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※ここまでのあらすじ

この作品はシビアな内容を含んでいます。危険な事、法律に触れる事は、絶対に真似しないでください。

表 紙
第1章 絵を描く少女
第2章 壊れた家
第3章 裏切り
第4章 嘘の記憶
第5章 衝 動
第6章 雪の舞い降るあの坂を
第7章 哀しい再会
最終章 小さな天使が眠るとき




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†第5章
 衝 動

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17
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 サーシャは夜になっても見つからなかった。
 自分の無力さにもどかしくなりながらも、もう一度、彼女がいそうなところ、まだ探していないところはどこか考える。
 でもこの一帯はほとんど見て回ったはずだ。
 じゃあ、この辺ではないのか。

 まさか埠頭の倉庫?
 ううん、それはない。
 あれから警備も厳しくなっただろうし。
 あとヤツらが使うとすればハッピーハウスとかいう部屋?
 だけど、その住所の書かれた紙切れは握りつぶして捨ててしまったから場所もわからない。
 だったらあのクラブに行ってみようか?
 いや、それも時間の無駄に終わる気がする。
 ヤツらが今夜もあそこにいるとは限らないし、誰がグルかもわからないから闇雲に店の人や客にたずねて回れば、また騙されてサーシャを助けるどころではなくなる可能性の方が高い。
 それにきっとこれ以上範囲を広げたら手に負えない。

 あぁ、私はどうしたらいい?

 そうだ!
 さっきあの男は確か電話の最後に『あの丘でかくれんぼを堪能……』とか言っていた。
 それに、サーシャをどこか遠くへ連れて行く意味なんてほとんどない。
 アイツらはあの子を利用して私を弄んで報復しているだけなんだ。
 だとしたら、やっぱりこの辺りのどこかだと考えるのが自然。

 その時、風の音に混じって微かだけれど何か聞こえた気がした。
 それは猫の鳴き声のようでもあった。
 ふと、あの子猫のイメージが頭を過ぎる。
 子猫……。
 子猫がいつも消えていく場所……。
 壊れた壁のすぐ横にあったアシの茂み……。

 そこは枯れたアシが行く手を覆っている沼地で、相当行きにくい場所。
 それでも、もしかしたらその先に何かあるのかもしれない。
 確認しなきゃ。

 私はまるで、あの死んだ子猫に導かれるかのようにそこへ向かい、アシの茂みの中へと入って行った。
 アシは自分の背丈よりもはるかに高い。
 足場の悪い道らしい道もないドロドロのところを、一歩また一歩と足元を確認しながら歩く。

 こんな場所に何かある可能性は低いと思われた。
 だけど、少し進むとすぐその先に何かがあることに気付いた。

 古い公衆トイレだ。
 それはポツンと打ち棄てられたようにそこにあった。

 茂みの奥にこんなものがあるなんて。

 トイレ……。
 再び男からの電話を思い出す。
 確か『便所の床』とも言っていなかったか。
 もしかしたらこの公衆トイレ?

 男性専用。
 そう書かれた方に迷わず入る。

「サ、サーシャ……」

 私は低くそう囁き、冷たいコンクリートの入口に手を置いて顔だけ中を覗き込む。
 街灯の明かりは建物の中まではほとんど届いていない。
 ただ、薄ぼんやりとした街灯の明かりに照らされたアシの影だけが、幽霊のように入ってきていた。

 私はダメ元で壁のスイッチを入れてみた。
 案の定、黄ばんだ裸電球はどれ一つ点かなかった。
 仕方なくスマホのLEDライトを点ける。

 中には男性用の便器が2つと個室が1つあり『使用禁止』の貼り紙のはがれかけたドアがライトに照らし出された。

「サーシャ、いるの?」

 返事はない。
 ただ換気用の小さなファンが風でカラカラと回る音と、貯まった雨水が落ちる音だけがしていた。
 私は奥まで入って行き、そのドアノブに手を掛けた。

「ギィィ、ギーー」

 思い切って引き開けると、待ち構えたように闇が私を包んだ。
 慌ててスマホを高くかざして中を照らす。

 個室の隅の暗闇に浮かぶ小さな丸い影。
 人の輪郭をした影。

 あの子だ!
 ついに見つけた!!

