聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2002.08

>2002.09
<2002.07
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。

今回論評したディスクなど:
Ivan Linsの80年代作品再発: Daquilo Que Eu Sei, Depois Temporais, Maos, Amar Assim /
再発盤との聴き比べ: Ivan Lins: Love Dance, V.A: A Love Affair --- The Music of Ivan Lins /
Howie B: Music For Babies / 宇多田ヒカル: Deep River/ キリンジ: Fine

◆CDタイトル前などのマーク(◆)はそのレビュー項目自身へのダイレクトリンクになっています。
◆CDタイトル等のリンクは、
日記鯖上に初出の即興コメントにリンクさせています。時々気まぐれを起こしてリンクしてないこともあります。


Ivan Linsの旧作再発から4点:

Ivan Lins: "Daquilo Que Eu Sei"(Philips, 1981/Universal, 2002)☆

一つ前の"Novo Tempo"(EMI, 1980)に通ずる雰囲気を持った盤。程良くブラジル的なリズムやアンサンブルがブレンドされていて、楽曲自体はより洗練されていて。特に冒頭タイトルチューンのイントロで、アコーディオンと女声スキャットのユニゾンをかますあたりはガツンと来るし、T-6 'Amor'やT-8 'Quem Me Dera'の透明感溢れるコード進行+サウンドデザインには心洗われるという表現が相応しい。癒し? なんて安っぽいものなんかではなく。ところでこの盤には超有名な'Love Dance'の自演版'Lembranca'が収録されているのだけれど、数多の佳曲と並べられると実は「そんな曲のうちの一つ」でしかない(!)ことが確認できて、それもある意味収穫。QuincyファミリーやGrusin経由でしかIvanを知らない人は、この盤と次の"Depois Dos Temporais"くらいは聴いてみるべきだと思う。

Ivan Lins: "Depois Dos Temporais"(Philips, 1983/Universal, 2002)☆

ソングライティング的にも、音作り的にもIvanの数ある録音の中で異彩を放つ1枚。バーのピアノ風にしっとりと始まるT-1 'Meu Piano'、ドラマティックなアレンジとシャンソンを思わせる朗誦的な歌唱が独特の雰囲気を醸し出すT-2 'Depois Dos Temporais'、幕間的にピアノ1台でさらりと聴かせるT-5 'Estoria de Amor'、語りを交えて盤を締めくくるT-10 'Loucas de Maio'など、敢えて強引に譬えるなら「シネマ的」とでも言うべき作り込みが、聴き手を引き込んで放さない。Ivanは基本的には「単品」的な作家だと思うし、この盤にも'Doce Presenca'や'Acucena'など彼らしい佳曲が散りばめられているが、全体を貫くトーンの中にあってそれらの作品も益々際立っているように思える。彼らしさを知るという意味では適切ではないかも知れないが、間違いなく最高傑作の一つだと思う。

Ivan Lins: "Maos"(1987/Universal, 2002)☆, "Amar Assim"(Philips, 1988/Universal, 2002)☆

"Depois Dos Temporais"の後に、ベスト的な豪華ゲスト陣との共演盤"Juntos"(1984)があり、Som Livreから出たセルフタイトルド(1986)があり、そしてこの"Maos"となる。この間、音楽制作のテクノロジー環境は大きく変わり、デジタルシンセ・デジタルエフェクト全盛の時代となる。Ivanの音のテクスチャも、80年代後半なら世界のどこでも見られたような、ハイ上がりでシャリシャリした感じのサウンドになっていく。その最たるものが米国録音の"Love Dance"(1988、後述)なので、以前はそこで見られる「繊細なニュアンスのローラー曳き状態」にばかり目が行ってしまい、こうした音作りの中でIvanがどんな側面を押し出そうとしていたかには、想像が及ばなかった。

今回こうして"Maos"、"Amar Assim"と並べて聴いてみて思ったのは、80年代半ばから始まる数年(1992年にSergio Mendesの"Brasileiro"に提供した楽曲まで続く、と見る)は、Ivanにとっては「力強い歌」の時代だったのだなあ、ということだ。もちろんそれ迄も彼は高らかに力強く歌い上げる凱歌のような曲をいくつも書いているのだが、この時期はそれ以前のつづれ織りのようなたおやかなニュアンスさえも、敢えて強い一本の旋律線を中心に組み上げるような指向性を持っていたかに思える。それは具体的には'Iluminados'("Maos", T-5)や'Amar Assim'("Amar Assim", T-6)のような繊細なバラードが、広がりのあるアレンジを背景に実にダイナミックな構成に仕上げられていることが、如実に示しているように思う。絶妙な翳りを織り成すコード進行と柔らかなアコースティックサウンドに彩られたIvanという面ではやや物足りないかも知れないが、かすかな翳りを伴いつつも力強く燦然と輝き、果てしない広がりと包容力を伴うIvanの「歌」がそこにはある。1991年の"Awa Yio"でピークを迎えたかに見えるこうした側面もまた、彼の音楽の抗えない魅力の一つだ。

以上の旧作との聴き比べとしてIvan Lins関連2点:

Ivan Lins: "Love Dance"(Reprise, 1988)

Ivan初の米国録音盤で、2曲を除き英語。音はと言うと、デジタルシンセ厚塗りでリズムアレンジにもブラジル色は薄く、確かに当時の米国のメインストリームにはこんな音がよくあった気もするが、それを差し引いても何故こんなにもエッジを潰してしまうのかと思うような音作り。先行するブラジル盤の録音があるトラックについてはそれと比較すれば明らかだが、Ivanの歌の繊細な節回しの襞はほとんど塗り込められてしまうし、コード進行の絶妙な綾はノイジーなドラムとキーボードの騒音に掻き消されてしまう。一体、Ivanの何をプレゼンしたかったのか、当時の文脈で考えてもよくわからない。

