調べてみると、あることがわかった。
 なんと知らず知らずのうちに、古いデータがどんどん上書きされてしまっていたのだ。
 メモリには十分な余裕があるにも関わらず。
 いくら古いダメスマホとはいえ、確認ウインドも出ずに自動的に古いデータを上書きしてしまうやつなんて見たことも聞いたこともない。
 欠陥も欠陥、信じられない代物だ!
 結局、古い保存データは何一つ読み出せなくなってしまった。

 そういえば、ずっと前にスマホの会社から不具合のお知らせというのが届いていなかっただろうか。
 メールも読み出せなくなっていたので、メーカーのサイトから直接、情報を探し出す。
 すると不具合の内容はまさにこれだった。

 ただ上書きと言っても、この不具合の場合は古いデータが完全に消去されたわけではなく、厳密に言うとデータはメモリのどこかに残ってはいるけれど、読み出せなくなってしまった状態らしい。
 しかし、再び読み出せるようにするためには、専門の技術者が大変な作業をしなければならず、しかも上手くいかない場合すらあるらしいので、現実的には難しいとのことだった。

 苦労して集めたデータが全て読み出せなくなってしまうなんて。
 もし以前の私だったら、間違いなく怒り狂っていたことだろう。
 だけど、今はなぜか違っている。
 心はとても落ち着いていて、その不具合が不発弾データを上書きしてくれたことに感謝すらしていた。

 こうして、私の不発弾処理はあっけなく終了した。



 よくよく思い返してみると、私は今回、エラーやら不具合やらに翻弄されながらも、結果的にはそれらに助けられてきた気がする。
 あの最凶最悪な主婦達のうわさ話だって、もし無かったら今頃サーシャや私がどうなっていたかわからない。
 もちろん主婦達自身は情報だけ入手して行動を起こさないわけだから、人間としてダメダメなのは間違いないけれど、その情報網の広さとその情報の正確さには感謝せざるを得ないんだ。

 ということは、通常はみんなに忌み嫌われ排除されがちなそれらにもちゃんと存在意義というものがあって、場合によってはこうやって役に立つということなのかもしれない。
 そう考えたら、世の中に必要のないものなんか何一つないんじゃないかって思えてくる。



 そんな感じであっという間に時は経ち、明日は念願のサーシャが退院する日。
 気がつけば気候も暖かくなり、帰宅を促す夕方の童謡も1時間遅れで流れるようになった。

 サーシャのための病院通いももうすぐ終わる。
 そして二人の新しい生活がスタートする。
 私達は幸せに向かって歩き始める。

 明日はその記念日。
 季節は本格的な春を迎えていた。


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30
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 サーシャの退院の日。

 私達は施設に行く時間まで自由行動の許可をもらった。

 サーシャは私が事前に選んで用意しておいた春らしい白のワンピースを着て、軽くて歩きやすい運動靴を履いて、ベッドにちょこんと座って待っている。

「あんたも晴れて退院だね。そういえばクリスマスプレゼントもお年玉もまだだったし、退院祝いも兼ねて何か欲しいものとかやりたいこととかあったら言ってみて」

 私は、そうサーシャを促した。
 すると彼女は、あの丘へ行きたいと言い出した。
 私は特に驚かなかった。
 その答えは予測できていたから。

 これが、残りもう一つの大きな問題だった。

 あそこはこの子が絵を描いていた場所。
 それにあの子猫のお墓もある。
 きっと絵とお墓を見に行きたいのだろう。

 だけど同時に、あそこはこの子が酷い目に遭わされたところでもある。

「あの、さ。本当に大丈夫なの?」

 私は恐る恐る聞く。

「うん」

「でも、あんな目にあったんだよ?」

「今日はミサキお姉ちゃんと一緒だもん」

 彼女は言った。

「あんたって信じられないほどタフね。世の天然記念物も真っ青よ」

 私は呆れ顔でつぶやく。

「うん!」

 サーシャはそんな心配などいらないよとでもいうかのように、いつものあの笑顔で元気に頷いた。

 もしかしたらこの子は、本当に強い子なのかもしれない。
 どんな立派な人にだって負けないくらい、もちろん私なんか足元にも及ばないくらい、ずっとずっと、ずっと……。

「わかった。じゃあイワマさんに相談してみるよ。もしイワマさんがオッケーしてくれたら行こう。でもダメと言ったら諦めて」

 サーシャは再び頷いた。



 それから私はイワマさんのところへ行った。
 私はイワマさんのところへ相談しに行ったはずだった。
 なのに気が付いた時には、必死になって懇願していた。
 きっとそれは、私自身も心の奥でサーシャと共にもう一度あそこへ行かなければならないと感じていたからなんだと思う。
 理由はわからない。
 ただ、とにかく行かなければ、という強い気持ちだけがあった。