「私だよ。あんたを迎えに来てやったんだよ。ねえ、ねえっ」

 だけど彼女はピクリとも動かない。
 見ると、頭から血を流しぐったりしていた。
 急いで手首に指を当てる。
 弱々しいけど脈はある。
 まだ生きてる。

 サーシャは丸いタイルを敷き詰めた冷たい床に座らされ、犬用の首輪をはめられ、鎖で配水管につながれていた。
 服も破かれ、肩から背中にかけてさらけ出されていた。
 ヤツらは私への仕返しのために、彼女をこんな酷い目に遭わせたんだ。

「あんたには全く関係ないことなのに……」

 こんな場所には1秒だっていたくない。
 私は凍える手で必死に首輪を外し、彼女をおもてへと連れ出した。

 この冷たく薄汚い建物から出ればまた再び日常に戻って、彼女はいつものように絵を描き始める気がしていた。
 だけど、現実は違っていた。

 これは現実なんかじゃないと目を瞑って幾ら否定してみても、目を開ければサーシャは地面に倒れていた。


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 私はスマホのライトでケガの具合を確かめようとした。
 でも、照らし出されるその身体をなかなか直視することができなかった。
 彼女の小さな身体につけられていたものは、男達の傷だけでなく、もう二つの今つけられたものではない傷痕があったから。
 私はその痕にショックを受けていた。

 一つは火傷の痕。
 火事の時のもので、右の肩から腕にかけて覆っていた。
 それは冷たい空気に晒されてケロイドがひび割れ、引きつり、血が滲んでいた。

 そしてもう一つは、体中に無数に点在する古い小さな傷やアザ。
 日々行われた虐待の痕。

 男達はたった一度でもあってはならないその痕を見ながら、ためらいもなく再び暴力を重ねたんだ。

「起きて。ねぇ、ねぇってば! 頼むから、お願いだから、起きてよ!」

 返事はない。冷たくなった身体。

「何で私の代わりにあんたがこんなことになってるのよ。起きなさいよ! 起きろ!! シカトすんなっ」

 そうまくし立てながら、激しく彼女の身体を揺する。

「……うぅ」

 彼女は微かな声を発した。
 だけどそれは、そのまま息が止まってしまいそうなくらいに、か細い。

「何があったの? 何されたの?」

 わかりきったバカな質問をする自分に腹が立つ。
 でも私は、彼女に何でもいいから喋らせようと必死になっていた。

 彼女はしばらく苦しそうな息をしていたが、そのあと弱々しい声で話し出した。

「おじちゃん達が来たの。それでね、大声で怒鳴ったの。凄く怖い顔してた……」

 彼女はそう小さく呟くと、とても悲しい表情を浮かべた。

「それから、笑いながら、いっぱいぶって、いっぱい蹴ったの。そしたら、いっぱいいっぱい血が出たんだ」

 とつとつと彼女は続けた。
 そして、最後にこう付け加えた。

「また、何か悪いこと、しちゃったのかな……」

「あんたは何も悪くないよ!!」

 私は叫ぶ。

 私が家で薬なんか飲んで、バカみたいに過ごしていた時、この子はここで、こんな状態で、独り耐えていたんだ。
 手が不自由だから首輪や鎖を外すことも出来ずに。
 しかも誰を責めるわけでもなく。
 自分がきっと何か悪いことをしてしまったんだと、自問自答しながら。

 どれだけ辛かった? 怖かった? 不安だった?

 こんなの酷すぎるよ。
 ごめん、ごめんね。
 みんな私のせいなんだ。
 私がバカだから。

 なのに、彼女は今にも消えそうな声で「お姉ちゃんのお洋服、汚れ、ちゃう……」と囁いて、血で真っ黒く変色しガビガビになった自分の服が、私の服を汚してしまうことを気にした。

「あんた、何言ってるのよっ! 服なんてどうだっていいのに。私がずっとあんたにどれだけ酷い罵声を浴びせてきたか覚えてるでしょ? 責めなさいよ、罵りなさいよ。仕返ししなさいよ。ほらっ」

 それでもなお、彼女は無数の小さなあかぎれの指で私の服の汚れを落とそうとしている。

「もう、バカッ!!」

 私は声を張り上げ、自分のマフラーを彼女の首に巻き、コートで彼女の身体を包み込んだ。
 それから、その冷え切った手を取り息をかける。

 でもこれでよくわかったでしょ。
 人間はとことん汚くて酷い。
 だから神様なんていない。
 悪魔はいたとしても、神様は絶対にいない。
 そう、神様なんてそんなの人間の創った幻想なんだ。
 どんなに絵を描いたって、死んだ人間は戻らないし、生きている人間だって救われない。