ただ一つ買える点があるとすればそれは、1986年の"Ivan Lins"(Som Livre/Gala, 赤いジャケット)あたりから前面に出て来たIvanの特徴、芯の太いメロディラインを力強く歌い上げる方向性が、一部の新録音で成功を収めていることだ。'Velas'(原題'Velas Icadas')などはひょっとするとこの録音が最高の出来かも知れないと思うし、'Who's In Love Here' (原題'A Noite')も中間部のスキャットが原曲にない新鮮なインパクトをもたらしている。もっとも一方で'Art Of Survival'(原題'Maos')や'Even You And I'(原題'Lembra')は明らかに裏目っているし、'Comecar De Novo'に至っては何でそんなことしたのかっていう出来なのだが。

V.A: "A Love Affair - The Music of Ivan Lins"(Telarc, 2000)

欧米圏のミュージシャンによるトリビュート(初出コメント)。アーバンコンテンポラリー的な解釈である点は今一つ気に入らないものの、個別には上出来な演奏がそこそこあるので許そう。だが、今回再発盤で'Doce Presenca'のオリジナル録音を聴いてしまったりなどすると、いかにJoe Sample & Dianne Reeves盤がシックに大人のジャズを決めているようでも、原曲の繊細さを半分も生かしているとは思えなかったりするのだ。Grover Washington Jr. の'Camaleao'などは目も当てられないチャラけた出来だし。

Howie B: "Music For Babies" (Polydor, 1996)☆

この盤の紹介を読んだとき、この人がEBTGでなかなか飛べるミックスを1曲手掛けていたのを思い出したのと、タイトルに惹かれたので聴いてみようとずっと思っていた。で、聴いてみると、思ってたよりずっと電脳的というか。催眠的ではあるんだけど、音の肌触りは意外とゆらぎとかノイズ成分が少なくて、縦横のグリッド線がきっちりしているような印象。これがタイトル通りだと考えるなら、異星人を見るような視線で赤ん坊を見ているような、というかむしろ「撮っている」ような感じか。あるいはモニタ越しに見てるような。不思議な感触。

宇多田ヒカル: "Deep River" (東芝EMI, 2002)☆

あれよという間に結婚まで発表された今となっては、この盤について何を書いても事後解釈的に読まれてしまうだろうが、敢えてそういうことを気にせず書いてしまうと、「何て痛々しい」と。もっと言えば、こんな痛々しい人が結婚してしまうことに正直、危惧を感じずにはいられないというか。こんなに切実に何かを渇望して、それをしかも恋愛の中に全て見いだそうとして、ひょっとするとそれは無茶なのかと思いつつも求めずにいられない自分自身を、持て余し気味に自己言及するような歌詞は、踏みとどまるための自己暗示、ステートメントとさえ見えただけに、この結婚に全てを求めすぎていないといいのだが...なんて思ってしまう。

というのはまあ、主に歌詞の世界の話なので音のほうに話を移そう。音的にはそんなに目新しいことはないが、きちんと方向性を絞り込んで研ぎ澄ませているのは良いと思う。'Traveling'のさりげないギターのカッティングとか、'Letters'のアコギ掻き鳴らしのような、細部にこだわった細工が心憎い。もう一つ、見直したのが'Final Distance'。これって、バラードじゃない原曲の'Distance'のほうがよかったのに...とずっと思っていたのだが、このアルバムのこの位置(ラストのちょい手前)に置くという、流れを計算し尽した構成にやられた。切なすぎる。

キリンジ: "Fine" (WEA, 2001)★

"3"との違いで言うと、格段に練れたなあと。「とりあえずブラジルブラジル言うのはもうやめた」のかどうかはよくわからないが、前作で感じられた"Clube Da Esquina"あたりのサイケ感へのこだわりや、意識的にアーシーな感じを狙った痕跡などが消えて、「引っ掛かりはあるけど有機的にまとまった」うねりや流れが全体を覆っている。このあたりの方法論やテクニックゆえだろう、彼らからSteely Danを連想するという評があったのだが、なるほど言われてみればそうかも知れない(が、音の肌触り自体が随分違うので、言われるまで気が付かなかった)。

だが実は、T-2「雨は毛布のように」などを聴いて真っ先に思い出したのはデビュー直後の原田真二だった。あの時代としてはちょっと世間離れした、ソフィスティケイトされた感覚。当時の彼のスタッフは作詞の松本隆をはじめ、はっぴいえんど/ティン・パン・アレイ関係者が固めていたから、それはそういうサウンドではあったのだが、そこに原田自身のポップセンスが加わることで独自の世界が開けた、というか、その後の「シティポップス」系ニューミュージックへ道を開いたのではないかと思う。そしてその「シティポップス」やらの末路(来生某とかそういう...)を思うと、キリンジが"Fine"で作り上げようとしているのは、実はあの時拡散して未完のまま終わった、ああいう音の完成形ではないかと思うのだ。何だか「長いこと消息不明だった不祥の息子を尋ねあてたら、商売も上手く行って地域にも根を下ろしていた」みたいな感慨もあり。



→インデックスへ
→ただおん目次に戻る

ただおん

(c) 2002 by Hyomi. All Rights Reserved.