 イワマさんは凄く悩んでいたけれど、私があまりに必死だったからだろうか、担当の先生や看護師長さんともよく話し合ってくれた。
 そして、こまめに連絡を入れること、という約束でなんとか許可が下りた。

「じゃあ、着いたら必ず連絡を入れるのよ」

「わかった」

 私は病室へ戻り、サーシャに報告した。彼女はとても喜んでいた。



 許可をもらえて私も嬉しかった。
 だけど、心の中は迷いと不安で一杯だった。
 本当にこの子をもう一度あそこへ連れて行っていいのだろうか。
 酷い目に遭わされた状況がフラッシュバックしたらどう対処すればいいのだろう。

 もう二度とこの子が苦しむ姿は見たくない。

 たとえフラッシュバックが大丈夫だったとしても、もう一つ大きな気がかりがあった。
 それは、この子があの絵に色が付いて、家族にも会えると信じていることだ。

 それが叶わないと知った時の落胆は……。

 そんな様々な想いを抱きつつ、私達は病院を出て、丘へと向かった。



 丘へ向かう途中、ずっと野ざらしになっていた場所に小さな家が建つのを見かけた。
 大工さんがコンクリートを交ぜ、電動工具がけたたましく唸っている。
 真新しいドアや窓などが段ボールやビニールでしっかりと包まれていて、期待に胸膨らませる人達を連想させた。
 これからここで新しい生活を始める人達がいる。
 この家にはどんな家族が暮らすのだろう。



「カンカン、カンカン、カンカン、カンカン……」

 踏切に差し掛かるとやはりいつものように警報器の音が鳴って遮断機が下りていた。

「こんなおめでたい日にも開かないなんて、ほんと気の利かない踏切ね」

 私はサーシャに小さく愚痴る。

 彼女は首を傾けてニコッと微笑む。

 いつかこの警報器の音が止んで、一度も踏切に阻まれずにこの線路を越えられる日が来るのだろうか。
 そんなことを考えながら地下道を通り、線路の向こう側へと渡った。
 それから、しっかりと手をつないで坂道を上る。
 その道のりはとても爽やかで清々しく、あの雪の日、二人で下った辛い道のりがウソのようだった。


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31
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 サーシャと私がこの丘を下りて3ヶ月半。
 私達は再び丘へとやって来た。
 するとそこには、にわかには信じがたい光景が広がっていた。

 冬の日、鉛色の空の下で荒れ地に見えたその場所には、春めいた陽射しと共に花が咲き乱れていた。
 名前もわからない雑草だけれど、色とりどりの小さな花々が辺り一面を埋め尽くし、壊れたレンガの壁の後ろにも、あの子猫のお墓を守るように大きな花が揺れている。

「お花いっぱい!」

 サーシャが目を輝かせて言った。

 私はサーシャが描き上げた絵の辺りを眺めた。
 彼女がチョークをあてていたあのコンクリートのひび割れからも、たくさんの雑草が芽を出し花を咲かせていた。
 それはまるで、世界中の絵の具を一気にまき散らしたようだった。

 モノトーンの絵に付けられた色……。
 サーシャの絵に色が付いた!?
 地面に描いた絵に花で色が付くなんて、何だかおとぎ話みたいだと思った。

 もちろん私は、これがたまたまタイミング良く起こった普通の自然現象で、神様が色を付けてくれたわけじゃないことくらいわかっている。
 でもこの子は、これで一層期待してしまうだろう。
 そしてその後、酷く裏切られることになる。
 そんな姿を見るのは絶対に嫌だから、ならいっそのこと、この場で自分から言ってしまおうかと思った。

 私は思い切って話を切り出してみる。

「あのさ! あのね、あんたのお願いごとのことなんだけどね……絵のところに花が咲いて色が付いたみたいに見えてるのはね、たまたまでね、家族に会うとか、ピクニックとかっていうのは、やっぱり……ちょっと……」