「あんたや私がいくら頑張ったって何にもならないのよ」

 そう言って唇を噛む私の足元へ雪が落ちてくる。
 落ちては儚く溶けていく雪。
 意味もなく消えていくだけの雪。
 それはまるで彼女の存在、あるいは願いなんか叶わず悲鳴すら聞かれずに死んでいく邪険に扱われた命達のようだと思った。

 どうしてこの子はこんなにも辛い思いをしなければならないのだろう。
 たくさんの傷のせいか私はこの時、この子はこんな小さな身体でこの世の全ての不幸を引き受けているように感じていた。

 あんたは、今まで本当に辛いことばっかりだったんだろうね。
 私達って一体、何のために生まれてきたのかな。
 元々、最初から廃棄される運命の命だったのかな。

 うん、きっと私達なんて要らないんだよ。
 だから早く死んでしまった方が幸せなんだ。
 私はサーシャの冷たい身体をギュッと抱き締めた。

 地面に落ちた雪は解けることなく積もりだし、徐々に地面を白く染めていく。

 今なら逝ける。
 あと一歩で扉が開く。
 そう確信した。

 死のう、この子と一緒に。
 誰もいない、この雪の降る寂しい丘で。


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「なんかもう、疲れちゃった……」

 口から自然と出たそのセリフに、私はふとどこかで聞いた気がすると思った。

 あ、そっか。
 『フランダースの犬』の最後で、主人公のネロが言う言葉に似ている。
 それに、絵の近くで死ぬなんて本当にあの物語みたい。

 だけど、サーシャの絵はもうすでに雪に埋もれて見えなくなっているだろう。
 あのいつも一緒にいた子猫も先に死んでしまった。
 だから、この子はネロのように教会で絵を見ながらパトラッシュのような相棒と共に死ぬことはできない。
 もちろん天使なんか迎えに来てくれるわけもない。

 そうなんだよね。
 ここは寂しいただの空き地。
 あるのは打ち棄てられたトイレと古びた遊具と土管と壊れた壁くらい。
 そして、そばにいるのはこんなどうしようもない私だけ。

 もういい、止めよう。
 私は、再びサーシャを抱き締めた。

 もう何も考えず、眠ろう。
 もうすぐ、この世界とサヨナラできるから。

 やっと終わる。
 やっと手が届くんだね。
 この丘が私の本当の死に場所だった。



 肩や背中に雪がしんしんと降り積もっていく。
 こんな最悪な状況でおかしいかもしれないけれど、今はなんだかとっても心が穏やかで、静かな優しい夜に感じる。

 ただ、断続的にケガの痛みに顔を歪めるサーシャがいたたまれなかった。

 そうだ、今持っている薬をこの子に全部飲ませてあげよう。
 そうしたら少しは楽になるはず。

「飲みな」

 そう促しながらポケットから出した薬をサーシャの口元に持っていく。
 だけど、彼女は首を横に振った。

「いらないの?」

 すると彼女は弱々しく笑って見せ、そしてポツリと呟いた。

「お姉ちゃんは、天使様?」

 私はその質問に絶句する。

「……冗談! 私が天使なわけないじゃん」

「でも、迎えに来てくれた」

「それはそうだけど、違う」

 私のせいであんたはこんな目に遭ったんだ。
 だからあんたにとって私は『疫病神』かなんかだよ。
 ううん、もっと最悪の『死神』だよ。

「絵、一生懸命、描いたの。だから、きっと神様、キレイな色付けて、くれる、よね……」

 痛みに顔を歪めながら、彼女は言った。

 神様なんて絶対にいない。
 もし仮にいたとしても、意地悪に決まっている。
 ある意味、悪魔よりタチが悪いかもしれない。
 期待だけさせて、最後には絶望のどん底に突き落とすんだから。
 その証拠にこの子の絵は雪に埋もれてしまっているじゃないか。
 この状況でどうやったら色なんか付けられるっていうんだ。

 もう私達はここでひっそりと死ぬだけ。
 この世界とサヨナラするだけなんだよ。

「目、閉じたら……そしたら……みんなに会える、かな……」

 後に続いた彼女の言葉。

 あぁ、そうか。そういうことだったのか。
 私はその時、気付いた。
 みんなに会えるというのは、私が想像しているような再会ではなくて、この子が死んであの世へ行って、そこで思い描く理想の家族に……。

 でも、こんな死に方をしたら私達は天国へは行けない。
 たぶん地獄。

 元々、私にとってはそんなことどうでもいいことだった。
 だけど、この子にとっては……。

 地獄にはこの子を苦しめ続けた人間達がいる。
 ヤツらに会うことになる。
 そんなのダメ、絶対にダメだ!