 けれど彼女は、私が話し終える前につないでいた手を離して走り出していた。

「また、あんたは人の話もろくに聞かずに、もう!」

 サーシャは春の暖かい木洩れ日の中を自分の絵の前まで走って行くと、そこでひざまずき、その喜びを身体全体で表現した。
 満面の笑顔と共に、やっとリハビリで治ってきたばかりの腕をぎこちなく上げて、小さな手を精一杯広げて。

 私は思わず息を呑んだ。
 その姿はとても神々しく、吸い込まれてしまいそうだった。

 この私の目の前にいる子は、現実を知らずに何不自由のない家庭で育った子なんかじゃない。
 現実の不条理さや人間の汚さ残酷さを身をもって体験してきた子なんだ。
 そんな子が今、明るく元気いっぱいな姿で木洩れ日の中で輝いている。

 そこにいる彼女は……何て表現したらいいんだろう……そう、どこまでも前向きに、何ごとをも乗り越えていこうとする力とでも言ったらいいんだろうか、そういったものに包まれている気がした。
 そしてもしかしたらこの先、その力が今まで不可能だと思われていたことを可能にし、今の私には想像すらできないような形で願いを叶えてしまうんじゃないかという気持ちにさせられた。

 もちろん根拠なんかない。
 それでも、今ここにその可能性を確信している自分がいる。

 すると、私の目から自然と涙がこぼれ落ちた。

「あれ、どうしちゃったのかな……」

 家族がバラバラになってしまってからというもの、どんな時も泣いたことなんてなかった私。
 涙なんかとっくに枯れ果てて、もう二度と泣くことなんてできないと思っていたのに……。

「まだ退院したばかりなんだから、気をつけなさいよー」

 私は言って、涙を悟られないようにうつむき、すかさず目を擦った。
 でも、涙は後から後から溢れ、差し込む木洩れ日を受けて丘の風景をキラキラと輝かせた。

 サーシャはそれからもしばらく花の中を駆けていた。



 この子には肉親の犯した辛い過去がある。
 その事実も心と身体の傷も決して消えることはない。
 この子はそれらを抱えて生きていかなければならない。
 だとしたら、私は口をつぐもう。
 たとえ誰かが、子供だからといって特別視せず今すぐ過去の事実を理解させるべきだと非難してきたとしても、沈黙を重ねよう。
 そして、あんたは何も悪くない、あんたの願いはいつか必ず叶う、あんたは私にとって凄く大切な存在なんだと言い続けよう。

 それは、決して単なるキレイ事やいい加減なごまかしなんかじゃない。
 そうではなくて、それは辛い過去の客観的事実をいくら掘り起こして並べたって、真実にはたどり着けないと知ったから。
 そして、その真実は一人一人の心の中にあって、それぞれがそれぞれの真実を信じ、希望を胸に、誰かに必要とされながら歩んでいくことが、何にもまして強い力を生み出し大きな幸せへの近道だと思うから。

 だけど、その辛い過去の事実に苦しめられる時がいつかは来るかもしれない。
 その時、この子はどれほど深く哀しみ打ちひしがれてしまうだろうか。
 もしそうなっても、たとえどんな状況になったとしても、私は必ず一番近くにいて寄り添えたらと思う。
 そして、その辛い壁を乗り越える時の心の支えとしても、この子はこれから何気ない日常の中のささやかな喜びをしっかり積み重ねていかなくちゃいけないんだ。
 そのささやかな喜びをたくさん重ねていくことこそが、決して消えることのない辛い過去の事実を相対的に小さなものにし、少しずつ心の隅へと追いやり意識から遠ざけ、最後には上書きするように傷ついた心を癒して乗り越えていく唯一の方法なのだから。



 ──決めた。
 私は今、この丘で誓う。

 この子が近い将来、自分の思い描いたような本当の家族と巡り会い、大きな愛情に包まれて幸せに暮らせるようになる日を必ず見届ける、と。



「あーあ、今日は私達二人だけどさ、やっぱりお弁当とか持ってくれば良かったね」

 こんな暖かくて気持ちのいい日に何も持ってこないなんて、私は少し後悔していた。
 でも仕方がない。
 今日はこの子のことで頭がいっぱいだったから、お弁当のことまで気がまわらなかったんだ。

「次に来る時は必ず手作りのお弁当用意しようね。何がいい? 卵焼き、それともタコウインナー?」

「う〜ん、おにぎり!」

 サーシャは元気いっぱいに言った。

「あんたは、ホント欲がないのね」

 私は呆れ顔で言った。



──ミサキ。

 え?