 そこにこの子が思い描くような家族は絶対にいない。

 あれは家族なんかじゃない。
 家族という仮面をかぶった悪魔なんだ!
 これは私の勝手な妄想やバカな思い込みなんかじゃない。
 現実なんだ!

 だから、絶対に会わせるわけにはいかない!!

 じゃあ、どうしたらいい?
 死ねないじゃないか。
 そうだ、この子のために私が死ねなくなるというのもおかしい。
 いくらこの子の境遇が酷いからって、人の不幸なんて比べられるものじゃない。
 私は私なりにどれほど悩み苦しんできたかわからない。
 私の悩みや苦しみだって大変なものだったはずだ。

 でもそれ以上に、私はこの子に会ってからどんどん変わっていっている。
 自分でもわかる。

 じゃあ、今までの悩みや苦しみは何?
 今までの死の準備や努力は何だったの?
 自分って一体何なの!?

 それでも、それでも……。
 私は今、この子のことを一番に考えている。
 この子をなんとかしてやりたいと願っている。
 それは否定しようとしても否定できない強い気持ち。

 私はサーシャを見た。

 こんな状況になっても、彼女のその瞳には恨みも憎しみも全く感じられず、ただ無垢な赤ん坊のような光をたたえている。

 私はこの時、同情?
 いや憐れみだろうか?
 それとも義務感?

 ううん、そんなんじゃない。
 違う。
 きっと、本能といってもいいほどの激しい衝動に駆られた。

 あんたはほんっと、どこまで凄い天然記念物なのよ。
 私ですら保護しなきゃって思っちゃったじゃない。

 そして次の瞬間、私は自分でも信じられない言葉を口にしていた。

「神様が絵にどんな色付けてくれるか、生きてちゃんと確認しなきゃね」


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 急いで服のポケットからスマホを取り出し、電源を入れ直す。
 でもかじかんだ私の手は、火傷で引きつったサーシャの手のように上手く動かない。
 スマホの電源ボタンすら思うように押せなかった。

 やっとの思いで1・1・9のキーを押す。
 数コールして「はい、119番。火事ですか、救急ですか?」と冷静な女性の声がした。

「お願い! 死んじゃうの、このままだと、私達。救急車を早く、お願い!」

「ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ」

 落ち着いた女の人の声の代わりに、途中から聞こえてきたのは耳障りな電子音。
 スマホを耳から外すと、液晶には『充電してください』と表示されていた。
 それはバッテリー切れの警告音だった。

「もう電池切れちゃう」

「住所をお願いします」

 オペレーターはあくまで冷静に聞いた。

「踏切の坂を上った、丘の上」

「何丁目の何番地かわかりますか?」

「わからないよ!」

「では、スマートフォンのGPSはONになっていますか?」

「ピーーーッ」

「もしもし、もしもし?」

 スマホは警告音が鳴ってすぐに電源ごと落ちてしまった。

「ちょっと、何ふざけてんのよ。こんな時に信じらんない。何で? 動けよっ!」

 あぁ、ここ数日、放置したままだったから、きっと電池の残りが少なくなっていたんだ。
 それにこの機種は凄く使い込んで古くなっていたから、バッテリー自体も弱っていたはず。

 その後、スマホは真っ暗な画面になったきり、振ってもたたいても、うんともすんとも言わなかった。


つづく   





表 紙
第1章 絵を描く少女
第2章 壊れた家
第3章 裏切り
第4章 嘘の記憶
第5章 衝 動
第6章 雪の舞い降るあの坂を
第7章 哀しい再会
最終章 小さな天使が眠るとき

♪少女の涙の叫び ※音注意
♪ラララハミング ※音注意
♪イメージソング
♪ボイスドラマ
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