 初めてこの空き地に来た時と同じように、再び誰かに呼ばれた気がした。
 私はまた気のせいだろうと苦笑いをしつつも、一応振り返ってみる。

 すると、そこには……イワマさんが両手に大きなコンビニの袋を持って歩いてきていた。

「ミサキーっ!」

「イワマさん!」

「お弁当、持ってきたよー」

「でも、病院は!?」

「それがねー、看護師長が今日は珍しく私にまで外出許可をくれたのよ。やっぱり心配だから見てきなさいってことなんだと思うんだけどね」

 そう言って微笑むイワマさんの笑顔が、明るい未来を予感させる。

 私はまた大量の涙が止まらなくなって、鼻水ばかりすすった。

「ねぇ、イワマさん。私、今日は何か凄く涙もろくて。もしかして年取っちゃったのかな?」

「何ーっ! 16才やそこらで年取ったとか言われたら、私はどうなっちゃうのかしらね」

 イワマさんはいつになく楽しそうな口調で、私の頭をポンポンとたたく。

「サーシャちゃんはいい子。あなたもいい子よ」

「イワマさんも本当にいい人」

 私はその時、久しぶりに自然と明るい笑顔を作れた気がした。

 それから私達は、子猫のお墓にお供え物をして手を合わせた。
 そして、自分達も空き地の真ん中でお弁当を広げた。

 コンビニのお弁当でピクニック。
 これは幸せの予行練習だろうか。
 サーシャはおにぎりを口いっぱいにほおばった。



 春の柔らかい日差しの中、お弁当をお腹いっぱい食べ終わったサーシャはパタンと仰向けに寝転がる。
 私もその横に肩を並べて寝そべった。
 そこにはもう、高架線の唸りも線路の軋みも無く、ただ小鳥のさえずりだけが聞こえていた。

「ミサキお姉ちゃん、気持ちいいね〜」

 彼女は、あの無垢な眼差しを私にそそぐ。

「今日は、好きなだけ眠っていいんだからね」

「うん」

 サーシャはそう言って頷くと、あどけない微笑みを浮かべながら静かに目を閉じた。
 私は花に埋もれ、健やかな寝息を立てる彼女の髪を撫でながら「おやすみ」と言った。
 その寝顔は、まるで天使のようだった。


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32
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 ねぇ、サーシャ。

 私の方こそ、もしかしたらあんたは本物の天使なんじゃないかって思ってたんだよ。
 でも、実際には生身の普通の人間だった。

 それがわかった今でも、あんたに教えられたことや助けられたことを考えたら、やっぱり天使なんじゃないかって思う。

 私の天使……。

 長い間、私の心は眠り続けていた。
 過去にこだわり続け、明日を見ようとしてこなかった。
 自分のことだけで精一杯で、他のことを考える余裕が全く無くなっていた。
 それでいつしか、死を救いだと考えるようになってしまった。

 だけど、あんたに出会って、イワマさんに出会って、生きることのヒントが少しわかった気がする。
 生きること、それは『どんな時でも希望を信じ諦めないこと、誰かのために精一杯の努力をすること』なんだって。

 これって当たり前のことみたいだけど、私はその意味をちゃんと理解していなかった。
 もし昔の私にこんなこと言ったら、きっとこう言い返されると思う。
 『希望なんてキレイごと。なんでわざわざ自分が辛い時に他の人に何かしてやんなきゃいけないの!?』って。

 どうしてだろう?

 人はみんな希望を大切に胸に秘めているくせに、辛いことが続くと自暴自棄になってそれを捨ててしまおうとする。
 それに、自分自身が精一杯な時には他の人になんか何もしてやれない、相手への行為は自分自身が幸せで余裕が生まれた時にやっとやれるものだとも思い込んでしまっているところもある。

 でも、そうじゃない。
 全然違う。
 希望を無くせば、人は一瞬たりとも生きていくことができないし、誰かのために行動することが自分にとって一番の救いになるのだから、辛い時こそ相手に対して何かすべきなんだ。
 そうすれば必ず確かな実感が得られて、大きな希望も見えてくる。

 そしてね。
 私、とってもとっても大切なことに気が付いたんだよ。
 あんたが描いた絵だけどね、それは『あんたの想い』であるのと同時に『私の想い』でもあったんだってこと。
 またそれは、もしかしたら『私の家族みんなの想い』でもあるんじゃないかってこと。

 私の家族には幸い、平穏な時期があった。
 だからお父さんだってお母さんだってお兄ちゃんだって、迷いや不安を持ちながらも幸せに満ちた理想の家族を心の中で想い描いていたことがあったんだ。
 家族の思い出が一人だけのものじゃないように、その時の想いも同じく共有していたはずなんだもん。
 幸せだった記憶や幸せを求めた気持ちは、そう簡単には消えはしない。
 だから今もみんなの心のどこかには、その時の『同じ想いの断片』が必ず残っているんじゃないかって思ったの。

 あの吹雪の坂道、雪の一つ一つの中に見たものは空しい妄想でも幻覚でもない、私の『喜び』。
 それは紛れもない私の『幸せ』。
 雪が白く積もるためには、その下に何千何万という溶けた雪が必要なように、幸せもまた本当に些細な日常の喜びの積み重ねの上に成り立っている。
 見える部分や意識している部分よりもそっちの方がずっとずっと大切なんだよね。

 たとえこれから先、私のお父さんとお母さんが離婚したとしても、あの家で、あの一つ屋根の下で、もう二度と四人が暮らすことがなくなったとしても、その真実は永遠に消えない、変わらない。
 時間や距離が全てじゃない。
 一緒に暮らして幸せな関係、離れて暮らして幸せな関係……家族には色んな形があってもいいはず。
 どんな形でも、それぞれがそれぞれの大きな幸せに向かって歩いていくために、私達は同じ想いの断片を大切にしていかなくちゃいけないんだと思う。

 そういうことをみんなが少しずつでも意識できれば、過去に何があったとしても、いつかは許し合える日が来るのかもしれない。
 少なくても、その可能性は残されているんだって。

 そう思ったら、この手首の傷一つ一つも今までの辛かった出来事も、全て穏やかな気持ちで考えられるようになった。
 だからねサーシャ、私ももう一度、頑張ってみようと思ったの。

 私は退院してから家族に会いに行った。
 お父さんは駅裏のバーみたいなところで飲んでいた。
 話は全部黙って聞いてくれたけど、返事はいつもと同じで『そうか』ってただ頷くだけだった。
 お母さんは起業家とかいう人のマンションでデイトレードっていうパソコンの株取引きをしていた。
 部屋にはブランドものの箱がたくさん置いてあった。
 デイトレードは株の売り買いが激しいから、画面から目を離せないらしくて、全然相手をしてくれなかった。
 お兄ちゃんはパチンコ屋にいりびたっていた。
 髪型とか服装とか凄い豹変ぶりで、最初見た時は誰かわからず、最後まで『邪魔だ帰れ』としか言ってくれなかった。

 でもね、いくら適当にあしらわれても、罵声を浴びせられても、裏切られ続けるとわかっていても、私は諦めないよ。
 これからもずっと私はみんなに『起きて』と囁き続ける。
 そしたらいつか目を覚ましてくれる。
 それは叶う可能性のない虚しい願いなんかじゃない。
 そう信じてる。

 ね、サーシャ。
 私も少しはタフになったでしょ。

 私は目覚めの伸びをするように、木洩れ日に向かって手を差し出す。



 今、小さな天使は眠り、私は目覚めた。

 きっと私達は今、天使の夢の中にいる。
 ここから先は天使の夢。
 私達の毎日の生活が、これから作っていく未来が、天使の見る夢。

 天使の夢なんだから、それにふさわしいものにしなきゃいけないんだ。

 その夢に天使がうなされてしまうことのないように、花の中に埋もれるこの子の寝顔がいつまでも安らかであるように、私は生きていく。

 今はまだいびつでぎこちなくて不自然だけど、私達の幸せはこの絵のあるこの丘から始まるんだ。

 そして、きっといつの日か、みんなが心の底から笑いあえるように……。



 今、サーシャの絵に本当の色が付き始めた──






おわり   






───†スズラン(鈴蘭)の花言葉†───

【幸福の再来・純粋・平静・癒し・希望…】







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♪ボイスドラマ
♪少女の涙の叫び ※音注意
♪ラララハミング ※音注意
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